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2011年6月

2011年6月29日 (水)

血の婚礼(6/28)

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シアターコクーン改修工事の為、にしすがも創造舎の体育館(F/T公演のメイン会場としてお馴染みの劇場)へと場所を移してのシアターコクーン主催公演「血の婚礼」。

スペインを代表するリベラルな劇作家・詩人 フェデリコ・ガルシア・ロルカの代表作「血の婚礼」から着想を得、清水邦夫が1986年に盟友、演出家蜷川幸雄が始めた若手俳優・スタッフのためのカンパニーGekisha Ninagawa Studioのために書いたオリジナル戯曲。。。。(初演時は「Ninagawa少年少女鼓笛隊による血の婚礼」とされていたが、今はロルカの戯曲の翻訳タイトルとまったく同じため、ちょっと紛らわしい。。。かく言う私も当初はロルカの「血の婚礼」の上演だとばかり思い込んでいた。)

86年初演時には若手俳優達により、今はなき森下の小劇場、ベニサンピットスタジオで上演され、その後、93年には中劇場銀座セゾン劇場で西岡徳馬、寺島しのぶ、佐藤オリエなどなどのそうそうたる面々で再演、さらには99年に再度ベニサンピットへ戻り、その後の世代の若手たちにより上演されたという経緯のある作品で、今回が4回目の上演となる。

にしすがも創造舎の空間でやるなら、ぜひともこの作品、という演出家の強い要望により、場所は小劇場、キャストは名が通った役者たちによる豪華版、基本的な演出路線の流れはこれまでのものを踏襲して、という上演形式での公演となった。

ロルカの「血の婚礼」はこれまでに日本でも何回か上演されているので(08年の白井晃演出、森山未來主演によるダンス要素を取り入れ、ヴィジュアルイメージでスペインの風土を表現した舞台、そしてTPT(ベニサンピットをベースに翻訳劇を中心に活動していたカンパニーで、ベニサンピットがなくなった今も劇作にあった会場をセレクトして独自のハイアート路線を展開し続けている)による横浜のアートギャラリーを朝倉摂が見事にスペインの赤土の風土に変えてみせ、さらにはライブ音楽で緊張感を生み出した正統派の舞台(09年、10年と連続で上演)とここ数年でも何度か上演されている)、ストーリーをご存知の方も多いと思うが、裏に隠された社会・体制批判をぬきにあらすじだけ言うと、ーアンダルシアのある村で一人の母親思いの青年が長年の恋を実らせ、最愛の彼女との結婚式を迎えようとしていた。そんな晴れやかなお祝いの日にもかかわらず、母親は浮かない顔。。。なぜなら花嫁になる少女には忘れられない過去の男がいたから、そして母親の家とその男の家ー親戚なのだがーとは因縁の間柄であったからだ。婚礼の準備に活気づく家。平穏な幸せを目の前にして、やはりと言うか、運命なのか花嫁はその男と駆け落ちをしてしまう。。。それを知った花婿は二人を追い、そしてさらなる悲劇が起こるーといったもの。

で、今回の清水版は日本のどこかごちゃごちゃと家が立ち並ぶ一画の路地裏へと場所を移し、結婚式から2年後、花嫁をさらわれた男、ハルキ(丸山智己)が駆け落ちした男 北の兄(窪塚洋介)とその裏切った女 北の女(中嶋朋子)を追って、村の面々と連れ立って二人を捜しにくるというところからの劇にしている。

****劇場 HPよりあらすじ*****

夏。コインランドリーとビデオショップに囲まれ、点在する自動販売機が白々と灯りをともす路地裏。降りしきる雨の中を鼓笛隊が通り過ぎて行く―。

 壊れたトランシーバーで〝どこか〟と交信を続ける【トランシーバー少年/田島優成】は水溜りに倒れこんだ【北の兄/窪塚洋介】と出会い、奇妙な友情を結んでいく。【北の兄】は二年前に【北の女/中嶋朋子】を結婚式場から奪い故郷を捨て上京したのだが、今や二人の愛は冷めてしまっているようだ。コインランドリーの店先。煙草をふかしながら【姉さん/伊藤蘭】が路地の人々をみつめている。その傍らには、腐れ縁の【兄さん/高橋和也】の姿が。ユーモラスでありながら、どこか悲哀のある男女の会話が続く。自殺した妻の葬儀から抜け出してきた【喪服の男/青山達三】を心配して追いかけてくる教え子たち。その騒ぎに路地の住人たちが顔を出したその時、幻の警報が鳴り響き、幻の電車が通過していく・・・。呆然と佇む人々の前を、雨にうたれながら鼓笛隊が通り過ぎた―。兄想いの【北の弟/近藤公園】に引き連れられて、花嫁に逃げられた【ハルキ/丸山智己】や親族たちが訪ねてくる。かつて、親友だった【北の兄】と【ハルキ】。【姉さん】をはじめ、路地の住人たちを巻き込み、三人は再会を果たすのだった。降り続ける雨と突然の停電が、人々の内に潜む野生を目覚めさせ、そして―。

*********ネタばれ注意***********

体育館内に特設の「血の婚礼」用のステージ、舞台が底上げなのには大きな意味があって、なぜなら大量に降る水を貯めるプールが必要だから。ーーーと言うのも、上演中、ほとんどの間大量の水(雨)が舞台に降り注ぎ、その洪水のような雨のなか、音と水とに抗いながら役者たちは演技を続けることとなる。(ネット情報によると毎日流す水の量は10tだそう)

開演直前にスタッフにより舞台回りの黒幕が降ろされ、舞台狭しと陳列された自動販売機、中古テレビ、コインランドリーにある洗濯機、回りに架けられた電飾看板にスイッチが入ると、アンダルシアの赤土ならぬ、日本繁華街の裏路地の世界が現れる。

舞台と客席との間に張り巡らされていた舞台を横切る進入禁止テープも解禁され、血をも流す「ガチンコ」の衝突を描いたこの舞台が始まるのだ。


全共闘世代の、それこそ「血」とでも言えばよいのか、諦めずに「抗う」、何度も目に見えない巨大なパワーに打ちのめされながら、、、それでも正面から立ち向かう。時代が変わり、男女の仲にいくらかの変化が訪れても、人が旗を手に立ち上がるべきとにには立ち上がり、他人には些細な事と思われようと戦うべきときには戦うこと!今だからなのか、そんなメッセージが聞こえてきた。

窪塚洋介はただならぬ存在感、何と言ってもそこにいるだけで人の目を惹き付けるその独特な魅力は見事。。。惜しむらくは、時間がある時に舞台の朗唱法を習ってもらえれば、、、小さい劇場だったからそれほどは気にならなかったが、他の舞台俳優達と比べると、(雨の音もあるだけに)やはりそこは弱いーそれだけで、怖いものなしの役者になれると思う。

この芝居の最大の売りでもあるその雨に関してなのだが、以前、蜷川氏がイギリスのRSC役者を使い「リア王」を演出した際に、嵐のシーンで巨大な岩を天井からどんどん落とした演出に役者陣から「声が客席に届かなくなる」と文句が出たそうだが、、、ー後に蜷川氏自身が英国と日本の演劇の違いという話の際に何を重要視するかの違いに関してそのエピソードを話していたー、今回もその点に関してはちょっと気になるところではあった。

清水邦夫の台詞を浸透させるということを目的とするのか、、さらにはこのすでに若手ではないキャリアを積んだ役者たちに雨の援護射撃は必要だったのか、、、という点を考えた時、若干の疑問は残った。


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2011年6月28日 (火)

おどくみ(6/27)

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新国立劇場で青木豪による新作、宮田慶子演出の青木豪の半自伝芝居「おどくみ」初日を観る。


******あらすじ *********

時は1987年。横須賀のはずれ町にある商店街。そこにある総菜屋「はたなか」の厨房は、毎日、仕出し弁当や持ち帰り弁当の生産や惣菜作りに追われている。店を切り盛りするのは、畑中家の主人・幸広(小野武彦)ではなく、その妻・美枝(高橋恵子)と、パートで皇室マニアの主婦・酒田(根岸季衣)の二人。そこに畑中家の長男・剛(浅利陽介)と妹の長女・郁美(黒川芽以)、幸広の弟で、未だに実家を頼る二郎(谷川昭一郎)、同居する幸広の母・カツ(樋田慶子)ら、ひとくせもふたくせもある人々が絡む。
 幸広は美枝に言われるままに仕事をこなしてはいるが、何かにつけ店を出て行こうとする。弟の二郎は家庭がありながら甲斐性がなく、いつも畑中家に出入りしてはカツや幸広に金を借りていく。畑中家の大黒柱は嫁である美枝の双肩にかかっている。
 ある日、その畑中家の日常が少しずつ変化を見せる。長男・剛は一浪の末、学習院大学に入学し映画研究部の活動に没頭。ロケ中に足を折り、友人の長崎(東迎昂史郎)と石綿(下村マヒロ)に付き添われて帰宅する。政治家志望で乗りのいい長崎と、医者の息子で陰のある石綿。石綿は高等科のとき、写真部の先輩に礼宮さまがいて、東宮御所で夕食に招待されたことがあるという。
 ある日突然、葉山の御用邸から注文が入る。珍しく一丸となって仕事に精を出す畑中家。弁当を届け万々歳なはずだったのだが、思わぬ異変が起き、しだいに暗雲が立ちこめるのであった…。
*************************

実家が総菜屋で葉山の御用邸にお弁当を届けたこともある、という作者、青木によると(プログラムの座談会での話から)劇に出てくるエピソードの多く、3/4ぐらいは実話らしい。

作者が学習院出身ということで(ちなみに演出家も学習院出身とのこと)、キャンパスライフの日常の話題に出ていた天皇家に対する感覚をそのまま芝居に盛り込みたいという発想から、この老舗のお惣菜屋の「世代交代が起こりつつあるある家のファミリードラマ」&「現代日本における天皇家というポジション」という芝居が出来上がったらしい。

しかしながら、結果はどちらの観点からもその肝腎な心臓部分には近寄らず、の何だかうわべだけをかすめた空回りな行儀の良いコメディに終わってしまった感があり。残念。。。いくらそれぞれ観客にその判断は任せるとしても、まずは命題ありきなわけで、、問いがなくては話が始まらないといったところか。

学友にも天皇家と何らかの関わりのある者がいたりして、という環境で、好むと好まざるとによらず、天皇家を意識している主人公の家族=作者の家族。天皇家に関する誰もが一度は口にしそうな世間話程度のジョークなどをおりまぜ、、劇作しているのだが、そこには当たり障りのない、なんとも毒も華もない軽口だけが浮遊するばかり。ー例えば、劇中に皇室マニアのキャラクターが登場しているのだが、それに対してもその人の熱狂ぶりが上っ面ばかりで描写されているだけで、その後に実際社会では起こっていてもおかしくない、回りの人々との衝突、意見のやりとりなどは一切描かれていない。

もしも、作者が天皇家に関する国民の関心度は今やこれほど、、というその「国民の皇室に関する薄味感」を表現したいのであれば、それも一つの意見として取り上げられるのに十二分に意味があるのであろうが、そこまでも突き詰めていないので、単にそこここのパ-ティー会場でのちょっとした笑い話をノスタルジーを織り交ぜながら聞かされているという印象は拭えない。
ーーーーもしも、この軽口をアナーキーというならば、、、この国の演劇における影響もそれほどのものということかーーーー


芝居のラスト近くで、主人公がなぜにこれほどまでに天皇制にこだわるのか、天皇の話と庶民の日常についての関係性について語る部分、ある意味クライマックスのシーンがあるのだが、この語りの部分が残念なことに意味不明。強い意味づけを成していない。

ーその台詞によると、結局のところ、人々がいくら死を語ろうとしたところで、それを経験した人はいないわけで、それと同じように天皇のことをとやかく語ろうとしても、誰もご本人=国の象徴である天皇という立場になったことがないので、分らない、、そして人は解釈できないものが好きだ、というのである。好きだ、で終わられても。。。ね〜〜〜。

ここで語られることの矛盾が少なくとも二つあるのだが、
まずは「誰も天皇の気持ち、本心は分らない」という言い訳、、、そんな事を言い出したら、例えば隣でゲーゲー、ゲロを吐いているおっさんの気持ちも誰もその本当のところは分らない訳で、、さらに言えば、個人的には天皇の気持ちよりも、その苦しげにすまなそうに吐いてしまっているそのおっさんの心の中の方がよっぽど興味があるわけで、、、でもって、そのような「わからなさ」を問いかけるのが芝居だと思う。

でもって、もう一つ、そもそも天皇というポジションの方は下々の者とは別の立場=次元で語られるべきで、だからこそ`象徴’なんて判りにくい立場を与えられているのであって、公共・観客へ問うべき天皇のポイントはそこに焦点をあてるべき。
天皇という一人の人について、話すことは別になく、それよりも、その天皇という象徴である人に関しての議論を展開すべき。
ーーー余談となるが、この劇ではそもそも日本に「天皇ありき」の立場をとっているようだが、その前に近代社会、民主主義におけるリスペクトという面からも、天皇制に関しても、定期的に国民の民意の確認がとられるべきであると思う。天皇制反対という単純なことを言いたいわけでは決してなく、それよりもわれわれが天皇制維持を指示するという確証を得るためにも、つねにその点に関しては国民規模のリサーチ、必要とあれば投票がなされなければその強度は弱まるばかりだと思う。だって知らなかったから。。。という原発関連の言い訳を今後繰り返さない、その失敗を教訓として、その確認はわれわれの責任の下で行われなければならないと感じる。ーーーー

社会のはみだしものの次男のエピソードにしても、一人奮闘する嫁のエピソードにしても、これから社会からはみだす主人公のエピソードにしても、それぞれがもっと広がりそうなところで、どうも最終的にどれに対しても言及を避けているようなところが感じられる。どこかにもう少し強度と誇張を与えてもよかったかも。

面白いファミリードラマだったらテレビでも十分観れるので。でもって、毒もない華もないファミリーテレビドラマ自体がいち早く既に衰退しているので。。

役者陣はそれぞれに奮闘していた、特にいかにも家族のはみだしものでいやったらしい次男を演じた谷川昭一郎、リアリズムが板についたこまったおばあちゃん役のベテラン樋田慶子ら、しかしながら”あまりにも美しすぎる”お惣菜屋さんの女将さん=高橋恵子というのも、なんと評価したら良いのか。。。演技がどうとかでは決してなくて、やっぱりキャラがあるよね〜〜〜。美しすぎるのも罪なのか。。。決して悪いわけではないのだが。。。。

ま、それにしても新国立劇場の大きな役割の一つとしても、若い劇作家の積極的な起用は必要不可欠なので、これからもこのような企画はどんどん進めてもらいたいとだけは言い残しておきたい。


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2011年6月27日 (月)

マゴビキ(6/25)マチネ

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ショートレビューが掲載されているので、どうぞ↓

クロスレビュー(田中伸子)

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2011年6月25日 (土)

芸劇eyes番外編 「20年安泰」(6/24)

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水天宮ピットの特設会場(もと学校の体育館)で若手5劇団によるオムニバスー25分間ずつ割当ー公演、芸劇eyes番外編「20年安泰」を観る。

この「20年安泰」というサブタイトル、今回の番外編プロデューサーの演劇ライター、徳永さん自身がブログで書きとめているところによると、芸劇eyes番外編 としての公演をプロデュースしていたところ、このサブタイトルが思わぬ形で一人歩きを始めたということだった。

徳永京子さんブログ6/24付け

ま、舞台のPR物ーチラシ、事前告知、様々なPR告知ーが抱える宿命的ジレンマとして、まあ全てのPR戦略にあてはまるのであろうが。。キャッチーな、人目を惹くコピーが前売りチケット販売に大きな影響を与えるわけで、その延長線上にちょっと誤解を招くようなセクシーな表現(人の興味を集める表現と言う意味)が出てきてしまうのもわかる気はするが、、、言葉を、特に印刷された言葉に重きを置くライターとしての彼女が、その一人歩きした、彼女が意図したものからは少し遠くを先走ってしまったそのタイトルに違和感を持ち続けたというのも、分る気がする。ーだって、20年安泰って、そんなこと大風呂敷のハッタリであることは一目瞭然で、さらにはそんなに停滞してもらったら演劇そのものの長所にかえって不安を覚えてしまうことになることが分りきっているだけに、そのままなかったことには出来なかったのでしょう。

と、まあ、サブタイトルに関したサブなトピックスはこのへんにして、、、肝腎の公演に関して。

まず、今回の5劇団だが; ロロ、範中遊泳、ジェン社、バナナ学園純情乙女組、マープとジプシー(上演順)の5組。

この中で以前に本公演を観た事があるのはロロとマープとジプシーのみで、あとの三劇団は初見。

ま、オムニバス形式公演ということで、時間にもまた舞台装置&美術にもかなりの制約があるー作品と作品の間に休憩が入るわけではないので、基本的に裸舞台に近い装置をどのように利用するかがかない大きな要素となってくるー中で、新作とは言え、ショーケースの色が濃い今回の公演。
結果的に、いかに観客の興味を25分ひっぱったか、で結果の印象が違ったように思う。

そんな中、ダントツで観客の目を釘付けにしていたのがバナナ学園純情乙女組による「バナ学eyes★芸劇大大大大大作戦」。公演直前には「席に用意されていたカッパとビニール袋で濡れることに備えて!」との注意告知がされた時点から、すでにワクワク感をくすぐられ、開幕の合図とともになだれ込んでくるパフォーマーたちの勢いと騒々しさに圧倒されっぱなしで25分が経過。最後、終了のカウントダウンを聞きながらびしょぬれになった小道具たちをさっさと撤収して去っていく彼らを見送るまで、まさに怒濤のようなパフォーマンス観劇体験で、このうるささと危なさ(物が飛んできたり、人がなだれてきたりするのでボヤボヤしていられない)の中で、ステージに集中していない、ましてや船を漕いでいる観客なんていたりしたら、もう逆にその人は表彰もの、もしくはお体の調子を心配してしまう、というもの。

若手の劇団が集まったステージということで、一体今の若者らが何を見せてくれるのやら?という期待に十分に応え、さらには観客の心を鷲掴みにしたのがこの団体だった。

普段、観れないものを垣間みることが出来たという点で、かなりにお得感のある観劇体験だったのだが、はてさて、その後一人で本公演に足を運ぶかな〜〜〜〜、というのはそれでまたちょっとハードルが高そう。
彼らと同年代の観客、さらには出演者のお友達サークルなんかはウキウキと通うんだろうな〜〜〜とは思うのですが。(ファイファイの仲間内での盛り上がり感に似ている)
ま、そんな刺激的なイベントを通して、若い世代がコチラ側(演劇界)に関わってくれるのは大いに嬉しいことであるので、大歓迎なのですが。
ま、演劇公演の基本でもある、観客との距離感も、その過激な内容にしては、上手くとっていたように思う。


ま、そんな「驚き感、新しいものという発見感」という点で、特設会場を有効に使った範中遊泳ー>体育館裏の校庭を上手く利用、ジェン社ー>体育館の特徴的な構造、2階部分を使い劇に広がりをもたせた、の2カンパニーもなかなかに検討。

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余談:公演後に日替わりでポストパフォーマンストークがあって、初日のこの回ではケラリーノ・サンドロヴィッチ氏が壇上に上がり盛り上がったようなのだが、残念ながら友人と終演後に会う約束をしていてそちらには参加出来ず。

で、水天宮の劇場近くにいた友人と合流し、近くのカウンターバーに行ったのだが、まあ、金曜日の夜ではあったのだが、その店が大繁盛、超満員だったのに、びっくり!!!
昔ながらの、銀座あたりにありそうなカウンターバーでお酒のボトルが壁の棚に並んでいたのだが、バーカウンターの中のバーテンダーさんたちも無駄話せず、とてもプロフェッショナル。
こんな気持ちよくお酒を飲めるところ、食べ物は二の次のところ、、、なかなかありそうでない。。だから流行っていたんだろうな〜〜〜〜。

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2011年6月24日 (金)

ペノザネオッタ(6/23)

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田村孝裕率いる ONEOR8の「ペノザネオッタ」を赤坂RED/THEATERで観る。

脚本を書いている田村氏のプロフィールを思わず調べてしまったのだが、ファミコンブームって80年代中盤から始まって、今日現在、衰えを知らず続いているんだわね〜〜〜〜。なので、もうブームとは言わず、子どもの日常にはなくてはならないものに定着しているってことですね。

ーこの時代背景から76年生まれの田村氏が劇中にあるように友達達とゲームに興じていたのが、彼が小学校の時ということになるわけだ。。。そう言えば、私の年代だと、その前のインベーダーゲームを体感しているから、もっと古いわけだ。。。ーいずれにせよ、一生涯で数えられるくらいしかゲームというものをやったことがない私ー確かに弟は夢中でテレビゲームをやっていたがーには、一般知識の豆粒の大きさぐらいのゲーム知識しかないのですが。


で、病弱なもの言わぬ主人公(矢部太郎)を中心に据えて、回りにいる人々達、今は30代半ばとなり人生の折り返し地点が見え始めたかのような不惑前の人々の日々の人生を、子ども時代の視線と今の大人になってからの視線とを交互に絡めながら描いている。

ドラマの中心となるのが、その主人公の若すぎる死を悼んで、久しぶりに通夜へ集まった幼なじみたちのやりとり。
小さいころにはわからなかった、気づかなかった人の気持ちも、成長した今では少しばかりは想像し、思いやることが出来るようになったかと思えば、大人ならではのグダグダした問題も見え隠れする。

ーそんな悟りきれない大人達=人間達を一足先に先立った主人公が観察しているといったシーンも出てくる。


本当に観ている人たちの誰でもが思い当たるような、どこにでもある友人関係、そして姉妹の関係とちょっとねじれた親子関係、、、そんな特別なヒーローはいない、思いがけないドラマが起こるわけでもない、ましてや3.11震災の問題提議などとは全く関係ない、普通の日々を描いた芝居なのだが、逆にその普遍性が「ジャストの今」をきちんと捉え、描いているともとれる。

われわれの何気ない日常を検証することにより、今起きていることがさらにはっきりと見えてくるし、その検証をある程度のスパンを通して、ちょっと前の過去と今を比較して見せてくれていることにより、この国の検証を連続的な視線で見ることも可能にしてくれている。

なんだか、こんな芝居を観た後は、芝居に関わっている事が、とてつもなく幸せで誇らしいことだと思えてくる。
まあ、こんなに幸せな仕事環境もめったにないかな。。。。と。
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余談:先日、神奈川で観たダンスではゲームの社会への影響をある一方向から、一つの可能性として提案していたが、今回の芝居ではまた違った面でのゲームによる影響の形を見せてくれていたー想像力を膨らませ、友人とその力を持ち寄りあいあるゴールへむかって集中してその解決へ取り組む。ゲームも上手く使えば、素晴らしい教育ツールとなる。

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未だ定まらず(6/23)マチネ

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五反田団率いる前田司郎が老舗劇団ながらに常に新しい方向性を模索し続け、バラエティーに富んだプログラミングで定評のある演劇集団円と初めてタッグを組んだ本作。

タイトルからも嗅ぎ分けられるように前田節炸裂(何しろ前作が「俺のお尻から優しい音楽」で前々作が「迷子になるわ」岸田国士賞受賞作品が「生きてるものはいないのか」ですから)のシュールな不条理でありながらけっこうストレートに包み隠さず言いたいことを述べている今作。ーその世界では伝説となっているSMの女王様で、かつてはシャルルと呼ばれていた妻を亡くした初老の男。彼女を敬うばかりに、彼女の死後、亡き妻と同化すべく女装をしながら彼女の思い出に浸り暮らしている。そんな彼に、やはり亡き女王様の面影を重ね、忠誠を誓うべく家庭を捨てて彼に仕える中年サラリーマン。そんな二人の真摯な思い=ラブも回りの人々には理解してもらう事は到底難しく、サラリーマンは家族に呆れられ、初老の男も彼の突然の性転換キャラを日々説明しなくてはならない事態に陥っている。そんな中、同じ方向を向いていると信じていた、サラリーマンと男(主人)の間にも、些細なすれ違いからちょっとした亀裂が生まれる。ー

配布されたプログラム冒頭には「円の芝居と五反田団の芝居は違う。。。僕は円の芝居は見たことが無かったが、ここまで違うとは思わなかった。。。今はまだ稽古の途中で、その違いが悪い方向に向いている。。。」と観る前にこの文章を読んだ観客はちょっと不安になるような挨拶文が載っているのだが、その後好転へと向かったのか、それとも前田氏自身は最後まで100%納得はいかなかったのかもしれないが、観ている側としては、十分に成功と言えるコラボレーションではなかっただろうか、と思う。

リアリズムを備えた役者陣が話す、そして演じる不条理にはやはりそれなりの説得力があるし、なんと言っても円が誇る豊富な人材からキャスティング出来たその功績は大きいと思う。

まだ幕が開けてから2回目のステージだったので、これからもっとどんどん変化もするであろうし、翻がしっかりしているので、そのメッセージはしっかりと客席へ届いていくと思う。

以外な組み合わせによる化学反応。しっかり表れていました。


ちなみに「未だ定まらず」な人々が沢山でてくるのだが、定まらなさも不確定だし、そこを行ったり来たりするその根拠も不確か、、、ながらそれぞれ個人的には根にあるものが定まっていて、所詮、判ったようでいても判らないことだらけという、その真理が気持ちよいほど堂々と語られている芝居。

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Jailbreak Mind(6/22)

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神奈川芸術劇場大スタジオで、フランスダンスイヤー2011(ダンスイヤーと題して1月から日本各地でフレンチ文化系のダンスが上演されているものの一つ。前衛的な3作品が6月中に神奈川で上演されている)の1プログラム、かつてLaLaLa Human Steps、ピナ・バウシュ・ブッパタール舞踏団にも属していたフランス人ダンサー、今はフリーで活動するファビアン・プリヴィル(Fabien Prioville)のソロダンスプログラム「Jailbreak Mind」を観る。

プログラムによると、タイトルJailbreak Mind とはPCデータに不法にアクセス出来るコンピューターソフトのことらしい。

08年、秋葉原で起きた通り魔による無差別殺傷事件に感化されたファビアンが、この事件のもとにあるもの、犯人の心理状態を舞台化すべく創作した作品だという。

アフタートークで"自らもかなりゲームにはまっていて、そんなある日、その先にあるものについて考えてみた”と語っているように、ゲーム依存が引き起こすかもしれない、人が容易に陥り易いリアルとバーチャルとの間の感覚の麻痺を視覚を通して訴えかけている。

舞台背面全体に設置されたスクリーンがスイッチオンの状態になると、全面に見事な完成度の仮想都市のCG画像が映し出される。サイレンがけたたましく鳴り響くその大都会の空撮映像ではヘリコプターから一人の男が投げ出され、コンクリート地面に激突、血を流している。ここからがゲーム=作品の始まりだ。

ニートなスーツに身を固めたファビアンが舞台・背面に映し出されたグラフィック画面の中で長い手足を柔軟に自在に操りながら踊り続ける。

そんな中、背景は人気ゲームの一つである戦場での殺傷ゲームへと切り替わる。
ファビアンの分身とも見える、マッチョな殺し屋が次々と容赦なく、高得点を上げるべく殺戮を繰り返している。大画面での肉血飛び散る殺傷シーンはなかなかの迫力だ。

さらに進むと、今度は頭を白いTシャツですっぽりと隠したファビアンが机を取り出し、その上で人形のパーツ、肌色の人の部位のパーツを組み合わせ始める。。。しばらくして業を煮やし、人体パーツをばらまくファビアン。

最後のシーンでは、アイボ(犬型ロボット)と遊び、心を通わせる男、ファビアンがいる。


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血みどろの殺戮に興じる彼も血の通わない犬に癒される彼も同じ人物。

精巧に出来たCGの世界にはまり込み、その世界に浸っていく男の姿が、ゲームだけでなく、様々な何かに徐徐に捕われていく、われわれ人間の、弱い一人の人間の心理描写を見事に表現している。


アフタートークで今後のプランとして、「観客がスマートフォンを片手にそのツールを介して舞台に参加出来るような作品を作ってみたい。」と語っていたのが印象的だった。

フランスといいドイツといい、、なんだかなんでもありで、フリーな匂いがする。パン・パパパパーン!!

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Ghosts(幽霊たち)(6/22)マチネ

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パルコ劇場で白井晃が現代米国文学の騎手ポール・オースターの小説を舞台化した作品「Ghosts (幽霊たち)」を観る。

自ら作家のファンであることを公言しているだけあり、さらにはその熱意から既に同作家の小説2作(「ムーン・パレス」(01年新国立劇場)「偶然の音楽」(05年&08年世田谷パブリックシアター))を舞台化し、それぞれに高評価を得ているだけあって、やはり演出家白井と作家との相性がとても良いのであろう。
今回も原作者オースターの世界を見事なまでに芝居化し、濃密で完成度の高い、大人が楽しめるいかにもパルコ劇場向きの舞台を完成させていた。

作家の初期代表作として知られている今作('86)。

**** あらすじ Wikipedia より ******

1947年、ニューヨーク。 ある日、私立探偵・ブルーは、ホワイトという男から必要がなくなるまでブラックという男を監視し次の指示があるまで週1回報告書を自分に送り続けるよう依頼される。そこで、ブルーは、ホワイトが借りたブラック宅の真向かいにあるアパートの一室に住み込み、双眼鏡で監視を始めるが、ブラックは読書をしたり書き物をしたりするだけで事件らしい事件は起こらない。ホワイトの指示も一向に来ない。婚約者・オレンジにもずっと連絡できないまま、何も起こらない時間ばかりが過ぎてゆく。
やがて、ブラックの監視を始めて1年が過ぎた頃、ブルーは「ブラックの正体は実はホワイトで、見張られているのはむしろ自分なのではないか」という疑念を抱き始める。 そんなブルーは遂に決心し、ブラックの部屋に潜り込む。そして、そこでブルーが発見した物とは……。

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ブルー(佐々木蔵之介)とブラック(奥田瑛二→依頼者であるホワイト役も兼任)、見張られる側と見張る側。ブルーがある日何気なくうけた仕事により関わることとなった男ブラックとの関わりはそれまでの仕事上の対象者と同じように、一過性のビジネスライクな対象物でしかないはずだったのだが、、、、従来の探偵としての対象物よりもさらに遠いところに存在するように思えた、何も起こさない、何も起こらない対象者のブラック。。。何も起こらないまま月日が流れ、ブルーはその探偵行為そのものに対し疑問を抱き始める。

自己と他者との境界、偶然と現実の関係、さらに一瞬と永遠の時間の能密度、、様々な既成の尺度が劇の中では混じりあっていく。
とてつもなく退屈でシンプルな仕事の依頼から全てが始まるこの話が、時間が進むにつれて引き返すことの出来ない迷宮へとはまり込んでいき、やがては人生の進路をも決定づけていくほどの影響力を持ち、彼の人生を支配するようになる、、もしかしたら、人の人生なんて、そんな気にもかけない偶然、気づかずにふってしまっ骰子の目から形成されてしまうものなのかもしれない。

"偶然はリアリティの一部です。私達は常に偶然の力によって形づくられている。"/ ポール・オースター


**********************


今回、そんな不可思議なオースターワールドを構築するのに、大きな役割を果たしていたのが、役者の動き
をつけた小野寺修二の仕事だ。

このところ、本職のダンスの振り付けの他に舞台の振り付けーつい先日観たNylon100℃の「黒い十人の女」では大人数のキャストを効率良く、また効果的に振り分け青山円形劇場の360℃客席に囲まれたスペースを最大限に活かした動きを割り付け、前年の秀作舞台「叔母との旅」では、世界を又にかけたスケールの大きな話をやはり青山円形劇場の限られた小スペース上で見事に表現し、神奈川芸術劇場のこけら落とし公演「金閣寺」では三島の小説の記述をイメージとして伝えることに成功していたーでの活躍が目覚ましい小野寺だが、今回の舞台でも、その海外戯曲=NYの雰囲気、ミステリアスな筋書き、一方で作者が意図する緻密に計算された世界を役者たちが繰り広げる、振り付けされた歩行、動き、舞台上でのそれぞれの配置により完璧なほどにその世界を構築していた。

役者陣もそれぞれに素晴らしく、特に主役の二人、佐々木蔵之介の上手さと奥田瑛二の存在感がこの舞台の成功を支えていた事は疑いようは無い。

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2011年6月22日 (水)

七つのおいのり(6/21)

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ハイバイ特殊公演「七つのおいのり」を五反田のアトリエヘリコプターへ観に行く。

ハイバイ&岩井ファンの友人と申し合わせ、何は無くとも「ハイバイ」さ、と駆け付けるのがお決まり事になりつつある。

何百人収容の劇場には似つかわしくない(双方向から)、小劇場ならではの魅力に溢れた劇団で、その芝居=ライブパフォーマンス、そして プラスアルファー ハイバイならではのさらなるライブ感→岩井氏による前説から始まり絶妙なまでにオープンな場を作り出すアフターなんとか(アフタートーク 注:昨晩はプレビュー公演にてなし)まで、その場にいた人しか味わえない観劇体験が出来るのがこの劇団付きのファンが多い理由。。。かく言うわれわれもそんなファンの一員。

今回は特殊公演と名打ったイレギュラー公演で、通常は主宰の岩井秀人が作・演出を担当するところをハイバイ劇団員7人がそれぞれに作・演出をしたショート作品のオムニバスとなっている。

しかしながら、作品クレジットに作・演出・出演 ハイバイ全員あるように、おそらくはそれぞれが持ち寄ったアイディアを全員で吟味・推考し、やってみて、、7つの作品どれもがみんなで作ったものであるのだろうと、想像出来る。

ストーリーに関しては、これから観る人たちのお楽しみのためにここでは明かさないが、笑えます!かなりお腹の底から笑えます!!!

でもって、なんだか人が愛おしくなります。。

世代を越えて、立場を越えて、、

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2011年6月21日 (火)

太平洋序曲(6/20)

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宮本亜門 独占インタビュー

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MITSUKO(6/20)マチネ

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淋しいのはお前だけじゃない(6/17)

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蓬莱竜太インタビュー

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2011年6月19日 (日)

天守物語(6/18)

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Why Why Why (6/18)マチネ

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2011年6月17日 (金)

アトムへの伝言(6/16)

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推進派(6/16)マチネ

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下北沢スズナリで燐光群・坂手洋二の新作、鳩山政権時代(2010年春)に県外移設の切り札として浮上した徳之島への米軍基移設問題を扱った「推進派」を観る。

予定していた初日が延期になり(戯曲内容の軌道修正、それにともなった作品制作の遅れと主要役者の降板によりやむなく、というのがオフィシャルに伝えられた理由)、同劇団としては珍しい事例なので、半信半疑で劇場へと向かったのだが、そんな不安を吹き飛ばすような、久々に骨太で中味がつまった、それでいて鋭い切り口の良い芝居だった。

*********ネタばれ注意********

まず、驚かされるのが、劇場へ着くといつもの劇場への入り口、2階への鉄階段が閉鎖されていること。
劇団員に誘導されて裏ー舞台側ーからの入場となるのだが、劇場内の配置を変えているのかな?ー燐光群は吉祥寺シアターでの上演の際にこの手の大幅な舞台と客席の配置替えを行って、功を奏していたーと思いながら入場すると、目の前にはいつも通りの客席が、、いつもと違うことと言えば、観客に課せられた”観劇”という行動に関してのちょっとした問いかけで、一人一人が舞台を通って自分の席に着くという行程。。観客一人一人が舞台装置もほとんどない裸舞台を通って、一度舞台に上がってから、観る側に辿り着くという趣向。 ーーー観劇後にこの舞台に上がる=舞台上に自らが関わる体験は大きな意味を持ってくる。つまり、遠く離れた南の島の話でも単なる傍観者でいることはゆるされないほどに、我々の生活に直接関わる、この国の根本的な問題点がそこにはあるということをあらためて思い出させるという演出がなされている。

劇は幸之島(サチノ島)という架空の名称の島を舞台に展開されるーご丁寧にその島の地図が配布されたパンフレットに載っているーのだが、それが現実社会の徳之島であることは劇を観れば一目瞭然。

話を進める、様々な劇中エピソードに関しても、そのほとんどは事実に基づいているのだろうということ問うまでもない。

つまりは、作者が実際に徳之島へ飛び、取材で得た声、事実発見などがもとになっているということなので徳之島で起きた基地誘致に関する推進派と反対派の対立しかり、沖縄基地問題しかり、核燃料廃棄の候補地に立候補して六ヶ所村と争い破れたという歴史しかり、それらは全てドキュメンタリーであるわけなのだが、それでは、今作のどこが燐光群のオリジナルなのか、作者の創作部分なのか、さらにはぎりぎりまで「今」をこの劇に反映することにこだわったというのはどこあたりなのか。。。というと、この基地誘致の話のレポーターたちが福島原発の事故により生活の場所を追われた避難民たちだという設定を加えたところにある。ー

劇は、彼ら、原発避難者たちが、島からの避難・移住の勧誘によりサチノ島に着いて、そこで島の現状-基地誘致により島の財源が潤うことにより前へすすもうとする推進派と、将来を見据えて基地は絶対反対という反対派との対立-を目の当たりにする、という、ちょとだけ先の未来フィクションの場面から始まり、演劇でかなうところの啓示として、この国の行く末を、今度は「不測の出来事」で終わらせないために呈示する。

彼ら=県外に住む我々が始めて聞く、沖縄=現場での米軍基地問題の詳細により、そもそもの問題点が次々と提議されるわけだが、この芝居の優れた点、今 この芝居を観るべき、という理由としては、過去の事例を丁寧に検証しながら同時に、今、日本国民につきつけられている直近の質問-原発問題に国としてどのように対処していくべきなのか?という問題定義がはっきりと劇中でなされているという点が大きい。

この二つの国家規模の決断にどう関わるべきか、今の事象とちょっと前の経過を同時に見比べることで、その両方に共通する、そして根幹の問題が見えてくるという仕組みだ。

「確証もないまま楽観的判断基準から判断した後に、悲劇を憂うのではなく、その理由が明らかでない場合は自らで確かめるしかない」という呼びかけが、民主党政権の度重なる軌道修正、鳩山政権の安易な目論見によるどうにも立ち行かない基地問題、そして、これから国民一人一人に決断が迫られている、ある意味さらに深刻な原発問題、とを同時に舞台にのせることにより、より分り易く、ダイレクトな問いかけとして観客にせまってくる。

この劇の中では珍しい、明らかなフィクションの部分「このままだと将来原発処理をする人々は徴兵制度によって中年男子がアトランドダムに集められるようになる」という台詞も、ある小さな島にふりかかったさまざまな出来事、それまでの国家ぐるみの策略が丁寧に語られていくことにより、そのフィクションの成果が倍増する結果となっている。

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2011年6月15日 (水)

ヴェニスの商人(6/14)

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久々の劇団四季。
ミュージカルではなくてストレートプレイ上演劇場、自由劇場で平幹二朗主演、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」を観る。

*まずは芝居とは関係ないことなのだが、この劇場の使い勝手の良さについて。。

臨海地区の開発に伴ってなのか、以前よりも劇場周辺の飲食店が充実してきたな〜〜と感じながら劇場へ到着(人の気分とは身勝手なもので、もちろん駅から劇場までの道のりは以前と変わらないのだが、道すがらが華やかになった分だけ、距離までもが短く感じられた)。
ネットで予約したチケットを受け取りー事前にコンビニとかで受け取るよりもこの現地での受け渡しは確実でgood嬉しいサービス、専用劇場なのでスペースがあるので、このチケット受け渡しもスムーズー中へ。私にしては珍しい事にちょっと時間があったので2時間超え芝居に備えてご不浄へ。。
で、いつもながら、このシステムは良いな、と思うのだが、トイレの入り口、出口が人の流れにそって設計されていてスムーズに効率良く使用出来る。
で、予約した2階席。中間ぐらいの位置ながらこれがまたすこぶる見やすい。
小振りな劇場(通年ミュージカルを上演している方の劇場はどんなだったか、良く覚えていないが)に一歩足を踏み入れ、席につくとしっかりとステージに集中出来るように設計されている事がよく実感出来る。
その形状からロンドンの劇場を思い出した。

と、さすがな集客の為の企業努力、と感心。また来たくなる劇場という意味では、「劇団四季」戦略はお手本にすべき、だと思うー得に、今あちらこちらで行われている劇場改修工事などの際には、こんな成功例をお手本にして、どんどん取り入れるべきだと思う。ただ単に数十年前と同じように修繕しても、、せっかくの機会がもったいないので。

で、肝腎のお芝居の方だが、、、

平幹二朗のシャイロックはいろいろなところで書かれているように、一見の価値大。まず、日本でシェイクすピア芝居の役者を観たい、という人には「それでは、これを!」と勧めたくなるような安定感と存在感。一挙手一投足、一言一言が、、、見逃せまい!と思わせる魅力に溢れいてる。
でもって、劇場にフィットした、シンプルながら必要なものはそこに全てある、舞台セットも秀逸(金森馨・土屋茂昭装置)。運河都市ヴェニスの狭い中で高低差をつけて街を機能的に活用するという、そんな土地柄も実際に場面の中心となる広場とそこへつながる小径と段差をつけて、見事に表現。舞台わきを単なる出入り箇所にするだけでなく、その先へと続く街並みまでもを想像させるようなセットが出来上がっていた。

と、ここまで、主役も良し、セットも必見の出来、でもって劇場システムも快適、、ときているのだが、、う〜〜〜〜〜〜む、しかしながら、最終的には今日の「ヴェニスの商人」上演としては、いかがなモノか??という結論に達してしまうのだ。

全てに完璧を目指す劇団だから、それ故の??クエッションマークなのか?
まず、他の劇団俳優達のあまりにもあからさまな朗唱術が、確実に劇自体の魅力を、スキャンダラスな人種差別発言が多発する裁判もの、というその勢いを削いでしまっている。
平演じるシャイロックのそれに足並みを併せたのか、主役色に染まってしまったのか、、、それとも、もともとこの劇団の役者たちの癖なのか、、はっきりと台詞は聞こえるのだが、言葉だけが宙に浮いた、朗読劇のような演技になってしまっていたのが、とても残念。
ー足並みをあわせたのだとしても、シャイロックの言葉にはリアリティーがあるが、回りの人々の台詞は実態が伴っていないー
古めの言い回しの福田恆存訳を使用しているという事もあって、ただでさえ現代人の身体には馴染みづらいのに、シンプルな台詞、例えば「気にするな」「さようなら」なんて会話でさえ、他人事みたいなのは、何故???
シェイクスピア劇の朗唱術よりも何よりも、目の前のお芝居、それを面白く・魅力的にみせることの方が重要だと思うのだが。

あと、芝居の解釈、今「ヴェニスの商人」をどう見せるか?という問いにも関連してくる部分だが、このいかにも前近代的なマジョリティー勢力のキリスト教vs異端のユダヤ人、それによる人種偏見と弱者いじめ、という構図が前面に、そして全面に出ているのも????と思われるところ。

数年前、ホリプロ制作で上演されたイギリス人演出家グレゴリー・ドーランによる「ヴェニスの商人」。その際に演出家へインタビューをした時に、とても面白い解釈をしていたので、その記事からちょっと抜粋してみたい。

Doran was also influenced by Ichimura's desire to play Shylock — and by curiosity as to how "The Merchant of Venice" would be received, not only with regard to its alleged anti-Semitism (Doran claims the play has been "hijacked by history" following the Holocaust), but also its discrimination against lower classes, women and gays.ys.

ドーランは主役の市村のこの役に対する思い入れに大いに動かされ、そして、いわゆる巷で通例となっている反ユダヤ主義の芝居という見方だけではなく、今回の舞台がどのように受けとめられるのか、にとても興味があるという。(ドーランはこの芝居がいかにホロコーストという史実に翻弄されてきたか、彼はこの芝居にある差別の対象はユダヤ人に対してだけではなく、低階級者、女性、そして同性愛者にも向けられていると言う。)

Doran, who is openly gay, is especially interested to address what some scholars have interpreted to be the homosexual relationship between Antonio and Bassanio — which he says is quite clear in Shakespeare's text "but was lost when Victorian burglars cut all the Bard's rude parts."
(自らがゲイであることを早くから公表しているドーランはこれまでにも何人かの研究者が指摘しているアントーニオとバサーニオの同性愛関係にとても興味があると言う。ードーラン曰く、それは戯曲を読めば明らかなのだが、ヴィクトリア時代の盗人たち(権威を重んじる学者たち)がシェイクスピアの下世話な記述部分を取り除いてしまったのだと言う。)

***さらに面白い意見が出てくる、このインタビューの全文はこちらから↓ ***

グレゴリー・ドーラン&河合祥一朗 ヴェニスの商人について語る


このドーランの男二人のゲイ説(さらにそのゲイ夫と偽装結構した事実を知らされたポーシャの落胆ぶり)は、はっきり言われてみればまさにその通りで、そこを認めただけで、この芝居のーいわゆる-つじつまがあわない、理解に苦しむ部分が、かなりすっきり解決される。

まあ、そのゲイだということをこの劇のメインに据えろと言いたいわけでは決してないのだが、しいて言えば、つまりこの劇はインタビューの中で河合氏も言っているのだが↓

"The play is basically a comedy," Kawai argues, with a wry look on his face. "As (Anton) Chekhov said, 'life is tragedy,' and to a certain extent it is for Shylock. But we are meant to regard the play from a different viewpoint than his, and audiences have to try to understand many different viewpoints and different kinds of people.

この芝居は基本的に喜劇。チェーホフが`人生こそ悲劇である’と言っているようなことを、つまりここではシャイロックにその部分を言いあてることが出来だが、一方、われわれ観客はその事柄をシャイロックとは違った見方で見ることが出来るポジションにあるわけで、だからこそわれわれは様々な角度から解釈をし、いろいろ違った立場の人々がいることを読み取れるように努めることが重要になってくる。


つまり、この芝居、シェイクスピア劇が普遍であることにも関わってくるのだが、結局のところ世の中の矛盾、人の世界のどうにも上手くいかない部分、簡単に白黒では割り切れない、幸せと思ったら大きな勘違い、、そうは容易くは運ばない、、なんてことをいろいろな例を引き出して、ドンデン返しを繰り返して、見せてくれているわけで、、まったくもって(ドーランも言っていたのだが)この登場人物たちの人生の先が思いやられること、、、不幸のどん底に突き落とされたかのようなシャイロックだが、まあこの先の人生、、、ポーシャやバサーニオの将来が平穏無事とはいかない事はラストのシーンで暗示されているし、それぞれのチャランポランな性格を思えば、これで落着といかないことも察しがつく、という、大仰に一節をぶっておきながら、人はなんとも自分に都合がよく出来ているものだというお話だと言えると思う。
(だから、どちらかに肩入れするような、それこそ勧善懲悪でもなければ人種偏見をなじる芝居でもないという事)


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盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)(6/14)マチネ

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第12弾のコクーン歌舞伎公演「盟三五大切」を観る。

どんどん、しかしながら緩やかに進化していくこのヌーベル歌舞伎の大ファンなので歌舞伎座よりもコクーンに駆け付けることにしている。

演劇というアートの宿命&特性として、変わっていかないものには、まずそそられないのである。

いくらある時期に良いものが出来たとして、それを後生大事に継承していくだけというのは演劇人として怠慢だと思うから。
ーご本家の歌舞伎座の歌舞伎がそれを怠っていると言っているのではないのだが、「変化」にとかく拒絶反応をみせる国民性からして、そのご本家が取り組みたくてもなかなか一気にはいかない部分を、場所を離したこの渋谷の劇場で取り組んでくれているのだと思うー

*****あらすじ 劇場HPより**********

四世鶴屋南北 作。
塩冶浪人による高家討ち入りを題材にした『仮名手本忠臣蔵』に登場する浪士、不破数右衛門を取り上げた'忠臣蔵外伝'であり、『東海道四谷怪談』の後日譚ともなっている。義士たちを描いた『仮名手本忠臣蔵』に対して、浪士を個として捉えてその生身の人間としての面を膨らませ、背後にある闇の部分に焦点を当てた作品。

売れっ子芸者小万と夫の三五郎はある事情から大金が必要となり、仲間と共謀して小万に惚れ込んでいる浪人薩摩源五兵衛から百両を騙し取ります。裏切られたことを知った源五兵衛はその夜、三五郎の仲間五人を斬殺。三五郎夫婦は命からがら逃げ出して、復讐の影に怯えながら暮らしていましたが、ついに居場所をつきとめられ、小万は源五兵衛の手にかかり無残に殺されてしまいます。さらに三五郎が手に入れた百両は皮肉にも源五兵衛のもとへ。 やがて、そもそもこの悲劇のはじまりは些細な行き違いだったことが明らかになります。
三五郎が金を必要としていたのは、父の旧主、塩冶の浪人不破数右衛門に討ち入りの資金として渡すためで、源五兵衛こそその数右衛門だったのです。お互いの顔を知らぬ不運からとはいえ主を騙し、復讐の鬼にしてしまったことの責めを負い、さらに源五兵衛の罪をも被ろうと三五郎は腹を切ります。源五兵衛は、巡り巡って自分のもとに届いた百両と、三五郎夫妻が手に入れていた高家の絵図面を携え、討ち入りへと向かうのでした―。

忠臣蔵の世界を背景に、一人の浪士が巻き起こす悲劇を描いた作品で、五人斬りなど南北独特の陰惨な場面を、歌舞伎ならではの様式美で表します。

*****************************


前回第11弾のラップ曲を取り入れた舞台「佐倉義民傳」もワクワクしたが、今回も地味ながら東銀座では観られない実験的な試みがそこここに。

まずは、浅葱幕(吊るされた幕)が印象派の西洋画風で、淡い色調の田園風景、水辺の景色が、今回のテーマの一つである「夢でみたお話」という夢か現実か、、、の曖昧な世界観を見事に表している。
それと、演奏される音楽にも西洋が取り入れられていて、邦楽楽器の他にチェロ演奏が。
歌舞伎という事を一瞬忘れてしまうように、場面転換で効果的にチェロ演奏が流れる。

さらには、もう一つ、特筆すべきコクーン歌舞伎での新しい試みの成功例が尾上菊之助の起用。

コクーン歌舞伎の常連、この公演の前に上演されていた「たいこどんどん」でもその存在感を十二分にアピールしていた中村橋之助を真ん中に据えながら、両脇を若手歌舞伎俳優陣の騎手ー尾上菊之助と中村勘太郎ーを配したところが、毎回の常連客の眼をリフレッシュさせて、シリーズ企画ならではという楽しみをもたらしてくれた(同じ演目でも前回と同じ趣向での再演とはならないところが粋な企画)。

特に、菊之助はコクーン初お目見えということで、これで本家、東銀座に通う客も確実に増やしたと思って間違いないだろう。

先代から繋がる人間関係がなかなかに複雑で、その仇討ちがどこでどうつながるのか、、、大仕掛けもあって、そちらに気を取られるとちょっと分らなくなる時もあるのだが、、なんだかそんな詳細も、終わってみれば「まあいいか。。」と思えるような(実際、終演後に「話は最後ちょっとよく分らなかったよね〜〜〜」と話している若い女性二人組もいた)、人の気持ちの切なさ、男女間のやるせなさが伝わってくる舞台だった。

余談:
ストーリーを進めていくなかで、お金=借金のやりとりというのが結構重要な要素としてでてくるのだが、その一方で、当時、金というのが現代ほどに幅を利かせてはいなかった、それほど大事なものだとは(今では神=金となっているからね〜〜〜)捉えられてはいなかったというのが見て取れる。

貧乏浪人でもお侍はお侍、でもってその文無しに使える人がちゃんといて、そこには忠義もある。
でもって、そんなスッカラカンな生活をしながらも、義理人情の前では金を差し出してしまう、、でもって心の裏切り、それが大きく人生を突き動かしてしまう、、、なんて、今だったらもっと世知辛い話になってしまうんだろうな、この話も、なんて思うと、とことん人々が進歩しているのか停滞しているのか、それともどっかとんでもない所へ向かって行っているのか、、分らなくなってくる。

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2011年6月14日 (火)

モリー・スウィニー(6/13)

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2011年6月13日 (月)

いないいない(6/11)マチネ そして新宿デモ

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四番倉庫(6/10)

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雨(6/9)

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ベッジ・パードン(6/8)

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静岡な一日(6/5)ー真夏の夜の夢・タカセの夢・エクスターズ

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週末、春の恒例イベント、静岡春の芸術祭改め「ふじのくにせかい演劇祭2011」となったSPAC主宰の演劇祭を観るために静岡へ。
4月に飯田橋、日仏会館で開催に際しての記者会見を行い、そこで「開催を悩んだが、今だからこそ、と思い直した。観客それぞれが自らと向き合う、そして自らを見つめ直す場所、として演劇・劇場を利用して欲しい。」と話したSPAC芸術監督、宮城聰氏による新演出舞台、宮城氏が会見で舞い上がるほどに恐縮していた師と仰ぐ野田秀樹潤色によるシェイクスピア初期の祝祭喜劇「(野田秀樹の)真夏の夜の夢」を今年の第一弾として観劇。

事前に配布されたPR写真はご覧のとおり、かなりカラフルで、、しかしながらちょっと怪しげな造り込み感のあるものだったのだが、実際の舞台はSPACの若い俳優陣のアドバンテージを活かしたフィジカルな演出、遊び心溢れる遊技場のような舞台セット、そして宮城演出の一つのブランドでもあるパーカッションを多用したリズミカルなライブ音楽で、観て楽しめる素晴らしい出来に仕上がっていた。

ーーちなみに宮城氏と同じように、私の芝居漬け人生のきっかけとなった野田氏には大いなる敬意と別格の思い入れがあるため、野田作品は紀伊国屋ホールでの「走れメルスー野田氏がヨガマスターのように地上数メートルまで浮き上がっていたその演劇トリックに(トリックじゃないけどね)すっかりハマってしまったー」以降、OLの給料をさんざん注ぎ込んで、果てはエジンバラまでおっかけた私であったが、何故だかこの92年の日生劇場での舞台(唐沢寿明、堤真一、大竹しのぶは見逃しているーーーあ、書きながら思い出したが、当時ロンドンへトンズラ+遊学していて、、日本にいなかったからだ!!!ー里帰りの時期をなるべく野田芝居の上演時期にあわせるようにして、観れる限りは観たつもりだったのだが、ロンドンへ移住してからそれほど経っていなかった時期で、まだ学生の身で渡航費も捻出できず、、おそらく諦めたのであろうーー

アテネの森と化した静岡芸術劇場の舞台。フィジカルな演出用に工夫されたこのセットがヴィジュアル的にも美術として美しい(舞台美術 深沢襟)。

天空には女神タイテーニア(たきいみき)の隠れ家の月、反対側には森を支配するオーベロン(貴島豪)が森と一体化した衣装でそびえ立つ(竹馬状の衣装でかなりの高さをだしている)、そして天井からは蔓のロープが垂れ下がり、木々の葉でカモフラージュされた階段状に足場がついたポールがそここに並んでいる。これらのロープやポールを使って身体をはった妖精ワールドー身体が宙に浮いているように見えたり、パックが森を駆け巡る様が表されたりするーが展開されるのだ。
舞台奥には楽隊が、やはり森の背景に溶け込むような形で待機。リズム溢れる音楽で祝祭劇を盛り上げてくれていた。

野田演出の初演版では(観てはいないのだが)日本潤色バージョンということが殊更に意識されていて、西洋のクラス社会を日本の伝統的なしきたりが残る世界=割烹料亭へと移し替えた設定や話の潤色という内容の微調整のみならず、舞台も割烹料亭を意識したものとして作り上げられていたと思うが、今回の宮城演出ではそのジャポネスク色が薄れ、今回のフェスティバルの題名が示すように「ふじのくにせかい」で起きた、しかしながら万国共通とも言える、どこの国でもない、それでいてどこの国でもあてはまるせかい共通
・普遍的な今日の演劇事情を反映した野田版シェイクスピアが完成していた。

野田が仕掛けた現代批評、悪魔メフィストと契約を交わしてしまう弱い人間、その誰でもが持つ弱さの出所
、そしてよくも悪くもそんな過ちを常に繰り返してしまう人の性、、、が、丁寧に造られた舞台からきちんと伝わってくる、そんな力のこもった秀作舞台であった。

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昨年秋、同劇場で上演して好評を博した、カメルーンの振付家 メルラン・ニヤカム氏と静岡の高校生たち10人によるコラボレーション作品「タカセの夢」。

オーディションで選ばれた中・高校生10人、その中の黒一点がタカセ君。小さいながらも「山椒は小粒でも。。」という言葉のように、でもって女の中で男一人、寡黙に人一倍動いて演じて大健闘。

同じ学校でもクラスでも学年でもない子達なので、凸凹しているのだが、そのデコボコがそれぞれの個性を引き出していて、でもってデコったところを他のメンバーが補ったりして、永田町の大人達にこそ観てもらいたいような、日本の良いところが詰まった舞台だった。

アフタートークで振付家のニヤカム氏のことを「お父さんのよう」語る子ども達の顔は演じきった自信ンからかキラキラと輝いていた。
子どもは大人の背中を見て育ち、大人の軽卒なウソには敏感である。。というのが実感としてよく分った。
ゆとり教育の至らなさを短絡的に報告するだけでなく、今こそ本当に有効なゆとり教育、演劇・ダンスを取り入れた`有効な’教育法が必要だということはこの成果を見ると実感する。

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今年のフェスティバルの目玉、でありながら2日間、2回限りの上演という、超貴重な舞台、タニノクロウ氏、作・演出の「エクスターズ」で3本観劇を締めくくる。

静岡の地元で活動するセミプロフェッショナルな(一般レベルからすると)高齢の女優陣6人とタニノ芝居の常連俳優三人(飯田一期、森隼人、山田伊久磨)がSPACの屋外劇場・有度で、これまでに見た事の無い世界を描き出す。

予想の範疇を越えた、今まで見た事の無い舞台。フィニッシュの地点をかなりの部分で観客の想像力・感性に委ねたその舞台。
今年1月に上演した「チェーホフ」から続くタニノ氏のこの確信、揺るがない芸術性の指針が今回もこの舞台を比類なきものに高めていた。

上演後アフタートークでの観客からの質問の場でももまず最初に挙っていたのが「先日待望の来日を果たしたスイスの巨匠クリストフ・マルターラーの作品を彷彿とさせる。意識しての事か?」との指摘。

それに応えて、タニノ氏はーマルターラーの作品は良く知らないし、意識はしていないーと語っていたが、結果として出てきたものが、ヨーロッパの巨匠で最先端(異端)が目指しているものと重なっているということ、その事実に驚く。
方や60歳、そして静岡の舞台で勇敢にもやってのけたこちらが30代。。。。演劇の未来、特に日本演劇の未来も捨てたものではないな、と嬉しくなる。

舞台構成の面では「巨大なるブッツバッハ村」を(一般市民が巨大な何かに制御された隔離部屋で日々を過ごす様を延々と綴る)、そしてその創作過程の面では「家族会議」を(出演者の何らかの表現欲求の喚起を待ち、それをステージへ上げる)思い起こさせる。

上演前から噂に上っていたステージセット=緑の木々が囲む屋外劇場のその緑が隠れるように高いピンク色(肉色とも言われている)板塀の囲いを設置、その囲いの中には子どもの遊技場のようなカラフルな遊戯機具が点在してる=のその見えない外の世界と目の前に広がる偽装的なユートピアの世界、どちらもどこか(誰か)が意図的に創り上げた世界で、観客の私たちはステージ上で繰り広げられる、一見馬鹿げた夢の世界の中に、その意図的に隠された真実を見つける役割を任せられているのだろう。

2日間、2回のみの公演のために費やした何ヶ月間かの制作行程、そして積み上げられた板版も翌日には取り壊しに入るという、その上演企画、上演形態自体がすでにアートの一環となっている。
この総合的なアート体験が観客一人一人に与え、身体に浸透させるもの。。。そこに目に見えづらいアートの効力、必要性を見た。
(放射能もその日には身体の異常がみられなくても、数十年単位の影響だから。。。アートも放射能もどちらの事情もそのスパンで捉えよう)

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2011年6月 4日 (土)

番町皿屋敷(6/3)

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加納幸和率いる老舗の劇団、ネオ歌舞伎を中心に上演を続ける花組芝居の最新作、「番町皿屋敷」を座・高円寺にて観劇。

高円寺の舞台上ににシンプル能舞台を設置。そこに豪華なしだれ桜セットで効果的なネオ歌舞伎世界を構築。

 *****あらすじ 劇団HPより *********
旗本・青山播磨には、腰元のお菊という恋人がいた。
彼女を心から愛する播磨は、数々の良縁を受け入れぬまま独身を通している。
お菊も一心に播磨を信じているのだが、ふとしたお見合い話に動揺し、
彼の真心を試そうとお家の重宝である皿をわざと割ってしまう…。

純粋な故の悲恋を描いた、岡本綺堂の傑作。

************************

「番町皿屋敷」というとお菊が化けてでる「一ま〜〜〜い、二ま〜〜〜〜い。。。九ま〜〜〜〜い。。。1枚足りない。。。crying」のシーン、怪談話としてしか思い浮かばない、という方が多いと思うがー私もそうだったーあらすじの最後にわざわざ解説を入れているように、今回の花組芝居バージョンは女のちょっとした嫉妬心が命取りになってしまう、という、それも封建制度のしきたり故にその時代にしてはかなり進んだ感覚を持つ優しいお殿様でも愛する女をかばいきれなかった、この二人が今の時代に生きているカップルだったら人も羨む仲が良い故の痴話げんかですんだところなのに、、なんて可哀想なの?、という恋愛話をその回りに楽しめる要素たっぷりの花組式サービスを散りばめての舞台となっていた。
(ちなみに怪談話の方がもとにあったものを岡本綺堂が大正5年に悲恋物語として戯曲化したものを今回の原作として使用しているため、お菊の井戸から表れての皿数えは行われない)


ご贔屓衆にはたまらない、花組芝居の安定感あるコメディー&艶やかな女形の現代の内容で歌舞いている舞台が展開され、さらには前述のシンボリックで大胆な能舞台セットが、今回のシンプルな筋立てによくあって、いつもながらに完成度の高い舞台を見せてくれていた。

よっぽど劇団の雰囲気が良いのだろうな〜〜〜〜(座長=リーダーの人格?)と思える、劇団員一人一人の自覚、迷いの無さがチームとしてのさらなる強靭さを生み出しているように思う。

コンテンポラリー劇が当然のごとく存在するように、現代の歌舞伎というのが様々な形で試みられるというのは至極自然な成り行きであると思う。
(コクーン歌舞伎しかり、花組芝居しかり、、、)

構成・演出担当の加納さんが年が近いせいか、、、なんだかネタがはまるんだな〜〜〜〜、私には。(質が高い)ベタは良いもんだと思う!

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2011年6月 3日 (金)

届けて、かいぶつくん(6/2)

Omote

KENTARO!!率いる東京 Electrock Stairsの新作ダンス「届け、かいぶつくん」をシアタートラムで観る。

夕方、さんざん永田町のおじさんたちの噴飯ものの、究極のKYポリティカルシアターを見せられた後にこんなにもストレートな汗と表現を見せてもらって、、、一日がプラマイゼロ、というかむしろプラスに感じることが出来て、、、ありがとう、と言いたい気持ち。

おっさんたちが見下している、若者だの被災地の方々だの、、ぜ〜〜〜んぶひっくるめた国民たちは、とっくにおっさんたちの薄っぺらさに気づいているし、呆れているいるということにあの方たちはいつ気がつくのだろう。。。後はわれわれが立ち上がるだけ!なのかも。

CINRA Kentaro インタビュー

今回の作品についてKENTARO!!が語っている記事があったので、内容、上演意図などなどに関してはこちらをご参照あれ。

記事の中でも本人が語っているように、今どきの日本の若者たちが身体で表現したいと思っていることがストレートに、取り繕うことなしに、それも100%出し切って表現してくれている舞台。

例えて言えば、NHKの人気番組「東京★カワイイTV」みたいに、東京・日本の良さをMY視線で肯定的に描いたプログラム。

POPなヒップホップ高速ダンスも、スケッチ芝居のようなゆるいダンスもー今はダンサーと役者の垣根がどんどん外れてきているね〜〜〜、ま、それぞれ個人が得意技を使って適材適所で表現すれば良いわけだからー、群舞も、個人技も、、、鼻についたイヤらしさがないのが、このカンパニーに好感を持てる理由の一つ。

やっぱり、KENTARO!!のソロダンスの追求感もヨカッタぞ!

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6/1 再見2本ー黒い十人の女 & Romeo&Juliet

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