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2012年10月

2012年10月31日 (水)

LFKs「たった一人の中庭」(10/30)

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「女司祭ー危機三部作」の興奮冷めやらぬ中、西巣鴨の特設会場での展示プログラム「たった一人の中庭」へ。

申し訳ないが、おそらくこのプログラムの面白さの10%くらいしか味わうことが出来なかったように思う。

それぐらいしか達成出来なかった原因の一つが「言語」。かろうじて英語表記のところは少しは理解できたのだが、それにしてもパフォーマンスをしている演者たちが話している内容も、彼らが日々研究している成果のポップも。。。(フランス語なので)通じないし、分らん。。

大掛かりな仕掛けのインスタレーションを楽しめなくて、残念。。でも時間も貴重だから、つまらなかったら留まらないよね。

まあ、こんな自分にはあわないプログラムがあること自体、フェスティバルの果敢なチャレンジの結果ではあるのだとは思うんだけど。。。(アヴィニヨンの演劇祭で唯一観たダンスプログラムもつまんなかったし。。)

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女司祭ー危機三部作・第三部(10/30)マチネ

Kretakor

F/T2012 特集記事

今年も観劇追い込みの季節、劇場通いづめの月、Festival/Tokyo開催月間がスタートしました。。また、池袋周辺を歩きまわる日々の始まりです。(リンクは今年のフェスティバルの一つの特徴であるアジアのコンテンポラリー演劇に注目したプログラミングに関する記事)

で、今年のフェスティバル作品、最初の観劇となったのがハンガリーからやってきたクレタクールの社会意識のとても高いこの作品。

劇の途中で観客席にいる観客との対話の時間を設けてある(そのシーンでは逐次通訳がつく)ような半ドキュメンタリーのような作品。対話ではないその他の、主役である十代の少年少女たちが演じている劇の部分でも、このドキュメンタリー的な見せ方は意識されていて、もしハンガリー語が通じるところでの上演だとしたら実際にその場で役者が発言しているのか、作られたものなのかは分りにくくなっている。。日本語上演の今回は字幕が出るので、それが台詞である(たとえ彼ら自身の言葉から起こされたものであったとしても)ことが分ってしまうのだが。

***F/T12  HPより ******

ハンガリーの演出家・アールパード・シリング率いるクレタクールが、3年の活動休止期間を経て発表した『危機三部作』(2011年)は、古典戯曲の上演を続けてきた彼ら自身の転換点であると同時に、映画、オペラ、演劇と異なる形式を使って現実の問題にアクセスする、実験的な企画でもあった。
その掉尾を飾った第三部『女司祭』は、都会育ちの女優が演劇教師となり、民族問題に揺れる田舎町に赴任したことから起きる波紋を描いた演劇作品だ。生徒役には、ルーマニア・トランシルバニア地方でのワークショップに参加した子供たちが扮し、劇中で自らの生活体験を語る。都市と地方の格差や価値観の断絶、日常生活に潜む差別意識や暴力......子供たちの暮らす村の映像をも交えた舞台は、虚構と現実をないまぜにしつつ、地域が抱える課題をあぶり出す。子供たちの一人が客席に向かって言う。「ここで今、何が起こっていると思う?」。そのまっすぐな問いこそが、クレタクールのスタイルだ。

**********

グラマラスな有名俳優もいなければ、セットも途中で登場するバイクと時折ルーマニアでの撮影映像を映すスクリーンぐらい。先生に厳しく指導されながら子ども達が輪になって走り続けているシーンから始まるこの芝居。。。これが、今年のトップ10に入ることが決まり!!!といったような、超刺激的PROVOCATIVEでわくわくするEXCITING作品だった。

子ども達が暮らしている場所からの描いた視線なので、具体的には子どもたちの間にあるいじめ、そして教職者からの体罰、小さな村の宗教団体(教会)が持つパワー、日常にあるジプシーへの差別、新参者への抵抗意識、、などが具体例として劇の中で上がってくるのだが、それらがとても具体的で個人的な例である一方で、観客はそこに地球を半周した側に住んでいる自分たちの日常、そこにある種々の問題をはっきりと見つけることができるのだ。

例えば、こどもたちというキーワードから比較的すぐに辿りつけるのが、今福島で成長し続けている子どもたちのこと。大人の庇護の元でなければ日々暮らしていけないーつまり自分の意志ではそこから出て行くことは出来ないー弱者であるこどもたちにわたしたちは十分に情報を開示しているだろうか?大人のこずるさで言いくるめてはいないだろうか??

さらには実際問題深刻な社会問題となっている学校でのいじめ問題。ここにも、この劇で示されているような大人の事情が多く絡んでいるのでは?

先生と子ども達の会話からなるこの芝居では、そのほとんどが日常の平素な言葉で語られていくのだが、シンプルであるからこそ、そして安易な答えを用意してはいないからこそ、、そこから受け取れるメッセージの量、考えさせられる課題は1時間半の上演時間に比べても計り知れないほどに大きい。

作・演出のハンガリー人演出家アールパード・シリング氏が今回の上演に際してインタビューに答えている分がF/Tのサイトにあがっていたので、その中から得に興味深い文章を以下に抜粋してみた。


 「私は、スペクタクル(演劇)が社会に与える影響、またその

逆に関して興味を持っています。」

「もし演劇

が、現代的で率直で、そして真に迫ったあり方を失った

とき、一体何が残るのでしょうか? ――それは「今」で

す。演劇における最前線は、「今、ここ」です。私たちは

あきらめてはいけない。演劇の新しい役割を探し求めな

ければならない――」

38歳の演出家は演劇が社会に与える影響、またその逆(社会が演劇に与える影響)に興味があると言う。

先日観た「るつぼ」の作家アーサー・ミラーも「世界を変えようとしない演劇になど、とてもつき合う気になれない。」という言葉を残している。

このような社会情勢とコミットした芝居がなかなか出てきにくい日本でーどちらかと言うと通常は個人主義ではない社会であるのに、芝居の世界においては個人的問題の探求から繋がっていって世界/社会を洞察しようとするアプローチが多く見られるーこのような違った取り組み方の芝居を観る機会が得られるのがF/Tの醍醐味。

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るつぼ(10/29)

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昼間に新宿の片隅でゲイバーのドタバタネタで笑い、夜には新宿の反対側でアーサー・ミラーの問題劇「るつぼThe Crucible」を観る、これが東京の演劇世情の特徴の一つ、diversity -多様性だろう。

昴による上演 舞台評

ちょうど一年前、池袋の小劇場で観た劇団昴の若手部門ザ・サード・ステージによる同作舞台がとても面白かったので、今回も名作をじっくりと味わおうと意気込んで劇場へ。

***劇場HPより***

宮田慶子が芸術監督就任以来、企画、上演し続けている「JAPAN MEETS・・・ ─現代劇の系譜をひもとく─」シリーズの第7作目として取り上げるのは、アーサー・ミラーによる『るつぼ』。1953年に初演された本作は、17世紀末に実際に起きたセイラムの魔女裁判に取材しながら、1950年代当時のアメリカの赤狩りやマッカーシズムを痛烈に批判し、社会現象ともなった問題作です。また2001年の9・11同時多発テロ以降のアメリカ国内の動きを批判して再演され、本国アメリカでは大きな話題となりました。
社会における弱者と強者、群集心理によるパニック状態、そして一人の男がたった一人の少女に翻弄されていく姿を描き、トニー賞も受賞しました。宮田慶子自らが演劇研修所の試演会でも取り上げた作品を、『わが町』でもタッグを組み大きな評価を得た水谷八也が新たに翻訳、さらに深淵まで踏み込んで、再び挑みます。

*******

じっくりと。。。と、とはよく言ったもので、15分の休憩を挟んでおよそ4時間の超大作舞台。新国立劇場のPIT(小劇場)での上演であったのだが、そこそこの大きさのある劇場でやるとそれほどかかってしまうものなのか。。。それとも、どこかに長引かせる原因があったのか、、

どうも、一人一人が新国立劇場という大看板を背負い国立の劇場での上演ということで肩に力が入りすぎた感が。初日ということも関係するのか、これでもか、これでもか。。といった余分な説明部分がちょっとした脂っこさとして残っていたように思う。戯曲をそのままのせるだけで、十二分にそのスゴさは伝わるので、必要以上の絶叫、ドタバタはちょっと控えても、それの方がゾッとする怖さーあまりにも、進歩のない人の世の実態の怖さーが出たかも。

とにかく、演劇史の中でも屈指の名作戯曲であることは疑いようのない事実であり、何度観てもその戯曲の良さはますます際立つばかりであって、後半、主人公ジョン・プロクター(池内博之)が絶対の勢威を固持する教会への不信の中、個人の存在理由の証を残そうと自問自答する場面、ヘイル牧師(浅野雅博)が大きな組織・国家規模での過ちに気づき困惑する場面などはまさに言葉一つ一つを聞き逃すまいと劇場内の緊張感もマックスへと達していたし、この素晴らしい戯曲を丁寧に演じてくれたことにより多くの人へと伝わったことは確かではあると思う。

が、一方で、そのわりには、この劇の出来事の発端であり中核である少女たち(一夜にして聖女に奉り上げられた少女たちのリーダー格アビゲイル(鈴木杏)を含む)の心理描写が少々雑であったように思える。アビゲイルの激しい気性ー鈴木杏の演技ーばかりがクローズアップされ、17歳の分別がまだつかない田舎町の少女(実際の米国マサチューセッツ州、セイラムでの魔女裁判事件ではこの少女は12歳だったという)の浅はかな思いつきから起きた悲劇という捉え方ではなく、希代の性悪女、それもある程度成熟している女性によるマインドコントロールによって多くの人が翻弄された(今、尼崎で起きている連続殺人事件のように)事件のような描かれ方になっているのにはちょっと疑問を感じる。

他の少女達と何ら変わりのない、一人の少女が、ちょっとした感受性の鋭さから思い込み暴走してしまった、、ちょっとしたきっかけから発展した悲劇、、というのが怖いんだと思うんだけど。その意味でも、この年齢の少女たちの`少女’特有の心理描写をもう少し繊細に描いて欲しかった気がする。

とは言え、とにもかくにも。。。

4時間を覚悟の上、この機会に国立劇場ならではのチケットプライスで名作にふれてみるのは絶対に悪くはない。`演劇’の持つ力をまた信じてみよう、という気にさせてくれるはずである。

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こい!ここぞというとき!(10/29)マチネ

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せっせと小劇場に通っている友人のおススメ劇団、吹原幸太率いるポップンマッシュルームチキン野郎の「こい!ここぞというとき!」を新宿御苑前、サンモールスタジオで観る。

08年に初演された舞台の再演舞台という今作。サンモールスタジオがある新宿御苑からもすぐの日本一のゲイバー密集地帯新宿二丁目のどこかにありそうな(ぼったくり。。たくてしょうがない)ゲイバーが舞台のおふざけロードムービー芝居。昔は主人公真(加藤慎吾)の父であった、そして今はゲイバーのママとなっている純(吹原)がおなべの彼氏(彼女)を追って旅に出ることに。。。回りのワケアリな仲間達、そして純は気づいていないが実の息子も巻き込んで、一行は北へと向かい珍道中を続ける、といったドタバタコメディー。

テレビやアニメの脚本も手がけているという吹原氏が劇団紹介の文で「ネオナンセンス」と名打っている舞台は幕が開く前からこぼれんばかりのお客様への楽しませるサービスがてんこ盛り。畳みかけるようなハイテンションの台詞回しと実際に縛って吊るす、身体をはった変態プレーネタ、、、そして何と言っても添付のチラシにあるようなポップなメイクと実際に劇中ではさまれるポップでキッチュなアニメが楽しい(この粘度づくりのお人形さんたちの宣伝チラシは定例化しているよう。。かわいくて目立つよね)。

このテンポとこなれ感はテレビ脚本などで培われた経験値によるものと見た。

役者一人一人のキャラもおそらくはファンの間ではお馴染みのドリフのバカ殿のような「待ってました!!」的な定着キャラなのだろう。

観に行った人のほとんどが「ア〜〜楽しかった」と小さな幸せを持って帰れるような、そんな観て損はないお芝居。狭い舞台で大勢がひしめきあっていて、それぞれに笑いネタを小出しにしているので、お気に入りの笑いを見つけに行って、クスクスと自分なりにウケるのが楽しみとなるだろう。

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オルフェウス(10/28)

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森鴎外生誕150周年記念行事の一つとして催された文京シビックホールでの一回限りのオペラ上演舞台(もったいない。。せめて週末だけでも3回ぐらい上演すればよかったのに)を観た。

森鴎外がグルック作曲のオペラに日本語の訳詞をつけたというもので、ベルリン在住でヨーロッパで活躍する渡邊和子氏が演出・美術・衣装を担当している。

JTによる週末エンタメ告知記事

新聞で告知記事掲載のため、事前に渡邊さんにインタビューをして、どのような舞台になるのかを聞いたのだが、残念ながら紙面スペースの関係でそこまでの詳細を載せることが叶わず。。残念。

と言うのも、彼女の独創的なそしてしっかりとした上演意図を踏まえた構想がとても興味深かったからだ。

死の世界へ旅だってしまった恋人エウリディーチェを生き返らせるべく地獄へと向かうオルフェウス。数々の困難にあいながらも、それらを克服し、愛する人を連れ戻す彼の姿を未成熟な男が立派な成人となりさらには人生の意味をも自ら見いだす青年の成長物語として描いている一方で、オルフェウスの姿をこの国の未来と重ねあわせ、未曾有の大惨事(地震、津波、原発事故)にあいながらも自らの叡智から進むべき道を見いだし、将来へと向かっていくためのエールとしてこの舞台を捧げたいという思いが演出家にあったということだ。

ほとんど舞台装置も背景もない裸舞台ー舞台中央に桟橋のような黄泉の国とこの世をつなぐ一本の通路があるあるのみーで繰り広げられる、オルフェウスの地獄を巡る冒険物語。剥き出しの壁が巨大スクリーンとなり、自然災害の様子(イメージ)を映像でシビックホールの大きな背面に映し出す。衣装は着物の和のテイストと異国情緒溢れる華やかなインドサリー、そして西洋スタイルがミックスされたもの。このあたりにヨーロッパで活動している演出家のスタイルが反映されている。

和洋折衷でオリジナルな舞台、心をニュートラルにして観てみると、いろいろな表情が見えてきてさらに楽しい。

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2012年10月26日 (金)

こんばんは、父さん(10/26)

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世田谷パブリックシアターで永井愛率いる二兎社の新作舞台「こんばんは、父さん」を観る。
***演劇サイトより****
舞台は廃墟となった町工場。天窓から夕陽が射しこんでいる。金目のものは全て持ち去られた後らしく、残っているのは機械の台座や工具棚、配電盤、コードなど、ガラクタばかり。2階に通じる階段にも廃材が山積みになっている。
 そこへ1人の男が入ってきた。窓からしのびこんだらしい。男は何の目的でこのような廃墟に来たのか? そして彼を追ってきた若い男は何者か? 二人は口論を始めたようだ。いや、もう一人誰かいる。彼らは知り合いなのだろうか?
 攻撃する者とされる者、求める者と拒絶する者、希望を語る者とそれを打ち砕く者――それぞれの立場や役割が入れ替わりながら、世代の異なる三人の男のやりとりが続く。夜が深まっていくにつれ、三人の抜き差しならない状況が明らかになり……。

*******

ネタバレ注意

上記の筋にそって言うと、工場に入ってきた男が父さん役の平幹二朗、追って来た若い男が溝端淳平、でもってもう一人の誰かが息子である佐々木蔵之介。。で男三人のみの芝居。

バブルはじけた後の日本のどこかで、日本経済の勢いの衰えと平行して身を持ち崩した初老の父さんとその息子ー二人はわけあって長い間音信不通状態だったー、バブルは知らないプアーな世代代表の若い男。。。金が無いことで繋がった三人が一晩を共に過ごし、どん詰まりの心境からちょっとした活路を見いだすという話。

今はそれぞれ金銭的にすっからかん、もしくは余裕は全く無い状態でー劇では彼らを小泉政権下で行われた規制緩和による負の事例として今日の格差社会・ふくれあがる貧困層の一例として挙げているー、そんな今日の経済の長期的停滞状態にある日本で生きる男たちがどこで人生見誤ったのかをそれぞれに振り返りながら互いの姿をも鑑みて(ここで戦争経験世代・バブル享受世代・バブル後に育った常に厳しい状況にある若い世代、と肝のすわりかたなどがまちまちでその違いは面白い)これからの道を模索していくのだが、途中、そこへ景気が良かったころから巣くっていた家族間の感情のすれ違い問題、今は亡き母親への思いなどの個人的な事情、家族問題が絡んでくる。この家族がバラバラになっていった思い出話の部分がどうにもすんなり飲み込めない。
ー父と母のすれ違い、母の孤独、父の暴走などの過去の部分のある意味核となる原因部分の説明が強引すぎるため、10何年間も音信不通でなければならなかった父と息子の複雑な関係が今ひとつ見えてこないのだ。

例えば、父が事業拡大に夢中になりおきざりにされた母の孤独ー息子と父の確執はやはりこの母親に関する感情の違いが大きいように思えるのだが。。彼女の社交的な性格(息子の回顧から想像するに面倒見のよい、社交的な性格だったらしい)、それまで町工場の発展を支えてきた才覚からしたら、彼女なりに変化に対応して切り抜けることが出来たのではないか、例えば新しい趣味を見つけて熱中するとか、良い悪いは別としてお金持ちの生活を享受するとか、、とじこもって消えていくだけではない道が彼女だからこそ見つけられたのでは??との疑問が湧いてきて、彼女の人生崩壊の過程が短絡的すぎるように感じられる。むしろ、家庭崩壊の原因が別のものであった方が、例えば父の浮気による男女の愛憎の泥沼化とか会社内の反乱劇による人間関係のゆるせない裏切りとか(、、、まあそれもあったのかもしれないけれど)、その理由付が台詞による説明からではそこまで追いつめられたという説得力が欠けるため、なんだかこの家族の崩壊の過去が上滑りな印象で通り過ぎてしまう。

資本主義下の負け組たちの悲劇(社会観察眼)と家族間のヒューマンドラマ、さらには世代間ギャップといったところのつながりがいまひとつしっくりこない。どこか、例えば永井氏による傑作戯曲、ある意味今作の対である「こんにちは、母さん」のように、もっと素直に家族の関係から丁寧に描いていった方が、結果として社会性も自然とついてきたように思う。

あとは、とても残念なのだが、やはり平幹二朗氏にこの町工場のかつての成り上がり社長で今は没落年金生活者の役が合わない。どうせだったら、(他にももっと楽に似合いそうな役者さんがいないわけではないと思うので)もっと彼の良さが出るような役をあててあげたかったように感じる。

そんな中、今回の舞台での大きな収穫は佐々木蔵之介の上手さを今更ながらだが、実感で来たこと。

若者と老人というまったくかけ離れた世代の真ん中に入って、劇をスムースに紡いでいく役割をも担っているのだが、まあ、タイミングと言い、演技と言い、、、上手い!!自然で上手い!!!




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2012年10月25日 (木)

トロイラスとクレシダ(10/25)マチネ

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山の手事情社の新作シェイクスピア劇「トロイラスとクレシダ」を東京芸術劇場小劇場、シアターイーストで観る。

*** 劇団HP &チラシより****

今なぜ「トロイラスとクレシダ」?/安田雅弘
シェイクスピアには珍しく「なんだかなぁ」「もうやんなっちゃう」「ばっかばかしい」という溜息でできたような台本。3,200年前「トロイの木馬」で有名な戦争があった。原因は女の浮気。ギリシア対トロイ。10年続き、みな疲れきって、そろそろやめない? 双方えんえんと会議を開くが何も解決しない。あ、これ今の国会だ、EUじゃん…。とても現代的。話し合いなんて無駄。築き上げた文化なんて意味なし。要するにセックスと暴力だけでしょ人間なんて、と訴えて来る。これ人間の物語かしら? 獣のお話ではないのかしら。「文化の無効性」というテーマを文化的に描こうと思う。

***************
はっきりとした悲喜劇がないメリハリのなさからなのか、日本での上演があまりないシェイクスピア劇なのだが、珍しいことに今年はこの戯曲上演が続いた。
8月に彩の国埼玉芸術劇場で蜷川シェイクスピアシリーズの26弾(ひえ〜〜〜、この分でいったら全作上演成し遂げそう。そうなったら国民栄誉賞なのかしらん。。)舞台として、イケメン俳優を配してのオールメ—ルシリーズの最新作として、あの二股騒動の彼ー塩谷瞬氏ーが髪を振り乱し、ギリシャの武将を演じ面目躍如を示した舞台だ。
蜷川演出舞台の鉄則として、原作に忠実に従う舞台だったためたっぷりとトロイ戦争時代の男と女の、しいては人間の愚かさを描いた舞台だったのに対し、今回の山の手事情社版ではストーリーは追っているもののかなりの翻案、独自の解釈を演出として加えての舞台化となっている。
まあ、それがこの劇団のポリシーであって(山の手事情社は〈演劇の現代詩〉とも形容される独自の舞台作品を発表し続けている。劇団HPより)、この一度原作を咀嚼してから独自の形式で現代版として作り直すことは全ての戯曲に対してなされている方法なので、、まあこうなるのだろうな、としか言いようがない。



英語での戯曲だから、少しは原作の知識があるからなのかどうなのか(逆にギリシャ語は分らないので)、前回の劇団舞台「オイディプス王」ではこの山の手事情社の翻案が良い方向へ働いていたように思うのだが、今回の舞台「トロイラスとクレシダ」に関しては、どうも噛み砕いた際に、ぼろぼろと原作の言葉と細かなポイントを落としてきてしまったが為に、筋は伝えているものの、、さらに言えば独自の解釈「文化の無効性」を暴いてはいるものの、原作が持つシェイクスピアの人間観察の深い洞察にまでは至っていなかったように思える。

いつの世でも戦争とセックス好きの人間たち、、、そんないつまでたっても代りばえしない、学ばない愚かさを描いてはいるが、その発見に至るまでの細かい検証、人の行動が実のところ描くべき興味深いところなのではないだろうか。

人は動物であり、そしてまた動物とは一線を画している。。。だからこそ矛盾もあり予想外の行動もあり、ということなのでは。

そのあたりをはしょってしまっては、この劇が分り易くなる反面、面白さが欠落してしまう、ということ。

一時期、有名な作品でさえ、ダイジェスト版のようなショートバージョンで上演されることが多かったシェイクスピア劇。(エッセンスを抽出し、完全にオリジナル戯曲に改編してしまう舞台は別として)そのおかげで、「長くてつまならない」という先入観をもたれてしまったこともあったが、実際、その後蜷川演出シリーズや新国立劇場の「ヘンリー六世」上演のように、全編を丁寧に上演したところ、長さに不満を言う観客はいなくなったということが証明しているように、無駄な台詞はあまりないということなのかもしれない。

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すてるたび(10/24)

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竜馬の妻とその夫と愛人,〜と歌使いの唄(10/24)マチネ

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東京ヴォードヴィルショー創立40周年記念興行第二弾、木梨憲武・鈴木京香(今回のあめくみちこも良いが、こちらのおりょうさんもはまり役だった)主演で映画化(2002年)もされている三谷幸喜作の劇団代表作「竜馬の妻とその夫と愛人、〜と歌使いの唄」を下北沢スズナリ劇場で観る。

これ、文句無しの爆笑もので、観て絶対損しない傑作です。

2006年にNYで上演した際に流した坂本龍馬に関する資料映像から始まった舞台。(この映像は海外上演もしている作品なんだよ!程度のオマケの出来で、なんだか音声が機械音ぽくて妙に聞き取りづらかった。(役者の)弁士でもつけて説明すれば効果は大だと思う)

当日配布パンフでも演出の山田和也氏が説明しているように、今回はスズナリ劇場限定公演ということで、スズナリの形状にあわせ、三方取り囲みの舞台で相撲の土俵のような真ん中にある貧乏長屋の一間という舞台上ですべてが起こる趣向になっている。また、これも今回からの演出なのだが、ギターとアコーディオンの生演奏がついている。

通常でもこじんまりとした小屋ならではの臨場感あふれる雰囲気がファンに人気のスズナリ劇場だが、三方からの視線の真ん中で繰り広げられるベテラン役者4人(綾田敏樹、あめくみちこ、佐藤B作、佐渡稔)によるお座敷喜劇は臨場感たっぷり、ベテランならではの余裕のアドリブも飛び出し、2時間の濃いこと!

三谷幸喜の翻も深いー竜馬を題材にしているものの31歳の太く短い人生を駆け抜けたヒーロー伝でも、幕末歴史ものではなく、70〜80年の人生を綿々と続けていかなければならないふつうの人々(それは竜馬の妻であったおりょうさんにもあてはまる)の生を描いているーし、演出もツボを心得ていて、、で何と言ってもこの4人の役者が素晴らしい。

ヴォードヴィルの人々が演じ続けて味があるのは分るのだが、その中でも今回ゲストとしてダメ夫・松兵衛を演じている東京乾電池の綾田敏樹が圧巻。ダメな中に哲学があります。。必見です。

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2012年10月24日 (水)

人情噺「端敵★天下茶屋」(10/23)

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***演劇サイトより 解説etc..***

端敵(ハガタキ)というのは、脇の敵役という意味です。真の敵役は大敵と呼ばれるわけですが、この場合は小物の敵です。物語の本筋に関係なく、チョロチョロ出てきては悪さをしてゆく。大敵ではないから、途中であっさり退治されたりします。
  我が師・三世市川猿之助(現・猿翁)の十八番に『敵討天下茶屋聚』という歌舞伎作品があって、その中に出てくる元右衛門という人物が端敵の代表です。この作品では端敵・元右衛門がほぼ主役になっていて、深い理由のない場当たり的な悪事を次々に起こしては、物語を掻き回してゆきます。
  「天下茶屋を扉座で現代風にやると面白いと思うよ」
  人情噺第1弾『神崎与五郎東下り』に続いて、貴重なる猿之助アドバイスを頂きました。そんな端敵を六角精児がセコく、小ズルく演じます。ついでに日活映画の渡り鳥シリーズ風の娯楽作品に仕上げてみようかと思っています。
  でも大敵の存在が薄くて、端敵ばかりが世界を掻き回してゆくというのは、現代社会の様相そのものでもあるわけで、意外にこのテーマは深遠なのかもしれぬと感じつつ製作に取り掛かっております。
  今回はあんまり人情噺っぽくないかもですが、確実に傑作になる予定です。

                              横内謙介

人情噺シリーズ第3弾。
第1弾『神崎与五郎 東下り』は大人の「友情」の話、第2弾『紺屋高尾』は大人の「恋」の話……古典芸能を下敷きに、場面を現代に置き換え、大胆なアレンジを加えて、新作人情噺として上演。
今回は、歌舞伎の演目『敵討天下茶屋聚』(かたきうちてんがちゃやむら)の中から、端敵役の安達元右衛門をフィーチャーして“笑いと涙”満載でおおくりします。

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座・高円寺で毎年恒例の秋の扉座、人情噺シリーズ第3弾を観る。

つか版 忠臣蔵 レビュー

6月にスカイツリーのご近所で観た「つか版・忠臣蔵」がとても良い出来だったーちなみに好評に応えて、早くも2月の再演が決まったそうですーのでその出来には安心しながら劇場へ。

さすがにベテラン劇団だけに、やはり外すことはなく、きちんと楽しませてくれて、得に、劇団の出世頭、六角精児を主役に据えての舞台とあって、客席も彼の飄々とした悪役ぶりに盛り上がりをみせていた。

前身の善人会議の頃から、変わらぬ押さえるところをきちんと踏まえた劇作は誰でもが楽しめる王道の作り。多くの地元のお客さんを呼び込みたいパブリックシアターにはうってつけの演目だと思う。

そんな安定した力を武器にする劇団だけに、おしむらく今回のゲストとの相性。。昨年テレビドラマデビューを果たした趣里(二世タレントの宿命で水谷豊と伊藤蘭の娘としての知名度が高い)が今回のゲストだったのだが、これが役自体も、その役に対しての出番の比率も(これを他の劇団員が演じていたら出し方も違っていただろうに)、そしてその演技も、、、やっぱりちょっと一人だけ浮いていたのは否めない。ー突然、得意のバレエなんかも披露していたし。

若手劇団の中で若い役者に混ざっての出演だったら、それほどでもなかったかもしれないが、ちょっとこの劇団の中で一人ゲストとして参加するには。。。2〜3年早かったかもね〜〜。

お母さん(伊藤蘭)もキャンディーズ解散後にいきなり夢の遊眠社の舞台で主役で俳優業始めていたけど、、劇団のカラーも違ったし、主役でマイペで出来る立ち位置だったからね〜〜〜。まあ、そちらのいきなり出来ちゃう方が異例なんでしょうね。




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雨が降ると晴れる.2(10/22)

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駒場アゴラ劇場でヒップホップダンサーKENTARO!!氏のソロ公演、それもダンス公演では異例のロングラン(10日間)公演、「雨が降ると晴れる.2」を観る。
前回、同じ劇場でのソロ公演「雨が降ると晴れる」とはまた趣を変え、「今」のKENTARO!!ソロ表現を観ることが出来るステージ。魅力の超高速ヒップホップテクも健在なのだが、今回はスローな、体の内の筋肉が使われているような根幹ダンスも多く見られる。
セットでもあり、衣装だなでもあるTシャツやシャツが吊るしてあるハンガーにある衣装のほとんどがボーダー柄なのがかわいい!!
日本でしか見られない、Made in Japanヒップホップはやはり肌にしっくりとくる。ダンスを間近で見られるこの公演を見逃すな!

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2012年10月21日 (日)

アンドロイド版「三人姉妹」(10/20)

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吉祥寺シアターでロボット演劇第四弾ーロボットWakamaruが世界初の舞台主演を果たした「働く私」に始まり、アンドロイド・ジェミノイドが同じようにポーセリン質の肌を持つアメリカ人女優ブライアリー・ロングと共演した「さようなら」、その進化版「さようなら Ver.2」、そしてWakamaruが多くの人間俳優と共演したロボット版「森の奥」、そして今回のロボットとアンドロイド、そして多くの人間俳優陣との三つどもえ共演舞台「三人姉妹」ーチェーホフの同名戯曲の翻案舞台ロボット版「三人姉妹」を吉祥寺シアターで観る。

****演劇サイトより**

かつては家電メーカーの生産拠点があり、大規模なロボット工場があった日本の地方都市。

円高による空洞化で町は衰退し、現在は小さな研究所だけが残っている。
先端的ロボット研究者であった父親の死後、この町に残って生活を続けている三人の娘たち。
チェーホフの名作『三人姉妹』を翻案し、日本社会の未来を冷酷に描き出す、アンドロイド演劇最新作。

************


初日と言うこともあり、青年団の演劇公演でありながら、劇場では通常演劇ファンにあわせて、ロボット研究関連の人々、またこの研究に注目していてそのビジネス展開、多方面でのロボットの可能性を探っている人たちなども多くつめかけているように見受けられた。

作・演出の平田オリザ氏、そしてロボットの技術提供をしている大阪大学の石黒浩教授がアフタートークで明言していたのだが、「この舞台は演劇上演であると同時にロボット研究のプロジェクトの一環でもあって、その目的から研究費も支払われている」ということだ。

チェーホフ「三人姉妹」の翻案ということだが翻案というよりはモチーフにしての平田氏の新作と言った方が良いかもしれない。

時代背景、国の背景の違い、そしてそれらによる結果の表れ方の違いを考え入れてみても、それでもオリジナルの「三人姉妹」とは離れている距離が大きいように思えるのでーおそらく今作を書くにあたって、平田氏は`(変わっていく途中で)時代に翻弄され自らを見失っている姉妹たち’という部分で原作を意識はしているのだろうがー翻案とはうたっていないものの、多くの構造的共通点がみられる永井愛作「萩家の三姉妹」に比べても翻案「三人姉妹」といわれてもピンとこない(逆にこれが翻案として認識されるとでは原作とは?となってしまうので)のでロボット演劇の新作劇として観に行った方すんなりくるように思う。

***ネタばれ注意****

今回もロボットとアンドロイド(今回の目玉の一つとして、2体が共演しているので、この二つの間にも違い・それぞれの特徴があることが発覚)、そして人間の間にある、人々が受ける印象の違い、またそれらの先入観を逆手にとっての言葉遊び、演劇的錯覚のトリックが多く仕込まれている。

ーーーアンドロイドには心が無いので空気を読んでいらぬことに関して口をつぐむことが出来ず、意図してかそれとも意識的になのか、その場の雰囲気をぶち壊すような発言を繰り返してしまう。。記憶に関しても「忘れた方が生きやすいので忘却する」ということが出来ない。。。ロボット/アンドロイドは人間の影武者となり得るのか。。将来、人間は表舞台から消えて影の支配者となることは出来るのか。。。。などなど、このロボットとの共存を想定した世界に関するイマジネーションは広がるばかりだ。

そんな想像ゲームに興じている間は、それで良いのだが、次第に「このロボット演劇」の将来の展開に関しての限界みたいなものもうっすらと見えてきたりする。

いみじくも、アフタートークの中で平田氏が観客からの質問に答えて語っていたのだが、「自分ではこれらのロボット/アンドロイドの存在を(人間たちの)俳優でもなく、(ものとしての)小道具でもなく。。言うならば文楽における人形のようなものだと思っている」ということらしい。

そこで思い出したのが文楽スタイルの人形を操り、英国演劇界で活躍中のパペット劇団、ブラインド・サミット・シアターの主宰者マークがインタビューをした際に(シアターガイド10月号にこのインタビューが掲載されているので詳細はそちらを参照のこと)最後まで自らに問いかけていた質問「人形は人の俳優にとって変わる存在となることは可能なのかどうか。パペットを俳優と同じ様に見てもらえるようになる日は来るのか?」といった否人間の演者が表現できることの可能性。

所詮、人が全てを仕掛けて、操作しているもの、、と言い切ってしまえばそれまでなのだが、パペット劇団のマークはその操り方、また内容でもって、その人形の存在を俳優に限りなく近づける、もしくはそれとなり得ることが出来る、そしてそれを目指して日々精進しているようなのだ。

ロボット・アンドロイドにもそれと同じことが当てはまると思うのだが、う〜〜〜む、どうなんだろう、、機械で操っているということ、そしてそれがテクニカル的に複雑であるということが、、人形のローテクよりもかえって縛りを多くしてしまっているのでは???だったら、ローテク人形の方が良くない??ということなんだけど。。。そもそも、わざわざアンドロイド・ロボットが演じている演劇を観る、、そのアドバンテージって何?ってことだよね。(その点で言うと見た目が人間と違ったキュートさに溢れているロボットの方が、人間のようで人間ではないアンドロイドよりもうったえるものが大きいかも)

もちろん、ロボット研究の方へもたらすプラスのものがたくさんあることは分るのだが、逆方向へは芝居の可能性に関しては今後どれだけの刺激があるのかは不明。

内容に関しての「発想の転換」という点に関して言えば、ロボット演劇第一弾「働く私」にその面白さが凝縮されていて、ロボット演劇の面白さはあの作品が最も有していたと思うので。

ま、いずれにせよ、まだロボット演劇を観たことがない方には、ヴィジュアル面でもその内容でも、そこに全く新しい面白みがあることは確かなので、一度観てみることをおススメする。

ps..ところで、あの5時間だかという青年団のドキュメンタリー映画「演劇1/演劇2」はやっぱり観た方が良いのかな〜〜〜。迷う。


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桃さんのしあわせ(10/20)

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渋谷でのマチネ観劇と吉祥寺でのソワレ観劇の間にちょうど観ることが出来る上映時間だったので、文化村で映画「桃(タオ)さんのしあわせ」を観る。

さすがに数々の映画祭で賞を受賞したというだけのことがあって、、まあこれが..ブラボーcryinggoodな映画だった。

主人公の映画プロデューサー、ロジャー(アンディ・ラウ)に長年仕えてきたタオさん(ディニー・イップ)はある日脳梗塞で倒れ、病院に運ばれる。療養して、と勧めるロジャーに対し迷惑をかけたくないので老人ホームで暮らすと言うタオさん。ロジャーは友人が経営する家から近い老人ホームを世話してもらい、タオさんをそこへ入所させる。多忙の身ながら、それが当然のことであるかのようにタオさんを頻繁に見舞い、容態が良くなると街へ連れ出し、彼女の人生の最終章を活気づけるロジャー。慣れないところに当初は戸惑っていたものの、持ち前の人柄からかじょじょにホームでの居場所を確立していくタオさん。個室とは名ばかりのカーテン1枚で仕切られた部屋が並ぶホームでは入居者たちの人生が否応無しに透けて見えてくる。そんな中、長年リャン家の住み込みのメイドとして2歩も3歩も先を読みながら仕えてきたタオさんの心配りが回りの人たちの意識をも変えていく。

なるべく多くのものを要領よく、いかにしてものにするか『take take!! Take a chance.」 とばかりに自分の利が優先される当世にあって、このタオさん、そしてロジャーもとにかく自分にあるもんでよかったらどうぞばかりに「give give 」と、損得勘定抜きで差し出し、人へ与える。

たかだか80年の人の一生の中で大切なのは何か、を知っている人たちなんだろう。マネー”ゲーム”ーまさに高得点を出し続けることが目的となったゲームーに興じることが生きる目標となってしまった現代にあって、80年間を濃密に生きるとはこうゆうことかも、と心穏やかに悔いを残さずこの世を後にする生き方の一つを提示してくれている。

実際にこの映画は実話が元になっているということなので、主人公の映画プロデューサーに起きたことが後世にまで残るアート作品になったこのことが、このタオさんの功績の一つとして実を結んでいる。

最後、奇跡も大逆転も起こらず、むしろ驚くほどあっさりとタオさんは終焉を迎え、そして少しのおまけとしてロジャーの今が付け足されているのだが、その表現はまさに原題の「A Simple Life」そのもの。この市井の人々に関する日常らしさが(小津的??)この映画の魅力だ。(英語原題のままだと、ちょっと別の意味あいが出てしまいがちーハリウッドのヒューマン映画みたいな響きーなので香港映画であることを強調してこの邦題になったのかも)

ちなみにこの映画のプロデューサーだからなのか、主演のアンディ・ラウはノーギャラで出演しているとのこと。

「男は黙って。。」といったビールCMのコピーがあったけど、男も女も黙って。。。心通わせる。。のがアジア的なんだよね。

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ドン・キホーテ K.Ballet(10/20)マチネ

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渋谷オーチャードホールで同劇場の芸術監督を務める熊川哲也のカンパニー、K.

Balletの「ドン・キホーテ」を観る。

プログラムやメディアPRでも強調しているように、「ドン・キホーテ」のバジルというキャラクターが熊川氏の容姿に、そして彼の踊りのスタイルにドンピシャにはまって、彼の良さをますます輝かせる演目であるというところで、彼が踊るドンキの大成功はある意味幕が開く前から固いと言っても良いのだろう。

実際、熊川哲也伝説の幕開けとなったローザンヌの国際コンクールで披露したのがこのバジルのパート、そして英国ロイヤルバレエ団においてもバレエダンサーとしてトップの地位、プリンシパルへの昇格を決定づけたのがこのドン・キホーテのバジルという役なのだ。

スパニッシュスタイルの身体にぴったりとした黒の衣装、歯切れの良い振り付けとジャンプ、そしてなんといっても伊達男然とした決め顔のポーズ。。。何から何まで熊川のそれが観てみたいと思わせる要素ばかり。。。でもって噂によると彼のバジルはその期待を見事に裏切っていないようだ。

で、私が観た土曜日のマチネ公演はそのバジル役を後継ダンサー陣の一人、橋本直樹、その恋人キトリ役を神戸里奈ー二人ともファーストソリストーが務めていた。ーちなみに熊川氏が踊る日と他のダンサーたちが踊る日のチケット代は6000円も差があるのです。それでもやっぱりみんな熊川バジルが観たいんだろうな〜〜〜。やっぱり当たり役だからそりゃ伝説を体験したいよね。ー

で、これが、なかなか良かった。橋本君もどちらかと言うとフランスや英国の王子様というよりはもっとラテン系のそうドンキの主役が似合うソース顔(例えが古くてすみません)のダンサー。ということで彼のキャラにもこの演目は合っていて、楽しく観させてもらった。

橋本君以外にも後継ダンサーたち(宮尾、遅沢、秋元)が日替わりでバジルを踊るというのも確実にこの公演の売りの一つとなっている。ー彼らの実力が拮抗しているのがその面白さの一つの原因。お気に入りに肩入れする、、つまりAKB方式が適用出来るー

数年前の熊川氏の靱帯損傷の大怪我でのカンパニーの危機を経ても、結局のところカンパニーが確実に日本のバレエ界で数歩リードしているのが現状。

まあ、そうなれた理由は回りの強いバックアップ、独断的リーダーシップといろいろなことがあるのだろうーそれらは良い面も悪い面もあるのだろうがーが、。。今のところはその良い結果が表れているといったところだろうか。

後継者も無事育ってきていて、で看板スターも健在で、でもって魅力的なキャラクターダンサーも国際色豊に揃っていて、こちらも国際的な美術、衣装のスタッフがいて、、、とやっぱり観た後にこれだけの満足感を与えてくれるから、、また通っちゃうよね。

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2012年10月20日 (土)

文体の獣(10/19)

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中野テアトルBONBONで川村毅氏主宰のTFactoryによる「ソドムの市」で有名なイタリアの奇才P.Pパゾリーニ作品シリーズ第三弾「文体の獣」を観る。

日本で紹介されていないパゾリーニの戯曲ー全集に収められている6作品ーを翻訳から手がけ、シリーズとし連続上演するという、大変に手のかかる仕事に取り組んでいるTFactoryの試みにまずは感謝。

まとめて、続けて上演しえてくれることにより、難解なパゾリーニの世界にもなんとなく慣れてきて、一回ぽっきりの上演よりもずっと親しみ易くなる感じ。。身構えないで「観劇しながら入ってくるように素直に受けとめてみよう」という肩の力を抜いた感じで向き合えるようになった気がする。ー言葉の全てを神経尖らせて追ったところで、奇才の頭の中を全て掌握するのはどえりゃー大変ということにこれまでの観劇体験で気づかされたので。

それにしても、本日午後に観たゴールドシアターの舞台が清水邦夫、チェーホフの言葉ありきなのはもちろんなのだが、それよりも何よりも俳優達の肉体の存在に圧倒された観劇体験だったのに対し、今晩のこの舞台、俳優陣を多く配してはいるのだが、それよりもやはり戯曲の力強い言葉、こ・と・ば、wordsに圧倒させられる。

パゾリーニの自伝的要素が多分に含まれる戯曲だけに、「パゾリーニを深く理解することに務める」のが目的である今舞台上演では上演舞台と同時に作者パゾリーニの年譜を平行させて映写するという手法をとっているのだが、それによって分り易くなったという利点はあるものの、、、その利点を捨ててでも、戯曲のままの舞台というのも挑戦してみたいという気持ちも。

今回、江戸糸あやつり人形座とのコラボで、チラシにも出ているパリゾー二を型どったあやつり人形(デザイン:宇野亜喜良)と(女性)天使様が共演しているのだが、この宇野氏デザインの人形さんたちがとっても魅力的。アニメと実写が共演したり、それこそ人形と実写が共演なんていうのも映画の世界ではごく当たり前のことなのだが、芝居の世界では俳優が人形や映像と共演することはまだあまりなくて(ロボット演劇や子ども向け等身大の人形劇なんかはあるけれど)、そんな中、この組み合わせ、虚構性を増幅させて良いアクセントとなっていた。

戯曲「文体の獣」自体もキャピタリズムの限界が見えつつある今日において、過去の失敗を踏まえた上でどの「理想象」へと方向づけするのか、に関して考えるのにとても興味深い内容のテキストであることは確か。

一辺倒な捉え方でのみ判断して共産主義、資本主義と白黒つけられない、新しい価値基準を作り上げていかなければならない現代人にとって、パゾリーニの悩みはとても身近なもの。

**おまけ**

劇の途中、ナチスによる強制収容所の虐殺に関する写真が大写しにされていて、その中にとても、、とてもショッキングな絞首刑最中のものがあった。。。が、これ、この1枚の写真だけで、多くの演劇作品、映像作品がぶっとぶほどの説得力があった。写真自体をあのように大写しで見るのはしのびないが、、あれがまさにナチスの実態と言えばそういうことなのだろう。

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ゴールドシアター・ファクトリー「白鳥の歌」「楽屋」(10/19)マチネ

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フランス版「ロミオとジュリエット」

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2012年10月17日 (水)

三人姉妹(10/16)

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言わずと知れたロシアの文豪チェーホフの代表作「三人姉妹」を演劇集団円の本拠地、田原町のステージ円で観る。
チェーホフ芝居の演出で定評のある佐久間崇氏による演出(あと上演台本も担当)でオーソドックスで、そしてとても丁寧な演出舞台。
なんだか、これまで観た「三人姉妹」劇の中でも格別に一つ一つの台詞が耳に入ってきて、戯曲の面白さを十二分に楽しめる舞台となっていた。ーまあ、あらためて。。なのだが、それにしても全ての台詞に劇内でその後に起きる出来事への伏線、そしてさらに大きな意味での世界のその後に関する伏線も含まれていたりして、、まったくもってよく出来た戯曲。無駄な台詞が一つもなくて、全ての言葉のやりとりを楽しめる。チェーホフは決して、古びず、徹頭徹尾面白い!!!ーー
ロシア語に関する細かい比喩などを魚の小骨をとるように省いているお陰なのか、劇の進行にまったくの停滞、難解さがない。
「三人姉妹」を一度観てみたいと思っていた人にも、また何度も観ていて、ここらであらためて観てみたいと思っていた人にも喜んでもらえるであろう舞台。

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Attempts on her life(10/13)

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The Spirits Play 霊戯(11/11)

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K・ファウスト(10/11)マチネ

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2012年10月10日 (水)

橋からの眺め(10/10)マチネ

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中野テアトルBONBONでArtist Company響人によるアーサー・ミラー原作「橋からの眺め」を観る。
演出は過去にも10年(「オーファンズ」・「Doubt」)11年(「夜の訪問者」)と同カンパニーで演出を担当している小川絵梨子。

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ヒッキーソトニデテミタ〜ノ(10/9)

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パルコ劇場で岩井秀人の自伝的作品にして代表作「ヒッキー・カンクーントルネード」のその後を描いた「ヒッキーソトニデテミタ〜ノ」を観る。
意識的に、近年の笑いが多い作風を極力おさえたものに変えてみたという今作。主人公の思い出パートで珠玉の名作「ヒッキー・カンクーントルネード」もダイジェストバージョンで観劇出来ると言った初めてのヒッキー観劇者にも優しいパルコバージョン。
終演後の出演者とのトーク(自ら「パルコ劇場ではアフタートークは珍しいそうですが、。。。」とつっこんでいたが、岩井氏が信じる、演劇の効率的な楽しみ方に関わるサービスはパルコに進出しても健在。幕開けにもヒッキーに「普通はダメですが飲むのぐらいだったら大丈夫。。。食べるのもちょっとだったら。。」と肩の力を抜いてとにかく芝居を堪能して!とメッセージを送っていた。自らの演劇方針はブレさせることなく異種劇場にきちんと対応していた)で吉祥寺でのヒッキー初演は50人キャパぐらいの劇場でこじんまりと行っていたのが、パルコとは!!とヒッキー全国国民観賞計画の途上成果を語っていたが、演出家本人がそこが全て、と言う今回の公演の演出のポイントはいかにパルコの中劇場を使いこなすかという点。
****ネタバレ注意****
ハイバイ専売特許のどこでもドア(ドアノブが先端についた針金状の舞台セット。大きな、そして視界を遮るドアやそれに続く壁を配さなくてもこのどこでもドアで部屋の中と外の世界を表現出来るすぐれもの)に加えて今回登場したのが場所をとらない回転部屋移動セット。
基本的に舞台真ん中に設置されているまるい演技スペースで全ての演技が行われる(役者はそこの演技部分から外れたら、そのすぐ横にある控えスペースで次の出番に備えている)のだが、限られたスペース、その意味では小劇場の全体のスペースよりも限られた空間での演技なもので、場所やシーンの転換(途中暗転での転換もあったが)を示唆するサインとして丸舞台に設置された骨組みだけの仕切りが回転して違った地形を創り出し、瞬時に部屋や場所の転換を行っていた。
ー演劇における観客の創造力を信じ、それを最大限に活かす岩井演出の妙ー
あと、この空間が大きくなったという違いに対処する方法として、、ーアフタートークで話に出ていたのだがー常々、演出家は役者陣に「もっと大きな声で!それでは届かないのでもっと、もっと」とダメだしをしていたらしいのだが、、実際、初日舞台では役者が叫びすぎてうるさかったらしく。。。初日後すぐに演出家直々の謝罪が入り声のトーンをおとしてもらったらしい。
劇の内容については、。。前作で外界へ一歩を踏み出したヒッキー(吹越満)が今度は出張お姉さん(チャン・リーメイ)の助手として現ひきこもりの人たちのカウンセリング、引きこもり解消の任務につくというもの。そのなんとも頼り無さげな様相から現ひきこもりたちーひきこもり歴20年選手和夫(古館寛治)やITオタクで優秀な20歳の太郎(田村健太郎)ーに逆にバカにされながら、それでも真っ向からそれぞれのクライアント(?!)に向き合うヒッキー。
お姉さんの厳しさとヒッキーの親しみ易さが功を奏し、一見、順調な回復を遂げたかに見えた二人のひきこもりだったが、ラストに思わぬ悲劇が待っていた。というもの。
まあ、、、こればかりは実際に観てもらうしかないでしょう。
というのも、筋書きでは表れてこない、無言の、それこそ観客それぞれが想像して受け取る、文字では書かれていないストーリーがすごすぎて、それぞれに受け取って感じて、考えてもらうしかないのでは、ということ。
社会の表舞台にはあまり出てこないひきこもりたちの世界を通して、それこそ世界や人間のあらゆる矛盾、繊細な心の優しさと脆さなんかが見事に描かれているわけです。岩井戯曲の真骨頂。
劇の冒頭で「ひきこもりというのはコミュニュケーション能力の高い人ほどなるもの。普通の(鈍感な)人たちと比べてあまりにも察してしまうので、対処出来なくなってしまう結果おきるもの」という話が出ていたが、そういうことなんだろうな。ちょっとしたバランス、ちょっとした過度な心の傾きが原因で画一化した現代社会では除外されてしまうのだろう。

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2012年10月 6日 (土)

OUT OF CONTEXT - FOR PINA (10/5)

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ダンストリエンナーレ東京2012のプログラムで大・大・大好きなベルギーのダンスプログラム演出家アラン・プラテルーles ballets C de la Bダンスカンパニー主宰ー演出のダンスを青山円形劇場で観る。

何もないところから人と人との繋がり(絆!!??)を試みるという内容のこの作品、何もない=舞台セット、衣装(ダンサーは最小限のパンツ(男)、ブラ+パンツ(女)といういでたち)、音楽(リズムサウンドあり、また途中、ダンサー達がアカペラで歌うシーンはある)、、舞台で驚異的な身体能力を持つダンサーたちが身ひとつでその限界までみせるといった舞台。

全員が踊りの頂点を極めている集団なのだが、その中でもそれぞれに得意、また好きな表現が違っていて、9名のダンサー(アジアからヨーロッパまで国籍は様々)の個性を見比べるのがまた楽しい。

肩甲骨をあり得ない柔軟さで動かし、脱臼しているように腕を絡ませるダンサーを観ていると何がダンスで何が見せ物で、そして`美’の基準はどこにあわせるのか、、とわからなくなってくるのだが、執拗なまでにそれぞれの動き、新しい身体の使い方を追求している彼らを観ているうちに、マッチョに決めポーズをきめている姿が妙に格好良く見えてきて、次第にその動きにハマっていく自分に気づく。

ヨーロッパらしいユーモアも満載で、その固まらない、予想外な美的感覚に魅せられていく。

日本人ダンサーの伊藤郁女のするどい眼光もチャーミング。

余談:

先日、アヴィニヨンフェスティバルで同カンパニーのソロパフォーマンス「The Old King」(performed by Romeu Runa)を観たのだが、その時はなんとも独りよがりで冗長であまり楽しめなかったのは何故だろう。

屋外での公演だったから?一人だけで延々と演じたから??

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季節のない街(10/5)マチネ

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東池袋あうるすぽっとで山本周五郎の小説をもとに戊井昭人(鉄腕アルバトロスケット主宰)が脚色・演出した舞台「季節のない街」を観る。

あうるすぽっとプロデュース公演ということで、キャストは様々な劇団から集められた混合編成。これが、貧民街に集まってきたバックグラウンドの異なる人々という多様な味を出し、この芝居の長所として機能していた。

季節のない街ー小説解説より

“風の吹溜まりに塵芥が集まるようにできた貧民街”で懸命に生きようとする庶民の人生。――そこではいつもぎりぎりの生活に追われているために、虚飾で人の眼をくらましたり自分を偽ったりする暇も金もなく、ありのままの自分をさらけだすしかない。そんな街の人びとにほんとうの人間らしさを感じた著者が、さまざまなエピソードの断面のなかに深い人生の実相を捉えた異色作。



***ネタばれ注意***

季節のない街という題名ながら、そこに集まる人々は個性的ーカラフルーで一人として他の人と同じような人生を歩んでいる人はいない。横をみて倣うような余裕などないのだ。そんな状況を視覚化したセットでカラフルに彩られたブリキとベニヤ板で作られた可動式の家家が舞台上に並んでいる。エピソードごとに家ごと前後左右に(手動でスタッフによって)移動して、エピソードの登場人物たちの家がクローズアップされるといった趣向だ。

そのそれぞれのエピソードを繋ぐ役として活躍していたのが集落に住む知的障害を持つ鉄道マニアの少年(中島教知ー鉄腕アルバトロスケットから)。年がら年中、車掌帽にタンクトップ姿で「どですかでん(季節のない街を原作に作られた映画のタイトル)」と叫びながら汽車になりきって街を徘徊している。必然的に街の人と出くわすことも多く個々に生活する家を無意識ながら繋ぐパイプとして機能している。

それぞれの家族はそれぞれの価値観でもって、自らが考える「おいしい生活(こんなコピー80年代にあったでしょ?)」を送るべくがんばっている。一般的な基準で計るとちょっと下方に位置する生活水準ながら、日々汗を流し、メシを食らい、隣人を愛し、家族を思い、たまに哲学する。。。人の生活なんてそんなもので十分に幸せなんだという原作のメッセージがシンボリックな舞台装置で展開する不条理劇としてじんわりと伝わってくる。

毛皮族・江本純子、青年団・古屋隆太、、山本ロザ、飯田孝男、池袋遥輝(子役)前述の中島教知、、、と、とにかく出演者全てがそれぞれに見所満載の好演。

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2012年10月 5日 (金)

ファンファーレ(10/4)

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柴幸男インタビュー

三軒茶屋シアタートラムで柴幸男、白神ももこ、三浦康嗣共同演出による舞台「音楽劇・ファンファーレ」を観る。

演劇のライブパフォーマンスという特質を堪能出来る作品で、これをDVDで観ても実際に観た体験の半分も感じられないだろうという、まさに劇場で体感しなければ得られないという演劇作品の原点に立ち返った舞台。


***演劇サイト より***

ままごとの柴幸男、□□□(クチロロ)の三浦康嗣、モモンガ・コンプレックスの白神ももこ。彼らは09年に初演、昨年の再演では地方公演も行い、旋風を巻き起こした『わが星』(第54回岸田國士戯曲賞受賞作品)で、見事なコラボレーションを魅せた3人です。その面々が再び集結し、新世代の音楽劇『ファンファーレ』を上演します。
 本作は脚本を柴、音楽を三浦、振付を白神、演出を3人の共同で行います。通常は一人で担う演出を3人で手掛けることに対し、最初は不安もあったという彼ら。しかし、「キャストオーディションの時に、3人でつくる手応えを感じた」と、柴は話します。何気ない日常の断片をループやサンプリングなどを用い、新たな発想で切り取る柴。歌もの、ヒップホップ、テクノ、さらには自然界にあふれる音など、あらゆる要素を盛り込んで楽曲を構成する三浦。生活感をにじませた、ふんわりとしたユーモラスな振付を特徴とする白神。柴いわく「個々の力をセッションする感じで出せれば」とのこと。それぞれの魅力が凝縮された作品になることは間違いないでしょう。

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ストーリーはいたってシンプル。

ファとレしか歌えない少女が仲間の力を得て幸せを手にするまでをオリジナル音楽とダンスで描いたファンタジー。

そこには、とかくニッチな小劇場演劇界にあるような、深読みや裏読みといった小難しさは無く、劇の意味を考えた時にわれながら妄想かもと思うほどわかりにくいメッセージ性も皆無。

いたって堂々と、シンプルでそして(ポジティブな)エンターテイメントなのである。

トラムの劇場に役者(ミュージシャンでありダンサー、シンガーでもある)が登場し、歌い始めた瞬間から、ちょっと懐かしい気分に。もしかしたら、元来`演劇’という祝祭劇、民衆の楽しみの場はこんな様子であったかも、と思わされた。

ー開演前にはトラムの真向かいの小さな広場でプレパフォーマンスを展開しているらしい。。。これだったら、駅利用で周辺を行き交う人たちにも中で何をやっているのか宣伝出来る。←←この方法でロンドンのナショナルシアターも奇跡の巻き返し、新規観客の開拓を実現していたっけ。

東京公演の後は地方での公演がつづくのだが、そこでは地元パフォーマーも追加参加して上演を盛り上げるということなので、ますます好意的に劇場に集まる人を集め、盛り上がるんだろうな。。。これですよ、殿様商売の劇場運営ではなくて、アウトリーチ(手を差し伸べる)型の劇場。。演劇オタクだけの狭い世界だけで完結していてはいつまでたっても劇場文化なんて築けないからね。ー

音楽と踊りがあれば、結構それだけでかなりいけちゃうもんだ(これは先日静岡で観たSPAC宮城聰演出の「夜叉ケ池」を観た時にも思ったこと)ということかもしれない。

生演奏と楽しい音楽、これぞライブパフォーマンスの醍醐味。そしてそれを体感しに訪れるのが劇場、ということ。

劇場セットもそのシンプルな趣向にあわせて手作り感が感じられ、特に劇中に登場した人間サイズの象の作り物が秀逸だった。

人形劇にせよ、(ロンドンでメガヒットを記録しているWar Horseなんかもこれに通じるけど)、舞台装置にせよ、なんだか異常に心ひかれる、心動かす作り物ってあるよね。この象の作り物も、ぜひぜひ今後もどこかで再会したいものの一つ。

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2012年10月 4日 (木)

遭難、(10/4)マチネ

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東京芸術劇場シアターイーストで本谷有希子の代表作「遭難、」を観る。
****演劇サイトより***
2006年に上演され、第10回鶴屋南北戯曲賞を受賞した、
本谷有希子の代表作とも言うべき作品、『遭難、』の再演がついに決定いたしました!
再演を熱望されていた本谷流シリアスコメディが、
映画『冷たい熱帯魚』でその存在感を不動のものにした黒沢あすかを主演に迎え、
全く新しいキャストで蘇ります。

<あらすじ>
放課後の職員室に乗り込んできたのは自殺未遂の生徒の母親。学校の責任だと決めつける母親、泣き出す担任……。
人格者と評判の女教師がその場をおさめるが、実は彼女こそ、誰にも知られてはならない秘密を隠しているのだった —–
「トラウマ」を武器に縦横無尽に立ち回る、世にも性悪な女、ふたたび!

***************

上記にある黒沢あすかさんが病気降板ということで、初日一ヶ月前に主人公を変更しての上演となった本作。

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黒沢あすかから菅原永二へ変更となり、つまりはこうなった!

06年は青山円形劇場での上演で、好奇の視線が取り囲む中で職員室で起きるドロドロした人と人とのけなしあい、貶めあい、パワーバランス劇が展開していたわけだが、今回は東京芸術劇場の小劇場舞台上に職員室が出来たため、前回の見てはいけない人の心のうちを覗いているという感覚を出すため、客席との間に一つの覗き仕掛けー透視している壁をつけた。この壁が取り除かれ、観客は密室であることも多い職員室の中で起きている秘密を覗くことが出来るという仕掛けだ。

本谷有希子作品の物事の本質を露呈させる力強さ、そして巧みな作劇はもちろん変わることなく健在。劇終盤に主人公がつきつける、付和雷同の世間の潮流にしっかりのっているいわゆる常識人たちへの世の中の仕組みの種明かし、そして「誰もとなりの人の心の中は分らない」という真実は色あせていない。

だが、06年の初演舞台を観劇した時のような戦慄にまで及ばないのはなぜなのか。

それは、キャスティングが大いに関係してくるとしか言いようがないだろう。

まず、初演で主人公ー複雑な思考回路を有する一見`良い人’の女教師で今回は菅原が演じているーを演じていたいのが松永玲子、そして今回片桐はいりが演じている過剰反応を示す被害生徒の母親は佐藤真弓が演じていた。

この中核を成す女性二人のキャスティング、前回、心を病んだ女性二人が一見誰よりも普通に見えたことが、そのあと加速していくばかりの狂気に拍車をかけ、観る側に強烈な闇を感じさせたのだと思う。
主要キャストの路線変更により、必然的に回りのキャスティングもそれに対抗出来る、一癖も二癖もある(ある意味豪華な)役者たちが配されている。

破天荒なストーリーを支えるリアリズムの演技、今回はこれに華と色が加わったことにより、この破天荒な、だけどシリアスな話の針が極端にコメディの側に振れてしまい、その分この戯曲の持つ強さをやわらげてしまったように思われる。

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リチャード三世(10/3)

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「悪人を成すのは Nature or Nurture?!」
新国立劇場で鵜山仁演出「リチャード三世」を観る。
近年の演劇界である意味「事件」となった同劇場の大ヒット作、「ヘンリー六世」三部作一挙上演。
9時間というボリュームと相まって観た人々に強烈な印象を残した作品だけに、三年前の上演作品とは思えないほどいまだその興奮の熱が冷めてない中でのその三部作に続く作品(時系列としてはヘンリー六世の直後の出来事を描いたのが今作)の上演ということになった。
あの興奮が戻ってくる!という気持ちで出向いた人も多かったはず。そんな感傷的なファンを良い意味で裏切るような装いも新たにした今舞台。前作からの流れを継いだ続編を期待、予想していた人たちにあらためて「リチャード三世」がどんな芝居であるのかを問いかけた鵜山氏の意欲作。
****ネタバレ注意*****
キャストが重なるところ(実際前作からの生き残りの役もあるので)で継続性は出しているものの、演出面はがらりと様変わりをし、舞台セットもかなり抽象的なものにして、英国歴史劇という殻を脱ぎ捨てている。
舞台の大まかな構造(土台デザイン)は前作にならっているのだが、その舞台の表面を赤砂が覆い、ところどころにはクレーター、遠い背面には太陽が赤々と燃え、まるで未来時空を連想させる火星の上での出来事のようでもあり、見ようによっては太古を想起させる女性の子宮の中でのお話のようにも思える。。。つまり「どこのいつ」を限定させない、いつの世でも起こりうる悲劇の結末という劇に仕立て上げている。その意図にあわせてなのか、衣装も中世イングランドからぐっと現代に近づいている。
ーこの大胆な舞台装置の他にも、今回は大掛かりな映像効果もあり、この抽象的な視覚効果をそれぞれに解釈するところからこの舞台の楽しみが始まる。ー
前作の三部作が薔薇戦争の動乱をその時代に生きた多くの王侯貴族、武将たちを会して描いた群像歴史劇であったのに対し、今回はその争乱の落とし子、心身ともに奇形のリチャード三世を通して描く人類の愚かさを諭した芝居ということで、その演技・演出スタイルは変わってくるのは必然。前回、めくるめく早さで王冠争奪戦が展開され、ほとんど潤色部分はなかったが、今回はリチャードその人に近づくために、様々な回りの部分で大胆な装飾(脚色)ーティム・バートンの映画に出てくるようなゴスメイクのマーガレット(中嶋朋子)、カリカチュア化されたパペットで表現された子どもたち(王子・王女)、故ヘンリー六世と次代の新王リッチモンド(後のヘンリー7世)の重複キャスト(浦井健司)などーがなされている。
それら全ては、三部作から一息いれて、新たな独立した最終章としてこの芝居を観るための工夫と思われる。
とは言え、さらなる最終目的としてはこの三部作+リチャード三世が結局のところ大きな時代の流れの中でのひとつの輪として捉えられることが最大の狙いであることは明白で、最後まで見終わったところで初めて、強欲さ、単純さ、愚かさを持つ人間の大きなものに巻き込まれた時の微力さを、この4作品全てを観たあとで実感するのである。
その意味で、今回の「リチャード三世」では従来の極悪非道の大悪党像とはちがった勘違い野郎リチャード三世を作り上げている。
シェイクスピア劇の中でも上演が多く(日本では市村正親、仲代達矢、藤木孝、山崎力らがアクの強い異端児を演じている)、多くの映画にも脚色されている(アル・パチーノ、イアン・マッケランetc..)リチャード三世。その多くが、彼の強烈な負の源は奇形に生まれたコンプレックス、さらには実の母からも疎まれた生い立ちから来ているーNurtureーと解釈、その悪には原因があるとしているのだが、今回、岡本健一演じるところのリチャード三世はそのひねくれたコンプレックス部分が希薄だ(彼の繊細な容姿によるところもあるのかもしれないが)。それよりも彼には争乱の時代に生まれ落ち、幾多の裏切りを日々目にしてきた末っ子が元来持っていたその性質ーNatureー、その単純で残虐な性質を最大限に活かすことができる情況下に出くわしてしまったことで道を大幅に誤った悲劇として感じられているらしい。
実際、演劇誌シアターガイドのインタビューで岡本氏が「(リチャードは)結構ショボイ男なんですよ。彼の脆さを、毎日すごく感じているんです。」と役について語っている。
その性質ゆえに悪事に心咎めない主人公が最後に自分自身を振り返り問いかける「なにを恐れる?おれ自身をか?。。。。おれは悪党だ。いや、嘘をつけ、おれは悪党ではない。」そして、自らを見失った彼が最後自身に返り、本心をさらけ出して「馬を!馬をよこせ!代わりにわが王国をくれてやる!」と叫ぶのだ。
他には、今回も中嶋朋子のマーガレット、エドワード4四世(そしてプリンスたちのパペット遣い)の今井朋彦がともに圧巻の存在感を示していた。

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Jack the Ripper(10/3)マチネ

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平日の昼間、韓流ファンが詰めかける雨の青山劇場で韓国版「Jack the Ripper (切り裂きジャック)」を観た。

時間丁度に着いたにも関わらず(劇場の時計が2時をさしていた)、数秒遅れたのか、既に幕が開いたので6分間ロビーでお待ち下さいと言われてしまい、オープニングを見逃すーそれにしても、数分間の押しは範疇内でしょうに。。厳しい〜〜。

で、これがまた完璧なまでにプロフェッショナルに作り上げられた作品で、これが韓流エンタメの底力、とまたもや再確認させられた作品だった。

もともとはチェコで生まれたミュージカルを09年に韓国で新演出で上演。大ヒットを記録し4年間のロングラン、日本からも多くの人が観劇に訪れているという。

ー昨年の今頃、初めて韓国に芝居を観に出かけたのだが、大劇場の演目(ミュージカルが多い)になればなるほど、外国人の観劇客を大いに意識していることは一目瞭然。ー英語字幕(時に日本語字幕)を付け、外国人客を意識した作品作りをしているー国内の人が観つくしたなら、国外の人を誘致すればよいという考え方なのだろう。ー

良くも悪くも、韓流ドラマに似通っていて、かなり強引なストーリー、この強引さがドラマチックな進展を流れにのって展開しジェットコースターのようなドンデン返し、急展開を繰り返す。「あり得な〜〜〜い」とは言わせない、そんな些細なことよりも受け入れて楽しんじゃった方がお得!と言わんばかりのノリノリのエンタメショーだった。

私が座っていた席の後ろあたりにいた二人組の休憩時間中のおしゃべりを聞いていたら、どうもそのうちの一人は何度もこのミュージカルをすでに観ている様子。

それぞれのキャストについてその出来の違いについてもう一人のお友達にレクチャーしていた。(まるで夢の遊眠社の公演を何度も繰り返し観ていた数十年前のわたし??!)

まあ、この現象からしても、韓流ブームが演劇界にまできちんと作用していることは明らか。一人でも劇場に通って欲しいと願っているひとりとしては、この盛り上がりは本当にありがたいこと。この勢いが日本の(ステージ)エンタメ界にまで波及してほしいのだが、ここのところよく目にするオープニング直前のチケットディスカウント情報などによると、ミュージカル用の大きな劇場はオープニングしているもののそれほどまでに観客層の拡大には至ってないのだろうと推測出来る。

全てが手放しで`ブラボー’というわけではないのだが、少なくとも確実にこの韓流ミュージカル公演にはミュージカルファンを増やすヒントが溢れていることは確か。(字幕を劇場左右の壁だけでなく、前方席の観客用に舞台のへりの下部分にテレビ画面のようなものを数台設置して彼らにも見やすいように工夫している。カーテンコールでの役者陣からのサービス(これは東宝ミュージカルなどでも見られるが)が充実していて、単純にショーを楽しめる工夫が満載、、などなど)

以前、同劇場で「ラ・マンチャの男」を観た時もその日一日ハッピーに過ごしたのだが、今回も楽しい一日を過ごさせてもらった。

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ピーター・グライムズ(10/2)

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新国立劇場2012/2013シーズン幕開けプログラム、珍しい英語でのオペラ、英国が誇る作曲家ベンジャミン・ブリテン作「ピーター・グライムズ」を初台の新国立劇場で観る。

これが、全ての面でー舞台美術、演出、楽曲、ストーリーー傑出の舞台。

観て絶対の損なし!!おススメ。

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2012年10月 1日 (月)

ことほぐ(10/1)マチネ

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夜叉ケ池(9/29)

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静岡県舞台芸術センターで劇場専属劇団SPACのレパートリー公演「夜叉ケ池」を観る。

 

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倒木図鑑(9/28)

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ミス・タナカ(9/28)マチネ

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