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2012年9月

2012年9月27日 (木)

アンダスタンダブル?(9/26)

前田司郎率いる五反田団とフランスのASTROVによる国際共同プロジェクト「アンダスタンダブル?」の初日公演を五反田団本拠地、アトリエヘリコプターで観る。

初日ということもあり、日仏会館の文化担当者などフランス人関係者(らしき)も多くつめかけため、補助席を出来うるかぎり使用しての大盛況となった。

フランス人俳優3人と日本人俳優3人で演じられる舞台は前田司郎が戯曲を担当、フランス人のジャン・ドゥ・パンジュがその翻を演出し、お互いの言語を解さない外国人同士の間に生じるコミュニケーションの不成立とそれぞれの文化背景の違い、そしてその先に生じることもある(かもしれない)まるで奇跡のような、未知なる対象へのお互いの興味から芽生える好奇心からのコミュニケーションの芽を1時間強で見せている。

*****演劇サイト より*******
「アンダスタンダブル?」はジャンに依頼されて書きました。
ジャンのこともあまりわからずに書かねばならなかったのですが、一回二人で話し合いました。ジャンの拙い英語と、僕のさらに拙い英語で。
それでもお互い何かわかりあった気になったものでした。
言葉ってなんだろう。わかりあうってなんだろう。そんなことを考えました。
男と女の物語を書きました。
ラブストーリーです。英語とフランス語と日本語での上演ですが字幕はありません。
わからないことが面白いので。

*****ネタばれ注意*******

一見、即興とも思える日本人vsフランス人の会話、そしてスケッチシーンでは単なる言語の不理解だけでは起こりえない、双方のカルチャーの違い、思考体系の違いが、そのなんともバカバカしい会話のやりとりー例えば、日本人男性が「I love you」とフランス人女性に無防備な微笑みとともに語りかけるとフランス人女性&男性陣からは「You can't say that. Love is not so easy!」と呆れられ、切り返される..日本人の団体調和(ハーモニー)信仰と平和的性善説とフランス人の個人主義&個人が負う責任を明確にする考え方のちがいが表れているーの中で見えてくる。

共通言語である英語での会話によって劇が進行するのだが(時にどんな言語でもない言葉を使ってコミュニケーションを図ろうとする場面もあり、そのシーンではそれぞれがデタラメ言語を話す)、日本チームから発せられる言葉(or単語)がなんとも奇天烈な独自の一方的な思考回路によるもので、もしかしたらこのような西洋人には思いがけない、ときには理不尽な反応が、かえって彼らの「見たことがない・聞いたことがない」といった興味の引き金を引くのかもしれないと思った(ウ〜〜〜〜ん。。だけどその最初の興味が薄れた後には。。。どうなるのだろう)。


アフタートークで作者が「本当にわかりあうって、どういうことだろう。もしかしたら同じ言語を共有するもの同士でさえ、分りあえないことは多々あるように思う。」と話していた。
確かに、その意見には共感するところは多くあるのだが、、、それにしても、今回の舞台においての日本側のコミュニケーションレベルはその語学云々のはるか以前の段階であったとしか言いようがない。

ー例えば、英語を解さない人たちと旅先で話す機会があった場合でも、ほとんど違う言葉で会話を進めながら、もう少し伝わるレベル、相互関係でのコミュニケーションが可能であったと思うのでー

というわけで、その内容に関しては、なんとも奇天烈という可笑しさはあるものの、ある種の会話が成立していたとは思いがたいのだが、、、いずれにせよ、様々な意味で、日本の現状をいろいろな角度から検証するといったことから、海外の状況を推測してみる(例えば、フランスなんかはEUの中で多人種、他言語の人たちと日々ディスカッション、ディベートを課せられているので)といったことまで含め、観てみて絶対に損のない公演だなと感じた。
1時間ちょっとの中でそれぞれに、他の演劇公演では絶対に見えない何かが見えてくるはずなので。


補足:この公演のため、実に三年近くの月日とそれに伴う多くの人たちの労力、お金が費やされたということで、演出家のジャンは感無量の様子だった。
そのお陰でこのユニークな舞台が出来上がったわけだが、そこにもう一つ、第三者の手引きなり第三者だからこそ出来る客観的な指南があってもよかったかな、とは思う。(ドラマツゥルクの役割??)

作家にも演出家にも役者たちにも、確実に実のある時間、体験であったとは思うが、何と言ってもそこにはある程度のパブリックマネーも導入されているわけで、、その部分での文化政策という立場からの提案があってもよかったかも。

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2012年9月26日 (水)

阿呆の鼻毛で蜻蛉をつなぐ(9/25)

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タイトルの「阿呆の鼻毛で蜻蛉をつなぐ」とはーー
(阿呆の鼻毛はトンボをつなげるほどに長いという意で)この上もなく愚かなこと。という意味らしい。

THE SHAMPOO HAT 主宰、同劇団では作・演出・出演の三役をこなし、近年外部劇団、メディアへの出演・執筆も増えている赤堀雅秋の新作戯曲(本人は今世田谷パブリックシアターで「浮標」に出演中)を、こちらも各方面でマルチに活躍する河原雅彦が演出した舞台を本多劇場で観る。

刺激的な出来事がおよそ起こりそうもない地方都市で起きた連続殺人事件。この何も起こらない、何もかもが停滞している街で、若者達はこの不況下、出ようにも出られない暗雲がたちこめるような閉塞感の中、表向きは平和に、いつもの日常をのんべんだらりと過ごしていた。
そんな中、数週間前から連続して起きている殺人事件の全貌が次第に明らかになっていく。思いもよらなかったその犯人を殺人衝動へとかきたてたのは表の顔からは想像しがたい遠い昔からのトラウマだった。


プロデュースカンパニーのアミューズ所属の若手俳優がキャストを占める中、ベテラン陣の市川しんぺー、伊藤正之、駒木根隆介らが要所要所で舞台をひきしめている。
若手俳優たちは勢いはあるのだが、まずー別段顔自体が似通っているわけではないのだろうがーそれぞれの見分けがつなかくなることがあってちょっと戸惑った。


赤堀作品らしく、とことん救いが見当たらない世界観が作品を貫いていて、話が進んでいくほどその救われないであろう方向性が緊張感をもって感じられ、面白さを増していく。

スペースと映像を巧みに使った演出に一瞬そのテイストを見誤りそうになるが、音響効果、そして階段状に入り組んだ構造の舞台装置をよくよくみるとその意図するところー気持ち悪さーがわかってくる。

このところ、この作品のように、かなり極限状態にまで追いつめられて、そして何かが弾けるその直前、もしくは実際にはじけてしまって大きな出来事を誘発するといった、とことん希望のない、その先(物語の終わりのその先)はさらに希望のかけらも感じない作品が多いように思う。

やっぱり、世相を、今の人々の心境を表すと、こうなるのかも。

で、夜に自民党総裁選の選挙運動演説をニュースで見ていたら、「かつてのジャパン・アズ・ナンバーワンを取り戻そうではありませんか!」ととんでもトンチンカンなことを力説している候補がいて、いいかげん顎が外れそうになる。
いつまで、学ばない姿勢でなんちゃって政治を続けていくつもりなんだろう?ー党の重鎮の方々にとっては責任を問われるころにはヘブンにいるのかもしれないから関係ないのかもしれないけど。相変わらずのメディアの片寄った報道ー自民党支持者のみにかぎったコメント放送などー姿勢にもあきれる。
でも、今の、あの日を経験した国民たちは昔とはちょっと違うと思うんだけどね。

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2012年9月25日 (火)

貧乏が顔に出る。(9/24)

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雨の新宿御苑、櫻井智也率いる劇団MCRの08年初演の再演舞台「貧乏が顔に出る。」楽日公演を観る。

小劇場ゴアーの友人が前回彼女の聖地である下北沢での公演(「俺以上の無駄はない」)を観てそのぶっ壊れ具合を絶賛していたので、その熱気を味わいに行ってみた。

どうやら、彼らの作風の一つの特徴が「(中途半端な)クズ野郎」を自覚している社会の片隅で生きている市井のひとびとたちがその中途半端さと日常の怠惰さにより追いつめられていく中、拠り所としている近しい仲間、友人、家族たちに`迷惑だけはかけたくない’と最後のプライドを掲げながら、それさえも外部の強者に踏みにじられ、壊されてしまう。。。朽ち果て何も無くなったかのようにみえる場所に見つけた小さな小さなタネを拾いあげ、クズ野郎たちはまた暮らしていくしかない。。。といった社会的弱者たちの叫びを描いたものであるらしい(前作も今作(再演ではあるが)もそのようなつくりになっている)

*****「貧乏が顔に出る。」 あらすじ 劇団HP より*******

どうしようもない男が三人、ひとつの部屋で暮らしています。
それぞれがそれぞれ、腐りきった腐れ縁を、
時に足蹴にしながら毎日を過ごしています。
ある日、三人のうちのバンドをやりたがっている男(賽銭泥棒)が
酔っ払ってお地蔵さんをアパートに持ってきます。
お地蔵さんはその男に対して、罰というか特権というか、
そういうものを与えることになります。
物語は、そういう、ふざけた感じで始まります。

************************

劇団のHPの最初にあるように、このような一見悲惨な状況を描いているとはいえ、その状況を「笑い」で描くことに重きを置き、それによりよりストーリーに入り込んでもらうように務めているということであった。

その言葉どおり、上演中は絶え間なく大きな笑い声がそこここで起きていた。たとえば、一つ前の列に座っていた上演前にはとてもおとなしそうに見えていた草食系の若者が、となりの彼女そっちのけでゲラゲラ、アハハハ。。。と身体をよじりながら笑っていたのにはちょっと驚いた。

確かに、突拍子もない設定、かなりドギツイ台詞、いそうな人をかなり大幅にカリカチュアさせたキャラ、などにより飽きさせることはない。

だけど、一方で3万円の家賃が払えない人が実際に増えてきている、そして学校では理不尽なイジメが横行している、ホームレスになるしか生きる道がない人も増えている。。。。などの現状を考えたとき、ちょっと気持ちが悪くなる悪ふざけが見えることも。(それらが笑いであった時代はそれはそれでよかったよね)


「貧乏が顔に出る。」。。。。野郎達の友人関係はなんだかとても楽しそう。。といった芝居、と観た。

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2012年9月24日 (月)

ゴベリンドンの沼(9/22)

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巷の演劇サイトで話題となっている劇団おぼんろの「ゴベリンドンの沼」を豊洲にある特設スタジオで観る。

劇場ではないところでの公演ということで、どんなことになっているのやら、と興味がわき、友人と連れ立って駅から10分ほど歩いた閉鎖した工場をその特設会場へと改装した場所へ。

当日聞いた劇団員の話によると、1ヶ月の賃料を払い、その間この場所を完全に借り切って、1ヶ月近くにおよぶ34ステージのロングラン公演を実現させたということだ。

廃工場を手作りで飾り付けた場所はそれだけでも魅力的。客席を敷地の中央に集め(ビールケースに手作りクッションを貼付けた特製可動イスに座って観劇。360度好きなように身体を動かしながらの観劇が可能)、前後左右、また工場の2階部分まで全て使って役者が縦横無尽に客席スペース外の部分すべてで演技をする。

ストーリーは架空の村に伝わる伝説を軸に、主人公の仲良し兄弟二人、村人からおそれられている怪物ゴベリンドン、そして嫌われ者の魔女、登場人物それぞれが抱える過去の秘密、お互いに心の奥に抱く思いの真実、といったものに関する謎解きという流れで進んでいく、ファンタジー寓話。

芝居そのものに関しては、アクロバットな動きも役者のファンタジーなヴィジュアルも、会場の選択に関してもまったく問題はないのだが、その他の部分でちょっと「イタい」感があったので老婆心ながらひとこと。

と言うのも、上演の前に(あと後にも少しあったかな)劇団主宰(兼俳優)から15分ぐらいの前口上があったのだが、それが、「どれだけ熱い思いで演劇をやっているのか」「自分たちの目指すところ」といったことに関して得々と熱く語ったものだったのだが、、、それ、ブログかHPとかでやっといてちょうだい、という話。

作品で語ってくれや、まず。って話。

アフタートークに聞きたい人を残して、それをやるならまだしも、上演前の時間を使って作品を見せる前に`自分たちの舞台はハリウッドにもひけをとらない。。’と言われても、興醒めするだけだな(たとえそれが本当だったとしても)。

さらには、自分たちが100%納得するほどに創作活動を行えているということに関しては、それは良かったとただただ喜ばしいことなのだが、、まあ、ほとんどの演劇人がおそらく多くの犠牲を払い、最大の努力をしながらそれぞれの演劇上演を実現している(なんと言っても社会的にも世間的にもド・マイナーなアートジャンルなので)という実態を、つまりあなたたちだけではないということも自覚しておいた方が良いのではないかということ。

いくら言い値とは言え、、というかだからこそビジネスなんだから、クールに興行をする冷静さも持ち合わせて欲しい。


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2012年9月23日 (日)

9/21 -鉄の纏足〜アングラ戯曲を読む(海賊)〜浮標

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午前中: 「鉄の纏足」@アゴラシアター by 東京タンバリン

高井浩子率いる東京タンバリンの07年初演作品の再演舞台を観る。

*****演劇サイトより *****
あらすじ:
安定した職につかず、ビデオ屋でバイトをする男は30 歳を過ぎ、夢を追うには微妙な年齢になってきている。日常の人間関係の煩わしさが彼の精神を徐々に蝕み、妄想がやがて行動にも現われてくる。
現実と虚構の世界が複雑に絡み合う中に、「人間の意識下に潜む暗闇」が浮かび上がり、そして・・・

**************

上記サイトの演出に関する情報欄にも記載されているが、舞台はフェンスで囲まれたバスケットコートという設定。冒頭、出演者たちが激しく走り回りながらボールをパスして、頭上に取り付けられたゴールめがけてシュート練習を繰り返す。ボールを投げたり受け取ったり、パス回しにより、身体的な人と人とのコミュニケーションの形が提示される。ー相手がパスを受け取り易いように気遣って投げたり、挑発的に早いパスを放ってみたり。。。分り易いコミュニケーションのひとつー

その後、本編に入るとマニュアルどおりの言葉づかいが飛び交うチェーン店のレンタルビデオ屋のシーンへ。社員(店長)ひとりの他はアルバイトばかりという職場環境の中、当初は「いい人」っぽく無害に見えたバイト仲間の中で波風立てずに無難に人間関係をこなしていた主人公時田(森啓一郎)だが、深くつきあうつもりはなかったその狭い社会の中で、次第に実はドロドロした、それもとても些細なことからもつれあっていく職場の人間関係に引きづりこまれていく。そのほとんどの否コミュニケーションはパスを投げあうことなく、一方的な攻撃、打診なしの一方的な発信から始まっている。

そんなとても現実的な日常の世界ともう一つ、「もしも。。」の世界が時々展開する。そこは架空の仕事場。人間関係を全て排除した職場=図書館で働く職員たちは意識的にひとりだけの世界で読書をすることを生業として黙々とひとりの殻に閉じこもり職務をこなしている。

ーー人と関わらないという職場は理想の仕事場なのか?ーーー

その一方、現実の世界では主人公の心の奥で溜まりたまったものが爆発へのカウントダウンを刻んでいる。。そして思いがけない形でその鬱積したものが表れる。

「太陽が眩しかったから」という理由で殺人が行われたカミュの異邦人のごとく、他人が気づかない動機のもと惨劇が起こるのはいつの時代にも共通の人間の感情の複雑さの仕業らしい。


多少強引な展開ではあるものの、不条理を現代のコンテクストで見せてくれた。

午後:アングラ戯曲を読むー「海賊」by 山元清多 performed by 東京ミルクホール

Space早稲田演劇祭の演目のひとつ、「アングラ戯曲を読む」のリーディング作品「海賊」を観る。

日本演劇史上アングラと呼ばれる時代に書かれた、時代に飲み込まれていく若者達の心のジレンマを描いた作品で、その意味では朝に観た「鉄の纏足」と通じるところのある作品。

同じように社会におさまらぬことに対する閉塞感を描いているのだが、2つの作品が書かれた時代の違いによる結末の差異を見るとすると、アングラ時代(60-70年代)にはまだ希望が語れたという点であろう。社会全体が新しい何かに期待を持っていた、若い世代がその変化を実現出来るとどこかで信じていたあの頃に比べると、今の若者達の将来に関する達観は残念なことながら仕方がことなのか。

本公演の最中の東京ミルクホールの面々、いつもとは違った役者の顔を見せてくれていた。

これを機会にアングラ戯曲の翻案コメディー。。以前岩渕達治氏原作の「水晶の夜、タカラヅカ」を翻案したように。。なんかやってみても面白いかも。

夜:「浮標」@ 世田谷パブリックシアター

******演劇サイトHP より 演出家ノート*****

葛河思潮社の第二回公演に何を上演すべきか。私は迷う事無く『浮標』再演を葛河氏に打診した。葛河氏は静かに私に問いかけた。「それはあの震災があったからですか」。私は返答に窮した。『浮標』再演は震災前、既に私の頭の中にハッキリとあった。しかし震災が私の決断を紛う事なくしたこともまた事実である。三好十郎のこの4時間に及ぶ『浮標』という劇は、妻・美緒の「死」を目前に、久我五郎が文字通り命懸けで「生」を問うような作品である。そして久我五郎の「生」はこの国土の上に立っているのだ。私はそもそもこの1930年代を舞台にした作品を古き名作としてではなく、現代劇として表出させようと試みた。万葉の時代から繋がる日本人、その中で、たった一人の妻を失いかけた或る時代の或る男が「生」と徹底的にやり合う姿は、圧倒的な「死」を前に「生」を問われた我々に、何か大きく響いて来るのではないか。私はこのことを正直に葛河氏に伝えた。葛河氏は「ありきたりだけれど」と前置きしつつも、「いや、きっとそれが普遍ということなのだよ。いつもそこにあるはずのものがなくなってしまう、あるいはその姿を変えてしまうとき、やっぱりそのたびに慌てて、ひっくり返ってぜえぜえしながら対峙し、考えてきたことなんじゃないかね」というようなことを小さな声で言った。あまりに小さな声で、私に彼の言いたい事がハッキリ伝わったのかどうかは別にしても、生命の力が漲るこの劇を、今年もやると思い込んでしまった以上、やはり実現する他に道はないのである。
長塚圭史
******************

初演時 レビュー

前回の初演舞台が長塚圭史の演出作品なのにそれを前面には出さず、比較的ひっそりと吉祥寺シアターで上演されたにも関わらず大きな反響があったこともあり、前述コメントで演出家の再演要望があったことが明かされているが、それとは別のところでこの早い段階での再演が実現したものと思われる。

主役の天才画家久我五郎役ー田中哲司の他はほとんどが新たにキャスティングされての再演舞台となったわけだが、演出・舞台美術ともども基本的には前回から変わっていないにもかかわらず、何点かの変わった点によって同じ舞台でも違うものに仕上がることに驚くと同時に芝居の一回性というものをあらためて認識させられた。

その数点の違った点というのが、

*劇場ー吉祥寺シアターから世田谷パブリックシアターへ
それに伴い、基本的には同じセットながら若干のそれぞれの舞台での調整があり
*キャスト
*そして1回目と2回目という時間の流れ

と、このあたり。


どっしりと力強い戯曲が中心に存在するので、全体の出来がそれほどまでに大きく違うといくことはないー観劇側としても2度目ということもあり、前回とはまた違った角度からの戯曲に関する発見、時代背景であったり、作家の思想傾向の変化であったり(プロレタリアリズムの望むところとそのなかにある矛盾するところの葛藤)、があり十分に楽しめたことは確かーのだが、これらのちょっとした変化が。。。例えば、劇場構造、吉祥寺シアターの方がこじんまりとした空間であるという大きさの違いに加え、砂の箱庭セットを客席から俯瞰する位置関係に舞台があり、戯曲の設定にある千葉の海岸近くにある家という状況説明とあわせて暗い照明の中に浮かぶ抽象的な空間として夫婦の緊密な距離、また疎遠になっている家族との距離感を簡素なセットながらあわせて表現していた。今回、上演直前の挨拶で演出家ももらしていたが、舞台が前方の客席からだとかない上方につくられていて、おそらく前方の観客にはまた別の世界が見えていたであろう、ということ、それと高い天井と広々とした舞台空間が箱庭のフリーな抽象性を薄め海岸という状況のみをさらに具体化していた。

キャストに関しても、個人的には前回の押さえたトーンの方が適したように思う。
とても些細なことなのだが、例えば病身の妻の麦わら帽。。。前回の藤谷美紀にはしっくりしていたが、今回の松雪泰子には別のデザインの帽子の方がよかったかも。。。とても小さなことなのだが、それだけでもちょっと印象が変わるので。。(松雪泰子の演技それ自体にはまったく文句はないのだが)

演劇上演って繊細なものだな〜〜、と。

世の中つくづく不平等で、そんな中でどこに自分の足を構えるのか。。。そこからどこまで、どうやって回りを眺めるのか。。そんなことを考えさせられたこの日の観劇3本でした。

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2012年9月20日 (木)

怒り新党

今晩の「怒り新党」、世界三大○○のコーナーで記録より記憶に残る(プロ野球)名選手というくくりで90年代に活躍したヤクルトスワローズのピッチャー伊藤智仁投手の三大試合を紹介していた。

これがすごい!

ウィキ 伊藤智仁


番組内で諸刃の剣と形容していたが、その名の通り、その類い稀なる才能から史上最高のピッチャーと称されたと同時に度重なる怪我ー肩ーで現役時代の半分以上をリハビリで過ごした選手であるらしい。

最後は88%というプロ野球市場最高の減給幅でも、ピッチャーという仕事を続けることに夢をつないだが怪我の影響で思うようなピッチングが出来ず、現役抹消の決断が下されたようだが、その最後の試合には2軍試合にもかかわらず異例の数のファンが勇姿を見届けようと駆けつけたらしい。

なんだか、普段、私が関わっている演劇とかも、このような数字では表されないようなものを観るために通っているようなところがあるような気がする。

ハウツーのビジネス必勝法では割り切れない何か、負けても感動出来る試合ー例えば、今までのフィギアスケート演技の中で、2010年バンクーバーオリンピックでの浅田真央の演技、あのトリプルアクセルの後でのまさかの一回転がもっとも記憶に残っている、感動した演技の瞬間であるように、、、真央ちゃんも人だったのね〜〜〜というところでーを目撃するために、そんないつまでも心に残る瞬間に立ち会うために劇場へ通っているような気がする。

過去にも何度かそんな瞬間があったからこそ、未来にまたそれに出会うために、やっぱり劇場通いはやめられないんだろうな。

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ボクの四谷怪談(9/19)

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渋谷シアターコクーンで蜷川幸雄演出、橋本治作、鈴木慶一楽曲のロックミュージカル「ボクの四谷怪談」を観る。

作家、橋本治氏が「桃尻娘」で小説家デビューを飾る一年前(1976年)に突如天からのお告げに突き動かされて(?!)徹夜明けに一日で執筆したという(!!)幻の戯曲を、当時その原稿と出会っていた蜷川氏が思い出し、掘り起こし今回の上演にこぎつけたという舞台。

東大での卒論が「鶴屋南北」だったという作者が熟知していた原作「東海道四谷怪談」を現代(当時の70年代)の世相に反映させて作り上げたのが「ボクの四谷怪談」。

でもって、その70年代を2012年の渋谷で上演。。。(ってか36年前って、観に来る人の中には生まれていない人も多いよね)ーーー私なんかはその時代を知っているから、みんなのベルボトムジーンズ姿にニヤニヤしていたけど、、若い人には何のことやら?ー栗山千明のつぎはぎベルボトム姿は今のかっこいいファッションとして受け入れられるんだろうけどーなんだろうな〜〜。

副題に騒音歌舞伎とロックミュージカルの2語がついている、、ここが気になるところではあると思うのだが、どうもこれに惑わされては(かってに思い込んでいるだけなのだろうが)いけないような気がする。
しいて名付けるとすれば、、、、70年代洋楽にのせた現代歌舞伎 といったところだろうか。

と言うのも、鈴木慶一の音楽が(モチロン)`騒音’でもなければいわゆるロックと聞いて連想する`ハードロック’でもないから。

で、芝居本編なのだが、3幕構成による3時間強の盛って、盛っての大サービス演目。

「四谷怪談」のストーリー、人間関係を説明する役割を担っていて、大部分でその本歌を踏襲している第一幕では、その役割ゆえなのかこの作品の面白さがまだなかなか見えてこない。。。ミュージカルの歌うたいの部分でもタモリがよく形容している「なんであそこで突然歌いだすのか、不自然でしょうがない」というような違和感、もたつき感も多々感じられる。

が、2幕に入って、一応のストーリー説明を終えたあたりから、、お岩さんが幽霊となって登場するあたりから、どんどん原作から道をわき道(橋本治のわが道)へとそれていき、それに連れ、芝居も面白さを加速していく。

第3幕ラストの長大な伊右衛門(佐藤隆太)の独白などはあっぱれと声を入れたくなるほど(佐藤氏の演技に関しては、まだまだこれからさらに加速していくことを期待するが)。

1日で書き上げたというそのエネルギーが前面にあらわれる(書かなければ!というエネルギー)、橋本氏の世に言いたいことー`なんでみんなと同じでなければならないの?いいじゃない好きにすれば。。余計なお世話だから、ほっといてほしい’ーがほとばしる後半部分が痛快。

で、この作品にとってのうれしい偶然(まあ、考えつくされてのキャスティングなのだろうから、あながち偶然ではないのだろうが、うれしい結果、と言えばよいのか)として、2幕からお岩役で登場する歌舞伎俳優、尾上松也の奮迅の活躍があげられるだろう。

歌舞伎スタイルで妖艶に死んでいくお岩さん、幽霊になってうらめしく登場するお岩さんも良いのだが、その後にまっているクライマックスでのドンデン返しもまた素晴らしい。

でもって、肝心要のパートである歌がダントツに説得力があってーその他にもテナーの瑳川哲郎、ロックな栗山千明、三浦涼介 らもいい味を出しているーこれだったらいきなり歌い始めるのにも、説得力があると思わせてくれる。

勝村政信、そしてナイロンの女優陣、峯村リエ・新谷真弓の安定した演技力にも注目。

曲ではラップでご飯を食べるナンバーとフィナーレの「ロック街道四谷怪談」がグッド!

前述したように、ちょっとネタが古い(何と言っても70年代という今なので)と感じる箇所もあったが、この混在ワールドー役者のカラーも時代もオチもみんなごちゃごちゃと混在しているーを楽しんでみるのも一興。

ーお隣さん、、1幕の後の休憩で帰ってしまったようなのだが、残念でした。面白かった、よ。ー

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2012年9月17日 (月)

ちょりズム(9/17)

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駒場アゴラ劇場の恒例企画「PAN (Performing Arts Network)2012」。フェスティバルディレクター(今年は前回に続き矢内原美邦)が選んだ若手中心のラインナップが売りで、ここから多くに知れるところとなる団体も多い。

このフェスティバルに参加している、これが東京初進出となる北九州の劇団(?!)有門正太郎プレゼンツの「ちょりズム」の最終日公演を観る。

全国区で有名な北九州を拠点に活動する「飛ぶ劇場(泊篤志率いる)」の看板俳優(であるらしい)の有門正太郎氏が立ち上げたコント主体のユニットが地元愛全開で全編九州ーもちろん主に北九州市ー全域のPR、ローカルネタ、北九州と博多を比べての自虐ネタなどを展開する。

劇団活動とは一線を画しているという目的意識がはっきりしているので、その「笑い」へ対する態度が明確。笑いが多い芝居ではなくて、はっきりと笑いをとってなんぼといったコント芝居で、もちろん役者たちも身体をはって笑いをとりにくる。

手作り感あふれるダンボール製のセット、お決まりの制服姿の衣装、ローカルニュースが楽しめる(画面に流れるリアルタイム式コメントが面白い)映像、、とてんこ盛りで楽しませてくれる。

お恥ずかしながら関門海峡を渡ったことのない九州を未体験な私に、「あそこに足を踏み入れていないのはかなり損をしているのかも」と思わせてくれるような、それこそ宣伝効果絶大なローカル・ラブ芝居。

いっぱい紹介してもらったまんじゅうのそれぞれの特徴は今ひとつ分りかねたものの、博多ッ子と北九州もんの違いはちょっと分ったような気がした。

舞台挨拶で感極まった女優さんの目には光るものが。

また来てね〜〜〜〜。

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無差別(9/17)マチネ

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東京芸術劇場 シアターイースト(旧称:小劇場)にて柿喰う客の1年半ぶりの新作(企画もの:女体シェイクスピアシリーズなどを除く)「無差別」を観る。

先日の快快においてかなり大きく震災の影響が出ていたのと同じように、今回の柿喰う客の新作でもこれからの日本を牽引していく世代 ー作・演出 中屋敷法人ーからの正直なこの国の進路に関する`問いかけ’がなされていた。


***** 演劇サイト より********

罪悪を犯し禁忌を破り、
運命を呪い現世を生きる。
神も仏も獣も人も、
無差別に陥る因果の罠。
 
 
柿喰う客、1年半ぶりとなる新作長編!
戦後日本の思想的転換を題材に
人間<テクノロジー>と神<自然>の調和と共存を描く!

****************

(ネタばれ注意)

舞台中央にはジャングルジムのような鉄筋剥き出しのセットが。その演じる部分の回りをびっしりと黒い舞台照明機材がとり囲む。

可動範囲は中央のセットが据えられたかぎられたスペースとジャングルジムの鉄の棒の上のみという条件の中、身体能力に定評のある柿喰う客の役者たちがその狭いスペースを逆手にとって、緊張感のある濃〜〜〜い演技をみせている。
今回は作・演出・劇団主宰の中屋敷氏も俳優として舞台に上がっている。(まあプロフィール写真などでも演じている様子がみれるので、、演じるのは嫌いではないのでしょう。端正なお顔立ちも役者向き。これからも演じつづけるのでしょうか?ね?)

その他、今回の舞台から柿喰う客の作品にお目見えした新メンバー3人(11年入団)ー永島敬三・大村わたる・葉丸あすかーの面々も。彼らのお披露目公演の意味もあったのかもしれない。3人とも良い意味でとんがっていて、さらには動ける役者さんたちのようで、これからの舞台も楽しみ。

ーと思って観ながら、看板のコロさんはどうしたの?と思っていたら、後日、ネットでコロと村上誠基氏が5月に劇団を退団していたことを知った。理由は定かではないが、まあ、時が流れているということで。まあ同じ流れで、今後、将来、また彼らが何らかの機会にまた一緒に何かを創れたら良いのにな〜と思う。ー


民話形式によって、日本社会におけるヒエラルキー、団体の中での「差別(=無差別)」が個人と社会の両方の枠で語られるのだが、その中には過去を顧みて今を思うところでの様々な問いかけ、確認が含まれている。


ミニマリズムの演出だからこそ浮き出てくる骨太な問い。また、それを効果的に体現する役者たち。

多義的な意味を持つ舞台セットも含め、、見応えのある舞台。

これは柿喰う客の新しい局面を打ちだす、劇団の`古典作品’となるかも。

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りんご(9/16)

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神奈川芸術劇場(KAAT)の若手発掘プロジェクトKAFE9のプログラム、快快の「りんご」をKAAT大スタジオで観る。

(CAFE9仕掛人のひとり シアタープロデューサー中村さんのインタビューはこちらから)
CAFE9 中村茜インタビュー

脱(既存の)演劇を仕掛ける若手演劇グループの旗手として04年の結成依頼、様々な演劇&アート分野で活躍をしているパフォーマンス集団快快(ファイファイ)。

今回のCAFE9が世界へと羽ばたく若手をアピールするプロジェクトでもあるのだが、彼らの場合は既に世界での活動経験も豊富で、ヨーロッパではフェスティバルで最優秀賞受賞(10年、チューリッヒ)も成し遂げているという、ある意味どこよりも海外で名が知れわたっている劇団。

そんな彼らのターニングポイントとなるであろう今回の新作「りんご」は彼らのヨーロッパでの評価が偶然でも、サプライズ的な一回性のものでもなかったことを裏付けるガチな内容の舞台だった。

今回かぎりで旗揚げからのオリジナル主力メンバー4人(篠田千明、中林舞、天野史郎、大道寺梨乃)が抜けるーそれぞれに海外を活動の拠点に移したり、活動路線の変更をしたりと次の段階へ進むらしいーということで第一期(と言えるかどうかは今後の活動次第だが)オリジナルメンバーでの快快活動の集大成でありながら、そこは快快、彼らの考える「今」をヴィヴィッドに表現し、今後の方向性まで暗示した舞台となっていた。

震災後のわれわれ日本人が選ぶ道を提案した本作は、リーダー北川陽子の母の死(10年間ぐらいに亡くなった)に関するわだかまりを思いの発端に、それぞれの死生観から日常の中の「死」ーそこには当然のことながら去年の大震災でわれわれが目の当たりにした多くの日常に起きた「死」も含まれるー、さらにはこの国の行く末、人類規模での存続の危惧と大小さまざまなスケールでの「終わり方」が語られている。


快快らしく元気に劇場全てを使い、時にはライブパフォーマンスならではの笑いを交え、いくつかのスケッチを展開していく舞台。

イベント色の濃いパフォーマンスを得意とする劇団だが、今回の舞台に関しては作の前述北川氏が事前のネットサイトインタビューで語っているように、骨太なストーリーが核として据えられている。

震災後、それぞれの生きる場所を探った、またはいまも探し続けているメンバーたちの「今」がおさまりよく隠されることなく、赤裸々に綴られた作品で、このような明確なメッセージを示した作品がヨーロッパ市場で高く評価されるのは至極当然の結果と思える。

前にも話したと思うが、ヨーロッパ、英国などでアートを発表する際に、クリエーターがまずはその作品について言葉で説明出来るというのが大前提であり、そのロジックを説明しない、よく日本で目にする「まあ、実際の(舞台)作品から読み取って下さい。」といったような「読み取ってくれ」的な表現に関する沈黙は通用しない、もしくは過小評価されるということ。

その意味において、彼らのオープンな、そして積極的な自己表現、問いかけは大いに歓迎されるのだと思う。

***快快HPより 「りんご」へ向けての声明文(by 大道寺梨乃)からの抜粋***

「今までみんなを騙していたけど、結局東京でいちばんまじめに頭良くカルチャーぶってたのって私たちだったのかもしれなーい(泣)」

************

これ、なかなか的を得ているかも。

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エッグ(9/15)マチネ 再見

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エッグ レビュー

先日、2日目に観た際の劇作に関するレビューを載せたので、今回はちょっと視点を変えてのレビューを。

前回は1階席真ん中ぐらいで観たのだが、今回は2階席の最前列で観劇。ーこの2階席の最前列、とても見やすかった。
西欧の古い劇場だと、1階席が舞台よりも低い位置にあることも多く、その場合、いわゆる2階ードレスサークルー席が最良の席として値段も高く設定されていることが多い。
東京芸術劇場、改築前に2階席から観劇する機会はなかったと記憶しているのだが、。。なので以前がこのようであったかは分らないのだが、いやいや、この席おススメです!

中劇場(今はプレイハウスという名称)のように舞台幅もそれなりにあって、奥行きも活かしている舞台の場合、斜め上から障害物なしで舞台全体が観れるので、見えない箇所がなくて舞台に集中出来てグッド!—得に舞台奥に設置されているグラウンドへの通路入り口へと駈けていくそれぞれのプレイヤーの細かい演技なんかも楽しめてしまうのでお得。意気揚々とグラウンドへと駈けていく妻夫木=あべの高揚感なんかも味わえるぞ。


というわけで、今回も2時間10分、かなりの集中度で、さらには2回目ということで、話の流れは頭に入っているので観たいところを集中的に観ることができたのだが、見終わっての感想としては、大勢の役者が出ているのにも関わらず、その役者の演技の部分で弱い箇所が無い!

こんなにも贅沢で質の高いアンサンブルは他ではめったに観れないのではないか、、でもって、メインの役者陣もそれぞれに役割を完璧にこなしていて、これだけの完成度をさらりとやってのける選抜役者陣の力、おそるべしと言ったところだろうか(NODA MAPやっぱり贅沢です)。

一瞬にして場面転換を可能にする舞台装置の転換アイディアも面白く、その意味で、観どころが満載であるところは確か。

そんな高品質の舞台であることの証となるエピソードとして、、今回、普段はあまり演劇舞台を観ない(バレエやオペラのファンだという)という友人の友人が観劇に参加していたのだが、彼女が「お芝居ってこんなに面白いものだったのね〜〜〜。観て良かった。」と観劇後に語っていたという事実があり。

お誘いした側としても、それはそれはよかった!!と、思った次第。

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たけしの挑戦状(9/13)

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中目黒ウッディシアターで東京ミルクホールの「たけしの挑戦状」を観る。

あくまでも独自のコメディ路線を追求し続ける東京ミルクホール。一度はまったらなかなか離れられないその魅力と毎回全力投球の熱気に引きよせられるように、毎回劇場へと通ってしまう劇団。

今回はレギュラーメンバーの若干の入れ替わりがあった後の公演ということで、その毎回の邁進創痍の舞台に加えてさらなる負荷が加わった舞台であったようだ。ーなんと言っても、座長の佐野バビ市さんがいつもの3重つけまつげメイクでサラリーマン役までこなしていたので。お疲れさま。

個性的なニューフェイスたちではあるのだが、ハプニング続きの東京ミルクホールの現場(舞台)では、さらなる実経験がもう少し必要なようであるーなんでもありの戦場舞台での「決意」が肝にすわってないとなかなかこなせない舞台なので。

ま、これもあれも全ては時の流れ、発展途上中の一つの段階ということで、。。。また次も期待しています!

ー2時間弱の上演予定時間が大幅に伸びて(いろいろなサービス、アドリブがあるので)2時間半の大宴会ー


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ふたごの星(9/13)朝

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杉並区のパブリックシアター、座・高円寺が力を入れている事業の一つ児童向けの公演「あしたの劇場」のプログラム「ふたごの星」を杉並区の児童にまざって10時半から観劇。

学校のカリキュラムの一環として劇場に招待されていたのが杉並にある小学校(4年生)3校ぐらい(おそらく)。

劇場がほぼ満員となる生徒たちで埋め尽くされた客席はロンドンのマチネ上演でときどきみかけるその光景と同じ。生徒たちはとなりの仲良しさんとおしゃべりしたり、直前に席を他の子と変わってみたり、、それをつぶさにチェックしている先生がいたり、、とこれから始まる演劇上演にどれほどの関心があるのか、ないのか、、この時点では分りかねる。

「ふたごの星」は宮沢賢治の童話をベースに座・高円寺の芸術監督、佐藤信氏が脚本・演出した1時間ちょっとの作品で、お話の内容に関しては宮沢賢治の原作に絶対の信頼をおき。とにかく見せることー演劇的仕掛けを満載に、そして見た目にもカラフルに美しいと思えるようなヴィジュアルで演劇だけでなく見て楽しめるアート作品となっているーに重点をおいた作品。

舞台いっぱにし置かれている様々な形や色の空き瓶が宇宙の何に見えるか?また瓶から撒かれた青い砂って何の意味???とこどもたちがそれぞれに自由に想像できるように考えられている。


上演後、こどもたちへの質問タイムがあったのだが、ここで驚きの事態が。

最初の1〜2分ほどとまどいタイムがあったものの、、その後、ひとりの少年が質問すると、その後手が挙がる挙る。。。最後には会場にいる生徒たちのうち半分以上の子ども達が元気よく手を挙げているという光景が。

全員の意見、質問を受け入れられないのが残念だったが、これほどまでに「反応」するとは。

終演後、スタッフに聞いてみたら日によって多少の違いはあるが、だいたい最後にはこのような反応になるのだとか。
自分たちの街にある劇場、日々目にしている、もしくは訪れたことのある劇場での観劇だから、このような結果が出たということもあるのかもしれない。

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2012年9月12日 (水)

ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。(9/11)


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絶大的な支持を得ている、藤田貴大率いるマープとジプシー(2007年劇団始動)の「ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。」を三鷹市芸術文化センター 星のホールで観る。

床面に設置された簡略化された`ワタシんち’セットの回りを取り囲むように設置された客席は追加で座り席をつくるほどの入り。

**** 劇団HP より <あらすじ> ****

取り壊される家。そこに住んでいた人々。
或る家の始まりから終わりまでの時間を。
或る家の始まりから終わりまでの記憶を。
遡って。彩って。鮮やかに。思い出して。
ワタシたちの。過去と現在。そして未来。

**************

F/T公募参加作品「ハロースクール、バイバイ」(10年)と芸劇20年安泰プロジェクト「帰りの合図、」(11年)を以前、観たことがあったのだが、劇団公演は初見。

「かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。」で今年の岸田国士賞受賞者(3人同時受賞の一人)となった藤田氏。新作上演依頼、コラボレーションのオファーも多く入っているようで、今最も注目されている若手のひとり。


1時間50分の上演の中で、彼の実体験にもとづく心情ー祖母の家が道路拡張工事のため、取り壊される。小さい頃は敬遠していたその古びた家は形跡を失くす。ーが彼の劇作のもっとも特徴的な方法、モノローグ的な詩的台詞で語られ、リフレインで何度も、何度も。。。いえ〜〜〜いまた何度も繰り返される。

この繰り返しにそれほどまでに意味があるのだろうか?。。。そんなに言わなくても分るよ。それよりももっと掘り下げてくれ、、と。動きと言葉の繰り返しに時間とともに変化が表れれば、その繰り返しの意味もあろうというものだが、停滞している繰り返しは時間の浪費。。資源も時間も有効に使おう!!

演劇雑誌のインタビューで藤田氏が「身近な人の死とか、ものすごく記憶に引っ張られる人間なんです、僕。逆にこれから先のこと、確定していないことにはあまり興味がなくて。。。」と語っているが、過去や史実、記憶から考えたことを「これから」「確定していない未来」に活かしていくこと、どちらかと言うと過去におきたことそのものに関しては格別興味がないー未来への教訓としての過去は検証するし、それに関しては学ぶがーわたしとしては、おそらく興味のあるものの方向性がまったく違うのだと思う。

消失の記憶、また同じ事象に関して人それぞれが感じることは異なるという事実を確認することも大事だが、所詮「諸行無常」が世の中の常。津波で破壊された海岸線をいつまでも心に記憶することは重要だが、そこからまた100年後、10000年後を想像しなくては。。時はとどまらない、よ。

演技の面でも、人と人が関わって、そこに日々、変化があらわれるのが演劇の醍醐味。ひとりごとを発するだけではなくて、関わって戦って欲しい。

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2012年9月11日 (火)

そして母はキレイになった(9/10)

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赤坂Red Theater でONEOR8の「そして母はキレイになった」を観る。

昨年、同劇場で観た、同劇団による「ペノザネオッタ」ペノザネオッタ レビュー リンクがとても面白かったので、これはこの劇団と劇場の相性が良いのかも、、とまたもや足を運んでみたのだが、これがうれしい予感的中で、今回の舞台も笑えて、ホロッときて、楽しめる、赤坂の夜にふさわしい、人生ふりかえりの芝居だった。

*****あらすじ***ネタバレ注意****

父親から引き継いだとある喫茶店をきりもりする姉妹とその母親、隣接する会社の常連客、お向かいの酒屋さんがおりなす近しい間柄の人々の間で慕う心と、すれちがいの思い、ままならぬ恋心、、、が引き起こす悲喜こもごものうまくは収まらない恋愛感情のものがたり。

姉妹の父親は近年他界しているのだが、その父親がまだ生きていた時代、母親(高橋恵子)がことさらキレイになったその原因に関わる昔の話も現在の話のあいだに順繰りに挟み込まれ、コメディ人情喜劇に加えての謎解きの要素が劇の統一感をつくりだしている。

*************************


高橋恵子が演じているのが、美魔女ならぬ、いつまでもキレイなお母さん。

キレイな人にはキレイなだけに抱える別次元の悩みがあるのだな〜〜と信じさせる、高橋恵子のキレイさが今回はドンピシャにはまった芝居。

時代劇やシェイクスピア劇、絶世の美女役、、、などではなく、普通の女性を演じる際に女優としてプラスであるはずのその美貌がちょっとあだになってしまうーなんとも皮肉なもので、美女を美女と形容できないその矛盾がその小さなあだになってしまうーこともあったが、今回はまさにご本人の持つその容姿の特性そのままを地でいけばよいような役なので、自然体で演じていた。

また、その対比となる市井の人々たち(ONEOR8役者陣とゲスト俳優)も絶対的な`美女’という中心人物のまわりで絶妙なコントラストによりそれぞれに生き生きと輝いていたように思う。

劇団の作・演出、田村孝裕の上手さが光っていた。

嘘にならず、それでいてフィクションとしてのメッセージも盛り込んで、人類永遠のミステリー「なぜに人は恋をするのか、そしてなぜに時として心変わりをしてしまうのか」。。。を観客一人一人にあらためて問いかけ、そしてさらにこの謎を深めるように、さらなる人生哲学の問いとして残しているところが心憎い。

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2012年9月10日 (月)

ナイアガラ(9/10)マチネ

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劇団HOBOの「ナイアガラ」最終日公演を観る。


*****演劇西都より*****

新宿に”ナイアガラ”があるのをご存知ですか?
あるんですよ、”ナイアガラの滝”が。
ゆーても、あの凄まじい豪音と激しく舞い上がる水しぶきは期待できません。
つーか、かなり、かけ離れています。
上から水がジャーってなものんで下へ水がジャブジャブってな感じで・・・・。地味です。
これをナイアガラと名付ける勇気!
で、今回はここにまつわる物語。
脇役体質の役者達7人。
センター争いのジャンケンポンもなく、センター不在のまま全員脇役に徹します。
劇団HOBOの『ナイアガラ』。
ちょいとビターな『今』のおはなし。
乞うご期待。

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前回第3回目公演の「ハロルコ」ーハロルコ レビュー リンク ーも面白かったが、今回の男達だけの「ナイアガラ」(途中、劇団紅一点の高橋由美子も飛び入り参加)も十二分に楽しませてもらった。

すっからかんに軽くなったときに見えてくる「本当に人生に必要なもの」のお話。

ものすごく乱暴に言ってしまうと2012年9月、日本における「ゴドーを待ちながら」のような芝居。ー「ゴドー。。」でもこの「ナイアガラ」でも生涯のパートナー(友人でも恋人でも、家族でも)の存在は何事にもかえがたい財産である、と。

第三舞台がバブル期の高揚感にのって絶対的な支持を得た「朝日のような夕日をつれて」。受取手によってエールともまた警告ともとれるこの芝居は80年代日本、世紀末へ向かう人々への(どちらかと言えばまだ希望が語られた)予言の書であった。小劇場ブームを代表する`ゴドー待ち’芝居「朝日のような夕日をつれて」。。。。それから20〜25年、みんながおそれた世紀末の終末はすんなりのり越えてしまったものの、その後に起きた惨事がわれわれの視線をそんな絵空事の「予言」から現実の近い未来へと向けさせ、平和ボケで、楽観的なわれわれの目を覚ましてくれた。

この2012年のゴドー待ち芝居も、見つめるところ、描くところはいたって近距離の小さな世界。
小さな公演の片隅、明日の生活のあてもない男たちの日常に今後われわれが向うべき「前向き」な方向性へのヒントが隠れている。

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2012年9月 8日 (土)

人形の家(9/8)マチネ

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池袋シアターグリーンでイプセンの代表作「人形の家」のオーソドックスな演出の舞台を観る。

現代演劇協会が93年以来20年間イギリスのRADA(Royal Academy of Dramatic Art)王立演劇学校から講師を招聘して演技ワークショップを行ってきた成果の発表舞台として、過去にワークショップを受講した俳優の中からキャスティング、RADAの元校長ニコラス・バーター氏の演出による「人形の家」を上演している。

オーソドックスな演出で丁寧に翻を追っている。

演技の成果に関してはコメントは出来かねる(前と比べてどうとかそれぞれの俳優にどんな変化をおよぼしたのか、、とか分らないし、とりたててどうというものではなかったので)が、現代的解釈をプラスしたり、奇をてらった設定にしているわけでもない今舞台、、それだからなおさらなのかもしれないが、あらためて「人形の家」の普遍的価値、どの時代、どこの国でも通じる戯曲だということを再認識させられた。

一時期、「女性解放」「新しい女性像の提示」というレッテルを大きく貼られた戯曲であるのだが、21世紀の今、それだけに価値をおく人は当然のごとくいないだろう。もちろん女性の地位を明示した戯曲ではあるのだが、それよりもなによりも「人が人として生きていくことの権利」「自立した大人としての自覚に目覚めたある女性の話」として、いろいろな意味で何かにしばられ、精神的に依存した状態である人たちーーーほらほら、こんな状態にある人、悩みを抱え一歩を踏み出さずにいる人は今日の日本にもたくさんいるよねーーーへ向けて覚醒を促すエールをおくっている。

100年色あせない戯曲。あるところにはあるんだよね。

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A Half Century Boy (9/7)

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本多劇場で久ヶ沢牛乳の「A Half Century Boy」を観る。

久ヶ沢徹ーSETに所属する俳優、声優ーによるプロデュース公演。

ご縁がなかったのか、久ヶ沢氏のことを知らずにー翻の執筆陣の名前にひかれてチケットを購入、ケラ、岩井秀人小林賢太郎らの名前が並んでいたー観劇に出かけたのだが、どうもこの久ヶ沢さんという方が人気者のようで、劇場は彼の信奉者たちで埋め尽くされていた。

箸が転がってもいないのに。。。何がそんなに可笑しいのか??ーー隣の席の2人連れの女性は何度も大きく手をたたきながら大笑いしている。

う〜〜〜ん、よくわからん。。チャンネル変えちゃおっかな!。。。おっと、ここは劇場だった、チャンネルは変えられないのね。

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2012年9月 6日 (木)

エッグ(9/6)

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野田秀樹の新作「エッグ」2日目公演を観る。

まずはリニューアルした東京芸術劇場の中劇場(旧名)、プレイハウスというお名前がついた劇場はさすがに1年半工事していただけあって、ステキにお色直しして再開場。基本的な形状に変わりはないものの、細部がアップデート、ロンドンYoung Vic風デザインなのかな??ー見た目にもスマートに、友人を誘いたい劇場におしゃれに変身を遂げていた。

で、新作、「エッグ」。いつもにも増して内容に関しての箝口令が厳しく敷かれた今作。。おそらく、後半に明らかにされる劇の中心部分に関して「今回は○○○についての芝居。」とレッテルを貼られてしまうのをおそれてのことなのだろうーこれやられちゃうと、楽しみが半減どころか、大幅に減ってしまうので。

なので、そこには触れないでおくが(あと2ヶ月続くロングランなので)、どうもその核心部分へと辿り着くまでのくだりが長い、でもってそこまでひっぱておいての核心部分ー日本人が忘却の彼方へ意図的におきざりにしてきた過去ーだが、それに関しては隠しておきたいという史実・事実はあるものの周知の事実なのでは???あの数字が出てくれば一目瞭然なのでは????と思ったのだが、いかがなものか。
ーーーと思って、帰ってググったら、いまだにこの史実に関して、認めたくないという意見が幅を利かしていることに、その劇中で事件が明かされた時よりももっともっと驚いたーアップルコンピューターの前で。。
(まあ、同様の戦時中の汚点=隠したい事実に関しても、同じような希望的観測の目つぶりの空気であることからも、そうなのか。。。とは思うが)

野田秀樹は井上ひさし亡き後、この忘れ去られる日本近代史の事実を伝えることを自らの仕事の一つと課したのだろうか。
それぞれに表現の仕方、フィクションという特性の用い方、活かし方については違うところがあるのは当たりまえで、、、その意味からすると、野田秀樹の戯曲に、この(あまりにも)ストレートな問いかけ方法が適していたのかどうか、、ちょっと疑問。と言うのも、彼の持ち味である大風呂敷の嘘=imaginativeなフィクションが、このピンポイントの問いかけに適しているのかどうかという点。
(ただ単に史実をひっぱりだすだけだったら、演劇である必要があるのかどうか。。。まあ、前述の現状を顧みるに、この問いを大劇場で問うだけでも大きな意義があるのかもしれないが)

確かに、この「見たくないものを見ない、思い出さない」という性質が現在の状況にもあてはまるという現状から、今、問う意味のあるテーマであることは明らかで、その意味で今日池袋へ集まった観客へ向けた問いであるとは思う。

無自覚にトレンドにのっかってしまう音楽やスポーツのマスの民衆心理が意図的な過去の歴史認識の意識操作と繋がっているという危うさを感じる一方で、肝心要のポイントー今回問題提議されているポイントを再検証し、確認しないから戦後、国の方向性を前進させる事が出来ないんだという点ーを押さえるのにはちょっとフィクションの風呂敷を広げ過ぎたのではないかという気もしなくはない。

前にも言ったようにそのフィクションの壮大さが野田戯曲の魅力ではあり、国・時制・宇宙を越えた世界で人知のボーダーを探るような、強く訴えかける名作が数多くある中、。。。今回の問い=テーマに必要だったのはその方法論だったのか?ということ。
今回の問いに説得力、そして強度を与えるのは、もしかしたら逆方向、、もっと細かい部分で検証をし、リアルな証拠、説明を列挙し、ロジカルにこの問題を論じるというやり方ではなかっただろうか。
この歴史認識問題で重要なのは白か黒かを表明することではなく、なぜ白なのか、どうして黒だと結論づけるのかをディベートの場にのせることだから。


その広げ過ぎた分、細かいところでのリアリティー、例えば主人公の心理状態ーー女性が誰かを好きになる動機、また恋愛感情の移り変わりに関する説得力ーというところがあまくなったと言わざるを得ない。如何せん、メインの二人の心の通わせ方の部分が。。弱い。人あっての世の中だからこの部分、恋愛の部分、大事だと思うのだが。


と、ここまで読んでも、舞台をまだ見ていない人々には何が何やらで、さっぱり。。であろうことは予測できるので、申し訳ない。。。


舞台全体の出来としては、さすがに強力キャストを集めただけあって演技の面では弱いところはない。

特に、藤井隆、妻夫木聡、秋山菜津子、そして橋爪功。。そしてアンサンブルまで楽しめる。

深津絵里も演技者としては申し分ないのだが、、、シンガーソングライターのその歌の部分では、どこかの評でも指摘されていたが、あまりプラスの要素が感じられなかった。—売りである野田秀樹作の歌詞に関しても、販売されているパンフかCDで確認するしかないしー

妻夫木聡 ロングインタビュー


↑妻夫木聡が売れっ子である理由ー彼の役者という仕事に対する真摯な姿勢、そして何事にもオープンな心持ちがうかがい知れるインタビュー!

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2012年9月 5日 (水)

ショックヘッド・ピーター(9/5)

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連日のリニューアル東京芸術劇場通い。

今夜はハンガリーからの子ども向け音楽劇、ジョニー・デップの出世作「エドワード・シザーハンズ」のようないでたちの主人公ピーターが載ったインパクトのあるチラシが印象的な「ショックヘッド・ピーター」。

*****劇場HPより *******

泣く子もよろこぶ?!コワかわいさ!
シュールなブラック・ユーモア満載のミュージカルが、東欧ハンガリーから芸劇へ!
例年7月~8月にかけて、日本各地を巡回する形で実施してきたTACT/FESTIVAL。今年は芸劇リニューアル・オープンに合わせ、野田秀樹芸術監督が親子で楽しめる作品をセレクトしたスペシャル・バージョンとして開催します。
「ショックヘッド・ピーター~よいこのえほん~」は、イギリスで1998年にUKパンクバンド「タイガー・リリーズ」等が初演し世界ツアーで大ヒットしたミュージカル「Shockheaded Peter(ショックヘッド・ピーター)」を、2009年、劇団オルケーニが大胆にハンガリー語バージョンにアレンジした意欲作!
原作はドイツの精神分析医ハインリヒ・ホフマンが1845年に発表した世界的ベストセラー絵本「もじゃもじゃペーター」。主人公たちが悪い行いを改めないせいで、悲惨な目に遭うというブラックな寓話が満載のこの絵本は、"怖いけどやみつき"になってしまう強烈なインパクトで世界中のこどもを魅了(?!)し続けています。

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とにかく見て楽しめる、まさに絵本が動き出したかのような舞台。ゴスロリ風メイクの役者たち、その多くが男女の性を取り替えてー男性が女性を女性が男の子を演じているー演じられている。

配られたパンフレットによるとUKパンク版の方が毒々しさが強かったそうで、、ちょっと気になってYou Tubeでその舞台の一部を見てみたら、確かにそちらの方では悲惨な目にあう子ども達ーその多くがパペットで表現されていたーは容赦なく血みどろの目にあっていた。曲調も、、というかシンプルな上演形態のハンガリー版の方がかなりコミカルでキッチュな仕上がりとなっているように思った。
(それぞれのお国柄なのか、どうも英国版の方が社会批判性が強く出ているような。。。ハンガリー(ヨーロッパ)の方では古くから伝承される怖い民話劇のようで、このおどろおどろしさも一つの伝統的文化の一端のようである)

手作り感あふれるハンガリー版ー今回の舞台では、よい子たちにふりかかる悲劇、指がちょん切られたり、火だるまになったり、犬に喰われたり、手足をもぎ取られたり、人間串刺しになったり。。。なんて世界残酷物語のような事態も、そのみせ方で、内容はグロでありながら見た目にはそれほどグロくはない表現に和らげられている。

それらをどのように表現するのか、のそのアイディアもユニークなので舞台表現として一見の価値あり。

上演に適した小さな劇場で個性的な役者たちー特にMC役のドクターは流暢な日本語を交えて大活躍ー、そしてライブ演奏の音楽、とこれこそまさに子ども達に見せたい芝居の筆頭であると思うのだが、諸事情により(リニューアルオープンにあわせての上演ということで)、夏休みを逃してしまったのが残念。

あと、細かいことだが、字幕の見せ方(位置)、そして上演時間帯など、、、また来年、来てもらえるなら、こんどこそ、こどもたち優先のプログラミングをお願いしたいところだ。

ーこどもたちにアピールする部分がふんだんにあると思うのでー

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涙目コーデュロイ(9/5)マチネ

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横浜、関内駅から歩いて5分、古くからの老舗商店と新しいシャレた店ーカフェやギャラリーーが混在するエリアにその新しいことの一つとしてオープンした一間ほどの小アートスペース「十六夜吉田町スタジオ」のこけら落とし公演、振付家・ダンサーの井出茂太率いるダンスカンパニー、イデビアン・クルーの新作「涙目コーデュロイ」を観る。

今回は小空間にあわせてダンサー3人ー男二人(井出、中村達哉)、女一人(斉藤美音子)による身近な人間関係についての作品。


****この新劇場のコンセプトがなかなかユニークで活気的なので、劇場のHPから抜粋**

演劇、コンテンポラリーダンス、コンサート、美術展………
十六夜吉田町スタジオはさまざまな形のアートを発表していきます。

100%プロデュース

十六夜で発表される作品は全て十六夜がプロデュースします。
作品の芽がでたときから、それが育ち大きくなるまで、
アーティストの横を、一緒に走る。
時には先導し、時には背中を押して。
それを徹底的にやり抜くことは
いままでは簡単なことではありませんでした。
「十六夜がオススメするなら、間違いはない!」
お客さまにそう思ってもらえるような場所を目指します。

25ステージロングラン

本番を重ねるたびに、作品は進化します。
その変化はディテールの精細さだけに留まりません。
観る人の感想が変わってしまうくらい、大きな進化も起きえます。
なんど観ても、毎回新しい発見があることは
パフォーミングアーツのおもしろさの原点。
だから十六夜は、ロングランにこだわります。
「観たかったのに終わってた」
なんてこともなくなりますし。

次の満月へ

作品は月のようです。
ふと気になって見てみると、前とは違う表情になっている。
アーティストは月のようです。
ふと気になって見てみると、また輝いて辺りを照らしている。
場所も月のようでありたい。
場所だって、変化し光り輝くものであるべきだ。
そんな想いが、このアートスペースの名にこめられました。
"十六夜"
次の満月に向かう最初の日です。

*****************


目の前で繰り広げられる、熟練ダンサーたちのパフォーマンスに大満足。

コミカルな動きとシンプルながら眼から鱗のアイディアはイデビアン・クルーならでは。

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2012年9月 4日 (火)

東京福袋(9/3)

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東京芸術劇場リニューアルオープン特別企画、「東京福袋」2日目を観る。

4団体が正味20〜30分の持ち時間で、パフォーマンスを披露、日替わりで出演者が入れ替わり、毎日通ったら「今」の演劇マップを辿れるという特別企画ならではのお得な仕掛け。

私が観たのはこの4団体。(登場順)
劇団コープス(カナダ)、珍しいキノコ舞踊団、柿喰う客、東京デスロック

共通テーマというものはなく、それぞれが持ち時間をどのような目的で使っても良いらしく、ダンスカンパニーの珍しいキノコ舞踏団はショート作品を、また柿喰う客も既存のレパートリーでショートの作品である一人芝居を持ってきていた。

以前、TPAMで、また芸劇でも同じようにショーケース的な合同での形の公演を観たことがあったのだが、パフォーマーとしてはこのような機会をどう捉えるのかーーーバイヤーへ向けてのPR、お祭り事の一環、新しい表現方法を試す機会、普段贔屓にしてもらっているファンへのサービス  etc...ーーーーそのあたりにもそれぞれ違った思惑もあるようだ。

私が観たこの日にかぎって言えば、何かと「演劇で仕掛ける」東京デスロックのプログラムが斬新だった。

「カウンセリング」とタイトルがついた舞台で出演者は2人ーカンパニー主宰の多田淳之介とSPAC芸術監督宮城聰ー。え〜〜〜〜宮城さんパフォーマンスしてくれるんですか?などと思っていたところ、舞台上にはカウンセリングで使いそうな椅子が2つ。でもって、そのまま多田氏が宮城氏のカウンセリングを受けているところといった流れで二人がそれぞれに芸術監督を務める「地方劇場(リージョナルシアター)」の可能性、地方劇場の特性、演劇の東京一極集中について、などのトークを展開。
そのまま時間を使い切るといった内容だった。

この短い時間枠のあるパフォーマンスでも観客をまきこむのね〜〜〜、でもって格別、答えも出さないのね〜〜〜〜、と。ここらあたりに多田氏の考える演劇のかたちが見えてくるようで、いつもながらにヘラヘラと果敢な若き芸術監督にまたもや何だか問いをつきつけられた感あり。


で、観客をまきこむ、という点で言うと、最初に登場したカナダの劇団CORPUSの「飛行隊」。以前、芸劇の招聘で仮劇場ー水天宮ピットの体育館劇場で正バージョンを観たことがあったのだが、今回はこの福袋枠にあわせてアジャストしてきたものと思われる。

4人の国際色豊かな飛行隊員と隊長が号令にあわせておかしな動きと身体的ユーモアで笑わせる芝居で、いたってシンプル。だけどそのシンプルさがゆえに、どの国のどの年代の人でも楽しめるというボーダーレスな舞台に仕上がっている。

途中、観客の一人をまきこんで(舞台にあげて、メンバーの一人として動きをつける)という箇所があるのだが、まずシャイな日本人に臆させずに舞台上でパフォーミングに参加させるという技もすごいし、必ず笑いにかえるそのテクニックも素晴らしい。

どこでも、どんな条件でも自分たちのやり方できちんとエンターテイメントが出来る人たちがいる。。。プロというのはこういうものなんだな、と感心する。

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2012年9月 3日 (月)

背水の孤島(9/1)

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2011年の東日本大震災後間もなくして、直接的に震災、そしてこの震災後に見えてきたこの国のありかたに言及した芝居として大いに物議を醸し、多くの反響をよび、多くの演劇賞(読売演劇大賞、岸田国士戯曲賞ノミネート、毎日芸術賞 など)を受賞した作品の再演舞台。

1年後の再演というのも、なかなか珍しく、それだけ多くの人が観たいと望んでの結果だと思う。


*****2011年9月8日 朝日新聞 夕刊より抜粋 初演舞台時の新聞記事より******

近年注目されている劇作家・中津留章仁が主宰する演劇ユニット「トラッシュマスターズ」が、「背水の孤島」(中津留作・演出)を9日から東京・笹塚の笹塚ファクトリーで上演する。東日本大震災による被災とエネルギー問題に正面から向き合った新作だ。

 今夏の石巻市郊外。被災して納屋で暮らす貧しい一家にテレビの取材が入る。長男が来春、東大を受験するというので、テレビ局は美談に仕立てようとするが、ボランティアとのトラブルや食物の略奪、不倫など、予定調和を裏切る出来事が次々と起こる。

 中津留は5月、被災地でボランティアをして、仮借ない現実を目にした。「生き残った人の中には、自分たちが何もできなかったのに、よそから来た人に何ができるか、といった思いを抱えている人もいる。缶詰を略奪して配った人がヒーローになるなど、美談の裏には違法行為もある。どうしようもない現実の中での矛盾をどうとらえてゆくか、問いかけたかった」

 後半は近未来の東京・永田町。原発を推進する大臣と反原発派との交渉が決裂した場で事件が起きる。

「あくまで虚構の世界なのでリアルな情報を盛り込んだ。エネルギー政策に答えを出すつもりはないが、利権にしがらみのない劇作家としてポジティブなイメージを提示した。シリアスな問題を扱いながらエンターテインメントにするのは、そういう作風の人が他にあまりいないからです」

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初演の笹塚ファクトリーの小空間から今回は本多劇場へと場所を移したということがあり、(初演を観ていないので推測になるが)、また当日配られた無料の冊子プログラム(!!サンキュ)の談話からすると、舞台セットはかなりスケールアップした模様。

また、同じくその冊子の中で作家(中津留章仁)が語っているように、最後の近未来永田町の箇所は大幅に変えているらしい。

3時間越えの上演時間にもかかわらず(途中休憩無し)、一気にみせるだけの「力」は感じるが、どうもその力が過剰な「りきみ」になってしまって、驚き(ショッキング)な体験だけでなく、観劇後ずっと続くような恒久的な問いかけにまで昇華していたかどうかに関してはちょっと疑問。
今の時代、UStreamでもメディアのネット配信でも、個人のブログ・ツイッターでも、その事件の裏側みたいなものに関してはかなりの部分が見れたり、関われたりするわけで、そんな中、虚構のドラマ(演劇)で何が出来るのだろう、と問うたところ。。。人に内在する想像力を喚起させて、未来を考える力、想像力を与えるというところにあるのだろうと思うので。


また、おそらく、この1年間の時間が引き起こした作用ではあると思うのだが、リライトしたという近未来永田町での部分が、既に日常のニュースが追いつき追い越している、、いくつかの劇中の未来予想&苦言に関してはすでに現実世界で答えがでてしまっている、もしくはその根本原因がもっとリアルに見えていることにより、(おそらく)初演時よりもつくられた「嘘」がなす希望的観測のドラマ、それもヒーロードラマのようなこじつけがみえてきてしまったところが惜しい。ーおいおい、それでは安手の「テレビドラマ」だろう、とつっこみたくなる箇所もあったので。


今回の上演でも多くの支持を得ていたようで、それはこのような現実の社会問題・政治問題に真正面から取り組んだ芝居が演劇上演全体の中でとても少ないということの結果であるようにも思える。

その意味で、十分に上演、再演の価値はあると思っている。

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ふくすけ(再見8/30)

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シアターコクーンで「ふくすけ」の再演をまたもや観る。


これぞ芝居で観るべきものだと再度確信し、大いに堪能する。

それでも、今回の大劇場シアターコクーンでの上演では初演時(91年 悪人会議のプロデュ—ス公演としてスズナリで上演 主演、ふくすけは温水洋一が演じた)で爆発させたようなある意味、強烈にドロドロした人の生理的な内面のようなものはこの劇場の大きさとTPOで薄らいでしまっているかもしれない。
ーちなみにYou Tube で検索するとなぜか差別用語のピー音とともにその姿がピーピーされてしまっているふくすけのボカシがかかった映像とともに91年のスズナリ舞台を垣間みることが出来る。それにしてもなぜ衣装とメイクをちゃんとつけた役者がボカされているのだろうか???これぞ夏の怪談?!ー

が、その反面、大きくなって予算がついて、、多くの役者も集めることが出来て、、良い面ももちろんあるわけで、、その意味で言うと大人計画の看板女優 平岩紙、でもって演劇界の至宝 阿部サダヲ、ちらっとながら存在感たっぷりの作・演出兼 出演の松尾スズキ、、、そして芸達者な客演陣ー小松和重、江本純子、多部未華子(先日の「サロメ」よりも格段に良かった)、オクイシュージーとなかなかに見応えのあるキャストで楽しめた。

残念なことに、もう一人の演劇界の至宝ー古田新太に関しては「ミスキャスト」の感が否めない。

この世の現実ー絶対的に不平等な世の中ーをしたたかに描き出す、その筆に脱帽。

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オリビアを聴きながら(8/30)マチネ

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