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2011年2月

2011年2月28日 (月)

平成二十三年のシェイクスピア・Waltz Macbeth 二本立て(2/27)マチネ

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東京マラソンで埼玉の市民ランナーが並みいる実業団エリートランナーをぶっちぎり、好タイムでゴールしていたまさにその頃、流れに逆らって埼玉のキラリ☆ふじみへと向かう。
平成23年度キラリ☆ふじみにおけるシェイクスピア劇上演企画 2本立て、いわきの高校生卒業制作公演「平成二十三年のシェイクスピア」と東京デスロック、レジデントカンパニー最終公演「Waltz Macbeth」を観劇するためだ。

この週末シェイクスピア漬け観劇を慣行するために、平日に原稿をせっせと仕上げたのだが(3/4 金曜日にJTに柿喰う客主宰・中屋敷法仁氏のインタビューが載るよんscissors 熱い演劇ラブ精神を糧に、クールな演劇文化普及促進運動に励む若きエースの言葉を聞き逃すな!)、週明け前の最終チェックのおかげで恒例のアフタートークは断念。。。。残念無念。。


まず、芸術監督、多田淳之介氏により上演に至る経緯が説明された後、三方をぐるっと客席が囲んだオープン舞台で、いわき総合高校の生徒7人(女6人と男1人)による「高校生からみたシェイクスピア劇というもの、彼らが考えるロミジュリの描く世界」を表現した舞台が上演された。

*****東京デスロック HPより*****

。。。今回『平成二十二年のシェイクスピア』を上演するいわき総合高校ですが、過去にも五反田団の前田司郎氏、あなざーわーくすのわたなべなおこ氏、コンドルズの小林顕作氏など名だたるアーティストが彼らの卒業公演を手がけています。さぞかし演劇専門の高校なのだろうと思われるでしょうが、実は彼らの中で演劇を志す生徒はほとんど居ません。今回一緒に作品を作った7名も、誰一人演劇を続ける生徒はいません。彼らにとって演劇は授業の一つ、だからこそ良いのだと思っています。彼らは高校3年間演劇を嗜み、その後の人生を歩んでいきます。この富士見公演も彼らの初めての旅公演、自分の知らない土地の観客と演劇を通して出会う事が、彼らの今後にとって良い経験になってくれる事を願っています。

作品は、シェイクスピアの顔どころか人間だとすら思ってなかった高校生達による「ロミオとジュリエット」を核に、演劇の権威シェイクスピアと現代の日本で演劇を身近に育った高校生達との温度差をも丸ごと含めた作品になっています。シェイクスピアと彼らの出会いをお楽しみください。何よりも未来へと続く彼らの姿そのものが作品と言えるのかもしれません。初めて彼らに出会った時、僕の夢は公共劇場の芸術監督ですと話しました。そして今、キラリ☆ふじみの芸術監督として彼らを迎えることが、彼らへの最後の授業なのかもしれません。演劇教育の最先端とも言えるいわき総合高校をぜひこの機会にご覧ください。

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三部構成からなる今作、Part1-卒業制作に当たり、高校生が考えるウィリアムさん、そしてシェイクスピア劇とは? Part2-構成・演出の多田氏を含め、自分たちで再構成した「今のいわきの高校生が読んだロミジュリ」Part3-10年後の彼らにこの舞台を思い出し語ってもらったら。。。という内容で、(ちなみに、この題名を見たときにいのうえひさし氏著の「天保12年のシェイクスピア」の現代バージョンなのかな?と一瞬勘違いしたのだが、そうではなかったです。あしからず)高校生達が実名で、いわき弁でシェイクスピアを語っている。

通例の高校演劇にありがちな既存の戯曲の暗記やトレーニングによる身体表現の発表会ではなく、自分たちが感じた疑問、面白いと感じた点をオリジナルの言葉により演じて表現することを目指した舞台なので、大舞台(一応、入場料を徴収してのれっきとした公演ですから)にもかかわらず、彼らからは不必要な負荷による緊張は感じられない。

こちらがある授業の一コマを覗き見しているような、そんなナチュラルな演技と会話で劇は進行していく。
舞台一面に広げられた彼らの日常と関係した小道具ーカラフルな洋服や雑誌、ぬいぐるみなどー、そして卒業制作らしく、7人それぞれが世間に公表したかったそれぞれのピカイチー社交ダンスであったり、フラダンス、宝塚、アニメ、などなどーを発表する場面などがカラフルに盛り込まれている。

その一方で、望むと望まざるに関わらず、今回の上演のため、シェイクスピアに関わってしまった彼らが演劇世界の大御所が残した作品から受け取ったいろいろな印象、考えなどの正直な発表の場ともなっていて、高校生からみた名作、その斬新な受け取り方を観る劇としても大いに楽しめる。
さらには、もっとシンプルに今どきの高校生の実態が垣間みれる劇、ということでも十分に楽しい。

元気一杯の女子群の中に、黒一点として奮闘していた、社交ダンスで世界進出を夢見る男子生徒の存在が殊更に印象に残った。


休憩を挟んで、第二部として上演された多田氏率いる東京デスロックによるレジデントアーティストとしての集大成公演「Waltz Macbeth」。

******同上 HPより****

東京デスロックによる『WALTZ MACBETH』。初演は2008年、東京デスロック初の古典作品として上演した作品です。シェイクスピアによる400年前の物語、坪内逍遥による100年前の翻訳、そして現代の俳優と観客、それらを結ぶ「欲望」というテーマを現前させる装置として椅子取りゲームを大胆に取り入れた演出となっています。以来シェイクスピアに限らず多くの古典を扱ってきました。その中で得たものは、今目の前でしか見られない演劇だからこそ、時代を越えた体験が出来るという事。過去と現在を使って、未来を描くものが演劇なのです。『WALTZ MACBETH』は昔話ではありません、初演から3年、再び現代に蘇ります。

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第一部の舞台と同じオープン舞台。頭上にはオリエンタルなテイストの布が吊るされ、城の客間である舞台を飾っている。そのプロレスのリングのような四角い白いリングの上に、背もたれ椅子を手に順々に登場する役者たちはみな黒の礼装着物に身を包んでいる。

すでにいる人々の顔色をうかがいながら、作り笑いを浮かべて、全員が登場し終わると、人数には一つ足りない椅子のための椅子とりゲームが始まる。時には十二分に間を計って、ゆっくりと、お互いにお互いを牽制しあいながら、椅子を取り合い、ときには椅子を差し出す仕草をみせる人々。
そのお互いの力関係が発生する中、まさに身体を張ってー椅子をー奪い取りあっている人々、そしてその駆け引きのゲーム。それと同時にシェイクスピアのマクベスの話がかなり省略(要約)された形で紹介されていく。

自らのヴィジョン無きまま、冠だけを欲しがった男。まんまと椅子を手に入れたと思ったその瞬間からその椅子を誰かに奪い去られることだけに怯え続けた男。マクベスの物語が最小限のセットと坪内逍遥の古めかしい言い表しの中で、見事に簡略された形で今の観客の前に立ち上がってくる。

白地の舞台につけられた赤ワインのシミにより血で血を洗う、残虐な権力争いが視覚化され、汗を流しながら椅子取りゲームに興ずる人々からは、渦中にいると自らを見失ってしまう、そんな人々の変わらぬ愚かさが見えてくる。
ーさらには、この権力抗争劇が現国会の馬鹿げたアゲアしとり討論会に重なって見えてくるから、だからこそシェイクスピアはいつの世でも古びないのだと思えてくるー

それぞれに役を限定せずの上演だったのだが、その中にあって確実にマクベスを担っていた永井秀樹の好演が印象に残った。彼のマクベスにより、かなりの割合でシェイクスピア、マクベスの方向へ近づいていたと思う。

芝居の中味からはちょっと離れるのだが、上演前に再度構成・演出家の多田氏が現れて、まずマクベスのあらすじを全て紹介していたのがとても興味深かった。

。。。。ということは、これはシェイクスピアのマクベスの戯曲再生舞台ではなくて、、別のところに上演意図があるということは明白。ーつまり、最後のドンデン返し、謎解きを目的としたものではなく、マクベス劇を今、この形で上演するという企画自体に上演意図があると考える方が自然であろう。
とすると、わざわざ坪内訳を採用しているということ、それにも特別な意図があるとみるべきで、それによって当時の人々の考えたシェイクスピア、マクベス、、にまで思いをはせてもらおう、さらにはそれを経て、今のふじみへ現代へ戻って来てもらおう、、ということなのかもしれない。

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ブラック・タイ-Rimini Protokoll (2/26)

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同じKAATのスタジオを移動して、「道化の霊廟」に続いて、日本でもすっかりお馴染みのリミニ・プロトコルによる小劇場サイズプレイ「ブラック・タイ」を観る。

まずは劇中最後の「英語では`ブラック・タイ’という言葉に二つの意味がある。。」と締めくくっている箇所の考察から。
「ブラック・タイ」の意味としては文字通り、黒の蝶ネクタイを着用するような男性の正装スタイルを指し、黒衣のフォーマルといえば、華やかなドレスコードがあるような場での正装と葬式におけるブラックフォーマルと、この二つーつまりは人生における晴れ舞台とその対極にある人生の寂しい終焉場面を指すーを意味しているのだと思う。

同じ、ブラック・タイの着用ケースでも、時と場合によっては全く異なった状況を指すー人生の天国と地獄、さらには`物事には完全な是非などない。一般的に善かれと思ってなされることでも、違う立場から同じ物を見れば、決して善い側面ばかりではない。’ということを指しているのかと思う。

開場したスタジオに入ると、舞台エリアにはいたってシンプルな四畳半ほどの上演スペースが用意されている。舞台中央にプロジェクター用スクリーン、左手奥に音響効果担当エリア、そして前面脇にプロジェクター機器、そしてスピーチ台があるのみ。

この最小限のセット上で展開される、これまたいたってシンプルなモノローグ(途中からもう一人の出演者とのやりとりも少しあり)芝居が最終的にあれほどまでの広がりをみせるとは、開演の合図とともにそれまで舞台のへりに座って音楽担当ルートヴィヒとおしゃべりをしていた主役のアジア人の女の子、ミリアム・ユンミン・シュタインのゆるやかな導入からは誰が予想出来たであろう? 無名の韓国系ドイツ人の女の子の個人的な話が最後には世界規模、いや宇宙規模の話にまで発展するとは。。。

*******ネタばれ注意************

1977年のある日、この芝居のパフォーマーであるユンミンは生まれてすぐに、新聞紙にくるまれた状態で韓国の教会の前に置き去りにされる。
間もなく、国際的な養子縁組支援団体の手を介して、ドイツの一家に養女として引き取られる事になったユンミン。その後成人するまで、彼女は生まれたその国の土を踏む事はなかった。

ドイツでは家族に温かく受け入れられながらもプラチナブロンドの母親、そして二人の姉の中で「Foreign -外国人、外からの異種人」ー自分は違うことーを日々痛感し、自らのアイデンティティについて悩む彼女。成長して「家を出たい」と申し出た彼女にはからずも養母は辛辣な言葉で反対をし、それによって彼女は決定的な心の傷を負うこととなる。。

血の繋がった親の行方は知れず、育ての親とは相容れず、自分の出所、拠り所を追い求め、韓国へ出向き、またDNA検査を繰り返す彼女。そんな自分探しから見えてきたものとは?

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最近、午前中になかなか出かけられない状態が続いた。たまたま見た、韓流ドラマ「天使の誘惑」に前回のチャグムに続いて、ハマってしまったからだ。

韓国では40%台の視聴率を記録した大ヒットドラマだったらしいのだが、なんとも超ありえない設定&展開ー主人公の男性が全身美容整形で別人に成りすまし、自分を騙した妻に復讐をするという話ーにもかかわらず、韓流ドラマ特有のスピーディーな、そしてドンデン返しの連発に、そして個性的なキャラについついテレビの前から離れられなくなってしまったのだ。
で、このドラマ、登場人物たちの破天荒な行動の動機となっているのが、すべて「家族」、それも生んでくれた両親、母(オモニ)への思い、というのが大きな理由となっている。

生まれてすぐに生き別れ、その後顔も知らずに育った姉妹でさえ、それまで長い間苦楽を共にしてきた恋人よりも出生の秘密が分った途端にそちらの血の関係を重視する、というのだから、でもってどうやらそれが韓国ではいたって信じられる思考回路のようなので、、大いに、そしてその結末に何度もビックリした。
(日本では、このストーリーは成り立たないでしょ)

どこかで、そんな血をひいているからなのか、、韓国語もわからないながら、ユンミンはその血の源流を探して祖国を尋ねる。

かと思うと、一方ではヨーロッパの現代っ子らしく、ドライに家族の問題を分析し、国際間の異人種養子縁組を繰り返すハリウッドセレブを批判するというもう一つの顔も見せる。

世界がますますグローバル化に進む今日では肌の色の違う、髪の色の違う子どもが養子縁組により親子となるケースも珍しくはなくなってきているのだろう。ーそう言えば、先日のロベール・ルパージュ作「The Blue Dragon」でもカナダ人の女性が中国へ養子縁組の為に出向いてくるという設定だった。以前に聞いた話だが、アジア人の子どもは`優秀’というイメージもあってなかなかにその手のマーケットでは人気(商品!!!?)だそうなー 劇中でも何度も引き合いに出されるハリウッド大物カップル、アンジェリーナ・ジョリー&ブラッド・ピット夫妻(この二人、なんだかアンジーの方が前にでてくるんだよね〜〜〜)のところの養子キッズたちも、ママとパパとは全く違う容姿の子達ばっかりだものね。


さらには、科学の進歩により子どもの中味がいろいろ選べたり、親の選択も可能だったりー遺伝子操作ー、代理母に試験管ベイビー、不妊治療に苦しむ人たちには朗報であっても、その一方で、これらの新しい家族の形が新しい問題を引き起こしているのも事実で、日進月歩で進歩している分野だけに、これからの対処方法、法整備、異国間のルール設定なども大急ぎで進めなくてはならないことなのだろう。

なんて、そんなことを考え始めると、本当にユンミンが舞台から問いかける21世紀の自分探し問題が、どれほど広範囲に影響を及ぼす事か、、、その小さな舞台から発せられた問いかけの無限な広がりに目がくらむ思いがする。

広がりに目がくらむまたその反対側では、だったら、つまるところの`自分’、`自分にとっての家族’って何?という問いかけが、またもや個人的なレベルに、1対1の小さな関わりに戻ってくるところーだって、たとえ見た目の違う母親でも、親身になって彼女に対面していたら、彼女はドイツのその家族の中に自分の居場所を見つける事も出来たかもしれないからー、もまた、面白かった。


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道化の霊廟ーandcompany& Co. (2/26) マチネ

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世界の小劇場シリーズ第一弾、ドイツ(ベルリン)の小劇場3作品連続公演のうちのandcompany& Co. による「Mausoleum Buffo ー道化の霊廟」を神奈川芸術劇場(KAAT)のスタジオで観る。

今作品に先がけて、先週、上演されたShe She POPという劇団の作品も観る予定だったのだが、都合がつかず断念。。。ドイツ演劇の専門家によると、そちらもかなり質の高い作品だったそうで、大変悔やまれる。

こんなに(おそらく)日本でドイツの最先端作品が観られるのであれば観たいという人がわんさかいそうな貴重な上演企画だったら、せめて、せめて、もう数日間(それぞれ2〜3回のみの上演)やってほしかった。。。それにしも、小粒ながらにすばらしい企画!!!!ー主催者のコメントによると、これからも様々な違う都市をフィーチャーし、そこの優れた小劇場を横浜へ連れて来てくれるということなので、第2回、3回、と、フリーな形でイレギュラーな頻度でも良いので、続いていってくれることを折に願う。


で、今回の「道化の霊廟」。作者(カンパニーのメンバーみんなでアイディアを持ち寄り、創作する方法をとっているとのことでandocompany&Co.としてクレジットされている)がモスクワを訪れた際に赤の広場の下に眠るレーニンの死体が安置された石造りの廟を見学した際に思いついたアイディアから芝居作りが始まったという。

舞台にごちゃごちゃと並べられたダンボールや裸電球、ベニヤ板で作ったハンドメイド感あふれる舞台セットの前でドイツ語、英語、時にはロシア語を交えながら、東が存在していた、そしてその東の恐怖が日常生活に歴然と混在していた時の、それこそ笑えない人々の妄想の話、そして今や笑いも凍り付く資本主義社会のがけっぷち状態とそれに対して警鐘を鳴らし続けてきた人々の話をバブリながら無視し続けてきた私たちへの皮肉をたっぷりと含んだ辛口のメッセージをふんだんに散りばめた芝居。その皮肉な警告をキッチュなジョークと舞台装置で自虐的に演出し、さらにはそれを大真面目に手動で動かしながら、異星人的な卵の殻のかぶり物で演じる役者たちの、何重にも上塗りされたシニカルさが、これぞヨーロッパでベルリンと唸らせてくれる傑作。


さすがに、劇中に登場する全ての人物の名前、またその名が意味することが理解できたわけではないが、随所にはめ込まれた実在人物の人生、言葉からの皮肉の掛け方の謎解きは脳の刺激となって大いに楽しめる。

前述したように、歴史実在上の人物を取り上げてはいるものの、決してそのチョイスは点在した個々のものではなく、20世紀があってこそ、今の21世紀が続いているのだという歴史の連動がしっかりとその構成の中に仕組まれているところが最後に`流石!!’とうならせるキーだろう。


蛇足ではあるが、同じマニュアルなステージセットにより人間の普遍を描いた作品でもタニノクロウ氏の「チェーホフ!?」とこの「道化の霊廟」と。。これほどまでに違ったものが生まれてくるところに、いわゆるアジア(もしくは日本と限定しても良し)と西洋の思考回路の違いを見る思いがする。

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2011年2月23日 (水)

シングルマザーズ(2/23)

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池袋、芸劇小劇場にて、永井愛率いる二兎社の30周年記念作品、新作「シングルマザーズ」を観る。

日本でシングルマザーがいかに冷遇されているか、その実態を実体験(作者・永井愛のところで働くスタッフの実体験が含まれているとのこと)と様々な実際の事例、国会における法案制定に関するこれまでの経過などをふんだんに盛り込んで綴ったセミドキュメンタリー演劇。

`ドキュメンタリー’の実態紹介の部分にかなり力が入っていて、劇中会話の大部分がシングルマザーズたちの悲哀話の訴えで構成されている。おそらく、これでも、泣く泣く削った`おどろきの話’はまだまだ沢山あったのであろうが、、、いかんせん、`こんな事で苦労した、大変だった。。’という事後報告としての台詞が、それも仲間内で交わされるため、せっかくの実体験ながら体感出来るような緊迫度に乏しかったのが残念。綿密な調査から具体的な数字を出して、丁寧に創り上げてはいるのだが、どうだろう。。これだったら実際のシングルマザーズ支援団体が催すミーティングとか、ネットでその報告を読んだりする方が、それこそ多くの生の声が聞けて面白い(面白いという表現もなんですが、、興味深いという意味で)かもしれない。

せっかくドキュメンタリーには無いセミドキュメンタリー、舞台創造という方法をとっているので、そのセミとして付け足されたドラマチックな部分による相乗効果を期待したいところだが、今回の舞台に関してはちょっとその部分のウェイトが軽かった。おそらく、吉田栄作演ずるところの元DV(家庭内暴力)夫に、明るい希望も託して、その部分を背負わせたかったのだろうが、そもそもDV被害によりシングルマザーになりいまだにそのトラウマに悩まされているという状態の女性(沢口靖子)とまさにDV夫であった男性との関係、それも恋愛関係までにおわせるほど親密な関係への発展というところにどれほどの真実味があったのかが、まず疑問。(それとも、同じタイプの男性に惹かれ易いという統計でもあるのか???)
それも、もっとすったもんだがあった末の関係なら、まだ納得もいくが、心の傷ってそれほど簡単にはヒーリングはしないのでは?

生身の役者を使って、そのセミの部分を有効利用したいのであれば、もっと身近な存在ー例えば、子どもとか昼間の職場のまわりの人間達とか、活動に理解を示さない市民の人たちとかーそちらのもっと継続的な関係の人々に物語を背負ってもらった方が良かったかも。

いつもながらにお見事な劇中の笑いの見せ場も、シリアスな題材で、それも悲惨な状況を訴えかける内容だけに、、笑って良いものか。。。。結果として中途半端な苦笑い、、になってしまったり。

「あまりに自らの立場を卑下するのは如何なものか?日本人たるもの弱音をはくべからず。。。」といった国民性、文化ゆえなのか、笑いが入ったり、とことん困り果てた実態描写がー言葉による描写だけで、無かったように感じたが、ここは腹をくくって「いかに悲惨か。いかに世間で不当な扱いを強いられているか。」をそして、「それは誰のせいだと思うか(例えば、政治家?それとも市民一人一人、自分たち??)。どこへ訴えかけるのか?」をこれでもかと徹底して、悲惨に見せて問題提起する方が効果があるのではないか?と感じた。


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不機嫌な子猫ちゃん(2/21)

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昼に続いて、夜も青年団関連の芝居、青年団若手自主企画 vol.47、田川啓介 作・演出「不機嫌な子猫ちゃん」をアトリエ春風舎で観る。

巷の演劇サイトでのレビュー★数も多い人気演目に加えて、楽日公演ということもあり満員御礼の盛況ぶり。


******公演HPより******

どんなに強い敵がいても、そいつが敵だと認識できているのならば、それほど手強くはないだろう。
本当に手強い敵というのは、自分が敵だということに気づかせない。むしろ味方のような気さえしてくる。いやむしろ大好きだ、いや愛してる、もう抱きしめたい。
当然抱きしめたい相手は抱きしめたいんであって、戦いたくなんかない。だから対立することもなく、気づかないうちにそいつにやられてしまう。そして、やられていることにすら気づか
ない。
そういう敵こそが本当に手強い敵だ。
だから臭くて暴力的なお父さんが敵になるよりも、優しくてあったかくていい匂いのするお母さんが 敵になったほうがより厄介になる。
それでもお母さんをやっつけないと、今すぐに。
***************************


子どもを溺愛する母親に超過保護に育てられた女の子が、病的なほどに自己チューな彼氏の強引な提案により家を出ることを決心。取り残された母親が選んだ、ご都合主義な解決方法とは?

というお芝居。

前述の演劇サイトでの感想ーエゴのぶつかりあい。。。ブラックで嫌な気持ちになるが面白い。。。一見無茶苦茶な展開のようだけど、近いような状況って、自分の身近なところにあり。。。ーなどなど、どうやら、このとんでもない母親ー娘を産むのが目的で結婚し、生まれた後は旦那を捨て、その後は娘を`あぶないから’という理由でコントロール、門限でしばりつけ自分の自慢の手料理を食べさせることを生き甲斐に生きているーに`似たような’人が、この世の中には存在し始めているらしい。

う〜〜〜〜ん、どうも私にはこの人たちの人間関係に合点がいかない。

もちろんフィクションなので、時には意図的にセンセーショナルな過剰とも言える設定、描写も必要なのかもしれないが、その意図する方向が嘘くさくて、極端な設定の人物形成までは良いとしても、彼らが関わって引き起こす事柄に嘘くささがついてくる(もちろん芝居は全てが嘘なのですが、もしかしてアリかもと少しでも思う事が出来るようなリアリティをこの話には持たせられない)。だから、結果として、話に興味が湧かない、ということだろう。

ここに登場する人物たちに興味が持てない。

嘘でいいから(くどいようだが、所詮うそなので)そこから先を信じさせてほしい、騙してほしいのだが、残念ながら、心は離れていくばかりであった。

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KUNIO08 椅子(2/21)マチネ

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2011年2月19日 (土)

沼袋十人斬り

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シアタートラムで赤堀雅秋率いるThe Shampoo Hatの第26回公演「沼袋十人斬り(改訂版)」を観る。

砂町の王

前回、12月にThe Shampoo Hat初体験を果たして、二度目の観劇なのだが、前回にも増してガッツリはまった。

大ネタ、小ネタとりまぜ、いろいろな箇所で大いにウケたのだが、これほどまでにツボにはまるのの一つは私の年齢にあるのか??と。

と言うのも、回りよりも、数段テンション高く、楽しんでいる自分がいたから。

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Nameless hands(2/16)

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ゾウガメのソニックライフ(2/15)マチネ

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ハロルコ(2/15)

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赤坂Red Theaterで劇団HOBOの「ハロルコ」を観る。

マイブームの劇団、らくだ工務店の常連俳優陣ー林和義、古川悦史ーが顔をそろえている公演だったので、初見ながら足を運んでみた。

その劇団HOBO、第三回目公演ということだったので、どんな劇団なのか、HPを覗いてみると、
****劇団HPより
おかやまはじめ(ラッパ屋)・林和義・本間剛を基点に、2008年、THEATER/TOPS『喧嘩農家』にて旗揚げ。
劇団員は七名。
劇団員は、他に古川悦史、有川マコト(絶対王様)、省吾(ポカスカジャン)、高橋由美子。
長い者は二十有余年、短い者でも十数年。
各自が培った俳優としての存在感を発揮し、吐き出し、作り手主導で見せ物としてクオリティの高い舞台を創る為。というコンセプトで立ち上げた【劇団】です。
劇団員それぞれが普段は劇団に所属していたり、フリーであったりという違いはあれど、【劇団HOBO】に集う時は劇団員として、一過性のプロデュース公演ではなく、劇団であることで造り出せるモノがきっとある筈だという理念をもって、【劇団】として活動しています。

****************
と、劇団として固定メンバーを構成しながら、同時に各自が外部の顔を持つという、なかなかゆるくて、だからこそフリーな雰囲気の劇団だった。
今回の「ハロルコ」は前作同様、おかやまはじめが作・演出を手がけた作品。

で、芝居の方だが、これが予感的中でツボにはまって、とても面白かった。

********ネタばれ注意 あらすじ***********

ある街の昔ながらの床屋が舞台。何かというと近所の幼なじみ連中が仕事の合間に油を売りにやってくるこの床屋。亡き父の後を継いだ息子の拓郎(本間剛)は対人恐怖症気味ながら、常連ばかりの客を相手に、また、麻雀遊びのたまり場にしている学校の先輩達ー母一人子一人の独身中年男や妻子持ちの近所の酒屋の旦那、介護ホームを経営する男などーの話相手になりながら、日々、地道に商売を続けている。

そんな中年男連中の代わり映えしない日常に、ある日転機が訪れる。

紅一点(劇団においても紅一点)のハロルコ(高橋由美子)が彼らの前に現れたその日から、彼らのマンネリ化した、退屈な日々はハリのある生活へと変わっていく。

男連中が訪れたフィリピン・カラオケパブで働いていたハロルコだが、男連中それぞれへメールを送り、各々とつきあっていた彼女だが面倒をみてもらうためにパブを抜け出してきたと言う。

結局はハロルコとは何の面識もなかった拓郎が成り行きから部屋を提供することとなり、他の男連中も協定を結び、みんなでハロルコの力になるべくがんばる!ことでおちつくのだが、そこへパブのオーナーでハロルコの夫(!?)が現れて。。。。さらには家族の病気を理由にフィリピンへ帰ると言い出したハロルコ。

ハロルコが彼らにもたらした物とは?
また、彼らそれぞれに起こった心境の変化とは?

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赤坂という土地柄からなのか、高橋由美子嬢の力なのか、、小劇場には珍しく場内にはサラリーマンっぽい、まさにこの劇のキャラクターたちと同年輩の男性客が多く見受けられた。でもって、彼らがとても大きな声で笑っていた。

起承転結があり、ちょっとした謎もあり、といわゆるウェルメイド系列の芝居である反面、フィリピンパブの女の子のーどうみても見え見えのー嘘に喜んで騙されるおじさまたちというある意味ご都合主義も多いこの芝居が、いやらしくならず、明るいコメディーとして素直に受けとれられるのの一因は、何と言っても主役ハロルコ役の高橋由美子のキャラと高い演技力にあるだろう。

`上手い女優’の東西横綱ー高橋由美子&戸田恵子ーとも言える女優のなんとも軽妙な上手さが多くの爆笑を誘っていた。

陰惨な事件や複雑な人間関係を追求する芝居もあって良いと思うけど、やっとこ働き終えて、劇場にかけつけたサラリーマンたちに、ちょっとお灸を据えながら、また家族の為に明日もがんばってもらうために、、こんな芝居で心を癒してもらえたら。。。それもありだと思う。


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ザ・シェイプ・オブ・シングス〜モノノカタチ(2/14)

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前売り券、即日(分)完売の激貴重な観劇席をゲットhappy02

青山円形劇場にて、ホリプロ主催、ポツドール 三浦大輔氏演出、チケットを即完売させた張本人ー向井理主演の4人芝居「ザ・シェイプ・オブ・シングス〜モノノカタチ」を観る。

01年にロンドン北東部エンジェル駅から歩いて10分ほどの閑静な住宅街にあるおしゃれな劇場、アルメイダ劇場で初演された本作。

挑発的な現代口語会話で人間の暗部を描いた作品で知られる(こう書いてみると現代口語だし、毎回の過激な内容とオチから変わり種と扱われがちだが、まさに今の日本小劇場上演芝居の主流にあっている作家なのかも)、アメリカ人劇作家・脚本家ニール・ラビュートの作品だけあって、今回もあっと驚く結末が用意されている。ーある意味、この結末の為に全てがあると言っても良いほどー


******あらすじ 公演HPより**********

アダム(向井理)はさえない大学生。ずっと気になっていたジェニー(川村ゆきえ)にも結局告白はできず、彼女は自分の親友フィリップ(米村亮太朗)と婚約をするまでの仲となっていた。
ある日、美術館の警備のアルバイトをしていたアダムは、美しい芸術大学院生のイブリン(美波)に出会う。イブリンはペンキのスプレー缶を持ち、巨大な人物像にあるモノを描こうとしていた…。
この出会いがきっかけでふたりは付き合い始め、アダムはイブリンから色々とアドバイスされるようになる。髪型を変えたら?もっと痩せて鍛えたら?アダムは愛ゆえの言葉と捉え、彼女の言う通りに実行していく。外見も振る舞いも垢抜け、洗練されていくアダム。いつしかそんな彼をとりまく周囲の環境までもが変化していた。
しかし、イブリンにはある目的があったのだ・・・。

***************************

そうそう、この・・・の後にその驚きの事実の種明かしが続くわけだが、この部分ががこの芝居の核であり、全て、、でもってこのタイトル「ザ・シェイプ・オブ・シングス〜モノノカタチ」の指すところ、そのThings(シングス)が表に現れる場面でもある。

そのシングスについては、断定されるわけではないのだがーそれぞれ観る側の思うところ、それぞれが日々感じ取っている`なんだか怪しい〜〜〜気なもの’と解釈してもらってかまわないのだがー、まあ、一つの明らかな解釈としてThings=アート、アーティスト、さらには芸術家気取りのスノッブ(言ってしまえば鼻持ちならない方々)な人々、のことと取れないことはない。

今回の劇作からすると、まさにモダンアートの新進アーティストということになるのだろうが、そのアートの解釈を広げて、演劇人、(今で言うところの)セレブ、さらにもっと広げれば現代人といったところまで含める事も出来る。

この、なんとも大きな勘違い野郎(女の子なので野郎ではないが)イブリンをこのところノリに乗っている
美波が好演。男好きのする悪女で、気まぐれな芸術家、それでいて知的な才女を伸び伸びと演じている。

一方、青山円形劇場をジャニーズタレント出演が定番の劇場グローブ座へと変えてしまった向井理ー女性客が大挙した劇場の熱気はまさにヒートアップ状態で、一瞬、ここはどこ???と見間違うほどだったー君の方だが、まあ、善くも悪くも初舞台らしい出来。四方から視線を浴びる円形劇場で、ほぼ出ずっぱりの初舞台、ベッドシーンまであり、お疲れさまでした、、というところだが、、それでも役柄自体が超受け身な主体性の無い男の子の役なので、演技も全てが受け身。(ある意味、そこがこの主人公アダムではあるのだが。。。あまりにも、それこそアダム役のショーモデルのよう)今回はそれでOKだったが、次回はそれではすまされないだろう。

4人という少人数の舞台だけに、さらには前述のように四方八方から常に観られる円形舞台だけに、例えば舞台で経験を積んでいる役者=ポツドール所属の米村亮太郎と同じ場面に立つと、その差が歴然となる。
それにしても米村さんが上手い!!!

よくぞこのベストマッチングを実現してくれた、と言いたいニール・ラビュート&三浦大輔の組み合わせで演出は手堅く、また、彼の客層を意識した商業演劇演出のお手並みも拝見することが出来、満足。

これからも、様々な形での演出を!と願う。

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2011年2月13日 (日)

チェーホフ!?(2/13)マチネ 千秋楽

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どうぞあきれて下さい。芝居オタクと呼んで下さい。

あまりにも貴重な演劇体験ので、行ける限り駆け付けよう、観れる限り観よう!ということでチェーホフ!?の楽日に三回目の観劇。

ま〜〜〜〜〜、何回観ても飽きない。毎回、「この至福の時が終わりませんように」と願わざるを得ないほどに、贅沢でありがたい舞台。

前回のアフタートーク、また制作サイドの人々の話によると、ほとんど機械的な仕掛けのない、全てが手作りでマニュアル演出な舞台だそうで、、、そう言えばトークで演出のタニノ氏が生演奏の効果について聞かれ、「だって舞台がライブなのだから、音楽もライブ、って大前提ですよね」と言っていたが、この一回生のライブ上演というのが、この舞台が素晴らしい秘密の一つであるように思う。

音を出して、歌を唄って、踊って、演じて、、、これが観たいのですよ、突きつめれば。役者のライブの表現が観たいんですよ、結局。
(それを見事にやり遂げてくれる役者さんたち。。。素晴らしい)

舞台のテレビ放送だの、スクリーン上映だの、それこそYou Tubeだの、、、いろいろ便利に、そして様々な再生が試されているけど、、やっぱりライブには叶わない。
私がこの目で観たものは、そんなものでは代わりにはならない。だから3回通うワケで。。

誰もがお気に入りの絵本を後生大事に本棚に並べていると思うが、この作品、私にとってはそんな絵本の一つです。
ーーーー完璧なラストシーンの残像が、、今も瞼に焼き付いているーーーーーー


ps

それにしても、こんなにも毎日芸劇に通うって、、やっぱりこれは事件だ。
改装が始まる4月以降、どうなっちゃうんだろう。。。こうなったら、今年は国外観劇ツアー強行か!?

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南へ(2/12)

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ノダマップ最新作「南へ」を東京芸術劇場・中劇場で観る。

今や恒例となった感のある、上演直前の新潮誌上で戯曲を読む事は出来るのだが、舞台として立ち上がった物の方が数倍良い!!!
戯曲が云々というよりも、生の役者が喋る台詞の方に数倍の力強さが、同時に緊張感があるということだと思う。

上演プログラムの中で渡辺いっけいが「嫌なところをついている芝居。。」と言っているように、観ている私たち=日本人にとって、何とも耳の痛い話の芝居。。。

嘘の上に嘘を重ね塗りして、体裁を保ってきた私たちーーーーその一時しのぎの処置が結果的に何をもたらしたのか?
祭り上げられた方も、それを喜んで享受した側にも、それぞれに大きな疑問を残す歴史認識。

国づくりの嘘から始まり、実のところ、権力一翼であった天皇制を固持するために隠され続ける秘密、民族に関する都合の良い解釈、短絡的に悪者を仕立て上げる嘘の噂(関東大震災の際にもそのような嘘が蔓延した)、そしてこれらの状況から引き返せない(と思い込んでいる)国民規模の希望的妄想。。。。

と、なぜ今この問題を?と問う人もいると思うが、一時も早く、言うべきことは言っておかなければ、という作者(野田秀樹)の切迫した危機感が感じられる、彼なりのわが国の人々へのパンドラの鐘(警告)のように聞こえる。
これまで、ひたすらにその警鐘をならす役目を担ってきた井上ひさし氏の惜しまれる死が、作者の筆を走らせたのか?!


このあえて鐘を鳴らした芝居の音を観客席まで確実に届けるのに貢献していたのが、アンサンブルを含めた役者陣。

それぞれがきっちりとその役目を果たしていたのだが、その中で特に、大きな役割を背負わされた主人公、南のり平役の妻夫木聡がすばらしい仕事をしていた。

芝居の最後まで、その正体が明かされない、自身もその役割に気づいていないという役、そんな難題をつきつけられて、どう対処するのか、、、見物だったのだが、見事なほどにナチュラルに役に向き合っている。

その結果、スターが、もしくは舞台のベテラン役者が往々にして犯しがちな罠・過ちー一段上から、全てを分りきった顔で演ずる、そしてその役のからくりを知りつくしているという奢りから、「Look at me! 私が教えて上げる。」というアプローチになってしまうものを、まるでその劇の中で生きているかのような自然さで妻夫木本人が観客とともに芝居を体験する、し直すというなかなかに上級な演技をみせている。

また、それを囲む役者陣ー高田、チョウ、渡辺、山崎、銀粉蝶、藤木、黒木、太田、でもって相手役の蒼井優に座組の中心の野田がそれぞれに分をわきまえた良い仕事をしている。
(蒼井優の透明な存在感、またその分身を演じた黒木華の許容量もなかなかの見所)


上記の問題点だけでなく、随所に我々に向けたメッセージが散りばめられているので、心をか空にして、それをを受け止めるのも、また一興。

野田秀樹インタビュー(JT)

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2011年2月12日 (土)

グレート・ワンダフル・ファンタスティック(2/12)マチネ

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2009年結成の若手劇団`ロロ’、1年半の間に12本の作品を発表し、若手劇団対象の演劇賞も何度か受賞しているとのことだったので、どんなものを見せてくれるのか、期待して、雪の中アゴラへ。

久々に`青い’芝居だった。


******劇団HP より*****

ぼくは、なんというか「におい」がするものが大好きなんですが、ぼくがつくるものはことごとく「におい」がしないよなーと常々おもっていて、だから今回こそは強烈な「におい」がするものを作りたいなという欲望が日に日に高まっています。
強烈且つ斬新で鮮烈で超絶爆裂が炸裂な「におい」を醸し出していこうとおもってます。
強烈且つ斬新で超絶爆裂が炸裂で、グレートでワンダフルでファンタスティックで…っていう言葉がどこまでも続いていくように、らぶ。(主宰・三浦直之) 

******************

私も匂いは好きだし(無臭はなんか怪しい)、らぶも好きだけど、、、その`におい’を舞台で、言葉で、身体の表現で伝える事は出来るよねーそれを目指したのだろうがー、、しかしながら、そのそこはかとない匂いはどこからも立ち上っては来なかった。 残念。

客席との距離がこれほどに近いアゴラ劇場なのに、舞台スペースと客席の間に大きな河が流れていた。
ウ〜〜〜〜〜ン、言葉選びもあざとさが良くない形で見えてしまっていた。。次回作に期待。

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アライブ・フロム・パレスチナ(2/11)

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マッチ売りの少女(2/11)マチネ

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2011年2月11日 (金)

ミシマダブル/わが友ヒットラー(2/10)

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今月2日に観劇の「サド侯爵夫人」に続いて、ダブルのもう一つ、三島由紀夫作「わが友ヒットラー」を主演二人ー東山紀之、生田斗真ーのファンで、三時間超えのパフォーマンスにもかかわらず、立ち見席もでているシアターコクーンで観劇。

*****制作発表時 コメント 劇場HPより*******

蜷川幸雄(演出)
 三島さんは生前『サド侯爵夫人』と『わが友ヒットラー』は一対の作品で、『サド~』は男性でやりたいと書き残していた。その夢を実現しようと思いました。東山君との『覇王別姫』しかり、平さんとの『王女メディア』しかり、女形にはいい思い出がある。さらに生田君、木場さんをはじめ最強のメンバーを得て、あっと驚かせるような、まがまがしいような舞台をつくっていきたいと思います。演出的な仕掛けではなく、俳優の言葉だけで面白く劇を成り立たせるつもりです。だから出演者には、サディスティックな喜びも持ちつつ、大いに期待しています。
********************

と、演出家の意図としては、対をなす2作品のダブル上演ー18世紀ロココフランスの怪物サドと20世紀ドイツ社会主義独裁政治の怪物ヒトラーの交友関係を描いた芝居ーを通して、三島が常にみていたであろう他者を拒絶する世界を問う「信じなければ成立しない舞台」を創りだすことにあった、という。(上演パンフレットを参照)

**STORY 劇場HPより*****************
『サド侯爵夫人』18世紀、ブルボン王朝末期燗熱の都パリ―。サド侯爵夫人・ルネは、残虐かつ淫靡な醜聞にまみれる夫を庇い、愛し続ける。〝悪徳の怪物〟に〝貞淑の怪物〟として身を捧げる彼女に対し、世間体を重じる母・モントルイユ夫人は様々な手を尽くし別れを迫るが、夫が獄につながれてもなお彼女の決意は揺らがず、対立は続いた。やがてフランス革命が勃発。混乱の中、老境に差しかかったルネのもとに釈放されたサド侯爵が現れるのだが・・・。

『わが友、ヒットラー』1934年、6月某日。ベルリン首相官邸では政権を得たばかりのヒットラーが、かつての革命の同志で右派のレーム、左派のシュトラッサーとそれぞれ会談を持っていた。思い出話や理想、現状についての意見交換。だがこの時すでにヒットラーは、党内の支持を盤石にするため左右両端の勢力を切り捨てる決意をしていた。武器商人クルップが見守る中、独裁と殺戮の時代への扉が静かに開く。ナチス党内で実際に起きた粛清事件に材を得た、緊張感に満ちた会話劇。
********************************


「サド侯爵夫人」は女6人が登場する芝居ー常に話しの中心であるサド侯爵がいよいよ登場という時に幕は閉じるー、なので男優6人はすべて女装を、それもフリフリのドレスを着、盛りに盛ったベルばら調のカツラで演じる舞台。対して「わが友。。」は6人の中の4人(東山、生田、平幹二朗、木場勝己)が今度はナチスの軍服に身を包み男性間の策略と友情(愛情?!)の駆け引きを見せる舞台。

演出家、蜷川さんが雑誌で「三島さん自身、`日本には翻訳劇というキッチュなものがある’というようなことをおっしゃていて、ヒットラーもサドも西洋の演劇を輸入してきた日本人が作る、`まがい物っぽさ’を意識なさっている。。。」と語っている。

その作られた西洋っぽさを冒頭から観客に意識させるため、演出家は後ろ扉を解放し劇場駐車場と渋谷の裏道をみせて、コンクリートうちっぱなしのコクーン劇場の裏側を見せたセットをお芝居が始まるとすぐに、大道具さんたちが舞台全面の大鏡を運び入れ、シャンデリアで飾り、大仰な赤いビロードの幕を垂らして、西洋の世界へ一変させてしまう。口上を述べる芝居(チェルフィッチュ)やら、ブレヒト劇のように、「あなたたちにはこれから(西洋の)お芝居を観てもらいます。」と冒頭宣言しているわけだ。
ーこのオープニングは2作品に共通するー

で、2本それぞれに、さすがに蜷川演出舞台だけあって、たいへん面白く観させてもらったわけだが、意図してか、それとも計算外だったのか、、、2本それぞれに違った成果が出ていて、それもまた面白かった。

それぞれの作品を以前、「サド。。」は新国立劇場(小劇場)の上演で(その時は女性が演じていた)、「わが友。。」は去年、ドイツ人演出家ペーター・ゲスナーの演出版を下北沢スズナリで観たことがあるのだが、それぞれに小規模劇場での上演で、やはり作品的には、それくらいの小さな空間でじっくり、ねっとりやるのが良いのかもとは思う。しかしながら、それをシアターコクーンの大舞台で堂々と成り立たせ、観客を3時間ぶっ通しで集中させる芝居を作る、作れるのが、やはり世界の蜷川の力なのだと思う。

「わが友。。」の戯曲の方が、劇構造としては起承転結がはっきりとしていて、ドラマチックな転が効いていて全体像が掴み易い。。「サド。。」は全体というよりは、それぞれの場面場面での台詞の裏読みが面白い芝居と言えるかもしれない。

前述の成果の違いについてだが、皮肉なことに男優全員が女装をして演じた「サド。。」の方が(まがい物ではあっても)舞台全体にリアリティーがあったということ。

まがいものを嘘で演じているところに マイナス プラス マイナスでリアリティーがでたということなのだろうか? レトリックな台詞に関しても、それを芝居として聞き入れる 楽しみさえ生み出していた。
男優たちが女世界を演じることで、女の自己欺瞞、自己肯定、他人批判などの性質をクールな批評性をもって見せることが出来ていた。
ーそれにしても、観ているうちに男優であることを忘れるくらいに皆様お綺麗でしたーー得にやっぱり主役のジャニーズのお二人。女性アイドル並みにとっても可愛かった。ー

それに反し、「わが友。。」の方では周知の歴史事実、そして最も有名な20世紀における歴史上の人物の話であるだけに、真面目にやればやるほど、、かえって嘘の方が前面に押し出されて来てしまっていた。
ーそれと、残念なことに、こちらではその端正な顔(生田=ヒトラー)があだになってしまっていたかも。ヒトラーの人物造形に、いくら本人ががんばったところで、その出発点に無理があったかもー

それと、4人の年齢構成、ヒトラー(生田)とレーム(東山)の二人が他の(クルップに関しては年が上だと示唆する箇所があるが、同じ党内で同等の地位にあるシュトラッサー(木場)と比べると違いすぎる)二人に比べるとあまりにも若いためにナチ党内の勢力抗争関係に緊張感がでてこない。

*****

このように、若い人々に三島戯曲を鑑賞する機会を与えるというのは(奇しくも、神奈川では「金閣寺」を上演中だが)、それはそれでとても意義のあることだと思う。

一方、「わが友。。。」の休憩時間中に小耳にはさんだ、劇の感想をちょっとご紹介しよう。

*30代ぐらいの東山さんのファンとおぼしき二人組、
「ウ〜〜〜〜〜ン、金髪に染めるとは(東山がゲルマンドイツ人を演じるため、金髪にしていた)。まあ、色が白いから、金髪はそれなりに似合っているよね〜〜。黒髪が一番だけど、、いずれにせよ、茶髪よりは良い。。だって色白だから。。」

と、休憩時間中ず〜〜〜〜っと、どの髪がどのように似合うか、を議論。

*30代〜40代ぐらいの良識者らしきスーツ姿の男性二人
「「サド。。。。」も観たけど、こっちの方が分り易いかな。一応、ドイツもの、だから、ね。前回のは何だかさっぱり。。。だった。」

やっぱり、キャストありきで劇場へ来るという傾向の現れでしょうか?
ま、それで観劇後にいろいろと他へ繋がっていけば、それはそれで、どちらが先でも結果オーライなんですが、ね。

やっぱり、時代背景、ドイツ、ナチの歴史、血の粛正(長いナイフの夜)ぐらいは頭に入れて、観た方が面白いと思うから、ね。

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2011年2月10日 (木)

俺のお尻から優しい音楽(2/9)

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三鷹市芸術文化センター 星のホールで、前田司郎率いいる、五反田団の新作「俺のお尻から優しい音楽」を観る。

タイトルをあなどるなかれ!でもって、この芝居を知りたかったら、チラシをよ〜〜〜く鑑賞しよう。
驚くほどに、まさに「俺のお尻から優しい音楽」な芝居だった。

****あらすじ 演劇サイト より******

壊れそうなほど美しい少年大山はプロのバイオリニストを目指しフランス音楽学院に留学する。そこに待っていたのは、世界中から集まった音楽エリートや、厳しい先生たちだった。
という前提のもとかなり何も考えない調子で描かれた感動の学園ロマン。
見終わったあと、心に残るのは愛か、それとも無か。無だ!
確かに私も悪ふざけが過ぎると思う、しかし、人生ときにはそういうことも必要ではないだろうか。どうぞ宜しくお願いします。 前田司郎

**当日配布チラシより**

本公演が始まって、10分か15分くらいすると、「まさかこの調子でつづくんじゃあるまいな?」という疑問が皆さんの中に生まれると思います。終始この調子で進みます。。。。
。。。最近ちょっと真面目すぎるなあと思うところがあり、本来の姿を取り戻すキャンペーンを行っています。今回の公演はその一環であります。

*******************

作・演出家はこのように、大変恐縮しておりますが、、いやいや、大変面白かったので、恐縮せずに、確信犯で。。。宜しくお願いします。

と、久々に、いさぎよく腹をくくった、ナンセンスコメディーでありました。

「のだめカンタ〜〜〜ビレ」を(あちらさんは一応マジに天才音楽家の話をやっているのだが)小劇場で、もっと誇張して、でもって明らかに自嘲的に批評して、みんなが思っていることをマンガちっくに誇張して、とっても楽しいお芝居に仕上げてあります。

西洋文化への一辺倒な憧れー新劇調ー、様々な刷り込まれた概念などに疑問を呈する、大笑いの中にかなり辛辣なー自らへの問いかけを含んだ脱力系意欲作。

そんなことはどうでもよくて、素直に大笑いしたい人にもおススメ。

制作過程 インタビュー

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2011年2月 9日 (水)

ロクな死にかた(2/9)マチネ

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池袋 東京芸術劇場で若手劇団シリーズ芸劇eyesの最新公演、広田淳一率いるひょっとこ乱舞 24回公演「ロクな死にかた」を観る。

昨年、吉祥寺シアターでの2本立て公演の前にインタビューをした記事↓

JT 広田さんインタビュー

昨年のTPT2本連続公演後芸劇の小劇場ではすっかりこの形状での舞台使用が定番化した、三面客席に面した中庭式舞台の上にはジェットコースターのレールのような高架とカーブ形状のカウンターテーブルが。

開演直前には総勢18名の役者たちが次々と舞台に現れ、ストレッチを始めている。

と、合図とともに元気あふれる群舞ダンスで開幕ーこのダンスシーンは後にも随所随所で展開される。

*******ネタばれ注意******

毬井君の突然の死を中心に話が展開。死んだはずの彼のブログがその後も更新され続けたことから、生前、彼に関わっていた人々、彼への思いを断ち切れずにいる元カノ、頼み事を託された友人、死んだ当時につきあっていた彼女ら などなどの取り残された思いを綴っていく。
毬井君はこの世にはいないが、(死んでしまった彼が若いが故特に)毬井君の存在する世界が当たり前と思って生きてきた回りの人々のそれぞれの心に残った何か、また間接的にその死に関わることにより、普段は忘れていた「死」というものの存在を再認識する人など、が短いシーンの連続により描かれていく。

『劇団HPより』今作について

わたしのし

先日、ひょんなことから「バンジージャンプ」をやりました。
40mほどの高さから、エイッと飛び降り、落下しながら考えたことは…、何もありゃしません。アーッ、なんて言ってそれっきり。走馬灯も何もあったもんじゃない。
もしかすると、紐をつけずに飛んだって大した違いは無いのかもしれません。他人の死、なんてものは数字に過ぎません。
日本の年間自殺者数は3万人! なんて言われても、せいぜい、そりゃ悲惨だね、て神妙な顔を作るぐらい。対岸の火事、馬耳東風、かすかに聞こえるお隣さん家のテレビの音みたいなもんです。
ところが、知人の死となるとそうはいかない。悲しんだり、悔しんだり、やれ金返せ、話が違うなんていって、騒々しいったらありゃしない。
とかく、自分との関係が近いほど「死」の騒音は増していくんですが、不思議なことに、この世で一番、「静かな死」っていうのは一番、近くにあるんです。
つまりは、「自分の死」です。
そんなわけで今回は、死ぬ、ってことを扱います。それも、わたしが死ぬ、という主観の問題と絡めて表現してみようかと思います。
まあ、要するにですね、ロクな死に方をしそうもない連中がわんさか出てきて、意外や、ロクな死にかたを見つける、と、そういう話です。乞う、ご期待!
作・演出・主宰  広田淳一

****************************

ひょっとこ乱舞らしい(と言っても今作が三回目の観劇ですが)、若々しい、でもっておそらく作家の気質なのだろうが、悲惨な「死」を扱ってはいても、あくまでも肯定的・明るい(ちょっと不釣り合いな言葉ですが、何と言ってもあ・か・る・い)作品。

今どきの若者芝居にしては珍しくとてもストレート。
こういった青年もいるのだな〜〜〜〜となんだか、逆に新鮮。
売りの一つでもある、群舞はいつもながらにピシッと元気があって良い。


ps

この芝居の話が、若い男の子が池袋で事故にあい、突然、死んでしまうというところから始まっているのだが、観劇の帰り道、最寄りの駅を降りエレベーターから地上に出たら、目の前におばあさんが横たわっていた。どうやら車に撥ねられたらしい。。。警察官数人が道にチョークで人形をとっており、、回りには人垣が。。。すぐ目の前、それもドアが開いて2〜3歩前の出来事だったのでびっくり。

まるで今にでも起き上がりそうな、眠っているようなおだやかな横顔。
本当に、いつ何が起きるかなんて分らない。

以前、教会で牧師さんが(お葬式に参列した際に言っていた)「その日、悔いなく生きられたら、人生それで良いのです。その積み重ねが出来れば、かなり幸せな人生を送れます。」というような事を言っていたけど、本当にその通りだと思う。その日、悔いなく、ぐっすり眠りにつければそれで大満足としよう!


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雨と猫といくつかの嘘(2/8)マチネ

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焼肉ドラゴン(2/7)

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新国立劇場で08年の演劇賞を総なめにした、名作「焼肉ドラゴン」の再演を観る。

どこがスゴいって、そこに確固たる真実(芝居だから創作ではあるのだが、劇作の中に信じられる確かな核が存在する)があるから。
でもって、俳優達にもそれを裏付けるだけの確かな演技力があるから。でもって、その俳優たちの力を引き出す演出家の粘っこさ(とパンフレットの中で演出家自身が認めていた)が、とことんまで向き合う姿勢があるから。

こんなにスゴい芝居、そうそうないかも。そう言った意味では、もう異例とは言え、もう一度演劇賞を授与したいほどに、観る価値のある芝居だと思う(残念ながら、前売りは完売だそうな。。。熱烈要望による再演だったら、それこそお客が入るのが手堅い公演だったら、もう少し長く上演してもよさそうなものを。。。(2週間だけとは)これこそ国立劇場がロングランするべき演目だと思うんだけど)。
この芝居を観るのと、見逃すのとでは、人生に与える影響はかなり違ってくると思われるほどに、戯曲、演出、俳優、そして上演された場所、、、全ての要素が日本演劇史上において、重要な役割を担った芝居。

終戦から25年、高度成長期まっただ中の日本。大阪万博を間近に控えた大阪の生野区の朝鮮人居住区域で焼き肉店を営む一家の物語。
この家族の家族構成が、戦中、戦後の日韓の歴史の反映で、劇の冒頭で末息子が説明するように、3人姉妹一人息子の家族ながら、それぞれに親が違ったり、生まれ育った環境が違ったり、とちょっとずつ違う血の繋がりで結ばれている。

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ファッションショー(2/7)マチネ

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CONTINENT(2/5)

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2011年2月 6日 (日)

ここは何処?鹿やら羊やら。。

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我が家のKY亭主のネタを一つ。。。クリスマス前に、珍しい肉を売る店を発見した彼。日本でもレストランに行く度に「鹿肉、ありますか?」なんてトンチンカンな事を聞きまくっている彼は、なんだかその獣系のお肉が好物らしい。

そんなところに、その肉屋を発見したもので、ある夜、なにやら冷凍された塊を沢山仕入れて帰ってきた。

と言う訳で、今、我が家の冷凍庫には羊の腎臓、ミンチ、鹿肉、でもって今朝確認したら、干支のうさぎちゃんまで。。。。がたんまり入っている。

え〜〜〜〜〜〜、ラムぐらいならどうにかなるけど、鹿ってどうやって料理するの??

やっぱりシチューが無難かな?

なんだか、なかなか手に取れないで、そのままになっているけど、どうにかしなくてはbearingいつの日か。。

ps

KY亭主の訳は`空気読めない’ではなくて、`空気読まない’だということが分ってきた今日この頃。

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2011年2月 4日 (金)

神社の奥のモンチャン(2/3)

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浮標(2/3)マチネ

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噂の4時間の上演時間舞台、三好十郎作、長塚圭史演出、葛河思潮社 第一回公演「浮標」を吉祥寺シアターで観る。

いろいろなところで感想として書かれているが、あえてもう一度、観劇中にこの芝居の上演時間ー4時間ーを気にした人はいないと思う。

それほどに、緊張感をもって、さらには濃密に創り上げられた、やはりある意味このスピード社会にあって珍しく贅沢な演劇鑑賞体験だった。

舞台中央に配置された砂のプールの中で展開する、場面転換も必要のないいたってシンプルな設定のドラマなのだが、ごくごく小さな世界を描きながら、この芝居の提示する問いかけ、扱う問題は広範囲に渡っていて、誰が観ても考えさせられるような戯曲となっている。ーさらには、この砂場の舞台(美術:二村周平) がなにもないが故にかえって想像力を大いに導喚起するという空間として大いに作品の出来に貢献している。ー

また、詳しくは後日追加するとして、

実はこの「浮標」、何年か前に新国立劇場で生瀬勝久主演(他のスタッフ、キャストはパンフレットをひっぱり出して、後日、報告するつもり)でも観たことがあるのだが、主人公の不治の病を患う妻を抱える天才画家五郎の今回の舞台との印象の違いが面白いと思ったので一言。

生瀬演ずる五郎からはギリギリに追いつめられた人の切迫感、この人が狂ってしまうのではないかと思うほどの緊張感が、イタいほどに伝わってきたのに対し、今回の田中哲司の五郎はどちらかと言うと、連続する狂気よりも瞬発的な狂気を感じさせる演技であった。
天才画家という一面を思い起こさせる、感覚の狂気だった。

どちらが、と言うよりも、どちらも、、そしてそれぞれに役者の素性が見えてくるようで、面白いと思った。

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ミシマダブル/サド侯爵夫人(2/2)

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2011年2月 2日 (水)

チェーホフ?!(2/1)

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あまりにも素晴らしかったので芸劇で「チェーホフ?!」を再見。またも至福の時を過ごす。

予定が変わって、時間ができたので、ふらっと劇場へ。。池袋だとご近所なので、これが出来るのが嬉しい。

夏に豪華な3Dー飛び出すー絵本ーティム・バートンの映画「アリス・イン・ワンダーランド」を見せてもらったが、そちらがおいくら億円かかっているのか知らないが、こちらの「チェーホフ?!」なんか、それよりもさらにぜいたくに、音も演技もライブで、でもって立体で、、という超贅沢な大人の絵本なんですけど〜〜〜〜。

ちょっと前に来ていたF/Tでのロメオ・カステルッチの舞台(まあ、上演形態、場所などなどの条件がよくなかったということもあり、彼の良さが出た上演ではなかったとは思いますが)を観て、喜ぶぐらいなら、こちらの芸劇小劇場の方がぜんぜん良いと思うのですが。

ちょっと危なくて、覗いてはいけない世界をフードをすっぽり被った子ども(マメ山田と子役が交代で演ずる)が探検する。。。言ってしまえば、そうゆう芝居なんですが、まあ本当に、わんさかといろいろな物が詰まっております。

学生時代に流行っていた、ディヴァインが出ているようなカルトムービー、はたまたルイス・ブニュエル、フェリーニ、単館ロードショーで観た様々なヨーロッパの映画のような、、ストーリーではなく、イメージで、観客それぞれが想像し、鑑賞するような、でもって一流の芸術作品であるような、そんな日本では珍しい作品です。

嬉しい偶然で、中井美穂の司会により、脳科学者 茂木健一郎 と 作・演出 タニノクロウ、三者によるアフタートークがある日だったのですが、茂木さんも中井さんも興奮がピークを越えるほどに大絶賛しておりました。

その場で、茂木氏はしきりにタニノ氏にオペラの演出を勧めておりましたーーー確かに、彼が言うように、「今観たい! すぐ観たい!!!!」

これ、ヨーロッパに持って行ったら絶対ウケると、私も思う。


ーーーーまた、観に行っちゃおうかな。。行けたらイイな!!ーーーーー


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金閣寺(1/31)

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神奈川芸術劇場、こけら落とし公演、三島文学の最高峰に位置する「金閣寺」(小説)の舞台化で芸術監督宮本亜門が演出をてがけたプレスナイト舞台を観る。

横浜駅からさらに中華街方面へ電車を乗り継ぎ(みなとみらい線)最寄りの日本大通り駅で下車。

駅構内の案内板には神奈川劇術劇場への出口表示があったのだが、その出口での案内表示が無い。。。1本道で、方向さえ間違わなければ3〜5分ほどで劇場に辿り着けるのだが、もしもその方向を間違えて歩き始めてしまったら。。。と思うと、冷や汗が。。と言うのも、同じ感覚の観客が多かったようで、出口前にあった土地勘がないととっても分りにくい近辺地図の前には人だかりが出来ていたからだ。
新しい劇場で、初めて来る人も多いと思うので、行政の担当の方、矢印看板一つ、早く作ってね。それだけで、かなり助かりますので、よろしく。

で、いつもぎりぎりに劇場へ着く私ではあるが、さすがに初めて行く劇場だったので、気持ち余裕をもって出たおかげが、前述のハラハラする瞬間はあったものの、開演10分前ぐらいに到着。。
ーここで、初めて訪れる方にもう一つアドバイスー建物と入り口が見えたからと言って安心するなかれ!

「金閣寺」が上演されていたホールというのが1300席、三階席まである大ホールなのだが、その劇場自体が建物の5階(下にはNHK関連の施設が入っている)にあり、劇場に到着したからといって、それからまた席に着くまでは5分はみておいた方が良いというということをご注意申し上げる。

直通のエレベーターもきっとどこかにあるのだろうが、玄関を入ってすぐのところにステキに吹き抜けスペースに配置されたエスカレーターがあるので、ほとんどの人が自動的にこの経路をとって劇場入り口へ向かう事となる。で一度乗ったら、あとは上へ上へとのせられていくのを我慢するのみ。。。開演ギリギリの時はちょっとハラハラするような距離なので、初めて訪れる際は心持ち早めの到着を心がけた方が良いかも。

ーーーーーと、神奈川芸術劇場の初訪問体験で、ここまできてしまったが、本題の芝居について。

これが、なんとも不思議な体験となったのだが、。。舞台の評を星で、と言われればおそらく総合点では星三つ(星5つ満点中)ぐらい。

星の数が伸びない理由も、かなりはっきりしているのだが、それと同時に、一方では`この舞台を観れてヨカッタ’という気持ちがあるのも確かなのだ。

つまり、正攻法ではいかず、いろいろな意味でオリジナルな上演意図をもった今回の舞台、そのおかげで無くしたもの、結果としてうまくいかなかった点も所々あるのだが、逆にこの方法でやってもらったお陰で、他では観れないもの、ちょっとしたお得感も得る事が出来たと言うこと。

ちょっと単純ではあるが、そのマイナス点とプラス点を箇条書きにしてみたい。

(−)な点

*日本文学である「金閣寺」をわざわざカナダ人の作家 セルジュ・ラモット氏に翻案を依頼していること。別に翻訳家、台本作家のクレジットもあったので、想像するに、ラモット氏がフランス語(もしくは英語)に訳された原作を読んで、翻案し、それを翻訳家が日本語へ訳して、でもってそれをもとに台本作家が戯曲化するという手順をふんでいるものと考えられるのだが、なぜ、これほどに複雑な、訳したものをまた訳し返して、、ということをやったのか。
まあ、考えられることとしては、そのラモット氏の翻案を、それこそを劇化したいという一念だったのだろうが、だったらなぜ、この芝居の上演意図として演出家が『。。(略)我々日本人はこれからどこに向かうべきなのか?今こそ日本人はいっけん豊かな物質文明で生きることを考えなおし、歴史を振り返り日本文化の豊かさを探っていくべきではないかと思うんです。」(公演パンフレットより)、また。。(略)「自分たちは何なんだ」と問うべき時が来た。そんな時代だからこそ、僕は西洋物ではなく自国の作品に目を向けてみたいと思うに至りました。」(シアターガイド インタビューより)と述べているのか?
日本の文化に目をむけたいんだったら、原作からそのまま日本人が立ち上げた方が良かったのでは?

結果として、先日の「ノルウェイの森」映画版のような事が起きていて、ーもちろん小説が原作なので、一語一句、全てを舞台で語ることは不可能なのだがー、どうも原作とは違う「金閣寺」舞台が出来上がっていてーだってこれ翻案作品ですからと言われればそれまで、なのだがー、おそらく三島由紀夫の「金閣寺」を観に来た観客には不満の多いものとなっていたはず。
すくい上げるべき箇所、捨てても良い箇所の選択が、、、小説の中の事件をただただ追うということに依っているので、主人公の内面、さらには作者の意図するところがことごとく抜け落ちている。
なので、「金閣寺」という小説内容を舞台で説明したような作品になってしまっていた。

*前述のように事件を羅列していく手法なので、どうも舞台全体を貫く芯が無い。
「金閣寺」の何を伝えたいのか、その伝えたいものがはっきりしない。

*後半特に、派手に映像効果と大音響の音楽を使っているのだが、昨今のハリウッド映画のような趣きで、驚くかもしれないが、それだけで 効果としては如何なものか?


(+)な点

*まず、主役 3人のキャストー森田剛、高岡蒼甫、大東俊介ーは悪くない。特に、森田剛の溝口はドンピシャ。

*感覚的な心理演出手法ーホーメイ歌手の山川冬樹、大駱駝艦のダンサーたちー これらが、今回、ライブで観れて大いに嬉しかった点。
廃校を利用したリハーサル室をそのまま出したようなセットもOK、教室の机や椅子を使っての演出もOKだが、マイクを通しての語りはちょっといただけない。。

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溝口(森田)が多くの他人の中の自分を分析し、自分の目指す高みをわかってくれない世の中、もっと単純に言えば、上手くいかない自分の人生を社会、そして他の人のせいにする。。。さらには、鶴川(大東)を勝手に理想家して崇める、そんな様子を観ていて、、近年のエポックメイキングとなった事件ーアキバ歩行者天国殺傷事件ーの犯人、加藤智大を思い出した。


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