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2013年4月 6日 (土)

パパのデモクラシー(4/4)

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永井愛率いる二兎社の出世作、95年文化庁芸術祭大賞受賞作品「パパのデモクラシー」を佐藤B作座長の劇団・東京ヴォードヴィルショーが上演、ゲスト演出家として鈴木裕美を起用しての舞台初日を満員の(その中にかなりの数で演劇関係者、舞台俳優、そして作者の永井氏の顔があり)座・高円寺で観る。

戦後生活史三部作の第二弾として執筆された本作。軍事独裁の体制から戦後になってデモクラシー(民主主義思想)を取り入れ、普及させていくという流れの初段階に起きていたであろうこと、さらには史実から検証して、果たして日本にはデモクラシーが植え付けられたと言えるのだろうか?。。。ー実のところ外的(占領軍)介入によってなし崩しにされたのでは?ーと問いかけている。

***あらすじ 演劇サイトより****

1946年、敗戦直後の東京。神主の木内忠宣は軍国主義の手先だったと非難され、デモクラシーの新時代においては、はなはだ分が悪い。長男はシベリヤ抑留中で、この食糧難に、長男の妻のふゆ、次男の宣清と居候の本橋(元特高警察官)を抱えている。そこへ、かつては国防婦人会のメンバーだった緑川が民主的活動家に転身し、戦災で住まいを失った人たちを預かれと、七人も押しつけてゆく。中には東宝映画で争議中の助監督・横倉たちもいて、何が民主的かをめぐり、たびたび忠宣ともめるのだった。ふゆはすっかり横倉に感化され、待遇改善を求めてストライキを始める。宣清は闇市をうろつきだした。そんな中、養子の千代吉が復員してくる。ふゆはオツムの弱い千代吉をオルグしようと民主主義を説くのだが……

**************

劇団での上演時の諸事情がわからないし、そもそも95年(その後97年に再演)初演舞台を観ていないので比べられないのだが、今回の舞台ではコメディーの部分があまり機能していなかった。

劇の前半〜中盤にかけての状況説明&人物相関の説明部分で市井のおかしな人々を描いた笑いが組み込まれているのだが、キャスティングの無理があったのか(例えば、佐藤B作が養子の千代吉というのはちょっとミスキャスティング?栗田桃子の出征中の長男の嫁ふゆ役も笑いまでは昇華していなかったかも)、傑作戯曲という重圧の前に自由度が損なわれたのか、初演時の劇団事情、コメディーという部分のサービス過剰が災いしたのか。。。丁寧に描いている部分が散漫な印象になってしまったのが残念。

それでも、劇終盤の劇の核の部分ー結局のところデモクラシーという言葉ばかりに踊らされたけれど、肝心のところでそれを手には入れなかったーというところのメッセージには核心をついた輝きがある。

結局のところ、この失敗を引きづり続け60年間、さらにはそこのところをうやむやにしてしまって目先のことばかりを追い続けたばかりに今日の状況があるということに気づかされる。(そこの部分で今日でも十分に訴えかける戯曲であるどころか、今、後退しつつある現状にこそもう一度考えるべき問いかけである)

もちろん作家の承認は必要だが、了承を得て、今回の上演用に翻の刈り込みをしてもよかったかも。

主人公木内役の石井愃一のベテランらしい丁寧な演技が見せ所となっている。

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