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2011年7月

2011年7月30日 (土)

判断基準

あのノルウェーの無差別殺人事件。かなりショッキングでしたよね。

で、さらにショッキングな事実を。。。

誰もそれが起こるとは予想していなかった理想的に平和な国で起きた無差別テロ事件。事件発生からBBCニュースでもそのことに触れない日はないほどに、あの地域の人々には何か大きな(もちろん日本にいてもそうだが、ヨーロッパにいる人々にとっては殊更。天災と同じくらいに想定外の出来事だけに人々に何か大きな不安を残しているように感じる)しこりのようなものを植え付けているようなのだが、今日、またそのニュースを観ている時に我が家のKYさんが教えてくれたのだが、ノルウェーの法律では死刑は無くて、最高の重罰でも21年の禁固刑だそうだ。
ーもちろん国際機関が働いて、特別措置をとれば別の話だがー80人近くの人々を殺して、反省どころかヒーロー気取りの犯人への求刑が21年の禁固刑!!!!

まあ、人が人を裁く難しさ、矛盾はあるのだろうが、、それにしても、方や死刑で方や20年ちょっとで釈放???

でもって、方やえん罪でもっと長い期間のムショ暮らしのケースもあり得るって。。。。考えさせられる。

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いかけしごむ(7/28)

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新宿ゴールデン街劇場で、東京乾電池が毎月末に行っている連続企画月末劇場の7月の演目、別役実作「いかけしごむ」を観る。

白黒刷りのシンプルなチラシのまさにイカ型消しゴムらしきものののイラストに触発され、以前から興味はあった月末劇場公演へ。花園神社の裏、なぜか頭上すれすれをカラスが飛び交う(回りに飲食店が多いためか?)路地裏の小劇場で平日の5時から小一時間の観劇体験、とはなんとも贅沢極まりない。

70年代終盤の初期岩松了作品上演から一貫して日本での不条理劇上演に挑んできた同劇団の真骨頂とも言うべき舞台だった。

主要キャストは男一人と女一人、その女役を劇団の看板女優角替和枝が全公演で演じ、対する謎の若い男は5通りのキャストで若手男優が日替わりで対するー99%この二人のダイアローグによる芝居なので、劇団通の友人によると、当然のことながら相対する男優によって二人の掛け合いも変わってくるということなので、違うキャストで見比べるという楽しみもあり。

なぜか物事にリアリズムを求める女(角替)は眼の前で事情を説明する男(私が観た日は前田亮輔)の話ー彼はイカで消しゴムを製造することを発明したばかりで、今も原料となるイカを詰めた黒いビニール袋を片手に帰路につこうとしているのだが、なぜかその発明を良しとしない秘密結社、ブルガリア暗殺団なる人たちに命を狙われていてなかなか帰るに帰れないーを`そんなバカなことがあるはずがない’と全く信用せず、自らの`リアリズム’に沿った幼い娘殺人事件話へと空想を膨らませていく。彼女の考えるリアリズム的発想からするとーこの男は妻に逃げられ、行き詰まった末に幼い娘に手をかけてしまい、その死体処理に困窮し、黒いビニール袋にその死体を詰めて捨て場所を探しさまよっているところーとなるのだそうだ。

双方が主張するところの話に大きな食い違いがあり、お互いにその主張を曲げずに平行線の会話は続くのだが、事の真相は???そもそも「いかけしごむ」と「妻に逃げられ幼子を殺す」との間にどれほどの、例えばリアリズムの違いがあるの??幼子を殺してバラすがあるなら、なぜいかけしごむとブルガリア暗殺団なんてあり得ないと言い切れるの????

カミュが提唱した`不条理’哲学から50~60年代以降ベケット、イヨネスコら劇作家による不条理劇なる劇作が多く排出され、自己存在の虚無をコミカルに描く、または通常の思考回路を逸脱した予測不可能な劇の進行により非ドラマチックな舞台が作られた。結果、優れた不条理劇では、ストーリーによるドラマ的芝居よりもさらに自由で広範囲な問いかけを観客へと届けることに成功し、その多くが世界各地の広い範囲で言葉・文化の壁を越えての上演が受け入れられている。

その不条理劇の日本での第一人者が別役実氏ということになる。

ところで、誰かが以前語っていたように、そもそも不条理劇というのは一つの呼称であって、その一つ一つは不条理の対極にあるリアリズムの不合理ーリアリズムという嘘ーを条理にのっとって説明しているのだ。。。という、その意味においての不条理劇として、シンプルながらに簡潔に実証した芝居「いかけしごむ」であった。

だって、劇中の二人のどちらがリアル?
さらに言えば、テレビの中の三面記事ニュースの話と国会討論と原発記者会見、さらにこの「いかけしごむ」の芝居、、どれがリアル?????ってね。


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2011年7月29日 (金)

コーラスライン(7/28)マチネ

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赤坂ACTシアターでブロードウェイミュージカル「A Chorus Line」を観る。

ブロードウェイミュージカルの代名詞とも言える「コーラスライン」。75年の初演以来、15年間のロングランを続け、当時の最長記録を塗り替えた(その後CATSに記録を敗られるが)大ヒット作品。85年に制作され大ヒットした映画版(マイケル・ダグラス主演)の影響もあり、日本でもたとえ舞台通でなくても舞台のオーディションを扱ったストーリー、それに揃いの金ピカの衣装でシルクハットを片手に足を高く上げながら踊るコーラスダンサーたちの楽曲「ONE」を知っているという人が多であろう、そんな楽曲の知名度が高いミュージカルのひとつかもしれない。

ブロードウェイでも06年に新たな振り付けによりリバイバル(オリジナルとどこが違うのかは判らないが)され、その舞台のオーディション2年後に閉幕するもその後はワールドツアーを開始、09年には渋谷文化村でも上演され、往年のミュージカルマニア達を熱狂させている。

その好評を受けての今回の再来日となったのだろう(今は前回上演のBunkamuraオーチャードホール改修工事中のためACTシアターでの上演となった)が、う〜〜〜〜〜む、確かに他に類をみない、オリジナルなそしてとても良く出来た構成の舞台であることは疑いようもないのだが。。。なんだかライブパフォーマンス、それも本場のチームを目の前にして観劇しているというその高揚感がまったく湧いてこない。

それこそ、全てが耳慣れた楽曲なので、曲を楽しむことは出来たのだが、それにしても生の歌を聞いての感動ー女優陣が皆同じような歌唱法で同じように甲高い声で歌い上げるので、誰が歌ってもどれも同じように聞こえる、それもお決まりの表現方法、、まるで劇団四季の優等生ミュージカル(!?)ーというものが味わえない。ダンスにしても消化不良(唯一、ワクワクしたのがリッチー役のKurt A. Douglasぐらいかな)。わざと演技でトチって踊っている箇所ぐらいしか見せ場がないってどういう事?

キャラクターに対してのミスキャストもあり(ヴァル・キャシー)、一人一人にソロのパートが与えられる演目だけに、弱いキャストは致命的。

舞台を扱った作品であるのにもかかわらず、映画の方がその一人一人の時間をそのキャラそれぞれを印象的に見せる事に成功していただけに、ライブの踊りではないフィルムの中というハンディをも技術でカヴァーして、エンターテイメントの世界で生き抜いていく人々たちのヒューマンドラマとしてフォーカスが絞られ1本の作品としてきちんとまとめあげられていた。

それに対抗するには、何と言っても目の前で見せつける、ダンスと歌。。そしてそれぞれのキャラクターが抱える問題を表す表現力ということになるのだろうが、もちろんその部分が魅力的で説得力のある舞台であれば、舞台版の圧勝ということになるのだろうが、、、今回に関しては、出演者の方々皆様あまりにも謙虚(!皮肉)でありすぎたかも。

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2011年7月26日 (火)

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前にも書いたと思うが、5時からTokyo MXチャンネルで放送している「5時に夢中!」という番組にひっかかっている。

日替わりで変わるコメンテイターと黒船特派員(外国人のアシスタント)たち、何と言ってもお気に入りは木曜日(岩井志麻子&中瀬ゆかり)なのだが、先日、珍しく月曜日の番組を観ていてーコメンテイターはマツコ・デラックスと株トレーダー若林史江ー昨今の日本のテレビからは聞こえてきそうにない目ん玉が大開きする素晴らしいコメントがあったので、ちょこっとご紹介。

その日にあったニュースをランキング形式で紹介し、それぞれのニュースに関してコメンテイターから短いコメントをもらうといったコーナーでの出来事。

中国で起きた高速列車事故の後始末がずさんである、記者会見での応答もいかがなものか。。。といったニュースを紹介した後に、司会の逸見太郎さんが若林さんにふったのだが、その後の彼女のコメントがある意味、意表をついたもので、と言うのも、おそらく一般的な流れとしてはちょっと中国のアゲアゲムードをヤジるような「ちょっと経済成長を急がせすぎではないの?」的なコメントが来ることを予測していた人が多かったのではないかと思うのだが、彼女は今の日本の現状をかえりみて「この中国での会見も褒められたものではないけれど、、今の福島原発関連のメディア対応、東電、政府関係者の隠蔽報道の発覚をみていたら日本の現状だってそれほどえばれるものではないですよね〜〜〜。その点から言えば、中国も日本もさほど違いはないかも」。。。といった主旨のことを述べたのだ。

ひょえ〜〜〜、視点が斬新。でもって、納得のご指摘。

その晩のテレビ(今週は我が家のKY亭主がホリデーで家にいるので、極力夜遊び(観劇)は控えているもので、、めずらしくテレビも観れちゃうんですーテレビ観てないで他のことに時間を使えって話ですけど。。。マニア〜ナ、マニア〜ナ)で「たけしのテレビタックル」に出演していた高名な政治家、評論家さんたちの的外れなご意見(まともなことを言っていたのは大竹まことだけ)に口がふさがらなかったのに比べ、5時のなまぬるい時間に眼を見開いた瞬間だった。

ー余談:同じように独創的なアイディアをどんどん発表して政治を推進していこうと努めている二人でも一人は「力強いリーダーシップ」と賞賛され(都のトップ)、他方は「独りよがりの独裁者」と揶揄される(国のトップ)。。。いかようにでも物は言いよう、メディアは事実を伝えていると誤解されているけど、そこにはいつでも誰かの主観があるという(これは先日の放送大学の番組内で言っていたこと)こと。だからこそ眼を見開いて(目玉をなくさないように)何にもとづいてその情報が伝えられようとしているのか、見極めなくてはね。

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ゆすり(7/25)マチネ

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下北沢スズナリ劇場で平田満、井上加奈子夫妻が主催するプロデュース劇団アル・カンパニーの「ゆすり」を観る。

人気劇作家青木豪氏へ新作を依頼して、08年に新宿三丁目SPACE雑遊で初演された今作。
好評をうけての今回の再演と相成った。

「少人数・小空間での、シンプルで質の高い舞台を目指す」といったアル・カンパニーのミッションを受けて青木が書き上げた、三人ー平田、井上と大谷亮介ーの登場人物による1時間強の芝居なのだが、これ以上でもこれ以下でもないほどに完璧な構成で練り上げられた良質なウェルメイドのサイコミステリードラマとして再演の声が多かったというのがうなずける一作となっていた。

******あらすじ*******

かつて親が所有していたアパートに住んでいて、当時は何度か飲んだこともあるという男(平田満)が突然訪ねてきた。会社勤めをするでもない半隠居生活中の兄(大谷亮介)は戸惑いながらも男の朴訥で飾らない態度に気をゆるし、彼の強引な訪問を受け入れてしまう。そんな気のいい兄に少し呆れながら、一人暮らしの兄の世話をやくためにその実家を訪れ、客の接待の手伝いをするしっかり者の妹(井上加奈子)。
始めは数十年前の昔話に花をさかせていた三人だったが、妹が席を外した際に兄が男に「訪ねてきた本当の理由」を聞いたあたりから、話は急展開を始める。
男は昔住んでいた時にアパートの窓から見た、兄の秘密をネタに金をゆすりに来たのだと言うのだ。

男が告げる秘密に対し、今ひとつ歯切れの悪い対応の兄。。。実は秘密の裏にはさらに根深い問題が隠されていたからなのだが、その時点で男がそれを知る由もない。。

思いがけない男の出現により兄と妹がそれまで守り続けていたタブーが、避け続けてきた問題の核心が二人の前に露呈する。二人はその過去と対峙することが出来るのか。

********************


何と言っても平田満のいやなヤツ(人の部屋を覗いておいて、その数十年後にそれをネタにお金をせびりに来る)ぶり、それも一見良い人を装ってからその小悪党に豹変するあたりが絶妙。

ミステリーの部分も微妙に伏線をはりながらの展開が緊張を持たせていた。

劇作全体としても、結論づけずに観客それぞれに判断をまかせているところも大人の良質芝居として仕上がっている要因。

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日仏学院(7/24)

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飯田橋、日仏学院でクロード・シャブロル監督の追悼特集上映イベント最終日にイザベル・ユペール主演の「権力の陶酔 L'Ivresse du pouvoir」(06年)を観る。

ー大物政治家をも巻き込んでのある会社の横領腐敗に気づいた女判事が、その闇を暴こうと奔走する様を描いた映画。彼女が真っ正直に立ち向かえば向うほど、当然の事ながら彼女のプライベートにまで、それを阻止するように闇の世界の嫌がらせがおよび、ついには彼女の家庭をも崩壊させる(させかける)。ー

00年に実際に起きた「エルフ事件」を題材にしたというこの映画、フランス政治事情に詳しければ、これは誰、でこれはあの政治家、、とあてはめて観ることも出来るのだろう。

権力に溺れ、モラルや判断能力を欠いた人たち=パワード ピープルたちのその厚かましさ、感覚のズレを皮肉たっぷりに描いている。ちなみに英語タイトルはComedy of Powerとなっていた。

主人公の女判事ユペールの超クールなキャラクター、彼女のファッション(チャコールグレーの良質のスーツに真っ赤な革手袋とハンドバッグ そしてスッピン顔に唯一の赤いルージューこの赤いルージュはフランス女には鉄板なんですね〜〜〜)、そして権力側にいる方々が通う超の上に超がつく高級レストランやバー、そこで今どき笑えるほどにデカイ葉巻をふかすお偉いさんのおっさんたち、、とどこを切っても金太郎ならぬ、どこを切っても見事にフレンチ!!で、いかにも階級社会のヨーロッパというストーリーも面白かったけど、何と言ってもその映像、演出、、こちらが存分に楽しめた。

それにしても、この上映会に来ている人々に男性が圧倒的に多かった、のに驚かされた。

フランス語言語の英語字幕での上映だったので、おそらくあそこにいた人々の大半がフランス語を理解して観ていたのだと思うが(なんと言っても日仏学院なので)、単行本を片手に柄物のシャツを小粋に着こなした輩がわんさか。。。

これが、数メートル先でのブリティッシュ・カウンシルでのイギリス映画上映会だったら、ドクターマーティンを履いたお兄ちゃんお姉ちゃんーもしくは小汚い格好のおばはん(ちなみにこれは私のこと)とか、ゴスロリお姉ちゃんとかなんだろうな〜〜〜。

で、上映が終わってから、その日仏学院に来ている人々をしばし観察してみたのだが、得に女の人々のシャレ度がハンパない。ここは南仏か?!とつっこみたくなるような地中海バカンス系の肌を露にしたマダム、マドモアゼルたちがわらわらいたのだ。

やっぱりその人の中味(好きなものとか趣向とか)は外身ににじみ出るものなんですね〜〜。

ちなみに、映画の前に日仏学院内にある(巷で評判の)フレンチレストランでランチをしてから映画を鑑賞したのだが、ここスゴく良いです。おススメ。

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けもの撃ち(7/23)

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夏の花園神社恒例、椿組による特設テントでの上演「けもの撃ち」を観る。

去年の夏公演では井上ひさし氏の大作「天保十二年のシェイクピア」を上手くまとめあげ、上演していたので期待を胸に劇場へ。

会場である花園神社に着いた時点で開幕まで20分はあったにもかかわらず、場内はすでにほぼ満席状態。前方脇にスペースを見つけ、誘ってくれた友人と席へ。

当然のことながら、その後からもお客さんが次々に到着し、それにあわせて補助席を出すものの来るわ来るわで場内はすし詰め状態。舞台脇の柱の後ろ側ー海外の劇場だったらRestricted view (視界が狭いエリア)シートというカテゴリーで最安値で売りに出されているような席ーに座る席を設け、それでもなんとか客入りを完了して開幕準備は万端。夏場の屋外(厳密にはテントだが)劇ということで、団扇が配られ、館内でビールも売られているのだが、こんなイベント感、つまりは見せ物小屋のようなワクワク感が毎年この企画には駆け付けるというファンの心を虜にしている理由であろう。

それこそ欧米とかでは短い夏を謳歌するために、屋外での上演が盛んに行われているけれどー夏期恒例の公園でのロングラン公演とか、南ヨーロッパの方では昔からの屋外劇場を利用しての公演とかーこと演劇に関してはまだまだ屋外での上演には積極的ではない日本。。。というか、様々なややこしい規定の関係なのか、立派な劇場が整備されたからなのか、、以前から比べても年々少なくなっているのではないか?と思われる今日この頃。

それでも、時々、人気劇団なんかも代わる代わるに屋外イベントを企画してくれていてー今では維新派の屋外公園が有名で関東の演劇ファンも関西エリアで行われる彼らの公演には真っ先に駆け付けるのだが、その他にも数年前には大人計画が多摩の方で学園祭のような週末大イベントを開いてくれていたし、宮城聰率いるク・ナウカなんかも夏は必ず水辺で公演をうってくれていたし、最近では三条会とかも外でよくやってますね〜〜〜ーそんな企画があるとみんなこぞって参加しているのだから、もっともっと季節感溢れる屋外上演が増えても良さそうなものなんですがね〜〜。→ビジネスチャンス!!ってやつだよね。

で、今年の「けもの撃ち」は99年結成の「弾丸MAMAER」という劇団を率いる竹重洋平氏の作・演出作品。(彼の作品は初見です)

***劇団プロフィール HPより********

時にはヤクザや売春婦、犯罪者や刑事などの、常に“死と隣り合わせ”にいるあらゆる人間たちの生き様を、現代や戦前、昭和中期とさまざまな時代背景で描き、その幅広い内容が好評を得ている。状況設定をはじめ舞台美術もよりリアルに拘り、多様な設定の中でも、毎回のテーマでもある人間の「本質」と「心の痛み」をユニークかつダイナミズムに表現し、そんな斬新で観る者に媚びない過激な脚本と、個性的で粒揃いの役者達で、『重喜劇』の可能性を追求中である。

***********************


そのタイトル「けもの撃ち」どおりマタギが主人公の話。ある村に人食い熊が現れ村人を襲う事件が起きた。村の重鎮たちは山に籠って独自の文化を貫き暮らすマタギたちにその人食い熊の退治を依頼する。いつもは山に追いやられ村人からはさげすまれながら暮らすマタギたちに名誉挽回のチャンス。しかしながら、マタギの集の長、伝蔵(山本亨)はその熊を目前にしながら取り逃がしてしまう。
そんな父の不甲斐なさに失望してグループを離れ、村で華やかな任侠の世界へと足を踏み入れる一人息子の半兵衛(鈴木幸二)。彼は父親が秘密にしてきた彼の母親の死が関わる、人食い熊との因縁など知る由もなかった。

さらなる犠牲者も出て、パニックとなる村。。。再び伝蔵がけもの撃ちへと立ち上がる。


話自体はとってもシンプル。勧善懲悪のストーリーも、生い立ちの秘密ストーリーも、、まあ熱帯夜のすし詰め状態で集中して観るのには丁度良いのかも。

混雑の為に特別に設置された最前列の桟敷席ー通称「砂かぶり席」ーの人たちに砂かぶっても得したよね〜〜〜と思わせるような臨場感溢れるライブパフォーマンスを展開することが最重要なので、”お決まり”満載の筋立ても、まあ良い意味で歌舞伎の”お決まりごと”のように、それを一つ一つクリアーしていくことに意味があるのかも。

テント劇場の後方に光るパトカーのサイレンランプも、立ち止まってこちらの境内内の舞台を見学している飲み会帰りの若者達も、全てがあってこその花園神社テント劇なので、それらの様々な付帯要素が加わって、楽しい観劇の一夜となりました。

劇のクライマックスで登場したえらくデフォルメした巨大熊の模型(一部人が動かしている)。近年のロンドン演劇界の大ヒット作「War Horse (軍馬ジョーイ)」でもその巨大な馬のパペットが大いに観客の想像力を刺激していたが、こちらの怪物のような熊もなかなかに存在感バリバリだった。(動かしていた方々ご苦労様でした)

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2011年7月23日 (土)

荒野に立つ(再見 7/22)

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阿佐ヶ谷スパイダースの「荒野に立つ」を再び観る。

つい先日、観たばかりなので、なんだか予習済みの子どものような状況で、すんなり入ってくる入ってくる。。。劇進行にすっかり気持ちよ〜〜く乗っていたらエンディングへ。。最後は何だかとっても切なくなった。

前回のレビューで今回の芝居は物事の見方がちょっと違っている、と書いたのだが、そんな変わり種の今作を楽しく鑑賞するための手引きを一つーーー観始めたら、既存の観劇ルールは一度忘れ、例えば一つの役に一人の俳優をあてはめて物語を追うのではなく、その役は自由にスワッピング可能ー実際に劇中でも代行という表現でその役の交換を示唆しているのだがーという前提のもと、とにかく流れに乗ることをおススメする。
途中、ところどころでその代行が行われるのだが、前回も書いたように、その時その時の台詞に集中すればその交換もすんなりと消化出来る。

朝緒がした苦い経験、思い出したくもない辛い出来ごとをストーリーの中心に据え、劇のところどころにはいわゆる大きなテーマ=人が生きていく上での普遍的な問いかけが仕掛けられている。

しかしながら、あくまでもそれらの問いかけが観客それぞれに向けて発せられているため、観客一人一人の想像力をあらかじめ限定してしまうような具象的な形ではなされていなくて、観る人によりいかようにも捉えられるようにフレキシブルな問いかけとなっている。

それらは、例えば「人ひとりひとりの個体性(individuality)の重要性について」であり「あくまでも決めるのは自分自身である」という現実。
さらには、メディア、社会による情報統制、それにおどらされる人々、人それぞれに考え、思いは違ってしかるべき、また人が本当に何を考えているのかなんて他の人が推測することは不可能である、、というやはりindividuality について、その根源的な人の立ち方について示している。

流産した女性の気持ちも、夫(彼)のDVを黙認する女性の気持ちも、現実から逃避する女性の気持ちも、簡単に情報を鵜呑みにしてしまう女性の気持ちも、、友人の死を止められなかった女の子の気持ちも、常に生徒の鏡であらなくてはならない先生の気持ちも、不幸な娘を思いやる親の気持ちも。。。なかなか当人でなければ本当のところは判りかねるわけで、、それでも、次に進む道を選んでくれる人を待つのでは人生は進んではいかず、自らが方向を定め、一歩を踏み出さなければならない、という。。切ない応援歌であった。

目玉をなくした少女がそのなくした目玉を探す旅にでる。。。その目玉のところに「生きる指針・生き甲斐」なんてちょっとクサい言葉を当てはめてみてもよいのかもしれない。

ちなみに、もう一つ。舞台上に立ち上がってくる被災地のイメージー何もない(くなってしまった)ー荒れ地と何か(誰か)を探す人々。そんな中一本だけ残った樹。さらには情報を操作しようと企む人々。。
と、これらの今日の現実が芝居にオーバーラップするのも、それはそれで不可避な事なのだろう。

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2011年7月22日 (金)

バレエレッスン(7/21)

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日頃通っているホットヨガの教室に新しく「バレエ」なるクラスが新設されたので、興味本位で参加してみた。

基本、ヨガ教室に来ている人たちむけなので、部屋にバーも無く、バレエをきちんと基礎からやりたいという人たちでもないのでーしかしながら小さい時に一瞬バレエを習っていた人たち、とかはいたのかも。。やたら慣れている人もいたのでー本当にバレエというものを体験してみる、といったクラスなのだが、、これがいやはや。。。出来る出来ないは別として、とても面白かった。

まず、同じ体操でもヨガとは使う筋肉がとても違う、ということ。

例えば、上記のイラストにあるようなつま先180℃開きの基本ポーズをとるためには、まず骨盤、足の付け根のジョイント部分を外側に開かなくてはこのようなポーズをとるのは不可能。
でもって、全てのポーズ、動きが、まずもって不自然な身体の使い方、つまり自然にするとその向きには向かないという方向へ、方向へと筋肉、そして骨を動かすことにより、見た目に麗しい棒のようなすっきりとしたポーズが出来上がるらしい。

私たちド級素人たちはヨロヨロとしながら、まずはその基本ポーズの練習、というかその形へと近づける練習をしたのだが、よろめきながら考えたのは、バレリーナの方々はこの一つ一つの不自然なポージングを連続して、時にはジャンプやら高速スピンやらしながら何時間も続けて行い、バレエ上演を行っているという事実。

意識して部位を固定しなければ、その不自然な身体の使い方は完成しない。一瞬の気のゆるみもゆるされない(まあ、プロの方々はある程度は無意識にそのような動作を行えるまでになっているのでしょうが)、その過酷さを、、、自らが体験すればこそ、もう少し具体的に想像することが出来た。

先日、現役引退した草刈民代さんの超人的な肉体美を収めたヌード写真集が話題になっていたが、あの身体あってこその白鳥だというのがなんだか見えてきた。。。そう考えると森下洋子さんってこれまたスゴい。

出来なくて当たり前だけど、バレエがどんなものなのか、垣間見せてくれるということなので、ちょっと通っちゃおうかな。

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2011年7月21日 (木)

山羊...それって...もしかして...シルビア?(7/21)

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文学座アトリエ公演、不条理劇の大家エドワード・オルビーの「The GOAT? or Who is Sylvia?」/鵜山仁演出ー今回の上演では「山羊...それって...もしかして...シルビア?」としてあったが、私的には04年に青年団で上演された際のタイトル「山羊ーシルビアってだれ?」の方がどうもしっくりとくる。山羊にシルビアなんて名前がついてしまっている事、そのことがまずこの情況下における双方の認識の違いだから ーを信濃町の文学座のアトリエ(何と!記念すべきアトリエでの初観劇)で観る。

04年に青年団国際演劇交流プロジェクトとして、アメリカ人演出家バリー・ホール演出、志賀廣太郎、大崎由利子、大塚洋、石川勇太のキャストで上演された舞台をみたのだが、オルビーの他の有名戯曲ーヴァージニア・ウルフなんかこわくない」「動物園物語」「海辺の風景」ーも何度か観てはいるが、その中でも殊更に`好きな’戯曲であり、いつかどこかでまた上演してくれないかな、と願っていたこともあり、迷わずチケットを購入。

(少し前に映画版の「ヴァージニア。。」をテレビで観たのだが、エリザベス・テイラーとリチャード・バートンのクレイジーカップルがそれこそ鳥肌ものの演技をみせてくれていた。ありがちな、ただ単にヒステリックな中年女ではなくて、リズが演じるマーサでは彼女をアルコールへと走らせる真の理由を語らずに演技の中できちんとみせてくれていた。)

*******あらすじ 劇団HPより**********

50歳の誕生日、建築界の権威ある賞を受賞。巨額の資金を投じて建設される未来都市プロジェクトの設計者に選ばれた。そんなマーティン(今村俊一)のもとに旧友のTVジャーナリスト、ロス(若松泰弘)がインタビューにやってくる。幼馴染みのロスに、マーティンは衝撃の告白をする。「僕は彼女に恋してる。あぁ、神様!あぁ、シルビア!」「シルビアって誰?」人も羨む幸せな家庭に投げ入れられた”シルビア”という爆弾が、あなたの信じる「正しさ」を吹き飛ばす。

補足:誰?ってそれは郊外の牧場で草を食む山羊、そしてマーティンの浮気相手
****************************

三方に囲まれた舞台上にはいかにも上品な、白で統一されたスタイリッシュ家具が整然と置かれている。そんな中、楽しげに花を活けるこの家の妻スティービー(富沢亜子)。長年連れ添った自慢の夫マーティンが自宅でテレビインタビューを受けるのに華を添えるためだ。
いつもは完璧な夫がどことなくぎこちない。会話中も何だか上の空の様子。。何の気なしにワケを尋ねると、大仰に「恋をしたんだ!若いシルビアに」と告白する。。ショック!!しかしその後に続いた言葉が「シルビアという山羊にね。。」ときたのでスティービーは吹き出してしまう。まったくタチの悪いジョーク、、と一笑にふしていつも通り、買い物へ出かけるスティービー。肩すかしをくらったマーティンは目的を晴らせず、、その後部屋へ入ってきたロスへ、今度はもう少し時間をかけて彼の第二の人生の開眼について告白をする。

この直後、マーティンは気がふれたんだとしか思えないロスの友情心により、家族に秘密が露呈してしまう。そこからは夫婦間、そしてゲイである高校生の息子ビリー(釆澤靖起)をも交えて家族の喧々諤々、それぞれのモラル感のおしつけあい、オルビーの真骨頂である辛辣なトークバトルが展開される。

何が普通で何が異常?夫婦の愛情って何なの??ポリティカリーコレクトの大前提と個人的心情の狭間で身動き出来なくなった知識人たちをユーモアたっぷりに、皮肉たっぷりにその化けの皮をはぎとるオルビーの観察眼の鋭さ。
愛という感情の唐突さ、そしてその動物的な本性(獣姦だからという事ではなくて、その性質が人の動物的本能によるということ)を描いて、人の質について問いかけている本作。

やっぱり、シルビアって誰?ーーイタリア小娘でもなくて、隣の奥さんでもなくて、山羊だってところがなかなかにこの問いの核心をついている。

(ちなみにこの劇タイトルの他に作者がサブタイトルもつけていて「山羊ーシルビアってだれ? 悲劇的要素の定義についての走り書き」ということだそうな。)

ちなみに、前回観た青年団版と今回の文学座版、少人数キャストによるシンプルな構造の劇であるにもかかわらず、役者、演出家によって、こうも印象が違うものか、、と思われるほどの違いがある。

まず、主人公のマーティンに関してだが青年団版の志賀廣太郎のマーティンには皆に告白した時点でその事実に関しての迷いがない。つまり山羊とヤってしまった自分をかなりの自信でもって肯定している。
それを回りの人々よりも卓越したリベラルさとして自己肯定しているのか、とにかく彼の落ち着いた物言いからは「とんでもないことをしてしまった、どうしよう」といった迷い(パニック)が見えないのだ。
そんな夫だからそれに対する妻スティービー、大崎由利子はそんなKYで問題児の夫、しかしながら世間一般的には落ち度が無いように見える夫に半ば呆れながら最終的にはその彼の言葉を逆手に取って鮮やかに復讐をやってのける。

一方、今回の文学座版では今井のマーティンは「本当にこの人が天才的な建築家なの?」と思わせるほど。あまりにも理想的な妻を得てしまったがために、妻に対して並々ならぬ愛情とそして同時にコンプレックスを持ち続けているような小心者の夫なのである。。。その歪んだ愛情が、彼をこの病気的な行動へ走らせたのか、、と思わせるような劇のつくりなのだ。

本来喜んで享受すべき愛情も一つ間違えるととんでもない悲劇へと導いてしまうといった劇に仕上がっている。

そこの違いは、やはりこの劇をどう読むか?どこに重点を置くのかによって変わってくるのだと思うが、、私としてはこの劇を「人の想像を越えたところに世界はある。頭でっかちな理論では説明できないところに人生の醍醐味がある」という方をとりたいので、山羊を本当に愛してしまった、そんな男がいた。。。という志賀版に軍配をあげたい。


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日本無責任新世代(7/21)マチネ

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シアタークリエにてネプチューン原田泰造主演「ニッポン無責任新世代」を観る。

銀座の昼の観劇にはうってつけ、というのでしょうか。歌舞伎座は改修中だけど、久々にお友達と銀座で観劇、なんていう余裕の老後世代のおばさま、おじさま、もしくはそんなおじさま&おばあさまのカップル、そして何時の世でも余裕のあるOL世代の女性陣で客席は笑いと活気あり。

タイトルからも判るように植木等演じた昭和の大ヒットコメディ映画シリーズ「無責任男」から端を発しているこの舞台。
とは言え、昔の人気映画のリバイバルではなく、今の世の無責任男=百均(くだらひとし)原田泰造を軸に据えて、せちがらい世の中でちょっと浮世離れしたヒーローが社会の片隅で日々をやりすごす小市民たちを励まし、希望をもたせ、やる気にさせるというスーパーマン物語になっている。

それぞれの良い人キャラがにじみ出るような、ストレートにハートウォーミングなお話。

そんな、ちょっと浮世離れしたお話も原田泰造、真琴つばさ、星野真里、などなどの誠実そうなキャラのおかげでシラッとすることなく、楽しく観劇出来たーだからやっぱり、これ銀座の昼にうってつけのお芝居。

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あなたの瞳の奥を見抜きたい、人間社会にありがちな目くらましの関係(ルネ・ポレシュ)/リーディング (7/20)

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2011年7月20日 (水)

リタルダンド(7/19)マチネ

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若年性アルツハイマーを扱った舞台。

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再/生(7/18)マチネーTDL版 夜ー中フラ版-今回はタダフラらしい

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多田淳之介 インタビュー

↑彼がいかに優れた公共劇場の芸術監督であるのか、が納得のいく論理で語られているのでぜひ一読を。
(後日、時間のある時に要点を邦訳します。まじ、これぞ「芸術監督」の理念!というお話)

今もっともエッジにいる、コンテンポラリーな演劇を横浜で観る事が出来る。演劇のこれからを考えさせられる、貴重な機会。
見逃すべからず。

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06年に東京デスロック(TDL)で初演。劇団の創作スタイル上、ターニングポイントともなりその後の作品づくりに大きな影響を及ぼしたと言われる今作。
上演時、各方面からの反響も大きく、ハイバイ岩井氏も当時「すげーぜ」と自らのブログに感想を残している伝説の作品の再演。。。でありながらバージョンアップしての2011年版の全国行脚ツアー。

演劇が時代の鏡であるならば、最も「今」であるCutting-edgeな芝居が観たいというのは至極自然な欲求。時に人はそのような舞台を求めて、ドイツの前衛演劇に触れたり、ヨーロッパのフリンジをハシゴしたりするのであるが、そんな事をしなくても、ここ日本にありましたがな。それもポストモダンの言い訳やら何やらを飛び越えて、実践版の最先端が。

今回はこの横浜を皮切りに冬までかけての全9カ所を巡る(途中韓国ソウルでの公演もあり)長期ビジョンツアー。
それも、ただ作品をもって全国を回るだけでなく、それぞれの場所にあわせてテイラーメイドで作品を作り直し、その時のその場所に最もあった作品を提供するという、何とも眼から鱗の、演劇の原点=一回性のライブパフォーマンス、に立ちもどったかのようなグレートな試み。

で、さらにはそのそれぞれの会場でも今回の横浜での公演のようにTDL版と現地アーティスト出演版と2本立てで見せる場合もあるというのだから、頭が下がる。(出来る事なら、全国行脚のおっかけをして、その場の舞台を目撃したいところではある)

今回は横浜を足がかりに躍進を続ける中野茂樹+フランケンズの役者たち=フランケンズたちの出演によるタダフラ版とTDLによる11年版再生の2本立てで初演のタイトに中に/を入れての「再/生」として上演している。

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06年の初演時の演出を色濃く残しているのがタダフラ版で集団自殺決行のため集まった若者達がそれぞれに好きな音楽(サザンの「TSUNAMI」、「ラストダンスは私に」、電気グルーブ「Shangri-La」などなど)を大音量で流しながら時に鍋をつつきあい、ビールで喉を潤しながら踊りまくる。取り憑かれたようにとにかく騒ぎ、はしゃぎ、踊る。。そして、その時を迎えるために車座で薬の小瓶をまわす。
そして、全員が動かなくなる。。。。しばしの静寂、、、すると最初に流れた曲が聞こえてきて、どういうわけか、それまで動かなくなっていた人々がまた復活する。。そして先ほどと同じ流れを繰り返す。そして計三回この流れを繰り返し、劇は終演する。


若者の集団自殺というのには役者たちの年齢がそれを越えてしまったし(演出家談)ということで、今回新たに作り直されたニューバージョンがTDL(東京デスロック)版だ。
最初に女の子が一人登場し、「最近、しあわせについて考えています。。。あの頃の私はそんなに幸せではなかったのかも。。。」と最近の心境をつぶやく。。。その後、前述の音楽(TSUNAMI、ラストダンスは。。。。)が流れ出し、それぞれ登場してきた他の役者たちがそれぞれに得意な(おそらく)ダンス、動きで踊り始める。ある人はヨガのポーズ、ある人はポップなダンス、、そしてある人は連続運動を、、それぞれに延々と、黙々と続ける。。
そして、その後に身体停止状態がおこり、そしてタダフラ版と同じようにこのこの生き死にが3回繰り返される。

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そこに起承転結で語るような物語はないのだが、その生きた役者たちのパフォーマンスにより、その場には観客の人数分のものがたりが出来上がっていた。
このデジタル・ハイテクな世の中で演劇が見せられるものと?演劇でしか与えられないものとは??というその産物を目の前で見せてくれていた。
飛び散る汗、消耗する肉体、息をし続ける瞬間の連続、毎日の繰り返し、疲れ果てた心と身体、、、それでも次には再/生する。

目の前でゼ〜ゼ〜と呼吸を繰り返す肉体=人間、、人の営みを頭ではなく皮膚で体感させてくれた。

究極、人はここにもどるんだよな、と思わせてくれる貴重な1時間強の演劇体験。

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荒野に立つ(7/17)

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シアタートラムで長塚圭史率いる阿佐ヶ谷スパイダースの最新作「荒野に立つ」を観る。
噛めば噛むほどに味が出てくるような見応えのある作品。

ご存知の通り、人気絶頂期に1年間の英国留学を決行。帰国した後は、手ぐすねひいて待ち構えていた演劇界の潮流の中に引き戻されるも、そんな潮の流れの中、ふらつくこともなくどっしりと自身の演劇探求の構えをくずさず、充電期間を経てますますその存在感を顕著にしつつある長塚氏。

帰国後第一弾の劇団公演「アンチ・クロックワイズ・ワンダーランド」(10年)ではそれ以前の特徴であったスプラッター要素も笑いの要素も少なめで、しかもその設定が非日常的な、そして難解なものだっただけに、勝手に何かを期待していた観客・評論家たちからの反応は今ひとつだったのだが、その一撃があったからこそ、とも言えるのだが、今回は観客たちに過剰な思い込み、構えが前回ほどなかったおかげで、まっさらな状態で劇と向き合えた観客が多かったとみえて、今回も「アンチ・・」同様に時空をこえ、空間を自由に移動し、断片のエピソードで綴られた劇であったにもかかわらず、観客それぞれがきっちりと個々の受け止め方で劇を堪能していたように見受けられた。

思い起こしてみれば、「アンチ・・・」にしても、今回の「荒野に立つ」にしても、その前身となるようような作品、例えば「アジアの女」「失われた時間を求めて」から続いていると思えば、それほど驚くような豹変でもないように思うのだが。

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目玉をなくした(と言われた)主人公朝緒(安藤聖)がなくした目をとりもどそうと目玉探偵に捜査を依頼。自らも時空を遡り、目玉はなぜなくなってしまったのか、、今ある自分はどこから来たのか、、を探るたびにでる。ーーーーというなんとも破天荒な劇的なフィクションが木が一本生えた(ゴドー?)裸舞台で展開されていく。


同じ日の昼になんとも自由なドイツ演劇の朗読劇をみたばかりだったので、この演劇的自由さにはさほどの抵抗なく、むしろこれくらいでなければわざわざ芝居に仕立て上げる意味もないのかも、とさえ思えた。

巷の演劇サイトに"前作『アンチ。。』から以前のセンス(ナンセンス)に戻ってゆく途上という印象”という感想がのっていたが、劇の中で時間の逆行はあっても、創作活動に遡りはないだろう、ゆえにこれは以前の創作作品からの発展形であり「アンチ。。」からの揺り戻しではなく、すでにその先を歩み始めた劇団にとっては今後もあの頃の阿佐スパ。。。はきっと期待出来ないと思う。


ピカソが青の時代の叙情性から視点を変えてキュビズムで物事を描き表したように、一見ひねくれた突然の飛躍のように思えるこの話の構成も、一つ一つ(ピカソの女性の横顔に張り付いた唇や飛び出した目玉のように)を見ていけば、その全体に流れるシンプルなメッセージが大きく響いてくるはず。

結局のところ、隣の人の目玉に何が映っているのかも知る由もなく、ましてや気心しれていると理由なく思い込んでいる家族でさえ、実のところ何を思い描いているのかは不確かで、さらには時々立ち止まりながら自分自身をも確かめなければ、自分で責任を負えないような事態に陥りかねない。

舞台では、そんな不安定な精神状態の若い女性たちの心の奥底を見つめながら、例えば父親・母親の変わらなさ、そのもとにある不動なもの、などを見事に描き出している。

女性陣が軽やかに女の世界をみせる中、父親役の中村まことが力強く人の本質の姿を演じている。


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文学亡者たち(7/17)マチネ

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青山ドイツ文化会館にてドイツ同時代演劇リーディング・シリーズ(3)、スイス人作家、マティアス・チョッケ作『文学盲者たち(原題:Die Alphabeten)』(94年初演)を劇団サンプル主宰松井周氏が演出、サンプルの役者たちにより演じられたリーディング公演を観る。

*****あらすじ 劇団HPより**********

(初演:1994年9月ベルン州立劇場(スイス) 同年10月ベルリン・ドイツ座にてドイツ初演)
才能ある新人作家スザンナは、将来に迷いと不安を感じている。彼女を導こうとする学者肌のゼート博士、外の世界に誘い出そうとする「若い男」、「平凡すぎる」女刑事などが絡み合うなか、スザンナはふらふらと歩み始める。文学とは一本道か、それとも回り道、曲がり道なのか。コメディの要素を散りばめながら、文学をめぐる人びとの期待と失望、現実と空想を描く。

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戯曲の読み聞かせという主旨でのリーディング公演からはちょっとかけ離れた、上演プロセスからするとその次段階ぐらいの、舞台化を意識した、いろいろと動きの演出が施された公演だった。

ドイツ文化会館でのドイツ語戯曲のリーディング企画という意図からは外れており、それを肯定的に受け止めるか、否定的にとるか、、は観客の欲するところの方向性によるところが大きいのだろう。

ーいろいろな演出を課したため、ポストトークで観客の一人が指摘していたように、肝心の戯曲が聞き取りづらい箇所が何カ所かあったのは事実。チョッケさんの戯曲の紹介ということであれば、もう少し丁寧に台詞を話してもらいたい、と思うところだろう。逆にこれが上演舞台として準備されたものであれば、役者も台詞を咀嚼して、さらに自分のものとしていたところではあるのだろうが、台本片手にマイクを使った(これは単なる声量、準備期間の問題ではなく演出意図の一つであるらしいが)今回の上演ではそこまで台詞の発声ということに重きが置かれていなかった(ウ〜〜〜ンそれもどうか?と思うが)、もしくは翻訳語調の台詞に違和感があったのか、、、役者陣は苦戦してたな〜〜。

まあ、演劇ファン、特に松井周サンプルの芝居ファンの方々にとっては、一日限りのリーディング公演にもかかわらずがっつり演出してくれて、文化会館の思わぬ使用法まで見せてくれて、松井ワールドを展開してくれた事はとてもありがたいことなのでありましょう。ー


新人作家スザンナ(伊東沙保)がある賞の授賞式で行った受賞スピーチに端を発するこの芝居。一見新人らしい謙虚さとKYさー無知ーをさらけだした彼女のスピーチが、彼女の意志に反した方向へと一人歩きを始め、彼女の回りに居合わせた様々な社会的立場にある人々の文学=アートに関するそれぞれの基本概念、ひいてはそれぞれの社会通念を暴き出していくというこの芝居。ドイツの国内状況がどうなっているのか、に関してそれほど通じているわけではないのだが、チョッケの芝居を表す言葉としてよく使われている「皮肉なユーモアで現代社会を描く」という表現からすると、おそらく、ヨーロッパ、そしてドイツに未だ蔓延するエリーティズム(エリート主義)、さらにはその欺瞞を"かわいそうなスザンナ”の身体をかりて暴露しているのだろう。

ドイツ語劇らしく、丁寧に、しかしながら間接的な説明が長々と続くこの戯曲。ドイツ人って日常でもこんな風に観念的な会話を交わしているのかしら?と眉間に皺が集まるような一筋縄ではいかない台詞の羅列、、、かと思うととてもくだらない(ような)やりとりで他言語で成立させるのは、なかなかにやっかいそうに見える。

演出の松井氏はアフタートークで翻訳家の高橋文子さんとのやりとりの中で、「自分のことをダラダラと話続けるこのスタイルがサンプルの芝居に近いかもしれない」と思ってこの戯曲を選んだと語っていた。

ただでさえ外国語である上にとっつきにくい台詞(不自然な)であふれたこの芝居を目の前の観客へと届けるためには多少技巧的ではあるが動きのある演出で、耳からよいうよりも体感させる方が良いだろう、という意図のもと、このような異例なリーディング上演が提案されたのかもしれない。

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2011年7月16日 (土)

若い兄嫁(仮)(7/15)

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青年団の若手自主企画公演、現代口語寸劇(!?)なる「若い兄嫁(仮)」をアトリエ春風舎で観る。

5編(だったよね、「静かな。。」「バス」「犬」「笑いのツボ」「兄嫁」だったように思う、、なにか抜かしているかな???)の寸劇オムニバスで構成された本作。

のっけに繰り出される「静かな(現代口語演劇)」が、何と言ってもそのインパクト、皮肉さ、しつこさ、、からして秀逸。

彼らが所属する青年団の代名詞演目「東京ノート」の稽古場面から入るのだが、青年団ネタ(エラい演出家さんが登場したり、レーベルが一人歩きした”静かな演劇”に関するネタをクドいほどに連発したり)に関してはアトリエ春風舎に来ている観客にはお手のものとふんだ上で、巧妙に観客を劇世界へと引き込んでいる。

全体的にシュールな笑いのトーンを崩さず、少しずつ最後の「若い兄嫁」=兄嫁の立ち位置についての考察へと向けてその度合いを上げていくのだが、最後の作品はあて(キャラ)書き+男の理想(妄想)で出来上がったような、この座組だからこそという1編。

最近、お笑い界の人たちの演劇への進出が目覚ましい中、長めのコントと寸劇、、、その距離の近さを実感する。

若手ならではの楽しい企画。(先輩の志賀廣太郎が先輩出演で要所を締めているところが青年団)

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2011年7月15日 (金)

冬物語(7/14)

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昨年度、紀伊国屋演劇賞団体賞を受賞、それまでにもその安定したクオリティーから数々の児童文化賞を受賞している、「子どものためのシェイクスピアシリーズ」の最新作、だい17回目の公演となる「冬物語」を渋谷区民文化総合センター、さくらホールでの初日を観る。

その輝かしい受賞歴にふさわしい、よく吟味された、疑う余地もなく日本におけるシェイクスピア劇上演の成功例ー得に今回の作品に関しては大成功例ーに挙げられる良くできた舞台だった。

**************あらすじ 劇団HPより**********

舞台はシチリアの王宮。
シチリア王は親友のボヘミア王と自分の妃ハーマイオニの関係を疑い、嫉妬のあまり妃を投獄。
その上、生まれたばかりの王女パーディタをボヘミア王の子と思い込み、遠い荒野に捨ててしまいます。
子どもを失ったハーマイオニは悲しみのあまり死んでしまいました。
家族を失ってやっと自分の間違いに気付いたシチリア王は、後悔の毎日を過ごすこととなります。
一方、荒野に捨てられたパーディタは羊飼いに拾われ、16年の歳月の後美しく成長し、
あのボヘミア王の息子フロリゼルと恋に落ちたのでした・・・。

********************************

近年では、シェイクスピア全作品の上演を目指す彩の国シェイクスピアシリーズの一環として上演された、唐沢寿明、田中裕子、横田栄司出演、蜷川幸雄演出の舞台(09年)「冬物語」が記憶に新しいところ。そちらの舞台では田中裕子の世俗を超絶したハーマイオニが劇ラストのミラクルにリアルさを与えていた。
劇の核である王の嫉妬もやや強引なところがあり、さらには最後のハッピーエンドへと導くミラクルに関しても下手をすると興ざめを誘うことにもなりかねない感もあるので、そのあたりに配慮のいる芝居となっている。

今回の華のん企画による、山崎清介演出版の「冬物語」では、無駄のないスムーズな話運びのテンポとタネ明かしぎみなキャスティング、そして笑いを交えたミラクルの演出で、かなり自然にシェイクスピア劇を理解しまた楽しめるように工夫されていた。

このシリーズの作品を観たことのある人にはお馴染みの毎回みせる決まったスタイルの演出は今回も一貫している。

8人の役者陣が数役を掛け持ち、その中心では山崎清介が分身(シェイクスピア?)の人形を引き連れ、語り部として劇を進める。流れの中で、毎回決まった動きー例えば、オープニングとエンディングの役者勢揃いでごあいさつの場面ーでこれがいつものシェイクスピアシリーズの一つであることを印象づけるシーンがあり、いつもの手拍子のリズムも健在だ。

シェイクスピア劇の上演失敗例で多くみうけられるのが、原作に忠実なあまり、削る英断が効果的であるかもしれない台詞を全て盛り込むことにより(もちろん、一つ一つに意味のある台詞なので、それを楽しむ観客も多くいるとは思うが、そこはケース・バイ・ケースで全体の観客層をみて、どちらが最終的に効果的であるか、さらには何を落としてはいけないのか、、を判断すべき)、観客の集中力を欠いてしまい、さらにはその過剰な異文化に関する情報により混乱をきたすことによって、結局芝居を楽しむというよりはシェイクスピアの講義のような教義的な舞台になってしまうというものだ。

今回は、当初から「子ども向け」と名打っているという潔さが功を奏してか、とにかく全体としての劇の流れを重視しており、細かい言葉の謎掛け、知性から読み解く台詞などは大幅にカットし、その変わりにライブパフォーマンスとしての道化の楽しさを盛り込み、大仰なセットも衣装も身軽に簡素化、アップテンポのちょっと頑固な王様の若気の至り、、にしては十二分にそのツケを払わされたある意味純粋な男の話として見事に成り立たせていた。

それにしても、この何もない空間というのがどれほどシェイクスピア劇に適していることか(ピーター・ブルックの著書でもないけれど)。
全てが戯曲の中で説明されているので、数脚の椅子とテーブルのみで十分ということがこれほどまでに明白に立証された舞台も珍しい。

役者陣では若手の太宰美緒のちょっとした力不足が目立ってしまうほどにその他のレギューラ陣の力が安定していた。太宰もこれから回を重ねれば回りに無理なくブレンドされていくことだろう。
(その意味でも、外国人とは言え、健闘が光ったキム・テイにはしっかりした実力があるということだろう)

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2011年7月14日 (木)

みにくいあひるのこ(7/11)マチネ

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月曜の昼下がり、真夏日の日差し厳しい中、夏休み期間恒例の子どもたちのためのシアター、座高円寺が開催する「あしたの劇場」プログラムの一つデンマーク、シアターリフレクションによる人形劇「みにくいあひるのこ」を観る。

小さな子どもたちが舞台前を陣取る小劇場スペースに設置された黒い箱舞台。

そこで、ウレタンや針金で作られたアヒルの子とそのアヒルをからかうにわとりたち、そして白鳥によるアンデルセンの名作「みにくいあひるのこ」の世界が繰り広げられていた。

後で制作の方に聞いたところによると、一体一体の人形は精巧というよりは大雑把なウレタン製のものらしいのだが、これも演劇マジックなのだろう、黒い背景の中でタップを踏むその黄色いくちばしと足のあひるのなんとかわいらしいこと!

良く知る話にまた馴染みの音楽が上手くマッチして、また見たくなるような「美的」な舞台に仕上がっていた。

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罠(7/9)

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CAVA /The Japan Times preview

神楽坂のセッションハウスでシャレたマイム集団CAVAの「罠」を観る。

03年に日本マイム研究所の卒業生3人によって結成され、その後2人を加え今では5人組として活動するCAVA(フランス語のCa va 元気?とお魚のサバ(!?)から命名、日仏混合のオリジナルテイストを目指している)。
09年のストリートパフォーマンスでの偵察を経て、昨年はエジンバラフェスティバルにフル参戦。
数紙から4つ星の評価を得るなど、充実したフェスティバル経験を糧に今年2月には浅草アサヒ・アートスクエアで凱旋公演を決行。

演劇誌シアターガイドではダンス評論の第一人者、乗越たかお氏にもお墨付きをもらい、まさにこれからチケット入手が困難となるであろう片鱗がすでに表れてきているのか、初日とはいえ、会場から溢れんばかりの大盛況。

その中には有名なバレエダンサーの姿もー彼が道をフラフラと、まさに宙に舞うように浮遊しながらダンススタジオ会場へ向う姿を昼下がりの陽炎の中で目撃!ほんとにどこの星から舞い降りてきた方なのか?と思われたー、外国人の姿もあり、今後はますます観劇者の数が増えてくるだろうと予感させられた。


小一時間のマイムパフォーマンスなのだが、エスプリあり、笑いあり、でもって動きが優雅。
誰でもが「クスッ」を共有できる、良い意味で判りやすいコメディが心地よい。

紅一点の田中優希子の表現力と品の良さが清涼感をもたらしていた。


ps。最後に次回公演の告知をマイムで表現。。。なかなかこれもシャレている。

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Sad Song for Ugly Daughter(7/7)

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本多劇場で宮藤官九郎作・演出、でもって出演までしている「Sad Song for Ugly Daughter」を観る。

安定した宮藤節(絶妙な笑いのツボと台詞のそこここに散りばめられた人間の本質描写)、プラス 今回は中年のおじさま俳優二人 松尾スズキ&岩松了 の好演もあり、大いに楽しめる舞台だった。
演劇界の潮流を横目で確かめながら、そんななかでも、わが道をしっかり歩んでいる大人計画/宮藤官九郎の良い意味での「変わらなさ(とその意義)」を観たように思う。

その変わらなさの確信はどこから来るのか、。。。日々の積み重ねから来ているのだと推測する。

毎日を、その瞬間瞬間を考えながら、思考しながら過ごしていれば、その時に作り手として何を提供するべきかについての迷いは消えるのではないだろうか?

芝居を観た後に偶然にも彼が連載している週刊文春の記事を読んだ(いつも買っているわけではないのだが、たまたま電車のおともに、と手に取った)のだが、そこになかなかするどい世代論が載っていた。

70年生まれの彼は現在40代前半、それこそ若者の括りからははみだした働き盛りの壮年期男性にあたるわけだが、最近入団してきた20代前半とおぼしき新人劇団員との会話を思い出しながら、今どきの若者達の気質について分析している。

まず、基本的に「皆がとても良い子たち」で、そんな良い子たちは純粋ゆえに何かを知らないということについて(例の中では音楽だったのだが)の気恥ずかしさをみせる事はなく、さらにはその知らない事を知りたいと欲するどん欲さを示すこともないようである、と語っている。

自分たちと同年代の人々(彼らにとってはそこが世界の中心値らしい)の多くが知っていることかどうか、がその情報を得るべきかに関わってくるようで、その人々の関心から外れている事柄であれば、自分の興味うんぬんではなくスルーされるらしい、、という観察である。

今となっては、すでに死語となっている「新人類」なんて言葉をあてがわれ大人を煙たがっていた我々世代なんて、もう恐竜化しているのかも。

それにしても、数少ない私の接触経験からしても、今どきの若者達が無防備なほどに「良い子」たちである事はなんとなく感じられる。

ほぼ全ての前世代の事柄に反射的に眉をひそめていた、いわゆる「Angry Young men」という表現は今の世の中では通用しないのかも。
そのガス抜きされた、New優しさやハーモニーの感覚が納得出来るほどに癒されることはあるのだろうか?
ー他人からの癒しでは根本的な解決にはならないと思うのだがー


なんだか、芝居の話から遠いところに来てしまったが、大人計画には大人計画だからこそ提案できる社会に対する問いかけを変わらずにず〜〜〜〜〜〜〜〜っと続けて欲しいと思った、というところで着地して、おしまい。

それにしても、岩松氏の怪演が冴えに冴えまくっていたな〜〜〜〜。

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2011年7月 5日 (火)

おもいのまま(7/5)

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豊島区公共劇場、あうるすぽっと制作公演「おもいのまま」を東池袋のあうるすぽっとで観る。


**** あらすじ 劇場HPより********

とある高級住宅街の一軒家。 周囲の住民がうらやむ優雅な暮らしをしている夫婦がいる。
そんな夫婦のもとへ、ある日2人の「訪問者」が現れた・・・。
ぶつかりあう言葉、暴かれる嘘と秘密。
4人が「真実」に近づいた刹那、世界は反転し、
物語は、観客の予想を越えた「可能性」に向かって疾走を始める。

*******************************

上演に先がけて、4月に制作発表会があり、その席上で主演の石田えりから、今回は自らが発起人となり、いっしょに舞台を創り上げたい人たちに声をかけ、この舞台が実現したとの発言あり。

そこで、彼女のオファーを受けて集まったのが、脚本:中島新、演出・美術・音楽:飴屋法水、そして石田の夫役に佐野史郎、二人の招かざる訪問者が山中崇と音尾琢真という役者陣の面々だ。

2幕構成で、ほとんど同じ悲劇的シチュエーションながらちょっとした判断から、その結果に大きな差が出てくるというその芝居のアイディア自体も最初に石田から提案されたものということで、その発案を受けて中島が翻に書き起こしたという経緯らしいーそれゆえ、劇作ではなく、脚本:中島新とクレジットされているー。

(グウィニス・パルトローの出世作「スライディング・ドア」もあの時地下鉄に無理矢理乗っていたら、、そして乗らなかったら、、、の二つの可能性を平行して綴った映画でしたね〜〜〜〜)


で、そのアイディア自体は面白いのだが、、、いかんせんストーリーテリングが。。。弱い。。

パンフレットで演出、飴屋氏が語っているように、演劇とは「ありえない嘘を、あるものとして、取り扱っている。」。。確かにそういう表現芸術だとは思う、そこに疑いの余地はないのだが、その`嘘’に関してある程度のリアルがなければ、、もちろん嘘であることは百も承知、嘘が積み重なったフィクションなのだが、、そこに、その`嘘’に関して信じられるものがなければ、芝居が説得力を持たないと思うのだが、残念ながらそこまでの説得力が今回の芝居にはなかった。

嘘は嘘なのだが、例えばいつの日かE.T.なるギョロ目のモンスターが家に遊びにきて、クライマックスでは空を飛ぶ、とか男が恋に落ちた相手は山羊だった(エドワード・オルビー作 「The Goat, or who is Sylvia?」)とか、そちらの方がよっぽど信じられる、劇として立派に成り立つリアルがそこにあるように思うのだ。

****** ネタばれ注意*******

しかしながら、今回の倦怠期夫婦がひた隠しにする秘密というのもあまりにも一般的だしーSM趣味だって、倦怠ムードの夫婦だって、会社が倒産寸前のところだって、そんなに驚くほど珍しいことでもないし、性的倒錯に関しては人様に後ろ指さされるほどのことでもないと思うのだがー、さらには最も????首をかしげたのがこの芝居のとっかかりの部分、スクープをとるために犯罪を犯すジャーナリストって????それこそパラノイアの世界。
犯人と人質とのやりとりも、いくらフィクションとは言え、あまりにも緊張感が無い。


かえってそこの犯人達の追いつめられた心理探求に絞ってそちらを進めた方が面白かったかもって思うほど。。。それほどにあり得ない。

どうもそこの嘘がひっかかって、、最後まで話に入っていけなかった。どう考えても、HなDVDを妻の目に触れないように隠し持っている夫よりも、そちらの自己チューな若者達の方が気になってしょうがなかったので。。。どうでもいい仕事なんかのために、こんな考えを持ってしまう、、そっちの方が大問題でしょ?

****************************


飴屋演出に関しては全てにソツがなく、特に音楽効果に関してはさすがの感あり。


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2011年7月 4日 (月)

This is Weather News (7/3)

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世界を又にかけて活躍する矢内原美邦率いるアートパフォーマー集団Nibrollの2010年初演作品「This is Weather News」をシアタートラムで観る。

****作品解説 カンパニーHPより******

例えば、平均寿命、地球温暖化、時刻表。
~これらは全て「天気予報」みたいなもの〜

「こうしたら、ああなるだろう」と
予定調和を前提にして生きる現代において、
現代批判でもなく、回顧主義でもなく、
信じてきた価値観が崩壊したと言われても
生き続けなければならない私たちの
これからを提示していくことを目指した作品。

*************************

最終日公演だからか、通路までもがぎっしりとうまった超満員のシアタートラムで観たのだが、これを良いとトウィートして、それに反応して足を運ぶ(若い)観客がいる限り、この国もすてたものではないなと嬉しくなった。

ステージ、右手奥に置かれた巨大スクリーン。
左手壁にむかってぎっしりと並べられた何足もの赤いハイヒールの束。。。
女の子が登場して、その赤いハイヒールを次々に壁へ向かって放り投げるとスクリーンの中でそれに呼応して何かが弾けている。
その後、スクリーンにはレゴブロックで作られたような人形が現れ、空中から放り出され街のどこかに打ち付けられる、、またそのレゴ人形の人間がどんどん一カ所に投げ捨てられ、たい積されていく、その間舞台上では人が何らかの力に吸い寄せられどこかへ吸い込まれている。。ここでもまたスクリーンのヴィジュアルイメージと生身の人間が呼応している。

何度となくスクリーンを覆い尽くす黒い雨雲、その雨雲に覆われた場所ではその黒い雨が沁み入り、黒い何かになって街を侵略していく。。。

****作品に関してのインタビュー(CINRA.net)より抜粋**********

正確には「WEATHER REPORT」のほうが英語表現としては正しいようなんですが、ニュースの中で予想が外れることも受け入れているのが天気予報だけ、っていうのがポイントなんです。明日の降水確率は60%とか、どういう算出なのかよく分からないままに受け入れていますよね。なぜ僕らは、他の世の中の出来事もそのように受け入れられないのか。なぜ原子力が安全だということを60%くらいのものとして受け取れないのか。天気に対するようなスタンスを、全ての出来事に対して持つことで、気構えができることもあるんじゃないかと思うんです。そう考えてみると、「あらゆるニュースはWEATHER NEWSのようなものではないか」と思い、新聞のあらゆる面に『THIS IS WEATHER NEWS』っていうハンコを押していくようなイメージが出てきました。
*******************************

矢内原のコンセプト&振り付け、高橋啓祐のヴィジュアルイメージ、矢内原充志のユニセックスな衣装、スカンクの音楽、、、とまさにそれぞれの力が集結して出来上がった総合パフォーミングアート。

矢内原の作り出す作品のコンセプトが日本限定ではなく普遍的でさらにブレない分、そのコンテンツがグローバルであり得るということは十二分に納得がいくところ。


今回も当然の成り行きとして、今を表現する作品が震災後の「今の日本」とぴったりと呼応してしまったとうのも、常にその瞬間の今を見極めているから。

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Fat Pig (7/2)

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夢(トポス)の国シンクウカン(7/2)マチネ

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寺山修司の天井桟敷が解散した後、寺山演劇を継承するべく、天井桟敷においての音楽担当兼共同演出者であったJ.A.シィザーが立ち上げた演劇実験室◎万有引力の新作舞台を座・高円寺で観る。

**** 劇場HPより 作品解説***********

演劇実験室◎万有引力は、寺山修司が主宰した演劇実験室◎天井棧敷の衣鉢を継ぐ、唯一の劇団です。主宰するのは、寺山修司の勧めで音楽をはじめ、日本でも珍しい座付音楽家の道を歩んだJ・A・シィザー。寺山修司と共同演出をした作品も数多く、演出家としても幅広く活動する彼が、寺山修司のラジオドラマをコラージュ構成し、それを舞踏や詩劇や音楽劇にしたオムニバス作品として上演するのが、今回の夢(トポス)の国『シンクウカン』です。
幼年期、寺山に夢を与えたラジオの想像世界を劇場空間に持ち込み、観客とともにこの「小さな箱」の楽しみ方を、もう一度見つけようとするこの試みにご期待ください。

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舞台中央にラジオ番組収録ブースの櫓を設置。そこで寺山修司に関するリスナーからのハガキを読み進めるという流れを軸に、寺山のラジオドラマを実際にその収録スタジオで上演し、ラジオで流すという、見えない演劇上演を敢行しているという設定で劇が展開する。代表作「青ひげ公の城」の登場人物を配し、そのラジオ演劇が上演されていく。。。劇作のキャラクターがスタジオで言い争いを続ける傍らでは、それまでDJとしてマイクに向かっていた女が劇の登場人物となり青ひげ公の第七の妻を演じている。
音楽は生演奏、ダンスあり、、客いじりあり、大爆音あり、、などなど

う〜〜〜〜〜〜ん、
なんだかスタイルばかりを踏襲しているようで、、、寺山が挑んだ前衛、実験演劇の神髄を、もっと先を探るような試みを、引き継ぐならばそれをやって欲しい、、、ってそれも酷なお願いかも。

だったら、逆に寺山のリリックを珠玉の言葉を丁寧に紡いで、継承してほしい!って。それは他の人たちがやっているからいいのかな??

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2011年7月 2日 (土)

ゲヘナにて(7/1)

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三鷹市芸術文化センター、星のホールにて、毎年恒例の太宰治をモチーフにし演劇公演シリーズの一環として、松井周が太宰の短編小説「トカトントン」と「女神」をベースに書き下ろした新作「ゲヘナにて」ーこのタイトルの意味としては「地獄において」ということらしいーの初日を観る。

岸田国士戯曲賞を受賞したばかりの劇作家の新作ということもあり、前回の「自慢の息子」そして同時期に埼玉ゴールドシアターに書き下ろした作品「聖地」の好評を受け、心待ちにしていた演劇関係者、サンプルファンも多かったと見え、(ちなみに私はこの日のアフタートークのゲストが岩井秀人氏だということが、さらに大きなオマケ付きかも、と思いこの初日に観劇。で、結果、やはり二人のとても面白い話が聞けて観劇プラスの大きなオマケで大満足)、会場は満員御礼の入りだった。


太宰治の命日、「桜桃忌(6/19)」にあわせての公演ということで、太宰に関した内容ということを意識しながらー劇中にまさに太宰先生(もどき)も出てきますしー観劇していた人も多いとは思うが、そこからもう一歩、ネットでも読めるのでベースとなった短編2本をサラっと読んでから観に行くと、観劇中のいろいろな疑問がその予備知識によって解決出来て、さらに楽しめるかも。

別に予習なんて必要も無いのだが、、それこそ暑い中での観劇の集中度を高めるのに役立つ事は確かなのでお勧めする。

で、この二つの小説の書かれた太宰の世間に対する懐疑、自己を認識しそれを信じることへの畏敬の念といった思いが、まさに岸田賞を受賞した作家本人が今、思うところの意思表示のように聞こえてくる。

さらには、その個人的な感情からもっと大きな、太宰が体験した終戦と同じように国民意識を根幹から目覚めさせた、先日の震災を体験した日本人へ、この国の将来に関する舵取りについて警鐘を鳴らしているようにもとれた。

「トカトントン」という小説ではその音を聞いた途端に意気消沈してしまう、それまで夢中になっていたものに無気力になってしまう、という症状に悩まされた主人公がその悩みを著名な作家に手紙で相談するといった内容の話なのだが、ーちなみに劇中では、やはり喧々諤々と言いあっていた者同士が`ピンポンパンポン’というあの学校のチャイムの音が鳴った途端にスイッチが切れたように静止してしまい、そのやり取り自体も中断してしまう、といった形で表現されているー、これを「もっと冷静になれば全ての事がさほど大したものではないという事に気づかされる」といった、大人の対応を促した教訓のようにも読む事も出来ようが、どうも私にはその逆の警告ートカトントンと調子良く催眠をかけるその手にのるな、今一度目を見開いて地獄と思われようとわが道を行け、と鼓舞しているように思われる。
(その意味で、その紙一重の狂人(変人)たち、例えば自殺を繰り返した太宰治しかり、失恋の孤独を表現するために舞台上(舞台「牧神の午後」)でマスターベーションを行った天才ダンサー、ニジンスキーしかり、小説「女神」の主人公、狂ってしまった男しかり。。彼らを引き合いにだし、世の中には枠に納まりきれない人もいる、そしてそのはみだしがあるからこその社会なのだ、と言っているようだ)

前回の09年「通過」では三鷹市芸術文化センターをゴミ屋敷へと変貌させたサンプル(美術: 杉山至)だが、今回は劇場のハコを隅から隅まで全部活用し、音響室から劇場天井近くの通路までを使い、ある意味予想外で贅沢な劇場空間の使用を試みている。

太宰の話ということで、劇場中央に設置された土手状の傾斜のきつい舞台装置は太宰が入水自殺をした玉川上水の土手だと思いながら、そこで人々と会話する太宰先生(古館寛治)が生と死を行き来しながら、人のどうしようもない有様を語っている、と思いながら観ていたのだが、アフタートークで岩井氏が「瓦礫が打ち上げられた海岸線みたい」(東北被災地)と語っていたのを聞いて、そうか、と納得。

瓦礫の中で聞こえるトンテンカンに惑わされないように、種の連鎖を断ち切らないためにも、先人から様々なことを学びながら強い意志をもって前へ進んでいこう、という壮大な構想のお芝居だったように思う。

ーーーま、そこが主題にしても、このなんとも観念的な舞台を一歩も妥協せずに舞台に上げるところに松井氏の特異さが表れているーーーーー(岩井氏の観客ありき、そこ(受取手)を含めての劇作、と、ある程度そこは見切り発車の松井氏の劇作の違いについても当人同士が触れていて、そのあたりのトークも面白かった)


惜しむらくは、ちょっとした演出上の技術的な問題から、貴重な言葉(テキスト)が客席にはっきりと届いていない箇所があったこと。
無線連絡の部分は言葉が途切れることがあったので、もったいないと思った。
だって、テキスト、かなり深いので。。。。それが伝わらないともったいない。

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日月花(ひつきばな)(6/30)

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麿赤兒率いる舞踏カンパニー、大駱駝艦のスタジオ公演、今回は女性ダンサーのみの舞台となった「月日花」を観に行く。
高桑晶子、鉾久奈緒美の二人による共同振り付けで、作品内でもこの二人が中心となりまさにSun(高桑)&Moon(鉾久)とカラーの違った二人の特色を活かした舞台を展開している。

前回、振り付けの鉾久さんにインタビューをした際に"(暗黒舞踏をやっていますが)`美しいものが好き’”と告白していたのだが、、その言葉通り、いつものー特に男性陣が振り付けた舞台ー大駱駝艦のちょっと猥雑で、でもって茶目っ気のある笑いに溢れた舞台を予想して会場に駆け付けた人には、ちょっと『あれ??』と思わせるような、ソフィスティケイトされた美しい舞台だった。舞踏と言うよりは、現代舞踊(モダンダンス)寄り?。

終演後に他の観劇者からも感想が出ていたが、その内容にあわせた衣装がなんともかわいらしかったー得に花の精になった色とりどりの群舞パート。。。花弁をもぎりとっちゃうところ、花弁1枚1枚が大きくて、ちゃんと存在感があり、それが舞台に舞っているのが美しかったー。

存在感=ほどよい人間味のある肉感のある おしりもグーgood。女性らしさが出ていてなんだかとっても癒された。

普段、男女混合で踊っている時に、どちらかと言えば「男性主義カラー」の中での作品展開がメインであるーまあ、ボスが男性ですし、作品づくりも男性団員の手によるものが多いのでー場合が多いのだが、その際に女性ダンサーたちは`女性`というよりも一人の`人`としての自己を表現(そこにはもちろん女性であるという事も含まれるのだが)し、さらけ出しての舞台が多いように見受けられるのだが、今回は女の園ということで、かえって今まで置き去りにしてきた、とっても`女子らしい`部分が詰まっていたように思う。

だって女の子なんだから「カワイい」ものが好きで、だけど女同士だとちょっと気になるところもあって。。。だけど、それを男同士のようにあからさまに対抗心を燃やしたり、ちょっかいを出して笑ったりも出来ない。。。でも、女の友達はやっぱり大事。。。。なんて、少女漫画の世界?

これはこれでアリで、好きな人もいるだろうし、それこそわかんね〜〜〜〜!と思う観客もありなんだろうな〜〜。いずれにせよ、さらに広がる舞踏の表現という側面からは大歓迎!
一度、何かに固執してしまったら、そこからの発展がなかなかないから。

何と言っても、その何でもアリ、な自由さこそが彼らの目指すところの身体表現なのでしょうから。


余談:

お笑い界でも「とかく女性芸人は。。。」「だから女性芸人はふっきれない」というような、ちょっとネガティブなコメントを耳にすることがあるが、そのあたりが女性が何かを表現するときに結構ネックになったりする。
すっごく単純に言うと、男の下ネタはありだけど女の下ネタはいただけない。。。とか?

本文でも触れたように、基本、男女も同じ`ひと’であることに変わりはないのだけれど、やはり違うことにもそれなりに意義がある。
女だから出来ること、さらに男だからこそ伝えられる感情、、、なんて、そのあたりに繊細な人が、細やかな作品づくりが出来るんだろうな〜〜。


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