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2012年9月23日 (日)

9/21 -鉄の纏足〜アングラ戯曲を読む(海賊)〜浮標

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午前中: 「鉄の纏足」@アゴラシアター by 東京タンバリン

高井浩子率いる東京タンバリンの07年初演作品の再演舞台を観る。

*****演劇サイトより *****
あらすじ:
安定した職につかず、ビデオ屋でバイトをする男は30 歳を過ぎ、夢を追うには微妙な年齢になってきている。日常の人間関係の煩わしさが彼の精神を徐々に蝕み、妄想がやがて行動にも現われてくる。
現実と虚構の世界が複雑に絡み合う中に、「人間の意識下に潜む暗闇」が浮かび上がり、そして・・・

**************

上記サイトの演出に関する情報欄にも記載されているが、舞台はフェンスで囲まれたバスケットコートという設定。冒頭、出演者たちが激しく走り回りながらボールをパスして、頭上に取り付けられたゴールめがけてシュート練習を繰り返す。ボールを投げたり受け取ったり、パス回しにより、身体的な人と人とのコミュニケーションの形が提示される。ー相手がパスを受け取り易いように気遣って投げたり、挑発的に早いパスを放ってみたり。。。分り易いコミュニケーションのひとつー

その後、本編に入るとマニュアルどおりの言葉づかいが飛び交うチェーン店のレンタルビデオ屋のシーンへ。社員(店長)ひとりの他はアルバイトばかりという職場環境の中、当初は「いい人」っぽく無害に見えたバイト仲間の中で波風立てずに無難に人間関係をこなしていた主人公時田(森啓一郎)だが、深くつきあうつもりはなかったその狭い社会の中で、次第に実はドロドロした、それもとても些細なことからもつれあっていく職場の人間関係に引きづりこまれていく。そのほとんどの否コミュニケーションはパスを投げあうことなく、一方的な攻撃、打診なしの一方的な発信から始まっている。

そんなとても現実的な日常の世界ともう一つ、「もしも。。」の世界が時々展開する。そこは架空の仕事場。人間関係を全て排除した職場=図書館で働く職員たちは意識的にひとりだけの世界で読書をすることを生業として黙々とひとりの殻に閉じこもり職務をこなしている。

ーー人と関わらないという職場は理想の仕事場なのか?ーーー

その一方、現実の世界では主人公の心の奥で溜まりたまったものが爆発へのカウントダウンを刻んでいる。。そして思いがけない形でその鬱積したものが表れる。

「太陽が眩しかったから」という理由で殺人が行われたカミュの異邦人のごとく、他人が気づかない動機のもと惨劇が起こるのはいつの時代にも共通の人間の感情の複雑さの仕業らしい。


多少強引な展開ではあるものの、不条理を現代のコンテクストで見せてくれた。

午後:アングラ戯曲を読むー「海賊」by 山元清多 performed by 東京ミルクホール

Space早稲田演劇祭の演目のひとつ、「アングラ戯曲を読む」のリーディング作品「海賊」を観る。

日本演劇史上アングラと呼ばれる時代に書かれた、時代に飲み込まれていく若者達の心のジレンマを描いた作品で、その意味では朝に観た「鉄の纏足」と通じるところのある作品。

同じように社会におさまらぬことに対する閉塞感を描いているのだが、2つの作品が書かれた時代の違いによる結末の差異を見るとすると、アングラ時代(60-70年代)にはまだ希望が語れたという点であろう。社会全体が新しい何かに期待を持っていた、若い世代がその変化を実現出来るとどこかで信じていたあの頃に比べると、今の若者達の将来に関する達観は残念なことながら仕方がことなのか。

本公演の最中の東京ミルクホールの面々、いつもとは違った役者の顔を見せてくれていた。

これを機会にアングラ戯曲の翻案コメディー。。以前岩渕達治氏原作の「水晶の夜、タカラヅカ」を翻案したように。。なんかやってみても面白いかも。

夜:「浮標」@ 世田谷パブリックシアター

******演劇サイトHP より 演出家ノート*****

葛河思潮社の第二回公演に何を上演すべきか。私は迷う事無く『浮標』再演を葛河氏に打診した。葛河氏は静かに私に問いかけた。「それはあの震災があったからですか」。私は返答に窮した。『浮標』再演は震災前、既に私の頭の中にハッキリとあった。しかし震災が私の決断を紛う事なくしたこともまた事実である。三好十郎のこの4時間に及ぶ『浮標』という劇は、妻・美緒の「死」を目前に、久我五郎が文字通り命懸けで「生」を問うような作品である。そして久我五郎の「生」はこの国土の上に立っているのだ。私はそもそもこの1930年代を舞台にした作品を古き名作としてではなく、現代劇として表出させようと試みた。万葉の時代から繋がる日本人、その中で、たった一人の妻を失いかけた或る時代の或る男が「生」と徹底的にやり合う姿は、圧倒的な「死」を前に「生」を問われた我々に、何か大きく響いて来るのではないか。私はこのことを正直に葛河氏に伝えた。葛河氏は「ありきたりだけれど」と前置きしつつも、「いや、きっとそれが普遍ということなのだよ。いつもそこにあるはずのものがなくなってしまう、あるいはその姿を変えてしまうとき、やっぱりそのたびに慌てて、ひっくり返ってぜえぜえしながら対峙し、考えてきたことなんじゃないかね」というようなことを小さな声で言った。あまりに小さな声で、私に彼の言いたい事がハッキリ伝わったのかどうかは別にしても、生命の力が漲るこの劇を、今年もやると思い込んでしまった以上、やはり実現する他に道はないのである。
長塚圭史
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初演時 レビュー

前回の初演舞台が長塚圭史の演出作品なのにそれを前面には出さず、比較的ひっそりと吉祥寺シアターで上演されたにも関わらず大きな反響があったこともあり、前述コメントで演出家の再演要望があったことが明かされているが、それとは別のところでこの早い段階での再演が実現したものと思われる。

主役の天才画家久我五郎役ー田中哲司の他はほとんどが新たにキャスティングされての再演舞台となったわけだが、演出・舞台美術ともども基本的には前回から変わっていないにもかかわらず、何点かの変わった点によって同じ舞台でも違うものに仕上がることに驚くと同時に芝居の一回性というものをあらためて認識させられた。

その数点の違った点というのが、

*劇場ー吉祥寺シアターから世田谷パブリックシアターへ
それに伴い、基本的には同じセットながら若干のそれぞれの舞台での調整があり
*キャスト
*そして1回目と2回目という時間の流れ

と、このあたり。


どっしりと力強い戯曲が中心に存在するので、全体の出来がそれほどまでに大きく違うといくことはないー観劇側としても2度目ということもあり、前回とはまた違った角度からの戯曲に関する発見、時代背景であったり、作家の思想傾向の変化であったり(プロレタリアリズムの望むところとそのなかにある矛盾するところの葛藤)、があり十分に楽しめたことは確かーのだが、これらのちょっとした変化が。。。例えば、劇場構造、吉祥寺シアターの方がこじんまりとした空間であるという大きさの違いに加え、砂の箱庭セットを客席から俯瞰する位置関係に舞台があり、戯曲の設定にある千葉の海岸近くにある家という状況説明とあわせて暗い照明の中に浮かぶ抽象的な空間として夫婦の緊密な距離、また疎遠になっている家族との距離感を簡素なセットながらあわせて表現していた。今回、上演直前の挨拶で演出家ももらしていたが、舞台が前方の客席からだとかない上方につくられていて、おそらく前方の観客にはまた別の世界が見えていたであろう、ということ、それと高い天井と広々とした舞台空間が箱庭のフリーな抽象性を薄め海岸という状況のみをさらに具体化していた。

キャストに関しても、個人的には前回の押さえたトーンの方が適したように思う。
とても些細なことなのだが、例えば病身の妻の麦わら帽。。。前回の藤谷美紀にはしっくりしていたが、今回の松雪泰子には別のデザインの帽子の方がよかったかも。。。とても小さなことなのだが、それだけでもちょっと印象が変わるので。。(松雪泰子の演技それ自体にはまったく文句はないのだが)

演劇上演って繊細なものだな〜〜、と。

世の中つくづく不平等で、そんな中でどこに自分の足を構えるのか。。。そこからどこまで、どうやって回りを眺めるのか。。そんなことを考えさせられたこの日の観劇3本でした。

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