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2011年3月

2011年3月31日 (木)

月にぬれた手(3/31)マチネ

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舞台芸術学院60周年記念公演「月にぬれた手」を東京芸術劇場小劇場で観る。
彫刻家・高村光太郎の半生(智恵子没後)を描いた、渡辺えりによる新作劇。

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「月にぬれた手」

わたしの手は重たいから
さうたやすくはひるがへらない。
手をくつがへせば雨となるとも
雨をおそれる手でもない。
山のすすきに月が照つて
今夜もしきりに栗がおちる。
栗は自然にはじけて落ち
その音しづかに天地をつらぬく。
月を月天子とわたくしは呼ばない。
水のしたたる月の光は
死火山塊から遠く来る。
物そのものは皆うつくしく
あへて中間の思念を要せぬ。
美は物に密着し、
心は造型の一義に住する。
また狐が畑を通る。
仲秋の月が明るく小さく南中する。
わたくしはもう一度
月にぬれた自分の手を見る。

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渡辺えりがプログラムの中で「この戯曲を掻くために私は生まれてきたのではないのか?」と言い切るほどに思いをこめた今作。そのように言い切るだけあって、高村光太郎の正直な告発、悩める人生を通して、渡辺自身の人生における問いかけー女性でありながらリーダーとして矢面に立つことの難しさ=洋画家として女性でありながらキャリアでの自立を目指した智恵子、男と女の違い、全てが右に倣えの日本の慣習に対する問いかけ、それら全ての今まだ現在形の問いかけがギュッと詰まった渾身の劇作となっている。

この劇「月にぬれた手」で描かれる高村光太郎は、常に自問、そして反省している。人だから悩む、間違える、、、、だけど、上記の詩にあるように、彼は決して多数派に流されず、自ら人の言葉に耳を傾け、自らの過去の行動に煩悶しながら答えを模索する。

智恵子の予期せぬ心の病に直面し、戸惑う、逃げる、だけどその事実から目をそらさず、己の弱さも追求する彼の人生は、最終シーンが示すように穏やかな満足のいったものであったのではないかと思わせる。

高村夫妻の人生を扱った劇作としては、渡辺とは同年代で今劇場の芸術監督である野田秀樹作「売り言葉」が思い出されるが、「売り言葉」が大竹しのぶによる一人芝居(その後、Ort-dなどの2人による上演もあるが)で智恵子の側から高名な芸術家である光太郎をみた芝居という形式で、芸術家同士の結婚の理想と現実を述べ、極めて個人的な範囲での男女の間柄の理想と矛盾を描いているのに対し、渡辺えりが今回、智恵子の死後の光太郎の視線でこの時代に生きた日本人芸術家の、それも近くに近代女性解放思想に燃える妻を抱えた男の、日本人としての矛盾、大正(昭和初期)時代に生きる男としての理想と現実の矛盾、そして芸術家であらねばならなかった男の矛盾を、その時代における日本国民の矛盾ーさらにこの問題は現在になっても解決してはいない、というところにまで言及ーを長期スパンで俯瞰視線で描いていて、この取り組み方の違いも興味深い。

(夫婦二人に集約して狭いところから普遍を導き出す「売り言葉」にしても、思いっきり手を広げこの芸術家の人生を国民的課題として問う「月にぬれた手」にしても、その方法こそ違えども、どちらも将来上演され続けるであろう名作であることに違いはない。)

「月にぬれた手」が名の知れた実在人物の人生から、戦後の日本人が抱える未解決問題を提示するという劇作という点で故井上ひさし氏の戯曲を彷彿させる趣もある。
ーちなみに、今回の演出は井上芝居で数々の名舞台を生み出した、鵜山仁氏によるー

今回は舞台芸術学院の記念公演ということで、出演者・スタッフは同校の卒業生が名を連ねているのだが、仲間内ではなく、各年代からバランス良くキャスティングしているのも、それぞれの時代背景が見えるようで面白かった。(芸達者が選ばれている為に、ちょっと個人の資質に頼りすぎているところもあったが)

最年長の金内喜久夫(文学座)が高村光太郎をひょうひょうとした演技で好演。若手の平岩紙(大人計画)のテクニシャンぶりも光った。

ps
光太郎が晩年を過ごした場所が東北、岩手の花巻ということで、東北の地元の人々の声、訴えなども台詞の中にあるのだが、時が時だけに、現状の震災直後と劇中の戦争直後が自然とリンクしてみえ、今観る価値のある芝居でもあった。

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MANSAI解体新書 その拾八 「大地」(2/28)

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芸術監督である野村萬斎プロデュース企画、MANSAI解体新書の18回目、世界で活躍するバレエダンサー・コンテンポラリーダンサー首藤康之をゲストレクチャラーに迎え、狂言とバレエにおいての身体の使い方の違いを、狂言「三番叟」とバレエ「ボレロ」の動きから実際に検証する解体新書「大地〜恩寵と重力の知覚」を観てきた。

今回のプログラムが自主企画としては震災後初めての開催ということもあり、震災被害の状況を受け、冒頭 劇場の芸術監督である野村萬斎氏から、世田谷パブリックシアターとしての上演に再開に関する意見が述べられ、「劇場というのは人々が生きていることを確かめあう場所である。」その為にも、市民が日々の生活を実りあるものとして実感できる場を提供したい、ということから劇場を閉めるべきではないと決断し、今回の上演に至ったと語っていた。

その上で、ただ閉めるだけではなく、工夫次第で出来る事もあるのでは、という提案の一つとして、レクチャー冒頭の何十分間かは蠟燭の灯りのほの暗い中で話の部分のレクチャーを慣行。

その後、実際に動いてみせるパートでは照明を灯しての上演へと切り替えていた。

首藤氏がバレエの身体の使い方、ーバレエは跳躍、上へ上へのイメージがあると思うが、上へ行くためにはまず、地面をしっかりと踏み込む事が重要で、上下の力のベクトル関係があってこそ、踏んだ反動として上へ伸びることが出来る。。。ーと説明、それに対し萬斎氏がー狂言では(頭を)上下運動させたり、身体をやたらと上下運動させることは無い。何重にも重ねた衣装で身体を拘束し、動きに関してもある意味拘束の中で、重力を感じながら大地へと沈み、足で床を捉え、踏みしめるーと返していた。

首藤氏が狂言装束をつけて「三番叟」をバレエの身体で演じる、そしてその逆、萬斎氏が扇を手に狂言の所作でボレロを舞う、、、などの実験を試みる。人骨模型を動かしながらーちなみに首藤氏は怪我をしてから、自分の身体の内部=骨の仕組みなどについて以前にも増して興味を持つようになり、個人でも人骨模型を2体(!!)も所有しているとか。それで骨から、バレエの動きに関して考えているそうなー身体の使い方について、有効な筋肉のつけ方、理想的な骨の状態などについての考察を語りあい、さらに狂言とバレエの表現方法の違い、さらにはなぜそのような手法をとるのかなどについて考える。

そう言えば、英国のロイヤルバレエ団付属学校の入学試験を受けた日本人のダンサーから、「欧米のバレエ学校では、入学テストの身体検査の際に、ただ身長・体重を計測するのではなく、筋肉のつき方、骨盤の広がり方、足の骨の形などをフィジオロジーのスペシャリストが念入りにチェックをするのが通例。」と聞いた事がある。
国費を投入してエリートを育成しているという姿勢がそこからもうかがえると言うもの。
(世界で一番のバレエ団になるためには、そこから、が必要なんだろうな)

いつもながら、萬斎氏の品のある立ち振る舞いとおちゃめなキャラクターが楽しい、それでいて一方では旺盛な探究心により分り易く面白いレクチャーとなっていた。

萬斎さん、今度はストレートプレイで夏目漱石ですね。。。どうなることか、大いに楽しみ!

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2011年3月29日 (火)

The Wedding Singer (3/28)マチネ

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日比谷のシアタークリエでブロードウェイミュージカル(06年幕開け)の輸入版「ウェディング・シンガー」を観る。

日本では08年にやはり日比谷の日生劇場で初演を迎え、今回と同じ主役二人ー井上芳雄&上原多香子ーのキャストでされたとのこと。

80年代のアメリカが舞台の能天気なラブコメ&ハッピーエンドのミュージカル。

*****あらすじ ウィキペディアより*********

ウエディング・シンガーとして働くロビー(井上芳雄)は、自分自身も恋人リンダとの結婚を控え、幸せな日々を送っていた。ところが、結婚式の当日、牧師の前で待つロビーの元にリンダは現れず、結婚は取りやめになってしまう。リンダは、ウエディング・シンガーではなく、ミュージシャンとして自分のバンドで活動していた頃のロビーを愛していると告げ、去ってしまう。
すっかり落ち込んだロビーは自暴自棄になり、仕事中もトラブルを起こす始末。そんな時にウェイトレスのジュリア(上原多香子)に力づけられ、彼女自身の結婚式の準備を手伝うようになり、少しずつ互いに惹かれるようになる。ある日ロビーは、ジュリアのフィアンセであるグレン(大澄賢也)が平気で浮気をするような男と知り、行動を起こす。

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`みんながハッピーになれる’を謳い文句に手拍子で楽しむミュージカルのはずが、なんだか気持ちはズズ〜〜〜〜〜ンと暗くなるばかり。。。これは私がこの手のミュージカルに拒否反応が出てしまうから、なのでどうにもならず。

オバカなんですけど〜〜〜〜、清純な美女と爽やかな美青年のラブストーリーって、今どきそんなもの観られたもんじゃないんですけど。でもって、お決まりのオチもあまりにもお決まりなんですけど〜〜〜〜、どうにかして!!!頭が腐りそう。

演じているキャストの方々が、本当にー皮肉でもなんでもなくてー素晴らしい役者揃い、井上芳雄、上原多香子、大澄賢也、新納慎也(この人を観るだけでも、まあ価値はあるかな)、鈴木綜馬。。。だったので、それだからなお、悔しい。

ラブストーリーでも良いから、コメディ大いに結構、、だけど、ちょっとで良いからヒネリを効かせて(お願い)、真のヒューマンドラマを加味して(超、お願いだから)!!!

才能あふれるミュージカルスターにクリエイティビティのある仕事を!歌うだけで満足させるだけでなく、演じる喜びを与えてあげられる作品を、彼らに!


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カスケード〜やがて時がくれば。(3/27)マチネ

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下北沢駅前劇場で岩松了プロデュースの「カスケード〜やがて時がくれば。」を観る。

その逆転的発想を持つ人間洞察力(登場人物たちは決して真実を語らない)から日本のチェーホフとも言われる岩松了が若手俳優と現代のチェーホフ劇を上演する、と聞いたら、それはもう「何が何でも観ておかなくてはならない」と思うのが至極当然というもの。

******制作から、今回の公演に至った経緯について******

岩松了さんの所属事務所「鈍牛倶楽部」にて、不定期で行われていた若手俳優達のワークショップをきっかけに、かねてより岩松さんが仰っていた「若手とともに創作してみたい」という想いに甘え、岩松さんと鈍牛倶楽部さんのご協力を得て具現化させていただける事となりました。

「岩松了プロデュース」とし、岩松さんの新作書下しでプロジェクトが立ち上がり、鈍牛倶楽部の所属俳優を中心に、縁のある若手俳優達が集まり、2010年1月よりワークショップを積み重ねてきました。
物語は「かもめ」を上演しようとする集団の青春群像劇で、配役の役名と出演俳優名が同じという設定の、まさに各々の若手俳優の"今"の状態が舞台上にて表出されます。

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前述の説明にもあるように、劇はチェーホフの「かもめ」の上演準備をしているある劇団の話。

駅前劇場の舞台には稽古場という設定でビルの地下の一室が作られている。そこに入れ替わり立ち替わり出入りする、「かもめ」に出演する役者達、演出家、役者のマネージャー、稽古場の管理人など、など。
その場にいあわせた人の顔色を見ながら、思惑や不満を告げ、どうにか思い通りの展開へ運ぼうと企む役者、劇団内でつきあっている者同士、元カノと今の彼女のはち合わせ、スポンサーのコネを強調して役を獲ろうする女優、外部からのゲスト俳優などの駆け引きが客席で全ての場面を見ている側からは見て取れる。

なんだかワケアリの稽古場なのだが、実は数週間前、順調に運んでいたはずの稽古が、突然頓挫していた事が分ってくる。上演演目が決まり、配役が発表され、そのままでいけば初日幕開けへと運ぶはずだったのだが、主役トレープレフを演じる予定だった役者、尾上君の突然の死により、中断を余儀なくされた事が明かされる。

芝居はその後の、稽古再開日から始まり、その当日の久しぶりの再会の様子、そして尾上君がまだ生きていた当時の話、そして「かもめ」を演じている芝居のシーンと、時を遡り、また現在に戻り、と行き来をしながら、語られない劇団内の人間関係、尾上君が死へと至った経緯、その理由(これもはっきりと明かされる事はない)、隠された慕情、状況を読めないKYな性格 などなどが描かれていく。。。

と、ここまで書けばお分り頂けると思うが、この芝居、結構忠実に21世紀の「かもめ」を見せてくれていたんだ、と。

昨年、あうるすぽっとでチェーホフ祭をやった際に、それぞれが理解する現代のチェーホフ劇をという主旨の下、かなりユニークでオリジナルな作品が結果として出てきて面白かった(ラップ版の「かもめ」とかコンテンポラリー「桜の園」、能楽 チェーホフ劇、落語(お笑い話) チェーホフなどなど)のだが、今回の作品も、この姿勢と同じものがあり、今の日本で演劇に関わる若者達でチェーホフ劇を創作するとしたら、、、こうなりました、という芝居に仕上がっていた。

ニーナ役を取り合う女優二人にみるニーナの二面性(というかニーナの変化)もおもしろかったし、それぞれが考え過ぎて空回りする様もいかにもチェーホフ劇らしくて、考えさせられた。


観劇日は千秋楽日公演だったのだが、この情況下にもかかわらず、大勢の観客で客席が満杯状態だったのが印象的だった。
(先日の青年団の「演劇入門」を観て、岩松了芝居に興味をもった若者とかも沢山いるのかも)

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デンキ島〜白い家篇〜(3/26)

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東池袋・あうるすぽっとで劇団道学先生「デンキ島〜白い家篇〜」を観る。

今回は蓬莱竜太作「デンキ島」シリーズの連続上演企画ということで、初演を観ていない蓬莱氏のベースであるモダンスイマーズによる「デンキ島〜松田リカ篇〜」を観ることが出来ると思い、楽しみにしていたのだが、丁度、上演日が3.11直後に当たり、我が家のKY亭主が会社で足止めをくらっていたので、その日に帰ってきた時にいないというのも。。。。と思い断念する。

と言う訳で、連続上演シリーズの第2弾、「〜白い家篇」に関しては、07年にシアタートップスでの初演の際にも観ているので、こちらは再度の観劇となった。

キャストはほとんどが初演と変わらず、若干の入れ替えのみ。初演では作家の蓬莱氏が演出も担当していたのだが、今回は大谷亮介が担当。しかしながら、演出家による大幅な変更点はそれほどには感じられなかった。

シアタートップスよりも間口の広いあうるすぽっと用に舞台セットはちょっと大掛かりに、居酒屋(もしくは坂本(山本亨)の家の居間)と漁船が停まる港付近の外とが2段組みになっていて、前回よりもその居酒屋などの部分が広く感じた。ー皆が顔見知りで幼いころからの過去を全て知っているという、小さな離島の漁村という環境、その閉塞感は、前回のトップスの舞台の方が俄然出ていたように思う。ー

****ネタばれ注意*******
舞台は北陸の小さい閉鎖的な島、通称「デンキ島」。一匹狼の漁師と、彼と同級生の駐在の前に、やはり同級生で本土に渡っていた男がヤクザとなって現れる。

(劇場HPより、蓬莱氏が語る「白い家篇」に関して)
そもそも『デンキ島』はある種の青春モノなので、道学先生の役者さんたちのために書くとなると、だいぶ勝手が違うんです。で、青山さんが望んでいたものも日活映画の『渡り鳥シリーズ』みたいな、海の男たちがカッコ良く渡り合い、その中で自分もカッコ良く見える芝居を書いて欲しいということだったようで(笑)。タイトルも、愛する女を助けるため、自分を犠牲にする男のカッコ良さを描いた洋画『カサブランカ』からもらったもの。カサブランカはスペイン語で「白い家」という意味じゃないですか。
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日本の「カサブランカ(白い家)」を目指したという今作。男が惚れる男、映画ではボギーが演じた役どころ、坂本シンヤを山本亨が演じ、彼が愛する人妻アカネー映画ではイングリット・バーグマンーを劇団道学先生のかんのひとみが演じている。

ある理由から慎ましやかにひっそりと暮らすその二人の前に、本土から戻ってきたヤクザ藤島(井之上隆志)、そして彼のろくでなしの息子(鷲尾昇)、彼の愛人として一緒に戻ってきたやはり島育ちの油井ナオカ(三鴨絵里子)らが絡み、シンヤの生活は一変する。
島の若者の浅はかな裏切りもあり、窮地に追い込まれるシンヤ、やがて酒におぼれる日々となりアカネとの暮らしにも破綻をきたす。


幼なじみの男同士の部分、また島で人望のあついシンヤを取り巻く人々の思い、そして伏線となる居酒屋の娘と村の警察官の恋物語、、などはきっちりと描かれているのだが、一つの大事なエピソードであるシンヤとアカネの許されない愛のところが、、、う〜〜〜〜ん、ちょっと説得力に欠ける、、のが惜しい。

ナオカのちょっとした復讐=いじわるだの、藤島の男の友情だの、小さな村社会で起きそうなエピソードが生々しくて、面白い。

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冬の旅(3/26)マチネ

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新百合丘、川崎アートセンターにて、平田満&井上加奈子夫妻が主宰のアル☆カンパニーの「冬の旅」を観る。前回の「家の内臓」リンクはコチラから↓

アル☆カンパニー 「家の内臓」


新宿三丁目の小劇場、SPACE雑遊での1週間の公演を終え、週末にここ川崎での上演というスケジュールだ。

毎回、カンパニーから旬の劇作家に新作提供を依頼し、主宰の二人を含んだ少人数キャストでの上演を続け、05年のカンパニー発足から今回で8作目の公演を数えている。

これまでに、青木豪、蓬莱竜太、そして前回の前田司郎となんとも豪華な執筆陣を誇るが、これも平田氏の人徳ということなのだろうか。


そんな中、今回も夢のタッグ、松田正隆作・高瀬久男演出という組み合わせが実現、さらには今回は客演なしの二人芝居、それも設定が役者同士の夫婦という、虚実が一致した設定で、、まさにアル☆カンパニーの為に書き下ろしたような作品の上演となった。

舞台中央には円形に砂が敷かれた部分があり、その中に簡素なベンチ椅子、小さなテーブルと椅子、そして右手上部には冬のコートが架けられるような吊り型のレールがある。

劇冒頭、二人とも役者であること、どちらかと言えば妻の方が有名で多忙な役者であること、そして先日の舞台でその妻に一大事が起きたことー舞台でマクベス夫人を演じていた妻が突然台詞につまってしまい、さらにはなんとかその場を取り繕ったり、その部分を飛ばして台詞を続けたりということもせずにしばらくの空白を作ってしまったーなどが語られる。

その事件もあり、二人は人生のリセット、清算もかねて海外旅行へと出かける。


******ネタばれ 注意  あらすじー劇団HPより ******

わたしは俳優を職業とする夫婦の劇のことを考えています。

二人は異国を旅しています。冬の旅です。大きな窓のある宿の部屋でなにかを話しています。二人はもう一度ここに来たのです。かつてこの場所に来た記憶を確かめるように。さまざまな役を演じてきたにもかかわらず、すべてはあやふやで、ただ二人で昔旅をしたこの地のことだけが二人には確かなことのように思えたのかもしれません。一度目のこの地への旅を確かめるように二人は再び訪れたこの街のことを話しています。演劇はおそらく「再び」であることと深く関わっていると思います。過去の出来事は常に一度目ではじめてで、一回きりしかありませんでした。それなのにその過去に対して「もう一度」であろうとすることに演劇の面白さがあるのだと思います。

松田正隆

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妻にとってはかなりショッキングな出来事であったであろう`台詞出てこない事件’を、彼女は胸の奥に封印し、夫との久しぶりの旅行=非日常を楽しむべく、飛行機に乗り込む。

飛行機でも、努めて明るくふるまう彼女の気持ちを知ってか、知らずか、それともその気づかないふりが夫なりの気配りなのか、旅の様子からはそれぞれの本当の気持ちは、直接的には現れてこない。

夫婦の会話から、おそらくは二人はイスラエルを訪れているものと思われるのだが、そこに政治的な意思表示やら、劇的な何かの事件が起こるわけではなく、そんな遠く離れた異国の土地でも、長い間時間を共有してきた二人のやりとりは、まるで国内旅行で旅館に泊まっているかのような、いつもの喧嘩であり、いつもの会話のやりとりだ。

そのように、何事もなかったかのように、そして昨日からの続きのように、二人の継続した共同生活は続いていっているわけだが、、はっきりと台詞に出てくるわけでも行動に現れてくるわけでもないのだが、そんな二人の会話のちょっとした`間’、語られない時間から、実のところ、この二人は今、再生ではない新しい時間を生きている、これから起こるであろう様々な老いの時間の共有を連想させる、二人の未来の時間を想像させる、静かな芝居が進行している事に気づく。

そこには政治的メッセージも、主義主張があるわけでもないのだが、全ては語られない部分に、実のところ彼らの人生観、そして人が生きていく上で関わらざるえないもの、諸々が浮かび上がってくる。

今回、二人の役者が実生活でも夫婦であるという条件が、思わぬほどに好結果を生み出す要因となっていたように思う。

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卒塔婆小町(3/25)

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流山児事務所のレパートリーシアター連続上演企画の最後、三島由紀夫作、現代能楽集の一遍「卒塔婆小町」をSpace早稲田で観る。

流山児祥氏と北村真美氏との共同演出、ということでダンスに造詣が深い(らしい)北村氏がダンス振り付けを担当したのであろう、プログラムにある通り出演者10人による群舞がふんだんに盛り込まれた<ダンス・テアトル>形式の上演であった。(彼女ー北村さんーは以前にも「戦場のピクニク・コンダクタ」上演の際に流山児氏演出の舞台で振り付けを担当している。)

オープニング、舞台床下から、白衣を着た男5人、女5人が舞台上へ這い出してくる。Space早稲田の狭い舞台を上演スペースぎりぎりまで客席が迫り、その中央のステージに重なりあうように役者10人が一挙に登場する。

その後、白いシャツを脱ぎ捨てて、塩野谷正幸が三島の割腹自殺当日の市ヶ谷駐屯所での自決直前のスピーチを一節述べ、その後、卒塔婆小町の幻想の世界へ。

それまで舞台上にあった白骨人体(三島の亡骸と思われる)を10人の役者が拾い上げ、骨を手にこれから三島の世界を表現する覚悟を示す。

百夜通いー小野小町に恋いこがれた深草少将は小町から百夜通い続けよ、そうすれば恋心にこたえる、と言いつけられ、毎夜忍んで通うのだが、99夜まで通った後、病に倒れて死んでしまう。その無念から霊となった少将の念に小町は苦しめられる。ーの末に恋の幻想を信じ幸福感に包まれ死んでいく男=現代の詩人=深草少将の生まれ変わり(谷宗和)とこの世のしがらみから抜けられず、それでも男からの愛の告白を本能的に望んでしまう女=老婆=小町(塩野谷正幸)の何時の世にも変わらないものがたり、男と女の性質の違い、男という純粋で単純な生き物と女という現実的で地に足がついた生き物を描いた現代能楽話が21世紀の早稲田の小劇場で、一部の隙間もない劇場空間で老若男女の見物人たちに囲まれた舞台で展開していた。

この舞台空間を、その狭さと狭さ故の密閉感を熟知している演出家だからこその有効的な演出方法であったと思う。

群舞ダンス、その形式的な俗世の恋人達の愛情表現方法もリアリズムで演じるよりもシンボリックでありながら内容を無駄無く描き出すことに適していたし、塩野谷さん演じる卒塔婆小町の圧倒的な存在感も話を緩慢とさせず、一点に集中させてー小町という、ある種化け物のように人を引きつけて止まないその存在を中心にして、この夢物語を信じさせることに成功していたー、ダンステアトルという省略形式の中でメリハリを効かせる事に大いに貢献していた。

現代風にアレンジした着物地の衣装も、内容とあっていて良し。


それにしても、毎回思うことだが、昨今、塩野谷さんのように男でありながら`色気のある’役者というのが、なかなか現れてこなくなった、と思う。

ま、これも日本人の性質の変化ー今どきの男子は皆、愛想が良くて、ソフトな印象だものねープラス 演劇の質の変化ー以前、ポストアングラ期(このあたりから芝居を観始めたので)には、危なっかしい感じの男臭い役者がどこの劇団にもいて、それだから`役者なんかと一緒になっちゃあ、ダメだよ’っていう助言がステレオタイプとして成立していたんだと思うけど。

アングラとは言え、今よりは従来の古典芸能に近かったのかな?贔屓の役者の見栄(まではいかなくても、熱い眼差し?!)を観たくて、劇場の前に並ぶなんてファンもいっぱいいた時代だったからね。
(その部分を受け継いでいるのはジャニーズ舞台??!)

今でも、ご贔屓役者の芝居を続けて観るというのはあるんだろうけど、それよりも、その劇団のカラーだったり、話のオリジナリティーだったり、それこそ、現代を代表する平田オリザ氏はロボット演劇を発表する際に「俳優は考えるコマである。(著書:演劇入門より)」「ロボットに指示するのと、普段俳優に指示するのとでは同じボキャブラリーでやっている。。」と語っているように、舞台へその役者の名前の呼び声がかかるような現象はまずないでしょうから。

まあ、これもそれも、全てはこれまでの進化の過程で起きた結果と受け止めて、どちらもあり、なんだと思う。


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2011年3月26日 (土)

ホワイトチャペル2

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連休中にWOWWOWで放送していたイギリスの刑事ドラマ「ホワイトチャペル2」、3話を一気に観た。

60年代イギリス暗黒街で頭角を表し、その後も残虐な手口でロンドン・イーストエンド*のヒールのヒーローとして長年その名を轟かせていた実在の一卵性双子のギャング、ロニー&レジー クレイ兄弟に関連した現代の事件を扱った英国ITV局制作ドラマ(2010年)。

*ロンドン・イーストエンド
昔からロンドン西側に比べ、低賃金所得層、移民系住民が多く住む地域として知られている。会社勤めの中産階級よいうよりは古くからこの地域に根ざした自営業、地元の組織的企業就業者たちが多く、そのため地元を取り仕切るギャングとの関わりも根深い。
窃盗・強盗犯罪などの治安の悪さゆえ、例えば海外留学生がイーストエンドに住むことなどは異例だったが、近年のイーストエンドブーム(00年以降、倉庫街などに若手を中心としたアートギャラリー、アンテナショップなどが出来始め、おしゃれなトレンドスポットとして注目され始め、今では観光客がショッピング目当てに訪れる場所となった。それとあわせて、カフェやバーなども充実。ロンドンの若者層の遊び場のトレンドとなりつつある)のおかげで、かなり人の出入りは多くなった。
それでも、まだまだ昔からの雰囲気・習慣を残している初心者にはディープすぎる地区もあるので、ロンドンで部屋探しをする際にはイーストエンドの物件には注意を払うべし。

*******ネタばれ注意***********

舞台は現在のイーストエンド、ホワイトチャペル周辺。伝説のギャング クレイ兄弟が起こした犯罪を模した猟奇犯罪が起こり、所轄エリート警部補ジョー・チャンドラー(ルパート・ペンリー=ジョーンズ)を中心とした捜査チームが立ち上がる。

犯罪研究家バッカンはその手口から早い時点で「これはクレイ兄弟を裏切った者たちへの復讐」だとチャンドラーへ忠告するが、チャンドラーは当初、イーストエンドの現ギャングたちの勢力争いでクレイ兄弟とは関係ない、と取り合わない。

しかし、その後に続く殺人事件、容疑者として浮かび上がった地元の双子ギャングの存在から、次第にバッカンのー伝説のクレイ兄弟ーとの繋がりを認めざるを得なくなってくるチャンドラー。

捜査途中に中央エリートチームに捜査の権限を奪われそうになったり、チーム内での不協和音が起こったり、、、と様々な紆余曲折を経て、真実に辿り着くチャンドラー。

最後にはドンデン返しの未来予想図(フリーメイソン絡み)が暗示されてシリーズ2は終結する。

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いかにもイギリスらしさ、多くのイギリスならではの文化背景が盛り込まれていて、面白かった。

ー例えば、警察署における、絶対的な階級による棲み分け。チャンドラーはオックスブリッジ出のエリートなので、いつもサビルロウで仕立てた完璧なテイラード・スーツを着こなしているのだが、その下の部下の人たちは、まあ普通の中(下)流のサラリーマンデカで、普通に店で買うスーツを着て中流の暮らしをしている。でもって、署内であからさまに彼ら出世組に敵意を表す見回り制服警官たち。(まあ、日本もそれに似たエリート組織構造はあるのでしょうが)廊下ですれ違えばわざとぶつかると言ったように、普段から両者の間には火花が散っている。

イーストエンドの(犯罪者の巣窟)パブの様子もすごかったし、反対にチャンドラーの上司の超エリート警部の(イギリスとは思えない)広々とした豪邸。。。でもって、その先にあるエリート集団の企み(メイソン)。


世界は一握りの人たちによって、その人たちの都合の良い方向へと動かされている、、、という現実がきちんと描かれていて、でもって、それと同時に人が誰でもが持つ普遍的な心の病みなんかも組み込まれていて、面白い。
(アメリカンドリームなんてオバカな非現実を信じる人なんて、もういないものね)

あ〜〜〜〜、なんでこのクレイ兄弟を題材にしたテレビドラマの話を書こうと思ったか、今思い出したcoldsweats01

ロンドンへ渡ってすぐの頃、留学生が辿る一つの常套コースの一つ、休日のカムデンロックマーケット散策で、とにかく安くて着回せるTシャツをと思い、買ったTシャツ。

白地に黒でEast Enders の文字とモッズスーツ姿の男二人の写真。。。クレイ兄弟のことなんて知る由もない私、お店の兄ちゃんか姉ちゃんの「これいいでしょ?イギリスでは有名な二人なのよん!」なんて言葉にのせられてーなんで有名なのかも確かめずー購入。
イギリスの有名な長寿ドラマ番組 East Enders(四半世紀続いているロンドン下町の架空の街を舞台にしたホームドラマ。ホームドラマとは言え、昨今の世情を反映してか、浮気、薬物、殺人、レイプ。。と年々その内容はヒートアップ。当然の流れとは言え、視聴者たちの慣れに対抗するためか、これでもかこれでもか、、とエグい驚きの展開に拍車がかかって止まらない様子。それでも、国民的人気番組であるだけあって、一度見始めたら、ついついその時間にチャンネルをあわせてしまうようになるらしい。。ーあくまでも人から聞いた話では。。)の昔のシリーズのキャラクターさんたちなのかしらん?ぐらいに思って、重宝に着たおしていたのだが、、、

あれ、今思えば、クレイ兄弟の有名なツーショット写真だった(彼らはギャングとは言え、公の場にも、メディアにもー実業家として?ー頻繁に登場していたらしい)!!!

アエラの「ひつまぶし」コラムで野田秀樹が変な日本語を堂々と店名にしているロンドンの日本食レストランの話ー例えば、Makiyaki とか Sumousanとか あるらしいーを書いていた。あるいは変な漢字の入れ墨を、その意味を知らずに音だけで決めて入れちゃっている外国人の話、とか書いていたけど、、、、私、それをやっちゃっていたって事だよね。

極悪犯二人組の写真をプリントしたTシャツを、意味が分らずに、ちびっこ東洋人が着ていたって事でしょ?ひえ〜〜〜〜〜〜 Tシャツってデザインっていうことで、その手の間違いが起きやすいから気をつけて!

街を歩いていて、我が家のKY夫が不思議な英語が書かれたTシャツを見つけては大いにウケてますから。

でも、あなたの妻もそのターゲットだったんだよね〜〜〜、20年前(ひえ〜〜〜〜20年かい、こちらの事実にもあらためてお・ど・ろ・い・た!!)

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2011年3月25日 (金)

裏屋根裏(3/24)

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過去に何度も観ている燐光群の代表作「屋根裏」のインターナショナル リミックス バージョンを下北沢のスズナリで観る。

*****ネタバレ注意**********

ー某年、日本では屋根裏と呼ばれる一畳ほどの組み立て式ひきこもり部屋がネット販売によって売られ人気を博していた。それぞれが違った理由でこの屋根裏部屋を購入するのだが、ある者は転売したり、そしてある者にとっては図らずも終の住処となってしまう場合もあった。この小さな部屋で起こった様々なショートエピソードを紹介していくかたちで劇は展開する。初演(02年)当時の社会の大きな関心事の一つであった「ひきこもり」現象、またその少し前に起きた日本国中に大きなショックを与えた新潟での少女監禁事件
などを題材に、シリアスなテーマとあわせ、小さな部屋を好む日本人といった自虐ネタ、雪女と山小屋で遭遇といったちょっとしたホラー小話ネタ、、、とバラエティに富んだエピソードが連続して繰り広げられる、舞台上に用意された小さな台形ボックスの舞台装置を見続けるという、2時間10分の芝居。
************************************

今回はインターナショナル バージョンということで、通常では日本人の役者が演じるパートをかねてから燐光群と親交のあったインドネシア人、韓国人の役者ら数人がそれぞれの言葉で演じるという、特別バージョン、ゆえに「屋根裏」ではなくて「裏屋根裏」として上演している。

何度観ても、毎回面白く、感心させられる、完成度の高い芝居である事は確か。

だからこそ、日本のみならず、世界各国でーUSA(NYを含む数カ所)、ヨーロッパ(パリ・ミラノ・グルノーブル・ウィーン・ブカレスト)、オーストラリア、韓国、マニラ、インドネシア(リーディング公演)ー継続的に上演され続けているのだと思う。

屋根裏舞台セットの他は舞台装置がいらないので、その身軽さというのも大きな要因であるとは思うが、ヨーロッパ演劇などでは不可欠の笑いの部分もある社会派劇、それも現代日本の社会問題がストレートに描かれている、というのが大いにウケている理由であると思う。

今回は特別バージョンということで、明らかに`外国人俳優とのコラボレーション’その国際(人&言語)ミックスという特例を観てもらうという事が大きな上演意義であったのだと思うが、。。。と言うか、そうでなければ作品の出来いう点からは、やはりその無理矢理のミックスが、ーWHY?ーに繋がってしまうからだ。

外国人を意図して、その部分を外国人が演じる理由づけがあればー例えば、外国人文化に関するエピソードに変えるとか、日本に住む外国人ならではのエピソードを入れるとかーその韓国語で話している人に日本語で答える部分も納得がいくのだが、やはり違う言語同士で会話をしている、というのはちょっと違和感あり。

(皮肉な事に、やはり日本人オンリーで演じているシーンの方があうんの呼吸でノリにのっていたから。ゲスト俳優陣の能力の高さを観れたのは良かったけど。)

あくまでも、リミックス特別バージョンとして、その方向で楽しむべし。


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Nf3Nf6(3/24)マチネ

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ビフォー3.11(欧米の9.11に対し、日本ではこちらの数字が大きな意味をもってくるであろう)に観た、パラドックス定数による二人芝居連続上演シリーズ「5seconds」に続いて、もう一本「Nf3Nf6」を前回同様、四谷三丁目の住宅街に建つおしゃれなギャラリー、アートコンプレックスセンターにて観る。

5seconds

前回は日本が舞台で弁護士と被疑者という男二人の芝居だったが、今回は第二次世界大戦下のベルリンが舞台。
ナチスの将校と収容所に捉えられているユダヤ人、という明らかに対等では無い立場の男二人の密室劇。

********ネタばれ注意********

劇場であり、舞台であるそのギャラリーの小部屋の真ん中には二人を関係づける、チェス盤がのったテーブルとその脇に壁に沿って2脚(1脚だったかな?)の椅子があるのみ。
オープニング、目隠しをされて部屋へ連行されてくるユダヤ人の囚人。その脇ではハーケンクロイツの腕章をつけた将校が囚人の腕をつかみ、暴力的に彼を連行してくる。

部屋に入り、囚人の目隠し、手を縛っていた縄を解いてやると二人の間にそれまでの緊張とは違った空気が流れはじめる。

実はこの囚人、そして相対する将校も高名な数学者で、一方の立場がその出生から窮地に追いやられる前にはお互いの知能、数学者としての実績を認めあった同じ学問を極めた者同士だったのだ。

チェスの名手としても名を馳せたらしい二人は部屋にあるチェス盤を使いながら、互いの近況、隠された過去(スパイとして暗号解読に加担した)、そしてこの国の行く末、あの方の末路についての意見を交わす。

数学に魅せられた二人の学者が、その数学の`美’になぞらえながら、各自が信じる信念について語りあう。

語るほどに明かされる秘密、予期せぬプロット、さらには今は仇である同士へ対する思い。

数式を解き明かし、チェスの駒を進めながら、真実を探りあう男二人。

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暗号解読、チェスの定石に関するレクチャー、それらを駆使する人たちのキャラクター、と、数字と人の思いが絡み合い緊張の中で二人芝居が展開される。


個人的には前回の「5seconds」の方が人間くささ(人の心の弱さ)が基盤になっていて、またそれが色濃く作品に出ていて、好みだったかも。

こちらは、インテリの数学者たちだけに、ガス室か否かの極限状態であるにも関わらず、ちょっと綺麗すぎたのが難。

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バルカン動物園(3/23)

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2011年3月23日 (水)

母アンナの子連れ従軍記(3/22)

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どこかで観劇を再開させたいと思っている方、こんな時でも、いやだからこそ観るべき舞台として小竹向原のアトリエ春風舎で今週末まで上演中の「母アンナの子連れ従軍記」をぜひともおススメする。

ドイツの劇作家、ベルトルト・ブレヒトの代表作である戯曲、長年「肝っ玉おっ母とその子どもたち」という題名で通っていたこの戯曲を05年の新国立劇場での上演用にあらためて訳した際には意図的に「母・肝っ玉とその子どもたち」と変えたという訳者の谷川道子さん。

終演後のトークに登場し、その意図を`肝っ玉おっ母、、’というと昭和の人気テレビシリーズ京塚昌子主演の「肝っ玉母さん」の強い印象もあいまって、原作の母アンナよりも年上のお母さんを連想させてしまいがちだが、実際には主人公は女盛りの年頃で、だからこそ劇中でのコックと牧師の恋の鞘当てが起こるのだからそれにあわせた、と解説していた。

今回は、さらなる現代化、今の時代への翻案化(とは言え、削った台詞こそあれ、残した台詞に関しては谷川訳をそのまま使用したとのこと)という上演意図から、さらに進んだ定説からの脱却を実現し、タイトルも「母アンナの子連れ中軍記」として、劇中でのアンナの呼び名も「肝っ玉」ではなく「度胸アンナ」としている。


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2011年3月19日 (土)

カラスの国(3/19)マチネ

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シアタートラムで早船聡率いるサスペンデッズ第10回公演「カラスの国」を観る。

開演前、このところの観劇では必ずといって良いほど行われる、主宰者からの挨拶ー東北地方太平洋沖地震の被災者へのお見舞いメッセージとそれに次いで公演開催を決めた訳などが語られることが多いーと避難経路の説明があり、早船氏が深々と長いお辞儀の後、「今現在、このような情況下で演劇公演をやるべきかどうか、演劇の意味についていろいろ考えた。正直なところ明確な答えは未だに出ていないのだが。。。この劇で直接的に誰かを救うことなんて到底出来ないとは分っているが、今日劇場に来た人たちには何かを持ち帰ってもらいたい」と重い口調で心境を述べた。

大震災による非常事態にともなう国家レベルでの統制自粛命令などが出ないかぎりー今回の場合などは国や自治体レベルで指示が出てもよかったように思う。東電からの明確な説明なき大幅停電などが発表される前にしかるべきレベルで計画的な非常事態命令が発令された方が市民にとっては翻弄されずにベター!ー結局のところ、個人、個体レベルでの自己判断ということになり、`民主国家なのでどうぞご自由に’と言われたところで、開催側、主催側が相当に悩むことは想像に難しくなく、その過程において、誰もが「こんな時に演劇どころじゃないだろう」という自己否定のような考えに至ることは必死で、その後すぐに「それじゃあ元も子もないだろう。演劇ってそんなものだったの??」とそれこそ心的トラウマに陥るようなことにもなりかねなくて、、本当に様々なところに様々な影響を与えているな〜〜としみじみ思う。

まあ、その意味では、今回の地震災害は、日本国民一人一人に立ち止まって考えさせる、特に演劇人たちには根源的な問題「今関わっている演劇って、なに?」という問いに向き合わせる機会となったのかもしれない。

数ヶ月先の公演の為の準備に追われ、数年先のスケジュールを入れて行く、そんな演劇サイクルに慣れてしまった人たちに「じゃあ、今なんで芝居やってるの?」というような、足下の確認を迫るような、そんな数日間だったのかも。

それこそ、その数日間悩んだ事が、今の公演にすぐに現れてくるわけではないけれど、この日のことを忘れずにいれば、その果実がロンドンでの大規模爆破テロを題材にしたサイモン・スティーブンスの傑作戯曲「ポルノグラフィー」のように実るかもしれない。。。そうならなければいけない。

と、彼の気持ちの現れであるような、長い長い時間のお辞儀から、そんなことを思った。

******ネタばれ注*****

で、芝居「カラスの国」の方だが、死体の(臭い?)に群がるカラスたちのように、胸に一物、追いつめられた人々がある嵐の晩、引き寄せられるように死臭が立ちこめ始めた砂漠のホテルへと集まってきた。

明晩に大事な商談を控え、それを成功させなければ先駆者である父を越えられないと思い込むプレッシャーからついには父の幻影を見始めるサラリーマン(佐野陽一)。明晩、護衛する囚人(三田村周三)を送り届けた後に一世一代のイベント、結婚式を控えたハイテンションな男(佐藤銀平)。舞台演出家だと名のる何かを知って隠しているような男ゴンドウ(白州本樹)。
しっかり者のホテル支配人(石村みか)は小さいころに父親からうけた仕打ちのトラウマから、とんでもない秘密を隠し持っていたのだった。

*********************

シアタートラムの舞台床下をホテルの開かずの地下の間に見立て、想像の地下独房を設置。
囚人と主人公の父親の存在をダブらせ、人々の心の奥にある想像と現実世界を、謎のホテルのロビーを舞台にシンクロさせて、一見まともに見える人たちの病んだ部分を浮かび上がらせる。

見るからに病んでいる、ホテルの従業員たちの自己チューな会話が、上記の二つの世界をシャッフルする。

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日本人のへそ(3/18)

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隣接する東急デパートのシャッターが閉められる中、渋谷シアターコクーンでこまつ座93回公演・井上ひさし追悼公演「日本人のへそ」を観る。

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2011年3月18日 (金)

灰の人(3/17)

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世田谷パブリックシアターで大駱駝艦の新作「灰の人」初日を観る。

直前の経産省の「大規模停電の恐れあり」会見の影響が大いにあったと思われるー実際、その後の6時過ぎの帰宅ラッシュがすごかったらしいのでーのだが、会場は7〜8割の入り状態。

特に、というか、やはり、いつもの常連客、外国人のオーディエンスの姿はほとんど見かけず、その意味で異例の大駱駝艦公演となった。

(実際、フランス、イギリスなどからは日本からの避難通告が出されているらしいので、かなりの外国人が出国して今東京にいないのだと思われる)

公演前には主宰、麿赤兒氏から地震被災に関するメッセージが、その後に制作から避難経路・手順の説明が続いた。

舞台両脇に蜘蛛の糸ならぬ、天井からの鎖が垂れ下がり、舞台奥にうっすらと光の筋が。逆に言うと、それ以外にはほとんどステージセット無しの(シーンごとに若干のセットが加えられたが)とてもシンプルな造り。

ティンカーベル(ピーターパンに出てくる妖精)のような淡い色のミニワンピース姿で舞台を走り回り、人々を癒す我妻恵美子嬢。紋次郎の爪楊枝ならぬ鉄串口に含みながら、二人で何かを企み、面白がりながら遊び続ける二人組ー村松卓矢と向雲太郎 ーこの助さん角さんコンビが、二人合わさるとさらに魅力が倍増するのが不思議。似ても似つかない、どちらかと言えば両極端なイメージの二人が手を組んでおイタをする様は人間味溢れ、味がある。でもって、途中で真ん中に麿氏が収まると、これがまたゾクッとするほどに、その立ち姿だけで多くが語られていて、一生のうちに一度は見ておくー体験しておくーべし!と太鼓判をグリグリと押したくなる。

こちらの現役バリバリ、脂が乗った生命力溢れる方々が随所に現れ、おろかでかわいらしい人間たちを演じてくれる。

さらには、その方々の背中を見ながら、これからの自らの道=舞踏を切り開いて行こうという、やはりエネルギーみなぎる男女の群舞ダンサーたちは、それぞれに試行錯誤を繰り返し、学び、試し、21世紀の舞踏を模索する。

ーーーープログラムの前半、クラゲの遊泳のようにアルカイックスマイルを浮かべクネクネと浮遊する女性ダンサーたちの群舞シーンは特に忘れがたいーーーーーー


宣伝用写真にあるように、灰をかぶり、全身真っ白になっている麿が彷徨いながら、最後に後進の輩と出会い、一団となって正面を見据えるラストも圧巻。

前述の鎖の糸と言い、灰まみれの登場人物と言い、、近日中に起こった様々な自然災害ー津波、地震(ニュージーランド、そして東北地方太平洋沖、チリ地震)、そして自然も絡んだ事故チリ鉱山落盤事故ーなどなどがこの`灰の人’と直接的に絡んでくる。

灰と化した街も、全てが無くなった土地も、長い年月の後にはーその間に世代交代もあるかもしれないー再び生命を宿す肥えた土地へと変容していくだろう、、そうしなければ、という願いなのかも。

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あらかじめ(3/16)

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青山円形劇場で小野寺修二率いるカンパニーデラシネの09年初演舞台「あらかじめ」の再演を観る。

レビューは上記リンクから。

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凄い金魚(3/15)

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座・高円寺にて劇団ラッパ屋の96年初演舞台(97年にも再演されている)、「凄い金魚」の再演を観る。
チラシで主宰の鈴木聡氏が`現在のラッパ屋の「原点」のような作品。。’と評しているように、劇団ラッパ屋が得意とするーでもって、他劇団ではなかなか見られないようなーものの一つである、どこにでもいるような中年、そして初老年ーもしくは後期中年ーを主人公に据えた日常の日々を描いた芝居。

人生もマンネリ化の一途を辿る、そんな日々の中で、ある事をきっかけにーたいていが望まざるような出来事ーその平々凡々な主人公が開眼、また違った見方で人生の再スタートを踏み出していく。そして、その新しい門出が希望であるとともに、それはさらなる人生の困難でもあるということを示唆して終わる現実を目したエンディングに観客たちはさらに考えさせられ、帰路につくのである。

昨年末に上演されたYMO(やっとモテたオヤジ)でも、ハッピーエンドの奇跡が起こる事もなく、ちょっと哀しいエンディングとなったのだが、ちょっと見方を変えれば、オヤジの人生プラマイ勘定でいくとかなりのプラスを残しての人生だったのではないか?人の一生の帳尻合わせ、何が幸せと言えるのか?ということにまで考えを及ばせた、心憎いまでに良く書かれた芝居だった。

YMO

で、今回の「凄い金魚」。

****ネタばれ注意*******

映画プロデューサーである主人公幸太郎(福本伸一)はバツイチで今は実家で妹、父、祖父と共に暮らしている。
中央線のどこかの駅から徒歩圏内にあるちょっと古いその家の中庭には池があり、昔から金魚が飼われている。ある夏の日、幸太郎が幼い自分から毎年、ボランティアで池掃除をかってでてくれている「金魚のおじさん」(おかやまはじめ)が訪れたところから劇が始まる。

たまたま家にいた幸太郎の大学の後輩、吾郎(岩本淳)はその怪しげなおじさんと口論となるのだが、そこへ幸太郎と妹、聖子(ともさと衣)が現れひとまず落着。。。かと思ったら、離れで寝ていたはずの祖父、高野潤三が亡くなっていたことが発覚。あいにくの父の不在ー山へ言ってくると言ったまま、数日間家を空けていたーもあり、葬式の手配あれこれにてんやわんやの長男、幸太郎。

金魚のおじさんの手助けもあり、その日のうちに通夜を手配し、高野家は一転、親戚・知人、そして幸太郎の元妻、夏子(岩橋道子)、家を出て行って久しい長女の文子(弘中麻紀)も会して賑やかな夜を過ごしていた。そこへ父、栄太郎(宇納佑)もリュックを担いで帰宅し、家族全員が集合。そこへ祖父の生前の遺言書が届く。それによると趣味の映画作りで散財した結果として、その家を手放さなくてはならない、という新事実が明かされる。

あわてふためく、人々、、、さらには父の思いがけない恋人の存在までが発覚して、高野家はさらなる混乱の迷路に入っていく。。。

あまりにも悪い事ばかりの連続に、かえって開き直る幸太郎。

全てを受け入れ、明日からも生きていくことを亡き祖父に誓うのだった。

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アッと驚く、新事実のエピソードに、隠れ部屋=茶室を使ってのコメディ、個性溢れるこまったちゃんキャラで笑わせ、、と作者が言う通り、ラッパ屋らしいエンタメ要素に溢れていて、最後まで楽しめた。

しかしながら、近年の新作とはちょっと違う、何かが。。

ま、一言で言うと、`若い’というのが、`早い’というのか、、近年の、例えば「YMO」「斉藤幸子」「ブラジル」などと比べると、そのウェルメイドの具合がちょっとばかり危なっかしいのである。
かなり強引に笑いを狙っているような箇所もあり、やはり近年の作品の方がそのあたりもスムーズになっているように思う。

と言う事で、もちろん十分に楽しめて、満足なのだが、嬉しい誤算というか、進化したラッパ屋を知ってしまっているが故に、上手すぎるラッパ屋を見てしまっているが故に、そんな事を感じてしまった、という次第。

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2011年3月14日 (月)

夢謡話浮世根間(3/14)

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東北地方太平洋沖地震が起き、金曜から週末にかけての3本の観劇予定はすっ飛ばす。

中には公演自体中止という演目もあったのだが、いずれにせよ、地震初心者のイギリス人の旦那はトラウマになりかけるほどのショックを受けているし、私自身は幸いにもそれほど直接的な被害はなかったものの、やはり観劇をする気にはとうていなれず、、、とりあえずパス。

何やかんや、結局テレビの前に釘付け+海外からのお見舞い電話、メール、、と週末は地震、その他原発事故、さらにはそんな原発を管理を一任されている会社と、もちろんそれを任せている国のあまりにも甘い危機感について、考えみることしきり。

「一度に浴びても大丈夫な量ですからご安心を。」って、われわれもバカではないので、放射性物質というものが一回性の怪我のようなものではなく、長く長く尾をひくものであることは分ってますから。目に見えないだけに、それこそ避難所のお年寄りが心配していたように「これから何を食べたら良いのか?畑でつくった野菜は食べられるのか??」と心配していた意見の方がよっぽどまともだって。


で、地震被害のひどさにショックを受け、そして被災地の東北の方々の強さに感動していたら、このままそれこそ観劇意欲もどこかにいってしまうかもーーーでもって、そのまま足が遠のいてしまうかも、と思い、とりあえず再開してみようと思い、近所でもあったので、流山児事務所レパートリーシアターシリーズ3作の第2弾、流山児祥氏と劇作家、北村想氏による二人芝居「夢謡話浮世根間」を早稲田のSpace早稲田へ観に行く。

******ネタバレ注意 演劇サイトより*********

流山児祥は元機動隊員で、浅間山荘で闘った。そのアト、ゲバルトくらって、ポン中に。ところが、暴力団に雇われてのヒットマン。これから仇の親分のタマ(命)をとりにいく、いわゆるヤクザの鉄砲玉(落語ではクマかハチ公)。ときどき、記憶の断片に思い出すのは、全共闘で敵味方、幼馴染みの彼、彼女。その記憶の曖昧に、真実がちらりほらりと顔を出す。北村想は怪しげな、正体知れぬ貧乏弁護士(落語ではご隠居)。こやつが、かつて全共闘の弁護をしていたという経歴を持っている。が、しかし、そいつにゃ裏がある。
 
激動の昭和史が数々の歌に彩られ、鉄砲玉として生きた男の半生として語られる。30年前に別れた鉄砲玉の妻子を巡る2人の想い出が奇妙に交錯し「昭和」の裏面史がつづられる、これはたった二人のミステリーだ。
**********************

呼ばれたらどこへでも行きます、という身軽さを一つのテーマとしたこのレパートリーシアターシリーズの作品らしく、舞台上には事務所机と数個のパイプ椅子、窓枠と棚といったごくごくシンプルなセットのみ。

ここで、(落語で言うところの)クマとご隠居の昭和の大事件を絡ませた会話劇 プラス その当時に流行った歌を入れて、さらには日によって変わるアドリブを交えての二人芝居が展開する。

高倉健の唐獅子牡丹の「昭和残侠伝」から四畳半フォークの代名詞「神田川」、そして石川さゆりの熱演もあいまっての不朽の名作「天城越え」etc. etc.がお二人の見事な唄いっぷりとともに披露されるのだが、これ駒場や横浜あたりの小劇場レギューラー客人には、すぐにピンとはこないんだろうな〜〜〜〜、(ま、すぐにピンとこなくても、興味があれば、あとで調べれば良い事なんですが)と思いながら客席をチラ見したら、大丈夫、ダイジョウブ、一緒に歌えそうなお客さんばかりで年齢層が高かった。

アフタートークで、北村氏が「もう役者はいい。。」としきりに、頭を掻いていたが、観る方の側から言わせてもらえば、舞台上の二人の両極端ぶり(動と静)が、でもって時折の空振りも、それはそれで大変面白かったので、出来れば続けてほしいところ。

そのトークの際に演出の小林七緒さんが(戯曲は北村氏によるもの)、今目の前で起こっているような二人の喧々諤々から少しずつピックアップしながらほぼ1年かけて、間をあけながらでがあるが、時々集まってはリハーサルを重ね、徐徐に創り上げていった、と語っていた。

そのトークで北村氏が地震が続く中、舞台に立つことの戸惑いー昨日などは地震のことが絶えず頭にチラついて字ずらを追ってしゃべるだけで集中できなかったーと正直な意見を話してくれていたのが印象深かった。

配られたチラシにも、芝居の消費対価価値をどう計れば良いのか、という事に関する問いが掲載されていて、こちらも大変興味深し。

(抜粋)。。。私たちは観客を「消費者」として捉えるべきだろうか。おそらく私たちは表現者として、そういうふうには観客という対象をカテゴリー化してはいない。では私たちは観客のナニと等価に自分たちの表現を営為すればイイのか。。。。。

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国民の映画(3/10)

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パルコ劇場で三谷幸喜50周年記念連続上演企画、第二弾、1月の「ろくでなし啄木」に次いでの戦争突入前夜、勢力を拡大するナチスドイツの宣伝担当大臣ゲッベルスとその妻マグダ、そして大臣に取り入る当時の映画人たちを扱った「国民の映画」を渋谷、パルコ劇場で観る。

*****ネタばれ注意********

幕開け、冒頭、執事フリッツ(小林隆)に映写機をまわさせ自宅で大好きな映画鑑賞に興じるゲッベルス(小日向文世)。敵国、イギリスの映画人チャーリー・チャップリンを絶賛し、「風と共に去りぬ」に心酔し、それを越える映画を第三帝国国家のもとで作り上げることを夢見る彼には悪名高いナチスドイツの主要人物であるような面影は見当たらない。

1941年秋、ベルリン郊外にあるゲッベルス邸では著名な映画関係者、役者たちを集めてのパーティーの準備が始まっていた。

ゲッベルスがその夜に重要な映画プロジェクト発表すると聞きつけ、それぞれの魂胆を胸に集まって来たドイツを代表する役者、監督の面々。そこになぜか、その華やかな雰囲気にはとうてい似つかわしくはない、ナチス軍事司令官、ヒムラー(段田安則)の姿も、彼は成り行きからその夜のパーティーにつきあうこととなる。

役者たちそれぞれがゲッベルスに近づき、少しでも良い条件でプロジェクトに加わろうと画策する中、宴もたけなわ、となったところで、ついにゲッベルスの口からその一大プロジェクトの内容が明かされる。彼は「国民の映画」と名打ったドイツの国力を他国に知らしめるエンタメ感動巨編映画を製作するつもりであるー彼の理想とする「風と共に去りぬ」を上回るような素晴らしい映画ーと告げるのだった。

当初、莫大な国家予算をつぎこむ予定である映画に関わろうとますます躍起になっていた映画人たちだったが、その後ポロポロとはがれるつじつま合わせのウソ、裏取引、ナチスの強引な人種粛清計画=ユダヤ人根絶計画構想などを聞くに及ぶと、それぞれが己に問いかけ始める。「映画におけるキャリアの成功と人、そして芸術家としての尊厳の保持と、どちらが重い意味を持つのだろうか。。」と。

劇の終盤には執事の出生の秘密が暴露され、それが客人たちにさらなる意識の変化をもたらす事となる。

******************************


先日、シアターコクーンで蜷川演出の「わが友ヒットラー」を観たばかりだが、まずはナチスドイツという近代史における重大な事象、相当に極端な思想をもった政党ながら、事実歴史の重要な時期において、一国の与党として国を牽引し、世界を動かした、この`ナチス’そのものが題材としてかなり興味深いというのが、この芝居の大きなポイントの一つであることは明らかである。

(学生時代にドイツ文学を専攻していたことがあり、その当時にはアキバオタクならぬヒトラーオタクなる同級生もいた(別に国粋主義とかではなくて、学術的にのめり込んでいた)。彼はヒトラーの著書とか夢中に読んでいたな〜〜〜〜。そんなワケで、当時ドイツ関連の映画・本などに多く触れていたこともあり、近代ドイツにはとても興味あり。)

何年か前にブルーノ・ガンツ主演の映画「ヒトラー 最後の12日間」という、題名通りヒトラーの最後の地下避難房生活を描いた映画を観たことがあったが、その映画でも今回の芝居同様に血も通わないような冷血漢としてのイメージが強いナチス将校たちを普通の一ドイツ職業軍人という視線から捉えようとしていた。

今回も、登場人物の中に憎むべきような悪代官は一人もおらずーチョビひげにハーケンクロイツの腕章姿のいかにもナチスと言ったいでたちのヒムラー(これがはまりにはまっていたのだが)でさえー、どちらかと言えばちょっとドジな偏屈オヤジ、能天気な女優陣の集まりのような話になっていて、適度にきちんと、笑う箇所も用意されている(それも悪ふざけではなく、自然と笑えるようになっている)。

しかしながら、一方で、彼らがやってきた別の一面、さらにはその後起きる事を史実として知ってしまっている私たちにとっては、まさに笑えない話、だからこそ自然に、そしてなおさら恐いヒューマンドラマとして切実に訴えかけてくるのである。

浮気癖が直らないスケベオヤジ、そして虫集めに没頭する偏屈オヤジ、お調子者の権力者でおさまってくれていれば良かったものの、その同じ彼らが、自分の保身の為、上司に取り入るため、合理的に職務を遂行するために、何をしたのか、、、その舞台上では直接には描かれない彼らのもう一つの面を想像するときに、舞台上での彼らが魅力的であればあるほど、その相乗効果が意味を成す。

さらには、同じ日のマチネで観た「写楽。。」同様に、現実生活と芸術とのバランス、ましてや時代が時代だけにその現実に`死’までが付随してくるとなったときに、理想だけで生きることは可能なのかどうか?が大きな問いとしてふりかかってくる。
終盤で、各自が今は`仮の姿、ナチスの犬’となることを受け入れるのが賢明だと言えるのかどうか、それとも自らの信念、理想を貫き通すべきか、、とそれぞれに悩むシーンがあるのだが、この問い、本音と建前の狭間、そして瞬間でその決断をしなければならないことがある、というこの問いに関してはどこの国のいつ何時でも、そして誰にでも当てはまる命題であると思う。

舞台そのものに関して、いつもながらの3時間に及ぶ大作なのだが、これもいつもながらに気を抜く時なく、舞台に引き込まれながらで、気がつけば終わっていた、というたっぷり大満足の観劇体験。

ま、これほどまでにスキのないキャスティングーそれぞれに上手いのだが、それに加えて、やはり当て書きともとれる役者のキャラ、個性を活かした人物造形が憎いほどにハマっている。
(特に風間杜夫、段田安則、小林勝也、小日向文世。。。。う〜〜〜〜んこう書いていくと他にも、、と全員の名前を挙げたくなってくる)

天然なマグダ夫人(石田ゆり子)もある意味ハマりにハマっていたと言えるかも。

彼女が最後何気につぶやく「あの人、ユダヤ人にしては感じよかったんですもの」って、この台詞が一番背筋が凍り付いたかも。

無知とは慣れとは恐ろしい、優位にあるものがそれに気づかずにいるのはある意味大罪である、と。

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戯伝写楽ーその男十郎兵衛ー(3/10)マチネ

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吉祥寺シアターで中島かずき作・中屋敷法仁演出の「戯伝写楽ーその男十郎兵衛ー」初日を観る。
(ちなみに、もともと昨年4月に上演されたミュージカル作品用に書き下ろされた戯曲で、今回は作者たっての願いからストレートプレイに形を変えての上演が実現した)

中屋敷インタビュー


***** 演劇サイト より ーあらすじー ****
寛政5年(1793)、喜多川歌麿の美人大首絵が大人気の江戸に、ある男がいた。
男の名は斉藤十郎兵衛。

ある日、十郎兵衛は友人・与七と共に繰り出した盛り場で、不思議な女・おせいに出会う。
流れの絵描きと名乗るおせいの描く絵の独特な筆使いは、とても余人には真似が出来ない。
そう直感的に感じた十郎兵衛は、おせいの絵で一儲けを企む。
翌日、蔦屋重三郎の店に一枚の絵を持って現れる十郎兵衛。
差し出す絵を見た蔦重は、その迫力に驚き、同時に歌麿以上の才能の発見に喜び、十郎兵衛に大金を与えて新作を頼むのである。

「雅号は・・・写楽だ。写すのが楽しいと書いて写楽。東の島・東洲斎、東洲斎写楽!」

十郎兵衛の企み通り、写楽の絵は瞬く間に江戸で大人気となる。
しかし、不思議な女・おせいはとりつかれたように、ひたむきに絵に打ち込む。
そこに現れたおせいの過去を知る鉄蔵・・・。

史実としても謎の多い東洲斎写楽への新しい解釈や与七(後の十返舎一九)、鉄蔵(後の葛飾北斎)とのまことしやかな関係も巧に盛り込む「戯伝写楽-その男、十郎兵衛-」。
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事実、東洲斎写楽という浮世絵師が江戸時代にデフォルメした作風で役者の大首絵(上半身ポートレート)で一大ブームを起こした事は明らかながら、版元蔦屋重三郎のビジネス戦略からか、その出生、本名が明かされぬまま、10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版した後、浮世絵の分野から姿を消した。

この写楽という謎だらけの存在から、これまでにもその正体を扱った芝居は数々あり、↓(参照)、シェイクスピア複数人存在説など同様、作家の想像力を刺激する題材なのであろうと思う。

写楽考・きらら浮き世伝 など

今回、一応、その謎解き=写楽はおせいという天才肌の少女であった=にもスポットライトは当てられているのだが、芝居の核となるところはその正体明かしの次にあり、芸術とビジネス、そのバランス関係のジレンマにある。

と言うのも、主役のおせい(城戸愛莉)が自分の目指すところの芸術に開眼し、売れる大首絵の大量生産から自らのテーマに沿った芸術創作へと移りかけた途端、パトロンである蔦屋から`大衆にはウケない(売れない)’絵として見放されるという筋立てになっているからだ。

この`大衆迎合’と`アート追求のリスク’という問題は絵画の世界に限ったことではなく、それどころか、昨今の演劇界では大きな比重をしめる、でもってプロデューサーを悩ませる問題のタネとなっている。
ー特に、芸術優遇国ヨーロッパ各国と違って、助成金などの金銭援助の少ない日本においては、このどこまでリスクを追うのか、そしてどこまで妥協するのかというのが舞台制作の大きな壁としていつも立ちはだかっているー

次回の公演を実現させるためには公演チケットを沢山、確実に売らなくてはならない。。その解決策としてもっとも手っ取り早い話がスター、タレントの起用、集客力のある役者の起用(ロングランシステムがないので特に)ということになるのであろうが、そのタレントを起用することによる負のリスクも考慮しなくてはならなかったりする。かといって、公演をうつからには第一に、やはり多くの人に舞台を観てもらわないことにははじまらない。。。などなど。


段々畑のような多重の階段式岩山舞台セットをモデルのようにタッパのあるイケメン系若手俳優陣が駆け巡る。写楽の他にも馴染みの実在アーティスト ー葛飾北斎、十返舎一九などーを配し、妖艶な花魁が華を添えている。
その中でも回りを固める小劇場のベテラン俳優たちー中村まこと、有川マコト、山崎健二の存在は大きい。

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2011年3月10日 (木)

東京ミルクホールの金色夜叉(3/9)

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西新宿Space107で大好きな東京ミルクホール版の「金色夜叉」初日を観劇。

佐野バビ市(バビッチ)がミニーのお化け(女ネズミの化け物)に扮していて、そのばかでかい金髪耳に感激。

金色夜叉とはあるものの、熱海の海岸で貫一がお宮を足蹴にする、あのあまりにも有名な一場面が出てくるくらいでーとは言え「金色夜叉」と聞いて思い出すのもあのシーンぐらいですがー、あとは全て東京ミルクホール色満載。会場からお客さんを舞台へ上げての客いじりあり(今回もたっぷり時間をとって3人のうら若き乙女たちを即興でいじってくれてました)、坂本冬美の「夜桜お七」のさくら〜〜〜さくら〜〜cherryblossomにあわせての日舞あり、殺陣あり、古今東西の兄弟ネタの形態模写あり、、、と、2時間越えて、これでもか、まだ笑いたいか。。。と、笑いのエンタメを存分にやりつくしてくれていた。


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原作:「金色夜叉」は読売新聞に連載された小説なのだが、作者尾崎紅葉が35歳の若さで夭折したため、未完のまま終わっている。にもかかわらず、映画、舞台、テレビに度々取り上げられる尾崎の代表作として今も広く知れ渡っている。
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と、まあこの未完であるという経緯を踏まえると、今回の東京ミルクホールの作・演出・出演 佐野バビ市氏が`金(=貧乏)’と`恋愛’という大テーマを小説から抽出して、尾崎紅葉が生きた時代、明治の文士たちー芥川、太宰、田山らーが自らの創作の力量を競いながらアメリカ・ディズニーカルチャーに対抗する、女性も(若干)からんでのドタバタ劇という、「金色夜叉」からとてつもなくかけ離れているようなこの劇も、その後平成の`クリエイティブな仕事とそれにまとわりつく女の話’ということで、かろうじて繋がって、これも無理矢理`アリ’かな、。。。と。

前述のように、いつも通り、サービス精神満点に、劇場での時間を充実したものにしてくれていたのだが、その本歌どりの本歌の部分が少なかった分、全体を貫く太いストーリー線が希薄だったのが、ちょっと残念。
前回の番外公演「パロスペシャル〜いつも○○があった」でも、既存番組のパロディスペシャル(オンパレード)でありながら、作品に統一感があったもんね〜〜。


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2011年3月 9日 (水)

5seconds(3/8)

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前々から観たかった劇団、野木萌葱率いるパラドックス定数をやっと観る事が出来た。

2人芝居、連続上演企画の第一弾で82年に起きた羽田沖、日航機350便墜落事故、あの「機長(キャプテン)やめて下さい!」そして`逆噴射’、さらには救命ボートで救助されるキャプテンの(笑いをうかべた)顔とともに人々の記憶に深く残っているあの墜落事故にまつわる、事故の裁判過程中の話。

いみじくも、昨日観た「ネズミ狩り」に続けて、同系列の実際に起きた事件を劇に反映させた芝居を連日で観ることになった。(そう言えば、2週間ほど前に観た「シングル・マザーズ」もこの系統と言えば、それにあたる)

さらには、「ネズミ狩り」のチャリT企画と今回のパラドックス定数は同年ー98年ーに旗揚げしており、また注目され始めた時期も同じー4〜5年前ーという、その二つの劇団の作品を続けて観ることとなり、これも何か、演劇潮流の一つなのか?と、思い当たる。

信濃町と四谷三丁目の間にある閑静な住宅街の一画にあるアートギャラリーの1室での上演。仕切られた小部屋に展示されたアート作品を横目でみながら、劇場空間(部屋)へと足を踏み入れると、両側に客席用のパイプ椅子、そしてその客席の間に電話1台が置かれた机と椅子2脚というシンプルかつごく小さなステージ空間があった。
開幕後も部屋の照明が落とされることなく、通常の明かりの下で、二人の男のマインドゲームが展開する。

********ネタばれ注意***********

そこは警察署内の接見室。
過失致死罪の罪で収監されているキャプテンのもとに、その事件の弁護を請け負う若い弁護士が訪れる。
初対面時に「妄想精神分裂症(統合失調症)」状態であったとして、心神喪失を理由に不起訴処分となるようにもっていきます、、と断言する弁護士。

しかし、自分を弁護する弁護士までをも見下しエリート意識で凝り固まった目前の機長と接見を重ねるうちに、彼の中に、様々な疑問、事故が起きた本当の原因がちらちらと目の前を横切るようになる。

数人で構成される弁護団の中でも一番若い、経験の浅いこの弁護人がこのような重要な任務ー本当に機長は精神疾患という理由で今事故を引き起こしたのか、それとも他に墜落させる故意の意図があったのか、を当人の口から聞き出さなければならないーにあたらなければならなかった、この事自体が、この事故の原因に深く関わっている、と芝居は示唆している。

国土交通省、日航、という大きな組織にとって、採択すべき最善の道は何なのか?どのように、解決するのが一番ダメージが少なくて済むのか。。。。

機長と弁護人、二人のせっぱつまった会話からはそんな大人の裏事情が透けて見えてくる。

この芝居、初演は99年ということだが、その後JALの劇的な衰退を目撃しているわれわれにとって、おそらくその初演当時には薄いベールを被っていたであろう部分までもがはっきりと見えてきて、殊更に、今2011年にこの芝居を観る事の意義を痛感する。

残念ながら劇を観には行けないという人には、82年の墜落事故に関してはネットで読めるので、それを読むだけでも、かなり複雑な人間ドラマが見えてくるので、そちらをおススメする。

事実は小説よりも。。。と思えてくるが、さらに、このようにその事実を進化させたドラマが良く出来ていると、、そこにドラマの強みを感じる事が出来る。


ps
主宰者で作・演出の野木萌葱さんを存じ上げなかったのだが、現場で客入れ、前説、物販説明などをしていた方がそのご本人だと、あとで判明。
とっても優秀な制作スタッフだと思っていたのだが、、彼女がこの骨太な作品を創っていたとは。。

ps2

タイトルの「5 seconds」は墜落する5秒前ぐらいに機長が何らかの墜落原因となる行動をとった、という事実によるもの。その5秒間に彼が考えていたことを聞き出すため、そしてその5秒間に彼の頭の中で何が
起きていたのかを探ろうというこの芝居を言い表したタイトル。

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2011年3月 8日 (火)

野田/松尾

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このところ、演劇界の奇才お二人に演劇以外で大いに楽しませてもらっている。

野田秀樹著(週刊誌AERAで連載しているエッセイをまとめたもの)「ひつまぶし」とNHKドラマ、松尾スズキ主演の岡本太郎伝記ドラマ「TAROの塔」だ。

まずは「ひつまぶし」。
ファッション誌やら情報誌やら、、紙媒体隆盛の頃、OLをしていた80年代には通勤途中のお供としていろんな雑誌を購入して読んでいたが、今となっては、、雑誌、読まなくなったな〜〜〜〜。
ファッション雑誌なんて、2ヶ月に一度ぐらい行くか行かないかの美容院でまとめ読みですから。。。まとめ読みの唯一のチャンスなので、美容院では至極寡黙な私。

そんな私がシアターガイドの他に唯一、准レギュラーぐらいの頻度で購入する雑誌AERA。それもこれも目的の全てがこのコラム「ひつまぶし」オンリーと言っても過言ではない!!!

電車内でまず最初に開いて、くすくすする、ニヤニヤもする。

そんなのが集まっちゃった本なので、これがもう大変!
最初は電車の中で読む用に持ち歩いていたのだが、降りるべき駅を乗り越してしまう危険あり、満員電車で異常にニヤニヤしてしまうハズカシさもあり、週末に家で読み終えた。

私が好きな「イヤらしい(スケベという意味ではなく、イヤ〜〜〜〜なかんじという方)野田秀樹」が満載。

普段、われわれだったら聞き流してしまいそうな言い間違い、勘違いを逃さずキャッチ、さらにはここが変だよ日本人的な指摘まで、それはそれはsarcasticにironicalに(両方とも皮肉なという意味)、でもってあくまでも軽やかにつっこんでくれている。

このあたりの斜に構えたつっこみセンスがイギリス的と言えば、とてもイギリス的で、、それ故に、ご当人、イギリスでも現地の人々へ同化しながら仕事を続けていっている要因でもあるのではないか、と。

で、もう一方のNHKドラマ「TAROの塔」。4話完結のドラマで、今半分を終えたところなので、こちらはぜひぜひ実際に見てもらいたい!(毎週土曜日、夜9時放送)

松尾さんの岡本太郎!必見です。
でもって、岡本太郎さんの言葉も、心に響きます!!

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ネズミ狩り(3/7)

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アゴラ劇場にて劇団チャリT企画の「ネズミ狩り」を観る。

ある町の古くからあるそば屋を舞台に、その実、中味には現代の社会事件をモチーフに配し、日本社会にはびこる諸処の問題をストレートに問いかけた、なかなか硬派な内容で、見応え十二分、久々に身を乗り出して台詞に耳を澄ませた舞台だった。

今回の「ネズミ狩り」は08年の王子小劇場・佐藤佐吉演劇賞「最優秀脚本賞」を受賞した作品の再演というだけのことはあって完成度が高く、タイムリーでありながら、どの観客、どんな年齢層の観客にも大いに考えさせる題材を与えることの出来る、まさに`日本の小劇場で、それも今!観るべき芝居’に仕上がっていた。

とても気になったので、早速ネットで劇団のこれまでの経緯を検索。
劇団結成の経緯
チャリT企画

作・演出の楢原拓氏によって早稲田大学演劇研究会の一学生劇団として98年に結成され、その後プロとして継続。年2〜3本の上演を重ねてきたということで、今回がチャリT企画として23回目の公演だという。

私は今回が初めてのチャリT企画観劇だったのだが、過去の舞台の紹介を読んでみても、その都度その都度の社会現象、または事件に関わった内容であるらしく、、ーちなみに次回は「和歌山毒入りカレー事件」と陪審員制度に関した芝居らしい。。。これも興味津々ーこの世代にしてはちょっと変わり種のボク=一人称ではない、テイストがとても気になる劇団である。

今回の芝居では主に、大きな問いかけとして「死刑制度存続か、それとも死刑廃止か?凶悪犯(とくにそれが少年犯罪であった場合)は死によって罪をつぐなうべきなのか、それとも更正の道を残しておくべきなのか?さらには少年犯罪犯人の出所以降のプライバシー確保問題、少年犯罪により命を落とした被害者家族たちに対する待遇問題」 などなどの問題提起がその町の中心にあるあるおそばや一家を舞台に展開していく。

*****ネタバレ注意**********

そば屋の主人は数年前、17歳の少年によって殺傷された。今では長女が店を引き継ぎ、きりもりしているのだが、近々結審するその少年の裁判を巡り、兄弟内で喧々諤々。長女は弁護側が提示した事件の経緯ーその17歳の少年が父を殺したのではなく、その場にいたもう一人の少年がパニクって刺した疑いがあるという。その直後その父を刺した方の少年は裁判にかけられている少年とナイフを取り合い、揉み合いとなり、結局その裁判にかけられている少年の過失(??不明だが)により胸をつかれて死亡するーもあり、亡き父が犯罪歴のある少年たちの更正運動に関わっていたこともあり、被告の死刑に強く反対している。それに反し、次女は死亡した少年の母親が始めた死刑要求の署名運動にまで加わり、父を殺した(??不明宇)被告を死刑に処すべきと主張する。

実はこの裁判とは別に、この一家にはもう一つの少年犯罪との深いつながりがあり、亡くなった父親の意志により少年犯罪者たちの更正促進に協力する場所として、出所後の働き場として、内密でその職場を提供している`協力雇用主’という一面もあった。

裁判が進む中、週刊誌の記者がおしかけ、事件の事を蒸し返され、さらにはその秘密にしていた元犯罪者を雇っているという秘密までが狭い町の中に蔓延していく。

平凡に暮らしてきたそば屋の人々の生活は一変、町のゴシップの矢面にたたされることとなる。

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近年起きた実際の少年犯罪事例、神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇)、光市母子殺害事件などを示唆したエピソード、台詞などがならび、舞台では虚構の町の話が展開しながらも、実際の社会との深いリンクが見て取れる。

アフタートークで社民党元衆議院議員の保坂のぶと氏プロフィールが語っていたように、陪審員制度が執行されている今となっては、少年犯罪者に死刑を求刑するかどうか、実際に決断をせまられるようなことも誰にでもおこる可能性があるという現実も加わり、観客の集中度がかなり高かったのだと思う。

ヨーロッパ、特に英国における顕著な特性である、「社会と密接に関連した劇」、特に今回のように実際に起きた事件、スキャンダルを実名を含めて劇として再構成する、といった事例事態があまりなく、さらにはその方向性で成功した作品例の少ない日本において、今作はかなりの高水準で成功している珍しい例であると言わざるを得ない。

途中、笑いの部分ーそば屋の長男でありながら、そばアレルギーでそばを食べられない長男の全てが矛盾したキャラetc..ーも多く含まれているので、肩に余分な力を入れずに全編を見通すことが出来るのだが、それにしても、題材の強さ、ストレートな問いかけに、やはりその核の部分で大いに吸い込まれる作品だ。

個人的には、
近所のマス(大衆)を体現したおばさんの「いいじゃないの、もうこなったら、死刑で、さ。」という軽い語調の台詞が一番ドキッとした。

ps

ちなみに題名の「ネズミ狩り」は天井裏で音をたてるネズミ。。。しかしながら実際にそのネズミの姿を見たことはなく、大きな足音も人々が妄想から作りだした作り事かもしれない。そしてそのネズミを捕まえようと罠をしかけている私たちは、私たちが作り出した架空のネズミを追いかけているだけかもしれない、という意味。

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2011年3月 7日 (月)

BEN(2/5)マチネ

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北九州芸術劇場オリジナルプロデュース作品、「ラッパ屋」主宰の熟練戯曲家鈴木聡作、昨年のSIS Company制作「叔母との旅」でもその手腕を十二分に発揮した「カムカムミニキーナ」の松村武演出によるトイレの神様ならぬ、トイレビジネスの神様の話「BEN」をあうるすぽっとで観る。

*********劇場 HPより*********

「青春の門 放浪篇」「風街」「ハコブネ」に続く、北九州芸術劇場プロデュース公演シリーズ。
北九州という地域に関連する内容の作品を、第一線の作家・演出家と北九州での約1カ月の稽古の後に、
北九州・東京で公演を行います。

"トイレ"を中心に、昭和の庶民の悲喜こもごもを描きます。
人生にトイレあり!男も女も、大人も子どもも、人の目を気にせずパンツを下ろす トイレだからこそ見えてくる本音や夢や苦しみ、そして時代。さらにそのトイレに革命を起こす男たち。ご期待ください。

**********************************

鈴木作品らしい、身近な登場人物によるコメディーで、観ていてそれなにり楽しめるのだが、今回はう〜〜〜〜ん何かがちょっと物足りない。

なんでなのか?と思ったのだが、ウォシュレット開発に夢を託すサラリーマン達の話というのが、ドラマタイズの手法よりも現実世界に近い方法、テレビのドキュメンタリーで実際にTOTO社員の開発の過程を「プロジェクトナントカ」で見せるとか、脚色でもテレビドラマ、映画などの手法の方が向いていたのではないだろうか???ということなのだと思う。

確かに、ウォシュレットのトイレ革命は画期的だったし、あの戸川純のCMもセンセーショナルでインパクトがあったのだが、その時代を実際に生きていて知っている観客も多く、それだったら実際にあのCMを見たときの驚きの方が、それだけでもドラマなのでは無いか?ということ。もしくは、それらもろもろを打ち破るような、驚きの虚構エピソードがあれば、、なのだが、そこまで強いウソが無かったから、ちょっと物足りない感を感じたのかもしれない。

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2011年3月 4日 (金)

ものみな歌でおわる(3/4)

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両国シアターX(カイ)で花田清輝の「ものみな歌でおわる」をベースにした翻案新作劇を観る。

昨年春の研究会からスタートし、その後ワークショップに集まり、劇の創作に参加した人々の6ヶ月にも及ぶワークショップ・リハーサルを経ての上演ということで、今日の日本の舞台制作の主流にはなかなか見られない、長い時間をかけて熟成された実験的演劇の上演ということであった。

上演後にはロビーで、たっぷりと時間をとったアフタートークも催され、その創作の過程などが披露された。それぞれがオープンに意見を交わすその様子から、ロシア人演出家、ヴィクトル・ニジェリスコイとその回りを囲む若手俳優達にとっては貴重な舞台制作体験であったことは十分に見てとれた。

しかしながら、その濃密なリハーサルから誕生した舞台作品自体が、それほどに熟されたものであったかどうか???そこには大いに疑問の残るところではあった。
(もしかしたら、熟し過ぎて、お互いの意見が出すぎた、さらには長いリハーサルから緊張関係が緩んだことによる、平和的民主主義採決の結果で、盛り込みすぎの舞台になってしまったのかもしれない。)

それぞれが年間を費やして見つけ出した、「演劇」「舞台表現」に関する思いが溢れすぎて、それぞれの思いの丈を発表する場=上演舞台となってしまったように思う。

途中の演出家による教義的なレクチャーも必要なし。

削ぎ落として、さらには観客の能力を信じて、もっと、それこそ最小限でエクスペリメンタル=実験的な舞台に創り上げた方が効果が出たのではないだろうか?

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2011年3月 3日 (木)

カゲロウの黒犬(3/2)マチネ

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スズナリでtsumazuki no ishi +オフィスコットーネ プロデュース公演、スエヒロケイスケ作、寺十吾演出「カゲロウの黒犬」を観る。

俳優としての活躍著しい寺十吾(じつなしさとる)が主宰のプロデュース劇団、tsumazuki no
ishi。座付き作家としてスエヒロケイスケ氏が劇作を担当、寺十氏が演出をする形で、ゲスト俳優を交え、スエヒロ氏の描く、社会の片隅でどうにかこうにか生息し続けている消滅寸前の人々たちの生き様を現在のコンテクストで描き出している。

**********ネタばれ注意***********

今回の「カゲロウの黒犬」では父親の年金を(死んだ後でも)食いつぶしている中年兄弟二人、兄(永野昌也)は数十年に及ぶオタクなひきこもりで、弟(森下能幸)はアル中、というある日突然社会から消えてもしばらく誰も気づかないような二人と、父の死により(その死因に一問題ありなのだが)その兄弟に関わることになった人々、超オタクで対人恐怖症っぽい訪問介護ヘルパー(吉田麻起子)、裏世界に精通している金髪の無職者支援ボランティア(オレノグラフィティ)、そして新興宗教団体の人々とホームレスのような身なりのその宗教の教祖(高田恵篤)との、あぶない人々たちのやりとりの話。

**************************************

いかにもスズナリらしい演目。

これを小綺麗な小劇場で観た日には、外に出てからー例えば渋谷とか青山とかだったらー世の中と劇作に浸っていた自分との擦り合わせにしばしの時間を要するところではあるが、マチネ後の明るい時間でも、下北沢だったらそのままグダグダした依存しっぱなし、自分の世界で完結しっぱなしの人々についての考察を続けながら街をブラブラし、さらには何でこの古着がこの値段???なんてブツブツ言ったりしながらその日を過ごす事が出来る。

そんな意味でもスズナリはいまだに変わらず健在である。

かなりデフォルメされた日常のスケッチではあるのだが、それでもどこか信じられる(リアリズムを確かめられる)劇世界であるということが、今の社会を巧妙に描き出す事が出来ている証であると思う。

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南へ(3/1)再見

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東京芸術劇場でNODA MAP「南へ」を再度観る。

今回の作品はどうも分りにくい、ついていけない。。。などと言った回りの人々の声を耳にしたが、あまり「この芝居の言いたいことは。。。これだ。」とまとめあげようとはせず、シーンごとに、そして台詞ごとに舞台で起きている事に身体をあわせていけば、ー役者たちの好演もありー結構、なるほどね、と思えてくると思うのだが、如何なものだろう??

先日のドイツの劇団リミニプロトコルの公演「ブラック・タイ」では、個人としてのアイデンティティと生まれた時点で既に組み込まれている遺伝子的、民族としてのアイデンティティはどれほどまでに関連してくるのか? 英語で言うところのNature or Nurture (先天性か後天性か)が問われていたわけだが、今回のこの芝居ではそのアイデンティテイを探す過程においてその元となるところ、「日本人」としての民族アイデンティティをはっきりさせてみよう、口ごもって、あやふやな共通認識(あやふやなので本当に共用しているのか、さえあいまいなのだが)をかってにわかったふりをするのではなく、まずはそのあやふやなところー日本人の起源ーを表に出して、見つめ直してみよう、ということなのだと思う。


いみじくも、一連の相撲スキャンダル事件で、国技と一言で表現したところで、それぞれの認識度合いが大きく異なっている事がわかったように、後で「え〜〜〜、私の理解では、そうでは無かったのに」という事がないように、ここらで皆で考え、確認してみよう、という事なのではないか。

故井上ひさし氏が、執拗に「なぜ日本は戦争へと向かったのか」、そして戦後に何を学んだのかを問いかけ続けたように、その意志を継いでいるのか、野田秀樹も彼のやり方で、同じ過ちを繰り返さないために!!と警鐘を鳴らしているように思う。

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花札伝綺(3/1)マチネ

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流山児事務所の活動拠点、Space早稲田で寺山修司の初期作品、音楽劇「花札伝綺(はなふだでんき)」を観る。

劇に役者として出演する劇団の頭、流山児氏が開演5分前にもかかわらず、寒空の中で客を出迎えていた。
このデジタルではない、アナログな人と人との繋がり感がこの劇団の大きな魅力の一つ。

でもって、善くも悪くも、頑なまでのアングラへのこだわり、その一途な姿勢ーブレない姿勢も、、、律儀なファンを確保しつづけている要因だろう。

****あらすじ 劇団HPより**********
時は大正時代。
東京の下町にある「死の家」と呼ばれる一軒の葬儀屋が舞台。「死の家」の家族は皆、死んでいるにもかかわらず、一人娘・歌留多が「生きている人間」墓場の鬼太郎に恋してしまったから、さぁ大変。
父親の団十郎が策した計画が、既に「死んでいる」美少年に娘を誘惑させ、娘も「死の世界」へ取り込んでしまおうというもの。こうして三つ巴、四つ巴の「生の世界」から「死の世界」にまたがっての鬼ごっこが始まる。
団十郎が勝つか、鬼太郎が勝つか?娘の歌留多の運命やいかに?!

*********************

ブレヒトの「三文オペラ」の本科どり、とはじめにプログラムでことわっているように、その方向で芝居を観れば、この死者の世界という話も、嫌な男にかわいい娘を嫁がせたくない葬儀屋家業の男とその妻の奮闘活劇として結構すんなりと喉元を過ぎていくはず。

カラフルなジャポネスク衣装に、歌あり、踊りあり、ゾンビメイクあり、時々雄叫びあり、でもって性の倒錯もあり、と、とにかく観客を楽しませる趣向で溢れたサービス満点のエンタメ劇。

*********演劇サイトから 主宰者のコメント********

わたしたちの「劇場」とは?  流山児祥

私たちは2011年春から新しい演劇交流=ネットワーク作りを始めます。
全国の寺社・教会・ライブハウス・コミュニティカフェなどを「劇場化」し、そのネットワークを多くの演劇人が共有=協働する試みです。もちろん、既成の小劇場、公民館、公共劇場のロビー、ギャラリーなどでもかまいません。
役者はカラダひとつあれば何処にでもふらりと往けるイキモノ。
劇場とは「ある」のではなく「なる」モノ、劇場とは「他者」と出会う解放区=アジール(避難所・自由空間)です。
真のアジールを生み出すことが河原者の末裔であるわたしたち芝居者の生き方。

※積極的な公演サポーターと協力者を募っています。
※基本的には「呼ばれたらどこへでも行こう」と思っています、気軽に呼んでください。
※大劇場、美術館、音楽堂のロビーや小空間、照明設備・音響設備などがなくても上演可能。
※アフター・トーク、交流会、ワークショップ、レクチャーなどの「同時開催」可能。
※「低料金」での上演を考えています。2500~3500円。 
※地域ホール等の自主事業・主催事業なども受け付けています。

***********************************

と、こんなプロジェクトを始めたらしい。
芝居を観に来る客が減っているのなら、こちらから出向いていこう!で、とにかく多くの人に観劇を体験してもらおう、ということなのだろう。

いいんじゃないでしょうか?!

そういった視点で、あらためてこの芝居を考え直してみると、確かに、どこでも(海外でも)元気に成り立つような気がする。

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2011年3月 1日 (火)

ザ・マッチメーカー(2/28)

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中野茂樹+フランケンズ(通称ナカフラ)の十八番、アメリカ人作家、ソーントン・ワイルダーの日本語・誤意訳(日本語で日本で上演される際に一番適していると思われるテキストに翻案して上演するナカフラが採用している上演形態のこと)舞台を高円寺の「座・高円寺」で観る。

「わが町」が立て続けに上演されたり、Wi Wi Wilder(WWW2010)なるワイルダー作品連続上演プロジェクトが催されたり(ナカフラはこのプロジェクトの一環として昨年5月に「寝台特急“君のいるところ”号/Pullman Car Hiawatha (原題)」を上演している)と、演劇界ではちょっとしたワイルダーブームが起きているのだが、その中でもワイルダーと言えば、というワイルダー劇上演に定評のあるナカフラの舞台だけに、さらにはいつもよりちょっと大きめの劇場、ということでどんな舞台になっているのか?期待しながら劇場へ。

劇場のメインホールを両側のシートをつぶして通常使用よりも一回り小振りにし、舞台上もそれにあわせて脇にスペースを残して、そのスペースにライブ音楽用の演奏ピアノを置いてのパフォーマンス。

最初に登場したピアニストが奏でるのがメリハリの効いた楽曲でお馴染みのバレエ版、プロコフィエフ作曲の「ロミオとジュリエット」。ー恋の鞘当て劇(今回の場合は一人の男をめぐって女性同士の鞘当てだが)ということでこの曲なのか?ー その後、劇中何度かこの曲が演奏される(この楽曲がとても好きなので、私としては嬉しい限り)。

一方舞台上では、飛び出す絵本のように壁をめくる(移動させる)と違う場面のセットになるように、またその壁が文字通りこの喜劇の勘違い、企みをうまく隠す壁として機能するように作られた展開式舞台装置の中で、往年のハリウッド映画やテレビのファミリーコメディーさながらのお決まりの軽妙な笑劇が進行していく。

ちなみに、バーブラ・ストライサンド主演でヒットしたミュージカル映画「ハロー・ドリー」(’69年)の元となったのがこのワイルダーの「結婚仲介人(マッチメーカー)」。

****参考までに ハロー・ドリーのあらすじ*********
ドリー(バーブラ・ストライサンド)はプロの仲人。「家具から水仙の花からあなたの人生まで」仕切ってくれるほど面倒見がいいドリーは NY の人気者。若くして未亡人となったドリーは、他人の縁結びに燃える日々をおくっていたのだ。しかし、客のひとり、ヨンカー在住の商店主、ホアース・ヴァンダーゲルダー(ウォルター・マッソー)の哀しいほどのドケチ・シブチンぶりには、おせっかい焼きの性格が刺激され、いっそ、彼を手中におさめて幸せにしてあげたくて仕方なくなる……。)
****************************************

一見すると古めかしい、それも何て事のない笑劇のように見えるが、さすがにワイルダー、でもってさすがにワイルダーを読み込んでいるナカフラ、、、ということで、劇が進行するにつれ、どうにもご都合主義の芝居の筋立ても、今どきバレバレな勘違いな数々も、、そんな小さなことはどうでもよくなってきて、それよりもこの芝居が描くところの大きな世界観、宇宙の中で最も不思議な案件の一つ、「人と人との関わり」の不思議、予測不可能な人の感情、といったところに行きついていく。

小説でも劇でも、小事にこだわりすぎて、かえってリアリティの無い、また「それで何なの?」といった類いの作品もままあるのだが、、このお芝居はその逆で、小さい事にこだわるよりも、もっと広いところから世界を眺めてみたら、こんな事が分りました、といった作品。
(劇中でも当初は執拗に金に固執していたヴァンダーゲルダー(洪雄大)が、リーヴァイ夫人(石橋志保)の企みにハマり、回りの人々の関係を思い計り、そして誰かを大切に思うことによりたまたま手にした金よりも大切なものがこの世にはある、ということに気づいていくようになる。)


先日、インタビューをした若手演劇人のホープ、中屋敷さんが現在最も興味のある事として「身近な人々、家族の事。奇跡的とも言えるパートナーとの出会いや、これまた奇跡的とも言える家族の絆や成り立ち、に興味がある。」と語っていたが、彼がやりたい、書きたい芝居というのが、きっとこの「ザ・マッチメーカー」のような何気ないが深い、人と人との関わりの芝居なんだろうな〜〜〜〜、と思った。


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