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2012年11月

2012年11月28日 (水)

地球★空洞説(11/28)

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池袋東口、豊島公会堂で流山児事務所総動員の大イベント音楽劇「地球★空洞説」を観る。
***演劇サイトより***
~一人の人間が「勃発」する!~
見世物小屋が建っている夕陽の公園からこの奇妙なミュージカルは始まる。街を巻き込む偶発的演劇?街から「一人の所在不明男が勃発する」ストーリーを軸に空気女と腹話術師、「他人」を演じる歌右衛門、不思議の国のアリス友の会の女子高生達が池袋の街を疾走する!

1973年市街劇として杉並区高円寺の小公園で上演された作品を2012年豊島区東池袋の小公園と公会堂で上演するJ・Aシーザー:音楽、坂本弘道:音楽監督、天野天街・村井雄・流山児祥:構成・演出、流山児★事務所劇団員総出演+実力派役者陣+オーディションメンバー!総勢50余人の「まったく新しい」半市街劇的ミュージカル・スペクタクル。これは「世界の何処にもない」TERAYAMA Musicalだ!『田園に死す』を超えるニンゲンの凄み・ニンゲンの熱情が爆発する「演劇」を超えた8日間の祝祭!を見逃すな。
*****
夜7時の本公演開園時間の10分前から公会堂の真向かいの公演でプロローグシーンあり。仕掛人流山児祥と大久保鷹が公園に集まった人々ー観客はもちろんのことそこにたまたま居合わせた池袋風来坊たちもいるーへ語りかける、胡散臭い前口上からして心誘われる。
公会堂へ移ってからは、ギシギシ音を立てる老朽化した観客席で50人を超えるキャストの生身の日本語による音楽劇(横文字でMusicalというよりも日本語できちんと言葉を伝えるミュージカル/ライブ音楽劇)が楽しめる。
音響設備が整っていない公会堂で、全ての言葉を拾うのはキツいが、そんなことは小さなことを思わせる、生身の人間によるライブパフォーマンス、俳優一人一人の個性が匂いたつ歌と踊り、マスダンスが展開される。
言葉の魔術師寺山修司が演劇に求めたものとは何だったのか。。。。韻を踏むことばに乗ってトランスするそのいかがわしさ、見せ物テイストのイベント、阿波踊りの呼び声のような「踊る阿呆に観る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損損。。。」というような集団の同時高揚感だったように思う。
その場にいなければ何も語れない、現場主義のイベント演劇。
元気のない昨今の演劇界にあって、あらためて目を覚まさせ、原点回帰させるような演劇上演。
まずはライブパフォーマンスの楽しさを体感してもらいたい。

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The Library of Life まとめ 図書館的人生(上)(11/27)

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日の裏姫物語(11/27)マチネ

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よわくてやわらかくてつよい生き物(11/24)

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アメリカン・ドリーム・ファクトリー(11/24)

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不変の価値(11/24)マチネ

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2012年11月24日 (土)

ボンビックス モリ with ラッシュ(11/23)

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***劇場HPより*****

イスラエルを拠点に活動する、インバル・ピント&アヴシャロム・ポラックダンスカンパニー。7年ぶりに当劇場に登場します。
 バットシェバ舞踊団でダンサーとして活躍していたインバルと、俳優・演出家として映画や演劇の世界で才能を発揮していたアヴシャロムによって、92年に結成された同カンパニー。イスラエルで数々の賞に輝くほか、イギリスのフェスティバル「ダンス・アンブレラ」でベストアーティストに選ばれ、全英ツアーを行うなど、国外でも高い評価を得ています。
今回の来日公演は、新作『ボンビックス モリ』を、日本のファンのために特別編成したスペシャルバージョンでおおくりします。〝ボンビックス モリ〟とは、ラテン語で蚕の意味。繭のようにフワフワと暖かく、絹のようにしなやかなダンスが繰り広げられます。『ゴールドフィッシュ』はファミリー向けのワンダーステージ。かわいらしいメイクや衣裳など、見た目にもキュートな彼らのステージは、観客をとりこにするに違いありません。魔法のような時間を体感してください。

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日本とイスラエルが外交を開始してから今年が60周年にあたるということで、埼玉でも世田谷でもイスラエルのダンスカンパニーが上演中。(埼玉は前述説明にあるバットシェバ舞踏団)

人形ぶりのようなキュートさとコミカルな動きとテイストで日本で人気の高いインバル・ピント&アヴァシャロム・ポラックダンスカンパニー。






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DAH-DAH-SKO-DAH-DAH(11/23)

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にしすがもから池袋に移って、もう一つのF/Tプログラム東京芸術劇プレイハウスで勅使川原三郎のダンス、「DAH-DAH-SKO-DAH-DAH」を観る。
***F/T12 HPより***
その研ぎすまされた思考と身体、美術や照明にまで行き渡る美意識で、世界のダンス/アートシーンを牽引し続ける勅使川原三郎。宮澤賢治の詩『原体剣舞連』(詩集『春と修羅』)に想を得た『DAH-DAH-SKO-DAH-DAH』(1991年初演)は、世界9カ国18都市で上演され、好評を博した代表作の一つだ。
 北上山地に伝わる剣舞の太鼓の響き、風の音、心臓の鼓動......勅使川原は、賢治の詩の世界を通り抜けながら、そこに書かれた調べ、音楽が生まれる以前の、音の塊、粒、ノイズへと近づいていく。時には力強く、時にはかすかに。音は空気を振るわせ、身体を、そして空間をも変質させる。そうして賢治の詩を解体した勅使川原の空間は、ふたたび詩の生まれる場所ともなる--。
 初演から21年。ますます東西の垣根なく活躍する勅使川原のグローバルな感覚は、西洋的なモダニズムと土俗的な趣向をないまぜにした賢治の言葉を、どのように聞き、通り抜けるのだろう。注目のリ・クリエーションが始まる。

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ステップメモリーズー抑圧されたものの帰還(11/23)マチネ

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↑カンパニー創設者、ユン・ソンハル氏からのコメントが記事中にあります。
にしすがも創造舍で上演中のF/T12メインプログラムの一つ韓国グリーンピグカンパニーの「ステップメモリーズ」を観る。
***F/T12 HPより****
韓国現代演劇を牽引する演出家、ユン・ハンソル率いるグリーンピグ。自らの活動を「現代文明をめぐる思考と抵抗の場」と捉える彼らは、映像をはじめとする他ジャンルとの共同作業を通し、常に新たな芸術形式を模索してきた。
朝鮮戦争を題材にした『ステップメモリーズ』は、2010年にソウルのトータル美術館で上演されたパフォーマンス。観客は、体験者の証言の再現や思想書等の引用、歴史的資料、映像や音楽をコラージュして作られた場面(空間)を巡り、体験する。それは、この戦争に関するさまざまな記憶に、国家や民族といった大文字の歴史とは別の「証言」の場を与え、現在進行形の「対話」へと誘う装置でもある。
今公演では、日本人キャストが新たに参加、会場に固有の歴史も踏まえた東京版の創造を目指すという。未曾有の体験、その記憶をいかに語り、伝えることができるのか。異国の地での実験は、その問いに新たな示唆を与えるだろう。
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***ネタばれ注意***
今回、日本バージョンとして演目前半部分のにしすがも創造舍のもと学校の校内を歩いて回るツアーの部分、そして後半体育館へ移ってから見る映像部分(韓国から展示物!?ーメモリーを再現する役者なんですがーがコンテナーで送られてくる様子を撮っている)に工夫あり。にしすがも創造舍の戦中、戦後史、そして韓国から日本へこの作品を持ってきた経路を紹介するというエピソードを組み込むことにより、この劇が隣の国で起きた戦争のはなし(だけ)ではないことを伝えている。
オーディションで選ばれたという埼玉ゴールドシアターの女優さんたちの演技も記憶に残る(蜷川氏はゴールドシアターですばらしい才能を発掘してくれたよね)のだが、2時間のプログラムで圧巻の部分はやはり体育館に移ってからの映像とパフォーマンスによる抑圧され、沈黙させられたものたちの記憶の発掘、解読、分析作業。
ウォーキングツアーの前のプログラム冒頭、「サロメ」ーワイルドのサロメではなく、新約聖書にあるヘロディアの娘の話に沿っているーにみる加害者=罪を犯したものと、それにより裁きを受けるべきもの(たち)のフリに対してここで答えとも思える案を挙げてみたり、視覚的に戦争による死の連鎖を暗示してみたり、言葉で、役者によるパフォーマンスで、そして映像ー録画のものと、ライブの映像を併用とありとあらゆる方法で、われわれが無自覚に見過ごしている誰かによって意図的に捏造された世の中の仕組みについて、そして忘却の彼方へ追いやられている真の戦争被害について覚醒を促してくれる。
コラージュのように見えるプログラム構成が実のところ、かなり巧みに仕組まれたものであることが分る。一見バラバラのように見えるがきちんと一本の太い糸で繋がっているのだ。
先日の中国のプログラム「狂人日記」と言い、この「ステップメモリーズ」と言い、近隣アジアの演劇は強い!目標がはっきりしているので迷いがない。
***
ところで、マチネ回の後、ポストパフォーマンストークがあり、F/T実行委員長の市村氏と今作構成・演出のユン氏が登壇したのだが、その中でちょっと気になることが語られていたので記しておく。
(残念ながら次の観劇予定のため、15分ぐらいで退場してしまったので話の結末までは知らないのだが)
と言うのも、どうも今回の上演直前にちょっとしたトラブルが発生したらしく、100%満足のいく上演と言うわけではなかったようなのだ。
いきさつとしては、当然のことながらある程度前から今回の上演は決まっていたのだが、どういうわけか来日4日前になってF/Tの事務局からプログラム内容の変更指示がきたという。その内容というのが、オリジナルでは土に生きたまま埋められて虐殺される人々の役は全裸にさせられて(もののように)殺されるという設定で役者は当然のことながら全裸でというシーンだったらしいのだが、全裸は困るのでその部分を変更するように、というお達しが届いたという。
演出家としては既に内容的に納得をした上で招待されたと思っていたというのと、やはり直前での、ハイライトとなるシーンの変更は躊躇するーそこまでして上演する意味に合点がいかないということだったらしい。
もやもやした気持ちで気がついたら東京に着いていたということで、そう言われればなんだか釈然としない面持ちだった。
それを聞いたこちらとしても、もやもやしてしまうこの話。なんだかステップメモリーズじゃないけれど、隠されたものを疑ってみたくなってしまう話ではないですか?
と言うのも、一方では同じフェスティバルの同じカテゴリーの演目として東京芸術劇場でポツドールの「夢の城」が上演されていて、多くの人が目撃しているように舞台にはフル○ンの輩がわんさか、でもって疑似セックスまで演じているんですけど。。こちらは問題なし、でどうしてこちらはダメなのかしら?(別にポツドールが云々ではないのはもちろん分ってもらえますよね)
それこそ、これまでのわいせつ/芸術論争の一端のように、われわれ一般人には理解しがたい、わいせつ提議みたいなものが関係してくるのでしょうか?(たとえば少しでも、例えばサングラスとか帽子とか、、を身につけていれば全裸とは言わないとか?????知らないけど)
おそらくはちょっとしたコミニュケーションの欠落?ちょっとした気のゆるみからの確認もれ、、とかいったことが原因なのかもしれないけど、(今日の芝居の)あの場面で全裸になったところで、何ら問題はなかったように思えるのですが。。それこそ市村氏が語っていた芸術における性の表現の規制云々にもかからないほど、性的表現でもなんでもなかったように思うのですが。むしろ服を着せる(なぜかグアンタナモのようなオレンジ色の囚人服を着ていた)方がハレンチ???って、これ何十年前のわいせつ/アート裁判だよね。
それも上演4日前にわざわざ、、、って、ほーら、なんだか変に疑っちゃうでしょ?(たんなる考え過ぎなのかな)
ぐちゃぐちゃの政党合併同様、世の中変なことがまかり通っているよね。

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2012年11月20日 (火)

星の息子(11/19)

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座・高円寺で燐光群の最新作「星の息子」ー2時間超え、坂手洋二渾身の大作ーを観る。
***演劇サイトより***
「人は死んだら星になる」って言ったのは、誰だっけ ……。

やんばるの空を飛んでいいのは、鳥と虫と、自由だけ。
『天皇と接吻』『沖縄ミルクプラントの最后』につづく、「戦後史」と「今」の集大成。

沖縄・やんばる地方では、オスプレイも飛来する米軍ヘリパッド基地建設や自然破壊に反対して、住民たちが座り込みの抗議活動をしています。いわゆる「活動家」はおらず、みんな生活者です。応援している人達もそうです。反対運動の住民たちが建てたやぐらに、女性たちが立てこもって、工事車両の搬入を身をもって遮っています。
そのうちの一人、夜空とやんばるの森の樹々に囲まれ、空中に浮かぶような場所から星を見上げる女、佐和子。彼女は今年初めて沖縄に来ました。彼女は回想します。自分はどうして孤独な人生を送るようになったか。四十年前の「沖縄復帰闘争」の時代、誰と出会い、何を喪ったか。そして長い間、過去に縛られ、自分に対して禁じていた想念を、解き放ちます。それは、彼女自身の人生を取り戻す旅の始まりでした。
**********
那覇からバスで3時間、自然豊かなやんばるの森の真ん中、一方では米軍訓練地帯が広がる広大な土地の中にある高江(たかえ)で今、起きている出来事を詳細に綴った芝居。
この「今現在」を証明するかのように、今朝のワイドショーの特集は先月の集団婦女暴行事件、そして今月初めの住居不法侵入・暴行事件をうけての駐留米兵への夜間外出禁止令が実際には徹底しておらず、またもや米兵が酩酊状態で民家に侵入し逮捕された、というまさに今も続いている基地周辺の状況をレポートしたものだった。

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2012年11月18日 (日)

アンティゴネーへの旅の記録とその上演(11/18)

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F/T12メインプログラムの一つマレビトの会の実験的作品(本公演の前にはブログを通して告知された場所(町中)でのプレ上演が長期に渡って行われていて、それに続いてのフェスティバル中の本公演では7時間/日という上演時間の中、出入り自由という上演形式がとられている)。
****F/T HPより****
未曾有の悲劇を体験した都市と向き合う『ヒロシマ−ナガサキ』シリーズを機に、現実の街や人に取材し、その過程を取り込んだ作品制作を続けるマレビトの会。東日本大震災から1年が経過した今、福島へと取材に向かう彼らの傍らには、ギリシャ悲劇『アンティゴネー』がある。
 国家に背いて死んだ兄の遺体を、法を無視して埋葬するアンティゴネーは、敵/味方、死者/生者といった境界を揺るがす象徴的な存在。架空の劇団が『アンティゴネー』を携え福島へ向かう−−という本作の設定は、3.11以後に露呈した社会の亀裂、境界線の曖昧さを改めて見つめ直す意味を持つ。
 この夏から始まる"旅公演"はブログ、ツイッターなどのウェブ上の痕跡を通じ、現実界に現れる。そしてF/T12の公演で初めて、俳優たちは観客の前に姿を現す。数々のテキスト、音響による上演、そして演技を通じた"旅"の再現......虚実入り交じるさまざまな報告への試みが、未知の風景、言葉への回路を開く。
**********
プレ公演はフォローしていなくて、本公演の最終日に駆けつけようと思っていたのだが、申し訳ないことに観劇叶わず。。(諸事情により)
なのでこのプログラムに関してはノーコメント。。。すみませんでした。

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ゲイ・ロメオ(11/18)

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F/Tの公募プログラムの一つ、シンガポールのパフォーマー/ダンサー、ダニエル・コックによる「ゲイ・ロメオ」をシアターグリーンで観る。
***F/T HPより***
映像をはじめとする多様なメディアをダンスに取り込み、観客との関係性に着目した作品を発表するダニエル・コック。パフォーマーが観客を「個人」として認識することで生まれるインタラクティブな時間を意図した本作は、彼とgayromeo.comというサイトで出会った男性たちとのデートに端を発する。記念のプレゼントを舞台上で紹介し、ポールダンスを披露するコック。その視線の先には招待されたデート相手も?舞台芸術の「見る/見られる」関係に変化が訪れる――。
**********
舞台はダニエルが舞台に現れ、HPにあるように彼が本作の為立ち上げたgayromeo.comを通してデートをした(東京とベルリンで45回のデートをしたそうだ)相手に関する印象、その際に感じた感情、また客観的な状況レポートからスタートする。
事前に配られたそのレポートに関する小冊子(英語&日本語)には、相手となった人たちの見かけの統計円グラフ(年齢層、身体の特徴、体位(!)など)から各々のデートの思い出を要約した文章などが丁寧に綴られている。
それぞれの相手からもらったという思い出の品を紹介しながら、その小冊子の該当ページを指示していくダニエル。
1時間の舞台の後半はダニエルがそんな今回関わった恋人(?!)/相手へ感謝の気持ちをこめておくるというダンスへと移行し、最後のクライマックスはアクロバティックなポールダンスで締めくくる。
パフォーマンスの見せ方、演劇/ダンスの効用に関して新しい可能性を提示してくれた意欲的な作品。
面白いものには人は即座に反応するのか、最終日となった本公演、客席はインターナショナルな顔ぶれも多く、大いに活気づいていた。

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光のない(11/17)

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F/T12の目玉プログラム、イェリネク三作連続上演の最後、地点の三浦基が演出した「光のない」を東京芸術劇場、プレイハウス(中劇場)で観る。
三作がそれぞれに趣向が違っていて、それでいてそれぞれにイェリネクの戯曲(というか詩的なテキスト)をしっかりと伝えていて、今年のこの三部作は見応えが十分だった。
****F/Tサイトより****
暗く、不穏な気配に満ちた空間で演奏を続ける「第一バイオリン(A)」と「第二バイオリン(B)」の対話からなる戯曲『光のない。』。ノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネクが東日本大震災と福島第一原発の事故への応答として発表した同作は、メディアを中心に無防備で時に狂騒的な多弁が増殖する世にあって、「発語すること」「聞くこと」、その主体性を鋭く問う。
  今回の日本初演の演出は、戯曲を文節単位にまで解剖し、俳優の声、身体と繫ぎ直す地点の三浦基。『中部電力芸術宣言』(2010年)など、電気と人間、音楽の関係を問う論考でも注目される作曲家・三輪眞弘を音楽監督に迎え、哲学から大衆文化まで、さまざま文脈を持つイェリネクのテキストの「声」や「音」が生まれる場所に接近する。
  対話の主はどうやら津波にさらわれた死者らしい。この舞台は彼らの声に耳を傾ける、鎮魂と祈り、自省と思索の時間ともなるはずだ。
*******
今作に関しては、地点特有の不自然な強弱がついた台詞回しも原作のポエム調の言葉に上手くドンピシャにはまり(まあ、その台詞術をラップとして受け入れれば、それもありなのだろうし、話言葉の戯曲ではなかったのでかえって上手くはたらいたのかも)、遠近法を用いたカメラレンズのような光のトンネルの舞台セットも秀逸で、八百屋形式のそのトンネルの傾斜がわれわれの眼前に山積された課題の困難さのようで、ヴィジュアル面でも、音の面でも高得点をはじき出し、かなりの完成度にまで達していた。
ポストパフォーマンストークで演出家自らが「劇団の台詞術がこれほどまでに上手く作品にはまることも少なくて。。。この方法を試してから10年目にしてやっとここまで来ることが出来た。」と自画自賛していたが、それにも大きく首を縦にふりたくなるほどに、見事な出来だった。
まあ、それにしてもこの舞台の勝因の大きなところはやはり、、テキストにあると言わざるを得ないだろう。
PortBの作品評でも書いたが、オーストリア人である作者がここまで的確に、そして深いところでわれわれの身近な問題ー原発採用ーの危険度を指摘してくれているのだから、、やはりそれに対して報いなければならないのだろう。
彼女(イェリネク)が言う通り、そして渡辺源四郎商店の作家畑澤聖悟が今年春の上演舞台「飛べ、原子力ロボむつ」で語ったように、この原発問題は今後何万年も続いていくのだから。

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地響き立てて嘘をつく(11/17)マチネ

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館そらみ率いるガレキの太鼓の新作舞台「地響き立てて嘘をつく」をアゴラ劇場で観る。
****演劇サイトより****
父は、原始人だった。―――――

1年半ぶりの新作本公演。
バカバカしいほどの人間賛歌の物語。
愚かな愚かな人類の、何千年の歩みを描く、
ガレキの太鼓流エンターテイメント。

―――――私たち、泣きながらでも神輿をかつぐ派です。
************

人類の、というか日本人史2000年(縄文〜21世紀の私たち)を駆け足でおさらいし、いろいろあるけど人の本質にそれほどの変化なし、と結ぶ。

その進歩の無さが情けないのだが、反面、同じことで傷つき、大騒ぎする、この人間らしさがやっかいなんだよね。その辺のところ、もうちょっと丁寧に描いて欲しかった。そんな些細な不思議を観に劇場へ行くのだから。

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夢の城(11/16)

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F/T のメインプログラムの一つとして上演された、三浦大輔率いるポツドールの代表作「夢の城ーCastle of Dreams」を東京芸術劇場小劇場で観る。
****F/T サイトより****

日常生活に潜む差別意識、屈折する性のありよう、暴発する孤独......現代日本の若者の生態観察を通じ、人間の「業」をつかみ出してみせるポツドール。そのシビアできめ細かな観察眼は、言葉はもちろん、ちょっとした身じろぎや目線に込められた感情にまで及び、観る者を時に震撼させる。
 『夢の城』は、主宰の三浦大輔が『愛の渦』で岸田戯曲賞を受賞した直後の2006年3月に発表された無言劇。敷きっぱなしの蒲団、洋服、食べ物、ゴミが散乱するアパートの一室で共同生活を送る8人の男女の日常をつぶさに写し取った同作は、国内のみならず、ヨーロッパ各地でも上演され、大きな話題を呼んだ。寝て、起きて、食べて、殴り合い、セックスする--。会話もなく、本能の趣くままに暮らす彼らの姿に、私たちは何を見出すだろう。初演から6年。2012年の現実からふたたび、あの「行き止まり」を振り返る。

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06年の初演は目玉をひんむきながらシアタートップスで観た。

一間のアパートで寝て、食って、無差別にやりまくって、排泄して、蹴飛ばしあう。。。彼らが檻の中の動物たちのように見えた。

だって私たち動物だもの、、「夢の城」が傑作である所以はそこにわれわれ人間の、動物からはちょこっとばかし進化している人間の感情を巧みに散布しているところ。

絶妙のバランスで「愛」が香る。。。でもって、またもや憎いほどの計算で野生が戻る。

今回の再演版はヨーロッパツアーを経て、さらにパワーアップしていた。




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小南管(11/16)

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F/Tの公募プログラムで台湾の伝統楽器「南管」を使ったコンテンポラリーダンスを観る。
***F/Tサイトより***
アメリカを中心に国際的に活躍するダンサー、リン・ウェンチョンが、2008年に台湾で設立したWCdance。小空間での「小(スモール)」シリーズの4作目となる本作は、中国・福建や台湾に伝わる南管(なんがん)音楽と若いダンサーとの出会い、そこから見出される問題を出発点としている。ダンサーたちのインタビュー映像と舞台上でのパフォーマンスを通じてあぶり出される、新たな視点、自己への疑問。その問題意識は、現代人の思考と想像力を大いに刺激するものだ。
*************

WCdanceカンパニーに所属する現代っ子たちにとって「南管」という楽器は未知のものであったらしい。

リーダーのウェンチョン氏がある日、彼にとっても馴染みのない「南管」音楽を聞いて純粋に良い音楽だな、これで作品を作ってみたいと思ったところから伝統音楽奏者たちとのコラボレーションプロジェクトが始まった、とのことだった。

キレのあるダンスと洗練された白いコスチューム、そんなスタイリッシュなダンスと南管の京劇を思い出す音とのセンスの良いコラボ自体もステキなのだが、このダンスプログラムに付け足されたインタビュー映像、さらには日本の観客を招いての伝統芸能レクチャーが面白い。

プログラム冒頭にはリーダーが(おそらく)メンバーに南管についてのそれぞれのイメージ、そして南管と各々との関係性を尋ねる映像が流れる。くったくなく「私の人生にはぜ〜〜んぜん関係ないものよ!」と答える映像が気が利いている。

その後、プログラム中に挟まれたもう一つの映像ー今度は南管音楽の権威の人々、つまり伝統芸能のお偉方にWCdanceカンパニーが南管を使った新しいプログラムを創作しようとしていることについてどう思うかに関しての白黒インタビュー映像ーがこの作品を単なるダンス披露公演に終わらせない。

伝統芸能の世界に属していながら、彼らの反応がとても柔軟なのだ。「誰にも聞かれずに衰退していくのだとしたら、。。それよりも若い人たちにどんどん新しいアイディアを持ちこんでもらって、新しい作品を作っていって欲しい。彼らの挑戦はウェルカムだ。」と言うのだ。

伝統を遺産にしないために、活きているアートとして発展させるために、アートは日々息をしている。

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2012年11月17日 (土)

あたまのうしろ(11/15)

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F/T 公募プログラムヒッピー部の「あたまのうしろ」をシアターグリーンで観る。
***演劇サイトより***
写真家・三野新を中心に、写真と身体行為の関係性を探求するヒッピー部。写真やその撮影自体をパフォーマティブなものとして捉える彼らが、本作で着目するのは、撮影者を動かす「予感」。目に見えない予感に呼応して時空間を切り取ることの意味とは? 過去を過去の瞬間のまま留めようとする写真と、再現や反復を繰り返す演劇に共通するものとは? 劇場空間で繰り返される撮影行為は、「予感」を呼び起こすための儀式にもたとえられる。
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一時間の小作品。舞台上は投射スクリーンとカメラマン役の役者が使用する三脚カメラぐらい、と至ってシンプル。

写真家さんが作っている作品らしく作品のメインはその投射されるイメージによる部分が大きく、ライブパフォーマンスの部分での醍醐味にかける。

これだったら、映像作品であとで夜中に観ても良いかも。。。

せっかく、観客が目の前にいるんだから、、何か舞台と客席とで共有出来るものがあったら。。。良いよね。


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2012年11月14日 (水)

光のないII(11/14)

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フェスティバル/トーキョーの顔、高山明率いるPort Bの最新作ウォーキングツアー型パフォーマンス「光のないII」を新橋界隈で体験する。

***F/T HPより*****

2011年9月、エルフリーデ・イェリネクは自らのウェブサイトで3.11に応答する戯曲『光のない。』を発表した。さらに2012年3月12日に公開された続編『光のないⅡ』は、既にエピローグ化され忘却されつつある福島の状況に大きな疑問符を投げかけるものであり、そこには死者に味方し、法や制度などの強大な権力を前にしても「言うこと」をやめなかった『アンティゴネー』(ソポクレス作)の言葉が散りばめられている。
F/Tから委嘱を受けたPortBの高山明は、この戯曲を上演するにあたり、東京の都市空間を福島に見立てる手法で、フィクショナルな「福島ツアー」を組織するという。観客は見慣れた東京の風景と報道写真によって印象づけられた福島の表象を重ね合わせながら、イェリネクやアンティゴネーの言葉に耳を傾けることになる。世界初のツアーパフォーマンスによるイェリネク戯曲上演。福島−東京のアクチュアルな関係を捉えなおす試みが始まる―。

*********
震災後に観た演劇作品の中で、震災を直接あつかったものが何本かあり、演劇作品であの震災を扱うことの難しさを痛感してきたのだが、ここにきてついにその分野における演劇表現の完成形ーかなりの完成度でこのテーマに適した作品ーに出会うことが出来たように思う。
先日観た、同じF/Tにおける「言葉」ー作・演出家の村川拓也が俳優とともに実際に被災地東北をボランティアとして訪れ、そこで感じたことを記録してきた言葉を再構築し、舞台にのせたもの。舞台では俳優二人の対話と手話通訳者によってそれらの言葉が発表されるー、そしてアゴラ劇場で観た「震災タクシー」(架空の劇団x渡辺源四郎商店合同公演)ー架空の劇団のくらもちひろゆき氏が震災当日に体験した出来事=いわき周辺の交通が麻痺してしまい、見知らぬ人たちとタクシーを相乗りし、到着地のいわきを目指したという珍道中の話とただひたすらに友人のために走るメロスの話(走れメロス)を平行して描いた作品ーその両方ともに物足りなさを感じ、そのなんとも訴えかけてこない距離はなんなのだろう、と思っていたところ、奇しくも今夜のこの「光のないII」でその足かせとなっていた距離感の問題の解決策を教えてもらったような気がする。
*****ネタばれ注意****
いたってシンプル、そして新橋の喧噪の中、なかなかに孤独(というか一人で集中しながら行う)なツアーパフォーマンスとなっている。要約してしまうと、耳からはイェリニクの研ぎすまされ、選び抜かれた今回の震災に関するテキストが入ってくるのだが、その背景には今のトーキョー(福島から200km離れた距離にある日本最大の都市)がべったりと、そして生生しく見えてくるという趣向。
頭で想像する福島の風景と目の前に広がる新橋の様子ー得体の知れない店が乱立する雑居ビル、威勢のよいパチンコ屋のノイズ、電気を放出し続けるネオンサイン、あの日、そしてあの場所が存在しないかのように忙しく日々をすごすトーキョー人たち などなどーが約2時間に渡って(長さは人それぞれの観賞ペースによる)ダブルサイトで情報として頭に流れ続ける。
わたしたちに現実に迫っている問題、今、そして明日も続いている問題、それらは200Kmの距離を一気にワープするかのように眼前に表れる。
イェリニクがヨーロッパにいながらにして福島を描いたように、理解と想像、そして演劇は距離を越えて、その主題に迫ることが可能だ。

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おじクロ(11/14)マチネ

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鈴木聡率いるラッパ屋の「おじクロ」を紀伊国屋ホールで観る。

毎回ながら客席で中高年の男性層が占める割合の多さに感心する。その意味では、劇団自体がすでに「おじクロ」的存在なのかも。

****劇団HPより 作者コメント***

「ももいろクローバーZ」をご存じだろうか。
赤・黄・ピンク・緑・紫の戦隊モノ風の衣装に身を包んだ5人組のガールズ・ユニットだ。うち4人が女子高生。ハイレベルな全力ライブが売り物で、最近とみに人気がある。でね、この、いわゆる「ももクロ」に、僕、ハマっちまったのです。ええ、大人ですよ、人生の酸いも甘いも人並みには知ったつもりですよ。その自分がいまさらアイドルのファンになるとは思っていなかった。どうしちゃったんだろう俺、弱っているのか。同じ思いのオヤジは多いらしく、コンサートDVDのレビューコーナーでは、「号泣しました」「人生が変わってしまいました」と、いい年こいたと思われる男どもが興奮と感動と戸惑いを熱く語っている。
僕も一晩中、語りたい。「ほかのアイドルとは全然違うんだよ!」「夏菜子のえびぞりジャンプは一瞬にして世界を輝かせるんだ!」「全力であるってことがどれだけ人を励ますのか、僕はももクロに教わったんだ!」・・目を伏せないでほしい。信じてついてきてほしい。ももクロにハマるオヤジの心には、笑いと悲しみと、シビアな現実と戦おうとする熱いドラマがたっぷりあるのである。
というわけで、「おじクロ」。お察しの通り、「おじさんクローバーZ」の略だ。ももクロにハマったオヤジたちが、ももクロが好きすぎて、さらに紆余曲折、のっぴきならぬ事情も重なって、ももクロのナンバーを踊るライブを企てる。家族の反対、周囲の白い目、中高年ならではのトラブルなど幾多の困難を乗り越えてライブ当日を迎える。さて、オヤジたちのえびぞりジャンプは世界を変えるのか・・。面白いぞ。痛々しいぞ。おまぬけすぎて泣けちゃうぞ。女子高生に負けるものか。ラッパ屋、全力でいきます! (鈴木聡)

**********

おじクロ、ももクロ、。。。がんばれば道は開ける。キーワードは全力投球。。というハートウォーミングなコメディ。

ちょっと前に大ヒットした英国映画、工業で成り立っていたイギリス北部の町で不況のため失業中の男達が一攫千金と将来の再起をかけて男性ストリップショーを計画し、奮い立つ「フル・モンティ」の下町版みたいな話。

達者な作者だけに平日昼間の回の劇場は大いに湧いていたが、本当にこんなことやっていてイイの???とマジに問いかけたくなった。

まあ、日本が平和なところである証とでも言えば良いのか。。

これが今程深刻な大不景気、大幅減給料時代でなければ、笑いながら観れたようにも思えるが、、、彼らの現実生活ー借金&失業ーの方の解決策、打開策に現実的な希望を感じられるような説得力が欲しかったかな。

実際のところ、この家族の5年後とか見てみたいよね。けっこう悲惨なような気がする。

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美しい星(11/12)

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昨年F/T11での上演舞台、東京タワーが目の前にそびえ立つ公園での屋外特設ステージでの芝居「復活」レビューがとても良い出来だったので、勢い勇んで初日舞台を観に行ったのだが、結果的にこれが何とも不思議な演劇体験となった。

62年に書かれた、その当時の世界における不安案件「核戦争勃発」を題材にした三島由紀夫のSF小説をベースにおそらくピーチャム・カンパニー主宰の川口典成氏が現代に表れたウラジミールとエストラゴン(ベケット「ゴドーを待ちながら」の主要登場人物)にその状況を俯瞰して観察し、何か「神」てきな、超自然的パワーのあるものによるこの危機的状況への「救い」を語らせるという部分を付け足した内容で、場所を屋外へ移してのエピローグを含め2時間15分ほどの大作となっていた。

***劇団HPより****

『美しい星』に描かれている或る家族は、地球とは別の天体から飛来した宇宙人であるという意識に目覚め、核兵器・原子力を手にしたことで人類が破局する危機に直面する地球を救おうと立ち上がります。
この作品の眼目は、宇宙人という外部的な存在(alien)を設定することで、人間・地球という存在を俯瞰的視野から考察・描写することを可能としたことにあるのですが、しかしながら、この作品の魅力はまた別の点にあります。
三島由紀夫は、宇宙人であるという意識に目覚めた彼らが持つ「人間の肉体」を執拗に描くのです。つまり、この小説のナラティヴは、宇宙人という意識を持ちながら人間の肉体を持っているという矛盾を含んだものとしてあります。
このナラティヴは、小説から演劇への移植の過程で、舞台上での役柄への漸近(宇宙人になろうとすること)と役者個人の肉体の桎梏(ぬぐいがたく人間であること)という演劇本来の「二重のナラティヴ」と接触し、小説で試みられた語りの戦略を、より直接的に露呈することになるのです。1ミリも肉体の外へは出ることができないという限界を持った人間が、「人類」や「世界」といったことをどのように思考・志向することができるのか。この演劇は、いま現在われわれが置かれている状況を思考・感受する方法を問い直し、探究し創造する演劇なのです。

ピーチャム・カンパニー 代表 川口典成

*********

不思議な観劇体験というのが、劇後半に行われたシーンに関すること。

演劇サイトCoRichのレビューにも書かれているのだが、観察者二人がメインストーリーを演じている演者ー宇宙人であると主張している家族の面々ーへ台本を手渡し、役者はそれを読みながら劇を進めていくのだが、これが油汗たらしながら、大いに台詞を噛みながら、時に間をあけ、ページを指でめくっての熱演なのだ。

どうもそのレビューによると、これらすべては演出意図の範囲内であるらしい。。。のだが、(それが確信犯的な演出によるものだとしたらまたややこしいことになるのだが)その熱演のおかげというべきか。。どうにもこうにも台詞が淀んでしまって、観ている側の頭に入ってこない。

今年のF/T12のテーマでもある「言葉」(「ことばの彼方へ」というのが今年のメインコンセプト)ということを意識して、の、三島の文学であり、観察者二人によるわれわれの未来を見据えた内容のダイアローグの応酬なのであろうが、その大切なところであるはずの「こ・と・ば」が伝わってこない。

昨年に引き続き、劇場ではない場所を厳選して(ブティックホテルの最上階にあるギャラリースペースと世田谷の街が一望出来る屋上テラスを使用)、そのイレギュラーな場所を活かすために趣向を凝らしての演出なのだが、、、やはりこの上演で強調するべきところはテキストだったはず。。そのわりには、そのメインの部分が危うすぎた。

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Co-Lab: ソウル—ベルリン(11/12)

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狂人日記(11/10)

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2012年11月11日 (日)

震災タクシー(11/10)

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2012年11月 9日 (金)

レヒニッツ(皆殺しの天使)11/9

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F/T12の目玉プログラム、スイス人ヨッシ・ヴィーラー演出、ノーベル文学賞受賞者オーストリア人作家エルフリーデ・イェリネク作の「レヒニッツ(皆殺しの天使)」を東京芸術劇場プレイハウス(もと中劇場)で観る。

奇しくも、同じ劇場でロングラン公演をしていた野田マップの「エッグ」と対を成すような、第二次大戦戦後、それぞれの主要敗戦国ードイツ、日本ーが負い続けている戦争責任、戦後の精神性の確立を考えるような作品だった。

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霊感少女ヒドミ(11/9)

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言葉(11/8)

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4four(11/8)

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世田谷パブリック主催好演、劇場の新しい試み「劇作家の作業場」というプロジェクトから生まれた新作劇「4four」を小劇場シアタートラムで観る。

このプロジェクト、初めに上演ありきで戯曲を書くのではなく、劇作家がある程度の期間をかけて劇場支援のもと戯曲を発展させていくというもので、途中ワークインプログレス(WIP)の形式でリーディングなどの発表の場を経ながら最終的に上演までもっていくというもの。

(ちょうど、NYで演劇活動をしていた演出家の小川絵梨子さんに話を聞く機会があったのだが、NYなどではこのプロセスをとることが多いということだった。スコットランド、エジンバラのトラヴァース劇場の文芸マネージャーに会った時にも同じことを話していたのを思い出した。)

例えば、今回の舞台に関してはおよそ2年間を費やしているという。

劇作家は川村毅、そして演出を白井晃と意図的に分業性にしているのも興味深い。(劇作家に作家の仕事に専念してもらうため?ーこのシステムも欧米ではほとんどの場合で当てはまる。)

で、その成果はいかに??ーーー各々(作家/演出家)の代表作と言われるようになるであろうと思わせるほどに素晴らしい舞台だった。

***ネタばれ注意****

タイトルの「4four」とは日本語の音どおり「死」を指していて、日本における「死刑制度」についてを問う内容となっている。

「死刑」に関わる4人の人々(死刑囚、裁判員、法務大臣、死刑執行の刑務官ーー高橋一生、池田鉄洋、田山涼生、須賀貴匡)がそれぞれ「死刑」に向き合い関わったことに関して「死刑」とは「死」とは「国家が裁く」とはといったことに関してのモノローグ(時に他者を糾弾)を展開する。さらに、上演プログラムによるとこの舞台より前のWIP試演段階ではなかった役という第五の男(野間口徹)がその展開をもの静かに見守っている。

白井晃氏の演出はこの`人ごと’`机上の論理’になりかねない目には見えない論理論争を観客一人一人の身体に出来うるかぎり近づけるという手法。みかん箱(世田谷パブリックのネームが入ったポッシュなみかん木箱)を無造作に置いたシアタートラムの床一面が観客席となっていて、各々が好き勝手な方向(とは言え、まあみんなほぼ中心へ向けて座るわけだが)で着席している観客たちの隙間スレスレを縦横無尽に歩き、時に駆け抜けながら4人の男たちがそれぞれに体感した「隣のだれかの死」についての話を続ける。

作者がプログラムの中で「。。(抜粋)そもそもあるひとつのイデオロギーを唱えるためにこの戯曲を書いたつもりではない。。」と語っているように、死刑制度廃止論を諭すものではなく、普段われわれが見て見ぬ振りをしている「死刑」というものが実のところは日常で存在していて、今でも誰かはその朝の通告に怯え、誰かが実務的に法的殺人(多少、言葉の過多な表現であるとしても)の実務、処理を行っているというそのことを法治国家に属する一員として認識しようという呼びかけ、警告であると思う。

その意味からすると、何もこの意識覚醒の呼びかけは「死刑制度」に限ったことではなく、今起こっている多くの問題ー「原発存続するのかどうか」また「TPPを推進するのか」「沖縄米軍基地を議論なきまま続けるのか」。。。さらにはもっと身近の様々な法の壁に関することがらへと繋がっていく。

法を守るためにその法を日々刷新、考え直していく。。。それが国民一人一人の義務ではないのか、と。

5人の俳優はチームワークよく好演。中でも若手二人、須賀貴匡、高橋一生が精彩を放っていた。

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2012年11月 8日 (木)

ひーるべる(11/7)

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座・高円寺で松村武率いいるカムカムミニキーナの新作「ひーるべる」を観る。
90年発足なので20年以上の歴史を持つ劇団。他の長年続いている劇団同様、劇団カラーは定着しているようでーカムカム観劇は昨年の同劇場での「かざかみパンチ」以来二度目ー古事記をもとに(どうもこの古事記ベースの話というのは昨年、今年にかぎり作者村松氏がたてた指標であるらしい)、空想ファンタジー+歴史に埋没しているマイノリティーの再発掘+プロレス技(必須)という構造を成すようである。
***演劇サイトより あらすじ***
陸の上には「るーる」の国の王がいて、
海の底には「ひーる」の国の王がいる…

ひーる  治療
ひーる  悪の役割
ひーる  緩やかな丘
ひーる  間延びする昼
ひーる  見はるかす一面の蛭
るーる  るーるる るるるるる 歌

まだ劇世界は謎に包まれたまま。
しかし今年も松村武が紡ぎ出す物語は、
日本神話をベースに重厚で、
時に軽やかで、苦い笑いに満ち、
観る者を圧倒しそうです。
***********
「ひーるべる」というタイトルがまず謎なのだが、このあらすじにあるように「ひーる」という言葉から連想される負のカテゴリー、悪役ヒール、古事記にある最初の神の子でありながら不具の子のため葦の舟にのせられて流されてしまう「ヒルコ」。。などなどが架空の王国の古代話の中で、さらには現代へと繋がって(つまりいつの世にもこのような悲劇は起こっているということを示唆)浮かび上がり、それらを忘れ去ろうとする人々へ警鐘を鳴らす、ヒールたちがベルを鳴らすおなはし。
前半部分では劇の三要素、ファンタジー、古事記、プロレスの切り替え、そして混在具合がすっきりせず、少し緩慢な印象を与えるのだが、休憩後の後半は古事記の部分がはっきりと打ち出され、話に弾みがつき、一気にフィナーレへと向かう。
せっかく劇で話をつくっているにもかかわらず、出来事を語りで説明してしまうナレーション部分が多すぎるのが少し気になる。笑いと動きと語りの部分を隔離せずに自然に溶け込むようにしてくれればさらなる一体感が出るのかも。
中堅(老舗??)劇団ならではの役者のこなれ感、上手さ、そして今回のゲスト出演者たちー若松力(終演後のトークで若松武さんの息子さんと判明。言われてあらためて見てみると確かに面影が)、金児憲史、広澤草ーとのバランスも良し。
アフタートークでの劇団の顔勢揃いでの告知&トーク、村松+八嶋智人+(トークのみ特別参加で)山崎樹範はテッパンの爆笑ものだった。

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2012年11月 6日 (火)

完全版・人間失格(11/5)ー女バージョン

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青山円形劇場で谷賢一氏率いるDULL-COLORED POPの「完全版・人間失格」女バージョン(コロ主演)を観る。
この作品、演劇サイトの説明の中にもあるように、2010年に開催された企画上演、小劇場劇団が太宰治作品をベースに創作したオリジナル短編(25〜30分程度)作品を同時に上演して観客からの投票を募るという公演の際に今回の女版の主演と同じくコロが人間失格の主人公、自分の主体が無いやどり木男を好演し観客投票1位を獲得した作品の2時間完全版。
2年前の上演レビューはこちらから
演劇サイトCoRichでも観劇者からコメントがあがっていた、「2時間の完全版になったからと言ってその分よくなるとは限らない」という意見に賛同。
むしろ余計な修飾、必要ない状況説明が多くなってショートバージョンよりもパンチに欠け、単調な印象に。

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2012年11月 5日 (月)

1月8日、君はどこにいたのか?(11/3)

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イランからの招聘プログラム「1月8日、君はどこにいたのか?」を東京芸術劇場小劇場で観る。

****F/T HPより******

2009年6月以降テヘランで起こったイラン大統領選挙をめぐる抗議運動と激しい弾圧の応酬。それを留学先の英国で知ったコヘスタニは、自身が体験しなかったその事件の真実を、大統領選挙後のテヘランを見つめることを通して探り出す。揺らぐ社会正義、他者の犠牲の上に成り立つ正当性、潜在的な言葉の暴力、女性の社会参加――。一つの疑惑をめぐる男女6人の携帯での会話と出来事の断片は、彼の見たイラン社会の世相、テヘランの抑圧された真実を伝える。シンボリズムとリアリズムの狭間、検閲の網を掻い潜りながら、コヘスタニの作品は、彼の生きる社会を映し出す鏡のように観客の面前に立ち現れる。

巧みな構成と対話が浮き彫りにする、イランの若者の生きる現実

舞台は、1月8日、雪が降る真夜中のテヘランの郊外から始まる。4人の若い女性ファーティ、サラ、サゴール、シーデーがジャン・ジュネの『女中たち』を稽古していた。ファーティの婚約者アリが稽古を見に来ていた。彼は兵士として警察署に勤めている。本来ならば、その場にいるべきではないのだが、ファーティが強く言い張ったのだ。イランの法律では兵士が武器を個人の家に持ち込むことが禁止されている。そのため、アリは持ち出した銃とともに、夜明け前に警察署に戻ることを上官に約束していた。しかし雪に足止めされ、そこに居合わせたアブディとともに、その家で一晩を過ごさねばならなくなった。

翌日、アリが目覚めた時、銃が消え、彼一人が家に取り残されていた。

『1月8日、君はどこにいたのか?』はその晩稽古に参加していた6人の若者たちが繰り広げる携帯での会話からなる。誰が銃を奪ったのか? 何のために? 隠語や嘘が飛び交う思わせぶりな言葉――そこに浮かび上がるのは、検閲に脅かされ、疑惑と焦燥に苛まれる現代のイランに生きる若者の現実だ。

**********

対面式に設置された観客席の間、細長い舞台の上には白いタイルのような紙片が敷き詰められ、数人の役者が両サイドのベンチに腰掛けている。字幕用のスクリーンが全方向(4つの壁)に用意され、会話、時にはイメージ映像が映し出される。女優陣は皆スカーフを巻いている。そして全員が携帯電話を持ち、その携帯での通話によって劇が進行していく。

状況説明なしに問題の核心となる銃の在処をたずねる電話での会話から劇が始まり、そのまま断片的なそれぞれの関係者の言い分で話が進んでいくのだが、丁寧に字幕がつけられているので、集中して見続けていけば展開を見失うことはない。力による優位を得たひとたちが陥りがちな負のスパイラル、力を得た瞬間に被害者が加害者へと瞬時に変貌してしまう、そんな人間心理を描く一方で人類の進歩は成されたのか、といつになっても変わらない人の愚かさを示唆している。

代わる代わるに携帯で話を続ける役者たちの傍ら、大きなスクリーンに映し出されるイメージ映像ー例えば登場人物の一人のデスクの引き出しが開け閉めされ、その中味が大写しにされる。そこで政治的な策略の話から一挙にクローズアップしてその人物のプライベートな部分を垣間みることができるーがその会話に状況を肉付けする。

上演後にポストパフォーマンストークがあり、F/Tプログラムダイレクターの相馬氏と作品演出のコヘスタニ氏がイランの社会状況、演劇上演に際しての検閲の執行方法などについてのトークを展開していた。

前作の「隣人ジミーの不在」でも当日パンフレットからのインフォメーションの重要さ指摘したのだが、今回の上演でも、このポストトークを聞いたのと聞かないのとでは、観劇の最終的な充足度にかなりの違いがでるような気がした(時間の関係で全ての人にかなえられることではないとは承知しているのだが)。F/Tプログラムに関しては、トークや印刷やネットによるアーティスト情報をひっくるめての観劇体験と言えるかもしれない。

それもこれも、残念なことに、やはりイランと言う国の状況にあまりにも疎いというのがその原因の一つではあるとおもうのだがー(日本でもBBCテレビとかを観ていると中東問題も頻繁に扱っているのでひっかかってきたりするのだが、如何せん、日本のメディアでは一般的にはそれほどの頻度では扱わないので)ーあまりにも知らなすぎるから。まあ、逆にこの機会に観劇を通して少しでも知ることが出来てよかったとも言える。

で、そのトークの中で多くの時間をかけてイランにおける検閲について語っていた。コヘスタニ氏は検閲と言ってもそれが大前提の演劇上演と考えれば、そのシステムを上手く使うことによりそれほどにネガティブなものでもなくなる。メタファーを使って、さらには検閲官の意見も参照して直接的な表現無しに、それでも意見の表現は可能である、と。さらには、そもそも検閲というのはどこの国にも存在するもので、その方法、表れ方がそれぞれに違うだけである、とも語っていた。

う〜〜〜〜〜む、そうなのかな?

もちろん、彼は自国の状況を熟知した上でポジティブな姿勢からの発言としてこの意見を述べていたのだとは思うが、英国における例えば上演拒否のケースと厳しい検閲規制がしかれている国と、、、どこかの国のように暗黙のうんちゃらという見えない検閲があるところと、、、各々の状況にはかなりの温度差があるように思う。

人権の侵害や宗教の自由の侵害、人種による偏見による人格侵害なんていうのは、もちろん「法律」で規制されていること。それを犯すのと表現の自由というのは別モノだからね。

その意味からすると、元来、表現の自由が前提である国で、どこかの反対するトラブルメーカーによる混乱を避けるためとか大きな組織の思惑によって、、、その自由が自粛させられてしまう、なんてことが起きているとしたら、、それはそれでとてもコワいよね。

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2012年11月 3日 (土)

隣人ジミーの不在(11/2)

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引き続きFestival/Tokyo、神里雄大率いる岡崎藝術座が昨年に引き続きF/Tで新作を上演。
初日舞台を東池袋あうるすぽっとで観る。
****演劇サイトより***
日常に根ざした言語・身体を、その柔軟な発想で、劇的で鮮烈な表現へと変換、昇華する岡崎藝術座。不穏なもの=「ダークマター」を背後に感じつつ、怠惰な暮らしを送る「移民=日本人=牛」たちの姿を描いたF/T11『レッドと黒の膨張する半球体』は、コミュニティに潜む差別、同化と伝統の葛藤から、原発事故後の混乱や日米関係に至るまで、現代日本の抱えるさまざまな問題に鋭く斬り込んだ意欲作として大きな話題を呼んだ。
 この春にヨーロッパの演劇祭を旅した経験を経て、主宰、神里雄大がたどり着いたテーマは「隣り」。「隣りの芝生は青い」などという時、私たちは何を基準にしているのだろう。「隣り」の何を知っているというのだろう。クリエーションの場を韓国にも置き、自ら未知の隣国との出会い、対話を図った本作。「出会い」や「知ること」の恐怖、戸惑いさえも飲み込みながら、他者/自己、他国/自国の関係を見つめ直そうとする彼らの思考過程、その先に描かれる新たな「日本像」に注目したい。
***********

チラシにあるようなカラフルな地球のタマが浮いている他は何もない舞台。

俳優三人がグローバルなのか、ローカルなのか。。。嘘なのか本当なのか分らない不思議な世界を次々と繋げていく休憩を挟んで1時間半強の舞台。

身一つでふらっと登場した男女。探り合い、触りあいながら目の前のパートナーを確認していく。

その直後、長年不妊で悩んでいたこの夫婦が待望の子どもを授かったことが知らされる。ハッピーニュース、と思いきや、なぜか夫は執拗に妻の浮気を疑い、子どもも他の浮気相手の子どもだと言い張る。

事前に観客全員に配られるプログラムに”隣人=よく分らない人”をめぐって、、という作・演出の神里氏が語る今作品の創作意図を語っているインタビューがあるので、これから観劇する人はぜひ観る前に一読することをおススメする。
この神里氏の頭の中をちらっと覗いた内容の情報を入れていると大いに作品鑑賞の手引きとなるので。

隣人=アジアとの関係をリアルなところで表現してみせたり、時にはもっと身近な隣人=家族の一人であったり、とても近しいしからこそ分りあえていると”思い込んでいる”友人、知人などに関してのいかにそれが思い込みであって自己と他者のあいだにはわかっていない部分が多いのかという事例を時にブラックにー>(クロマティのくだりなど)、時にシニカルな笑いで見せてくれる。

アフタートークで「後半に出てくるエピソードはその多くが実際に自分に、もしくは自分の回りで起きたことばかり」と語っていた神里氏。そこに明白な答えは出さず、観る側の個人それぞれに判断を託してみたと言う。

国家とはそこに属している個人とは、、そしてグローバル、さらに国際的視点とは、、舞台で起きている一見たわいもない、そして不条理な関係の衝突をすこし広げて解釈してみることで、昨今この国が抱えている問題の原因も見えてきたりする。



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地球★空洞説ープレビュー

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今月22日から池袋東口、ビックカメラの裏、というか豊島区役所の隣、豊島公会堂(みらい座いけぶくろ)で上演される豊島区制執行80周年記念事業テラヤマ見せ物ミュージカル「地球★空洞説」の公開稽古へ行ってきた。

30年前、1973年に高円寺の小さな公演で上演された市街劇「地球空洞説」ーどんな市街劇だったんでしょうね〜〜、興味津々。。73年だったらそこからそれほど離れていないところで弟の頭どついて遊んでたと思うんだけど。。そんな怪しげなことが高円寺で行われていたとは。いつの世にも仕掛人とかいるもんだよねーを三人の演出家、天野天街、村井雄、流山児祥が50数名の流山児★事務所総出演の大掛かりな舞台として2012年版に生まれ変わらせて上演するという舞台。

稽古見学日には役者総出のシーン、彼らが寺山修司のこ・と・ばを発しながら観客席通路を練り歩くシーンも見せてもらった。

まだ衣装やセットはなく、人が大挙して移動する、そのダイナミズムを見ただけなのだが、それだけでも結構ワクワクする。

豊島区との連携プロジェクトとして今後3年間、毎年秋にこの公会堂を使っての、寺山芝居の上演が企画されているとのこと。ーその後はこの旧式の公会堂も新たに生まれ変わるらしいー

都会からどんどん猥雑な、あやしい気な場所(公会堂なのできちんとしたホールだが、今の時代においてはやはりこの古さがかえって珍しい)が消えていきつつある昨今、変わる前の池袋で`見せ物ミュージカル’でイベント参加、も単純に楽しめそう。

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2012年11月 1日 (木)

シルヴィア(10/31)

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一日あけて、またもや新国立劇場へ。
今晩はバレエ部門の芸術監督デヴィッド・ビントレーが英国で芸術監督を務めるロイヤル・バーミンガム・バレエ団で振り付け(93年に日本人ダンサー吉田都のキャストで上演、その後09年に改訂版を創作し、今回はその改訂版を上演)、日本では初演となる「シルヴィア」を、やはりバーミンガムからのゲストダンサーたち佐久間奈緒とツァオ・チーのキャストで観る。
プログラムの中で振付家ビントレーが語っているように、「シルヴィア」は長い間忘れ去られたうえに、成功を収めた上演も少なかった演目であるらしい。
ギリシャ神話をベースにした話に現代の観客を納得させるほどの説得力がないこと、また昔ばなしとして馴染みのない神話のキャラクターたちの行動を読み解くほどには神話が一般普及していないことなどがそのいまひとつ受け入れられなかった原因であるようなのだ。93年の初演版ではその壁を越えたとは思えなかったらしいのだが(自ら過去の作品を分析してこのように語っている)、その後このストーリーの流れをスムーズにするべく工夫を凝らし、古代神話の恋愛事情として終わらせずに現代人の愛のすれ違いの話を最初と最後に付け足し神話を彼らへの教訓話のファンタジーとすることにより今作ではわれわれ観客の日常とシルヴィアの神々の逸話をぐっと近づけることに成功している。
ビントレーバレエの特徴の一つである、とてもドラマ(演劇)仕立てな舞台構成で、何回も同じ演目を観てほとんどの人が筋を理解しているメインレパートリーの上演とは違う初めての演目ながら、事前に配られるあらすじの助けを少し借りれば、それこそ全く無理無く舞台の流れについていくことが出来る。(踊りとは言え、観ていて話が分らないことほどイライラすることはないので)
振り付けもオリジナルでユニーク。力強く、アクロバティックなリフトとコミカルな演技のような振り、そして細かい足技が光る。
主役の二人は所属するバーミンガム・バレエ団でもよく一緒に組んでいるらしく、それぞれの技術的安定感に加え、コンビとしてもしっくりと納まりが良い。
日本の他のどこでも観られないような演目が新国立劇場で観ることが出来る!これこそが新国立劇場が兼任を承知で、わざわざビントレー氏を迎え入れた理由であり、今回の舞台を観ても、そして前回の日英、和洋折衷「パゴダの王子」上演の成功をみても、それが英断であったのは明らか。願わくば、、それこそここが兼任のイタいところなのだが、、もっと芸術監督の作品を!!さらには英国バレエ団との密な関係、コラボを!!(今後はもう少し増えるようだが)
現状の日本バレエ界のように、お決まりの演目上演ばかりだと、歌舞伎鑑賞のようにバレエ観劇もキャストで観劇日を選んで、ちがったキャストを見比べるという楽しみを重視するようになってしまう。確かにその楽しみもあるだろうが、演目自体を、新しい演出・振り付けを楽しむという観劇寄りの楽しみというチョイスがもっとあっても良いような気がする。
まあ、このあたりが昨今のバレエブームが状況を改善しているとは言え、まだまだヨーロッパなどのバレエ文化大国にはまだまだ及ばない点なのだろうと思う。
レパートリー上演が常時行われているのが前提で、実験的作品の上演、新しい才能の起用をする。。。ここまでくるのにはまだまだ相当の年月がかかりそう。
当面はこの新国立劇場の変化をバックアップして、、国内バレエ団勢力図の活性化、つまり、最近渋谷を拠点とし始めた熊川氏率いるKバレエ団の快進撃を脅かすようなライバルバレエ団の台頭、それによりさらなる全体の活性化を目指してもらいたいもの。

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