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2011年5月

2011年5月31日 (火)

70th Birthday of Bob Dylan -May 24 2011-

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先週、JTに載ったディラン70歳を記念しての特集記事。

(作業にちょっと関わったりしたので)

かなり面白いので、読んでみて!

マイケル・グレイ ボブを語る
菅野ヘッケル ボブと日本の関わり
日本(世界)一のボブ コレクター立見氏に聞く


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2011年5月29日 (日)

マンU エドウィンよ永遠に

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チャンピオンズリーグ決勝、あっと言う間に終わっちゃいましたね〜〜。(3バルセロナー1ユナイテッド)

なんだか、ワールドカップの結果に通じるところがあったような、、スペインサッカーがイングランドサッカーを完成度からして上回っていた、ってところですかね。

今季を境にユナイテッドもチームが一新すると思うので、また暫くはチャンスは回ってこないかも。。

エドウィン・バンダサール(正しくはファンデルサールなのかな) の勇姿も今試合で見納め、、だれが来季はゴールを守るのかしらん??

パクとギグスにはもうワンシーズン頑張ってもらいたい!!!!

暫くは夜中の3時起きもしなくてよくなるんだよね〜〜、ちと淋しい。 

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2011年5月28日 (土)

散歩する侵略者(5/27)

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シアタートラムで前川知大率いるイキウメの再再演(05年&07年)舞台「散歩する侵略者」を観る。

はずせない劇作家・演出家前川の作品ながら、楽日近くまで観劇を伸ばしていた原因の一つは07年に青山円形劇場で観た再演舞台が今ひとつピンとこなかったからだ。

しかしながら、今回の再再演、劇場につめかけた2時間立ち見を覚悟の観客の列が示すように、そして巷の演劇サイトの投稿レビューでの高得点が示すように、「今」のニーズと合致した、かなり良い出来に仕上がっていて、同じ戯曲(初演から継続して、毎回若干の変更はあり)でありながら、確実に今回の舞台の方がいろいろな呈示ー時に社会的・政治的、さらには人が生きていく上で根源的な事ーがきちんと見え、堪能できた自分を発見出来た。

******07年の「芝居漬け」 舞台レビュー より********

9月14日ー「散歩する侵略者」byイキウメ

若手劇団の出世作のメジャー劇場での再演。
半球体を重ね合わせたシンプルなセットと四方に伸びた入退場花道は宇宙人という架空の話を表現するのに効果的。
しかしながら、宇宙人という想像上の生き物でないと、本音を語れないという登場人物(現代人)たちの弱さにモヤモヤ感が残る。
理想と現実は埋めがたい程にかけ離れているんだーーーーー、現代人の心の病気はこんなにも普通に蔓延しているのです!(まあ、そうなんでしょうが)と悟り顔で語られているようで、、弱音だけ吐かれても、何らかの解決策は???なんて聞き返してみたくなる、そんな元気が消えていくような芝居でした。

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と、これを読んだだけでも分るように、当時の私は宇宙人の設定にシラケ気味だったようだ。ー同じ人間でない生物でも、なぜだか座敷童はゆるせるのだが、宇宙人にはちょっと抵抗あり、なぜだろう?ー

確かに、今回も「宇宙人」への若干の違和感はあったものの、「未曾有の出来事=未知なものたち」という広い解釈で宇宙人を捉えれば、その設定も納得できるんだという事が実感できたように思う。

07年、当時の私にこの芝居の良さを読み取るだけの素養がなかった、と言ってしまえばそれはそうで、それだけなのだが、せっかくなので、なぜ07年は面白さを感じなくて、今回はこれほどまでに面白かったのかを分析してみたい。

まず、2作品の違いとして、上演された劇場の形状がある。

方や円形劇場で360℃の客席に囲まれた舞台セットはかなり抽象的なものだった。円形劇場の特質もあり、舞台の先に見える客席をも含めた舞台空間では、その円形を活かした形状のセット、そして観客の想像力を見込んだシンプルで抽象的なセットが使用されることが多く、07年の舞台もその例に違わなかった。

しかしながら、今回の11年バージョンでは、トラムの通常舞台形式が使用され、舞台セットも具象化された具体的な家具、日常生活で身の回りにある小道具などが配された演出に変わっていた。

この具象化が宇宙人の話を自然と日常レベルに近づけてくれたのかもしれない。

さらに、何が一番違っていたのか、、、、と言うと、上演された「時」が違うということ!もしかしたらこの当たり前のことが観劇に影響したのかもしれないと感じた。

ー前述したように、「起こりえない事」へのわたしたちの認識・感覚が3.11を、そしてその後の経過を目撃してきた私たちにとっては激変したからではないか?と思えるのだ。

以前はスルーしていたかもしれない、いくつかの台詞、例えば「事件が起きてからじゃ遅いんだ!もうやなんです!」という台詞、今この国を震撼させている原発問題が確実にその台詞の中に読めるし、その他にもそこここのエピソードに現状をみる事が出来た。
「リセット」「新聞もニュースも本当のこと書いてないね。」「こんなことになるとは思わなかった。」「大手メディアもぬるい報道しかしないし、、、」「まあそういう認識で大事故って起きるんですけどね。」「地球やばいんですよ、、」「だって今は戦争どころじゃないから。もっと大きなのが、そこまで来てるかもしれないんだから。」

などなど、、ファンタジーシチュエーションの中でのこれらの一言一言がダイレクトに響いてくる。

さらに、所有感覚を無くした登場人物がいかにも解放されて広い視野で世界をみることが出来るようになっていたり、ー現代において、Greed(強欲)こそが大罪の中でももっともタチの悪い罪であるようにーそして、最後にはこの芝居のある意味最大のメッセージでもある「愛こそ全て(All need is Love)、愛は地球を救う」というシンプルながら究極の提言がド〜〜〜〜ンと構えているのである。


最後に、帰宅後に開いた夕刊の中に、今回の芝居の成功の大きな要因であるような記述があったので引用しておく。

(映画「E.T」の素晴らしさについてイラストレーター、及川正通氏が語っている文章の中から)

”ファンタジーって、日常とかけ離れているものではなくて、実現しそうなところおにあるものだと僕は思うんですね。”

2011年、人が大事なものに対する価値観を喪失しつつあるこの時に襲った自然界、さらには手に負えないものからの”襲撃→侵略”の話がかなりリアルに近づいた、とそうゆう事なのだろう。

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又聞きの思い出(5/26)

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ウッディ・アレン作の「又聞きの思い出(原題:A Second Hand Memory)」を古城十忍率いる劇団ワンツーワークスの上演舞台で観る。

*****あらすじ 劇団HPより*****

舞台は1950年代、ブルックリンのロッカウェイ。「エクセルシオール」という名前だけ立派なアパートに住むウルフ家の話。宝石商を営む父親、女優になる夢を諦め夫を手伝い家庭を守る母親。だが息子は家業を継ぐのを拒み、ハリウッドで成功している映画タレント・エージェントの叔父さんのもとで働き始めるが、叔父さんの美しい秘書に恋をしたことから事態は急展開。家族一人一人が隠し持っていた秘密があぶり出され、溜め込んでいた本音が炸裂し始める――。
 この物語はウルフ家のもう一人のメンバー、家を出た娘によって「彼女が伝え聞いた思い出」(second-hand memory)として語られる。それゆえ物語は直線的には進まず、フラッシュバックとして紹介されたりして、現在と過去を行き来しながら展開する。娘は言う。「アインスタイン曰く――すべては相対的です」。アレンは相対性理論を全然違う内容に当てはめている。

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今回は中心となる父親役に当劇団舞台参加は2回目となる萩原流行を起用。
その彼の息子が振り回され最終的にはふられる、秘書からの成り上がりセレブ妻役の山田キヌヲとその上司、エンタメ界を生き抜く敏腕社長役の奥村洋治が実にいい味をだしていた。

とにかくウッディ・アレンの劇作がニクいほどに上手い。それにつきる。
まあ、映画の脚本でそのお手並みは十二分に知り尽くしているので、上手くない訳がないのだが。。。

今回の芝居でも、悪気はないのだが、なんともダメな人たちー悪人ではなくて、グズグズとズブズブとダメなのだ、、つまりちょっと回りを見渡さないまでも我を振り返れば思い当たるような小市民、というキャラーを、実に上手く描いている。

劇中の登場人物には当人達なので見えはしない、そんなダメさ、でもって小市民が考えそうな策略、妬み、理性ではどうにも片付けられない人間らしい感情なんかが、人生の基本である家族関係・夫婦関係の話の中に巧みに組み込まれている。

アレンの映画で、当人がよく演じるナレーター役(突然、役から語り手になり、そのフィクションの解説をする)を、今回の芝居では家族から離れて暮らしている姉が請け負っていて、第三者的な視線でこのファミリードラマを語っていくのだが、その彼女の役回りー又聞きーが題名となっている。

それにしても、登場人物たちがこれでもか、、とばかりに典型的ユダヤ人家族であるーニューヨークの宝石商、そしてもう一人はハリウッドのプロデューサーーのがアレンの作品である証拠。

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2011年5月26日 (木)

戦争にはいきたくない(5/25)

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下北沢駅前劇場でここしばらくマイブームな劇団「らくだ工務店」の07年初演作品の再演舞台「戦争にはいきたくない」を観る。

毎日生活していくために労働する=町工場で働く人々の日々の機微を絶妙な笑いとともに描いている。

タイトルの「戦争にはいきたくない」から受けるハードな響きからはちょっと離れた、普通の人々の話なのだが、そこには誰でもー戦闘地域で暮らす人々も、東京の下町で暮らす人々も、ワケアリな情況下で暮らす人々もーが越えなくてはならない人生のハードル超え。。大なり小なり、人それぞれが抱える課題へどのように立ち向かっていくのか、ー誰も戦争にはいきたくないのだが、時と場合によってはその決断をしなくてはならない状況にも遭遇するーそんな万国共通、普遍のテーマがこめられている。

当日配布のパンフに作・演出 劇団主宰の石曽根有也氏のあいさつがあって、「ぼくは出来るだけ普遍的な物語の断片を丁寧に描きたいと強く思います。」と宣言しているのだが、まさにそれを体現している芝居。

「らくだ工務店」芝居のその丁寧さが、決して大仰に世界を語るわけではないその地に足のついた説得力が観劇後の充実感に繋がっているのだと思う。

例えて言えばハリウッド映画の地球滅亡に立ち向かう無敵のヒーローよりも、ヨーロッパ映画に登場するちょっと笑えるーしかしながら過去の何かを隠し続けている村のちょびひげのおじさんの方がずっしりと長く心に残り、説得力を持つということ、かな。

奇抜なアイディアありきの芝居よりも、ちょっと立ち止まって日常に溢れている、既にこの世に存在している矛盾、不条理なんかを丁寧に拾い上げれば、人に訴える良質な戯曲は生まれる余地がまだまだある、という良い例なのかも。

余談:毎回、みごとにリアリズムのセットが似通っていて。。。スツール椅子に事務机とか、、使い回せて経済的かも。

となりに座っていたサラリーマンらしきおじさんがとっても楽しんでいた感が伝わってきた。。。そうだよね〜〜〜、世の中ままならないことっていっぱいあるもんね〜〜、ってか。

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豚小屋(5/25)マチネ

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Yerma(イェルマ)(5/24)

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ミュージカル!って気張らなくても、音楽をつけた方がステキ、でもって歌で表現した方が効果的、、という肩肘張らない、自然なミュージカル舞台。

大掛かりなセットを組まなくても、そこは想像力を駆使してあとは観客に委ねる。。。。と演劇の可能性を示してくれた、実験的でありながらあくまでも正統派の舞台。

横浜のスタジオへ足を伸ばす価値大。

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メガネ夫妻のイスタンブール旅行記(5/23)

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アゴラ劇場で山内ケンジ率いる城山羊の会の「メガネ夫妻のイスタンブール旅行記」を観る。

前回、スズナリでの「微笑みの壁」がとても面白かったので、今回は何を見せてくれるのか、上演日を指折り数えての観劇となった。

微笑みの壁

う〜〜〜ん、不条理な芝居を、今風におしゃれにやってみた。。。っていうところでしょうか。

考え過ぎて、ちょっと上っ面なものになってしまっていて、残念。

*******あらすじ******

精神にちょっと異常をきたし始めている妻(石橋けい)。長年飼っていた愛猫の死によって、「ピキッ!」とどこかが外れてしまったようだ。当初は彼女の悲しみをなぐさめようと努めていた夫(鈴木浩介)だったが、その言動が常軌を逸しているために不安になりかけたところで、隣の夫婦(古館寛治、永井若菜)が関わってくる。
彼ら、さらには大家夫婦も加わって、愛猫の死が殺猫事件へと発展していく。。。
妻の言動にばかり気を取られていると、だんだんと実はそこにいる人それぞれがオカシイ、(それもかなり。。。)ということが分ってくる。

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2011年5月21日 (土)

黒い十人の女(5/20)

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青山円形劇場でNylon100℃の36回目公演「黒い十人の女」、初日を観る。

1961年公開の大映映画、市川崑監督作品の「黒い十人の女」ー脚本:和田夏十(わだなっとー市川の妻)ーを舞台化した作品で、私自身は映画を観ていないのだが(You Tubeで予告編をちら見したぐらい)会場販売プログラムによると、今=2011年の観客用に不要なところはカット、そして主に女達の人物造詣を膨らませてその部分をケラが付け足して上演台本を作成、今回のナイロンバージョンとなったということ。

この一文でも分るように、映画(映像)と舞台の違い、またその舞台の見せ方を熟知したケラの手腕が見事に発揮された舞台に仕上がっていた。

全編を見渡して、ケラの演出家としてのテクニックがそこここに、溢れんばかりのアイディアが見てとれる。と言うのも、今回はオリジナル戯曲ではないので、いつもだったら戯曲の妙、隠された言葉の意味合いの深さに感嘆しているところなのだが、基本的に原作に沿っている今作ではそちらはそちらとして、また別の楽しみーどのように翻案するのか、演出するのか、、といったところに殊更目がいったのかもしれない。

いつもながらの映像使いの素晴らしさ、それはただ単にスクリーンにCG/アニメを映し出すだけではなく、映像というツールを様々な手法で使い分けているーもさることながら、青山円形劇場のその特異な劇場形態をも最大限に活かし、映画のカット割りさながらのスピーディーな、そして自由な場面転換を可能にするアイディアが満載されている。
例えば、円形劇場の背面一面に配した劇場入り口ドアとそこへ続く通路。瞬間瞬間でそのドアと通路を使い分け、シーンを転換、真ん中のステージを一瞬暗転にして通路に視線を移す事によりセット転換までが一瞬で完了している。

円形舞台と放射状に広がる通路、この形状も本作のミステリアスな不条理ばなしにとてもフィットしている。

さらに言えば、今回、振り付けを小野寺修二に依頼しているのだが、この円形劇場を知り尽くした小野寺による(彼はダンスプログラム(カンパニー・デラシネ「あらかじめ」)でも演劇での振り付け(SISカンパニー「叔母との旅」)でも円形劇場での仕事を経験していて、それぞれに高い実績を残している)数人による群舞、というか振り付けされた動きが、とても効果的にメリハリをつけ、またシーン転換のトリックの役割も果たしている。

内容に関しては、映画を観てご存知の方も多いと思うが、こんなかんじ。

≪ストーリー≫ TVプロデューサーの風松吉(みのすけ)は、9人もの愛人を持っていた。妻の双葉(峯村リエ)はそんな夫を諦めてレストラン経営で淋しい気持ちを紛らわしていた。愛人たちはお互いの存在をそれとなく知っており、風が浮気者であるという事も重々承知しているものの、何故か風から離れられないでいた。女たちは「風がポックリ死ねばよい」「風を誰か殺してくれないかしら」と口々に言うのだった。そんな話を耳にした風が思い悩んだ末の相談相手は、妻の双葉だった。そこで妻が立てた計画とは…。(演劇サイトより)


映画では女10人対女たらしの男(映画では船越英二が演じている)という構図が大枠らしいのだが、今回の舞台版では女同士の対立やら連帯、女の同士の確執なんかも丁寧に描かれている。またその他の、風の会社、テレビ会社にいる男連中たちの彼らのサラリーマン世界のねたみ、確執なんかも描かれる。
そんな中、風の愛人の一人朝霧六香(新谷真弓)が逆天秤をかける同テレビ局のアナウンサー花巻(小林高鹿)がかなり重要なポジションでこの不条理劇の案内役を努めている。

今から昭和36年当時を振り返り(さすがにこの私でもちょこっとしか分らないので、大多数の人には`大昔’なんだろうな〜〜。そう言えば、冒頭にそんな台詞があったな〜〜)ながら目の前の舞台を観ていると、それこそずっと変わらない人のエゴ、社会の成りたちなんかが見えてくる反面、当時とはかなり違ってしまった`今日’も同時に見えてくるので面白い。
やっぱり、一番違ったところは`時間’の感覚なのかな〜〜〜?
主人公の風は年がら年中「忙しい、時間がない」とそれこそ壊れた腕時計をチラチラ見ながらボヤいているのだが、こちらからしてみれば、けっこうゆとりのある時代だったな〜〜〜って。
ー携帯がないので、夜中まで追跡されることもないし、24時間営業コンビニなんてのもないから人と顔をあわせてご飯を食べるし、コンピューターもないので仕事は人との関わりあいが主だしー

その時間を無くした事により、得たものと失ったもの。。。スピードアップの利便性追求の為無くした様々なものー例えば、人の個性とかオリジナリティとか。。。

やっぱり、いろいろな事を考えさせられて、面白かった。

さすがナイロン!ー役者の層が厚いのもコツコツと貯めてきた貯金。

特に、今回は峰村さんが中心で存在感あり。

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2011年5月20日 (金)

ハムレット/ローゼンクランツとギルデスターンは死んだ(5/19)

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ミュージカル興行主として名を馳せているキョードー東京が主宰した演劇(プラスちょこっとダンスアンドお笑い)プログラム「ハムレット(第一部)/ローゼンクランツとギルデスターンは死んだ(第二部)」を渋谷にに出来た新しい公共文化施設、渋谷区文化総合センター内のさくらホールで観る。

第一部のハムレットはシンプルな舞台でのダイジェスト版。ジャニーズ・ハムレット(長谷川純)とモー娘・オフィーリア(高橋愛)を中心に、ハムレットの珠玉の台詞を集め、枝葉部(例えば、墓堀とハムレットが道化ヨリックを思い出して人の一生について考察する場面ーある意味、これがこの芝居の隠れた「核」であると思うんですがね〜〜〜)は思いっきりカットした舞台。
上演意図がはっきりしすぎるほどに明らかと言えば聞こえは良いのだが、響きの良い決め台詞だけのダイジェストでは芝居の良さが伝わらないのは当然の成り行き。
シェイクスピアのハムレットを上演するという事、それが第一で最終目的となってしまった本末転倒な公演。

第二部のロズギル(と略すらしい)は、元は英国の劇作家トム・ストッパードの出世作... しかしながら、翻案劇というよりも、さらにクロスオーバーして、劇の骨格を残し、その肉の部分は日替わりで担当するお笑い芸人2人組に任せるという趣向。
ちなみに私が観た日は博多華丸・大吉の二人だった。(博多弁はヨカバイ)

かなり大胆かつ、新しい試み(演劇+漫才のクロスオーバー)なのだが、第一部の優等生(高尚)な舞台よりも、こちらの方が会話が活き活きしていてーロズギルの二人の掛け合いはコンビなので言わずもがな、なのだが、それに付随して他の登場人物との会話もこちらの方がテンポが良かった(途中、段取りが飛んで、やり直すというハプニングがあったにせよ)ー、その証拠に観客席も舞台に集中していたようでウケが良かった。

ロズギルがいわゆるハムレットの裏版という形を用いた「ゴドー待ち」芝居である、ということも漫才コンビの二人にその役を与えることで舞台から十分伝わってきたので、これは思わぬ収穫!ということで、こちらは大成功。

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鳥瞰図(5/19)マチネ 再見

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(c)谷古宇正彦

先週、新国立劇場で観た「鳥瞰図」、面白かったのでまた通っちゃいました。

先週もマチネだったのだが、今回もマチネで観劇。そのせいか、客席の年齢層の高いこと高いこと。。。映画館も昼間の時間は高年齢層で賑わっているというから、良いのではないでしょうか?

既に十分に働いてきた高齢の方々が定年後の余暇の時間に文化的なものに触れる、というのは国のあり方としても、人の生き方としても、正しいとい思う。

おそらく、機会があれば、お芝居も観に行きたいのでしょうが、如何せん、巷の流行の劇場はお年の方にとっては(逆に)敷居が高すぎる(と言うか、低すぎると言うか?!。。)。
ベンチシートに長い間腰掛けるのも辛いし、となると行き慣れた老舗の劇場。。。ということになるのでしょうが、、そこで、ちょっと待って下さい、、と。
せっかく国の劇場があるのだから、利用して下さいよ、と。(お値段もお手頃だし、施設は新しいし)

そこで、内容的にも誰でもが楽しめるお芝居。それ、新国立劇場の役割として、思いっきり`アリ’じゃあないでしょうか?

もちろん、国立劇場の役割として、この国の演劇界を牽引していくような、これからの演劇界の方向性を示すようなカッティングエッジな芝居、そして実験的な芝居も、さらにはこれからの時代を担う若手の新しい趣向の芝居もプログラムには組み込むべき、、にしても、やっぱり、老若男女がお昼のひとときに楽しめる、そんな芝居は絶対にローテの中心にあるべきでしょう。

と言うか、英国のナショナルシアターのように3つの(大〜小)劇場をフル回転稼働させられるほどの余力があれば、実験的な芝居もかなりの頻度で入れられるのでしょうが、現状の新国立劇場の上演(ペース)状況だったら、まずはこの辺りのプログラムの充実を図るのが得策ではないんでしょうか?

で、2度観るほどに、何がそんなに良かったのか、と言うことですが、、役者も良いし、演出もはまっていて良いけれど、何と言っても、やっぱり大きな要因は戯曲(早船聡 作)ということになるのでしょうか。

長生きする名作戯曲にあてはまるその条件を見事に満たしたー人・人生についての普遍的な問い・人というものが抱える矛盾を具体的に示しているが、決してそれについての答えを押しつけたりはせず、どこかに余観客の想像力に委ねる余白を残している戯曲は素晴らしいー、傑作戯曲、それも日本人にこそ観てほしい戯曲だな、という事です。

****あらすじ(新国立劇場HPより)*******

東京湾岸のある町。そこは4分の3が埋め立てた土地で出来ている。かつて住民の多くは海から生活の糧を得ていたが、工業化による汚染と経済成長の中で海に生きる選択肢を捨てた。古い側の土地にある釣り船宿「升本」は3代続く老舗だが、今は地元の常連客相手に細々と営業している。
女将の佐和子(渡辺美佐子)と息子(入江雅人)の茂雄が切り盛りするこの船宿には近所に住む個性的な面々が集まり、いつも賑やかだ。そんな夏のある日、見知らぬ少女が船宿を訪れた。ミオ(野村佑香)と名乗るその少女は出て行った長女の娘だと言う。
女将にとって初めて見る孫の顔。その来訪をきっかけに失われた海の記憶が語られはじめる・・・・・・。


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浦安近辺の老舗の釣り船宿を舞台に、それこそ他のどこでも起こっていそうな世代交代、家族のそれぞれの思いのすれ違い、掛け違いを描いていく。つまり家族と言えども隣の人が心の中で実際に何を考えているのかは計り知ることは出来ないんだ、と、だからこそ人と人との関わりには思いがけない喜びや悲しみがついてくるのだと、この舞台は暖かみのある笑いとともに伝えてくれる。

本当の思いはどこにあるのか、という謎解きと共に、さらには表題の鳥瞰図(パノラマ図)のような視線でも人類の思いがけない進歩について、問いを投げかけている。
(劇中、埋め立ててしまった海は二度と元には戻らない。子ども達の世代には同じ自然を見ることは出来ない。。手遅れだ。ーというような台詞があるのだが、放射能汚染を広げてしまった今だと、この台詞ズシンと来ます。)

劇の中心である親子、渡辺と入江の関わりがとても自然なので、さらにこの芝居の出来を高めている。
(先日、前回の浅野和之との比較でどちらも良いけど、明らかに質が違う、と書いたのだが、今回の入江演ずる息子は大半の男がそうである優しいマザコン息子(悪い意味でなく)としてリアリティーがあった。浅野は日本人の男子にありがちな生真面目な息子という点でのリアリティーだった。)

半秒、間をずらした渡辺の演技が、この芝居では何とも功を奏していた。(あんなおかみさんだったら慕われるでしょうに)

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マッチ売りの少女たち(5/17)マチネ

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平田オリザ演劇展Vol.1、毎晩通って観た締めくくりの1本。

97年に青山円形劇場で初演の別役実初期作品のコラージュで作家へのオマージュ作品「マッチ売りの少女たち」をアゴラ劇場で観る。

原作:別役版「マッチ売りの少女」は何度か観ていてー*03年、新国立劇場での坂手洋二演出、寺島しのぶ、手塚とおる、富司純子、猪熊恒和(母子共演が実現していたんですね〜〜)出演の舞台。メールストリローム(渦巻き)状の回り舞台が作品の不条理ワールドを視覚化していた。*つい先日、11年の2月に座高円寺で上演されたMODE、松本修演出による舞台。いみじくも、今回の母親役 大崎由利子がこの舞台でも母親を演じていたーさすがに演劇史に残る傑作と言われるだけあるすばらしく良く出来た戯曲だなあと思っていただけに、今回のコラージュの意図が掴みきれず。

わざわざコラージュするまでもなく、これほどまでに「マッチ売り。。」の比重が大きいのであれば、ストレートに原作戯曲「マッチ売り。。。」を演出すれば良かったのではないか?との疑問がわく。

確かに、他の作品「象」ー被爆者に対する市民の矛盾が描かれている。。(他の作品の引用はよくわからなかった)の挿入箇所もあるのだが、わざわざさらなる説明のためだったら、入れない選択の方が結果が良かったのではないか?ー作品としては、その選択の方が強度があったのではないか?と思えてくる。

******原作:マッチ売りの少女 あらすじ*******

初老の夫婦の夜ごとのお茶会に、市役所から一人の女がやってくる。女は昔、七つの時、マッチを売っていた、マッチを売って、自分のスカートの中を覗かせていたと話し出す。そして、それを教えたのは、あなたではないか、あなた達は私の両親なのではないかと言う。女は、外に待たせていた弟も家に入れ、「善良で模範的で無害な」夫婦は、二人を拒むことも受け入れることも出来ず、戦後の混乱と混沌が、闇の中、白々とした朝の中、浮かび上がる。
(戯曲紹介HPより)
********************

ステキな小物が並べられたテーブルでの夜のお茶会。善良そうな夫婦。
そんな彼らの平穏な日常に、一見すると過激ともとれる招かざる客ー少女と弟ーが、何の脈絡もなく介入してくる。舞台上のやりとりだけを観ていると、乱入者の方が圧倒的に分が悪いのだが、見続けるうちに、決して舞台の表には出てこない、裏のストーリーが隠れていることが匂い立ってくるのである。
不条理という形をとりながら、かなり痛烈に社会を批判した、クレバーで勇気のある戯曲。


当日配布パンフにある平田オリザの言葉「今回の震災で、私たちは再び、すべてが押し流されてしまった廃墟、瓦礫の山を目の当たりにするということになりました。「大震災という不条理」ということを、ずっとあたまの中で反芻しながら、私は稽古を続けていました。私たちはまた、この災害を、「なかったかのように」復興していくのでしょうか・・・。」
ーその意味では確かに「今」の上演意義がある芝居なのだとは思う。

「少女たち」として毒を薄めてしまったところで、原作にあるような緊張が崩壊してしまった。

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2011年5月17日 (火)

ぼっちゃま(5/16)

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なかなか長文のレビューが出せないので、まず短く一言コメントを入れていきます。(あとでちゃんと書き込むのでご勘弁)

稲垣吾郎主演のラッパ屋主宰・鈴木聡作「ぼっちゃま」を稲垣ファンが最後に我慢出来ずスタンディングオベーションでカタルシスを浄化させずにはいられなかったパルコ劇場で観る。
この現象が表すように、善くも悪くもー本当にどちらも半々ー稲垣吾郎を観客の視線スポットライトが追いかけてしまうような舞台だった。(これがスマップオーラ?!でも、草彅君のときはもう少しひいて、観れるんだけど。。。)鈴木聡らしさ満載の家族の内輪話コメディー。全編で生演奏のピアノも付き楽しめる。それにしても、あて書きなんだろうけど、この浮世離れした`おぼっちゃま’をやれるのは吾郎ちゃんならでは、、かも。

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劇場創造アカデミー1期生終了上演 「赤と黒と無知」「缶詰族」

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座高円寺の俳優養成コース1期生の卒業公演。
ある意味、本プログラムとしてはチャレンジ的要素が多く、ちょっと上演を尻込みしてしまうかもしれないエドワード・ボンドの「戦争戯曲集」の中の2編を上演。ー座では今後、この作品をレパートリー作品化していく構想らしいので、今回はその前哨戦?(翻訳の実践チェック、観客の反応チェックなど)

まさに、今の戯曲であり、かつ長く考えていく内容ではあるのだが、一方、卒業公演という目的から考えると、卒業生たちの成果を最大限にアピールする作品として妥当であったのかどうか?ちと疑問。

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2011年5月14日 (土)

底抜けマンダラ(5/13)

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大駱駝艦の壺中天公演。
今回はカンパニーの中核・向雲太郎の振り付け・演出作品。
タイトル通り、曼荼羅画図が表す世界ー死と生の葉境、その隙間に住みつく俗世の象徴である人々、仏の回りに群がる人々、でもって曼荼羅が示す現実世界構造ーなどを表した作品で、コンテンツもさることながら、その表現方法ー(らっきょう坊主、守護神(悪?)坊主ーこれらに関しては後日解説などなど)としても新しいものを見せてくれた、いつもながらに完成度の高い舞台。

面白かったのは、自ら(私)の反応で、これが私の現世界なのか、観ている間中「震災」「日本のこれまでとこれから」などのイメージがずっと頭から離れなかったこと。

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Romeo&Juliet (5/12)

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熊川哲也が昨年発表した新たな振り付けの「ロミオとジュリエット」の再演公演。

前回から、またもや半歩ラディカルに独自の解釈を押し進めている。
既存の定番解釈をそのまま上演するカンパニーが多い中で、この独自解釈の上演はかなりラディカル。常識に捕われない彼の自由な発想、アーティストとしての基本姿勢を評価する。

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鳥瞰図(5/12)マチネ

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08年に初演された好評舞台の再演。

主役の交代(浅野和之→入江雅人)により、またひと味もふた味も違った舞台に生まれ変わった。
どちらが良い悪いではなく、同じ台詞と設定でありながら、これほどまでに主役親子(母親:渡辺美佐子)とダメ息子の関係(ある意味話の核)に自然と変化が生じていることに驚いた。母親の受け答えにまで影響が見えた。

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平田オリザ演劇展 Vol.1(5/9&8&9 三夜連続で通う)

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「走りながら眠れ」5/9

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「ヤルタ会談」「The Yalta Conference (英語上演)」5/10

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「舌切り雀」「Le moineau à la langue coupée〜(フランス語上演)」5/11

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サブロ・フラグメンツ(5/7)マチネ

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舞台評はこちらのリンクからどうぞ↓

サブロ・フラグメンツ レビュー

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恋人(5/9)マチネ

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どんとゆけ/あしたはどっちだ(5/7&8)

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日本語を読む(家、世の果ての....../夜の子供)ー(5/5&6)

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〜宇宙下町大戦争の巻〜もーれつア太郎(5/5)マチネ

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2011年5月 3日 (火)

たいこどんどん(5/2)

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夜はシアターコクーンで井上ひさし作(自身の小説「江戸の夕立ち」を劇化、五月舎公演として75年に初演された。その後も数回の再演あり)、蜷川幸雄演出の舞台「たいこどんどん」を観る。

蜷川氏によると、戯曲をカットすることなくト書きまで忠実に再現したらこうなった、ということで、休憩を含め3時間40分の大作(手を変え品を変えの演出+2幕に入ってから特にテンポアップするのでそれほどの長さには感じないが)。初演の五月舎上演でもこの尺だったのだろうか?ー75年にはまだ、一日がかりで芝居を楽しむなんて今よりもゆっくりとした雰囲気が世の中に残っていたのかもしれないー

*****あらすじ 演劇サイトより******

江戸日本橋の薬種問屋の若旦那・清之助(中村橋之助)と、忠実なたいこもち桃八(古田新太)が、ひょんなことから漂流して、拾われた船に連れて行かれたのが東北・釜石。各地を転々とする九年の珍道中がここから始まる。二人には思いもかけないような災難が次から次へと降りかかる。流れ流されたあげくようやく「江戸」に戻ってくると・・・。
若旦那にどんなに裏切られても無償の奉仕を続ける幇間・桃八。社会は激変していっても根本的なところで「なにも変わっちゃいない」日本への静かな怒りや、時代に不意打ちにされつづける大衆への提言。歌や、踊り、お座敷芸など笑いがあふれるエンタテインメントの底には、庶民に向けられる作者の視線が。。。。

*********************

歌舞伎の芝居小屋を模した造りの舞台、三色の定式幕が開いて開幕となると、その後ろにも歌舞伎様式の書割(背景を描いた大道具)、差し金(蝶やと鳥などをしなる棒の先につけて黒子が動いているようにみせる)、地がすり(舞台に背景セットの役割として敷く布)、などなど、歌舞伎スタイルの舞台が登場。上演中は多くの黒子たちが汗だくでセットの早変わりを人力でこなしていた。
ただ一つ、歌舞伎座ではー蜷川「十二夜」以外ではおそらく使用されたことはないと思われるー通常は見られない舞台セット、三方を囲む大きな鏡が、蜷川演出の現代劇であることを印象づけている。

オープニング、役者全員が揃っての挨拶(お辞儀)で劇が始まる。ー東北地方を行脚するお話ということでまさにタイムリー、劇中にも釜石・遠野・盛岡。。とみちのくの地名が多く出てきてこのところ頻繁に目にする東北地方の地図が頭にうかぶ。劇自体は東北地方の人々の天真爛漫な気質がそこここに溢れた楽しい劇であるのだが、この全員そろってのお辞儀は今回の震災被害、被害の当事者たちへ対する礼儀であったのかも。

主役の三人、中村橋之助・古田新太・鈴木京香(清之助のマドンナとして品川、釜石。。と各地で二人にからむ女数役を演じているのだが、結局のところこの女にひっかかってしまうが故に二人はいつでも窮地に追い込まれることとなる)が三人三様の色を持っておりー歌舞伎・現代劇・現代ドラマ/映画の主役ーさらには各自がその色を消すことなくこれでもか!と頑に`わが道’の演技を展開しているのだが、不思議とそこに違和感は無い。それぞれの役にあわせたキャスティングー老舗の問屋の道楽者の若旦那・如才ない太鼓持ち・男が溺れてしまう器量良しの悪女ーということもあるのだが、真ん中に陣取る古田新太の天然+天才的な自然気質も功を奏しているのかもしれない。

劇場へ足を運んだお客様を十分では飽き足らず、十二分、十五分ぐらい楽しませなければという井上戯曲のサービス精神からか、珍道中に華を添えるエンタメエピソード、しかも歌と言葉あそびがこれでもかと詰め込まれていてが満載なのだが、数々の繰り返し云々を乱暴に省略すると、、パンフレットの冒頭で作家自身の言葉として紹介されているように、

"・・常に世の中が先行し、その世の中に庶民が歩調を合わせて行くという茶番は、もうぼつぼつやめにしたらどんなものだろうというのが、この戯曲を書いていたときの、わたしの感想であった。・・・でないと体制(おかみ)の方針が、はれんちに右や左へ変るたびに、清之助のように、わたしたちはいつも呆然自失を専売特許にしていなければならなくなる。(注:桃八と力を合わせ機転をきかせ、身を粉にして働いてやっとのことで江戸まで自力で生還した清之助だったが、その9年間の間におかみの顔が江戸から東京へと激変し、それに伴いその命がけの努力の積み重ねも一瞬にして水の泡と消えてしまうという現実に直面する。しかしながら、それでも希望を持って精進しつづけるしかないのが一市民である清之助と桃八の人生なのだ、と諭しながら劇は終幕する)”

という、笑い(特に猥雑な下ネタばかりの笑い)の中に哀しいリアルーちょっと裕福な若旦那でも、そんな市民の特権は大きな社会構造の中では一端にすぎず、所詮、おかみに楯突くもの、体制にもの言うものたちは全国にはびこるその顔見えぬ体制の匙加減により抹消される者となりうる(なんだか、先日来のホリエモ×の顛末のよう)システムが出来上がっているーとそれを`しょうがない’と受け入れつづける庶民たちへの警鐘が埋め込まれた劇となっている。

図らずも、舞台が東北ということで、今回の震災を思い浮かばさずにはいられない訳だが、例えば、これに関しても、天災の部分と人災の部分とさらには体制(官僚)、権力(政治)、巨大企業による利権絡みの事件として物事を整理して考えて、ただ`しょうがない’`自らやるしかない’と受け入れるばかりではなく、体制サイドの落ち度も追求するべきところは追求するべし!!!と喝を入れられたような思いがした。ー特に、ラストで今回の大津波を想起させるような大波の書割が舞台を横切った時にはハッとしたー
(余談:昼間の「寿歌」でもそうだが、このところの観劇には3.11以前にはなかった新しい眼ー中長期未来の日本を見据えるーが加わっている事に毎度気づかされる。この観客の変化があるからこそ、たとえば古典作品でも毎回ちがって楽しむ事が出来るし、逆には創作サイドはその点を留意しながら上演しなければ思いもよらぬ結果となるということなのだろう)

前述したように、今日の渋谷での現代劇鑑賞としてはちょっとゆっったりしすぎ(?!)の部分、例えば楽しませる下ネタやダジャレの部分の省略でスピーディーにすることでさらにはっきりと提示できる、その利もあったかも?とかも感じられたが、反面3時間半の観劇も、たとえば歌舞伎、英国ウェストエンドなどでは当たり前なことなので、いかに今の私たちがせちがらく暮らしているのかに気づかされるという面では、まあ、これもあり、と。

最後に、ベテラン瑳川哲郎の七変化が要所要所で劇をぴりりとしめてくれていた。

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2011年5月 2日 (月)

寿歌(5/2)マチネ

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★★★★★

GWに何か観たいな〜〜〜〜、と思っている人は下北沢の新劇場・アトリエ乾電池(座長 柄本氏のご自宅をアトリエ(稽古場?)兼劇場としているらしい)へ急げ!

ーーーーー4日までの限定公演+小劇場なので、早い者勝ち。。私も出来る事ならもう一度、観たいのだが、締め切り云々で、、、ちと難しそうーーーーー

北村想氏の代表作「寿歌(ほぎうた)」ー三人芝居ーを乾電池の役者陣が見事に演じている。

未来の日本のどこか、核戦争後の荒涼とした大地をリヤカーをひきながら各所で即興芸で身銭を稼ぎ日々を生き延びているゲサク(西本竜樹)とキョウコ(角替和枝)。そんな二人の前に茨の冠を被り、不思議な力を持った男ヤスオ(血野滉修)が現れ、二人と合流する。

******北村想氏ブログ 「北村想のネオ・ポピュリズム」3月30日付け より****

。。。私はなんとなく、『寿歌』で私が書いた情況と、現代の情況というのが、重なってきているんじゃないかなあ、と答えた。それはこの度の地震のことをいっているのでは、もちろんナイ。『寿歌』の、あの、寒々とした荒涼の地平線、コンピュ-タが「おかしなって」飛ばしているミサイル。「まんで花火や」と、キョウコは、その爆発を観ていうのだ。それらは、劇におけるメタファ-には違いないのだが、また、fictionではあるのだが、かなり明確に「現実(reality)」を通して視線が観たもののように思える。・・・『寿歌』の上演が、ある劇団とカンパニ-で予定されている。「なんの話かワカラナカッタ」話である『寿歌』は、いま、現在において、「やっとワカル」話となって読まれはじめているのではないのか。それは核戦争後の話でもなく、この現在をお伽話にした、そのような物語なのではないか。

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港町純情オセロ(4/30)

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★★★★+0.5=4.5★

いままでの積み重なりが良い形で現れた傑作舞台。

劇団☆新幹線だから、でもって新幹線にしか出来ないシェイクスピア・エンタメ芝居。

5/12(木)のJTに劇評が出るので、そちらもチェック!

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淑女(4/30)マチネ

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★★★(0.8)=3.8★(三つ半だと少なくて、、でも四つまでではないぐらい)

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至福の2本立て(4/28)

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帰国翌日に`今、見るべき傑作舞台’の2本を再度観劇する。ー良い芝居を観ると`し・あ・わ・せ’を体中で感じる。

`わが星’に関しては5/12(木)The Japan Timesに劇評が載るので、そちらもチェックしてみて下さい。

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