2009年11月 7日 (土)

錦繍とあの人の世界(11/6)

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マチネに「錦繍」の再演を天王洲アイルで、夜はF/Tのサンプル「あの人の世界」を観劇。

一日の中で、こうも違う表現形態の芝居を観るというのも、また刺激的な体験。
エジンバラの演劇祭などでは、一日に何本もの芝居を見て回るので、それこそあらゆる種類のパフォーマンスを見続けることになるのだが、たいていが1時間ちょっとの長さのものばかりなのでそれはそれでショーケースをたくさんみているようなものなのだが、三時間ちょっとの芝居(錦繍)ともう1本となるとまさに芝居漬けの感あり。

まずは、宮本輝の傑作小説をイギリス人のベテラン演出家ジョン・ケアードが演出した「錦繍」ー07年初演に続いての再演ーから。

とってもシンプルな創りの舞台で、セットは背面横一面に貼られた金地の抽象画バックのみ、その前に演じるスペースがとられ、俳優達は自分が演ずる場面以外はその金地の画の陰で待機。それぞれに演じる時になると最小限のセットー簡素な椅子やテーブルのみーとともにそのスペースへ出て来て複数の(人によっては)役を演じるという演出。
さらにはその演技に関しても、話を伝えることに重きをおいて大仰に演じることをおさえ、時には朗読に近い形で演じられる。
原作本が書簡小説の形式をとっているため、動きよりも言葉が舞台の大半を占めるようになっている。

で、このシンプルさが計算尽くされた上、吟味を尽くされた上での最上の方法ということで選ばれた方法ということで、下手したら長々と小説の朗読を聞かされるような結果になってしまうところ、実に有意義にこれぞこの翻を活かす最高の方法、と思える職人技の演出という結果を生み出している。

余計なものを排除した結果、原作の良いところを余すところ無く伝え、さらには俳優が生身の身体で演じることにより、本を読んだ時には気づかなかった、思いがけない言葉の奥義にまで気づかせてくれる、演劇ならではの効果を出している。

実際、この本を読んだ時には一人一人が別の世界に生きる架空の聖人たちのようにも感じられたものだが、生身の人間が舞台で衣装をまとい演じると、その人の弱い面、短所などもより明らかに見えて来て、身近な話として感じられたように思う。
生きていることと死んでいることは同じこと。。。なんて謎めいた教訓も、もっと下世話な人の根源にあるひとつの生きる道しるべとしての言葉として響いてくるので、不思議。
(下手をしたら、先日観た五反田団の「生きてるものか」、もしくは後述するサンプルの「あの人の世界」と共通するものがこの一見神々しい芝居にあることが見えてくることさえある。)

やっぱり、ジョン・ケアードの底力、恐るべし。


で、夜は今演劇界で最も熱い、注目のあの人ー松井周ー作の「あの人の世界」、”世界初演”(本人、ポストパフォーマンスでこのフレーズには大いに苦笑しておりましたが。そりゃそうだわ。世界初演!!って、そりゃそうだけど、へへ。。てな話だよね)を観てきました。

いつもながら、考えることを止めない、疲れをみせないその追求心には感心する。
普通だったら、日常のドタバタや日々のマンネリから、あきらめてしまう人も多い中、とっても真摯に演劇の疑問を問い続けている人ですね。

一見、まとまりがなく、猥雑でちゃかしているように見える、その舞台から事の真実を見極めようと必死に出来る限りの手を伸ばす、そんな挑戦が感じ取られます。

しかしながら、ちょっとその虚構にある種の慣れというか、期待に応えようとする`用意された答え’みたいなものが感じられる箇所も。
思い切って、削って、スタート地点の疑問に立ち返ってもよいのかもしれない、と今後のこの芝居の変幻にさらに期待。

だって、昨今マスコミを虜にしている、あの三面記事事件「34歳の女」の話は限りなく情けなくも、かなりの説得力があるからね。

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2009年11月 6日 (金)

甘い丘

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久しぶりに怒鳴り声が“うるさい、”ガチャガチャとした活気のある芝居KAKUTAの「甘い丘」をシアタートラムで観る。

07年に上演し、好評を博した舞台の再演とあり、こなれた安定感あり。

中・大劇場でのエンタメ色の濃い舞台以外、小劇場での芝居では静寂や半音はずした笑いなど、静かでちょっとひねった芝居が多い昨今にあって、のっけからドヤドヤと人が出入りして、どつき合いの喧嘩あり、ストレートな下ねたバンバン(ま、中年の恋愛話なのでこれは不可欠)、ガハハと笑い、と思うと横からとび蹴り(このとび蹴りがきれいにきまっていた)が入り、自虐ネタ満載。。。。とつかこうへい芝居をちらっと彷彿させる、なんだか懐かしいウェルメイド演劇。

社会の底辺で生きる、ワケありな女たち。そんな彼女たちが踏みとどまる拠り所、、はやっぱり「愛」ーつまりは「男」で、次が「仲間」なんだ〜〜〜。ね〜〜〜。
とっても良く出来た翻なので、文句はまったくないのだが、個人的にはこのウェット感が。。この高温多湿なウェット感がイヤで海外脱出したもので、、、どうも。。
芝居に関しての文句ではないので、あしからず。

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2009年11月 5日 (木)

ろじ式(10/31)

維新派の「ろじ式」を再見。

今回は前回の時よりも低い段のひな壇にて観劇。そのせいか、800個の記憶の標本がおおいかぶさってくるような錯覚をおぼえるほど、今回の方が世界に入り込めた。
世界共通言語として維新派の舞台は世界で上演されていくんだろう。

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ファンタスマゴリア

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初見の劇団、少年社中の「ファンタスマゴリア」という芝居を高円寺の座で観る。

100年前のパリ万博の会場でシャーロックホームズと作者コナン・ドイルが時を超えた物語の謎に挑む。。。。


ほとんど、知らないアニメの世界とかコスプレの世界とかファンタジーとか、、日本ていろんな芝居が上演されているのね〜〜〜、と思わされた一日。

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ステルスボーイ

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SET劇団創立30周年、記念公演「ステルスボーイ」を池袋で観劇。

30年という数字を聞いて、感慨もひとしお、、ってな思いで舞台上の主要メンバーを見つめてきました。
と言うのも、思い起こせば二十数年前、観劇を日々の軸に据え始めた頃、私は野田秀樹の「夢の遊眠社」の布教活動に日々精進していたわけですが、そんな芝居好きがぽつりぽつりと集まり始めると、そこには第三舞台の熱烈ファンもいれば、東京乾電池のファン、東京ヴォードヴィル、そしてSET(スーパーエキセントリックシアター)のファンもいるわけです。

で、情報交換、プラスお楽しみの一つとして、それぞれのごひいきの劇団を観あったりするわけですよ。
というわけで、SETの公演もそこそこ数こなして観てきているんです。

毎回、釘付けになるのが、アドリブだか、悪ノリだか、よくわからない三宅さんと小倉さんのかけあい。
パターン化されているのに、それを観たさに劇場の通うんですね〜〜。

なんだか、そこにはArtとかテーマとか、そんなのがどっかに吹き飛んでしまう、魅力があるんです。
本当に不思議。


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印獣

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パルコ<ねずみの三銃士>シリーズ第二弾「印獣」を観る。

このシリーズ、少数精鋭制でプロのプロにそれぞれにと〜〜〜っても力入れて作ってもらったら、こうゆうものが出来るのよ。というプロフェッショナルのお手本のようなお芝居。

で、まずは脚本家・宮藤官九郎。この方の上手さはもう神業です。
恋愛もの、ミステリーもの、感動もの、お笑いもの、、、なんてジャンル分けをするまでもなく、そんならもったいぶらずにぜ〜〜〜〜んぶ、その要素全てを入れてやるからもってこい!なんてもんで、本当に全てが詰まっております。スゴい!

で、この翻をこなせる、勝手を知った演出家と役者たち。

これぞプロの技。面白くないわけない。(三田さんでもおとなしく佇むしかなかったんでしょうね。ま、それが大正解なんですが。)

あと、上地さんのものすごく強引な沖縄弁のオチの部分も宮藤さんのプロの自身を感じました。

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Romeo & Juliet (東京デスロック 韓国バージョン)10/28

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先週の日本版に続いて、作られたものとしてはこちらの方が古いKorea version を観劇。

韓国人俳優陣による韓国語での劇作ということもあり、こちらの方は台詞をいじる(日本版では現代のロミジュリを創作していたが)ことはほとんどなく、その代わり、身体表現において現代のロミジュリを体現。

見知らぬ人との出会いの瞬間、近しくなる過程、そして親密になった後の衝突、などなどが見事にWithout wordsで表現されていた。
韓国人俳優達の体当たりの演技が、ウソ物ではない、熱い真実をこれでもかと眼前に突きつけてくる。

見終わった後には、3時間分のシェイクスピア台詞芝居を観たあとのような心地よい疲労感が感動とともに。

今回のこの2本の「Romeo& Juliet」、久々に心の震えがとまらぬほどの大発見でした。
芝居見続けていて良かったと思わせる、新しくて本物の芝居との出会い。ちょっとショックなほどの観劇体験でした。

この2本、日本代表選手として海外に紹介できる、するべきだと思うのですが。
賛同なさる方は連絡をお待ちしております。

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「生きているものはいないのか」(10/26)「生きてるものか」(11/1)

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五反田団の代表作「生きているものはいないのか」(08年の岸田國士戯曲賞受賞作品)とその続編「生きてるものか」を約1週間の間をあけて観劇。

人がわけもわからずバタバタと死んでいく、最後の言葉もろくすっぽ語らずクネクネとのたうち回りながら(この芸術的とも言えるみっともないクネクネが可笑しい)死んでいく。そんな口ぽか〜〜〜んで大爆笑の不条理芝居が「生きているものはいないのか」。
確かに、人の一生を思いっきり集約したらこうでしょう、という見事に「人の一生」を表した劇。
そんな中に、チクリチクリとゆる〜〜い生活、慣れきった日常へのイヤミもあり、一度観たら忘れられない、そんな芝居。

で、今回、新たに作られたその続編とも言える「生きてるものか」。
これ、前作から確実に進化していて、その洞察の深さ、世界の広さから言えば、さらなる傑作と言えるでしょう。笑いの度合いも進化hしているのですが。
「生きているものはいないのか」のラストシーンと重なるようなオープニング。そこから死んだ人々一人一人が生き返り、それぞれの生活事情を明かしていく。しかしながら、会話のはしばしにどこか欠けている部分があり、その謎解きと同時に、生き返った人々の行動から、実のところ私たちは事の成り行きを時間軸の逆行という順序で見せられていることに気づく。

前作では驚きの設定ながら、今作と比べると素直な不条理だったと思わされるほど。今回はさらなる次元にまで行き着くような、宇宙次元を思わせるような普遍的な死生観、輪廻観が語られ、その反面、目の前で見せられているような「犬も歩けば棒にあたる、人も歩けば死ぬこともある」的なとても冷めた人の死というものがあり(実際、イラクとかアフガンで無くなっている方々はこの心境でしょうし)、そんな意味でもCutting Edge(最先端)な日本不条理劇の傑作。


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ナノクライシス・ポルノグラフィ(10/26)

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新宿三丁目SPACE雑遊にて演劇集団 砂地の新作「ナノクライシス・ポルノグラフィ」を観る。

シュニッツラーの「輪舞」を20世紀の現代恋愛バージョンに書き換えたのが98年、David Hare著 「ブルールーム」。で、こちらは01年に秋山菜津子、内野聖陽の二人が何役もこなすという形式でtptにより上演されている。ー今をときめく超売れっ子俳優2人の共演にして今や世界で注目される演出家、デイビッド・ルヴォーの演出。幸運にもこの舞台は観ております。秋山さんのその後の活躍を予見させるような舞台。一皮も二皮もむけちゃって、輝いておりました。ー

で、今回は場所と時間を2009年の東京へ移して、今の新宿「輪舞」にリメイクしての上演。

数人の若手俳優人が代わる代わる登場し、今どきの恋愛模様を綴っていくのだが、これが巷で起こっている男女関係です。と言われれば、あ、そうなんですか。。。としか答えようがないような、ま、男と女のかけひきの話なので退屈はしないのですが、、あ、そ。。。みたいな、ま、それぞれにがんばってね。ぐらいの、その中にあまり新しい発見がないのが、残念。

四方を囲む360度の舞台に、角には男女が絡むソファーと、そしてトイレなど、なかなか刺激的な装置ではあるのだが、驚くような男女の不思議なつながり、がそこに見られないのが、ちょっと平日の昼間に観劇するにしては日常すぎて、興醒め。。かな。

蛇足になるが、ちょっと気になったのがパンフレットに書かれていた演出ノート。。<実は、日本におけるいわゆる男女交際の歴史ははっきり言って極めて浅い、いま我々の中に住み着いている"恋愛観”こいつは形成されて、100年もたっていないのだ。歴史的に見るとこんな普遍的に思える感情、感覚ですらも、実は発展途上なのである。>というくだり。

何をもってして歴史は極めて浅い。。。と言っているか?理解に苦しむ。

世界最古の恋愛小説「源氏物語」が生まれた国の話とは思えない。

彼の思うところの恋愛の定義が狭いから、舞台上の世界観も必然的にせばまってしまったのでしょうか?ね?

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2009年11月 4日 (水)

ヘンリー6世 三部作

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新国立劇場、今シーズンの目玉、シェイクスピアの史劇三部作「ヘンリー6世」を一部ずつ観劇しているのですが、今日はその二日目、ということで三部作の第二部ー敗北と混乱ー(ちなみに昨日の一部はー百年戦争ー)を観た。

馴染みのない英国の史劇で、それぞれ三時間という大作。。。ということで若干の不安を抱えながら昨日は劇場へと足を踏み入れたのですが、これが、これが、文句無しに面白い!!!!happy01
2時間の芝居でも、永遠に思えるほど退屈なものもあるが、これは永遠にこの権力闘争劇を観ていたいと思うほどにお・も・し・ろ・い!!
昨今、さまざまなメディアで日本の戦国時代の時代劇に人気が集まり、映画化、ドラマ化ー特番化ー、されているようだが、まさにその面白さに匹敵する。

その上演時間の長さ(9時間トータル)から、実は世界でも上演が珍しいこの三部作、RSCの企画ものComplete Works of Shakespeare (シェイクスピア全作品上演)の中で、07年にシェイクスピアの生地・ストラットフォード・アポン・エイボンで観劇しているのだが、その時もこの芝居の面白さに、そして演出家マイケル・ボイドの動き溢れる活劇調演出に外国語史劇ながらと〜〜〜〜〜〜っても引き込まれ、連日わくわくしながら劇場へ通ったのを思い出す。本家のイギリスでは台詞を追い越すようなスピーディーなバトル、さらには客席から舞台へロープを伝って一瞬にして剣を手にした役者が押し寄せる神出鬼没・ハッとさせられる驚きの派手な演出で観客を魅了していたのに対し、日本版鵜山演出では「静」のドラマで人間の本質、ねたみや悪巧み、またおさえられた許されぬ愛憎を見事に表し、その台詞、ストーリー展開で劇場の観客の視線をーまさにー釘付けにしていたのが何ともそれぞれの国の十八番をうばいあうようで、それでいてそれぞれに成功をしていて面白かった。
久しぶりにたっぷり楽しめる大人の演劇に仕上がっております。

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で、後日談。

最終章の三部まで、観てきました。

演出の鵜山氏が前日の二部終演後のポストパフォーマンストークでも話していたように、一部、二部からナチュラルハイ段階に入ったような、音楽、美術などに少しばかり冒険を施した出来になっていた。
まあ、あれだけコロコロと出演者にその立場を寝返られては、ナチュラルハイにもなりますわな〜〜。

で、三部を見終わっての感想ですが、まずは最初に興奮気味に述べたように三本分、ずっしりと、上質な長編歴史小説を読み終えたがごとくの満足感。
20代後半でこれを書いたというシェイクスピアの成熟度にも驚くが、下手をしたら冗漫な大作という結果を招きかねないこの大作をまとめあげ、作り上げた鵜山演出、また美術、照明(今回この照明が大いに威力を発揮。その照明活用の想像力により、大きな世界の中に細かい説明を丁寧に組み込むことに一役も二役も買っていた。)、そして何と言っても、ゆるぎない力を蓄えた役者陣に拍手。

9時間の長丁場なればこそ、下手なごまかしはきかず、下手な役者はメッキが剥がれようというものだが、全くそれが無かった。一人一人の役者がこの芝居に十二分に応える演技をみせてくれていた。good

ヘンリー6世役の浦井健治さんの仏教僧のような(これはポストパフォーマンスで司会の中井美穂さんが使っていた表現ですが、言い得ていたので借用)、この世離れした裸の王様の存在感、中嶋朋子さんの(まさに)フランス女=情熱のお・ん・なの強いマーガレット王妃、ヘンリー6世をとりまく強者、くせ者の伯爵、公爵たち(村井国夫、中嶋しゅう、立川三貴。。。)などなど、とにかく弱いと感じさせるキャスティングは見当たりませんでした。

訳者の小田島さんが会見で言っていたように、こうなったら続けてリチャード三世もこのメンバーでみせて欲しいと思わせる、そんな舞台。
これぞ、新国立劇場だから、新国立劇場がやらねばならぬ舞台!という目から鱗の観劇体験でした。

鵜山氏がそこここで(会見とかトークとか)、「ヘンリー6世は15世紀のイングランドの話では無く、今の日本の至る所で見られる話。人々の驚くような裏切りとか、裏の根回しとか。。。。例えばここ(劇場)でも。」と茶目っ気たっぷりに話していたのがとってもイングリッシュ的(sarcasm)。

その流れから言うと、この舞台が鵜山流、ヘンリー6世的なー流血を見ないー世界の変革手段だったのでしょうか?!
もったいないよね〜、こんな天才的な演出家・芸術家を早々手放すのは、ね新国立さん。
国の芸術政策がバブル崩壊後の失われた10年のように失速しなければ良いけどね。

でも、それぞれに分かれた方が、それぞれに良い場合もあるから、それを期待するしかないのかな。

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2009年10月25日 (日)

ろじ式(10/23)

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秋のF/T(フェスティバル/トーキョー)オープニング作品、維新派の最新作「ろじ式」を西巣鴨のにしすがも創造舍で観る。

宇宙観まで表現する大規模なステージセットとその土地の自然の恵みを活かした特設野外劇場で海外にまで広く知られる維新派のステージ。
今回は、残念ながらにしすがも創造舍ーもと学校の体育館ー内での劇場内公演となった。

慣れないとちょっと入るのをためらうような路地裏、そこでは独特なコミュニティーが存在している路地裏、、今は区画整理により無くなりつつある路地裏。。。そんな懐かしくも、未知なる空間の路地裏を忘れ去られた「ものたち(やかんやらシーラカンス、古着など)」が800を超える標本箱に陳列された舞台で蘇らせる。

初日とあり、完璧な台詞のユニゾンとは観れなかったが、後日そのあたりを再見して、またアップしま〜〜す。

あ、またもや余談となりますが、フェスティバル初日のステージで金曜日の夜ということもあり、ステージが終わった後も人が残って劇場に隣接している屋台村なるフード&ドリンクスペースで演劇話などに興じていたわけなんですが、、
東京都もオリンピックなんて4年に一度のレアーなチャンスにお金と全エネルギーを注ぎ込むんじゃなくて、毎年やっちゃう演劇祭に本気出して、エジンバラのような一大観光イベントにしちゃえば良いのに。
だって、結局はオリンピックだって世界から人を呼んで、経済を活性化させるというのが目的なんでしょ?だったらオリンピックじゃなくてもいいじゃ〜〜ンってな話。
エジンバラなんてあの夏の1ヶ月で通年の予算をまかなっているようなもんなんでしょ?多分。

世界から人が集まるツールとして巨大インターナショナルフェスティバル。良いと思うけど?
世界の人が観たいようなアートやカルチャーも沢山あるし。(演劇に限らず)

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サロメ

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グローブ座で篠井英介タイトルロールの「サロメ」を観る。

翻案劇ということで、設定を古代日本のある小国としているのだが、ストーリーはワイルドの原作にほぼ忠実。ヴィジュアル面では豪奢な着物と真鍮のような重厚な趣のセットにライブの邦楽演奏付きと、和のテイストで埋め尽くされている。
今回の見せどころは、演出の鈴木勝秀が下記のようにHPで語っているように、
"今回、“翻案劇”としたのは、僕も先達に倣って、日本文化を生かした形での「サロメ」を創ってみようと思い立ったからだ。。。今までやってきた“西洋文化としての演劇”と、“遺伝子レベルの文化”を融合させていみたいと思い始めたのかもしれない。そして、この「翻案劇サロメ」は邦楽による音楽劇でもある。”
その和のヴィジュアルと邦楽、そしてダンスの様式美にある。
コンテンポラリーダンサーである森山開次にヨカナーン(修験者)役を託し、主な表現を彼のダンスで表してもらっている他に、サロメ役の篠井にも日本舞踊で表現する箇所を与えている。

森山のダンスシーンなど見所もあったのだが、全体としては一体感に欠ける。

主役のサロメを際立たせるー別の言葉で言えば、篠井の女形を舞台で堪能してもらうーための芝居、もしくは森山のダンスを観てもらう芝居、、とバラ売りのような芝居になってしまって、肝心の「サロメ」の話の面白さが伝わってこなかった。

人の恐ろしさ、傲慢さ、耽美主義、芸術快楽主義。。。これらのキーワードが見えてこなかった。
だって、まず篠井さんのサロメからして、酸いも甘いも知り尽くした常識人のサロメで、そうなるとサロメの口にする無理難題の裏には何か大人の事情があるんだろう、、なんて勘ぐってしまいたくなるもの。

ps
余談ですが、今、実質活動休止中のク・ナウカの代表作「サロメ」は素晴らしい舞台だった。全てを見事に表していた。。また観たいっす。

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Romeo & Juliet (東京デスロック 日本バージョン)10/24

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これこれ、こうゆうの観たかったんです。この秋の大本命お勧め。

きらり☆ふじみにて東京デスロックの「Romeo& Juliet」、まずは日本バージョンを観た。

もともとこの劇場の企画で韓国で韓国俳優陣による「Romeo&Juliet」を上演し、大好評を博した作品で、今回はその韓国バージョンと新たに日本バージョンの二本立て。

私はその韓国バージョンを観たことがないので、この日本バージョンが初見。(来週韓国バージョンも観る予定ですが)

春に同劇団による現代版「リア王」を観たのだが、そちらは、なるほどね〜〜ぐらいの感想だったのですが、今回の「21世紀きらり☆ふじみのロミジュリ」には完全にやられました。2時間弱、ポップなハート型のステージから目が離せませんでした。

前述の真っ赤なハート型のビニール張りのこんもり盛られたステージ、その後ろには背面一面の大きなプロジェクタースクリーン。その中央ステージの回りには剥き出しのステージライト装置。

三部構成になっていてAct1では原作テキストを抜粋しスクリーンで写してじっくりしっかり観客をロミジュリのストーリーへ入り込ませる、そしてAct2では一変、俳優たちの恋話というかたちで現在の恋愛の形が口語調で語られる、そしてAct3では前述のテキストを役者が語り、また体現する(ただ役を演ずるのではなく、オリジナルな方法で男女間のかけひきを表現)。

そして、それぞれのシーンに最も適した音楽が大音量で流される。

テキストの抜粋箇所の見事な取捨選択、それを見事な形で演劇的表現へと還元させ、さらには今日との繋がりも強く感じさせる。。。素晴らしい舞台です。

これぞ日本のロミジュリ。
さらに多くの世界の舞台へ持っていけるでしょう、これは!

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2009年10月23日 (金)

ソビエト

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座高円寺で演劇村フェスティバルシリーズ(中堅カンパニーを取り上げるシリーズ)3作上演の1本、双数姉妹の「ソビエト」を観る。

16年前に上演された作品とのことだったのだが、久しぶりに全く舞台に集中できない、、思わず時計を見てしまいたくなる(まずやらない動作なのですが、、今回もこらえましたが)舞台で、、残念。

これ、16年前で若くて、装置もボロくて、小劇場で、、、っていうのの方が面白かったかも。

演出の一環として、舞台上で同じ役の人が入れ違う(2人の役者が同じ役を請け負っていて、時々役者が入れ替わる)んだけど、幾何学模様の衣装同様になんだかこんがらがるばかり。
社会主義国家においては人間も一つの駒となり、入れ替え可能。。ということなのかもしれないが、その為に混乱させるのと、ストーリーをきちんと伝えるのと、どちらを優先させるのか?
演出家の決断なんでしょうね。

メタシアター構造+役者のダブル構造ということで本来抽出されるべき主題がボケボケになってしまった。
プログラムによるところの「ソ連という国が無くなって。。。世界地図の上の方を堂々と陣取っていた大国。無くなるはずもないと思っていた国が地図から消えたことは、少なからず衝撃的でした。」っていう出発点は良かったと思うんだけどね。

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黄色い湯気

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前回、4月に下北沢駅前劇場で観た「日曜日の使者」(来る子供の幼稚園の催しの出し物を決めるために日曜日に集まる父母たちが違う家庭環境の家族の状況を垣間みるうちに、それぞれ見えていなかった自分のありようを発見していくという芝居。あまりの自分勝手さに笑い、それが現実でも起こっていそうで、またまたくすくす笑い。。)がちょっとツボにはまったので、またもや訪れてみました。

今回も、どこにでもありそうなある街で起きている、幼なじみ同士、先輩後輩、そして家族間の、それぞれにそれなりに相手を思いながらにすれ違う日常の機微を描いている。

場所が街に古くからある銭湯の玄関ということで、舞台セットは前回の幼稚園同様、なんとも懐かしく、また誰でもがそのシチュエーションを共通認識できるようになっている。

前回公演に比べ、ちょっと無理矢理なーそれまで歩けないほど痛めていた腰が一瞬で直ってしまったりー流れが見受けられたが、やはり普通な人々の可笑しみさ加減がなかなかほどよくにじみ出ていて、物語に引き込まれる。

常連の林和美、古川悦史らがまたもや好演。
最後にちょこっと出てくる、作・演出・俳優の石曽根有也もとっても笑えました。

銭湯って一回400円以上するんですね〜〜。毎日入っていたら結構な支出ですよね。だからどんなに狭くてもシャワー付きの部屋を借りるんでしょうか?
銭湯の方が広くて気持ちいいだろうけど、それこそ24時間営業っていうワケにもいかないだろうから。。

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2009年10月22日 (木)

真田風雲録

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さいたまネクストシアターの「真田風雲録」を幕開け翌日の回で観る。
倍率30倍という難関オーディションを突破した若手俳優44人からなる新プロジェクトの第一弾公演だ。

彩の国さいたま芸術劇場、普段は海外からの大御所ダンスカンパニー、そして芸術監督蜷川幸雄によるシェイクスピア劇などが上演されるメインシアターの舞台の上に客席と舞台スペースのインサイドシアターを特設。
観客は誘導されるがままにその特設の演劇スペースへ。すり鉢状の客席で3方を囲む、その真ん中にある舞台には泥が敷き詰められ、背面の壁には戦火で混乱する江戸初期の大阪の街が壁面いっぱいに力強いタッチで描かれている。

たっぷりと盛られた泥と各席に置かれた泥よけビニールシート。。。青ざめながらワクワクしながら開演時間を待っていると、案の定、われんばかりの雄叫びをあげながら侍たちが泥の合戦状へなだれ込んでくる。泥を跳ね上げ、泥に足をすくわれながらそのチャンバラシーンがしばらく続く。

関ヶ原の戦で天下を収めた徳川家康。それに対し、豊臣側は全国に散る浪人たちを集めお家の再建を図る。そんな豊臣家に加担したのが真田幸村とその仲間真田十勇士だ。一致団結して敵へ向かうべきところだが、密約、内部分裂、裏切り、、と真田一派の躍進を良くは思わない味方連中から、彼らはだんだん孤立していく。
そんな中、十勇士の間でも意見の相違が出始めて。。

と、真田十勇士の10人は今回オーディションで選ばれた役者が演じているのだが、彼らが慕う頭領の真田幸村は高齢者劇団ゴールドシアターでも参加を請け負い、全幅の信頼を得ている蜷川の秘蔵っ子、横田栄司がその役を演じている。
その他にも4人のベテラン俳優たち(計5人)が脇を固め、要所要所で舞台をひきしめてくれている。

とは言え、そんな心強い援護を受け舞台狭しと暴れ回る、今回の舞台の主役はやっぱりなんと言ってもオーディションで選ばれた無名の新人たち。
ほとんどの団員が劇団に所属していたり、大学で演劇を専攻していたり、、とまったく初めての演劇体験という人は正直それほどはいないのだが、やはりこのオーディションでのチャンスを得なければ、いくら数少ない演劇学科を卒業したからと言って、このような贅沢な経験が出来ることも滅多に無いのではないか。そうゆう意味では教育と現場の連携が無い現状の日本演劇界において、やはり貴重な試みと言えるだろう。

舞台に関しては、青春群像劇ということで、とにかく大人数の若者が泥まみれるのが第一部。さいたま芸術劇場のもう一つの看板劇団、高齢者ゴールドシアターのように台詞がとぶかどうか、。。。というハラハラするような場面はまったくなく、殺陣も台詞も歌も激しいアクションもなんなくこなしていく、イケメン、イケウーメンの役者たち。しかしながら、途中から「わざわざこの若者劇団を創った意義ってなんだろう?若者達は自分たちで劇団つくってもやっていけるのにな〜〜?」なんて思いながら観ていたのだが、この劇団の本領が発揮されるのが第2部。

人海戦術で圧倒する部分よりも、後半、一人一人の役が掘り下げられていく部分、そして前述のベテランとからむシーンのあたりで、なるほど、これがやりたかったんですね〜〜〜と妙に納得した。

プログラムによると蜷川御大からはリハーサル中に「もっと勉強してこ〜〜〜い!!」と灰皿ならぬ(これもう封印しましょうかね、でも枕詞ですから。。)怒号が飛んだらしいのだが、若さの勢いでスポーツ感覚で発散する演技ではなく、とことんわからないなりに考える、そして様々な年齢の観客の前でその悩んでいる姿をさらけだす。さらには、普段は交わることは無い異世代の演劇人から学ぶ。。。
これを彼らに託しているんですね〜〜〜。

こうなると、こちらも第2弾はどんな形ででてくるのか。。。ゴールド、ネクスト。。目が離せません。

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蛮幽鬼

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2年前、同じ新橋演舞場で上演された「朧の森に棲む鬼」がとても良い出来だったので、期待して行ったのだが、今回のは、私的にはダメでした〜〜〜。

年々進化、進歩し続ける劇団新感線。それだけに、今回はいったいどんな演出で、舞台装置で、驚かせてくれるのか、とわくわくしながらの観劇だったのですが、う〜〜〜むどの点でもちょっとフラットで物足りない感が。

華のある外部役者をそろえ、またその人たちもそれぞれに好演、素晴らしい殺陣などを見せてくれていたのですが、、どうもそれぞれを大切に扱いすぎたためか、みんなが望む通りのキャラを披露するあたりで不完全燃焼してしまったようだ。

話に関しても、殺し合い、復讐、人間の資質、友人との信頼関係 なるものに関して、もう少し掘り下げられようなものだが、どうも見せ場とジョークの上をすり抜けていってしまったように思う。
新たに、前作「朧の。。」から大音響と派手な殺陣の段階からさらに`おとな歌舞伎’なるフェーズに突入とのことなので、チャンちゃんと終わらせなくても良いので、人の成りの摩訶不思議を垣間見せて欲しかった。

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ベッドルーム・ファンタジー

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黒柳徹子主演の海外コメディーシリーズ、20周年記念作品「ベッドルーム・ファンタジー」。

善くも悪くも、黒柳徹子が舞台で演じているのを観に行くというのが目的の全ての舞台。
昔、テレビの海外ドラマで見たような西洋風のお屋敷セットの中でエスプリの効いた(古い?)海外ジョークが交わされる。生来のコメディエンヌである黒柳さんがそれを嬉々として演じるのを間近に観る。
そんな舞台をぜひ観たいという方にはおススメ、で、それほどまでに時間も資金も、、という方には別のものでもいかがでしょう?というもの。

嬉しさを素直にお出しになるのは良いことなのですが、カーテンコールで涙ぐまれても。。。。だって演ずるのがお仕事なんでしょ?

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Romeo & Juliet (K-ballet)

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K-balletの「ロミオとジュリエット」を渋谷オーチャードホールにて観劇。
そうそう、あの時の人`幸夫人が熊川哲也とご対面。’っていうあれです。

今回、熊川率いるK-balletの創立10周年記念公演ということで、構想3年の熊川版「ロミジュリ」のお披露目だったのですが、これがまあ、心底驚き、感心するほどにオリジナルで、緻密に作られたロミジュリでした。ー古典をもう一度作り直すのって、つまりは常識とされている意識を解体する作業で、とても勇気もいるし、想像力もいる、大変な作業だと思うのですがー

「ロミオとジュリエット」を演る場合、陥りがちな過ちとして、演劇でもダンスでも本作を若い二人のラブストーリーとして、そこに焦点をあてて上演してしまうと、単なる男女のすれ違いの悲劇で終わってしまって、そこまでの舞台になってしまうのだが、ー実際、この表層面の解釈だけで演じられてしまうことも多々あり、さらにはその単純さを揶揄した翻案作品まで出て来てしまうー今回のK-ballet版では丹念な原作の読み込みがなされた結果、綺麗な悲恋物語というだけではない当時の社会批判を色濃く出した舞台となっていました。

例えば、絶対的な男性の優位を誇示するジュリエットの父親像、また若さゆえのプライド、さらには若い友人同志の強い連帯意識から先走り過ちを犯すロミオ。今回の舞台ではその若げのいたりに気づきかけていたロミオの姿もみごとに提示されていた。ジュリエットに関しても、従来の舞台より子供っぽさがマイナスされて、一人の婚礼をむかえる女性としての自覚のある自立した女性として描かれていた。

そんな細やかな演技=踊りを見せてくれたのが、カンパニーの大黒柱、熊川哲也(ロミオ)と英国ロイヤルバレエのプリンシパルダンサー、ブラジル出身のロベルタ・マルケス(ジュリエット)。
マルケスは今回初めてのK-balletへの参加だが、勘ぐりたくなるほどに、それほどまでに完璧な熊川とのパートナーシップでこの一夜にしてすでに、日本・K-balletでの今後の舞台が待ち望まれる存在となった

また、ダンサー達のモチベーションの高さ、そして何と言っても、大舞台の高さの利を十二分に活かして、何倍もの広がりのある舞台美術を実現、ヴェローナの街を渋谷に再現したK-balletの主力アーティスト、ヨランダ・ソナベントの美術に、この舞台の成功の鍵があることは間違いない。


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2009年10月21日 (水)

コネマラの骸骨

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大好評、演劇集団円による英国人のFecking Geniusbombな劇作家マーティン・マクドナーの出世作シリーズ・リーナン三部作上演。今回「ビューティークイーン・オブ・リーナン」「ロンサム・ウェスト」につづいて最後のシリーズ作上演となったのがこの「コネマラの骸骨」。

期待通り、いやそれ以上にまたもや良い仕事をしてくれています。

お決まりのアイルランドの田舎の一軒家。バラックかと思うような、酒瓶と最低限の机と椅子、申し訳程度の簡素な十字架意外何も無い主人公ミック(石住昭彦)の家のシーンで芝居が始まる。
ミックはご近所さんのちゃっかり婆さん、メアリー・ラファティー(山之廣美)といつものたわいもない話をしながらいつもと変わらない午後を過ごしている。と、そこへメアリーの孫でオツムも態度も軽いマーティン(戎哲史)が入って来て、とまらない無駄口と一緒に村の神父の伝言を伝える。。。。
年に一度の裏仕事ー宗教上の理由で火葬が普及していないアイルランドの大混雑の墓を整理するために、墓堀りをして年月の絶った骨を闇で処分するという仕事ー、の季節がやってきたというわけ。
しかしながら、今年がいつもとは少し違うのは、7年前に亡くなったミックの妻の墓がその区画整理の計画地の中に入っているということ。
村のゴシップ好きの間ではその妻が死んだのはミックが運転していた車の事故が原因ではなく、ミックが殺して!?それを事故と偽装した、ということなのだが、、、


と、劇の中心にその他殺か事故か?という謎解きがあるものの、劇の魅力は何と言ってもその核の回りいっぱいに散りばめられた日々の愚痴(に聞こえる)とナンセンス(これもまた一見そう聞こえる)な会話にあり!
そのあまりにも独創的でバカバカしくて、それでいて哲学的な台詞の数々、、まさに hilarioussign03の一言に尽きる。

間違いなく、今、私が心酔しきっちゃっている劇作家がこのお方、マクドナー。
野田秀樹の戯曲の言葉一つ一つを復唱したように、マクドナーの台詞読み返しております。(どんな英語で書いているのか、気になって原書を入手。アイリッシュのそれも地方の訛りバリバリの翻を堪能させてもらっております)

どこからこんな発想が出てくるのか、そのクレイジーなまでの常軌の逸し方は何故のことか?でもって、最後の着地点がそこかい!ってつこっみたくなる。最初から最後まで、凡人の想像を裏切りっぱなしのノリが、病み付きになる理由でしょうか。

やっぱり、ベケットばりと言うべきなのでしょうか。

モンティ・パイソンと言い、ベケットと言い、TV ドラマシリーズ「グリーン・ウィング」と言い、これがあるからやっぱり目がイギリス方面を向いてしまうんです。
理路整然としたもの、ましてや勧善懲悪や愛とは?なんて子供騙しレベルのものにはウンザリ。。
もっと、想像を突き破るほどのもの見せて欲しい、、となると、やっぱりGeniusな方に問題定義をしてもらいたいものです。

で、最後になりましたが円の舞台。
役者4人が良い。
このところ、役者の売り込みステージのような、俳優がスターとして舞台にいるような個人の芸を見せられに行くような、、ステージも多い中、これほどまでにそれぞれに浮き出ることのない、今回の舞台の明るさ同様に地味〜〜〜なーあくまでも良い意味でです!ーいぶし銀(あ、こう言えばいいのか)のような演技が舞台を成功へ導いていました。


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血の婚礼 再見

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TPTの「血の婚礼」を千秋楽で再度観劇。

週末の秋晴れの午後、東京の喧噪を離れ、運河沿いのがらんどうのアートスペースで乾いたグラナダの赤土の原野で起こった芝居を観る。こんなプチ東京離れが新しい風を疲れた脳に送り込んでくれる。
いいんじゃないですかね〜〜〜?
で、芝居作品もかなり観客の想像力にその実を委ねた種のものだったので、観ている間にそれこそ様々な事を考えられて、良かったです。
真っ赤な糸玉〜noteーってこれ観に行った人にしか分らないんですが。。

糸玉っていう日本的な歌詞と琴の旋律、ウッドベースのゆったりとした音色。ヴィジュアル面では美術といい衣装と言い、かなりラテンを意識したものだったのですが、この自然に身体に馴染む音楽によって、そのラテン色が日本人にしっくりと馴染むように働いて、、、結果的にはラテン色を出しながら、ユニバーサルな芝居に仕上がっていたように思います。

役者陣たちの身体にもそのラテンが自然に馴染んできたのか、10日前に観た時よりもがぜん良くなっていた。思い通りにならない焦燥感と抗えない大きな力に対しての諦めがよく現れていたように思います。
小谷真一、呂美、山田ジルソン、武田優子、、と若手の台頭にこれからも期待が膨らむ。

追記
で、昨日、今日とBBCインターナショナルでスペイン内戦で暗殺され、混乱の中その死体の所在が明らかでなかった原作者ロルカの骨が発見され、今発掘作業が進行中、、というニュースをやっていて、その骨が見つかったあたりグラナダの土地の風景とロルカの略歴を紹介していたんですが、これがまさに百聞は一見にしかずというやつで、その乾いた土地を見れば、、内線時代の圧政の一端を耳にすれば、でもってエキストラ情報でロルカはゲイで、それによってかなりの弾圧を受けていたという話を聞けば、、、もっともっと直接的に「血の婚礼」の理解も深まるというもの。
あの荒涼とした土地があの芝居の背景ーそれぞれの役の心情ーを如実に語ってくれていた。

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2009年10月20日 (火)

心が目を覚ます瞬間〜4.48サイコシスより〜

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サラ・ケインの「4.48 サイコシス」だと思って観に行ったのだが、タイトルが示すようにサラの戯曲から翻案過程を経て作られたオリジナルであることが判明。

翻訳・翻案・演出・そして主演と一人4役をこなししている谷賢一氏が台詞は原作から自ら翻訳してかなり忠実に使用しているのだが、原作の重度の鬱病患者(作者サラの投影)が発する語りという部分が芸術の創作の苦しみに直面するクリエーター(谷氏自身の投影?)と心のか細い少女という二人に置き換えられて上演されている。

心の病、現代の孤独をデジタル映像、散乱する物たちなどにより上手く表現されているのだが、だが、、お上手すぎて、心をエグらない。

戯曲の核の何か、に手が届いていない。。。

あ、そうかこれは「4.48 サイコシス」ではなくて、「心が目を覚ます瞬間」という芝居だったんだ。
あらためて。。

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2009年10月17日 (土)

G.は行く

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本日観た、大駱駝艦の「G.は行く」。

今年2月に世田谷パブリックシアターで上演し、その圧倒的な世界観でダンスファンのみならず、多くの演劇ファンを総立ちにさせた「シンフォニー・M」から半年、こんどはそのお隣のシアタートラムでカンパニーの女性ダンサー達と`男の永遠の純情’と`女の生まれながらのしたたかさ’それを畏敬をこめた男の視線から描いてみせた。

暗闇の中、ステージでたおやかに身体をしならせる女性ダンサーたちの身体の綺麗さ、菩薩のようなその微笑みを支える強靭な身体と心。

タイトルのGはGoddess(女神)と受け止めた。

大駱駝艦のステージを観る度にー前回の「シンフォニー・M」は殊更にその点が際立っていたのだがー、このカンパニーが作り出すステージが舞踏とか、ダンスとか、それこそパフォーミング・アーツというボーダーを軽く(←ここが肝心)飛び越えて、独自の芸術表現、さらにはクリエイションワールドを展開しているところ、これがこのカンパニーを見続けたいと思わせる大きな魅力であろう。

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先日行った中野の劇場のお隣の姉妹劇場(!?)でやっている芝居、三田村組の「home」を観る。

このところの小劇場再燃ブームの中心である若手演劇人達の中での注目株、他劇団への脚本提供・演出、さらにはテレビやラジオの脚本執筆でもひっぱりだこの劇団「ONEOR8」座付き作家・演出家、田村孝裕が65歳の三田村周三率いる三田村組へ書き下ろし演出した芝居(ちなみに、田村はこれまでにも何度か三田村組とのコラボ経験あり)。

私設老人ホームが話の舞台だけあり、高齢者中心の芝居ながら、そこで働く若いヘルパーさんや入居者の家族(松永玲子)も登場し、話も舞台上もー役者さんたちが役のほぼ実年齢の人たちによって演じられているー年齢層が幅広く、それぞれ世代ごとに違ってくる悩み、主には高齢者たちの`生命力と性命力’の強さが彼らのやんちゃなエピソードにより語られていく。

酸いも甘いも噛み分けた高齢者たちの日々のつぶやき、綺麗ごとではない台詞は聞いていてすか〜〜〜っとするのだが、、ちょっと良い話すぎるのがたまにきず。

骨肉のあまりにも醜い争い、、が観たいわけではないのだが、、それでも、現実に聞く身の回りの介護や老齢の話の方があっと驚くようなドラマ性があり、人間らしいというのも、、その意味ではちょっと芝居としてはヨワイ、かも。

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2009年10月16日 (金)

CHICAGO

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ブロードウェイ・ミュージカル「CHICAGO」を観劇。

CHICAGOってこんなに良く出来たミュージカルだったのね、と眼から鱗。

思い返せば、ロンドンで90年代に観たミュージカルがどれも今ひとつパットせずー「オペラ座。。」とか「レミゼ。」「スターライト。。」「ミス・サイゴン」と傑作はどれもこれもそれ以前に幕を開けていたもので新作にあまり目新しいものが無かった、で鳴り物入りで幕を開けた「サンセット・ブルバード('94)」が物足りなくて、で、「オペラ座の怪人」で私のミュージカル通いは封印、、なんてかってにその方面から足を遠ざけてしまい、当時勢いを増していたコンテンポラリーダンスや英語が分りかけてきたストレートプレイの方に通うようになった、、まさにその時このCHICAGOがロンドンでヒットしているんですね〜〜。(97年ー96年のブロードウェーでのリバイバルヒットを受けて)

その後、ロイド・ウェーバーの呪縛からちょっとは開放されたロンドンミュージカル界は様々な種類の新作で盛り返し、今ではウェストエンドで多種多様な良質ミュージカルが観れるようなので、またミュージカルもチェックしたいなとは思っているんですが、ね。

確かに、当時の記憶を辿ると、、あのCHICAGOのモノトーンの洗練された男女のポスターを至る所で目にはしていたように思います。

パンフレットによると、そもそも、この改訂版ー(音楽とダンス、特にボブ・フォッシーの粋でソフィスティケイトなニューヨークスタイルを最も格好良く見せるべく、演劇的な芝居の部分を抑え、ライブバンドをステージ中央に置き、エンターテイメントなショーのスタイルに仕上げた舞台。それによって舞台のオリジナリティーが増し、シンプルがベストに働くという良い例を示してくれた。)ーの前に上演された、やはりフォッシーの振り付けで構成された75年初演版のミュージカルはその一ヶ月後に幕が開いた「コーラスライン」のヒットの陰でトニー賞にノミネートされながらも無冠に泣くという結果に終わったというから面白い。
当時の社会背景から、現実世界のウソと虚栄を描いた「CHICAGO」よりも日のあたらない世界の弱者たちが真実を赤裸裸に告白するという内容の「コーラスライン」の方が多くの支持を得た結果とのことだが、それから30年、一部の人たちが富を独り占めして、同じ一部の人たちが世界でパワーを独占するこのご時世、今このミュージカルが再びロングランを続けている(改訂版の新しい演出が功を奏したというのも大きいが)理由もまた納得できるところ。

子供騙しのおとぎ話を偽善たっぷりに歌い上げられるよりも、こんな大人のショーの方がドライで、割切っていて、、私好みかも。

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バケレッタ!

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吉祥寺シアターで鄭義信の新作、「バケレッタ!」を観る。

これって、関西風味ってやつなのかな〜?
ウェットな部分も笑いの部分も、なんだかコテコテにクドかった。

役者も上手くて、コマネタで笑わせてもらいましたが、全体にぴりっとした筋が通ってなかった。
この人情話でなくても、他にいろいろ引き出しから出てきそうなもので、、そんなものを次回に期待。

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血の婚礼(TPT)

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横浜Bank ART Studio NYKにてTPT第72回公演、フェデリコ・ガルシア・ロルカ作「血の婚礼」を観る。
「血の婚礼」は3年前に当時の拠点、ベニサンピットにてアメリカ人演出家、アリ・エデルソン演出、二村周作美術、当時の若手の俳優人ーパク・ソヒ、斉藤直樹、宮菜穂子、板垣桃子らで上演した作品。
長方形の細長い舞台の回りを囲むように透ける白い布が掛けられ、また、舞台の淵に食器や花が飾られ日本から遠くは慣れたどこかの国という、異国情緒漂う舞台上で狭い世界に閉じ込められた若者達の行き場のない感情が激しくぶつかりあい、飛び散っていくドラマが展開されていたが、さて今回は?

今回、美術担当は朝倉摂、演出が門井均、そしてキャストに今の若手陣、そこへTPT常連の大沼百合子(前回とは違う役で出演)、植野葉子が加わっての新バージョンとなった。

何と言っても、打ちっぱなしのコンクリート建物の空間を劇場へと転身させ、さらにはその空間のほとんどを今回の劇「血の婚礼」のラテンの世界で埋め尽くしてしまった、舞台美術が圧巻。そこへライブの音楽(琴!とウドベース)が加わり、出演者たちによるオリジナル楽曲の歌唱とラテンダンス。
登場口から垣間見える横浜の運河の夜景が果てしない闇を作り、そこから続く導入通路では桶から水が飛び散り、さらに芝居が展開するメインステージには赤土が溢れんばかりに敷き詰められ、背景では壁画のような絵画の馬が草原を疾走している。。。。って、これプロセニウムの額縁劇場では体験できない鼻孔で、肌で感じるロルカの「血の婚礼」。
頭で理解しようとしたら、その時点で消えてしまう、この芝居に最も適した舞台表現なのかも。

頭では理解できないことって沢山あるもの、、あの女があの男へと走ったのだって理解できないし。。ね。

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その人、女優?

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中野テアトルBONBOのこけら落とし公演ということで、東京ヴォードヴィルショーの「その人、女優?」を観る。

前にも同じ場所に劇場はあったと思うけどー何年か前に観に来たことがあるから絶対あったはずーなんだかその住宅街の中に立派な劇場が二つも出来てしまっていてーMOMOとポケットー、一体どこが、誰が劇場経営始めたんだろう? と素朴な疑問。

「住宅街なので、ご近所の方々の迷惑となりますので役者との面会がある方は建物内、客席でどうぞ。」だそうで、なるほどね〜〜〜いろいろと諸事情というのがあるんです。下北沢とかだと街全体が劇場地帯化しているから、住民からも文句は出ないんだろうけど、劇場というものが新しい街に根付くと言うことはいろいろな問題をクリアーしていかなくてはならないのね。勝手に芝居、っていうわけにもいかないのね〜〜〜と。

で、お芝居ですが、流石にどんな状況でも動じないようなベテラン俳優がうようよしている老舗劇団だけに、もう、余裕のよっちゃんで、その分お客として十二分すぎるほどに満足させてもらいました。
役者の力は大きい!
佐渡稔、市川勇、石井愃一らの結成ー73年ー当時からのメンバーにしっかりと守られながら、女優陣が思う存分力を発揮する芝居(04年に劇団結成30周年公演として上演したものの再演)で女が物事動かしていく。
で、その肝心部分の女優陣ーあめくみちこ、山本ふじこ、市瀬理津子らがこれまたカラフルで、それぞれに個性があって良い(若手劇団だと誰がだれだか、っていう状況もあるけど、ここは混ざり合わない強いそれぞれのカラーがある)。

翻は劇団「道学先生」の座付き作家でもある、劇作家 中島敦彦のオリジナルで、またこのなんとも昼のワイドショー的な雑多なものが混ざり合ったコメディーがヴォードヴィルのコメディアン+コメディエンヌたちにぴったりしてて、、、火曜日の午後、週初めから大いに笑わせていただきました。


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2009年10月15日 (木)

組曲虐殺

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井上ひさしの「蟹工船」、と聞いてワクワク。どんなピリ辛な(良い)毒を振りまいてくれるのだろう、と期待していたのだが、ちょっと消化不良。

今言うのも変な話だが、(将来の)再演を心待ちにしてしまっている、っていうのも何とも複雑なものです。

さすがに話は骨太で、役者陣も粒ぞろい、ライブ音楽はピカイチなのだが、、、幕開けから数日しての観劇だったからか、探りながらの八分目ぐらいの出力で、随所で確認し合いながら、というように見えた。

芝居としては前述のようにとっても良いものなのでー刃のようにするどい台詞あり、その台詞がアジテーションではなく日常で語られていたし、、やっぱりもう一回観ろということなのかな〜〜?

それにしても、今更ながらに拷問の痕がはっきりと残る死体を「心臓発作」と公式記録に偽証して記してしまう、そんな極悪同盟たちが「せいぎ」の監視役というお役目をもらって善人面しているって、何?

ま、世界レベルでもどっかの国は偽善者面して戦争始めてたけど、ね。

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雨のにおい

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しばらく、記事執筆+観劇 昼&夜 なんてスケジュールで過ごしていたら、すっかりまたアップが遅れてしまいました。。。さ、リアルタイムに追いつくように鞭を入れて追いつきます。

下北沢駅前劇場にて東京タンバリンの「雨のにおい」を、台風が接近しいつ雨が降り出してもおかしくないような雲行きの日に観劇。

対面式の劇場中央には二つのシチュエーションが交互に展開していくこのお芝居のどちらのシーンにも対応するシンプルなカウンターと椅子、また、待ち合い所 または会社内の喫煙室というセットが組まれ暗転ごとに駅の遺失物保管センターと会社の休憩室のシーンが交互に演じられる。

一見では繋がりがないような二つの場所での話が時間軸も多少前後しながら進んでいき、謎解きを含みながら、最後にはその2点が一つの線で結ばれるという、なかなかに凝った作りになっている。

現代人の乾いた人間関係が引き起こす悲劇をそれぞれの場所ー会社と駅の事務所ーでの近しい人たちの間で交わされる日常の会話を再現しながら追っていくわけだが、会社でのやりとりがちょっとヨワイー作り物っぽいあざとさが見えるーと感じるのは私がドップリな会社生活から離れてちょっと経つから?かな。(会社員のようなふりをして会社通い、というのは最近までやっていたんですが、如何せん、マイペな会社員だったからね〜〜)

それとも、いまどきの会社では、あんな会話が日常なのかしら?ーとってもテレビドラマのワンシーンみたい。みんながみんな、主役になる将来の自分探しに邁進しているようで、気持ち悪い。

ちょっとイイ話に上手くまとめすぎて道徳的になり、細部にリアリティーが、人間臭さが感じられなかった。

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2009年10月 5日 (月)

サッちゃんの明日

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三軒茶屋、シアタートラムにて大人計画の新作「サッちゃんの明日」を観る。

これまた大変素晴らしい舞台で、涙。。涙。(笑いすぎて涙!?)
ここのところケラさん、松尾さん、、とこれぞ現代の日本演劇代表作という傑作を発表してくれて、やっぱり舞台から眼が離せない、演劇好き冥利に尽きるという至福の時間を過ごしております。

白い粉が舞い散って、エロありグロあり、かわいいうんこネタあり、と大人計画でしか観れないお芝居でお腹いっぱい楽しませてもらいました。

申し訳ないが、おもろしすぎる。今回は阿部サダヲ、平岩紙などー他メディアで多忙なのかーはお休みだったのだが、松尾スズキも小声で参戦し、宮藤官九郎はラリったヤク中役をナチュラルな(!?)演技で軽くかわし、皆川猿時がメインのメンズパートを圧倒的な個性で演じきり、猫背椿が随所で円滑油として働きまくり、星野源が芝居をまとめ、鈴木蘭々がマイペースに、かわいらしくヒロインを歌い上げ、、、でもって何と言っても(他の劇評投稿欄でも言われていましたが)元サモアリのお二人ー小松和重、家納ジュンコーが大人計画役者を上回るハイテンションで芝居を回しておりました。
全員でコツコツと積み上げ、で、思いっきり雑に見えながら実のところとっても丁寧に隅々まで考えぬかれた芝居で大変良いものを見させていただきました。

役者が上手い!翻に本気と正直が詰まっている。でもって、小屋も良い。

ウ〜〜〜〜ン、脱帽。

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2009年10月 4日 (日)

旅とあいつとお姫さま

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週中のマチネで、こどもも大人も楽しめる「旅とあいつとお姫さま」を高円寺に新しく出来た公共劇場、座・高円寺にて観劇。

市民のための劇場ということで、近隣に住む住民たちへ向けーその中にはお母さんと子供も含まれているということー上質な舞台を提供していきたいという、公共劇場が全国区になってきた近年の傾向にちょっと一石を投じるかのような姿勢で注目していきたい、この劇場から発信されたこの舞台、公共劇場ならではというような時間をかけて丁寧に創作された作品は一見も二見も価値のある舞台だった。

アンデルセンの「旅の道づれ」とノルウェーの昔話「旅の仲間」を題材に、イタリア人演出家テレーサ・ルドヴィコ(世田谷パブリックシアターで発表し、好評につき翌年の再演も果たした「にんぎょひめ」の舞台で日本での知名度も高し)が創作した新作演劇で、子供向けと銘うってはいるものの、おとぎ話調の言葉で語りながらその内容は道徳的ではありながらかなりシニカルで舞台もため息が出るほど芸術的にう・つ・く・しい!!
でもって、ダンサーとミュージシャンを招いた舞台上のアンサンブルも、視覚的に美しい!
衣装、舞台装置ともども、オリジナリティーに溢れ、それがいかにもヨーロピアンな色彩感覚(幼稚な原色使いではなく、色をふんだんに使いながらも洗練されている)で、また小道具の使い方もシンプルながらに効果的。これがルドヴィコたる成果なのだろう。

子供向きに作られた作品ながら、その仕上がりはかなり大人向け、とは言え、`子供向きの演劇がいかにもこどもの程度にあわせました、、という大人の思い上がりから作られたものであってはならない。子供向けという演劇のジャンルは無い(教育的配慮から過激な性表現やバイオレンスなどが含まれるものは子供には見せないという判断はあったとしても)’と、夏に来日していたクロアチアの演出家ー児童演劇の分野での第一人者ーが座・高円寺の公演の際に語っていたのは正しいのであろう。

小さい子供にとってはその不気味な悪魔などのメイキャップがとても怖く感じたらしく、ちょっと泣きべそのような声も聞こえたが、、反面、舞台で繰り広げられるイメージの自由な表現、美しい視覚効果などは、そんなちびっ子たちの脳裏のどこかにきっと残ったはず。

家の近所の劇場で気楽に上質な演劇を楽しむことが出来る杉並区の住民たちはラッキーです!

この座・高円寺の新しい試みが、さらに広がっていくことを願っております。

psー丁度、NHKのゴールデンタイムで今日の教育現場、子供達が世界不況のあおりをうけて教育をうける自由を奪われかけている(この先進国、日本で!!!)ーというレポート、討論番組をやってました。
最近のNHK 確かな番組作りで面白い。NHKって確か、ちょっと前まで批判の対象にされてばかりだったはずなのに、いつの間に立て直したのか?  一方、なんでJALはあんなにひどい状況になるまで、誰も何もしなかったのか? 長期的な展望を持てるリーダーとそのイマジネーションに欠けるリーダー。
これからの民主党の長期展望構想力に注目。

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世田谷カフカ

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週中に下北沢、本多劇場でNylon100℃、34回公演「世田谷カフカ」を観る。

これがまた、帰りの小田急線で口笛吹きたくなるほどにごっつええ芝居でした。

カフカの未完長編小説、「城」「審判」「失踪者」の登場人物頭文字「K」さんたちと作者のK(カフカ)さんを話に織り交ぜながら、今回の創造者K(ケラリーノ)さんが紡ぎだした現代におけるーそしてそれは普遍としていつの世にもあるー不条理で様々なことが決して思い通りにはならない、それでもってそれだからこそ存在し続ける意味があるという世の中の真実を語った、骨太な内容をかる〜〜〜く、スタイリッシュに仕上げた職人芸の芝居でした。

つづく。。

そしてつづいて、また観てきた(10/8)。台風一過が通り過ぎた夜に。

でもって、やっぱり傑作だった。

カフカが描く不条理な世の中の仕組みを、見事なまでに今日の日本と繋ぎ合わせていた。
つまるところ、物事全てがとても不条理で、でもってその不条理をはからずも生産している要因がとっても個人的なエゴやら、人の見栄やら、と〜〜〜〜っても利己的な理由から端を発していたりする、、そんな世の中のからくりを見せてくれる。
カフカが描いたところの多くのこの世の謎、どうにもならない仕組みを現在とリンクさせて目の前に示してくれた、そんな観れば観るほどスッキリする、なるほど!!!な内容。

間違いなく傑作です。


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2009年9月28日 (月)

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東京芸術劇場の若手支援プログラムの第一弾、ハイバイの「て」、プレビュー公演を観る。

昨年6月に初演、好評を博した舞台の再演なのだが、これが出色の出来で、忘れがたい舞台だった。

一家の絶対なる家長、父のワンマンと暴力により崩壊した家族が数年を経て祖母のボケをきっかけに再会の機会を設けるが、結局のところそれぞれがさらに傷つけ合い、自己嫌悪に陥り、家族の和解など無駄な努力とまたもやバラバラになり、最後にはその祖母の葬式でも自己丸出しの人間の性をみせながらみんなで出棺するという芝居。

それらをシニカルでシュールな笑いで埋め尽くしながら、最大限に効率的な演出により、一見ドラマ性のない日常の一コマを、見事に計算された演出ー時間をずらして場面を後戻りさせたり、登場人物のデフォルメをしたりーにより、幾重ものレイヤーのある人間ドラマ、さらには社会ドラマにまで昇華させた傑作。

様々なところに複数の視点による的確な社会批判が盛り込まれ、深読みしてみたくさせる劇作。

それぞれにボケてしまった祖母に心を寄せながら、一方では自我を丸出しにして自分の人生を生きる、所詮はそれが人間であると気づかされる!
家族というのが、実のところ一番身近な他の人との無理矢理な集団関係なのだな、と気づかされる!
その上、血のつながった家族という不確かにして確固たるくくりの前で、お互いのエゴが否応無しにむき出しにされる危険性を多くはらんだ関係であると示してくれる。

お互いに知っているつもりでいて、その実、祖母の皺くちゃな手に刻まれた彼女の真実、歴史を知っているのか?
やさしい微笑みに隠された母の心の奥を、彼女の実態を、知っているのか?

そんな様々な問題提起を投げかけながら、大爆笑のステージは疾走する。


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ネジと紙幣

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近松門左衛門の歌舞伎・浄瑠璃戯曲「女殺油地獄」を倉持裕が現代版にリメイクした芝居「ネジと紙幣」を天王洲アイルの銀河劇場にて観劇。

これが、お見事なコンテンポラリーへの変換で、古典ベースからの改編という作り方に若手演劇人の活路を見いだせそうな好結果を出していた(数ヶ月前の前川知大による小泉八雲ベースの「奇ッ怪」も成功していたし、これしばらく流行りそう)。

主人公のドラ息子・与兵衛=今回の現代版では兼坂行人(森山未來)と殺される女主人公・お吉=照内桃子(ともさかりえ)との関係性が希薄で、だからこそ主人公の非情な正確が際立つという内容なのだが、今回の現代版では二人の間にかなり長くて深い幼なじみという間柄があり、随所で幼なじみ以上の感情もちらつく関係として描かれている。
そんな最後の理解者でもある幼なじみの桃子を殺してしまう行人の行動に、現代の若者の弱さ、短絡的な思考回路、またどうしようもない貧困と金が全てを牛耳る社会という、それこそ現代社会で起きている実際の事件の背景がしっかり組み込まれていて、今を語る芝居として、底知れぬ絶望感を含んだ平成の芝居として完結している。

全体としてはかなりシンプルな筋立てなのだが、それにちょこちょこと肉付けした部分ー主に登場人物同士の関係を物語るエピソードーが芝居がボディーブローのように効いてきて、最後には圧倒的な劇世界を成している。

とことんイヤでどこまでもダメな男の主人公、そんな主人公に振り回されながらもそれぞれの生活に精一杯で余裕の無い回りの家族やら知人の人々。それを作り出している、ぎりぎりの社会状況、とどこを見回してみても、哀しいかな今の日本というのが滲み出てきて、妙にずっしりくる芝居です。

こうゆう芝居、やっぱり下北沢だの新宿だのの若者が集まる小劇場でやるのが一番なんでしょうが、、ホリプロさんのお家事情で天王洲アイルの自社劇場ーそれも中〜大規模なーでの上演。それだけが若干ひっかかる公演でした。

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2009年9月27日 (日)

BUG

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燐光群プロデュース公演、昨年のトニー賞・ピューリッツァー賞受賞作家(「August: Osage Country」にて受賞)、アメリカ人、トレイシー・レッツによる04年初演作品「BUG」を下北沢スズナリで観る。

当初、主役の女性を美保純が演じるということで、チラシにも大きく彼女の顔写真が使われていたのだが、健康上の理由で開幕前にやむなく降板。代わりに、西山水木が演じるというハプニングが開幕のけっこう直前にあったにもかかわらず、西山さんは問題なく熱演&好演。

しかしながら、舞台を観ると、まず美保純を配役した意図も十二分に分るーやっぱりキャラがピッタンコだからーという、美保純でみたかったような、反面いやいや西山水木でかえって良かったとも言いたいような、、こればっかりは舞台がライブのものなので、何とも言えない、不思議なモヤモヤ状況あり。

で、前回のハイライフ同様、こちらもアメリカ合衆国の大部分を占める低所得・下層階級に属すると〜〜〜っても普通な人ー過去に夫からのドメスティックバイオレンスを経験し、今は慎ましやかにモーテルに住んでいる女主人公(西山水木)がある日、ひょんなことから知り合った(一見)真面目そうなもっとも害のなさそうな男(大西孝洋)に知らず知らずにジワジワと洗脳されて内側から壊れていくというお話。以前の夫の暴力が眼に見える形で彼女の身体の表側にその傷を残していた、その一方で今回の男は彼女の身体の内部ー能ーから浸食し彼女を完全に束縛し追いつめていく。

BUGというタイトルの訳として、その単語が意味するー小さな虫、ナンキンムシ、微生物ーという一つの意味が劇の話の核を示しながら、俗語の訳としての伝染病・コンピューターの故障・取り付かれること・キじるしなどの意味も示唆しているというなかなか賢い表題だ。

で、この細部まで計算しつくされた心理ゲーム劇が成立するかどうかの大きな鍵が、男が言い張るBUGの存在ー本当にBUGは放たれたのかどうか、男が主張するところの軍の裏工作というのが実在するのかどうか、という戯曲訳・演出の坂手氏がプログラムで語っているところの「ストーリーの構造的な仕掛け」にどれだけの信憑性を持たせられるか、というところに尽きると思う。

その、どちらだか分りかねるという仕掛けが上手く行けば、この心理劇が何倍もの魅力を持って受け入れられる、、、しかし、残念ながら役者陣の熱演がありながら、その点が成功していたとは言いがたし。


余談:

これだけ立て続けに舞台上でヤクを吸い続ける舞台を毎回見せられると、世界レベルでは麻薬問題というのはこうゆうレベルなんだな、と日本と世界の間の麻薬に関する意識の違いを実感する。(実際にどこまで麻薬が日常に浸透しているのかは知らないが)この夏、話題を独占した麻薬問題だけに、やっぱり麻薬に手を出してしまった人を非難するだけでは、この先の世界、近い未来の日本に対処していけないのでは?と感じてしまう。
基本的には外国では麻薬こそ自己責任論ーやるのも更正するのもその人次第ーという範疇にあるのだなと思う。


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ハイライフ

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流山児事務所の大ヒット作品の再・再々々演(もっとやっているのかな?とにかく01年の初演以降、国内外で既に4回ツアーを行っているらしい)「ハイライフ」を神楽坂シアターiwatoで観る。
マチネ公演だったので、家からぶらぶら歩いてみたら、結構すぐ着いたので、次回からはここの劇場へは歩いていこうと思った。

カナダ人戯曲家、リー・マクドウーガル作によるドジでオバカな男4人チンピラ、ジャンキーの一攫千金夢ものがたり。ーどう考えても大金獲得は夢のまた夢というおそまつな計画なので、その作戦が成功するかどうかというよりも、ジャンキーたちがいかにしてそのどん底生活をどうどう巡りしているか、というそのドン詰まり人生に話の焦点があるー

今回は5回目の上演であるうえにカナダ、マカオ、台湾の海外ツアーを終えてからの東京凱旋公演ということで、余裕の舞台。
とはいえ、水しぶき飛ぶバイオレンスあり、ドラッグ(モルヒネ)はバンバン打ちまくり、タバコの煙が舞台を覆い尽くし(ちなみに、昨今の健康への配慮からカナダでタバコモクモクのステージが問題となり、それ以降ステージ上では健康に害の無い疑似タバコを使っているということ。そのことを上演前に告知していた。そうゆう時代なんですね〜。劇中ではキャラクターがドラッグ中毒なのに、ね〜)赤ペンキ(ケチャップ?)の血がドバ〜〜〜〜っと、血の海をつくっているというハードボイルドコメディーなので、余裕に裏付けられながら舞台上では必要不可欠な緊張感がつねにキープされていた。

3方を客席に囲まれたキャットウォーク形式の縦長舞台の四方の角には4人の登場人物がはけた時に待機するための簡易ベッドが置かれ、舞台脇から即座に出たり入ったりする分、舞台上のスピード感がまったく落ちない演出となっている。

タランティーノばりの胡散臭くて、それでいて可笑しくてクールな翻とその翻を最大限に活かす演出。
やっぱり5回目の上演を迎えるだけある評判に偽り無しの良く出来た舞台。
それでもって、4人の役者が、その好評を受けてさらに将来へ続けていくほどの勢いで好演していた。

これまでに、数人のキャストチェンジはあったということだが、今回のチーム、完全にイカレているキじるしヤクザのバグ=塩野谷正幸さんはいつもながらの安定感で舞台を引き締め、そんな中、今回特に天然オバカな愛されキャラのドニー、保村大和さんが大いにはじけて輝いておりました。客席からの視線も独り占めしていた感あり。

しかしながら、この実力派俳優陣によるオリジナルバージョン(と呼ばれていた)は今回で、封印し、若手役者によってこれからはこの看板プログラムを上演していくとのこと。その続け方は良いんではないでしょうかね〜。とっても。
今回の東京公演ではこちらのアナザーバージョンの上演回もあり、そちらも見比べてみればよかったのだが、行けずに残念。
ま、近々の再演にまた期待することにしておこう。

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コンドルズ Nine Lives

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コンドルズ、秋のツアーNine Livesへ行ってきました。

今回はめずらしく(初めてなのかな?)、新大久保のグローブ座にて上演。
ここの劇場、英国劇場スタイルの間取りが小振りで縦に高い小屋なので、いつも上演しているシアター・アップルとかサンシャイン劇場とかの横はばがあるゆるい傾斜の中劇場とはちょっと勝手が違うかんじ。

小屋の中の密閉感、閉塞感が高く、見世物小屋的な外界からは遮断されたようなー一歩外を出たら、東京のアジアンワールドマーケット新大久保ですからね〜ー一体感が得られるのだが、コンドルズのいつもの舞台構成からしたら、通常使っていた劇場の方がエンターテイメント的もりあがり、横はば一杯に笑いが連鎖するグルーブ感は、そちらの方が得られるのかも。

いずれにせよ、やっぱりコンドルズは癒される。
ゆるいとかの癒しではなく、心が浄化されるような、、、癒し。こんなに純粋にステージを楽しむことに心血そそいている人たちがいるのかと思うと、シニカルな舞台とか自己チューな舞台なんかを観ている日常に、コンドルズのステージを年に何回かはさむと、心が癒されて、前向きになる。

今回はオクダさんと橋爪さん(アンコールに顔をみせずだったので、ちょっと心配。。大丈夫でしょうか?)の凸凹コンビに眼が釘付け。

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2009年9月17日 (木)

中国の不思議な役人

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PARCO劇場にて、寺山修司作「中国の不思議な役人」を観る。
1977年にPARCO劇場で寺山率いいる天井桟敷が上演して以来、32年ぶりの上演なのだそうだ。

77年の渋谷パルコ(当時は西武劇場)と09年のPARCOとが明らかに違うように32年という時の経過がこの芝居にもたらす意味合いに大きな差異をつくりあげてしまったようだ。

32年前の西武劇場という場所はおそらく若者文化の中心地で、実験的で前衛的な演劇を進んで上演していたところなのだろうが、今の渋谷は、おそらくその対局にあるような、東京に来たら渋谷に行くというようなマスで最も一般的な場所に変わってしまい、毒気も冒険もそこには無くなってしまったように見える。

で、今回の「中国の不思議な役人」に関しても、かなり上手く処理していたとは言え、チーム全体としては良く出た部分とそうでない部分とがまだらになっているかなという感想。

オペラ歌手が歌う音階がビミョウにずれた「通りゃんせ」、また大駱駝艦の舞踏ダンサー二人の肉体の存在感、そしてマイムで演じる小野寺修二、怪しさ全開の春海四方、と何と言ってもダントツ怪しすぎる平幹二郎。。。ライブ演奏。。と随所におっと思わせる役者を配しておきながら、一方でアニメ声で、今ひとつ自分を壊しきれない主人公の少女とマネキンのような女優陣、彼らがドロドロに混じりあわないと一つの世界を作り上げることは難しいと思うのだが、そこまで俳優達がこの芝居にコミットしているようには見えなかった。

寺山修司の芝居があまりにも完成度が高いために、寺山戯曲の上演というと、天井桟敷カラーにどこまで近づけられるかを競い合うような上演舞台が多い中、(作家が演出家をかねる場合が多い日本の演劇では、この傾向が強く、多くの人を魅了した野田秀樹の作品でも他の劇団が全く違う演出方法で上演することは稀。ーとはいえ、つい最近ミュージカル版「贋作・罪と罰」ー天翔ける風にーが上演されたばかりで、こう言うのもなんですが、、、)その点では、善くも悪くも、白井晃版という演出家のカラーが出ていたように思う。しかしながら、多少綺麗すぎて、お行儀が良すぎて、物足りなさは感じた。
少なくとも、驚くような見せ物芝居。。。というテイストでは無かった。

それにしても、寺山戯曲、なかなか奥が深いです。
この深い戯曲をまったく違った手法で見せてくれる人なんて現れないでしょうかね?観てみたいのですが。

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2009年9月16日 (水)

青木さん家の奥さん(青年団プロジェクト)

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青年団プロジェクト公演「青木さん家の奥さん」をアゴラ劇場で観る。

今回、青年団+南河内万歳一座の共同企画ということで、南河内。。の内藤裕敬作の芝居を青年団の平田オリザ氏が演出、青年団の役者陣が演じるという舞台。

(その逆で平田氏の代表作、「S高原から」を内藤氏の演出でという舞台もあったのだがこちらは夏休み中だったために見逃している)

パンフによると飲み屋での冗談からでた企画ー「平田くんが静かな「青木さん家の奥さん」をやって、俺(内藤)がうるさい「東京ノート」でもやるか?」という雑談ーから端を発し実演までこぎつけたという舞台らしい。

企画自体、とっても面白いのだが、残念なことにこの演劇版・異種格闘技は、今回の舞台に関してはあまり良い結果をだせたとは言いがたい。

本家の舞台ー南河内版「青木さん。。」ーを観た事が無いので、比べようがないのだが、今回の舞台に関しては空回りしてそのまま着地できずに最後までというのが、感想。

「おかしさ」がどうにもこうにも空回り。
関西と関東の笑いの違い、、なんていうのも関係してくるのかこないのか、役者たちからも湧き出る爆笑エネルギーどころか、冷や汗が流れるような、、なんともさぶ〜〜〜いものになってしまっていた。

異種でも組み合わせてみて、意外としっくりいっちゃうものと、やっぱり相反するものってあるのでしょうか?

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コースト・オブ・ユートピア

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今秋、一番の話題作、通しで9時間強の三部作「コースト・オブ・ユートピア」を日曜日の昼間から夜にかけて渋谷のコクーンにてぶっ通しで観劇。

あまりにもすごい(crown(*≧m≦*))すばらしい舞台だったので、後日、さらにレポートをするとして、今日はまず、そのスゲ〜〜〜ってことだけ伝えておきます。

休憩時間を挟んで、12時間超えの観劇ということで、尻込みする方もいらっしゃるかもしれませんが、いやいやなんの、多少のお尻の痛みなど吹っ飛んでしまうほどの魅力に溢れた舞台でした。
ちなみに、私の見終わった時の感想が、「出来ることなら、明日もここに来て、再度観劇したい!!」でしたから。マジ。

だって、ちょっと思い出して下さいよ。
面白い本だったら寝るのも忘れて読みふけるでしょ?よく出来た映画だったらビデオ屋からまとめて借りてきて夜中中観ちゃったりするでしょ?それも時間も忘れて。
若かりし頃でも、徹夜というものがまず出来なかった私でさえ、「ツインピークス」を夜通し見続けた、そんな経験はありますよ。

それと同じで、いや、生で行われている分、さらに、これハマります。でもって、ますます眼が冴えます。

革命前夜のロシアの知識層の人々の話ということで、難しく思われがちですが、作者のストッパードが言うようにロシアのことなんか知らなくても前々大丈夫!かなり人間味あふれた、そういう意味では下世話でもある`ドラマ`なので、純粋に理屈無しにおもしろい演劇!!として堪能できます。ぜったいに。

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吾妻橋ダンスクロッシング(11日)

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浅草のアサヒビール本社に隣接する、アサヒ・アートスクエアで週末にかけて開催されたCutting-edgeなパフォーマンスセレクション、「吾妻橋ダンスクロッシング」へ。

期待通り、いや、いやそれ以上にホットな現場でありました。

ダンスクロッシングとあるように、ダンスパフォーマンスを中心に、アートあり、演劇あり、そしてもちろんダンス、ダンスコラボとカラフルな出演者たちによるー飴屋法水、チェルフィッチュ、Line京急、鉄割アルバトロスケット、Chim↑Pom、contact Gonzo、ほうほう堂、ハイテク・ボクデス、いとうせいこう+康本雅子、快快(faifai)ーそれぞれにオリジナリティーあふれるハイクオリティーなパフォーマンスが展開され大満足の3時間。

会場は超満員の熱気でつつまれていたー若者たちは面白いイベントには目ざとい!ー。
以前、シアタートラムでの「奇ッ怪」上演の回にも書いたことだが、不景気などなどのあおりを受け、演劇界全般の停滞ムードがささやかれる中、質の高いもの、面白い舞台にはいつの時代にも期待に眼をぎらつかせた人々がわんさか集まってくるものです。それほどの力がパフォーマンスにはあるのです。

で、まさに、そんな眼を見開いた観客たちが、ここには沢山集まっておりました。

contact Gonzoの危ない格闘パフォーマンスに眼をみはり、チェルフィッチュの不思議モードに浸っていると、次から次へと面白いステージが続いていくわけですが、そんな中、終盤パフォーマンスの2組、いとうせいこう+康本雅子と飴屋法水の多人種パフォーマーによる舞台を迎え、かっちりと締めくくってくれました。

私としては、何と言ってもいとうせいこう+康本雅子、これがど真ん中ストライク。
いとうせいこうが力強い声で規則的なリズムにのりアジる言葉ー9/11で世界が変わったなんてアメリカ煽動のウソに騙されるな。世界はまったく変わってなんかいない。錯覚から眼をさませ!ーと語る姿に拳を振り上げたくなった。(感覚がここらへんなんだな〜)
今や、ロックフェスとか言っても、ミュージシャンにやじったり、怒鳴ったりなんて無いんだろうな〜〜。

飴屋氏の先月上演した「3人いる!」に参加した国籍様々なパフォーマーたちによる「顔に味噌」。
グローバルと言われる21世紀にあっての個々のアイデンティテイ、人ひとりひとりを丁寧に取り上げる、一見ごちゃまぜのようでいて、全体像がそのなかにくっきり、はっきりとテーマ性をもったパフォーマンスも流石!の感。(丸瀬顕太郎、再見!!あなたは何者なんですかね〜?)


会場でビールが飲めるのもGOOOOOOOOOOD!!

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2009年9月11日 (金)

ワルシャワの鼻

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ーーーまたもや「芝居漬け生活」に入りますーーーー

世田谷パブリックシアターにて、明石家さんま主演の「ワルシャワの鼻」を観る。

いや〜〜〜〜、これが、これが、意外と言ってしまうと失礼ですが、変な先入観は危険という良い例で、大満足の舞台で心から拍手をさせていただきました。

どこからどこまでも「さんま」の「さんま」による「さんま」の為の舞台に徹底した点で焦点が定まり、舞台にぶれが無かった。その結果、お笑いだか芝居だかというありがちな中途半端さが消え、そのオリジナルなさんま舞台を満喫することが出来たということが大いなる勝因。

舞台上では度々導入されるお笑いの時間でさんま師匠の芸が光り、一方では、生瀬勝久がさんまに当てて、あて書きしたキャラクターを大阪を舞台にした話の中でさんまが生き生きと演じ、お芝居の筋を成していく。3時間超えの大作ながらずっと舞台に眼が釘付けでした。

役者としてのさんまさん、最初出て来た時に声の出方が他の舞台役者さんとは歴然として違っていて、ちょっと不安になりかけたのだが、すかさず朗々と台詞を喋る吉田鋼太郎さんに対して「なんや、その腹式呼吸での喋りは」とつっこみを入れてその ハンディを早々とクリアー。ーこれはアドリブなんですかね〜〜?それとも生瀬さんの作戦??
その後は独特のかすれ声もまったく気にならず、かえって個性的な魅力を加え最後まで主役を堂々と演じきっていた。台詞の間なんて、絶品でした。

お話のいたるところにさんまさんを意識した仕掛けが組み込まれていてー例えば、実生活と同じように年頃のかわいいひとり娘がいる。また、仕事場のちょっとダメンズな子分たちがさんまを慕っている。などーさんまの存在がこの舞台を作る全ての核となっていて、中年の酸いも甘いもという年頃のさんまの魅力全開という、ま、本当に上手く出来た舞台でした。


もちろん脇を固める役者陣の好演、どこの場所にもなる回り舞台も、大きくこの舞台の成功に貢献しておりました。

追記
「ワルシャワの鼻」というタイトルからして、とってもセンスが良い。このタイトルだけでも、この芝居の成功が占えるというもの。

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2009年8月28日 (金)

304(8/27)

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昼間の前川氏と同世代の劇作家・演出家、もう一人の現代の演劇界の寵児、蓬莱竜太氏作「304」の初日(初日とは知らずに観劇)を池袋あうるすぽっとで観る。

蓬莱氏所属の劇団、モダンスイマーズが初期の04年に番外公演として上演したものを今回は茅野イサム氏が演出した作品。
(ちなみに、モダンスイマーズの戯曲(蓬莱氏筆)はさまざまなパターンでの再演回数が多いようである。資源は有効に使った方が良いと思うので、現代戯曲でも再演おおいに結構!どんどんやってほしい。)

今日は昼、夜と社会から落ちこぼれた若者達(若干年齢に違いはあるものの)の救いの無い社会を描いた芝居を観る事になったがー当然と言えば、当然な成り行きなのだがーこちら、夜の部「304」は、こじんまりとした座組でさらにもっと狭い、それも誰も気に留めないような裏社会の話であったのだが、いやいや、なかなか、こちらも面白かった。

こちらの方は、若者単体の孤独と、現在の社会の現実(資本絶対主義)、さらにはそんな世の中でも生きていかなくてはならない世代の覚悟が描かれていて、やっぱり、芝居は何と言っても、「今」を観るべきと感じた一日の終わりでありました。

bus帰り道、直線距離の交通手段として一番早そうなバスに乗って帰ろうと試みた(前にも書いたかもしれないが、私バスフリークなもので、それもあり)が、夜間の運行は極端に少なく、結局テクテクと歩いて帰るハメに。素直に電車に乗ればよかった。。。

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狭き門より入れ(8/27)

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パルコ劇場で前川知大、作・演出、佐々木蔵之介率いる演劇ユニット「チーム申」の第三回公演、「狭き門より入れ」を観る。

これが、「2009年の夏、今観たい舞台ナンバー1」!
「今」を最も適した形で切り取り、舞台にのせた、必見の舞台だった。

こんな奇跡の舞台に出会うことは、それこそ滅多にはないのだが、その勝因の一番の功績は何と言っても戯曲にあるだろう。

ー若干、ネタバレー
あと3日後に世界は滅亡する、が、その時点で世の中がまったく消えてしまうのではなく、あと3年間の執行猶予を残した今の世の中のその後の世界に残るのか、それとも、これまでの悪い点を改良した(と思われる)新しい世界へ門をくぐって移動するのか?今の世のご多分にもれず、人生に上手くいかず、厭世気分いっぱいだった、主人公・天野(佐々木蔵之介)がいきなりそんなとんでもない人生の岐路に立たされる。自分の人生を振り返り、家族の思いに考えを巡らせ、天野は自分の人生にけじめをつける。


まさに、破天荒な地球の将来を揶揄したフィクションストーリーでありながら、随所随所に語られる、今を生きる人々(特に今を生きる日本の人々)への直球勝負の問いかけ、また、主人公が発見する人生の真実。まずは、その台詞がズンズンと心に響いてきて、劇作の中に引き込まれる。
何気ないような問いかけが、普遍の真理を言い当てている。

でもって、最初から最後まで、そのとんでもないSFストーリーを肉付けするディテール、キャラクターの設定、エピソード数々などが細部にまで、現在、それも最先端の今日の日本の状況を反映していて、芝居に絶対必要な説得力を持たせている。

さらには、今回のキャスティングが絶妙で、壮大なスケールのこの社会劇をしっかりと地に足がついた作品へと仕上げている。

もう1回、いや何回かは観てみたいものだが、残念。。。チケットは完売らしい。

戯曲を手に入れて読んでみたい。傑作です。

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ザ・ダイバー

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池袋、東京芸術劇場・小ホール1で野田秀樹作・演出・出演の「ザ・ダイバー」を観る。

演劇ファンには周知の事実だが、本作品は最初、英語で書かれロンドンにて英国人俳優と野田(全編英語で演じる)のキャストで上演された芝居の、日本語訳(日本人である野田氏がもともと書いているので不思議な感じがするが、これが、ややこしいことに日本語への翻訳過程を経た戯曲であり、実際、英文学者の河合祥一郎氏が翻訳作業に関わっていたりする)され、日本人の役者により演じられる日本語バージョン。

能楽の「海女(ダイバー)」と11世紀に書かれた世界最古の小説、「源氏物語ー葵上ー」から抽出した話を題材にし、人間の心が発する強い想い、人の業ー普段は隠れている闇の部分ー嫉妬の念、子孫に対する永劫なる母性の念ーを現代女性の一犯罪のなかに見いだし、千年変わらぬ人の心のあり方を示した作品。、ということにでもなるのだろうか。

まず、英語版と日本語版の比較、と言ってもそう単純に比べる事もできないのだが、気づいた点を書いておく;

*まずは役者陣

ロンドン版のキャサリン・ハンターの精神分裂、意志薄弱、弱い立場の女性の内側への逃避と破綻、中山ユミも素晴らしかったが今回の大竹しのぶの思い込みの激しい女、まさに狂気からの自滅型の中山ユミも素晴らしかった。
狂った女の演技からしたら、大竹バージョンの方が物の怪の憑依度の方が高かったかも。。反面、その女ユミがなぜにそこまで破綻してしまったのか、なぜ心を病んでしまったのか、この芝居に至るまでの人格形成の説明はその神経の細さを垣間見せたキャサリン版の方が納得できる節もある。

で、今回の日本版の役者陣ー(野田さん自身は同じ役なのでこの場合対象としないとして)が、そのチームとしてのアンサンブルがとても良く、その点からいくとロンドンバージョンを上回っているとも言える結果を出している。
特に、ロンドンバージョンではいまひとつキャラが分りにくかった、というか時代がかって嘘くさかった源氏、の北村有希哉の存在感が今回の上演で非常にプラスに働いていた。

*ロンドンバージョンが日本で上演された際に、しばしば言われたこととして、「英国人向けに能をアレンジした脚本!?」という声。そして、ロンドンでこの芝居が上演された際に驚くほど素直に浮かび上がった「言わんとすることがわれわれには分らない。」という意見。

どちらの感想からも、聞こえてくるのは「何だかわからない?」というニュアンス。

野田さん自身は英国版の日本での上演の際に「一義的にならないのが演劇の面白さ。わかりやすいことが大好きな国になってしまった日本で、どう受けとめられるか楽しみ」とコメントしている。

そして、確かに、1時間半ほどの凝縮された芝居の中には、野田さん自身が指摘するような様々な問題定義が組み込まれている。
小さなところで言えば、日本の理不尽な、そしてかなり野蛮な警察の権威横行の一端から、今まさに日本で起こっているマスコミの野次馬的視線への反省、それと人々の無関心さとそれに伴う一元的な正義の捉え方、そして行き着くところとして一人の人間の存在の重さ、その複雑さ。

これらのスパイスが所々でチラチラ見え隠れするのだが、いかんせん、話の繋ぎ合わせ(現代の放火事件と源氏の葵の上、そして能の海女)の方に時間を費やしてしまい、それで「言いたい事は何?」と最後に考えた時に、女の三面記事ドラマという印象に陥りかねない。
ラッキーにも、何回も観れるような環境にあれば、観れば観るほど、そしていろいろと調べれば調べるほどに「なるほどね!」ということにもなるのかもしれないが、1回の観劇で、それほどまでに堪能できるのかな??というのは、正直、疑問の残るところ。
打ち上げ花火のような後に何も残らないエンターテイメントが良いとは言わないまでも、夢の遊眠社の芝居(はっきり言って、こちらも一度見ただけでは何が何だか分らないものが多かった。。。が、そのもやもや自体に強大な魅力があり、その次の日も、同じものを観たいと思わせる、そして分ってきてからも、また観たいと思わせる力があった)のような、この娯楽が溢れているご時世にそこまでのインパクトがあるのかどうか、、、、だからと言って、決して昔へ回帰して下さいと言っているわけでは無いので、誤解のないよう、、、娯楽性と社会性、それに英国(英語)と日本(語)、万人か少数か、、今回の芝居のつくり同様、様々な意気込みが混在し、消化不良、発展途上という感がどうしても残る。

あと、一カ所、どうしても気分が悪くなる台詞があるのですが、、

「生きた子供を平気でお腹から掻きだすような女なのよ。あんたは。」(You are good for nothing, bitch, But scraping babies from your womb.)

いくら憎い浮気相手の女に対してでも、子供を生んだ事のある女の人がこうゆうこと言うかな〜〜?
そんなこと言うなら、人間辞めた方がいいんじゃない?っていうほど醜く強い台詞。

あと、絞首刑の解説も、(そんな野蛮な刑がある事自体、つくづく気分を害す)、それについて言及するんだったら、他でやってほしかったかな。


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2009年8月26日 (水)

挑発スタア

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井出茂太率いるイデビアン・クルーの「挑発スタア」をにしすがも創造舎(もと体育館)の特設ステージで観る。

ちなみに、今作品をもってイデビアン・クルーは”産休”に入るとのことで、しばらくはカンパニーとしての活動を休止して個人ベースで活動していくとのこと。

まあ、カンパニーとして団体で動いていると何かと計画的にすすめていかなくてはならないから、待望されているにもかかわらず(売れていないなら問題ないんだろうけど)なんにも言わずに何年間も新作公演をうたないと言う訳にもいかないでしょうから、サザンの休止みたいなもんなんでしょうね。

ここらで、ちょっと一息入れて、方向性を考えたり、外部のいろいろな人と仕事をしたり、、個人的に実際に休暇期間をとってみたり、、、といろいろ出来るので、一度カンパニーのくくりを取ったんでしょう。。良い事じゃないでしょうか?それでないと、はっと気がつくと数年先までまだ出来ていない舞台の予定で埋まっているなんてこともあり得るからね〜。


で、舞台ですが、産休前の記念公演にふさわしく、華があり、格好良くて、キレがあり、笑いあり、心が大いに高揚する、奇麗で楽しさ満載の舞台でした。
なんだか、久しぶりにスキップしながら帰りたくなるような爽快感!

体育館というスペースを十分に意識した、縦長テーブルを舞台の端から端まで配した舞台セット(観客はその舞台空間を挟んで、体育館での競技観戦のようにたて幅の長いベンチシートで両側から観劇)におちゃめ部分の能舞台もどき、も素晴らしかった。


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あの世(8/22)

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渋谷で「コースト・オブ・ユートピア」のレクチャー(亀山郁夫氏の作品解説と作品の時代背景など)を聞いた後、駒場アゴラで捩子ぴじん(ねじ ぴじん)氏のソロダンス「あの世」を観る。

芝居上演時には観客席となっているひな壇席を排除し、平場のステージ部分とそれを車座に囲む形の観客席、天井からは抽象的なモビールのオブジェが垂れ下がり、それをよけながら入り口と対面の席に着く。

舞台が始まる地階から男がひとり登場し、ステージ部分に放置されていた50〜60cmほどの大きさ氷の塊を製氷売りの方が使用するようなはさみ道具を使って、ズルズルと溶けた水の線を引きずりながら移動、時たま止まっては氷をのこぎりで割ろうとしたりしている。
そのうちにダンサーのぴじんさんが超ビキニの黒パンツ姿で登場ーちなみにツルツルの坊主頭は大駱駝艦時代からのトレードマークなので、肌色の体+ビキニパンツというミニマリズムを極めたような衣装ー。
暗転を不規則に繰り返す中、ステージ脇のシンセサイザーから発信される音楽にあわせ、ソロダンスを展開。

とりたてて、ストーリーがあるわけではなく、流れてくる音楽に体をまかせながら、氷を斬る音とひきずる水のトレースと関わりながら緊張感のあるステージが進んでいく。
彼の身体が音に反応し、また観客に反応しながら、そこに在る条件ー熱、音、オブジェ、光ーを身体に取り入れながら、何かを作り出していこうとしているのを回りの観客が目撃しているようなステージ。

眼が離せず。

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RENT

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今回で5度目の来日公演にもかかわらず、今夏注目度ナンバー1のミュージカル、「RENT」を赤坂ACTシアターへ観に行く。

本拠地ブロードウェイでは昨年9月にロングランを終え、今回は特別なー12年前の主要キャストの二人が返り咲いてのキャスティングー世界最終ツアーということで、今日の膨大なる日本ミュージカル観客人口の礎を築いた作品とあり、その筋の方々の間では大フィーバーが起きているらしい。

ロンドンでの「オペラ座の怪人」が王道ミュージカルの頂点であると信じて疑わない、一昔前のミュージカルファンである私は、すっかりその後のミュージカルから遠ざかっていたものでー実際、90年代にロンドンにいて、その時期にあまり面白いミュージカルが出ていなかったもんで、すっかりミュージカルからストレートプレイへ、そしてコンテンポラリーダンスへと足先の方向が変わってしまったもんで、、、へへ、、どうもロンドンでも00年以降ここ数年は優れたミュージカルがどんどん作られているらしく、ミュージカルもチェックしなくては(あくまでもロンドンで)、と思ってはいたんですが、どんどん通う劇場のキャパが小さくなってきている今日このごろですー、このRENTフィーバーに関してはすっかり、抜け落ちておりました。

来日公演の他にも日本人キャストによる日本版公演なども何度も上演されている、とのことなので、こんなにも劇場通いをしながら、未だ一度も観た事が無かったというのに改めて我ながら驚かされます。
何だか、そのNYの貧乏な若者アーティストたちの友情と愛とかAIDS蔓延により命の尊さを知る、なんていうキーワード全てが、私をこの作品から永く遠ざけてきたのでしょう。

で、レントヘッド(このミュージカルにハマっている大ファンたちをこう呼ぶらしい)らしき、かわいらしい浴衣姿の女の子2人組のとなりの席で借りて来た猫のような気持ちで観劇。

始まる前から興奮気味のお隣のお二人のレントトーク(主に映画版と舞台版の違いについてマニアックに語っておられました。エラい)に耳をそばだてながら、開幕を待つ。

で、でっかい倉庫のようなACTシアターに作られたNYダウンタウンの安アパートセットで展開されたーこの劇場にはドンピシャの舞台セットでしたー若者群像劇「RENT」。さすがに長年ロングランを続けて来ただけあって、楽曲が良い。若干のテーマの古さはぬぐえないものの、借りて来た猫の私にも十分、いえそれ以上に楽しめるものでした。どうもありがとうございました。

このように純粋な希望が持てる良い時代でもあったよな〜〜〜と、今の小劇場などで見られる、ー希望なんて持てる訳ないじゃん、、でもそれが当たり前だから、そっから芝居をつくっていくよー的な屈折感は微塵も無く、でも、それが受け入れられる時代だったんだな〜としみじみ思いました。

それにしても、みんなで明るくドラッグ・ジャンキーの悲劇なんてものを歌い上げているのをみると、一方で連日マスコミを狂喜乱舞させている「のりぴー事件」を思い出さずにはいられません。

このミュージカルを観て、ジャンキーの人としての弱さ、悲劇を思った人は、のりぴーの`悲劇’についても考えてみよう。
彼女が(本人が望めばの話だが)長い将来ででも更正して戻って来れるような、そんな社会をつくっていこう。ー罪を犯した人が更正できないような社会であるならば、なぜに刑罰のシステムがあるのだろうか?ー

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2009年8月24日 (月)

斉藤幸子

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銀座、ル・テアトル劇場で鈴木聰のヒット作、河原雅彦の演出で斉藤由貴主演の「斉藤幸子」を観る。

ま〜〜〜〜、これが、何やかんや言って、つまるところ面白い!

かなりこじつけ感のある下町人情物語なのだが、それが悪いようには出ず、「芝居なんだから、これぐらいやってもらわないと!ね」と言いたくなるぐらい馬鹿げていて面白い!!

でもって、今回のキャスト陣もそれぞれに個性的で良い味を出していて、かなりクレイジーで面白かった。(2001年の初演は観ていないので何とも言えないのですが、ネットで舞台写真を観る限りでは、そちらの方がもっとリアリズム色の濃い、わが街の良い人話風。今はなき、新宿シアタートップスでの上演ということだったので、その違いも大いにあったと思われる。)

で、いきなり今回は中劇場での公演だったので、それにあわせてスケールアップ、と同時におバカ(これはとても良い意味で)なはじけ具合もスケールアップしていて、ありえない人々たちの共演が私のツボにすっかりはまりました。

御年にして、しっかり高校生を演じ、ダメンズならぬダメウーマンをかわいく成り立たせてしまう主役を筆頭に、一人テンポをずらしながらオロオロし続ける中山裕一郎(これ、彼のハマり役でしょう)に紙一重な人物を軽々とリアリティーをもって演じてしまう粟根まこと、そして何と言ってもすべての笑いの中心となり芝居をひきしめているきたろう。。その他、明星真由美に千葉雅子、などなど。。。あっぱれな座組でした。

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犀〜リノゼロス(8/18)

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舞踏家、笠井叡(あきら)率いる新ダンスカンパニー、Generisゲネリスの第一回公演「犀」を吉祥寺シアターにて観る。

白塗りのなか、若干の塗り残しをほどこしたー最初からこの肌色のこってるの部分があり、これは彼の今回の衣装なのでしょうー笠井が中心となり7パーツに分かれた構成のトリツカレダンスを展開。

ドイツの哲学者シュタイナーが提唱した身体表現法オイトリュトミーを体得したオイリュトミストなる人たち(ちなみに、この分野の第一人者が笠井叡だそうです)、男性4人を従えて踊るのですがグロくて攻撃的な中心ダンサー笠井に対して、脇の4人はあくまでもその対照的なものとして押さえた群舞をみせていた。
で、一つ気になったのが、4人という少人数でありながら、一人がつねに揃っていなかったこと。そうゆうものでは無いと言われそうだが、観ている方としては気になって仕方がなかった。

フィジカルダンスであると同時に体の奥底から湧き出てくる感情を露呈すること、観念を身体で表すことにトライしているようで、舞台が進んでいくにつれ、そのトリツカレ状態は熱を増していく。

最後には笠井の心にある憤怒を言葉を交えてみせてもらったようで、なかなか見応えのあるパフォーマンスだった。

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2009年8月23日 (日)

マリー・ド・ブランヴィリエ侯爵夫人(8/17)

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ひょんなことから、若手劇団Dull-Colored Popの新作オリジナル舞台「マリー・ド・ブランヴィリエ侯爵夫人」を新宿シアターモリエールにて観劇。

シアターモリエールでの上演だから、という訳でもないのでしょうが、17世紀フランスを舞台に繰り広げられる、上流貴族夫人が欲にかられて引き起こした猟奇的連続殺人事件のお話。

それにしても、何故にフランス17世紀?

この劇団、明治大学の演劇学科を卒業した谷賢一さん(現在27歳)が4年前に立ち上げた劇団で "重厚な悲劇からくだらないコメディ、ロック・ミュージカルや翻訳劇まで手掛け、演劇の可能性を隅々まで追求する欲張り劇団"(HPより)と様々なジャンルの芝居を創作しているらしい。
で、何故にフランス?という疑問に関してだが、谷さんが在学中にイギリス・ケント大学へ1年間演劇留学の経験があるということなので、そのあたり、洋物上演にも抵抗がなかったのかも、、プラス、意図的に様々なスタイルを試しているみたいなので、今回はフランスが舞台の長編ミステリーというところに行き着いたのかも。

実際、この侯爵夫人は実在した人物で、さんざん人を毒殺しお金を手にした後にー舞台にはなかったがー逃亡を続け、つかまった後は拷問され、絞首刑に処せられた人らしい。と、かなりお芝居向きな波瀾万丈な人生をおくられたご夫人で、さすがにスタート地点からしてショッキングなため、2時間を超えるドラマでも飽きることなく観る事が出来た。

衣装も今回の舞台用に作り上げたということで、若手劇団ながら贅沢な仕上がりとなっているー肩をかなり露にしたドレスが貴族の衣装としては若干違和感があったが、あれでは娼婦の衣装?!ーし、劇作・演出自体も最後までそつなく作り上げている。

通常、ベテランにしてもなかなか手をつけないであろう、貴族社会のフランスの話に果敢に挑戦し、まとめあげてしまっているところは賞賛に値するだろう。

だけど、なんだか、あまりにもそつなく、それなりのオチを付けて(こじんまり)まとまっているために、あえて一言、言わせてもらうと、もっと27歳が日本で考えるところの本音、社会に対しての声というのを騒音でも何でもよいので、聞かせてもらった方が、客席でワクワクできるかも、と。

ま、次回作とかでその面を見せてもらえるのかもしれませんが。

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フロッグとトード(8/17)

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池袋サンシャイン劇場で子ども向けミュージカル「フロッグとトード」を観る。
実は2年前に銀座の博品館劇場で初見し、とってもよく出来た作品で大いに楽しんだので、またもや足を運んだというわけ。
で、期待を裏切らず、大人でも十分どころか、十二分・十三分に、またもや楽しませてもらった。

マチネ回の鑑賞ということもあり、劇場は親子連れで大賑わい。こんなに将来の演劇愛好者予備軍がいるのかと思うと感慨もひとしおーマジにこの子たちにこの先も観劇文化が根付いてくれれば良いのですが。やっぱり学校でも演劇ードラマーの授業(年に一回の鑑賞会だけではなく)を取り入れるべきでしょうー。

休憩を入れて2時間を超える演目にもかかわらず、小さな子ども達も最後まで飽きる事無く、観劇していた様子。やっぱり質の高いものは、見る価値があるんだわね。

で、フロッグ=かえる君(石丸謙二郎)とトード=がま君(川平慈英)のお互いを思いやる♡ウォーミングな友情のお話であるのですが、これが、子ども向け芝居でありがちな、教訓じみた偽善ぽいものではなくて、、、それだからこそ、大人子ども関係なく舞台に釘付けとなるエンターテイメントとなっているのです。

そして、この成功舞台に大きく貢献しているのが、やはり何と言っても川平慈英の天然キャラ、プラス表現力豊かな演技。
登場から一瞬にして観客の心をわしづかみ!
単純なストーリーながら、何回でも繰り返し観たいと思うハイクオリティー舞台です。

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2009年8月22日 (土)

ドリアン・グレイの肖像

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世田パブリックで山本耕史の「ドリアン・グレイの肖像」を観る。

オスカー・ワイルドの代表傑作ながら小説ということもあり(戯曲ではなく)、日本ではありそうでいて、これがなかなか舞台化されていなかった作品。
でありながら、ワイルド好きが幸いしてか、これまでに4舞台作品を観る機会に恵まれている。
10年近く前になると思うが英国オックスフォード大学演劇協会(OUDS)による来日公演でまず初見、次いで04年にオール男性俳優劇団、Studio Lifeが紀伊国屋サザンシアターにて上演した舞台を観劇。で、昨年(08年)のエジンバラ演劇祭にてマシュー・ボーン版、現代の美しい男性セレブの悲劇というダンスによる舞台を観ていて、今回の舞台ということになる。

今回の舞台、話はワイルドの小説を素直に戯曲化していて特に指摘するような独自の解釈などは加えていないのだが、どうゆう訳かー気を抜いたところで舞台映えだのキャラ立てだの余計な舞台効果を狙ってしまったがためにー結果としてはワイルドの原作世界とはかなりかけ離れた地点に着地してしまった印象の舞台。

ボーンのダンス版は、原作からエッセンスを抽出してはいるが、今を生きるドリアン・グレイということでまったく違うものを創作しているのだが、そのワイルドの世界という点では、よっぽどこちらの方が原作に則していたように思う。
04年のStudio Lifeによる舞台は舞台装置も衣装も19世紀イングランドに設定し、今回の舞台同様、原作に忠実に、丁寧に上演していた。小説の舞台化ということもあり、演出家の上演意図がかなり色濃く反映される作品なのだが、Studio Life 版は美少年の絡んだミステリー調猟奇的事件という仕上がりになっていて、原作のような芸術論の域にまでは及んではいなかったものの、芝居として十分飽きずに面白く観れるものだった。

で、今回の舞台は、というと、演出家・スズカツ(鈴木勝秀)の長年やりたかった舞台というその思い入れがどうも逆に働いてしまったらしく、詰め込みすぎ、思い込みすぎで最後は、結局、まとまらなかったのかな?というなんとも残念な結果に。

まずは開幕までの場内音楽、19世紀の唯美主義の舞台に思いっきり能天気なアメリカンな曲スタンド・バイ・ミーはいかがなものか?しばらく、席で開幕を待つ間にすっかり気が削がれる、なんて不必要なマイナス効果が出てしまいかねないので、お気をつけいただきたい。だって、観客はその「ドリアン。。」を観るためにその時間、劇場へ足を運んでいるわけですから。一人の役者だの、シンガーのためにそこに来ているわけでは無いので。。

でもって、いよいよ開幕ライブのピアノ演奏(これは全編通して効果的に働いていた)で気分をもりあげ、廃頽のヨーロッパと思ったら、今度はアニメのコスプレかい?と思うようなロン毛で銀髪、安っぽいホストのようなソフトスーツの山本王子様がご登場。よっぽど、この時点で帰ったろうか?と思ったほどの驚きだった。

その他の登場人物がきちんと当時の貴族の装いをしているにもかかわらず、ドリアンだけがどっか異次元のアニメ世界の王子様???なんでこんな余計なことをしてしまったのか。意味不明。

回り舞台が多用される舞台装置も、その仕掛けには問題ないのだが、その回っている最中に起こっている事を様々な角度からみせるという狙いのために、無機質な鉄骨づくりの粗野なお屋敷ーたまには劇場としても使われるーが出現してしまい、豪華な絵画の額縁(ドリアンの肖像画が収められている)以外には貴族のお屋敷を連想させるにはあまりにもスカスカな印象のセット。観念的な心象をイメージしたセットがこの場合、効果的だったのかどうか?大いに疑問の残るところ。

で、その一人だけ浮きまくっているドリアンをず〜〜〜〜っと見続け、違和感を感じ続けていくうちに、何と言ってもこの舞台がドリアン・グレイ(山本耕史)を中心にすべてが回っているということに気がついた。だから、彼だけが異次元にいるのね〜とへんに納得する。
今回の舞台では、あくまでもドリアンが語り、思いつめ、自分で人生を切り開こうと苦悩する、、ドリアン・グレイという美青年の悲劇のお話。

ん??が、そこで、ちょいと待ってくれと思うのですが、題名「The Picture of Dorian Gray」に言い表されているように話の中心のドリアンはあくまでもストーリーの中の対象物、目的物なんじゃないの?という点。
若さゆえのおごり、それをもてはやす大人達・上流社会全体の無責任さ、そして自分自身を見失っていく毒された主人公、と、、こうなると、やはり設定、ストーリーを大幅に改訂しているとは言え、マシュー・ボーンの舞台の方が「ドリアン・グレイの肖像」を体感するのにはよっぽど適しているのかも。

これを機会に再度、原作を読み始めたところ。で、やっぱりところどころに皮肉たっぷりの真実が隠されていて、かなり面白い。
おススメです。

ちなみに今秋、英国で公開予定の映画予告を下記のリンクからチョロ見することが出来ます。

http://www.youtube.com/watch?v=dY93VUQSMo4&feature=player_embedded

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2009年8月16日 (日)

ぼくらは生れ変わった木の葉のように

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田原町の演劇集団円のアトリエにて清水邦夫の1972年発表戯曲「ぼくらは生れ変わった木の葉のように」を観る。

常にチェックしていきたい演出家の一人、阿部初美さんの演出ということもあり、お盆前の夏の盛りのある日、マチネ公演を観劇。

前述のように37年前に書かれた戯曲であるのだが、今いちど、この翻を考え直したいと考えている演劇人が多いようで、この公演のすぐ後にも9月に劇団青年座での上演が決定していてその舞台のチラシが今回の公演の配布物の中に入っていた。さらには、今年の6月にもア・ラ・プラスという劇団が同じ芝居を上演していたという記録も発見。こんなに集中した時期に同じ芝居が上演されるとは、なんとも面白い現象である。

で、さすがに多くの人が上演を望むだけあって、とても面白い内容で構成の戯曲だった。

60年代の学生運動、日本のユースムーブメントを背景に、反体制を叫び、変革を訴える芝居なのだが、いかに多くの日本人が現在の日本の変革を望んでいるか、、もしかしたらそれは望むという状況よりもさらに切迫した願いのようなものなのかもしれないと感じてしまう。

一市民の家に若者カップルが運転する車がつっこみ、壁を大破する。家を壊すほどの事故だったにも関わらず、そこに住む中年夫婦とその妻の妹は警察に通報するどころかその予期せぬ無法者たちを歓迎、家に泊まらせて介抱し、面倒をみながら同居を続ける。ある晩はハムレットの台詞を朗読会を催し、それぞれに台詞を読ませる父親。自身が外界とのコミュニケーションを放棄し、家に閉じこもったきりの妹。そのねじれた家庭にありながら、問題意識に欠ける母親。

そんな病んだ家を表す舞台セットは初めから90度傾いている。

体制側に埋没した、もしくは体制のメタである家族、そんな不気味な寛容性をもつ家族に37年前の観客は懐疑の眼を向けたのであろうが、今の観客の視線は?
変革を熱く語る若者カップルに、違和感を覚える人たちの方が多いのかも。

そう考えると、多くの団塊の世代が執拗に自分たちの時代に起きたことを伝えようとする意味が分ってくるような気がする。怒れ若者達、叫べ若者達。と言いたいところなのであろうが(自分もどちらかというとその時代の人なので気持ちはよ〜〜〜く分ります)、やはり時は流れていて、同じことは繰り返せないという事実も認めなくてはいけないのでしょう。


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おしゃべり

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下北沢、本多劇場に隣接する小劇場楽園にてRising Tiptoeの新作舞台「おしゃべり」を観る。

先日、作・演出で劇団主催の宇吹萌(うすい めい)さんと私の友人が知り合いだったことが発覚し、その友人から今回の公演の情報をもらい、いっしょに観に行く事にしたのだが、このお芝居が大ヒットでした。

スペース中央にデンと鎮座する大きな柱が特徴の小劇場、楽園。地下の劇場へと降りていくとその柱を挟んで円いバーカウンターのような舞台セットと入退場の扉が二つあるメインの舞台スペースと柱の陰にひっそりと存在する個人部屋(そのインテリアから女の子の部屋らしい)のスペースが。

その2カ所がどのように使われるのか、興味がわく中、舞台の幕が開く。

一見、何の関わりもないように見える登場人物たちがそれぞれにどこかで繋がっていて、それぞれの世界では毎日変わらぬ、芯にある毒をパステルカラーで包み隠したような会話が繰り返されていて、、で、芝居が進むにつれて、そのゆがんだ毒のある部分が浮かび上がってきて一見平和にみえる平凡な庶民たちの膿みがにじみ出てくるという、非常に良く練り込まれたブラックコメディー。

パターン化されたシークエンスが暗転をはさんで繰り返されるのだが、そのパターンのズレて行く様子、また暗転時に照らし出される主人不在の小部屋スペース、性が逆転したー男優が団地の主婦連を演じるー世界に映し出されるクリティカルポイントの妙、そして言葉が現わす世の中の矛盾、どれをとっても緻密な計算のもと、劇世界における有効な効果を生み出していて、中身の濃い芝居体験だった。

現代社会への批評もあり、演劇という表現だからこそという舞台の醍醐味もあり、観客のイマジネーションを大いに刺激するという、まさに芝居ならではの面白さを味あわせてくれた今作。次回作にも大いに期待するところです。

ちなみに、劇団HPによると女主人が現れる事なく、最後には主人の死によって片付けられた小部屋スペースは故・飯島愛さんの孤独死をイメージしているらしい。です。

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幕末のドリ府

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友人のお誘いを受け、若手劇団、演劇配合サプリメンツの「幕末のドリ府」を中野ザ・ポケットへ観に行く。

それにしても、なんで若手劇団には幕末もの、龍馬と西郷と新撰組の芝居がこうも多いのでしょうか?
ま、誰もが興味がある題材で、歴史上の実在人物とは言え、それぞれにドラマチックなキャラがたち、プラス今日からの架空のエッセンスも加えられるという美味しい要素ばかりが詰まっているからなのでしょうが、、それにしても、もう龍馬も勝海舟も、、そこそそ楽しめるとはいえ食傷感あり。

話としては、適度に満足するボリュームはあっても、目から鱗のような新発見は見つけにくい。
それだったら、やっぱり自ら思うところを言葉にして発信してもらったものを観たい気がする。

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ブラスト

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東京フォーラムでマーチングバンド、エンターテイメント・パーカッション演奏、そしてそれにあわせたマーチングパフォーマンスを繰り広げるエンターテイメント公演「ブラスト」を観る。

申し訳ないが、It was not my cup of tea at all! -全然私の趣味ではありませんでした!ーで、ノーコメント。

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ドリトル先生と動物たち

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夏休み企画の一つ、子供向けの芝居「ドリトル先生と動物たち」をもと学校の体育館であるにしすがも創造舎劇場で観る。

最終公演日ということもあってか、会場には入りきれないほどの親子連れが。こんなに需要があるんだったら、もっともっと夏休み子供劇場が盛んになっても良いのにな、と思いながら客席前方の桟敷席の子ども達と近い距離の席で観劇。

題名どおりのドリトル先生と動物たちー先生はこの動物達と話が出来るという設定ーのお話が、カラフルな衣装と手作り風のこれまた色とりどりの舞台装置の中で展開する。

子ども達も楽しんでいたようだし、これはこれで良いんじゃないの、と思いながら観たのだが、2つほど気になったことを書いておこう。

1 劇中、殺人をめぐっての裁判というのが一つの山場として設定されているのだが、今の栽培員制度開始のニュースを受けての設定なのかもしれないが、その判決に関して疑問が残る。原作者、そして翻訳者ありの芝居なので翻がそのようになっているのだろうけど、この芝居を観た子ども達に安易な、もしかしたらうがった判断材料を与えはしないか?と心配になった。
その判決シーンで陪審員として仮定された桟敷席の子ども達が罪か罪でないか?の判決札を上げる演出となっているのだが、流れからしたら子ども達の多くが決めた判決で正解ということになるのだろうが、もしも私がその一員だったら、反対へ票を入れていただろうと思うからだ。それほど人を裁くと言う事は難しい事なんだ、と、せっかく裁判のシーンがあるのであれば、その点を軽視してほしくは無いと感じた。

2 子ども向けの芝居で、子どもにあわせたレベルの芝居というのがあるのだろうか?
子ども向けに留意しなくてはいけない点はいろいろあるとは思うが、特別に“子ども向けというレベル”は無いのではないか?
大人が理解できることのたいていはその見せ方さえ工夫すれば、子どもにも理解できることが大半であろう。だったら、子ども用に内容を平易にすることも無いよね。

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牡丹燈籠

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シス・カンパニー、プロデュース、いのうえひでのり演出の「牡丹燈籠」をシアター・コクーンで観る。

この座組が吉とでるか凶とでるか?ドキドキ感とともに渋谷へ。
で、これがドンピシャの企画、そしてすばらしい出来の舞台だった。

芝居の場合、どれか一つの要素が適切ではなく、その為に全体の歯車が狂い失敗作として終わるケースも多々あるのだが、今回の場合はハコ、演出、役者のバランス、そして上演時期、、とすべての要素が上手くハマった感がある。

まずは、季節感が無くなりつつある今日に夏はお化け話で背筋に冷や汗を、という夏の風物詩の怪談話を上演してくれたことが○。でもって、いのうえ歌舞伎なる新ジャンルを開拓したいのうえさんの十八番とも言える大きな舞台を使っての大いに魅せるgood芝居演出がその効果をいかんなく発揮。
でもって、信頼出来る上手い舞台役者を配したー段田安則&伊藤蘭、そして千葉哲也&秋山菜津子ー役者サイドがそのプロの技で大いに楽しませてくれた。
特に蘭ちゃんのその堂々たる存在感、それでいて一人だけ頑張るのではなくチームとしてまとまった舞台をみせるその心配りにおおいに拍手。
これからも、様々な役で舞台に出てもらいたいものであります。

コクーンほどの大きな舞台を上手く使いこなす演出家の数が、それほど多くはない現状でいのうえさんのレギュラー登板あり、と感じました。彼にコクーンでいろいろな作風の芝居をやって欲しいものです。

細かいところで言うと、舞台経験の少ない瑛太、柴本幸が前半において主要パートを担うというこの芝居構成も結果を良い方向へ導いた原因の一端があるのかも。
舞台全部をひっぱり続けるのには体力・気力ともに無理があるかもしれないからね。
でも、八頭身のスターのお姿は、目の保養には十二分の効果あり、とも言えるからね。

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2009年8月15日 (土)

ハッシャバイ

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座・高円寺にて鴻上尚史氏率いる若手俳優による新劇団、虚構の劇団第4回公演「ハッシャバイ」を観る。
今作品、言わずと知れた鴻上氏の80年代代表作。当時、社会ブームを引き起こした若手演劇人による小劇場ムーブメントを牽引していた劇団の一つ、今や舞台にはかかせない役者陣、筧利夫・勝村政信・池田成志などなどを輩出した「第三舞台」が小劇場すごろくゲームの頂点に立った作品。

86年の初演時は会社のお局様のご機嫌をとりながら、朝からぴあへ電話をかけまくり(当時はネット予約ではなく、始発電車で売り場へと行き並ぶか、電話をひたすら架け続けるかという極めて分り易く公正なチケット争奪合戦が繰り広げられていた。野田秀樹率いる夢の遊眠社と第三舞台のチケットは特に入手困難で、何度会社をクビになりそうになったかーウソ嘘。。その頃はバブル期で会社もなんだか余裕があったのよね〜。だからそんなチケット取りも、暖かく見守ってくれるゆとりがあったんです。マジ)、友人とサンシャイン劇場へ観に行ったなんてことを思い出させてくれました。

のっけから、条件反射的に23年前の舞台が脳裏に蘇ってきて、芝居が進むにつれて、その記憶もだんだんはっきりしてきて、「あ〜〜〜、この役は大高さんでしょう。で、これは小須田さん。。ね〜〜。」なんて、役者さんの顔をダブらせちゃったりして。

そこで、我に返って、「これってどうよ?」って。何も思いでに浸りに来たわけでもないんだから、なんで昔を懐かしんじゃう訳??って。

どうも、その訳は上演方法、演出にあるようなのだが、23年経っているのにもかかわらず、演出がその23年前と変わらないんだな〜〜。時にはデジャヴュかと思うような、違う役者が演じているにもかかわらず役者のしゃべり方、表現の仕方さえ同じなんだな〜〜(だから、当時の役者の顔が浮かんできちゃうんでしょうね)。
23年前の戯曲を上演すること自体には何の文句もないし、鴻上さんが上演配布の「ごあいさつ」文に載せているように、今この芝居を上演する意味、今に通じる戯曲であるという主張も十分に説得力があるのですが、出来上がった舞台が、せっかく若い、当時のハッシャバイの舞台を知らない、役者たちが演じているのだから、09年版ハッシャバイをみせて欲しかった、という感想です。
彼ら(役者)もあまりにもお上手に、お手本通りに当時を再現してくれちゃってるもんで、逆に『それが君らの表現したいもんなんですか?』と問い返したくなりました。

初演時の上演が"新しいスタイルの若者演劇”と評価されていただけに、皮肉にも23年後、そのムーブメントが減速し消滅してしまった結果を見せられているようで、、、、複雑な気分に。

心象イメージを投影させた映像効果に関しては09年らしさを楽しませてもらったが、衣装も踊りも、、ちょっと`古さ’`バブル臭さ’がぬぐえなかった。


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2009年8月 8日 (土)

めんどなさいばん

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グローブ座へ行ったその夜に、今度は下北・スズナリで友人といっしょに楽塾12周年記念公演「めんどなさいばん」を観る。

北村想の新作書き下ろし、歌入りのお芝居で、結成12年目をむかえる中高年劇団、楽塾による裁判員制度を扱った芝居。

それこそ、連日テレビで新聞で報道され、世間の関心も高い新しい栽培員制度を取り上げてはいるものの、ドキュメンタリータッチの芝居というわけでは無く、設定も実際の制度とはかなりかけはなれた内容となっている。
そもそも、舞台の大前提であるそのさいばんをするべく案件というのが「自殺をした17歳の少女の元カレは罪に問われるのか?」というあり得ない設定。
そんなあり得ない設定の先は、さらにさらなるあり得ない議論。

裁判員制度自体をちゃかしているのかもしれないが、実際に現実社会においてこの制度が始動し始めた今だからこそ、出来るなら、ちゃかすにしても、問題点を指摘するにしても、説得力のある話にしてもらいたかった。

中高年劇団だからこそ表現出来るリアリティー、笑いはそこそこに、、、そんな芝居を見せてもらいたいと期待するところです。
だって、オールド・バンチではいくら設定がめちゃくちゃでもある種のリアリティーがきちんとあったもの。


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見知らぬ乗客

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今やジャニーズファンの殿堂となった、新大久保のグローブ座へ嵐の二宮和也君主演の舞台「見知らぬ乗客」を観に行く。
評判が良かったら観に行こうかな〜〜〜なんてボケボケしていたら、すっかりチケット入手がほとんど無理!という状況に。あせって、マチネ公演のチケットを知人の助けによりようやくゲットしたという次第。
ある決まった日以降は普通のチケットエージェントなどでの販売がストップされてしまい、前日の電話販売、それも一カ所だけで取り扱っているという、独自のチケットシステムをとっているため、そのシステムを熟知していない一般客はあやうく見逃してしまうことになるのだ。グローブ座の観劇の際はくれぐれもこのシステムであるということを気をつけていなければ、、、と一つまた学んだところでした。

で、駅から続くギャルたちの列の流れにのっかって、劇場へ。
もと、TPTのアソシエイト・ダイレクターであったロバート・アラン・アッカーマン氏の演出ということもあって観に行ったのだが、これが、これが、、、なかなか良かった。

面白い翻(パトリシア・ハイスミス)をきちんと翻訳し(広田敦郎)、演出(アッカーマン)したら、、、やっぱり見る価値が十分にあるということでしょうね。
でもって、最初はこんな弱々しい男(役名:ブルーノ)で良いの?と思った二宮君が役にドンピシャで、ー神経衰弱のマザコンでゲイのボンボンーというこれでもか、これでもか、の弱っちいずぶ濡れの子犬のような役がぴったりでした。ーマジこれ褒めているんですよー
最後にはこの男どう決着つけるつもりなの?ーと二宮君に釘付け。その足下がふらついて今にも崩れそうな危なさが、まさに役の精神状態を的確に現していて、、これは役者さんの功績?それとも演出家の功績?はたまた両方???と思わせる出来でした。

相手役の内田滋(役名:ガイ)も存在感があって、でもって二宮君とは好対照をなしていて、はまり役でした。

結構、ベタな舞台装置 プラス 演出なんだけど、それがまたオーケー。
もともと50年代のアメリカー1951年にヒッチコックが映画化ーの話なので、ベタな感じで、きちんと筋書きを説明すると言うのがかえって功を奏するのかも。

でもって、先ほど、ついでにそのヒッチコックの映画版というのをYou Tubeで観てみたのだが(ほとんど全編をみることが出来る)、映画版とは役の職業設定などかなり違う部分があることを発見。
おそらく、今回の舞台の設定が原作どおりなんでしょうが、それにしても、今回の舞台では主人公のブルーノがゲイである!という部分に二重にも三重にも重きをおいた解釈であることが、比べてみてよ〜〜〜く分りました。ヒッチコックが映画を製作した時の時代背景というのも関係してくるのかもしれないが、とにかく、今回はブルーノのガイへのかなわぬ恋心、救いのない思いというのが全ての悲劇の要因として描かれていましたから。

そんなどうにもならない恋心という焦点のあわせ方があってこそ、サスペンスとしてちょっと無理のあるこのお話を十分に納得出来る話として、見応え十分に見せてくれました。

それはグローブ座に集まった多くのティーンエイジャーたちにも十二分に伝わっていたらしく、あのカーテンコールは形ばかりではなかったように感じます。
ちゃんとお芝居の醍醐味を味わってくれていたように思いますよ。


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2009年8月 6日 (木)

来来来来来

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夜は下北沢、本多劇場で本谷有希子劇団の「来来来来来」を観る。

モデル兼女優のりょうが主役、ということで話題になっている女6人の芝居。

いつもの本谷節ーひねくれ、逆恨みーは劇のスタートから炸裂。
のっけから松永玲子、木野花がガンガンぶっ飛ばす。常連の吉本菜穂子が舞台を引き締める。

前回の「幸せ最高ありがとうマジで!」ではスタートではなかなかエンジンがかからず、しかしながら後半からエンディングにかけて怒濤のごとくたたみかけ、観劇後には圧倒されるほどの説得力をみせたが、今回は、どうも最初から滑らかに進んでいく。いつもながらの人格壊れキャラも、オモシロおかしい人物設定で素直にかなり笑える。
笑えるのだが、それと同時に今ひとつひっかかるものが、、、あまりに分り易い。
基本的に、分り易い芝居というのが一概に悪いとは決して思わないのだがー最終的に観客へ伝わらなければ意味ないしー、彼女のならではの強み、他には無い多くの人を引きつける魅力とは?と考えた時に、それは“他では決して味わえない、オリジナリティー。登場人物の想像を超えたねじれから起きる予想外の展開。”なのでは?と。前回の芝居で、後半へ進めば進むほど、初め理不尽とも思えた設定に説得力が増し、最終的にこうゆう人たちもあり、かも。。だったら、こんな展開も起こりうるかも、、、と芝居に感動的なリアリティーを持たせたような説得力が今回は薄くなっている、ような気がしました。

別に常に自虐しなくても良いのですが、それだったらそれで、それに変わるもので話に深みをもたせてもらいたかったというのが感想です。
人からほんの少しの`許し`を乞いたい、そうすれば人は救われるーーーと、そんな世の中では無いことはみんな分っちゃってるからね。

欲を言えば、女優人6人全員のトーンを統一して欲しかった。舞台常連組と新米組との間にやっぱり大きなギャップがあったから。それぞれが主張して、自分のキャラを演じる芝居だったので、特にそれぞれの質の違いが大きく見えてしまったのかも。
りょうさんもそつなくこなしててはいたけど、会話になっていない部分もあったから。。


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2009年8月 5日 (水)

3人いる!

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「12日間、毎日、演出が変わってる、」??? それも 多田淳之介の作品を飴屋法水構成・演出で原宿の小スペースリトルモア地下で上演する。
なんだかよく分らないが、これを観ないとかなり損する、というその芝居漬けられた「勘」をたよりにチケットを入手。
これ、やっぱり観といてよかったです。

萩尾望都の名作漫画「11人いる!」ー宇宙船飛行士になるべく宇宙大学の入学試験を受け宇宙船に乗り込んだ受験生達。当初、10人の受験生それぞれに協力しあい宇宙で53日間生きのびることを課題として与えられた生徒達は乗船直後にそこに11人の乗組員がいることに気づく。10人のはずが1人多い11人!?ーに案を得て作られたという本作。独り住まい(のはず)の主人公のもとへ、我こそがその部屋の主であるというもう一人の僕が表れる。早く立ち去れ!と激怒する主人公、そこに3人目のこの部屋の主が。。。近所に住む友人に証人になってもらおうと電話をするが、さらにややこしい状況に。。。

という狐につままれたような話。私は誰?そして私と言っている君は何者?といった会話がエチュードのように繰り返されるのだが、そのこんがらがるような会話も面白いのだが、何と言っても意外な役者の組み合わせが最高に面白かった。

毎日、演出が違うとうたっている通りに、日替わりでこの3人組を違うチーム、別の役者で演じる趣向になっている(マチネとソワレがある日は2回同じ組み合わせで上演)のだが、本日の3人は
<マチナ・シモーネ、丸瀬顕太郎、武田力>チームだった。
HPでそれぞれの肩書きをみると、武田さんは役者と名乗っているものの、あとの2人ーイタリア人のフリーランスと日本人の学生ーとのこと。
他の出演者プロフィールをみても、様々な職業の人が参加しているみたいだ。

で、このノンプロフェッショナルな役者さんたちが、素晴らしかった。
丸瀬さん、学生とだけしか書いていなかったけど、、、、信じられないんですけど。。不思議ダンスと言い、台詞まわしと言い、とっても魅力的でした。
そんでもって、このとってもアンバランスな3人の組み合わせ、原宿の外れという劇場と相まって、特別な演劇空間を作り出していました。

かなり、満足な原宿の1時間。


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2009年8月 3日 (月)

Tanz der Vampire

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友人がチケットを入手してくれて、山口佑一郎(さまheart04ーとこうなるんでしょう)主演のミュージカル「ダンス オブ ヴァンパイヤ」を帝国劇場へ観に行く。

週末のマチネ公演、お昼の帝劇前はそのheart01様ファンとおぼしき女性たちで埋め尽くされていた。
普段、観劇の割合としては少ないミュージカルー別にミュージカルが嫌いという訳ではないのですが、どうも。。。日本で上演されるミュージカル(来日公演を含め)公演に関して、ハズレの場合が多くて、ついつい別モノを選んでしまっているんですよね。それにミュージカル業界は安定しているみたいだから、あまり関わらなくても大丈夫そうだし。ー、ひさしぶりにその現場に足を踏み入れ、独特な雰囲気を再確認する。

山口さまに関しては、それこそテレビドラマ(日テレ系のラブコメで売れない俳優の役で出ていた、と思う)で拝見してから、そしてもちろん舞台でその後にお姿を拝見、美声を耳にしてからも好きな俳優の一人なので、今回も歌、演技に関しては文句無し。

しかしながら、なんて言うのか、超ド級のスターだけに、なんだか劇場には不思議な現象が。

その不思議現象は3時間弱におよぶ舞台の最終盤に訪れた。ヴァンパイヤ(山口)とその繁殖を阻止しようとする学者(石川禅)と助手の少年(浦井健治)の攻防合戦も終わり、ヴァンパイヤがニヤリとした後、、劇場がアミューズメントパークに早変わり。一瞬にして観客全員が総立ちとなり、舞台の役者たちが示すとおりのヴァンパイヤダンスと手拍子と一緒に踊り始めたのです!ひゃ〜〜〜〜〜、マジっすか?

一糸も乱れぬ手拍子もスゴいし、夏の盆踊りさながらのパラパラ風ダンスもすごい。
まさに、踊りゃな損損。。の一体感です。

この見えぬ糸の連帯感がミュージカル人気を支えているとみた!

作品自体はちょっと内容が子供騙しのように単純すぎる(特に前半)が、世界各地で上演されているだけに装置も凝っていてそれなりに楽しめますーと言っておこう。(楽曲は良いよ。)

上演後、山口さんの声をたっぷり聞いて、彼のファントム(オペラ座の怪人)を観たいものだが、他のカンパニーが版権もっているから無理なんだろうな〜と友人と話していたら、後日、彼はもと四季の人でファントムももちろ演じている(と言うか、彼の出世作)という記述を読んだ。
私の時代は市村さんだったから、知らなかったんだけど、そうか〜あそこの人だったのね〜、あ〜〜〜観れるものなら彼のファントムを観たかった、とたいへん悔しい思いをする結果のオマケ付き。


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兄おとうと

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一番好きな芝居というお題をいただいたら、確実にその上位候補となるこまつ座の「兄おとうと」再演を新宿、紀伊国屋サザンシアターで観る。

03年に初演、その後06年に再演され、今回はキャスト7人のうち2人が入れ替わっての再演ということになったのだが、何と言っても井上ひさしの戯曲が素晴らしい!!!これに尽きる。
もちろん、演出の鵜山仁、そして役者さんたち(特に主役のお二人、辻萬長、大鷹明良 このコンビが絶妙)etc...全てが上手く働いての舞台結果なのですが、それにしても台詞の一言ひとことが、噛んでも噛んでも、味が沁みでる昆布のようで、まずもって何回観ても、聞いてもその度に心にズシっと後を残す。

出来る事なら、毎日でも聞いていたい台詞です。

ここにその一部を載せてみます。

*「社会とは、人びとによる共同生活のことである。その社会には、道徳や習慣や思想など、たくさんの原理が集まっている。国家の在り方もまた社会の一原理にすぎない。したがって、国のかたちもまた、習慣と同じように、人びとの意思で変えられるのである。」

*「忠義とは、江戸時代に完成した考えで、<まごころ尽くして徳川家に仕える>というのが、その意味だ。。。。。ところが、その徳川家を倒したはずの明治新政府が、このことばをこっそりくすねて<まごころこめて天皇に仕える>と、そう横すべりさせてしまった。したがって、近代日本は江戸時代とさほど変わってない、仕える相手が変わっただけかもしれませんよ、。。。」

*「三度のごはん きちんとたべて 火の用心 元気で生きよう きっとね」という生活を国民に与えること。それが国家の、政府の夢、いや努めです。」

戦後、一貫して与党として日本を治め続けてきた自民党。デモクラシー国家存続のためとうたって、国をリードし続けてきた政党の根源である「民主主義」について今一度考え直してみようという課題がつきつけられた今回の総選挙、というこのグッドタイミングでこの芝居を上演しているのは、意図的なのか?それとも偶然なのか?、、いずれにせよ、誰にでも分る平板な表現で民主主義について説いている、この芝居、まさに今必見の舞台ですぞ。

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現代能楽集 イプセン

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燐光群の最新作、坂手洋二作・演出「現代能楽集 イプセン」を池袋の小劇場へ観に行く。

めずらしく友人と一緒に観劇。
劇評投稿サイトでも言われていたように、かなりの芝居通、もしくはイプセン好きでなくては作品の評を語る前に、その内容についていくのがきついかも。例えば、今回初めて燐光群の芝居を観てみよう、と思ったお客さん、もしくは紺野美沙子さんが出ているからお芝居でも行こうかなんて思って観に来た方々にはたっぷり2時間半かけてもチンプンカンプンだった可能性もあり。
何と言っても、一緒に観に行った友人ですらー彼女は、もちろん芝居観劇体験もそこそこあり、教養もある人なのですが、観劇後「人形の家ぐらいは、なんとなく筋は分っているけど、それでもそこまでだよね〜。だから、他の話とかはイマイチよく分らなかった。(当然)」ーとポロリ。
そりゃそうだよな〜〜と、納得。でもって、上演された4作品全てが、やはりイプセンの原作を知っていてこそ、その先を楽しむという内容だっただけに、ちょっと上演意図が計り知れぬ。
いっそのこと、4作品ではなく、2作品ぐらい(野鴨とヘッダ・ガブラーの2作品で良いんでない?)に絞って、もう少し丁寧に前解説部分も入れた方が良かったかも。

あと、「ノーラは行ってしまった」(人形の家の現代能楽編)に関しては、霊が語るノーラのあとの時代の話、ノーラに思いがけず家を出られてしまって、過去に置き去りにされた人々の話、、なのだが、う〜〜〜〜ん、どうも「その後のシンデレラ、プリンセス生活にも慣れず、王子はプレイボーイで、、」なんて感じの、それで何なの?というどうにも中途半端な、でもって、現代能にすることで、原作をさらに広げるどころか、かなり後退してしまった感のある残念な結果に。

そんな中、「ヘッダじゃない」は紺野美沙子の存在感、自己完結しているヘッダという役を見事に演じていて良かった。

現代能という劇作手法もそれなりに面白いサブジェクトなのでしょうが、そろそろ燐光群の十八番である社会性のある劇、ドキュメンタリー性のある芝居をファンの一人としては上演してもらいたいと切に願うところです。
エッジーなところでやって欲しいです。

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血縁

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昨年度の岸田国士賞受賞作家、蓬莱竜太が所属する劇団、モダンスイマーズの劇団結成10周年記念公演「血縁」を赤坂レッドシアターへ観に行く。

記念公演と銘打っているだけに、お祭り色の濃い、夏の大感謝祭的な公演。
80年代後半、多くの学生演劇から発生した小劇団系グループ、またはその世代の役者を集めたプロデュース公演で大いに使われた劇作方法ーワークショップ、また稽古の段階で役者、演出家がそれぞれのアイディアを出し面白いと思うエピソードを試演、それらのエチュードをある一定のテーマのもとで連ねて、編集し本作品として発表するーのような、劇団員全員で書き上げ、作成した作品とのこと。

団員それぞれが扮する五人兄弟(06年に今回の舞台の前身作品「赤木五兄弟」が上演されていて、それの続編という設定)のかなり破天荒な、熱血&結(血)束的ストーリーラインの他に、モダンスイマーズという劇団のPR アーンド、 ファン感謝際的要素も加味されたお得感たっぷりの、サービス満点、至れり尽くせり舞台。

これはこれで、夜、赤坂へお芝居を観に行くのには、十分笑えて、楽しめて「あると思います!」

肩の力を抜いて、ライブのパフォーマンスを笑って楽しむ。
難解なメタファーも無ければ、くら〜〜く考え込むような問題提起なんてのも無し。そういえば、一時期の小劇場って、笑いがあふれてて、観客たちもバブル景気でけっこうハッピーで、、、そんな明るい場所だったよな〜。ぬくぬく、ぬるま湯状態だったよな〜〜〜。

決してシニカルな批判では無く、たまにはこうゆう楽しめる舞台。良いんじゃないですか?

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2009年7月28日 (火)

八犬伝

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千葉を拠点に活動を続けている三条会の「八犬伝」を千葉城前に設置された屋外特設劇場へ観に行く。

天気予報によれば、どうにか曇りの予報だったのだが、関東全域雨模様の天気がそこだけうまく晴れるわけもなく、終始カッパを着用しながらの観劇となった。

滝沢(曲亭)馬琴の「南総里見八犬伝」をベースに、八剣士(犬)が悪方と戦いながら次々に出会い、結束を固めていくその過程をかなり大幅にハショりながら、実際の若い役者たちと物語の中の血気にはやる若い剣士たちの姿をダブらせ、若手劇団の勢いを描いていく。

激しく打ち付ける雨の中、役者たちは石階段を駆け上り、泥と草の舞台を飛び回る。
時には激しく降る雨に声をかき消されながらも、実寸の城という贅沢な背景を背中に演じられる時代劇(風)活劇は面白さ倍増。
たとえ、こんな悪条件でもやっぱり場所を厳選した屋外劇は、それだけでも観劇という行為を幾倍にも楽しませてくれる。
ストーリー云々よりも、お城の前で松の木をしたがえての八犬伝、そこに着ぐるみの犬というキッチュな今をプラスして、、、夏はやっぱり楽しまなくちゃ!という夏ならではの企画の勝ち。
(FUJIロックなんて、はっきり言って、みんな演奏聞いてないもんね〜〜。なんて言っても夏のお祭りだから。。その場にいることに意味があるんだよね〜)

利賀のフェスって行ったことないけど、どうなんだろう?
ゆる〜〜〜〜い感じでやってくれてるんだったら遊びに行ってみようかな?!


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2009年7月26日 (日)

kyotonomatopee

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平田オリザ率いる青年団の国際演劇プロジェクトプログラム「kyotonomatopee」を観る。

オノマトペ(擬音語)の研究者でありそれを取り入れた芝居を作っている、フランス人の演劇人Laurent Colomb氏が青年団の日本人役者たちとつくりあげた今回の作品、日本語(主に日本語)、英語、フランス語、ごちゃまぜで語られる舞台は台詞の流れが音楽的で、それでいてユーモアとシニカルも混ぜ合わさり、独特な味をだし、新体験の舞台で新鮮。
ストーリーが無く、また言語も混ざっているため、それを観客へ伝える役者たちの朗唱術が問われるところだが、発声、体での表現、ともに見事に演じきっていた。
さすが!!
(この戯曲、俳優のワークショップとかで使ってみても面白いかも、かなりの訓練になると思います)


箱が一つ置かれただけの、なにもない空間で、役者と対峙する面白さ、演劇の醍醐味ですね。

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2009年7月23日 (木)

ブラックバード Blackbird

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SEPT(世田谷パブリックシアター)今年度注目作品、ホリプロ制作、栗山民也演出による07年英国オリヴィエ賞ベストプレイ賞受賞作品、David Harrower作「Blackbird」を観る。

観劇後は深い失望感のみ。。なんでこんな作品になってしまったのか!?原文で作品を読んだときの、あのヒリヒリするような緊張感と先が見えない焦燥感、封印された真実を解き明かすために登場人物2人の間の交わされる会話のバトル(特に若い女ーウーナにとっては明日を続けるために必須のバトル)が、今回の舞台上にはどこにも無い。

SEPTメイン劇場、いくら舞台セットを小振りにしつらえたところで、天井には青空が描かれ、開放感にあふれている。すぐ隣におあつらえ向きの小劇場シアタートラムがありながら、今回の芝居には全く持って不釣り合いなメイン劇場の方で上演したというところからして、大いに疑問の残るところ。
セットにしても、ゴミは若干散らかっているにしても、それにしても日本レベルの清潔感は十分にクリアーしていてどこもかしこも奇麗、天井には不必要な便所の100Wばりの照明器具が煌々と部屋を照らしている。出入り口のドアにしても誰でもがすぐに入ってくるような、外界から逃れるために隠れ場所として選んだ部屋とは思えない。過去の秘密を打ち明け合う場所というよりは、学校の教室なみにオープンなイメージ。世界の中で追いつめられた二人には似つかわしくないセット。
いずれにせよ、シアタートラムで上演する方が、この芝居を何倍も効果的に見せられるということは火をみるよりも明らかな事!だと思うのですが、その辺ところ、大事だと思いますよ。少しでも可能性があれば、よりよい可能性に近づける!でなければ、芝居文化なんて根付かないよね。

配役にしても、完全なるミスキャスト。50代後半の変態性性癖というタブーを心に抱える、心の弱い中年男と幼くしてとてつもない心の傷を負ってしまった、しかしながらこれからもそのトラウマと一緒に生きていかなくてはならない若い女性。。。。。では無かったですよね。内野さんは髪を白くしたところで、うらびれた、人生も終盤にさしかかった異常性愛者には見えないし、伊藤さんはトラウマを持ちながらどうにか生きている女というよりは、やはり華やかな毎日を過ごすどちらかというとスポットライトの似合う女にしか見えなかった。

話の内容はー15年前、男が40代、女が十代初めの時に同じ街で暮らしていた二人。孤独な男と恋愛にあこがれる少女とが関係を持ち、ついには恋の逃避行を企てる。しかし、その旅の初めに些細な行き違いから二人はすれ違って離ればなれになってしまう。結局、その行き違いの真相を当人同士も知らないままに、二人の駆け落ちは公の事件へと発展し幼児虐待容疑で男が警察に逮捕される。
そして、今、ひょんなことから男の居場所を知った女が、今や名前も変え違う人物として別の人生を送る男のもとへ未解決の真実を確かめるために会いにくる。当時を振り返り、またそれぞれ自分の人生を振り返りながら、それぞれが亡くした15年を埋めようと、相手に言い寄り真相を問いかける。
男は幼児性愛者なのか、それとも真実の恋愛だったのか、、、二人の穴ぼこだらけ(決して理論立てて説明をしている会話ではないので、観客はその小間切れの台詞から答えを探ることとなる)の会話はその両極端の答えのあいだを始終行ったり来たりを繰り返す。
あくまでも自分は正常だ、と言い切る男。彼は名前を変え、すでに過去を無かった事として葬り去っている。一方、事件を認め、その事実と一緒に生きてきた女。彼女が信じてきたものは、果たしてその通りのものだったのか?
人の弱さ、男女のメンタリティーの違い、人生の幕引きを考えている中年とこれからという若年という二人の年の差からくる事件の重みーさらにはだからこそ、未成年者に事件が与える傷のいかにざっくりと深いことか、という発見。などなど、二人だけの会話劇は、それこそ充満して爆発寸前の問題定義を含んでいる。

彼らの会話から、彼らが背負ってきた重苦しい罪、ましてや事件が解決してから今日に至るまでの悶々とした自分への問いかけ、、などというこの舞台当日の二人の再会へ至るまでの、劇の中核をなすそれ以前のそれぞれの人生、、、が見えてこないのが致命的。

変態か純愛か?なんて男女のラブストーリーだけでは収まらない、むしろ老若男女誰でもが抱える、自己に関するジレンマ、思うようにはいかないライフストーリー、人間の性ーそして、明日へ、、というと〜〜〜〜っても素晴らしい戯曲だけに、とっても残念。

単なるショッキングなラブストーリーだったら、無名の新人作家の作品がのオリヴィエ賞なんて取らないよ。
そんな肩すかしをくらった反応がカーテンコールのまばらな拍手に反映されていたように思う。

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2009年7月22日 (水)

シアター・マラシーナ(クロアチア)

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杉並区の新しいパブリックシアター 座・高円寺にて子供のための演劇フェスティバルのプログラム第一弾、クロアチア シアター・マラシーナ(Theatre Mala Scena)によるフィジカルシアター「パラシュート」を観る。

金曜の晩に高円寺のスパニッシュタパスで友人と飲んだ帰り、飲み屋がひしめく路地の一角でシアター・マラシーナの一団と遭遇。どこで食事をしたら良いのかさっぱり分らない状態だった彼らを近くの沖縄料理居酒屋へ(ジモッチーである友人のおススメ店)案内して、ついでにちょっとお酒をいっしょに飲んだのがきっかけで、翌朝(子供劇場なので朝早いんです。。これが)、再度、高円寺へくり出して、彼らの舞台を観劇。

国内外で数々の賞を受賞しているというだけあって、超シンプルながら、子供が観て、さらにその後もその舞台を思いだして遊べそうな、想像力あふれる楽しいステージに仕上がっていた。

大人目線は一切なし、だから変に教育的な目的もなし。そのかわりに子供達はパフォーマー二人が動いて、そして見せるこどもゲームの延長線上にあるような想像の世界に目がキラキラ。
普段は咳でさえはばかられる劇場内には子供達の「あれ?あれ何やってるの?」「わかんないよ〜〜〜〜!」「ほら、あそこから出てくるよ〜〜〜!!」などの声がフルボリュームで響き渡っている。
風船が飛べば、ダッシュで風船を追っかける子供もあり。と〜〜〜っても自由な演劇スペース。

それこそ、泣きわめきさえしなければ何でもありな芝居観劇だった。

今でこそ、やっと、公共劇場などで子供向けのプログラムも取り上げられつつあるけれど、それでもこども演劇に関しては後進国の日本。ほとんどの人の初めての観劇体験が学校での集団観劇というーそれもいきなり伝統芸能だったりしてー演劇環境で、やっぱり小さい頃から劇場という場所に馴染んでおく方が良いに決まっている。こども劇場、、、もうちょっといろんな事を調べてみようかなと思った。

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Cover

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ペンギンプルペイルバイルズ(PPPP)の一年ぶりの新作(パンフによるとそうらしいです。倉持作品は定期的に観ているのでなんだか1年ぶりと言われると、へ〜〜〜という感じですよね)Coverを本多劇場(こちらも、パンフによると初本多登場だそうです。へ〜〜〜)で観る。

のっけから、え〜〜〜〜そんなことあり得ないっしょ!とつっこみたくなるような、ー舞台上部でハリボテの車でのカーレースが行われているのだが、お互いの車がぶつかりあって、ガードレースへ車をこすりつけて火花を散したり(まず、007でもなければ一瞬にして事故で全員死んでるよね)、ジョーズ並みの力で釣り竿が引いてしなっているのだが、つれたのは手紙を体にからめたタコ?!ーオイオイそれはいくらなんでも無いでしょ?的な出だし。

で、どうなる事やらと見続けていたら、これがおっとどっこい、倉持不思議ワールドが完結していて、いつの間にやらそのナンセンスさが快感に。
最初から、いわゆる従来の劇作、プロットのセオリーに懐疑をもってこの芝居を作っているんだろうな、という作品。登場人物同士の会話はすれ違いっぱなしだし、舞台空間だって境界は曖昧だし、ズレ加減が芝居が進めば進むほどに、ビミョウに波うってきて、最後にはその変な波に良い加減で酔ってしまい、そのまま気持ちよく漂っていたら、一応最後にオチもついてきた、っという感想。

言われてみれば、思い当たるのは若手の劇作家たち共通の“既成の芝居に対する疑いの目"。

CGとネット社会で育った世代には、わざわざ芝居をするからには彼らなりの芝居への動機づけが必要となってくるのだろう。従来の演劇の継続ならば、わざわざ演劇に関わる必要もなく、なのになぜ今演劇を表現手段として展開するのか?ーーーーそんな、彼らなりの真摯な問いかけの答えが彼らの独特な、アンチテーゼ手法に表れているのではないでしょうか?

で、今回のお芝居ですが、一見それぞれに関係ないナンセンスギャグで埋め尽くされた台詞の果てには、長い長い年月をかけてこそ見えてくる人と人との関わりに関する礎、という、感慨深い作品でした。

ゲストのお二人ー鈴木砂羽、谷川昭一郎ーが好演。


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2009年7月21日 (火)

テンペスト りゅーとぴあ能バージョン

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原宿の能楽堂にて、新潟りゅーとぴあの人気シリーズ、能スタイルシェイクスピアの最新作「テンペスト」を観る。

前回のハムレットでは、ハムレットが終始床に座ったままという斬新な演出法でみせた能シェイクスピアだが、今回のテンペストは比較的オーソドックスな演出で、台詞は簡潔化しながらもテンペストのストーリーをとっても分り易く見せてくれている。

オリジナルからエッセンスを抽出し、核と思われる部分を強調するというスタイルはいつも通りなのだが、ことさら今回はその主題選びに潔ささえ感じられた。

そんな中、全ての面で舞台を牛耳っていたのが演出家であり、今回主要な役の一つプロスペローを自ら演じている、栗田芳宏氏。
まさに、全ては栗田プロスペローの思惑のままに、、という舞台だった。

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奇ッ怪〜小泉八雲から聞いた話〜

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巷で面白いと評判の舞台「奇ッ怪」を観に行く。
小泉八雲による怪談の再話集をベースに、今ノリにノッている劇作家・演出家であり劇団イキウメ主催者、前川知大がオリジナル戯曲として再編集、再話を施した、夏にぴったりの怖〜〜〜いお話。

評判が人を呼び、シアタートラムの観客席をぐるっと囲むほどの補助席、立ち見席が出ていて、開演前から期待が大いに膨らむ場内ーこんなの久しぶりhappy01という感じー。

その期待を裏切る事無く、とってもバランスのとれた秀作舞台に仕上がっていた。
古くから伝わる怪談話(八雲の怪談から)に現在の時空間で起きているミステリーが巧妙にもつれあっていく筋立ても見事なら、おどろおどろしいというよりも洗練された美的感覚で恐怖を表現した舞台美術もお見事!ー美術担当の土岐研一氏はイキウメの舞台を初演から担当されているそうで、そういわれれば、いつもシンプルなシンボリックな舞台美術だったな〜と思い返すー
そして何よりも、役者陣の個人技とそれが合わさった時のチームとしてのバランスが素晴らしい。
オールラウンドプレイヤーの池田成志(イヨ!プロの技)、主役としての華がありながらチームにきちんと溶け込んでいる仲村トオル(ヨ!色男)、そして名バイプレイヤーにして喜劇もシリアスもお手の物の小松和重(笑わせてくれますね〜)、、でもってこちらも、この人がいると舞台がしまる!天性の舞台女優、歌川椎子(ジテキン時代から贔屓にさせてもらってます!)、とそれぞれがきちんと自分の仕事をこなしながら、他の人のカバーまでさりげなくしてしまう!こうゆうチームだから、みんなが並ぶような舞台が出来るんでしょうね。

それにしても、昨今、ちょっと迷走気味の演劇界、スターを生むための舞台づくり、はたまた作り手の“芸術性”を世の中に知らしめるための舞台づくり。。。なんて、すっかり観客がおいてけぼりを食わされるような舞台が多いような今日この頃、観客もそのあざとさを見破っていて、ちょっと演劇界全体に停滞ムードが漂っていましたが、今回のように元気があって、面白い舞台には、ちゃ〜〜〜んとその結果がついてくるんですね。

だから、観客を甘くみちゃいかん!という例です。

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2009年7月17日 (金)

赤色エレジー

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ドイツ人演出家、ペーター・ゲスナー氏とプロデューサー綿貫凛さんが立ち上げた新演劇プロジェクト、プロジェクト・ナッター(ドイツ語で`へび’の意。戦時中のドイツ軍、迎撃用"有人!!”ロケットの愛称でもあるとのこと。。。。蛇足になりますが、英語で同音発音のナッター(Nutter)になるとマッド=きじるしということになり、きxがい集団ということになります。フェー〜〜〜イ!)の第一発目作品、およそ30年前に書かれた別役実氏の隠れた名作「赤色エレジー」を下北沢、スズナリへ観に行く。

別役氏の戯曲に書かれた世界はかなりドライな風刺とユーモアが詰まった世界なのだが、舞台にあがると書かれた時代そのものが既にノスタルジックな、一昔前のものなので、懐古色が色濃く全体を覆い尽くして、尖った不条理劇というよりは、「あの時、君は。。。」的なウェットな社会派ドラマに様変わりしていた。

今となっては、はるか昔(60年代生まれの私なんかにとっては、かろうじて皮膚感覚で感じ取れるぎりぎりの時代なのだが、若い人には昭和初期ぐらいの遠い昔なんだろうな〜)、60年代終わりの学生運動が終息したすぐ後の、全共闘たちの成れの果ての姿、燃えかすとなってくすぶっている若者たちを描いた芝居なのだが、劇場に集まった観客すべてが、その状況を説明せずとも共通認識として理解しながら芝居を観る事ができたかどうか?はちと疑問。

メーデーだって、今やGWの中の1日にすぎず、同志と言われても、若い人にはピントこないでしょ、やっぱり。

そんなこんなを考えながら、一方、この傑作に日の目を当ててくれた今回の企画には感謝。
でもって、様々なところから集まった年齢幅のある役者たちの共演も楽しめた。
主役のダメンズ、男1に扮した寺十さん、アフタートークでプロデューサーに抜擢されたと語っていたとおり、やっぱりこの役はあなたでしょう!とはまっていました。
(欲を言えば、もっと廃人的にさらに無気力に、無感情でやってくれても良かったかも)

別役氏の戯曲は簡潔にしてニート、想像力をかき立てられる余白の部分がここ、そこにあふれているので、この翻をベースにして何人かの演出家に「僕の赤色エレジー」を競演してもらっても面白いかもというような素晴らしい戯曲。

終演後、特別ゲストのあがた森男氏のトーク、歌は値千金!この日に観て良かった〜〜〜〜。ラッキー。

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2009年7月15日 (水)

「穴」「鵺」「ヘッダ・ガブラー」

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先週観た芝居、舞踏3本。

「穴」
恒例の大駱駝艦、壺中天公演を吉祥寺のスタジオへ観に行く。

今回は主要メンバー、メイン公演の振り付けもこなす村松卓矢氏の振り付けによる作品。
前回、吉祥寺シアターで上演した「ソンナ時コソ笑ッテロ」は、かなりぶっ飛んでいて、ファンキーにアートな秀作だったのだが、その余韻を含んだような、スタジオの中で出来うる限りでアナーキー、という作品。前回の塩谷氏、また田村氏らによるの作品群のようなストーリーを喚起させるというよりも、即興ジャズ演奏にも似た感じのノリ。
しょっぱなの穴にハマって行く件は、ちょっとモンティ・パイソンのアニメを彷彿させてくれた。

「鵺」

坂手洋二氏による新作現代能「鵺」を新国立劇場で観る。
「鵺」という架空の生き物を話の核にすえたー頭は猿、胴は狸、尾は蛇で手足は虎、鳴き声はトラツグミー時代設定の異なる三部作で構成されているのだが、冗長で仰々しい印象。

坂手氏の得意とするところの社会性が垣間見える、第三部(現代のどこかアジアの街での設定)だけで、というかそこの部分をもっといっぱいみせて欲しかった。
現代能なら全編、現代劇でも良かったんじゃないー頼政のエピソードそれほど必要かなー?

朝日新聞の評でも触れていたが、役者の演技にバラツキがありー第一部、戦国時代の家臣役、村上淳が演じきれいてなかったーそのあたりも気になった。

「ヘッダ・ガブラー」

若手俳優人による、イプセンの「ヘッダ・ガブラー」を小劇場、赤坂REDシアターにて観劇。

「ヘッダ・ガブラー」の舞台、お恥ずかしながら、今回が初見。ー伝説の舞台、デイビッド・ルヴォー演出、佐藤オリエ主演によるTPT制作の舞台「ヘッダ・ガブラー」を当時、海外にいたもので見逃しているので。。。ー
さすがに戯曲は、その面白さが溢れでていたのだが、何と言っても、役者がお粗末。
TPTの舞台にも数多く出演している山本亨氏が出ているところのみ、安心して観ていられるというのも、いかがなものか。
主役の小沢真珠、足と手が一緒に動くような棒立ち演技には興醒め。全ての語尾が同じイントネーションで終わる台詞回しも、まるで昼メロ。(申し訳ないが、いくらキャラがたっていても、ちゃんと演じてもらわなくては、、、芝居自体が成り立たない。名作だけにもったいない。)
伊達暁、町田マリー、、こちらにも昼メロ臭が移ってしまったかのような、、、
等身大の同年代の役だけでなく、古典もちゃんとこなして欲しかった。

こうなると、TPTの舞台、タイムマシーンで過去に戻って観てみたくなった。

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サンデー・イン・ザ・パーク・ウィズ・ジョージ

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どうやって、表現しようかな〜と迷ってたところ、今、タイトルを打ちながら、これかも!と思ってしまった。

サンデー...ってカタカナで今回のミュージカルのタイトルを打ち込んだのだが、これ、とっても分りにくい、でしょ?

でも、このミュージカルのタイトルはこの長ったらしいカタカナの 「サンデー・イン・ザ・パーク ウィズ・ジョージ」なんだよね。

昨年(08年)、トニー賞受賞作でもある本作、You Tubeでその映像も観てみたけど、さすがに受賞作品だけあって、生で観てみたいと思うような感じだった(You Tubeなので部分的にしか観れず)。
で、今回観た日本版の舞台は?というと。。。。。なんだかワクワクもドキドキもせず、とっても平板な出来。

宮本亜門の映像技術を巧く使った演出も面白いし、もちろん作品自体も一癖も二癖もあり凝っていて、なるほどと思わせるものなのだが、如何せん、同じ劇場で数年前に上演した、同じようにフランスを舞台に芸術家の苦悩を語った三谷幸喜の「コンフィダント」ーこちらはストレートプレイでしたがーのような魅力ある舞台にはほど遠い。

なぜなぜ??
これ、翻訳ミュージカル=カタカナ・ミュージカルがあだになってしまった例かも。
上演するごとにソンドハイム ミュージカルの難しさー楽曲の難易度の高さーが取りざたされるけど、それって単に歌うのが難しいというだけでも無いように思う。やっぱり、英語の言葉にあわせて、言葉のリズム、発音の高低に、それこそぴったりくるように曲が作られているから、日本語で歌ったときに「これが名曲なの?」と感じさせる違和感が残るんじゃないの?
かといって、曲で話の筋も説明しなくてはいけないから、翻訳を異訳するわけにもいかないし、ね。

ま、それと加えて、それぞれ上手いのは上手いけど、歌唱の表現力が客を感動させるほどには達していなかったって事なのかな?
一通り、こなしているけど、それ以上のところまでは到達していない?
これも、ロングランにでもなれば、上演回数を重ねるごとに、ってことになるんだろうけど、それも望めないし、、、

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2009年7月14日 (火)

桜姫(2009年版)

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コクーン歌舞伎「桜姫」2009を観る。

05年版の記憶も新しく、今回は現代版と歌舞伎版の2バージョンということで、歌舞伎版の方はそれほど変化がないものだと勝手に思い込んで観に行ったのがだ、なんのなんの、これが大いに変わっていた。

まずは、舞台セット...前回が通常のプロセニアム型劇場使用で、一階舞台正面に平場の座布団席を設けていたのに対し、今回は現代版に引き続き囲み型の四角舞台で背面客席下の部分に出入り口を設けている。
この点、セットが基本構造から大幅に変わったことにより、必然的に演出も全く違うものに変わった。

前回、登場人物ごとに宇野亜喜良さんの肖像画タペストリーを背負って高い櫓にのって登場していたキャラクター達、今回はコクーン劇場の天井の高さは使わず、観客せきから舞台を見下ろすスタイルなので、それぞれが低い台ーおひな様を飾るときの土台みたいなものーに座って(!?)出入り幕から次々登場、見上げる舞台から見下ろす舞台への変化あり。この土台ごと舞台上を動き回る奇麗な着物を着た歌舞伎役者さん達が、まるで磁石版の上で動かされているお人形さん達のようで、キッチュ!!かなり制限された役者さんたちの上半身の演技が、のっけから歌舞伎舞台という予想に反して、意表をついて○効果。

この囲み舞台、舞台スペースがかなり小さい上に、文字通り四方+上方向からも丸見え状態。
この悪条件をいかにオモローな好条件へと変えるのかが、今回の演出家、串田和美氏の腕の見せ所とも言えるのだろうが、そこは、海外コクーン歌舞伎を劇場ではない場所で上演もしちゃっている串田氏のこと、舞台を360度ガンガン回しまくって、スポットライトで桜姫(中村七之助)の美しさを強調して全部の視線を釘付けにして、、、、05年版とは違う桜姫の世界を作り出していました。

と言うわけで、今回は前回から若干のキャスト変更もあったのですが、
まずは、主役の桜姫が中村福助から七之助へ変更。

こちらも至極当然のことながら、役者が変わったことにより、「桜姫」の役作り(おそらく演出も含め)にも変化が見られた。
前回の福助版が「天使の顔をした魔性の女」、けっこう確信犯なダメンズ好きの桜姫であったのに対し、今回の七之助版はそこまでいかずに、若いうちにダメンズに会ってしまった故に身を滅ぼす、世間知らずのお姫様の桜姫。
もしかしたら、後者が歌舞伎の筋で言うところの桜姫像なのかもしれないが、個人的な意見としては、何と言ってもコクーン歌舞伎、ただでさえちょっと外れているんだから、やっぱ渋谷的小悪魔桜姫(前者)のキャラの方が面白いかも、と思ってしまう。

それにしても、七之助さんの女形は、ず〜〜〜〜〜っとオペラグラスでそのお姿をおっかけてしまうほど、奇麗でございました。ふ〜〜〜〜。(台詞がちょっと弱かったのが難と言えば難)

で、もう一つの重要なキャスティング変更が、前回は清玄と権助を中村橋之助が一人二役やっていたところ(通常、歌舞伎でもこのように演ずるらしい)、今回は清玄を中村勘三郎、権助を橋之助と二人で分けて演じていたところ。

後半、二人が一瞬入れ替わったりして、表裏一体という意味をみせていたものの、、、やっぱり一人で演じ分けた方が、芝居としては奥が深まって良かったのでは?勘三郎の清玄というのも、ウ〜〜〜〜〜んしっくりこないかも。意を決して、どちらか一人に決めた方が良かった気がする。(ダブルキャストで2度楽しめるというのでも良いし)

と、もろもろがあり、前回のものとは違う桜姫のお話になっていたので、これまた自然の流れでラストも違った終わり方になっていた。
それぞれのキャラを考えたら、今回は純粋な若いお姫様の死後の世界はこれで良いのだな〜〜〜ととても納得。

このように、丁寧に再演をすれば、「単なる評判が良かった舞台の再演」というだけに終わらず、さらなる発展系という再演舞台が作れるのだという事をはっきりと見せつけられた舞台。

ま、シェイクスピアとかチェーホフとかの現代における舞台化もこれに近いものがあると思うのだが、ただ単に話を追って、舞台化するのではなく、そのとき最適のテーマを抽出し、さらに役者と検討し、それぞれの役者が演じるのにふさわしい演出方法を見つけ出し上演する。当たり前だけど、あまり行われていない重要なこと!

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2009年7月12日 (日)

胎(て)

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韓国国立劇場の「胎」を世田谷パブリックシアターにて観劇。

韓国演劇界の重鎮、オ・テソク作・演出による芝居で、74年初演以降、改訂、改演出などを重ねながら上演しつづけてきた作品とのこと。

話はいたってシンプルで、500年前の史実に基づいた、宮廷での権力抗争、それにともなう派閥抗争、大量処刑の悲劇。敵を封じ込めるばかりでは、負の連鎖が続いて実りが無いと訴えている。

オ・テソク氏が評論家の大笹氏とプレパフォーマンストークを行っていたのだが、これがなかなか面白かった。
日本人だと、司会ばかりが語ってしまい一方的な解説で終わってしまったり、または内輪ウケ話などでお茶を濁すことも多いのだが、このオさんが語る、語る。
裸足(?)にラフなシャツ姿で現れ(重鎮なのに)、韓国演劇について、もちろん自分の演劇活動について、そして作品に関して、大いに語ってくれました。アーティストは本来こうでなければ、やっぱり自己主張でしょ、と思わされました。

で、舞台は高尚なーハイアートーなトーンで、美しく、、シンボリック。トークとは反対に多くを語らず
観客の想像力にかなりの部分をゆだねるような作り。
それにしても、やっぱり韓国の女性は直情型ー泣いて、叫んで、また泣いてーとま〜、ま〜お国柄なんでしょうね。

奇麗で、俳優も上手くて、、で良いのですが、やっぱり私としてはもっと若手の演劇ーいわゆる韓国の小劇場というものをもっと観てみたいと思ってしまいます。
だったら、近いんだから行って観れば?って事ですよね。

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トーキング・トゥ・テロリスト

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池袋、あうるすぽっとにて英国人Robin Soans作、古城十忍演出の「Talking to Terrorists」を観る。

作家が実在する人物、何らかの形でテロ事件に関わった人々(29人にインタビューを行ったそうです)から聞いた実話をつなぎ合わせ、1本の劇作品として完成させたものを役者が一人数役を演じながらそれぞれのエピソードを繋いでいく形式でいたってシンプルな舞台ーテーブルと椅子、舞台両側に作られた張り出しデッキくらいーの上、生の声が語られていく。
当日配られていた、リーフレットによると、演出家の古城氏が05年文化庁の留学で1年間英国に滞在していた際にこの芝居に出会い、上演前の稽古段階を見学する機会を得たことから、4年後の日本での上演が実現したそうだ。

冒頭に、インタビューは録音スタイルではなく全て筆記スタイルーその場でインタビューをメモするーで行われたと役者によって語られていたのですが、そんな現場の緊張感からか、それぞれのインタビュー相手との関係性、その場の雰囲気なども想像できるような緊張感のあふれる戯曲に仕上がっていた。
ドキュメンタリーシアターとして、実際に語られた言葉そのもので構成されているので、例えば、そのような素材をもとに作られたフィクション劇よりも、台詞一つ一つにさらなるリアル、例えば例に挙げられる事柄、人物などがより身近に感じられるような日常感覚の例であったりして、イギリスに住んでいる観客には、どんなテレビ番組よりも刺激的な芝居だろうなと想像されるーこれだったら、切符を買って観に行って、その上ポストトークなんかにも参加したいと思わされるだろうな〜〜〜〜と。

イギリス南東部の保養地ブライトンで開催された保守党、党大会にあわせてIRA(アイルランド共和軍)がしかけた爆弾が爆破ーちなみにこのIRAによる爆弾騒ぎはイギリスでは日常茶飯事。私が暮らしていた90年代では、それこそ頻繁に`爆弾が仕掛けられたとの情報が入った’との理由で繁華街の道路が封鎖されたり、交通機関がストップしたりしていた。現在は武装攻撃の停止が宣言されたので、以前ほどではないのだろうが、ロンドンっ子たちにとって`爆弾’という言葉はかなり日常レベルのもの。だから、市内にはセキュリティーカメラがそこらじゅうにあって、誰でもが一日200回以上どこかのカメラに収まっていると言われているー、当時、党御用達のホテルに滞在していた閣僚たちのうち5名が死亡、30数名が怪我をする大惨事となった、というエピソードが芝居の一つにあるのだが、私が驚いたのはそのテロ事件の詳細もそうなのだが、当時の首相サッチャーが翌日予定通り党大会を開催したという方の事実。
同僚に死人が出ているのにですよ?鉄の女、だからこそなのでしょうか?それにしても、胸くそが悪くなるエピソード。
その他にも、それぞれのテロ事件、その事件の内容も重要なのだが、その他にも新聞記事からこぼれ落ちたようなエピソードがポロポロ出てくるところがこの芝居の、まさに瞬き出来ない、耳をそばだててしまう面白さ。
ウガンダ国民抵抗軍の女性兵士が殺人マシーンと化してしまう、その背景にある、そこへ行き着かなければならない彼女の生い立ち。
などなど、、、実に中身がぎっしりとつまっていて見応え十分の芝居だった。

6月に行ったイギリスで感じたことなのだが、現在のロンドンでは世界情勢を反映した芝居の多い事と言ったらない。
アフリカの情勢不安、貧困問題に始まり、アフガニスタン情勢が3部作として作られているものも大きな話題になっていたし、地球温暖化を扱った芝居が大絶賛されていたし、、と、多国籍国家であり、ヨーロッパ大陸と隣接し、常に他国のニュースが身近なものとして報道されている国のお国柄なのでしょうか?
日本の小劇場でよく目にする「自分探し」、とか、「人との関わり方の難しさ」とか、ま、それも考える価値は十分にあるけど、たまにはがっつり、芝居を観ながら、世界のゆがみレベルの事を間がえる日があっても良いなと思う。

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2009年7月 6日 (月)

夏の夜の夢

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先日に引き続き、英国プロペラ劇団の「夏の夜の夢」ーダブルビルのもう一本ーを観る。

「ヴェニスの商人」に比べ、日本での上演回数も多く、演劇好きな人なら誰でも以前に一度は観た事があるのでは?という演目である上、プロペラ公演版も原作に忠実なため、客席からの反応はヴェニス。。よりも早く、かつ大きかったように思う。

演出家がこだわっている点の一つ、現在使われている言葉でのシェイクスピア上演という点からも、どうも今回の上演で採用されているイヤホンガイドというのが彼らの公演にはあまり適していないように思うーイヤホンガイドの音声は抑揚の無い機械的なもので、せっかく舞台上でテンポ早く事が進んでいても、その声でノリが削がれてしまうからー。今回、「夏の夜。。」の反応が良かったのは、初めに言ったように観客がガイドの訳をあまり聞く必要がなく、より舞台での展開に集中できたから、、の結果ではないだろうか?

グレゴリー・ドーランが同劇場で「夏の夜の夢」を上演した際(2005年 RSC制作作品)にイヤホンガイドを使用し、それが好評だったため、今回もその方法を取ったようなのだが、ドーラン作品はヴィジュアルで全てを説明してくれるような作品だったので、字幕を読むより、舞台のセット、ライト、衣装etc.を観ればストーリーは一目瞭然というものだったので、その方法が功を奏したのでしょうが、今回のプロペラの魅力は役者たちの台詞のやりとり、さらには男優たちのそのお互いの台詞のかけひきと彼らが生で演奏するミュージックですからね〜〜〜〜、やっぱりガイドの声はちょっと妨げになっちゃうかも。

そう考えると、何とも、芝居は繊細ですな〜〜。

同じ演目で同じ言語で演じられる2作品でも、それぞれに適した上演方法が違うんですから。
やっぱり、マニュアル通りにはいかないのが芝居の面白さ。

「成功する芝居の打ち方」、「こうすればヒット間違い無し」なんてマニュアル本へまとめるのが不可能なものだから、芝居は海のものとも、山のものとも、、、なんて形容されるんでしょうね。

それにしても、、、芝居の中の村のクラフツマンたちの寄り合いが超ウケました。、、あんな人たち今でも英国のパブにはそこら中にいるからね〜。で、彼ら毎晩同じメンツでビール飲んで、楽しそうに話しているからーあり得ない金儲けの話とか、もちろんサッカーの話とかー、だから彼らのやりとりが、近所の親父連中(ロンドンの)のそれのようで、可笑しかったっす。


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2009年7月 4日 (土)

あたしちゃん、行く先を言ってー行程2

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劇団・地点3回目の観劇(3回か4回だと思う)。
やっぱりダメだった。
前回の吉祥寺での「三人姉妹」また、数年前のアトリエ春風舍での公演でも撃沈したのだが、今回もぜ〜〜んぜんダメでした。
熱狂的なファンをかかえる劇団だけに、好きな方には訴えかけるのでしょうが、私には苦痛、早くこの場を去りたいと思わせるものでしか無いのです。3回とも同じ感想なので、きっとこれからもあまりご縁は無いものと思い、しばらくは足を向けないことにします。

実験劇という劇は大歓迎なのですが、どうも私には単に演劇実験にしか見えない。そうなると実験はそれぞれの劇団内で終えて来て、その上で`劇’を観たいと思ってしまうのです。

今回の舞台で台詞を言うこと(発語)について演劇的観点から検証を試みた結果、俳優に行き着いたらしいですが、着地点は良いと思うのですが、如何せん、舞台上でその肝心の役者さんたちを続けて観ることにまったく魅力を感じない、という悲しい結果に終わってしまいました。

どちらかと言うと目をそらしたくなる(実際に劇の終盤は天井のライトと床のコンクリートブロックばかりを観ていました)は何故だろう?
やはり、客席から隔離された役者の演技が、その一方的な特殊な方法論のおしつけが、、、、あまのじゃくな私には「そんなに解りくさっているのなら、我ら観客はほっといてくれ!」という気分にさせてしまうのでしょうか?

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プロペラ ヴェニスの商人

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東京芸術劇場にて英国からの来日カンパニー、プロペラの「ヴェニスの商人」を観る。
終演後に演出家、エドワード・ホールと新芸術監督、野田秀樹のトークがあるということもあり、ほぼ満席状態。
演劇関係者、シェイクスピア研究者、舞台批評家、などなどなど。。。勢揃いの客席で、私の両隣には、またしても大あくび(なぜか、私の隣に座った方々は居眠りし始めるかたなどのケースが多い、、でもってカーテンコールではしっかり拍手をしている???なぜなぜ?)の方が。観たくないなら休憩後に帰れば??でなければ、2幕の間中ず〜〜〜〜っとポリポリ頭掻くの、、どうにか我慢して欲しい。

今作品、英国で一足お先に観てきていて、それも数週間前の事なので、同じ感想なのだが、やっぱり面白かった。scissors
ヴェニスの街をヴェニスという名の刑務所へと設定を変え、囚人服に身を包んだ役者たちは劇の冒頭と真ん中、最後に語られる台詞「どちらがユダヤでどちらがキリスト教?」の言葉どおり、一見したところでは、普通の舞台で明らかに示されるユダヤ人側とキリスト教側の区別がつかない。その上、オール男優という劇団なので、男女の区別も難しい。ーここの劇団の特徴の一つとして全員男性で演じられるのだが、女性の役だからといって宝塚のように男に見せかける格好をしたり、歌舞伎のように女らしさを強調して女形をやったりはしない。マッチョな男がそのまま女の役を演じている。これは、演出家によると、それの方が役と役の間柄がクリアーに見えてくるから、という理由らしい。確かに、女たらしの役があったとしたら、通常はその役者がいかに女たらし然として見れるかという、話の筋とは違ったところでジャッジされる傾向は多くのところで見受けられる。ーそんな、一見同じに見える集団の中で起こる、理由なき差別、裏切り、陰謀、金持ち女性を利用するゲイカップルとまた一方、そんな旦那に愛想をつかしながらも諦めて受け入れる新妻、などなど、アフタートークで演出家が話していた通りに、従来はそのありえない展開にとまどう観客をよそに、その話の強引さを隠すために「ユダヤ人種差別と人肉裁判」などショッキングなレーベルが貼られそのレーベル劇としてみられ、片付けられてしまう「ヴェニスの商人」がその翻訳と舞台のアップテンポによりかなり分り易く、現代に通じる話として上演されていた。
ユダヤでもキリスト教でも日本人でも、弊の中の囚人各自が自分の利益になるように、いろいろと画策を練って、悪事を働かせ、取引をしていく様を分り易く示す事により「ヴェニスの商人」という劇の普遍性ー人の私欲とその人間同士のかけひきーを語ってくれた。

度々見られた、観客へと直接訴えかける演技、また役者同士の普段の会話のような会話のやりとりが舞台をさらに観客側へと引きつけていた。

で、今回の金のくちばし的なおまけの一つが、やっぱり野田さんとホール氏のトーク。

中でも、野田さんが、初めに無難な回答できりぬけたホールへダメだしをだして、さらに引き出した15年前の日本でホールが日本人俳優で上演した「リチャード三世」公演の際のエピソード。
「僕にも次に何が出てくるのかが分らなくて、初めて見る衣装を身につけた役者が舞台上で演技をしているのを観ていたら、舞台を見終わる頃には、まるで英国から日本へ着いたばかりの僕が誰か他の演出家が演出しているリチャード三世を観ているような錯覚に陥った。」と言っていたのが大受けにウケました。

演劇留学生として来ていた彼が体験した出来事は、彼が既に権威のある大御所として来たのではなく、まだそれほど経験もない状態で異国の地で味わった苦い経験だけに、けっこうトラウマになったのだろうな〜〜と想像します。いくら、遠くは慣れた異国の地で起こった事とは言え、やはりキャリアとして残りますからね。。。思い出したくなかったんでしょうね。

プラス、その無難な回答として答えていた話の中にも、国際交流プログラムの難しさをついた問題提起があり、「ただでさえ、暗喩などが多くその解釈、表現が難しいシェイクスピアの戯曲。その戯曲を日本語で上演する難しさを痛感した。」と語っていたのですが、これ、かなり普通に流されている問題ですが、かなり重要だと思います。
翻訳家が翻訳家の仕事を完璧にこなしたとしても、翻訳本と舞台作品の間にまたまた大きな高低差があるもの。それをネイティブでない演出家がテキストにまで踏み込むと、深くて抜けられない問題が出てきて当然だわ。
だから、野田さんだって最終的にロンドンでは英語で上演することにしたんでしょ?

ホール氏が体験した、一つの国際プログラムから、本当にいろいろな問題って見えてくる。

*日本の制作方法と英国のそれとの違い
*翻訳劇の扱い方

それにしても、出来上がった作品が思い描いていた物とは全く違っていたって、、驚いただろうな。


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2009年5月27日 (水)

タトゥーから。。

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ちょっと前になるが、新国立劇場のシリーズ・同時代(海外編)のラストを飾る、ドイツの新鋭作家、デーア・ローアの92年代表作「タトゥー」を初日観劇。
新国立劇場の初日というと、殆どが演劇関係者でうまる事が多く、今回も若手注目株の一人、岡田利規が現代ドイツ演劇を演出ということで、多くの批評家、ライターらがつめかける中、ご当人の岡田氏、そして原作者ローア女史も客席中央で舞台をみつめていた。

約一時間半の舞台、終演後ーというか上演の途中から客席内には何だかもや〜〜〜〜〜っとしたような倦怠の空気が。なんだか劇場内が重苦しく淀んでいた。

私自身にとっては至福の90分だっただけにー目ん玉ひんむいて90分舞台を凝視しちゃったんですけどー????ちょっと拍子抜け。

その淀んだ空気は(もちろん)その日だけではなかったようで、その後、いろいろな劇評、劇評ブログなどの評判はどうもあまり芳しくない。インスタレーションのような舞台装置、棒読みの役者の演技(技術によるものでは無く、演出意図としての棒読み)、あまりにも過激な近親相姦の話の内容、などがどうも受け入れられない原因のようだ。

私にとってはその受け入れられない原因全てがこの作品のプラス評価に繋がるのですが、、という訳でどうも巷では賛否両論の舞台であるようだ。
(しかしながら、この結果さえも、中途半端な反応よりもこのくらい物議をかもす方がグッド!なんて思えてしまうのです。)
まずは、
舞台装置ー塩田千春さんというベルリン在住のアーティストが今回のステージセットを担当。その装置だけ見に行っても良いほどの美しさ。吊るされて揺れる窓枠、また不安定なベッドのような脆い現代社会が舞台上に出来上がっていた。多くの窓は人々(社会の)視線でもあるよう。

棒読み演技ードイツ演劇だからMUSTという訳ではないのだろうが、舞台の随所に見られた異化効果の一つとして聞いていると、この方法だからこそ台詞がよく聞こえてきていたように思う。修辞が多く含まれる韻文劇ではなく、短い詩節の連続のような台詞だけに下手をしたら聞き流されてしまうかもしれないそれぞれの心のつぶやきを一遍の作品として日本語で届けるためにはこの方法が有効的であったと思う。(しかしながら役者の中にはとまどいと躊躇が若干みられたが。。)

そんでもって、劇作の内容ー一見柔和なパン屋の主人である一家の主(吹越満)の真の姿はとんでもないモンスター。一家の中で絶対君主である彼は彼の存在を絶対化するために長女(柴本幸)に性的関係を強要していた。ペットショップで働く母親(広岡由里子)は、内心ではその行為を(もちろん)忌み嫌いながら、家庭・夫婦崩壊を恐れて見て見ぬふりを続けている。妹(内田慈)は無邪気にも姉の特別待遇を羨んだりしている。
そんなある日、外出先で男の子パウル(鈴木浩介)と知り合った長女はその歪んだ家から抜けだすことに成功、彼氏との新生活に未来をかける。
が、そんな幸せもつかの間、モンスターが長女の部屋を訪れる。家の状況を聞くと、今は妹が姉の代わりとなり父親の性の餌食に、そして母親は家を見捨てて出て行ったとのこと。
ささやかな幸せだけを望んでいた彼女に、運命の暗雲はどこまでも追いかけてくる。。
といったものなのだが、前述にもあるように、登場人物一人一人の台詞に様々な暗喩だの、また考えさせられる意味が含まれていて、戯曲自体がとても面白い。
単なる、性倒錯者の悲劇には終わっていなくて、さらに現代に生きる人々の苦しみ、矛盾などがそこここにちりばめられ描かれている。
親と子供の関係ー信頼と愛?それとも束縛と自己肯定? 男と女の関係ー許容と愛?それとも弱さと自己防衛? そしてそれらを作り出しているこの社会。

舞台で夢を与えたり、勇気を与えたりすることも出来るだろう。でもその前に、そもそも今を生きる意味という出発点から考えてみよう、というドイツ演劇。恐るべし!!


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最近、いろいろな観劇の偶然に驚かされている。
観劇1本で、いろいろなものを吸収できるのだが、それが何本か観て、その対比などでさらにプラスアルファで効いてくることが多々ある。

例えば、先日、サンプルの舞台「通過」の舞台評を書いたのだが、その数日後、ざっくり括ってしまうと同じテーマと言えるかもしれないセックスレス夫婦の芝居ー演劇集団円のオリジナル作品「初夜と蓮根」を観たりした場合だ。

で、円の「初夜と蓮根」。こちら絵にもかけないような♡ウォーミングな家族の真の姿が、冒頭の娘の発言で露呈し、、その後は次々とボロが出て、、でも最終的にはやっぱり素敵な家族♡で終わるというお芝居。
「通過」とは異なり、コメディー色満載でハッピーエンドということもあり、後味がとっても爽やかな芝居。
観劇中は笑う箇所では笑えたし、エンタメとしてそれなりに楽しめたのだが、終わってみて、、、「あんな事、ある訳無いじゃん。お芝居の中だけの話だよね。」というのが正直な感想。

今時のひきこもり気味な息子はいるものの、娘の結婚も決まり、全てが順風満帆に見える松永一家。そんな家族のいつもと変わらない日曜日の食卓で娘が放った一言「お父さんとお母さんはセックスした事あるの?」。。。この何とも唐突な発言がその後の松永家の進む方向を変えて行く。
話が進むにつれ、このあり得ないー夫婦で子持ちなのだからー問いが、実はこの夫婦がずうっと抱えてきた問題、日常で見て見ぬふりを続けてきた大問題による、真実であることが分ってくる。
その封印されたパンドラの箱を開けた瞬間から、家族それぞれが抱えるほかの問題も明るみに出てきて幸せであったはずの松永家は実は砂のお城であったことが明らかになる。
最終的には、家族の中心であるー良くも悪くも主人公の中年男(金田明夫)がこの家の絶対ルールであるようであるー夫婦がその問題に真正面から取り組む事を決め、それと同時にそれまでの膿みを全て出した家族は明るい再生の道を歩き始め、めでたしめでたし。という芝居。

で、今の暗い世の中を元気づける!という趣旨なのかもしれないが、、、話に如何せん全くの説得力が無い。
まず、実際、現代に生きている人間で、その話にかなりの信憑性があればあるほど、
「セックスしたことあるの?」なんてかなりデリケートな質問を愛する両親にする娘なんて性格に問題があるとしか思えない。また、セックスレスでありながら、その性の問題がさらに踏み込んだレベルで語られないこの状況(だって、不能では無いけど相性が悪くて、きっかけを逃してず〜〜〜〜っとセックスレスのまま、それもお互いに浮気も遊びもせず,それが純愛です。。って、あり得ないし、幼稚すぎる。かえってその人たち、気色悪い)も生身の人間の話とは思えない。
確かに、今の世の中セックスレスの夫婦が増えているというけれど、その状況が抱える新たな夫婦間の問題(奥様の売春とか、夫のゲイ化とか)は多々ある訳で、まずもって言いたいのはセックスの問題をそんなに軽々しくエピソードの一つとして扱わないで欲しい、と言う事。
人間はまずもって動物だし、その動物が知識のベールを被って生活しているところに、それこそ様々な矛盾や非合理的な事件が起きてくるのだから。

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吉祥寺で「鴨川ホルモー」観劇の翌日に青山で「伊東四朗一座」を観る。

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2009年5月21日 (木)

通過

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松井周率いる注目劇団、サンプルが5年前の劇団、そして松井氏の処女戯曲「通過」を上演。

04年は松井氏のホームグラウンド・駒場アゴラ劇場で上演されたそうだが、そちらは未見。
劇団ウェブサイトでその初回の舞台写真を見るかぎりでは、アゴラ劇場の閉塞感とゴミ屋敷の閉塞感がず〜〜〜〜〜んと重い雰囲気をかもしだしてそうな感じ。

一行レビューでも誰かが書いていたが、今回の三鷹市劇術文化センターでは同じ小劇場でも天井が高いオープンスペースのため、その閉塞感をだすために、四方の囲み形式の客席にまでゴミ袋を積み上げ舞台装置を工夫。それでもアゴラのような効果は望めないものの、それこそ隣の家の様子を高みの見物をしているような感覚。向かいにいる観客の姿も丸見えなので、覗き見している客同士で連帯感はわく。
また、その囲みの一カ所が俳優の出入り部分になっていて、出番の大分前から俳優がそこで待機しているのが(意図的演出)まる見えになる。

で、この舞台、中身が濃くてかなりの演劇的満足が得られる作品だった。

舞台を観ていて、「きれいはきたない、きたないはきれい」というマクベスの一節を思い出した。
真実は決して表には出てこない。

一見、常識人でやさしい夫、彼のやさしさの底にあるものとは?ー寛容という言葉の裏で、ただ単に現実と向き合うのを億劫がっている自己チューな一面があるのではないか。また、妻が浮気に走ったのは、夫の性機能不全が原因なのだろうか?ーいやいや、二人の間に確固たる愛情が存在していたとしたらそれが直接の原因と成り得たのだろうか?また、浮気をしたところで=他人に性的役割を課したところで、それでも存続する関係もあり得たかもしれない、それなのに肝心のその部分が二人の間で語られることなく関係が崩壊していくという事自体、見えない亀裂が既に入っていたのではないか。

などなど、常規を逸脱した価値観を放射する兄の出現によって、それまでオブラートに包まれていた家族の間で決して語られなかった話が否応無しに露呈し始める。
観客の目の前に次次とさらけだされていく、ゴミのような人間の本性。
そして、家族の居間である舞台次々に積み上げられていくゴミ袋、その数が増していくほどに登場人物たちのフラストレーションが溜まって、居間もそれぞれの精神も同時に淀んでいく。
ユートピアという言葉を持ち出す兄、そのユートピアという言葉自体が胡散臭さをまき散らしている。

数え上げればいとまが無いほどに、それぞれの台詞がシーンが意味を持ち、観客の想像力を刺激する。
(もしもこの芝居を英語で形容するとすれば、まさに英語レビューの最大の褒め言葉であるprovocative(挑発的な)という形容がぴったりはまるのでしょう。)

何ものにも優先させて、観るに値する芝居とは何ぞや?と考えたとき、、、(通常)2時間ぐらいの上演舞台を通して、いかにその何倍、何十倍もの話を紡ぎだせるかということにつきてくるだろう。
舞台で聞いた言葉が、また観たシーンがその2時間分(物理的時間)しか語られていないとしたら、読み終えるのにその何倍も時間がかかる小説を超えることは出来ないであろう。
しかしながら、今回の舞台のように台詞と台詞の合間に、また役者の目線の先に「決して語られる事のない物語」があることをみせる事が出来れば、その芝居はどんな長編小説よりも意味深く、観る意味のあるものとなるだろう。


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2009年5月17日 (日)

Giselle(K-ballet), 楽屋、雨の夏、30人のジュリエットが還ってきた

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*Giselle (K-ballet)
ヴィヴィアナと熊川氏の久しぶりのパドゥドゥを心待ちにしていたファンも多いはず。ところが、ヴィヴィアナが初日の大宮公演で怪我をしてしまい、急遽降板という事態に。
二大看板の片方が降りてしまったにもかかわらず、最後のカーテンコールがそれなりに盛り上がるのはさすが熊川大明神のお陰でしょう。
いつもながらに、細部まで気を配った演出・振り付けはさすがの一言。ここまで懇切丁寧に作り上げれば、まさに子供にもお話が分かりやすい。単に踊りの技術やセットの豪華さ、コスチュームの奇麗さだけでなく、根底からバレエ教育を行っていけばバレエ界の将来にも大いに役立つと言うこと。
K-balletの長期的なバレエ文化普及プランは実に分かりやすく、無駄が無い。こうゆう所を国の芸術振興プランでも大いに学んで欲しい。個人の短い欲や野望では無く、長いスパンで広い視野で!
で、代わりに踊った東野泰子さん。プリンシパルの前段階のファースト・ソリストなのですが、今回の「ジゼル」にはまさに適役だったのではないでしょうか?
白鳥、、や眠り、、のようなこれでもかとテクニックをみせつけるような演目ではなく、細かい心情演技が要求される「ジゼル」。か細い心が萎えてしまい、狂気の後に死を迎える幼い田舎娘の役にとてもあっていたように思います。
もちろん、天才ダンサーヴィヴィアナの狂気の表現も観たかったのですが、ま、今回はまた違った趣を楽しめたということで、オーケー。

*楽屋

シスカンパニー主催、豪華女優陣の競演が話題の舞台。
1時間半後、なんだか、狐につままれたような後味の舞台だった。
主役級の女優四人ー渡辺えり、小泉今日子、村岡希美、蒼井優ーがそれぞれの持ち味を活かし軽妙に演じ、また演出も笑いたっぷりでサービス精神に溢れているのだが、最後に「それで?何?」と言いたくなるのが悲しい。
そんなに楽しませなくて良いから、ガチンコ勝負を展開して欲しかったかな。
で、なんでこんなにぬるい芝居になってしまったのか?と思いながら帰りの電車でパンフレットを読んで、なんとなくその理由の一端が分ったような気がした。
四人で座談会をやっているのだが、まず、ここで緊張感というものが感じられない。口々に今回の座組は本当にやりやすいしリラックスとおっしゃっていて、それぞれのホームグラウンドからちょっと面白そうな芝居の場にやってきた感じ。奇しくもそのパンフの中で村岡さんが言っていた「軽いオモシロになってしまうと、作品の本質と違いますからね。」って、、、なってしまっていたんですけど。
で、さらにパンフ冒頭の演出家、生瀬さんが「面白くする、僕はこれを基本方針にしました。」と言っているので、そこにも致命的な全体としての不協和音が。
それぞれが思う「楽屋」をそれぞれ別々に思いっきり舞台へ出してしまった感じ。それが個々に上手いだけに不協和音の音が大きく重なりすぎてー下手な人が数人いれば誰か一人の色にまとめあげられたかもしれないけれどー収集がつかなくなってしまったのかも。

*雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた

これも、上演意図がさっぱり分らない舞台でした。プラス豪華な顔ぶれと蜷川演出だけに、途中で帰るにはもったいなさすぎて最後までしっかり観劇しましたが、その辺りをかじりかじり楽しむだけで、もう一度観たいかと聞かれると。。。ウーーーーーンと唸ってしまう。
宝塚の大階段も大人数の人海戦術も、芸達者なトップクラス俳優の競演もあったが、まずなぜこの芝居を2009年5月に観るのか?というそこの時点で疑問が残ってしまった。

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2009年5月16日 (土)

B.L

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4月前半、サンシャイン劇場でコンドルズとロンブーの田村淳率いるビジュアルバンド、ロンドンブーツ1号2号の田村淳率いるjealkbのコラボステージを観た。

淳がバンドをやっているのは知らなかった

jealkbとチーム分けをするためか、今回コンドルズ・メンバーは全員金髪、それもプラチナブロンドで綿菓子みたい。

で、舞台はいつも通りサービス満載、笑い沸騰、そんでもってダンス(=体の動きで表現する)も、いつもにも増して、jealkbダンス初挑戦組(おそらく人前でのダンスは初体験でしょう)が加わったことにより味わい深いものになっておりました。

コンドルズのダンスステージを観る度に、ダンスという定義が含む限りない可能性を感じます。

人が汗を流して何かを表現することを目の当たりにして、それに対して何を感じ、何を得るか、、、彼らの自由な発想から生まれる様々なダンスコラボレーションステージからは目が離せません。

ダンスがメインだったからかjealkbのサウンドの方があまりちゃんと聞けなかったのが心残り。普段のライブとは全く雰囲気が違ったんだろうな〜〜〜〜。

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2009年5月11日 (月)

4月後半

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父壁

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またもや、プレイバックレビュー掲載になっておりますが、4月の連休始めに吉祥寺の劇団スタジオにて大駱駝艦・壺中天公演(若手舞踏家による新作公演)を観る。
でもって、もの凄いものを観させていただいた!感謝!!

今回は塩谷智司さん初の作品(振り付け/演出/美術)の「父壁」。
彼のお父様が少年刑務所の刑務官だったということで今回の作品はその父へのオマージュということらしい。
壁の中の父親→父という壁のように大きな存在→自分自身が父に近づいて行くこと→少年というものの社会におけるあいまいな位置→少年刑務所の外の大人の世界、またその矛盾した世界...
一間ほどの狭くて小さい空間が瞬時にしてこれほどまでに変幻するのかと驚くほど、演出家のアイディアによりシーンによって次々と新しい世界を見せてくれる。
冒頭、劇場いっぱいに、客席ぎりぎりまで占領している大きな木の壁、その全ての世界を支配しているかのような壁面へへばりついていくランドセルを背負った少年(塩谷)。
白い裸体が、そして時には黒い裸体が、そして時として白塗りの顔面だけが暗闇の舞台の中で命の輝きを放つ。

事前の情報もなく、舞台上には言葉がない公演にもかかわらず、客席には確実に一体感が。その場に居合わせた客(ほぼ間違いなく断言出来るが)全員が舞台と関わりあうことができた、素晴らしい観劇体験だった。

終演後には自然と「ブラヴォー」の声がわき上がり、客席内が明るくなるとその観客の1割ほどが外国人であることが判明する。

これって、いわゆる演劇的(舞台芸術的)事件ですよ。ほんと。

今、日本の中で、海外に一倍近い位置にいるアーティストが、間違いなく彼らー大駱駝艦ーなのだと確信する。

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きらめく星座

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こまつ座&ホリプロ共催(いつの間にかこの間柄が成立したんですね。「ムサシ」のみが共催企画公演だと思っていたら、長期の提携を結んでいたんですね。これによって、双方、特にこまつ座にどのような影響、変化が表れてくるのか。良縁であったことを心から望みます。)の「きらめく星座」の初日公演を天王洲アイルの銀河劇場へ観に行く。

プログラム冒頭にはこの芝居が作者井上ひさしの実体験による私戯曲であるとありました。
24年前に書かれた作品だそうですが、その内容の過激さには改めて驚き、同時に感服致します。

のっけから、「非国民」ジョークですから。すごい。その言葉が与える攻撃性は差別ともとれるほどに強いにもかかわらず、人を否応無しに統制するための道具として簡単に口にだされる言葉「非国民」。その言葉の真意は共同意識としては認識されていないにも関わらず、その内容に関しては議論もせず、相手を黙らせるためため、それを発する側の言論の暴力を通すがために国民中の魔女狩りの道具として使われた言葉ー何も、この言葉戦前、戦時中だけに使われていたものではなく、今の日本でも幅広く使われているという実態がさらに恐ろしいですけどー、それを逆手に取って、家族がその言葉を拡大解釈させながら思春期の家の長女をなぐさめるシーン。これぞ、井上芝居の真骨頂。笑いながら世の中の矛盾、人の世の愚かさを考える、、前作の「ムサシ」でも随所に見られましたが、これがあるから井上芝居はいつの世でも、どんな世代の人たちの心をも打つのでしょう。

日本が犯した過ちを歴史から学び、その教訓を後世へ活かして行くーーーーこれ、どこの国でも芝居でやっている事なんですが(イギリスのシェイクスピアしかり、ブレヒト、チェーホフ、アメリカ現代演劇などなど)、どうも日本では戦争、特に戦争責任に関しては様々なタブーが存在するようで、真っ向から芝居の核として取り上げる機会がまだまだ少ないような。
敗戦国として十分に苦しんだんだから、今さら。。。ということなのでしょうか?

そこの部分を話し尽くさない限り、前へは進めない気がするのですがねー。

で、お芝居ですが、所々にそれこそドキッとするような台詞がちりばめられているにも関わらず、全体としては戦争反対色よりもさらに普遍的なテーマ「家族の成り立ち」「個人と国家」「人としての品格」などが劇を通じて語られています。

ホリプロとの提携により、さらにマーケットが拡大してより多くの人(国内外を問わず)に井上さんのお芝居が観てもらえるようになれば、という目的での業務提携なのでしょう。大いに期待!!

長女の娘婿、源次郎役の相島一之が、その難しい役所にも関わらず傑出。

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2009年5月10日 (日)

「京都から二千匹発送しました。」「こがれ」「関数ドミノ」若手作品3本。

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週末にかけて、若手作家・演出家の作品3本を続けて観る。

「京都から二千匹発送しました。」は坂手洋二氏率いる燐光群の若手劇団員による作品上演シリーズの一つ。燐光群・文芸部に所属し、08年5月に第一回書き下ろし作「シンクロナイズド・ウォーキング」を発表した清水弥生の第2作目。
実際に起こった事件(03年)ー中学校の強豪柔道部に所属していた女生徒が、ある日の練習中に意識不明(脳挫傷)状態に陥り、その後は意識が戻らないまま、寝たきりの生活を強いられる状態が続いている。それほどの病状を引き起こす、何らかの事故が多くの人々の目前で起こったにもかかわらず、実際にその練習中に何が起こったのか、彼女の事故がなぜ起こってしまったのかは学校側の説明からは明らかには示されない。両親は24時間態勢で娘の介護を続けながら、真実の解明を求めて学校を相手に裁判を起こす。。。。先日行われた裁判では原告側のほぼ全面勝訴という結果が。ーをもとに、作者が直接その被害家族と会い取材した話をもとに書き下ろした物語。
燐光群の劇団カラーの一つでもある、ドキュドラマの手法を用いたこの芝居、劇団主要俳優総出で出演し、アトリエ会作品とは銘打っているものの、劇団メイン公演の一つと数えて良いのだろう。

で、題材が今の社会とマッチしていて、事件の詳細を辿るだけでもかなりの興味は持続出来る。
が、そこにはドキュドラマの難しさが。
ドキュメント一辺倒では、テレビのドキュメンタリー番組ほどのフットワークは見せられず、所詮役者がなりきって演じている物なのだからドキュメンタリーになるわけもなく。。。そこで、いかに演劇舞台として明暗(メリハリ)をつけるか、どこに焦点をあてて、さらにどこを演出していくのか、が作品の出来に関わってくるわけだが、今回、そのドキュドラマのバランスが、微妙にくずれていた箇所が見受けられた。
例えば、劇中、母親が寝たきりの娘を車いすに乗せて、同じ中学に通っている弟の修学旅行に同行するシーンがかなりの割合を占めるのだが、ドキュメンタリーである部分の真実味を説明するために、もしかしたら不要とも思える枝葉部分の説明(大阪・京都の観光案内のような)、またはジョークなどが残されていた。もう少し、整理したらすっきりして、さらに良い作品になるであろう。
ーーーあくまでも、すでにかなりの高得点を獲得している作品であることは付け加えておきたい。それだからこそ、再演をさらに続けて行くために、作品のさらなるシェイプアップを、さらに中身の濃いものに仕上げて行って欲しい、と願う。

「こがれ」は若手劇団「砂地」ー船岩裕太主催ーが鶴屋南北の歌舞伎芝居「桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)」を原案に、現代日本へ場面を移し、オリジナル戯曲を書きおこし上演した舞台。
役者・池下重大出演というのがきっかけで、砂地の芝居初見となった。
神楽坂の小劇場die prazte は前回、池下さんが月船さらら&出口結美子主催の劇団metroが「陰獣」を上演した劇場。登場人物の数もほぼ同じで、なんだか前回の舞台と似ている空気が。

で、桜姫の現代版ーしかしながら今回の現代っ子の女性主人公には`姫’の“ひ”の字も見当たらない、底なしに薄幸なこの子の世界は半径5Mくらいしかないんでないの?と思わせるような、あまりにも魅力のない他人依存症の女の子に描かれている。それが残念。だって、こんなに知能が低くて、それで自立してなくて(たとえそれが幼少期のトラウマのせいだとしても)、、だったら、桜姫の悲劇もそれほど説得力が無いものね。ー。
桜姫と言えば、そうそうもうじきコクーンでコクーン歌舞伎版の桜姫と長塚圭史版の桜姫が上演されるんだよね。歌舞伎版の「桜姫」がコクーン歌舞伎シリーズの中でも傑出の出来だったので、今回の連続上演には期待が高まります!!

で、今回の舞台にまた話を戻しますと、、、南北が伝えたかった人間の性、この世の矛盾などなどが、すべて台詞として一辺倒に、解釈的言葉の羅列として語られてしまい、大学の哲学講義のような朗読会となってしまい、かえって演劇でこそ伝えられる可能性が高い「説明不可能な人間の不条理」が全く伝わってこないという結果になってしまった。
南北の世界を観客にとって分かりやすいよう、今のシチュエーションに置き換え、昨今の事件を連想させるような演出も試みて、思いっきり言葉で解説してくれたのかもしれないが、、、それだったら、多少古くさい文体でも鶴屋南北の戯曲読んだ方が良かったよね〜〜〜、きっと。
それよりも、オリジナルの翻だったら、船岩さんが日常不可解に感じる事、社会への疑問、男女間の不思議なんかを自分の言葉で、身近な例で語って欲しかった、かな。

「関数ドミノ」は間違いなく2009年一番の売れっ子演劇人、前川知大が今のブレイク直前の05年3月に上演した舞台舞台の再演。
赤坂の優良シアター(ここ見やすいし、いろいろな配慮もされていて、何と言ってもパブが階上にあってグッド)赤坂RED/THEATERで上演。
推理ドラマ仕立てになっていて、シンプルな舞台セットも有効に使われていて、それなりに上手く出来ているのだが、何と言ってもその内容がとっても気持ちの悪い(私にとって)もので、どうにもこうにも受け入れられない。ー舞台装置、演出、役者ともに別に悪いところは無いです。ホントー

簡単に言うと、世の中には`選ばれし人’ー超ラッキーな人でその人の願いごとはどんな小さな事でも何でも叶う。ーというのがいて、その存在に気づいた回りの人たちがその選ばれし人の存在を証明するべくその人と関わりを計り、その説を広げていくお話。最後に、人間の質(価値)を皮肉ったオチがついてくるのですがね。

で、何が気持ち悪いかというと、いくらドラマとは言え登場人物たちのあまりの自己チューな、それもあまりにもストレートすぎる感情の出し方がロボットのようで気持ち悪い。
安っぽいテレビドラマのような、そのあまりにも型にはまったキャラクターが、それぞれの対話が、シラケてしまった。
パンチラとエイズ治療とイリュージョンマジックが同じ温度で語られるのにもちょっと気持ちの悪さを感じてしまった。
そもそも`運の良い隣の人’という存在という設定にも、やはりそれほど惹かれない。
次回作に期待です。

と、それぞれに問題意識を全面に出した“若者が雄弁に語る”舞台を見続けた週末の夜、衛星放送のチャンネルを回していたら、以前観て大いに心動かされたティム・バートン監督、ユアン・マクレガー(めっちゃお気に入りの俳優)主演の映画「Big Fish」が始まったので再度観ることに。

で、この映画、最初から最後まで大風呂敷の広げっぱなしで、虹色の嘘で埋め尽くされた映画なのですが、これが思いっきり心に沁みてくる。
ご大層な教訓が語られる訳でもなく、エピソードそれぞれも子供だましのようなお話なのだが、見続けて行くうちにとっても大きな人生を続けるヒントを授かったように思えてくる、バートンマジックオンパレードの映画なのです。
演劇も映画も、おそらく観客に作品が届いた時点で完結するように出来ている芸術なのでしょう。
だから、舞台上で雄弁すぎても、劇作家のところで完璧に出来上がっていても、それが上演された時に観客席まで余波がなければ萎んでしまうのでしょう。
何を言わないで観客に想像させるのか、それが分かりながら作る事の出来る、やっぱりベテランの技なのかな〜〜〜〜!?


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2009年5月 5日 (火)

R2C2〜サイボーグなのでバンド辞めます!〜

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順番が入れ子になっておりますが、「R2C2」の劇評いきます。

お芝居の良いところがいろいろな面で上手く活かされている舞台で☆4つから5つの出来。
作者の音楽への思い入れが、その部分ブレがない分、いつものクドカン節の言葉ギャグ満載、役者ギャグ満載ながらもストーリーがしっかりしていて、その上ライブの特権でもある生演奏、生声、そして役者たちの競演の部分が分厚くかぶさってきて、上質のメイドインジャパンエンターテイメントに仕上がっている。

まず一番に生演奏のバンドが、その演奏+ヴォーカル(もちろん阿部サダヲ)それ単体としてもかなり楽しめるのがこの舞台の最大の強み。
それこそ、危なげなミュージカルなんかより、ぜんぜんパワーがあります。でもって歌詞がオリジナルなので説得力あるし。とってつけたような訳の歌詞ではないので、劇の中で効果ありです。
(以前にも書いたけど、オリジナルの楽曲でメイドインジャパンのミュージカル、もっとやってもらいたいです。松尾さんの「キレイ」とか今回の「R2C2」のように。可能性大だと思いますよ。ある意味、井上ひさしの音楽劇でももちろんグッドなのですが。)

今回の「R2C2」、渋谷という街にあるパルコ劇場で上演するのにまさに最適のミュージカル。劇場のキャラクターと芝居がまさにフィットした演目ー劇場のキャラクターってありますからね〜。渋谷のコクーンだったらこれ!新宿紀伊国屋だからこの演目、下北だったらやっぱりこの路線でこの客層とか、ね。ー。ipod携帯率だって、渋谷だったらかなり高いでしょうし、レコードショップもあちこちにあるし、何と言っても若者文化の発祥のであり、まただからこそ若者文化の消費の早さ、移り変わりの早さに翻弄されてゴチャゴチャ感がぬぐい去れない場所でもあるからこそ、この話ー近未来、若者は音楽を全て配信システムから入手して聞き流し、消費するようになっている。音楽をライブで聞いたり、CDという形のあるもので所有したりする若者はもういない。配信される、実際に作り手が誰なのか、誰が歌っているのかも定かではない心にひっかからない『癒し』系イージーリスニングの音楽が個々の耳に(実のところ政府がその音楽配信システムをコントロールしている)垂れ流されている。そんな音楽による人民統制プランに一役買っている天才音楽家クアトロ田村(森山未來)の父、パルコム田村(阿部サダヲ)はかつて人気を博したロックンローラーであった。30年の冷凍凍結から目覚めたバルコム田村が渋谷の街に血の通った音楽を取り戻す事は出来るのか。。。という、現在の音楽業界の矛盾(無料配信がもたらした様々な弊害と同時にその画期的な便宜性)をテーマにした、いろいろな問いかけがつまりにつまったー音楽のみならずアート全体における商業性とクォリティーの問題、英才教育がもたらす弊害、芸術家の著作権問題、ロボットの限界などなどー話でおまけのジョークがたくさんくっついているにもかかわらず、中だるみしない一本筋の通った話。

それぞれの役者たちも、役者の魅力を熟知している作者/演出家(宮藤官九郎)によるものだけあって、120%の魅力を発散している。

そんな中、今回が初見の松田龍平君。上手く彼のキャラも芝居の中に組み込まれていて、今回の舞台では○だが、もしも普通に他の舞台で観たら、、、どんな事になっているのか、かなり恐いもの見たさな次回ではあります。

平岩紙ちゃん、スゴすぎます。サダヲさんの完璧さは言うまでもなく!


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2009年4月15日 (水)

シュート・ザ・クロウ

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新国立劇場のシリーズ・同時代(海外編)Vol.2 -海外最前線の現代戯曲を日本演劇界の若手が演出する企画の第二弾、北アイルランドの劇作家、オーウェン・マカファーティーの12年前のデビュー戯曲を劇団ONEOR8主催の田村孝裕が演出した作品の初日を観劇。

北アイルランドのタイル貼り職人4人の話で、舞台には建設中の家の内部、タイル貼り途中の部屋二つと奥に屋外におかれたトラックと建設中の足場がちらっと見える舞台装置。
4人の男達の会話劇が左右に分かれた二つの部屋で展開していく。

英語でのworkは4レターワードと言われ、shi*やfuc*と同じ扱い。仕事が人生の重要部分を占める、勤勉な日本人とは仕事に関する感覚に違いがある。人生の意味は?と聞かれた時に、善くも悪くも「仕事の達成感」「仕事である程度の成功を収める事」と答える日本人が多いと思うが、英国では「仕事とは暮らして行くための手段であり、ある程度の食いぶちが稼げれば、あとは自分の為に、または家族の為に余暇を過ごすのは当たり前」となる。
この感覚の違いから(近年はそれでも両国のギャップも少しずつお互いに歩み寄っている部分もあると感じるが、それでも基本的にかなりの差がある)見受けられる、両国の文化の違いは日常生活のあちらこちらに見られて、英国に住む事になった日本人が感じる不便、理不尽の様々がこの感覚の違いに端を発している。
例えば、
*英国では電車が遅れるのが当たり前(最近は改善され、時々定刻通りに電車が来て、それこそ驚くこともしばしばある)。それに伴い、駅員が自分の労働時間を過ぎた時間に、定刻から遅れた電車が駅に入って来たときに平気な顔で「俺、もう時間外だから、この列車動かせないから、ここで全員降りて、次に来た電車に乗ってね〜〜〜。」なんて事も、マジ日常茶飯事。
*英国で暮らす日本人主婦がお怒りになるのが、、、修理屋さんや配達の人に予約を入れて、その日家に待機をしていても、すっぽかされる事が8割型起こる。まず、予約をしてその日中に来てもらえたら超ラッキー、で2回、3回の再度のアポイントは当たり前。(当人達はその理由をあれやこれやと、まさに芸術的な想像力で言い訳する。eg.前の仕事が押した、、というのは序の口で、車が手配できなかった、他の同僚が休んで人でがなかった、俺の予定帳には来週と書いてある、、などなど。ま、それでも今日は行けませんとの連絡があれば、まだましな部類。)
*実際に知っている人の話だが、その人はさっさと早期退職(普通のサラリーマンだったと思う)にのり、生活をそれまでより慎ましくして、趣味の合唱隊だかオーケストラだかの活動にいそしんでいる。決して、裕福な暮らしではないが、それこそ毎日食べて、ビールを飲めればオーケーとのこと。奥さん共々「本当に良い決断をした!」と自慢気に話してくれた。(ま、これに関しては国の福祉体制もからんでくる話なのですが)

などなど、ま、どちらの国が良いとは一概には言えないのはもちろん。日本人の勤勉気質が大変良く働く場合もあるし、英国人の各自の考える人生設計の多様さが豊かな人生を与えてくれる事もある。

で、芝居の話に戻るが、この芝居も年齢も家庭状況も異なる4人の一般市民達が仕事を通して、人生の意味ーそれは単に楽して大金を手に入れるかどうか、という事におさまらず、人生の先輩と後輩の関わり方、家族の存在、そして経営者と雇われ人の関係、仕事に関してのそれぞれの距離、将来への責任と残りの時間のすごし方などなど、、、本当にばかばかしいやりとりに聞こえる、この4人の会話にび〜〜〜〜〜〜っしりと様々な要素が詰め込まれている。

ばかばかしく聞こえる、時には異常にさえ見えるこの4人の人間達のドラマがこんなにも多くの事を気づかせてくれるのかと思うと、アイルランド劇作家の底力を感じずにはいられない。

2年続けて行ったエジンバラフェスティバルでもアイルランドのDruid Theatre発の芝居に立て続けにノックアウトをくらったし、個人的にもアイルランドの不条理な(別な言葉で言うとCrazyな)表現の芝居ががっつりストライクゾーンなのかもしれないが、この芝居も台詞一つ一つにかなり笑えました。

翻訳では伝わりにくい部分(慣習の違いや文化的背景から日本で言ってもあまり伝わらないだろうと思われる部分はカットしたそうです)は省いたそうなので、(全部は分からないとは思うが)あえて原語での芝居も観てみたいと思った。

あと、蛇足ですが、、、12年前の芝居が現在でも十二分に最先端として上演出来るわけですから、日本の良い戯曲の再発見もやりましょうよ。
宝の持ち腐れですから。


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2009年4月10日 (金)

その男 と 苛々する大人の絵本

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昼と夜とで、こんなにも違う世界(芝居)が観られる東京の演劇事情に感謝。

昼は4時間半という、東京速度ではあまりお目にかかれない長丁場の芝居「その男」を観る。
一時開幕というのも早いな〜と思っていたのだが、よくよく考えたら歌舞伎なんて午前中開演だものね〜、それにくらべたらなんて事はないんですよね。
上演時間だって、それだけたっぷりやってくれれば観劇しがいがあると思って喜ばなくては、と言う事なんでしょうか。
さすがに平日の昼間ということもあり、客席の年齢層は高め。夜の会だって遅い場合で6時始まりだから(5時開演の回もあり)やっぱり、この芝居を観るためには会社を休まなくては観られません。

で、長い長いと書きましたが、芝居自体はその長さを感じさせず、大掛かりな歌舞伎並みの舞台セットにしては場面転換もスピーディーでー舞台にスライディングする大木2本のセットがあり、それが幕の代わりになり暗転せずとも場面転換が出来るよう工夫されているー、役者陣も芸達者ぞろい(これは細部にわたり)で、安心して楽しめました。

お話は、江戸末期の争乱時期にお国のためという大義名分をかかげて殺し合う侍が後を絶たない中、剣のうではかなりのものながら、家族の為、男として生きながらえる道を選んだその男ー杉虎之助(上川隆也)ーの98年間にわたる生涯を描いた池波正太郎の人気小説を鈴木聡が戯曲化した芝居で、ラサール石井が演出を担当している。翻がしっかりしているので芝居に安定感ありー分かりやすいし、飽きない。

平和憲法を持つ現日本、しかしながら平成に入り回りの世界が次々と戦争を始める中、その国家の姿勢に疑問を持つ若者が増えている。それこそ若い人たちに表舞台の剣豪たち、龍馬や新撰組とは違う道を選んだ男の話を観てほしい気もする。
主演の上川が主人公・虎之助の人間的魅力を十二分に表現。これはキャスティングの勝利。
(彼が「ブスが好き」と言っても、ぜんぜん嫌みには聞こえない。)
ちゃんばらも、峠の茶屋のお団子も、はりぼての馬も、、、こうゆうものを観て安心するのは、やっぱり日本人だからな〜〜〜、といやに納得。
シェイクスピア芝居の剣の決闘とかいっても、やっぱりなんとなくまだまだ違う国の決闘という感じで、そのシーンはあまり長くは演じられないものね〜〜。
余談だが、今度、新国立劇場でシェイクスピアのヘンリー六世(三部作)をやるらしいけど、大丈夫なのかね〜?
幕末の話だったら、それこそ誰でも幕府サイドと反幕府サイドとの見分けがつくけど、赤ばら白ばらと言われても、、、その上、その関係ですらすごく複雑だし。
劇を観に行く前に予習しておけって事なのかな??(と、ぜんぜん関係ないが心配になる。)

で、夜は青山のマンションの1室(劇場:はこぶね)で劇団ペニノの「苛々する大人の絵本」ーぶたちゃんと羊ちゃん、そして思春期の受験生ーがそれぞれに妄想を繰り広げる、思いっきり不思議おかしい芝居を観る。

前回の公演を観てから1年、セットはほぼ同じで始まりも、、ぶた子ちゃんと羊ちゃんの日常の一コマ、愛情あふれるぶた子ちゃんは食欲も愛欲もいっぱいpigheart02というところから始まり、お〜いつものコンビ、と思って観ていると下の界で妄想を膨らませている何かと欲求不満の頭でっかち受験生が床をつきぬけるあたりから、前回とはちょっと様相が変わってくる。
今回はその受験生の頭でっかち君がさらに進んで、積極的におんなの子たちとコミュニケーションを図る。その関わり方が、かなり歪んでいて、へんちくりんではあるのだが。

限られた空間ゆえに劇団のファン、もしくは(おそらく)劇団に近い人たちなど、少なくとも「その男」を観に来ていた客層とはまったく重なりようがないような人たちが観に来ているのだが、チラシによると今度は次回のFestival/Tokyoに参加して、新作を発表するらしいので、その際にもっと幅広い人たちに彼らの作品が触れる事になると思う。
これはかなり期待大。
大変でも、毎回ぐらいのアフタートークを展開してもらいたい。
でもって、巣鴨でもこの公演と同様のナンセンス、不思議ワールドを展開してもらいたい。

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2009年4月 8日 (水)

Festival / Tokyo

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Festival/Tokyo良かったですね〜。
見応え十二分で企画の充実度満点、でもってスタッフの結束感、志の先が見えるような演劇祭でした。

プログラム・ディレクターの相馬さんは開幕前に予算が大幅に増えたのが大きな強み、とおっしゃっておりましたが、何をおっしゃいます。そのお金を有効に使ったからこそ成し得た結果ですよ。

これからもますます期待してしまいます。

では、ここらでフェスティバルプログラムのレビューを簡単に。観た順でいきましょうか?

*カール・マルクス:資本論、第一巻 リミニ・プロトコル

http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/ft20090213r1.html
(上のアドレス貼ってみるとDaniel Wetzel のインタビューが読めるよん)

前評判でダントツ一番人気の期待を裏切る事なく、刺激的な舞台を見せてくれた。
人々はわざわざ時間をさいて、何の為に劇場に足を運ぶのか?という原点にたちもどるかのような問に見事に答えてくれる舞台。
大人がわざわざお金を払い、足を運ぶのにはそれぞれの知的好奇心を満たすため、そして日々頭に浮かんでは、忙しさゆえにいつも忘れさられてしまっているような人々の大もとのところにある何かを見つけるヒントを探しに行くため、に劇場へ行くのでしょう。
で、この芝居、観客を受け身ではおいておかない、観客一人一人が観客席で自分の人生と照らし合わせながら舞台上で語られている事を頭で考えるように自然ともっていくようにできている。
舞台上の出来事が一つだけの答えを持ち合わせているのではなく、観客の人数分だけの答えを提供できる芝居。

*オセロー イ・ユンテク

日本側からク・ナウカ、韓国側からは演戯団コリペの俳優が集っての合同創作プロジェクト。
オセローといってもシェイクスピア戯曲の上演ではなく、ク・ナウカ主催の宮城聡企画原案による夢幻能として2008年にソウルで上演されたものを、さらに今回、韓国トップの演出家、イ・ユンテクが新たに演出。韓国独自のシャーマニズム舞踏の取り入れ、能戯曲プラス韓国舞踏と、まさに日韓文化混合の舞台として作り直したもの。

ユンテク監督が韓国国立劇場の芸術監督も努めた方だそうで、客席には韓国演劇関係者のお偉方がずらっと並んでご観劇。上演後のポストパフォーマンストークでもその中のお一人が今回の上演を讃える祝辞のようなコメントを発言したりしていた。

で、舞台はと〜〜〜〜〜〜ってもヴィジュアルが奇麗なのだが、その合同創作のあまりよくない面が出ていたようで、どちらか一人が最初から最後までオセローを独自の解釈で演出した方が良かったのでは?と思わせる残念な結果に。 というわけで、ク・ナウカ版オセロー観てみたくなりました。


*雲。家。Port B

オーストリアのノーベル賞作家、エルフリーデ・イェリネクによる40ページの戯曲「雲。家。」のPort Bバージョンで、07年にFestival/Tokyoの前身である東京国際芸術祭で上演されたものの再演。バージョンアップしての再演、とあったが、その違いはあまりよく分からなかった。
西すがも創造舎の体育館=劇場に設置された建設現場の足場のような鉄骨舞台。その鉄骨建造物一面に張られたスクリーンには時にはサンシャインビルが、また時にはそのビルの近くで若者たちにインタビューした映像が、そして時にはいろいろな国から日本へ来ている留学生たちの談話が映し出される。
その映像が映し出される以外では、延々とイェリネクの戯曲がPort B看板女優、暁子猫によって語られる。時に暗闇にその姿を隠し、声だけが劇場の暗闇に響きわたる。
「わたしたち。。。」で始まるその台詞はあくまでも断片的で抽象的。また、それぞれの映像に特別な注釈がつくわけでもない。でありながら、舞台はわたしたち=日本国とわたし=観客(国民)一人一人の関係性を見事に浮かび上がらせて行く。
戦後この両者の関係を重要視し、あるべき国家のすがたをつねに公の場で議論してきた国ドイツと国家の成り立ち(構成)すらあたふやで、さらにはその問題をそのままに放置しつづけている日本。
Port B=日本版「雲。家。」が忘れようとしている観客(国民)の意識を静かに喚起させる。


p.s.
この舞台とは別に、Port Bが年末に3日間連続の演劇プロジェクト「ディクテ・フォーラム」というのを決行しまして、残念ながら私は参加出来なかったのですが、これが横浜の街を巡りながら、様々な方面からゲストレクチャラーを呼んで各所でレクチャーをしてもらい、その行程を繰り返しながら、多方面から演劇を再考するというプロジェクトでして、、(その様子は彼らのHP www.portb.net から知ることが出来ます)。こうゆう企画わくわくしますね。
それこそ、わたくしたち日本人はレクチャーを聞く事はとっても上手に出来るのですが、如何せん討論debateというのが大の苦手で、ついついdebateが言い負かし合いになってしまうものです。それどころか、その前段階、議論discussionでさえ成り立たないことがしばしば。
演劇も舞台上と観客席の一対一の関係ではなく、このような数人が会する場で論じられる、それもある程度の時間をかけて、という機会がもっともっとあれば面白いのに、と思いますね。

*Hey Girl ロメオ・カステルッチ

こちらも間違いなく今回の目玉演目の一つ。
それが故に開幕前の劇場(体育館)もなんだか異様な熱気につつまれていたのですが、終わった後、その熱気がどこかへ抜けてしまったような、不思議な公演でした。
誰もが絶賛する、冒頭シーンーテーブルの上のアメーバー状のピンクの物体の中から裸体の女が脱皮して誕生するーは確かに、忘れられない強烈なイメージと共に残る、、、、がそれからの一連の各時代の`女’を連想されるシーンが、一つ一つとっても奇麗なのだが、ただそれだけで終わってしまったような感があり。ちょっと興醒め。
写真とかビデオとかでその美的な世界を見れば、それで満足できちゃうかも。
その女に関して、さらなる物語が欲しかった。
これは単に私の趣味かもしれないが、ダンスでも単にフィジカルなテクニックを見せられるだけのものにはあまり関心がないから。ダンスでもパフォーマンスでも総合的な世界観、あっと驚く新発見をさせてほしい。
あとは、この体育館の劇場、これが本当は集中していくべき熱気を発散方向へ向かわしてしまった一つの要素でもあったのかも。


*火の顔 松井周(サンプル)

演劇関係者、とくに小劇場愛好者に絶大な支持を得ている若手、松井周が手がける、ドイツの(やはり若手)奇才、マリウス・フォン・マイエンブルグ作、05年に本家ドイツのシャウビューネ劇場が来日して話題になった「火の顔」の邦訳版舞台。
後日、この舞台を観たドイツの演劇人が「ぼくはあまり気に入らなかった。だってあの劇はもっと社会色が濃くでた舞台であるべきなんだから、、日本版にはそれが感じられなかった。」と感想を述べていた。そのご指摘どおりなのだが、これが日本の「火の顔」なんだと言い返した。
前出のPort Bの欄でも述べたように、同じ敗戦国でありながら、この二つの国がとった戦後政策、そして一般国民の世界大戦に対する向き合い方はあまりにもかけ離れている。
さらには戦後も東西ドイツ分裂という形で戦争の責任をとりつづけたドイツと戦後、当時の戦争責任の追求を完結しないまま新しい時代に突入してしまった日本(沖縄問題などはありながら)とで、国家というものに対する国民の期待と注目度、また同時にそれに対する国民一人一人の責任感覚もかなりの違いがあるだろう。
そんな日本での舞台で、現状の日本社会を映し出す「火の顔」を創ったら、まさにこうなったということ。完全に意思の疎通のとれない親子同士、人は良いが家庭での存在感が全く無い父親、事なかれ主義で日常に流されている母親、大衆世間に不満を持つ内弁慶な思春期の娘、かっこつけていながらもろい娘の彼氏、そして全ての大人を信じられない息子。。。。彼らが自分が傷つく事を恐れ人との関わりをするりとかわしながら日常を暮らしていたある日、息子が姉と確実な繋がりを持つ(セックスをする)。人との関わりを持つことで彼の中の均衡が失われて行き、その崩壊が加速していく。

この主人公に後日談があるとすれば、やはりテレビのワイドショーで「まさか、そんな事をするような子には見えませんでしたよ。仲の良いご家庭で。」なんてコメントされてしまうのかも。

5人の役者がまさに、この日本版「火の顔」のための役者というほど、はまっていた。


*金柑少年 山海塾

なんだかすごいものをみせられたというのはわかるのだが、それ以上心に響く物語は聞こえてこなかった。こちらの舞台も映像とか、写真とかで満足できちゃうかも。
お芸術には、あまり興味がないんだよね〜。もっとがっつりくるものが観たい。


*blueLion 白井剛

同じ芸術だったら、こちらの方が(良い意味での)辛抱度があるし、ストーリーもあるし、ぜんぜん良い。
ソリッドな肉体が表現するミニマムな洗練されたダンスと他要素ーアコーディオン、ギター(ダンサーの方とこの二人のミュージシャンは家族なの?みんな寺田さんだったから。。。)、ヴォーカル、ピアノとのバランスもGood。
丁寧に伝えたいものを表現している、だからこそこちら側も見逃さず受け取ろうとする。


*コウカシタ 井出茂太

思いがけず(と言ったら失礼ですが)目から鱗の大当たりのダンス。これ好みです。大好きです。
こちらも振付家の井出がタイまで出向いて、オーディションして選んだタイ人のダンサー6人(76人の中から選ばれてます)と日本人ダンサー4人による混合チームのコラボレーション。
アフタートークによると、選ばれたタイ人の出演者の中にはプロのダンサーではなく、役者として活動している人たちも混ざっているとの事。
で、そのNONダンサーの人たちがまたいい味だしてましたー彼らもちゃんと踊ってましたよ、あしからずー、でもってタイ人の双子の女性ダンサーがメンバーにいるんだけど、この子達がスタイルが良くて、でもってその動きの格好良いこと!素敵な動きは観てて気持ちが良い、でもってワクワクする。
コンテンポラリーダンスってある種なんでもありの分野なので、作品を批評するのって大変難しいと思うのですが(作品を解説、または技術的に批評することは出来ても)、つまりは作品を通してどれだけ多くの人たちを気持ちよくさせたか、心を動かしたか、、というのが評価につながってくる=作品の成功と結びついてくると思うのですが、思いっきり、すっきりと大声でお勧めできるダンスでした。

それぞれのダンサーへの当て振りに近い作り方で自由な形式で創ったダンスがーこれもアフタートークで井出さんが言っていたことーアジアを思いっきり感じさせるごちゃ混ぜ感が楽しい舞台として完成してくれました。

*声紋都市ー父への手紙 松田正隆 マレビトの会

こちらも大きく期待を裏切って(またもや失礼なことを、本当にすみません)、大金星の舞台でした。
私、90年代に日本を留守にしていた事もあり、ぽっかり観ていない時代の演劇人というカテゴリーがありまして、マレビトの会・松田さんもその中に入るのです。
今までではキラリふじみで04年に観た「天の煙」が唯一の松田さん体験かも。
で、今回の舞台ですが、スクリーンに映し