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2012年6月

2012年6月29日 (金)

12人のそりゃ恐ろしい日本人(6/28)

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楢原拓率いるチャリT企画の「そりゃ恐ろしい日本人」を座・高円寺で観る。

昨年の「死の町」「原発とスーちゃんとビンラディンと私」と2本ともが大変よく出来た作品だったので観劇日を心待ちにして劇場へと駆けつけた。

今回は09年初演の舞台を若干の改訂を加えての再演ということだったのだが和歌山毒物混入カレー事件を題材に、きっちりとこの国の現状を冷静に描いている。(国の根幹である`デモクラシー’がこれほどまでにブレていて、一体この先建て直していけるのでしょうか?ね 経済回復よりも絆よりも、まずはココ、この大前提をきちんと再確認しなければ、ね。)

********演劇サイト より*********

「♪死刑♪死刑♪死刑♪って、歌って踊って何やってんですかっ!!」
 和歌山毒物カレー事件の冤罪説に材を得て、死刑か?無罪か?で右往左往する裁判員や市民たちの姿を奔放なイメージと破天荒な展開で描いた2009年初演作を、内容も演出も一新してリニューアル再演!
 裁判員制度、格差・貧困・経済破綻、果てはテロ戦争まで世界中の大問題を四畳半にブチ込んだチャリT流・茶番喜劇の決定版!
「銭湯ではなく、戦闘に行って来ます。」

*****************************


♪マークがついているように、また、開演前に作・演出の楢原氏が「コメディーなので肩の力を抜いて〜」とあいさつしていたように、脱力系の笑いが随所にちりばめられた社会派劇。彼らは自らの芝居を「ふざけた社会派」と称しているようだ。

とは言いながら、その軟らかい表向きに反して、その実、中味はかなりストレートなSarcasm(皮肉)がてんこ盛りに盛り込まれている。ー司法制度、とくに今回のタイトルにもあるように(有名な裁判もののハリウッド映画「12人の怒れる男」から)09年から施行され始めた日本の陪審員制度についての疑問、実のところ実態は知られていないタブーでありながら密かに実行されている死刑制度の是非、格差問題、国際テロ、世界的な陰謀と刷込み、差別、資本経済依存社会、そしてDVに孤独死、未成年淫行、さらには地域コミュニティーのゴミ問題までーありとあらゆる?ハテナがそこここにつまっている。

座・高円寺初登場ということで、中劇場での上演に若干のとまどい、勝手の違いを感じているようなところも見受けられたし、その面での改善の余地もあるとは思うー例えばオバマ大統領の件や前半のパラノイヤジョークのあたりはすっきりとさせて、劇全体の流れをさらに勢いづけることも出来るかもーが、何と言っても、その若さゆえのマイナス面を若いからこそのシャープさと怖れ知らずのストレートさで補って余りあるところが大いに期待できるところ。劇作が良ければ、これからどんどん進化していけるはずなので。

このような社会問題とストレートにリンクされた芝居が現状の日本ではほとんどない、というその存在のユニークさも、この劇団の価値を大いに上げている。
(イリギスなんかでは政治家を名指しで登場させて茶化した芝居なんかはとても人気があり、頻繁に上演され、いい年をした大人達がこぞって小劇場へ通っていたりするのだが)

もちろん、違ったアプローチの仕方で、一見まったく社会問題からは離れた題材から人間の根本の性質を暴き、そこから今起きている事象を検証するといった芝居もあってしかるべきだし、その方法で良い作品もたくさん生まれているのだが、どうもそちらのオブラートに包んだものの中味を推測しながらジワジワと中味を暴くといったものが大半を占め、今回のチャリTのような愚鈍なほどにストレートなものが少ないように思えるのだが。。。。もっとこのようなジャンルのものが作られても、バランス的には良いのかも。

そのストレートな社会派劇を上演する際、今回、チャリTがとっているような茶化しながら、笑いを大いに盛り込みながら、というのがとても重要なキーになるのだと思う。
その異化効果をどれだけ有効に活かせるか、それによって結果はだいぶ違ったものになるだろう。

近年ではこの方法で大成功した例としては燐光群の「だるまさんがころんだ」がある。


後半、つくられた社会機構に翻弄されている主人公がパラノイヤに陥りどんどんと幻想的な悪夢の世界が展開されていき、最後にはアフガンのテロ戦争にまで発展するのだが、これとて悪夢のものがたり、対岸の火事で見過ごされるエピソードでもなく、、至極まっとうな理論の末のこの国が対面するかもしれない未来想像図の一つとして受け止めるべきであろう。

*******おまけ****

今回の毒物カレー事件の裁判に関するエピソード、作者曰くリサーチを経て今わかっている事柄を忠実に反映させた、ということだったのだが、そうなると、今更ながらにその内容で「一人の人間を絞首刑台」へ送る判決が出ていることに対する驚きとそのような世の中に属している恐怖を感じずにはいられない。(ましてや法務関係者でもない一般人のリサーチでこれだけの裁判制度のトリック、矛盾が探せるのだから、なおさら怖い)
実際のところ、彼女が毒を入れたのか、入れていないのか、、決定づけることは出来ないとしても、この協議内容と証拠では「あくまでも彼女はグレーで、でも黒とは言いかねる」のは明らか。

先日のネパール人ゴビンダさんのえん罪確定と言い、いまも続いている東電の釈明問題、小沢議員の裁判問題、、、、と、一体何処に、そもそも正義は存在するのだろうか?

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2012年6月27日 (水)

温室(6/26)

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新国立劇場で英国を代表するノーベル賞受賞劇作家(もともとは俳優としてキャリアをスタートさせ、演出家の顔も持つー実際に95年には今作「温室」で主役のRooteを自らが演じている)ハロルド・ピンターの「温室(The Hothouse)」を観る。 演出は劇団桃園会主宰で新国立劇場での仕事も多いの深津篤史。

*****あらすじ 演劇サイトより******

病院とおもわれる国営収容施設。クリスマス。
患者6457号が死に6459号が出産したという、部下ギブスからの報告に、驚き怒る施設の最高責任者のルートは、秩序が何よりも重要だと主張し、妊娠させた犯人を探し出せと命令する。
そして、ギブスは犯人が見つかったと報告するが、事態は奇妙な方向へと動き出していく……。

***************************引き続き ネタバレ注意

対面式の劇場の中央には不自然に赤い家具で統一された基調黒色の収容施設の責任者ルート(段田安則)の事務室が。その小部屋の中での一部上層部(エリート)たちのかけひきの様子が劇の進行の大半を占め、そして、その部屋を一歩出た時のポジションを狙う部下ギブス(高橋一生)の暗躍によるトップの首のすげ替えで幕を閉じる。。。360度回転を繰り返す舞台セットが示すように、この権力抗争の反復は現代では世界のどこでも、そして日常的に繰り返されているということだろう。


「ピンタレスクーピンター的言い回し」という言葉どおりの、いかにもピンターらしい暗喩を含ませ、におわせた、意味ありげでありながらその実をなかなか表には表さない、「謎」の迷路に誘い込むような会話が終始展開される。(余談:先日の「水無月の云々」の項で指摘したのがまさにこの「匂わせる」程度の会話手法。どこまで伝わるかは受けて次第なのだが、所詮、そのメッセージそのものが受けて次第という前提ありきのものということ)
今回の収容施設という設定に関しても、その役割に関しては特定されず、それゆえにどの時代のどこの場所でも存在するトップダウンの集団につきものの独裁体制、そのトップに媚びる取り巻き連中、権力に弱い人間心理の話としての普遍性を持つー実際のところ、ちょっと見渡しただけでも、今日この構造を持つ国、国家組織、会社、組織、小グループなどなどはそこらじゅうに存在している。

新国立劇場の常連でもあり、また芸達者な役者を揃えており、段田、高橋、さらにルートとギブスの愛人である出世欲のある女性カッツ演じる小島聖。。。とさすがの演技を披露している。

段田の狡猾でありながらカリスマ性があり、また一種権力者の狂気を感じさせるルート、そして従順な部下を装う策略者で多くの笑いの部分も受け持つ高橋のギブス、と二人のやりとりは一興の価値あり。
最後にちょっと出演する半海一晃もなかなかに味がある。

カタルシスを感じたり、一大イベントのような華やかさはないものの、ちょっと「?」マークを頭に残しながらの観劇体験もたまには良いものだと思う。

国立劇場ならではの割安な値段だからこそ試せる、ピンターナイト。
これも一つの国立劇場の役目だろう。

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2012年6月26日 (火)

水無月の云々(6/25)

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トラッシュマスターズの中津留章仁主導の若手中心演劇ユニット中津留章仁Loversの「水無月の云々」を新宿三丁目、地下小劇場、タイニィアリスで観る。

2010年から始動したプロジェクトで今回が5回目の公演となる。4月に行われたオーディションで140名の応募者の中から選ばれた14名の役者が中津留氏の新作を熱演(ちょっとヒートアップしすぎの感もあり)。

********あらすじ ネタバレ注意********

昔ながらの商店街で酒屋を営む一家の人間関係の紹介で幕を開けー一家の弟がガールフレンドを疎ましく思い始めたところに長らく彼への思いをひた隠しにしていた従兄弟の存在が介入してくる。姉は新しい彼氏との結婚を目前に控え、元カレのストーカー行為に悩まされている。その日、長男不在のこの家に美しく貞淑な(!?)兄嫁が引っ越してくることになっていたー、その後それぞれの恋愛事情は激変する。
お互いへの不信感がうずまき、思い通りにならない不満が充満する家。
一触即発状態の家族、その苛立ちの大きな原因となっていた長男の事情ー服役中ーに関する謎が弟によって明らかにされる中、さらなる悲劇の連鎖が一家の崩壊に拍車をかける。

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良く言うとドラマチックーあまりにも次々にショッキングな事件が起こるので、その意味では舞台から目は離せないー、しかしながら、ドラマ仕立て過ぎ(冒頭に登場する二男の彼女の言動は信じがたい。女性週刊誌のツクリ話投稿並みにあまりにも観客の刺激を求める欲求に応えすぎている。また家族間で「人間って。。。」って日常で説教しないし、哲学語るなんて恥ずかしすぎる。)詰め込み過ぎ(恋愛・人情語りかと思いきや、サスペンスものとなり、、、最後にはカミュの「異邦人」で不条理劇へと着地。。。ちょっと欲張りすぎて、それぞれの繋がりに力技的な無理やり感が。。)、といった独り相撲の傾向が。

まずは、一人一人のキャラクターに劇の流れにこじつけた無理やりさがあるので、各々の役に説得力がない(もしも、こんな人たちが存在したら、それこそ希代の頭がオカシイ一家ということになるのでしょう。劇中で何度も繰り返されていたように、もちろん「人は想像範囲外の行動をとってしまうことがある」し、そもそも分らないのが人の存在であるのだとは思うが、そこには何らかの説得力/リアルがないと。。。でないとわたしたちと同じ生き物の話として受け取れない。。。どんなに陳腐な奇想天外な人物描写でもよいのだがー例えば、東京乾電池の「恐怖、ハト男」のようにハトでも、またはシェイクスピアの「冬物語」のハーマイオニのように唐突に生き返ってもよいー彼らの言葉、存在にそれを信じさせる必然性がないと。)。
また、台詞についてなのだが、観客へ与える印象、衝撃度は高くそれなりのインパクトがあり劇を運ぶ効果を生んでいるのだと思うが、いかんせんそれぞれが断片的で、劇作全体としての説得力に欠ける。
たとえば、一見普通に聞こえる会話の一つ一つに人間の不可思議さを織り込むような繊細さが欲しい。思い切って、言い切ってしまえば確かにその意図は誤解無く伝わるだろうが、反面それに付加の要素が載るノリ白が少なくなってしまうので。

その他、ところどころに不快な表現もありー恋愛を`変態’の一言で枠付てしまったり、頭脳に欠陥のある、もしくは不具合のある人たちも存在する(どっちが正常?!)とか、、、資本主義の矛盾に関しても、もう少し掘り下げて一元論ではないところで論じて欲しかった。

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2012年6月24日 (日)

みんなしってる(6/23)

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静岡から東京に戻り、青山のスパイラルホールでプロジェクト大山のダンス「みんなしってる」を観る。(初見)

********アート関連 サイトより********

プロジェクト大山とは、古家優里を中心とした護国寺系ダンスカンパニー。全メンバー女性。全メンバーお茶の水女子大学卒の経歴を持つ。2009年横浜ダンスコレクションRにて「審査員賞」受賞。2010年トヨタコレオグラフィアワードにて「次代を担う振付家賞」を受賞。カンパニー公演活動の他、中田ヤスタカプロデュースMEG『SKIN』PV、NHK Eテレ『真夏の夜の経済学』、シス・カンパニー公演 長塚圭史演出『ガラスの動物園』に振付出演している。

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男性ダンス集団`コンドルズ’の制作カンパニーがプロジェクト大山ーコンドルズが男子ユニット、でプロジェクト大山は同じぐらいの人数による女子ユニット、という色分けありーの制作も兼ねているということで、受付にはコンドルズのメンバーたちがお出迎え(豪華!)。客席でも金髪をなびかせながら観賞するメンバーの姿が。

「プロジェクト大山」の印象としては、さすがにダンスコンペの賞を受賞しているユニットだけあって、正統的なダンス表現ーープラス、女の子らしくキッチュなヴィジュアル&テイストーでみせるダンスカンパニー。

チラシにある全身ブルーに赤い靴下の衣装は彼女達のトレードマークらしい。。。この他に全身金ぴかのタイツ衣装—マロングラッセちゃんーもあり。

これからちょっと見続けてみようかと思う。


まったくもっての余談:
開演前、ちょっと時間があったので会場界隈をブラブラしていたのだが、青山族なる人々ーファッション雑誌から抜け出てきたような人々。渋谷にワラワラといるファストファッション好きな若者だけではなく彼らが存在するおかげでアパレル界も存続していけるのだなと痛感ーってやっぱりこのあたりに出没しているのだな、と再確認。

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キリング・フィールドを越えて(6/23)マチネ

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静岡SPACでシンガポールを代表する演出家オン・ケンセンの代表作、「キリング・フィールドを越えて」を観る。
カンボジア、ポル・ポト政権下、宮廷と関係していたアーティストということで弾圧され、死の恐怖と隣り合わせの状態で生き延びた宮廷舞踏家エン・ティアイの回顧をベースに、彼女が生涯を通して継承、伝え続けてきた伝統舞踏の実演をおりまぜながらセミ・ドキュメンタリーのスタイルで75〜79年の間のカンボジア恐怖の時代を語りきかせるパフォーマンス。

今週末はこの作品のみのため静岡行き、ということで少しでも経費節減ということで、高速バスを利用して静岡へ向う。

スケジュール通りに走れば、上演開始時間の1時間前には東静岡駅に着く予定だったのだが。。が。。。

高速で事故渋滞発生。。ノロノロすること数十分、どうもこのノロノロのおかげで予定の1時間遅れの走行だったらしく、、当然のことながら到着も1時間遅れ、ギリギリのところで開演に間に合わず。。。く〜〜〜〜。。今回はこのためだけに来たのにもかかわらず、遅れてしまうとは。。

とにかく、開演を過ぎてしまったということで、区切りのよいところまで入場を待たされてから途中で上演中の会場へ。

カンボジアの民族衣装に身を包んだパフォーマーたちがドキュメンタリー部分の映像を流す(作品の題材であるエン・ティアイが独裁政権終了後、強制労働を強いられていた地帯を再訪、またポルポト政権下の虐殺の実態を展示している博物館も訪れている。その様子を映像で流している)スクリーンの前で伝統舞踏をおりまぜ演じている。

ふむふむ、と頭を切り替えパフォーマンスに集中しようと心がけるのだが、、いかんせん、、何が起こっているのか、わからない。

と言うのも、カンボジア語で語りかけているパフォーマーたちのその内容の字幕表示がないのだ。

座席には彼らが語っている内容を訳したプリントが置かれ、どうもそれを読みながら観劇してほしいという演出意図によって、意図的に字幕なしの公演ということらしいのだが、、、


暗闇の中でその配布プリントを読む事は至難のわざで、まず無理。休憩時間を利用してまとめ読みをすることでなんとか筋はつかめたが、、、字幕を表示するとそちらに観客の注意がそれてしまう、ということを懸念しての配慮とのことだが、、それにしても、字幕を表示して彼らが語っていることを理解しながらパフォーマンスを観てもらった方が、どちらかの利点を採用するのだとしたら、効果的だったのではないか? 舞台自体それほど大きな空間でもなく、パフォーマンスもこじんまりとしたものだったので、字幕を読みながらの観劇もさほど難しいものではないと思われたのだが、どうだろう。

せっかく、パフォーマーが生の声で語ってくれていることを、やはりその場で出来うるかぎり共有したかった。

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いないかもしれない 動Ver.(6/22)

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2012年6月21日 (木)

つか版・忠臣蔵 スカイツリー篇(6/20)

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「スカイツリー篇」(ちなみに次の公演地、厚木公演でのサブタイトルは「厚木あゆコロ篇」らしいです)とくっついているだけあって、錦糸町から劇場への1本道の前方にはスカイツリーがくっきり。普段あまり馴染みのない下町エリアなのだが、あのどデカイ建物は確かにランドマークとしての役目をこれでもか!と思いっきり主張していることを確認。
それにしても超デカイ!ー恐ろしいくらい。。町に仁王立ちするウルトラマンぐらいの迫力ー

で、扉座ののぼり旗めく劇場へ。開演前、元気よく客入れに精を出す役者さんたちが開演前のスナックに、、と売っているのがご近所の和菓子屋さんのお菓子だったり、差し入れしてくれたこれまた近所のお店のおせんべいが配られたり。。。といかにも下町風情の気の配りよう。
そう言えば、劇場までの道すがら、通りでみかける人たちの様子には、夏になると店や家の前に将棋台が出て近所の人たちが夕涼みしていたりするのかな〜〜〜、なんて雰囲気も見てとれる。。(下町ではなかったけれど、私たちの幼少時代ーALWAYS三丁目時代ーにはなんだか夕方/夜のご近所づきあいとか、そんな時間帯が一日の中にちゃんとあったよね)

で、観劇したのは横内謙介率いる長命劇団、扉座の「つか版・忠臣蔵」。


********演劇サイトより********

現代演劇に大きな影響を与えた、故つかこうへいの小説・テレビドラマ作品『つか版 忠臣蔵』を、つか氏に最も影響を受けて誕生した劇作家のひとりである横内謙介が、その三回忌に、脚色して戯曲化、扉座公演として上演!
 舞台作品としての上演が長く望まれていながら、つか氏本人の手がける作品としてはついに実現しなかったこの作品を、氏亡き後、遺伝子を継ぐ弟子のひとりとも言うべき横内謙介が、亡き師に捧げるオマージュとして完成させ、上演します。


 私の演劇人生は15歳の春、部員不足で潰れかけた厚木高校演劇部に名前だけ貸したのを感謝され、そのお礼にと、つかこうへいの『熱海殺人事件』を先輩から奢って貰ったことから始まります。たちまち虜になり、初めてギターを持つ若者が、憧れのギタリストの演奏をコピーするように、私はつかこうへいの真似を始めました。やがて、何をやってもつかの世界になってしまうのが虚しくなり、必死でその大気圏から脱する努力を重ねて、ここまでやってきました。
  そんな私が30数年ぶりに、つかこうへいの真似に戻ります。あの頃夢中になった、つか文体で脚色し、当時食い入るように観た舞台の記憶に残る手法、音楽、照明で上演します。
  タイトルのスカイツリーに深い意味はありません。つかさんなら、こうするだろうと思って書き添えました。人生の恩人の名を汚さぬよう、しかとやります!

横内謙介
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原作を読んでいないので、どれほどまで脚色されているのかは定かではないがーYou Tubeのテレビドラマの映像を見ると(ちなみに風間杜夫と松坂慶子の蒲田行進曲ゴールデンコンビがこのドラマでも共演している)けっこう書き直されているようにも思える。

まあ、ご本人がオマージュとして捧げているだけあって、つか芝居にすっかり心奪われた人々(かく言う私もその一人、野田秀樹がずっぽりと演劇界へ引っ張り込んでくれたのだが、もともとのきっかけ、観劇初めは紀伊国屋ホールでのつか芝居だった)にはたまらない、目ん玉開きっぱなしの2時間15分のエンターテイメントだった。

選曲と言い、台詞回しと言い、口上と言い、こけおどしの派手なサウンドと言い、、、ま〜〜〜あ、すべてがつか芝居のすばらしいオマージュとなっていて、でもってその中心につか節が、つまりは「きちんと人間を描いている」ものだから観た人たちはどっぷりはまるでしょう、ずぶずぶに浸るでしょうつか芝居に。(あの当時、新宿紀伊国屋に集まっていた観客達のように)

客演の山本亨はいつもながらに危なげなく、また扉座の面々も味があってーあて書きなのでイキイキーでもって劇場もドンピシャで、、一言一言を噛みしめさせてもらいました。

あ〜〜〜〜、台本買ってくればよかった。。

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藪原検校(6/20)マチネ

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世田谷パブリックシアターでこまつ座の「藪原検校」を観る。

1973年、木村光一演出で五月舎公演として初演された舞台。その後、木村氏が立ち上げた地人会で上演され続け、90年のエジンバラ演劇祭では賞を受賞するほどの好評を博した作品。

実は、この好評を受けて93年ロンドンで上演された舞台を現地で観ているのだが、丁度、当時、「日本でウケている舞台はそのままロンドンへもってきても受け入れられないのだろうか??ー(大好きだった夢の遊眠社の芝居がエジンバラで上演された際にまったく理解されていなかったというトラウマがあり)」といったことを考えながら、やはり日本からきた芝居に関しては極力観るように心がけていたので、Lyric Hammersmith Theatreへ出かけていったのだが、それほど期待していなかっただけにー新劇でしょう??なんてちょっと高をくくっていたのだがーそのロンドン公演での観客のあまりの反応の良さに脳天をかち割られたような衝撃を受け、。。あらためて普遍的なテーマであれば、たとえ設定が江戸時代の日本でも世界的に通用するんだな〜〜〜と思い知らされたという記憶がある。

別段、最先端をいくような演出ではなく、(失礼ながら)莫大なお金を注ぎ込んでいるような舞台でもなかったのだが、井上ひさし戯曲はまったく問題なく、軽々とカルチャーの壁を飛び越え、さらにどちらかと言えばベタなーというか分り易い演出であったからこそーそう言われれば、イギリスの舞台は演出的にはオーソドックスな舞台が多いー、余計に観客の頭を悩ませることなく、、それこそ昔から上演されていた芝居のようにすんなりと現地の観客に受け入れられていたのだ。

その後、近年では97年にシアターコクーンで上演された蜷川幸雄演出、古田新太主演の舞台も観ているが、こちらはちょっと高尚に扱われすぎている感があって、井上芝居のよい意味で肩に力が入っていない身近な親しみやすさが薄れて、笑う顔もあまり口を大きくはあけれないような、、、そんなところがちょっと不満な舞台であった。


で、今回の本家、こまつ座での上演舞台。
演出を井上作品を多く手がけている栗山民也が請け負い、主役の藪原検校(杉の市)を世田谷パブリックシアター芸術監督、狂言界の大スター野村萬斎が熱演している。

松井るみのセットは階段状の装置にシンボリックな赤い太い紐(血の赤)が吊るされたスタイリッシュでシンプルなもの。

浅野和之が流暢な台詞回しでコミカルに語り手として話を進める。


*****劇団HPより**************

「東北の片田舎に生まれた盲の少年が、晴眼者に伍して生きて行こうとしたとき、彼の武器はなにか」という禅問答における問いかけのような、奇妙な声が響き渡った。わたしは思わず、「悪事以外にない」と、その声に答えていた。 ― 井上ひさし

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盲で生まれた杉の市が悪事の限りを尽くして、僧の最高位検校まで成り上がっていくストーリー。人生で勝つために視力にかわって悪知恵を使った杉の市、生きるということとは、人の真価とは何で決まるのか。。。彼はせちがらい世の中の不運なヒーローなのか、それとも世間の犠牲者なのか。。ちょっとした不注意から大きく人生を狂わせたピカレスクの末路とは。

上手い役者を集めたー秋山菜津子と小日向文世の好演が際立っていたーだけあって、立て板に水のごとくスムーズにそして絢爛豪華(大掛かりでシンボリックなセットによる)に舞台が展開していくのだが、、う〜〜〜〜む、どうもこれまた綺麗すぎて。。。やはり「ざらつき」がほしくなる。

ロンドンで観た舞台では、ラストは奇想天外なオチで(そば食いネタ)笑いが起きていたのだがーこの驚きのオチが神髄だと私はおもうのだが、まったく反対意見の人もいるようで、この笑いのシーンに対して異論を唱えているブログもあったー今回はそのシーンが大仰な残酷シーンとして描かれている。

このラストのなんとも情けない人間の卑小さを皮肉ったシーン=つまりは金ぴかの袈裟をかぶったおエラいお坊様でも人皮むけば、人なんてみな同じ、骨と肉と内臓から出来た生き物だということ、があるからこそ、杉の市が一生かけて成し得たように思えた哀しい、儚い過ちが人間味を帯びて訴えかけてくるのだと思うのだが。

萬斎氏の杉の市は(前回、「ベッジ・パードン」はKYな夏目漱石を好演していたが)、以前演じたハムレット同様、つくりすぎの感がぬぐえない。
スケベな小悪党を演じすぎていて、杉の市の出生のいわれからくる屈折した非情さ、そうならざるを得ない成り行きが感じ取れなかった。

ストーリーの補足説明として挿入歌は重要な役割を担っているのだが、、こちらもきれいにぼかされて、際立ってせまってはこなかった。


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2012年6月19日 (火)

GO HOME (6/19)

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天日坊(6/18)

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シアターコクーンでコクーン歌舞伎第十三弾「天日坊」を観る。(詳しくは下記のコクーン歌舞伎の説明をどうぞ。)

******演劇サイトより*******

1994年“シアターコクーンに江戸の歌舞伎小屋の熱を再現しよう!”と、中村勘三郎(当時:勘九郎)と演出家・串田和美(シアターコクーン初代芸術監督)が「東海道四谷怪談」でスタートさせた“渋谷・コクーン歌舞伎”。 第二弾の96年「夏祭浪花鑑」からは串田が演出を手掛けるようになり、古典歌舞伎の読み直し、新しい角度からの演出という色合いが一層顕著になりました。
747席の濃密な空間、客席を花道に見立てた臨場感のある演出、間近に味わう人気歌舞伎俳優の熱演、本火、本水、泥沼、椎名林檎の音楽、ラップなど枠にとらわれない演劇的興奮を高めるさまざまな要素が観客をひきつけ、次々と話題作を生み出してきました。
そして第十三弾の2012年、2月に六代目中村勘九郎を襲名した新・勘九郎がタイトルロールを務める「天日坊」の上演が決定いたしました。原作は嘉永七年(1854年)に河竹黙阿弥によって書かれた「五十三次天日坊」。なんと慶應三年(1867年)以来、実に145年ぶり!の上演となる本作を、もうひとりの“カンクロウ”、 人気脚本家・演出家・俳優である宮藤官九郎が新たに脚本化します。

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コンセプトー今の歌舞伎を(渋谷に集まる)今日の観客へー、そして内容、演出(得に現代音楽を起用、今回はジャズBGMに吹奏楽器ライブバンドが臨場感を出す)、全てにおいて大ファンであるコクーン歌舞伎なのだが、新時代を予感させる新しい息吹に満ちたまさに旬でCutting Edge(最先端)の渋谷歌舞伎でまたまた今回もフレッシュに大満足!!!good

カーテンコールでの熱気、退場する観客達の興奮の度合いがこの舞台の出来を物語っていたように思う。

昨今、ライブパフォーマンスを観て、これほどまでに興奮している観客達ってお目にかかっていなかったように思う(ライブコンサートにしても観劇にしても)。

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2012年6月17日 (日)

海賊(6/15)

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KBalletカンパニーの「海賊」を上野の東京文化会館で観る。


熊川哲也の舞台演出ーセット、衣装、透ける幕の使い方ーが冴えわたった作品。

まあ、通常の古典バレエの世界`王子とお姫様’もありえない設定なのだが、それにも増して`海賊’一味に奴隷で身売りされる少女たち、、ってそれこそ頭を切り替えてのぞまないと、うっかりその男尊女卑の表現に一言もの申したくなる内容なのだが、それこそ大スペクタクルの航海シーンから船の難破と、のっけからその`お伽噺’の世界を良い意味で大きな嘘としてみせてくれるので、その大嘘によろこんでのっかっていってしまうー非日常のスペクタクルーのだ。

観劇した日のキャストがベルリン国立バレエ団所属でヨーロッパ在住のSHOKOさんが主役のメドーラを務めていたのだが、なんとも華やか。
昨年初めに長男を出産して、KBalletでは産後初の舞台となったのだが、ブランクは全く感じさせず、さらに強く、凛としていて、もちろん美しくもあり、、、「女」が出産を経てもますます社会で活躍していけるような、そんな環境が普通であるようなヨーロッパのような仕事環境を早く実現させて欲しいとしみじみ思った。

女が表に出て、きれいで、強く、でもってステキなママであっても良いではないか。

昨今在位60年を迎えたエリザベス女王のように、ね。

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2012年6月15日 (金)

三谷版「桜の園」(6/14)

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パルコ劇場で初物づくしの三谷祭りの第一弾、初めての他の人の戯曲の演出舞台三谷版「桜の園」を観る。

三谷版とついているところからも分るように、自身初の翻訳戯曲演出とは言え、チェーホフ戯曲「桜の園」を忠実に演出しているというわけではなく。。。。とは言え、自身がインタビューで語っているように(↓JTでのロングインタビューをご参照)それほどまでに別モノとして翻案しているわけでもなく、基本的にはチェーホフの「桜の園」の戯曲に沿って、若干の省略、または演出による笑いへの導入、動きによる笑いのサービスなどが加わったものとなっている。

三谷幸喜 ロングインタビュー

****ネタばれ 注意 ***********

開演前に家庭教師シャルロッタ役の青木さやが前説で登場し、場を暖めーここでの時事アイドルネタが爆笑ものー、さらには三谷の声でのロシア語(デタラメ??)による場内放送が入り、ロシアの文豪「桜の園」を日本演劇界の星がついに演出!!!!!といった「!!!!」の雰囲気を一気に和ませる。笑いへ向けてのウォーミングアップの時間といったところ。映画宣伝でも公開前に番宣に出過ぎとの批判もうけている三谷氏だが、とにかく作品のために「最善を尽くす」ことをしないとと思うタイプなのだろう。やらないで悔やむよりもやってちょっとばかりうさん臭がられた方が全然マシ、とにかくその2時間の場を最大限に有効化するために、サービスしないわけにはいられないのかもしれない。
ーこれはインタビューをした際にも感じたこと。とにかく少しでも良い作品にするため、純粋にそれだけの思いなのだと思う。ー

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舞台全面に再現されたロシアのお屋敷の中の子供部屋のセット。庭に面して天井までの高さではめ込まれたガラス扉からは桜の園の広大な敷地がちらちらと見える仕掛けになっている。

休憩無しの2時間15分で、場面転換は無し。全てがこの子供部屋で起こる。人々は庭に面したガラス戸と(劇中、役者に「何でみんなこんなところから入ってくるのかしら?(玄関ではなくて)」と語らせて、この状況を自らつっこんでいる)、また反対側の屋敷の他の部屋へと続く扉から出入りを繰り返す。

2時間15分、ず〜〜〜〜っと流れるように、それこそ十二分に楽しませてもらったのだが、この舞台の勝因はドンピシャのキャスティングにあると思う。

様々な分野から、それこそ驚きのカップリングー朝丘ルリ子のラネーフスカヤ夫人と市川しんぺーのロパーヒンのやりとりーをも実現させているのだが、全ての役がそれぞれにハマり役なのだ。さらには彼らが一同に介した時の全体のバランスも絶妙。
藤木孝と市川しんぺー、さらには青木さやかに大和田美帆、、これほどバラバラな(ようにみえる)人々が介した時に、これほどまでにしっくりいく、というのが何とも神業的。

人がそれぞれ活き活きとしているので、ヴィヴィッドな舞台として、遠くロシアの森の奥ではなく、身近にいる変な人たちの集まりのコメディとして楽しめる。

(まったく、別の話だが帰宅してユーロ2012のサッカーの試合を見ていたら、開催地としてウクライナのハリコフが出ていて、、あれ、ここってロパーヒンが最後に商用のため旅立った場所だよな〜〜〜、なんて。。2012年と20世紀初頭の時間差がいっきに縮まったようで、、、そう考えたら、今の世に「桜の園」をヴィヴィッドに上演することも可能なことだ、と実感できたように思えた。)

まあ、とにかくそれぞれの役者が各々に魅力的だったのだが、得に藤井隆の上手さに脱帽。

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月の岬(6/14)マチネ

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座高円寺で青年団の「月の岬」を観る。

青年団で97年に初演、劇作家/演出家の平田オリザが他の作家ー松田正隆ーの戯曲を演出担当した初めての作品で、演劇賞を受賞するなど高評価を得て劇団の代表作の一つに挙げられる名作の再再演。

*******劇場 HP解説より**********

夏の朝、長崎県の離島にある平岡家の居間。長女の佐和子、すでに嫁いだ次女の和美は、長男の信夫と直子の結婚式に出かける支度で忙しい。信夫や和美の夫・幸一が勤める高校の生徒たち、幼馴染の清川悟、その妻と娘、近隣の人々が訪ねてくる。
ありふれた日常風景の中で対峙する人々の会話からは、微かな亀裂から露見し、深い歪みがそこに暮らす人々の秘密となって暴き出される。……『月の岬』チラシより

平凡な日常をおくる姉弟の生活が、あるできごとをきっかけに、徐々に捻じれて、歪んでいく……。

長崎弁を用い、繊細な人間の機微を丁寧に描いた『月の岬』は、97年に初演され、この年の読売演劇大賞最優秀作品賞を受賞しました。
「伝説の名作」として記憶に残る本作を、今回は2000年の再演以来12年振りに再々演します。

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劇場いっぱにに作られた南の離島の旧家の開放的な居間を再現したセット。風通しのよさそうなすのこ状ー透かし彫りといった方が上品かなーの木造建築、庭先の植物を模した(今風で言うと緑のカーテンのようなもの)幾何学的な模様の背景も、いかにもその土地の気候風土にあっているようでGood!!
知り合い、家族たちが約束なしでもちょっとふらっと立ち寄るような、そんなオープンな田舎の日常の風景が一瞬で理解できるようになっているーでもって、この南国ならではの解放感と、さらには離島ならではの閉塞感がこの芝居の大事な状況要素となるので、この伏線は効果的。


昨今、容疑者の誤認逮捕が確定して15年間にわたる収監から釈放されたネパール人ゴビンダ・マイナリさんのニュースで再び話題に上がった(さらに昨年公開された、園子温監督の映画「恋の罪」でも題材となりその際にも記憶を呼び起こされた)東電OL殺人事件。ーこの東電OL殺人事件、ちょっとググっただけでも驚きの経緯ー免罪の経緯もそうなのだが、この事件の中心人物東電OLの生活ぶりがそんじょそこらのフィクションなんか問題にならないほどもの凄いー(それにしても、検察のプライドなのか何なのか、15年間
もの時間を半ばごり押しで奪った、それら法の番人たちの暴挙に対しての罰則がないというのも理不尽な話)

まあ、この被害者女性ほどの二面性、それも完璧にその裏の顔を隠した表向きの日常の顔というのはないのだろうが、多かれ少なかれ人には意外な裏の顔、計り知れない本心があったりするものだ。特に、一見何も刺激的なことは起こらないような田舎の平和な教育者の家にも(芝居の中で主人公の姉弟の弟は高校の教師をしている)、平穏であるからこそ何らかの火種はくすぶっている。。。それは往々にして人間の根幹の部分、性的な欲望をきっかけに爆発したりする。。。っていう話。

青年団俳優たちのノーマルな外見と平田演出の卒のなさが、この話の気持ち悪さをー下世話な憶測をすればどこまでもその闇が深くなりそうなところを、まさかそんなことをこの常識人らしき人たちがやるのかな?といったそのちょっと手前のところで押さえているように思う。

反面、東電OL殺人事件のウィキを読んでからこの芝居を観たとしたら。。。人の妄想に歯止めがきかず、最悪のシナリオを妄想してしまうかもー近親相姦あり、未成年との不適切な関係あり、でもって(これは明確に提示されているのだが)不倫と駆け落ちーと、、、。


この最後の道ならぬ恋の果ての逃避行、、の部分のキャストがちょっと弱かったかな。

だって、見てるかぎりではどちらかと言えばストーカー行為に迷惑している、としか思えなかったからーーーう〜〜〜む、これも一般的な見方で、人の心の奥には一筋縄ではいかない嗜好があったりするのかな?

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2012年6月13日 (水)

宮本武蔵(6/13)マチネ

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三鷹市芸術センターで五反田団初の時代劇ーといってもヅラはかぶらないらしいー「宮本武蔵」を観る。

******演劇サイト より******

五反田団の初の本格時代劇「宮本武蔵」は、夢で時代劇をやっている別の劇団の稽古を見て
「くそ先にやられた!」と思って悔しくて目が覚めたことがあり、「良かった夢か」と思ったのだったら
自分が先に「時代劇をやろう」と思ったのがきっかけです。
内容としては、テレビで良くやっている宮本武蔵の一生を追う感じの内容ではなく、
なんで人は人を殺すのかとか、生きてるものと死んでいるものの差とか、そういうことを考えながら書くつもりです。

カツラは予算の都合でかぶりません。

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公演紹介にあるように、剣豪ムサシの「人」としての顔、さらになぜ彼が人を斬り殺し続けたのか、剣豪とおそれられるようになったのか、、の推測説がフィクションドラマで語られている。

お金持ちの人ほど、倹約家であるという説もあるように、いつ斬られるか、殺されるかもしれないということに過敏に反応しすぎた為、その用心深い性質から、斬られる前に相手を斬っていった。その結果、本人の望むと望まざるに関わらず「人きりサムライ、負け知らずのムサシ」の名がついてしまったのではないか、といった仮説を立て、その実のところ気遣いの人で小心者のムサシを五反田団主宰の前田司郎がダメでイイヤツとして好演している。

これまでのイメージとは全く違ったー実際、劇中でもそのギャップに回りから偽物疑惑が噴出するーフツーすぎる男ムサシ。そんなどこにでもいそうな男ムサシが剣豪と怖れられる実態から、生来の達人なり、天才なり、希代の悪人といった特殊な人たちが存在するというよりも、何らかのきっかけ、時代との巡り合わせからどこにでもいる人であったはずのその人がなにか特別な存在になってしまったと考える方が自然なのではないか、と問いかけているようでもある。

生き死にに関しても、紙一重、なんらかの偶然が絡むことは多々あることで、、特に瞬時の大惨事を目の当たりにしたわれわれにとって、その一瞬の運命のいたずらは何故起こったのかと考える日々において、人の抗えない運命、その運・不運の明暗に人の世の不条理さを考えさせられたりする。

斬るか斬られるかの世界を描きながら、登場人物全員がなんとも人がよく、小市民なところがステキ。

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2012年6月12日 (火)

危機一髪(6/11)

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ソーントン・ワイルダーが「わが町」に次いで3度目にピューリッツァー賞を受賞した作品「危機一発(The Skin of Our Teeth)」の劇団昴による舞台を六本木 俳優座劇場で観る。

******あらすじ 演劇サイトより*********

太陽は昇り、世界の終わりはまた一日延びた。
氷河、洪水、地震、そして戦争。
人々は知恵ひとつを武器に時代を乗り越えてきた。
舞台は今まさに、氷河期を思わせる寒さの中。
五千年の悠久の日々を生きてきたアントロバス夫婦、そして子供たちも微かな火の温もりにすがっている。
恐竜、マンモスの明日はもはやこれまで…押し寄せる悲劇の気配。
しかし人間、やはり静かに歩き出す。地平遥か、希望の灯りに導かれ……。

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全3幕からなる芝居で今回は休憩を入れて3時間弱の大作。
「わが町」に比べると上演回数も少なく、馴染みの無い戯曲なのだが、さすがに賞を受賞しているーそれも「わが町」の後でー戯曲だけあって、最後まで見終えると、その偉大さがしみじみと沁みてくるという作品。

上記のあらすじにある通り、氷河期にマンモス、メタシアター構造の積極的な働きかけ、と最初から骨董無形な状況が多発するため、特に翻訳上演となる日本ではなかなか手を出しにくい戯曲であるのは至極納得がいく。

その点、今回は百戦錬磨のベテラン演出家鵜山仁氏の演出ということで、戯曲に対する遠慮や畏れは感じられなかった。

が、しかし、やはり氏をもってしても、かなりの難事であることは1幕、2幕の観客席のとまどいをみても予測できることではある。

劇構造的には、「わが町」とかなり似通っていて、最終的にユニバーサルな領域にまでつれていかれるところはさすがと思わされるのだが、いわゆるつかみ部分である前半が、観客を劇世界に引き込むのにかなりの力技が必要となるのだ。

昴の熟練俳優をもってしてもー熟練だからかもしれないがーそのあたりにちょっと弱気が見え隠れし、もしかしたら若手劇団あたりー翻訳家の水谷氏が新国立劇場での「わが町」上演に際して行ったレクチャーの中で昨今の注目新進劇団、チェルフィッチュ、ままごと、(ワイルダー贔屓を自負している)中フラ、五反田団、あたりのワイルダー的要素を指摘しているがーが自らの手法で(それらは実のところワイルダーが実験して試したものと似通っていたりするのだが)KY的にものにしてしまった方がすんなりといくのかもしれないとは思った。

それにしても、これほどまでに至れり尽くせりの劇作家、ワイルダーって天才なのか、それともすごい秀才なのか。。。

客観的視野というのが、作品の普遍性を支えている。

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2012年6月11日 (月)

ロミオとジュリエット(6/10)マチネ

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先週に引き続き、静岡県SPACの演劇祭へ出かける。

先週訪れた際にもらったチラシの束の中に森村泰昌氏の美術展のお知らせがあったので、静岡駅でちょっと寄ってから劇場へ。

多くの人が一度は彼の作品をどこかで目にしたことがあると思うのだが、「まねて、まなんで、今の私がここにいる。」ーという展覧会用のコピーが言い表すように、様々な有名人ーモンロー、ゲバラ、三島由紀夫にゴッホの自画像ーになりすました作品で名が知れたアーティスト。

今回の展示会ではそんな彼のもろもろの作品のルーツを探るべく、彼が辿った美術個人史として、影響を受けた画家の作品と彼がそれをモチーフに作った作品を並列、さらにはなぜ影響を受けたのか、模した作品では何を表そうとしたのかといった作者自身の一言コメントが添えられて展示されている。

学生時代に製作した作品から年代を追って、展示してあり、その時代時代の文化背景、社会の風潮なども解説として説明されているので展示会として見やすく、面白い。

最初から彼の代名詞であるセルフポートレートのなりすましアートを発表していたわけではなく、他のアーティスト同様、様々な作風の時期を経て(電飾の光の反射を駆使したオブジェ、白黒写真の焼き付けアート、精密なペン画アートなどなど)現在の作風に辿りついた変遷の中に、模索と美的な確信が見え隠れしていて面白い。

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で、メインの目的である「ロミオとジュリエット」だが、フランス人劇作家・演出家 オリヴィエ・ピィ氏が昨年秋にパリ、オデオン座で初演した作品で日本初演の舞台。

ピィ氏自らシェイクスピア原作からフランス語へ翻訳をし直して、「完全版」として上演した今作。
パリでの初演時の一つの売りがこの新訳にあるわけだが、確かに字幕から(残念なことにフランス語が分らないので字幕でその違いを推測するに留まってしまう)すると、かなり猥雑ないわゆる当時の下ネタジョークが懇切丁寧に組み込まれているようだ。おそらく、この新訳に関しては昨日劇場で見かけた多くのネイティブの人々の方が楽しむことが出来ただろう。

恋愛のダイナミズムに翻弄され、若さもあってアゲアゲ感がセーブできない若者達、そんな彼らが村社会の大人の厄介ごとに運命的に巻き込まれ、取り返しのつかない悲劇ー貴重な未来という時間を喪失してしまうーを引き起こしてしまう様がごくごく自然な流れの中で、「シェイクスピアの悲劇」というお題目付きでない不運なそして若さゆえに愚かな若者達のラブストーリーとして描かれている。

ベニヤ作りの階段状のセットと赤いフィルム幕、背景には裸の蛍光灯を集めて並べた照明、その他には生演奏を担当するピアノと奏者、そして簡素なテーブルと椅子、衣装も大仰な貴族のドレスではなく、スーツや白のスリップドレス(ジュリエット)といったごくごく普段のもので、舞台装置はいたってシンプルかつお財布にも優しい。

役者たちがその階段状のセットを自ら動かし、シーンによってジュリエットの寝室を屋敷のバルコニーを、そして裸電球の電飾で装飾したダンス広間を一瞬にして作り出す。

回りがシンプルであるだけに、観客は人=役者の方にさらに集中していくわけだが、この役者たちが、まあ素晴らしい。

前述の猥談ジョークが盛り込まれた台詞を軽妙に語り、コミカルに軽やかに仲間や家族との対話を繰り広げていく。

そこにシェイクスピアの有名な戯曲の一節を喋っている、といった奢りも余計な力も入っていない。それゆえに芝居が滑らかに、自然に進んでいく。この滑らかさ、役者の自然な役作りにより、それぞれのキャラクターにリアリティーも加わってくる。

「ロミオとジュリエット」の芝居でありがちな失敗例として、台詞ばかりが宙に浮いてしまって、全体的にみると古典の名作をおさらいしているといったように、通り一遍等で面白みのない舞台になってしまうことがあるのだが、ーそれ故に、近年、皮肉なことに台詞のないバレエの「ロミオとジュリエット」が良く出来た舞台が多いといった事態にも陥っているー、今回の舞台では、今目の前で起きている話として新鮮にストーリーを追っていくことが出来た。

今作で抜擢された若手俳優、マチュー・デセルティーヌは、若い未熟なロミオ(フランス語だとRの発音が息が抜けていくので「ホミオ」みたいに聞こえる。。ちょっと発見)を好演。

パリでジュリエットを演じたやはり新人のカミーユ・コビが今回は来日できなかったのは正直、ちょっと残念。。。代わりに演じたセリーヌ・シェエンヌに落ち度は無いのだが、、いかんせんやっぱり年上の彼女に見えちゃうのはどうしようもないので(得にテロットしたスリップドレスなので、、衣装変えても良かったかもね)。。年上と激しい恋に落ちることも多々あるだろうけど(得にフランスなんてありそう)、、、やっぱりお話としては14歳のジュリエットだから、ね。

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2012年6月 9日 (土)

南部高速道路(7/8)

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三軒茶屋 シアタートラムで長塚圭史脚色・演出(原作はアルゼンチンの作家フリオ・コルタサルの短編小説(1966))の実験的舞台「南部高速道路」を観る。

シアタートラム劇場の真ん中に舞台空間が作られていて、観客は四方からその舞台を見下ろす形での観劇となる。14人(時々現れる子役1人含む)の役者はほんとんどの時間その四角い空間に出ずっぱり、そのなかで何人かの役者がそここで同時にしゃべるシーンもあるので、場所によって見え方も違ってくる、というのが一つの今舞台観劇の楽しみ方のオススメらしい。(と、アフタートークで語られていた)

今回は主催の世田谷パブリックシアターとの試みにより、1年ちょっとぐらいの準備期間を経ての上演ーその間、何回かのワークショップを経て最終的な舞台作品制作に至ったとのことーという経緯らしいのだが、そのように長い期間をかけたという甲斐もあり、その間で築き上げた俳優との信頼関係により、英国留学後に長塚氏が目指してきた舞台づくりがようやく見える形で実を結んだような舞台となった。

**********ネタバレ 注意**********

ストーリーはあってないようなもの。
一言で言ってしまえば、「渋滞」により偶然に生まれた現代では貴重な予定のない「時間」。突然それを得てしまった現代人たちはどのような生き方を見つけるのだろう、という話。

日曜日の昼下がり、高速の渋滞にはまってしまった人々ー13人、夫婦ありカップルありの老若男女。初めはいつものこととやり過ごしていた人々だったが全く進む気配のない渋滞状況に豪を煮やして、車を降りて前方を確かめようとする人やら回りに食べ物をふるまう人などが出てくる。日も傾き始めた頃には回り数台の車の乗員同士での集団が出来始めていた。次第に個々人の役割分担も決まり、高速道路上での奇妙なコミューン生活が始まる。。。。そして数日が過ぎ、数週間、、、数ヶ月が経ち、季節も移り変わっていく。。。すっかりこの場所、状況に定着し始めたある日、、、誰かが気づき叫ぶ「あれ、、何だか動き始めたみたいだぞ」。。。そう、始まりと同じように、唐突に渋滞は解消され、人々はまたそれぞれの生活に引き戻されていく。

**********************


幕開け、様々な傘を片手に俳優達が行き交う舞台。そこが高速道路でそれぞれが列をなして車を運転しているのだ、と理解するのに数分も有さない。
裸舞台の上には大掛かりな舞台セットは無く、観客の演劇的想像により舞台装置、さらにストーリーも構築されていくー当然のことながら、その解釈、登場人物同士の関係性などに関しては一つの決まった答えはなく、観る人がそれぞれの経験、想像力によりどのようにでも解釈できるような「ゆとり」部分も組み込まれ、構成されている。

震災を経験した日本人のなかでは、かなりの高い共有率で「非常時の人々の関わり方」「緊急時の人間の性」をそこに見ることにはなるだろう。しかしながら、それだけではなく、人によっては「世代間の軋轢」を、また人によっては「都会の孤独」を「現代人が失いつつあるもの」を見る場合もあるだろう。

つまりは、この舞台の産物として観た人々の人数分だけの広がりを生み出せるような、そんな制作 ->上演段階で進化するような舞台が出来上がった、もしくは出来上がりつつある(進行形)ということなのだと思う。

ワークショップの段階から様々なアイディア試し、個々に思うアイディアを出し、インプロで個々の心境を演じ続けてきたという俳優達の演技は活き活きとし、それぞれに魅力たっぷりに役を演じている。

―集団の中でも赤堀雅秋の長距離バスドライバーと江口のりこの独身女性ドライバーのちょっかいの出し方、恋の行方を目で追っている自分がいたりして、それぞれのキャラクターが役者の生身の身体とうまく折り合いをつけているので、その一人一人の役者自身を見ているようで、「役者を見る」のを大いに楽しめたー


まだまだ、短いサイクルでやっつけ的に、ベルトコンベア状態で出来上がっていく作品が多い日本の演劇界。大変だけど、さらにお金もかかるけどーまあ、これは公共劇場ならではという特権でしょうがー、(上手く)時間をかけたものにはやはりそれなりのものがついてくる、、という一つの有益な例となったのではないだろうか。


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2012年6月 8日 (金)

スキラギノエリの小さな事件(6/7)

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下北沢、楽園で城山羊の会「スキラギノエリの小さな事件」を観る。

城山羊の会(山内ケンジ作・演出)は独自のストーリー展開が面白く、外せない劇団として毎回、堪能させてもらっている。

以前の作品のレビュー


******* ものがたり 劇団HPより*********

昔昔、スキラギノエリという所にスキラギノエリという小国があり、人々は穏やかに暮らしていました。
さいさんに渡る周囲の強い力から、うまく逃げおおせていた。ところが、人々の心の中でゆっくりと穏やかならざる物が生まれてきたのです。

***********************

今回はヨーロッパにある架空の小国で起きている、どうしようもない大人達の日常を描いたダークファンタジー。

当日の配布パンフで作者が書いているように、外国のお話とは言え、そこには今日の日本の現状にもつながるようなーさらにはどこの場所にも通じるようなー風刺が巧みに組み込まれている。

子どもは大人達の背中を見ながら育つ、子どもたちは社会の鏡である。。。と、劇中の地位のある大人達が頭を抱える問題児、王国のプリンス、スキラギが何を映し出しているのか、なかなかにチクリとくる現代社会批判劇。

私が今まで観た城山羊の会公演の中では一番こじんまりとした劇場での上演だったのだが、このぎゅっと凝縮された空間が、この不思議なお伽噺にはとてもあっていたように思う。
目の前で展開される、なんとも可笑しく、またdisturbing (ちょっとイライラさせるような)劇に集中できるこの地下の穴蔵での上演。。。まあ、訪れてみて、確かめてみて。

宮崎吐夢の無能なお人好しの王様もハマり役だったが、何と言っても淫乱な王妃、石橋けいの色香とコケティッシュで変な修道女のブライアリー・ロングは必見。

ブライアリー・ロング インタビュー 「外国人な日々」

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さらば、豚(6/7)マチネ

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下北沢スズナリで流山児★事務所公演、劇団桟敷童子主宰、東憲司の新作「さらば、豚」を観る。

*****ものがたり 劇団HPより********

炭鉱跡の養豚場で豚の世話をしているのは敵対している二組のヤクザ達。ある日、養豚場から豚が一匹残らず消えた。二組のヤクザは互いに相手の仕業だと争う。消えた豚を追っかけてヤクザ達が迷い込んだ先は、不気味な廃炭坑。閉じ込められたヤクザ達に、闇の奥から忌まわしい唄が聞えて来る…それはヤクザ達にとって忘れられない弔いの唄であった。
****************************

流山児★事務所が得意とするジャンルの一つ、社会のはみだしもの(今回はヤクザくずれ)の男達が対立しあい、殺しあい、裏切り、結局は落ちていく、、というお話。

今回は、九州の炭坑で土にまみれ、豚に振り回され、人と金で入り組んだ軋轢の中で抗争を繰り返す10人のヤクザものたちのもがく姿に、過去に置き去りにされてきた社会問題、解決を後回しにして目先の発展にばかり奔走してきたわれわれへの警告を絡めてみせる。

10人の男ばかりの舞台の中、流山児氏とは氏がプロデュースする高齢者劇団を通して昵懇の仲の劇場支配人本多一夫氏が特別出演している。
私が観た日は、幕が開けて2回目の公演ということもあったのか、本多氏のシーンでは、オールド・バンチ公演を彷彿とさせる、なかなかスリリングな「間」もあったので、毎日、何が起きるか。。まさにライブならではの面白さがあり。。かも。

(ま、それにしても、あのこわ〜〜〜い「間」からして味にしてしまうところに、劇団の円熟味があるのかも)

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うしろ姿のしぐれてゆくか(6/6)

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劇団民藝の「うしろ姿のしぐれてゆくか」を紀伊国屋サザンシアターで観る。

自由律俳句の先駆者、放浪の詩人種田山頭火の東北行脚の日々を軸にして、宮本研が書いた戯曲で、当初劇団の看板俳優、大滝秀治が主役の山頭火を演じる予定となっていたのだが、春に大滝氏が体調を崩したため、同劇団のベテラン俳優、内藤安彦が変わって演じることとなった。

山頭火本人の写真を見ると、今回当人を演じている内藤氏は実物にかなり似ている。

似ているし、ベテラン俳優らしく危なげもないのだが、、、う〜〜〜〜ん、なんとも、申し訳ないが、観劇後には「もしも大滝氏が予定どおり演じていたら、どんな山頭火を見られたのだろう。。」という思いにかられてしまった。

山頭火の生前エピソードなどを読んでいると、劇で描かれているように大酒飲みの無頼漢でありながら、窮地ではやはり友人、親戚、関わった人々たちにその度に助けられていたようなので、やはりかなり魅力的な人物であった様子は伺える。

どうしようもないヤツだけど、どうにも憎めない。根っこが悪くないので、手を差し伸べてしまう。

そんな、規格外の魅力が、、、今回の舞台からは今ひとつ伝わってこなかった。

今でこそ、有名な歌人だが、当時はやはり当人にその不思議な魅力がなければ、回りの人々は気にかけなかっただろう。
そこまでの凡人には図りかねる魅力が、、その人の熱気が、弱かったように思う。

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United

United

1958年、英国全土を震撼させた悲劇「マンチェスター・ユナイテッドの選手を乗せたチャーター便の飛行機事故」の様子を描いた映画「United」を見る機会を得た。

(昨今のハリウッドのように)過度に演出することなく、淡々と史実、そしてそこにあるヒューマンドラマを綴っている。

何百億もの契約金、移籍金、セレブとの豪遊写真の流出など、今や華やかなイメージが一般的なフットボール界だが、そんな風潮にちょこっと苦言を呈するような、、当時の様子ー純粋にフットボール普及に取り組んだ人々達ーそんな一面も見え隠れする。

それにしても、こんな悲劇に見舞われた若者達がよくぞ短期間に復活を果たしたものだ、、とシンプルに感動できる話なので7月上旬からのロードショーで見てみて!

フットボールに詳しくなくても大丈夫。

人として、スポーツマンとしてのDiginity(尊厳)を再確認できる映画。


ちなみに、このチームUnitedで来期から香川信司がプレーするので、出来たら彼にも、そして多くのマンUファンに見てもらいたい作品。
Mighty Redの由来を!今一度確認できるので。

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2012年6月 5日 (火)

SPAC演劇祭 三昧(6/2)- 「ペール・ギュント」「アルヴィン・スプートニクの深海探検」「マーハーバーラタ〜ナラ王の冒険」

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天使猫(6/1)

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座高円寺で渡辺えり率いるオフィス3○○の新作「天使猫」を観る。

今回、去年の震災時に上演された「月にぬれた手」ー震災のため、1週間遅れての開幕、上演ーがまず再演されて、今回の「天使猫」と連続上演企画だったのだが、「月にぬれた手」は昨年観劇することが出来たため、新作の「天使猫」のみの観劇。

「月にぬれた手」(作渡辺えり、で演出は鵜山仁)では高村光太郎を、そして今回の「天使猫」(作・演出渡辺えり)では宮沢賢治を題材に、それぞれの作家・芸術家の人生を回りの人間との交流を通して描き、それぞれの作品を紹介しつつ、現在のわれわれの課題であるこれからのこの国のあり方、われわれの進むべき方向、その選択に至るための考察の手引きを示している。
―高村光太郎と宮沢賢治の家族の間に長きに渡って近しい交流があったということがパンフレットに載っていたー

山高帽にトランクをさげた宮沢賢治(土屋良太)が賢治ワールドを、賢治が愛した東北の地を探訪する。劇中では代表作「銀河鉄道の夜」のくだりが紹介されたり、彼の書いた詩・文も紹介されるのだが、それを彼の人生、例えば農業指導家として岩手の農業開発、発展に尽力、奔走したり石を収集したり、エスペラント語を学んだり、天文学を学んだり。。。といった別の顔も紹介されるので、それらと一緒に朗読される詩はますます身近に感じられ、魅力を増す。

余談:エスペラント語って、目指した方向性としてはまったく間違っていなかったけど、、、根付かなかったね〜〜〜。現実的には英語がその役割を果たしちゃっているから。。。これって英語圏の人たちのパワーストラチャーと彼らのこれまでの言語優位性からのなまけ心もあるのかしら??ま、いずれにせよ、これも進化の一過程だよね。エスペラントが生まれなければ、反対にこれほどまでに英語が国際語として普及しなかったかもしれないし。。。人生、進化は「365歩のマーチ」ー三歩進んで二歩下がるってなことなのかも。

********

この舞台、それぞれの点で高得点をたたき出しー戯曲・演出・キャスティング・演技ー総合的にも作品としてまとまりのある舞台で深い印象を残した。

物語の案内役として登場する猫を演じる手塚とおるのニャンとも人間ばなれした半ねこ的な姿にまずは心奪われ、岩手山として山をかぶって登場する宇梶剛士にすっかりものがたりの世界に連れていかれる。

何とも味のある渡辺えりと谷川昭一郎の夫婦(漫才!?)に魅せられ、さらにはフカフカの着ぐるみをかぶってうさぎとなって登場し、観客に問いかける渡辺えりに至っては、もうファンタジーでもSFでも、どこでまでもあなたについていきますという気にさせられ、すっかり舞台に引き込まれる。

小さなトランクから(奈落に)消えていく人々、反転させると違う顔をみせるステージセット、シーンによって何役も演じ分ける役者たち、、と言ってしまえばハイテクではなく、どちらかと言えばマニュアルなローテクによって仕掛けられる演劇的仕掛けが、これが最大の効果を発揮する。

俳優の変幻する力を引き出し、観客の持つイマジネーションを(効果的に)刺激するだけで、というかそれが上手く機能したときには、豊潤な芸術的威力を生み出すことが出来る、といった格好の例となった舞台。

今回の連続上演の一つの目的として、先人の行いから今われわれが直面している問題に対する答えを導き出すー宮沢賢治は2万人が亡くなった明治三陸地震の年(明治29年)に生まれ昭和三陸地震の年(昭和8年)に亡くなったそうであるーといった、3/11を経た私たちが立ち返るべき姿勢をも示しているわけだが、この震災に関する考察の姿勢がいかにもマチュアーな距離を保っていて、その結果、先に繋がっていく大局的な問題の捉え方がここでは可能となり、震災後に続々と発表される震災考察の舞台の中でも今作はとりわけ重要な位置を占めたといえるだろう。


パンフから渡辺えり文章の引用を最後に:「明治から現在まで日本はここまで変わった。光太郎と賢治を書くことは日本といく国を見つめることになった。そしてそれは自分たちを探ることだった。私が今こうして演劇を作るという仕事を選んでいる心理の奥底の謎をも探ることになった。」

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