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2011年1月

2011年1月31日 (月)

ロングバケーション(1/29)マチネ

Saitama2011

****なかなかアップ出来ないでいるので、一言ずつ、後日、全文完成させます。。***

彩の国さいたま芸術劇場でコンドルズの最新公演を観る。

今回はダンスパートが多く、メンバーの増加に伴い、様々な趣向のダンスが楽しめた。

いつもはダンスの部分では近藤氏ばかり目で追っていたのだが、今回のプログラムに関しては、それぞれにかなり良い味をだしていて、一人一人の違った個性を楽しめた。

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2011年1月29日 (土)

明るい表通りで(1/28)

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昔ながらの商店街の一画で起きた、家族それぞれの再生のストーリー。

取り壊される商店街でタバコ屋を営む一家の三人姉妹がお店の存続の危機に際し、それぞれの人生の決断ー仕事か恋愛か、家族か自分かーをしていく様がコメディタッチで描かれていく。
ちょっと懐かしいタッチのウェルメイドプレイ。

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断食(1/27)

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アフタートークで作家(青木豪)と演出家(いのうえひでのり)が語っていたが、ぽっちゃり役者三人が集まってのユニット「おにぎり」の第一回公演ということで、タイトルは「断食」にすぐ決まったそう。

しかしながら、後半、断食道場が設定として出てくるものの、ダイエットに関する話とかではなく、結構ブラックな近未来のクローン人間のお話。

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2011年1月27日 (木)

ミートくん/アンヒビオ(1/26)

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2本立ての作品なのだが、後半の「アンヒビオ」が何と言っても秀逸だった。ナイトメアー(悪夢)のような不条理劇。

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国民傘(1/26)マチネ

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2011年1月26日 (水)

チェーホフ?!(1/25)

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上質なヨーロッパの舞台を観ているような、なんともリッチな舞台。

観客の想像力を喚起させる、その余白のバランスが見事。これがセンスの良さというものなのだろうか。チェーホフ 云々は忘れて、まっさらな状態で、面白い所へ連れて行ってあげると言われた子どものような心持ちで劇場へどうぞ。
きっと、濃密な劇場体験が出来るはず。

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2011年1月24日 (月)

パパ・タラフマラの白雪姫(1/24)マチネ

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エモーショナルレイバー(1/23)

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a Go GO  がーまるちょばプロジェクト(1/22マチネ)

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がーまるちょばがサイレント劇団を結成。公演にさらなる厚みがでて、これは大正解。
それにしても、彼らの観客を舞台のパフォーマンスに引きつける、そのコミュニケーション力は絶大なり。恐れ入ります。

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水平線サイコ(1/21)

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浅草のアサヒアートスクエアーで、今の私のマイブーム、KENTARO!!率いるダンスユニット、東京Electrock Stairsの最新ステージを観る。
やっぱり、思いっきり元気で、高速でキレがあり、でもって今回はソロではなくグループなので他のダンサーとの重なり、そして比較といろいろな形でのからみがカラフルで、音楽・キャラ・もちろん踊り、、、と総合芸術を堪能する。

ダンスだとテクニックに関する評価、とは別に、まずその動きが好みかどうか、観ていて気持ちよいかどうか、楽しめるかというのがかなり大きく影響してくるのだが、KENTARO!!の振り付けはやっぱり好き、につきる。

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僕を愛ちて。(1/21)マチネ

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豪華客演陣の良いところを余すところなく活用。それでいて、劇団の色は崩さず。
今どきの若者たちはコミニュケーション上手、故にコラボ上手。

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投げられやすい石(1/20)

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アゴラ劇場で岩井秀人が主宰(作・演出・出演)するハイバイの「投げられやすい石」を観る。08年1月にJet Lagプロデュース公演として新宿ゴールデン街劇場で初演された舞台の再演で、今回は東京外でのツアー(西中心ですが)を慣行、名古屋・三重・京都・広島・福岡の5カ所でも引き続いて上演されるという。
ーーーーーこうゆう細かい、お客様重視の姿勢がまずもって良い。わざわざ東京/大阪まで来なくても、近くで良い芝居が観れたらそれにこしたことは無いし、演劇人口の増加にも繋がるし、ねーーーーー


で、舞台ですが、最後に、、不意に襲ってきましたよ、、心の琴線が思いっきり振動してしまいました。。
いつやられてしまったのか。。気がつくと惚けてました。。でもって泪が決壊寸前でした。

観た後にこれほどまでに`魂をもっていかれちゃった’状態だったことも、本当に久しぶり。

得に前半、ヒャラヒャラとヌラヌラとした人間関係を眺めていたらーま、実際、ほとんどの日常がこんな感じですよねー、最後に、ガッツンと人の生き様の切なさと人というもののかわいらしさ(泣き笑いのような)を見せられた気が。

まあ、ここまで読んで下さった方々で、この芝居をまだ観ていない人には(これ、絶対観た方が良い1本です、ちなみに)何が何やら、、と聞こえるかもしれません。

********ネタばれ注意**********

美大生の佐藤は(岩井秀人)若くして個展を開くほどの才能に恵まれ、将来も有望視されていた。
そんな佐藤の友人であり彼に憧れる山田(松井周)と佐藤の彼女で、佐藤に言わせるとアートに関しては凡庸なミキ(内田慈)。
冒頭のシーンではそんな若き日の華やかなりし頃の佐藤と彼へ羨望の眼差しを向ける2人の姿が描かれる。

その後、佐藤が突然失踪したという噂が流れ、2年の月日が経ったある日、佐藤から山田に連絡が入る。
今では美術とは一切関わりのない仕事に就き、ー実はーミキとつきあっている山田が久しぶりに会った佐藤は同人物とは思えないほどに変わり果てていた。
髪は抜け、目は窪み、よれよれのジャージ姿で現れた佐藤。
見るからにワケありな、貧相な形相の彼をコンビニ店員(平原テツ)がゴミのように扱うのを見て、その事件に憤慨しながらも、自分の態度にも迷いだす山田。

その後河原で石なげをし、昔話に興じる二人。それでもお互い、本当に聞きたいことは避け続け、どことなく気まずい雰囲気が流れる中、呼び出されたミキも加わりカラオケに行くことに。

カラオケ店員を自分を蔑んだコンビニ店員と同一人物だと言い張る、パラノイア気味の佐藤に対し、次第にいらつきキツい言葉を投げかける山田。言われた佐藤も「いったいお前は何者なんだ?ー絵も描いてないし(何をやっているんだ。。)」と切り返す。

最後に、佐藤が経験してきたであろう事柄が、彼が大事に抱えていた絵とともに一瞬紹介されるのだが、会わなかった月日によりこじれた友人関係が事態をさらなる悲劇へと押し進めてしまう。
*********************************************

若い頃には、無邪気に見せあっていた羨望の気持ち、違う立場をお互いを認めあう気持ちも、年をとっていろいろなもの、しがらみやら常識やら世間のうんぬんやらがくっついてくると、なかなかストレートに出せなくなってしまうものなのだろうか。

アートというものも、ただただ純粋なだけでは成り立たないものなのだろうか。
そもそも、答えのないもの=例えばアートなんていうものに、到着点、さらには成果点なんてものがつけられるのだろうか?

所詮、他人が考えていることーもしかしたら自分で考えていることでさえーなんて誰も分りはしないものなのだ、「この世の中に`絶対’なことなんて何一つないんだ。」というこの芝居の声が聞こえるーーーだからこそ尋ねる「おまえは何者なんだ?」「いったい誰が自分を裁けるというのか?」と。

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2011年1月20日 (木)

Sweets(1/19)

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******演劇村フェスティバル HPより***

今回で3回目になるこの企画。1回目は、08年秋、青山円形劇場で「がんばれ関西発の3劇団!」という趣旨でした。2回目は、昨年ここ座・高円寺にて「がんばれ早稲田発の3劇団!」という趣旨で構えてみました。3回目の今回は、テーマを「SF」に設定してみました。サイエンスフィクションから少し不思議まで広い意味での「SF」です。閉塞感まみれのこの時代に、素敵なファンタジー(SF)がひと時なりとも観ていただいた方々の元気の素になれればと思います。

劇場費と稽古場代は、僭越ながら弊社が面倒観ます。なので中身は自分たちでなんとかガンバってください。木戸銭はすべて芝居作りに役立ててくださいというこの企画。いつまで続けていけるかわかりませんが、いけるところまで行くつもりです。そして、継続の中で意義や価値を発見できればなによりです。

願わくば関わっていただいた方々にとって、このフェスティバルが新たな一歩の一助となりますように。
ヴィレッヂ 細川 展裕

*******************

高円寺の座・高円寺劇場で開催中の演劇村フェスティバル、3作品連続上演のまずは第一弾、ehonの「Sweets ー可哀想にたかる蟻たちの話。」を観る。

まったくの予備知識なしで劇場へ行ってみたのだが、やはりどんな人たちが作っているのかが気になり、ehonという聞き慣れない劇団のHPを開いてみた。

それによると、主宰で演出、と言うかehonの主体であるのが葛木英(くずき あきら)さんという20代の女性。彼女は舞台・映画の脚本・演出、テレビドラマ・映画などなどの脚本執筆を幅広く手がける若手有望株とのこと。近日中に初の小説発売も決まっているという。
ehonの前に劇団メタリック農家という劇団を主宰し、劇作・演出を担当していたらしいのだが、今回、新たにehonを立ち上げ、個人としてプロデュース公演を展開していくという。今作がehonでの第一回目の作品となった。


******同HPより*****
ー挨拶ー

「Sweets]は、自殺未遂を繰り返している友人への私からのラブレターです。人としてどう生きるかという一つの命題で迷路に迷い込んだ彼女と、今の日本に生きにくさを感じている人たちに、私の描く希望のかけらを観てほしい。
かつて鬱だった私が、10年経って伝えたいことをこの舞台に込めてみようと思います。それが、今のところ、私に出来る世界への最大の恩返しなんじゃないかなぁ。なんつって。 葛木英

********************

ご本人の戸惑い気味の場内アナウンス(最近、これ流行ってますよね)で幕をあけると、ひきこもり少年裕太(福山聖二)がパジャマ姿でひきこもっている部屋の断面が。その横には階下のリビング、そして反対側には玄関前になったり喫茶店になったりするスペースがあり、裕太の部屋の外で日々展開する家族ー母親、春緒(円城寺あや)、春緒の最近出来た若い恋人、春緒の前夫の連れ子 千華、その彼氏と友人、裕太の訪問医 etc..の様子が小間切れに紹介されていく。

****ネタバレ注意**********

複雑な親子関係ながら(春緒は2回の結婚歴があり、今回3度目の結婚にふみきろうとしている)、あり得ないほどではない、この引きこもりの息子を中心とした家族が抱える本当の闇、というのが劇が進行していくとだんだん明らかになってくるのだが、全てのつじつまが合うのがかなり終盤になってからで、それが見えてきはじめて、やっとこの劇が見せたいものというのがはっきりとするという、ちょっと忍耐力のいる芝居。
その謎解きが出来たところで、その途端に急激に劇にリアリティが出て(その際に実際に舞台上で起きていることは殺人だの、死体遺棄だの、、かなり現実生活とはかけ離れた事柄ではあるのだが)、全てに合点がいくという仕組みになっている。

真面目な人がその生真面目さゆえに起こした罪、一生懸命であるが為に陥った心のアンバランス、、、確かこの芝居に描かれているような母親ーがんばっている自分を認めてもらいたいという衝動からわざと身近な弱いものを傷つけ、その看護に精を出す自分を演出するーのニュースが、最近実際にニュースで報道されていたな〜〜〜、と思い出す。

その謎解き解明に至るまでの間、意図的に違う箇所に焦点をずらされている=ひきこもりの裕太の胸の内がこの劇の中心にあると、観客は途中まで騙され続ける、のだが、実のところ、最後に種あかしをされて思い返すと冒頭からところどころにその謎解きのヒントが散りばめられていることに気づかされる。

しかしながら、反面、その途中まではまんまと作者の手中にはまっているため、それらのヒントが殊更に不自然に浮いて、理不尽に見え、劇の流れを停滞させてしまっていることも確か。
(例えば、これが欧米の劇場とかだったら、みんなこらえ性がないから、途中で帰っちゃったりする可能性もあり、、だから)

後から考えれば、確かに正当性のある台詞や態度であるものばかりなのだが、逆にそこのあたりの整合性を若干ゆるめても、もっとさりげない、リアルに感じられる台詞で流してもよかったかも。
そうでなければ、もう一つのリアルが成り立たないのでー例えば、千華と唖の彼氏との関係にリアリティがなく、観ている時点でシラケる。

あっと驚く展開に、とりあえず最後まで観ていて良かった!と安堵する反面、最後の最後の、前述の作者が言うところの`希望のかけら’という締めには、ちょっと首を傾げる部分も。

とにかく、これから観に行く人は、最後の`やられた〜〜〜〜’までは、判断を下さないように。

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2011年1月18日 (火)

RichardII(1/17)

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新宿三丁目SPACE雑遊で演劇集団 砂地の「リチャード二世」を観る。

今作は砂地第六回目の公演となるのだが、主催・演出の船岩裕太が毎回古今東西の古典作品ーシェイクスピアに限らず、例えばフリードリッヒ・シラー、鶴屋南北、シュニッツラー。。。と毎回違う作家の作品を取り上げているーを現代の日本へ翻案し、今の、特に若者の視線に近づけた作品を創作。

出演者も演出家と同年代の、20〜30代を中心に、前々回のシュニッツラーの輪舞を元に創作した作品「ナノクライシス・ポルノグラフィ」では、まさに裏新宿に集まっている若者たちの関わりあいを描いていた。

今回のリチャード二世もシェイクスピアの戯曲を(今回は台詞回しもかなり忠実に)入れ子構造で中に挿入しているのだが、その外側に現代を、それも自らが身をおく演劇界を配して、外と中から、2011年の東京と14世紀のイングランドに共通する`パワーの構造’という観点からいつの世も変わらない愚かさを描いている。

このところ新宿と埼玉で連続上演され、日本でも馴染みとなった「ヘンリー六世・三部作」で扱われた薔薇戦争(ランカスター家:赤薔薇とヨーク家:白薔薇による、親族間で裏切り、殺しあいを繰り返した王位争奪戦争)の発端とも言える時代、ヘンリー六世の大叔父にあたるリチャード二世がその奢りと軽卒さから従兄弟のボリングブルック(後のヘンリー4世)に王位を追われ、失脚する様を描いた今作。最後の最後に王位に就いたボリングブルックが自ら非難したリチャード二世の栄華の時と同じような傲慢な発言をするところで終わっているところが、なんともこの劇が名作たる所以で、舌先も乾かぬうちに同じ過ちを繰り返す、人類がいつまでたっても学ばない、成長しない様を、そして権力者という立場にたつと人みな同じように変わっていってしまう=自らを絶対と思い込んでしまう様を的確に捉えている。

パンフレットの挨拶の冒頭で演出家が語っているように、この劇、まさに今の日本における政権交代劇、政権奪取以降の民主党政権の凋落を表しているようで、背筋が寒くなるほどにタイムリー。
自民党からクリーンな政治を掲げて政権奪取をしたものの、ふたを開けてみたら、以前の政党と何ら変わる事のない内容で、国民は将来の指針をどこへ求めたらよいのか、途方に暮れている、という有様。。。イギリス史からゆくと、これからこのリーダーの交代、権力の奪い合いは暫くの間、市民を無視して続けられる。。。ということなのか。。。

近年では02年のシアターコクーンでのベルリナー・アンサンブル(クラウス・パイマン演出)来日公演ー白塗りのリチャード二世が市民に投げつけられた泥にまみれて徐徐に汚く落ちぶれていくーが記憶に鮮明に残っているが、一方、他のシェイクスピア史劇と同じように、日本での上演はさほど多くないこの作品。
この新しい発見=まさに今の日本を映した政権交代劇だということ、が他の演出家たちの創作魂に火をつけることになるかも。


実際、今回の舞台では「リチャード二世」の劇をコンパクトにまとめて演じている役者たちが王のシンボルとして用いられる(紙製)の王冠以外では現代のスーツ姿で演じていて、また、小劇場の舞台を若い役者たちが勢い良く走り回り、大声で罵倒しあうものだから(この異常なほどのハイテンションなどなり声には辟易する箇所もあったが)中世イングランドの王政劇を演じていながらも、遠い外国の王様たちの昔話ではなく、今の日本で権力抗争をくりひろげる男達のお話として観る事が出来た。
ー小さい劇場ながら、舞台下の空間も上手く活用し、さらにはその見えない階下をビデオカメラで映し出してみせたりの工夫もあり、目の前の舞台、逃げ場となる階下へ続く階段、そして第三の目=ビデオカメラでテレビモニターに映し出される権力者たちが詭弁ふるう様子、、、となかなかに広がりをみせた舞台づくりで、緊張感を持続ー

で、このパワーゲームの外側に付け足されているのが、まさに彼らが実際に直面している日常の問題についてで、新しく制定されるであろう`劇場法’が、その実態が演劇制作の現場にはまったく届いてこないという問題を提起している。
ショップで働く女店員たちのおしゃべりの中に、現場にあるもっと身近な、根本的な問題点(労働賃金制度であったり、女性の働く環境であったり)を改善して欲しいと語らせ、トップにはもっと幅広く意見を求めて欲しい、、さらには劇場法の一件でも、一部の人々がパワーの移行をしているだけで抜本的な解決になるのだろうか、という不安をにじませている。

。。。。。と、ここまでで、おそらくは若干感じていただけるように、、非常に頼もしく、貴重な提案が盛りだくさんではあるのだが、盛りすぎて、、詰め込み過ぎの感も。
。。。それでも、言うべき事は今しっかり言っておく、という心意気ととって、まあ、良しということで。

それにしても、何百年経っても「今」として考えさせられるシェイクスピア劇って。。。ま、それだからこれほどまでに普及しているのだとは思うけど、その完成度、奇跡としか言いようがないというか、アメイジング!!

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2011年1月17日 (月)

追記ーわが町ーーー「わが星」

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先日来の「わが町」マイブームの流れで柴幸男著「わが星」の戯曲を購入して読んでみた。

ご存知の通り、昨年度の岸田国士戯曲賞を受賞した作品で、その事態を受けて発行された本のようで、選考委員ら(岩松了、鴻上尚史、坂手洋二、永井愛、野田秀樹、宮沢章夫)の選評が載った小冊子が挟まれているのが読み終わった後のエクストラとしてついてくるので、それもあわせてなかなか面白かった。

あくまでも柴氏演出・ままごと(劇団)による上演舞台を前提としての(上演)台本なので、実際にそのときに使ったであろう戯曲の形で出版されていて、その独特な作風ーというか上演台本の形ーも、また一見の価値アリ。

*例えば、台詞はバレーボールの時間差攻撃のように、ずれた形で表記され、演出方法も、そのタイミングまで細かく指示されている。
オリジナルのラップ音楽にあわせるよう、その部分は網掛け文字で明確に指示が出ている。


かなり整理された形で、上演する方法論を書いてくれいているので、翻を読むというよりも、一挙に一段階越えて、この本を読みながらその舞台をー3Dで想像しながら読み進めるという戯曲本の読書となる。

ーーーーー裏を返せば、この戯曲を、他の方法で上演するという可能性はあるのかどうか??ーーま、それをするぐらいなら、もう一つ前に戻って「わが町」の翻案劇を創作するという方法をとるのだろう。


実際にこれが首尾よく上手くハマるとどのような芝居が立ち上がるのか、、、2次元から3次元に立ち上がったモノを観てみたい、曲もあわせて聞いてみたい、。。。というか観ないとどうにも欲求不満のままだ、という読者が多いのではないだろうか(春のチケットは争奪合戦か!!)。

片や、書かれた戯曲専門の研究者だけでもわんさかいるシェイクスピア、チェーホフがいるかと思えば、出来上がりの舞台としてのみ完結する戯曲もあり、、、それも、昨今はそちらの類いの方が多いという。。こんなところにも時代の変化を感じる。

****************

今回は「わが町」からの「わが星」であったのだが、う〜〜〜〜ん、これ「わが町」の翻案劇なんでしょうか?ね???

あとがきでご本人が書かれているように、「わが町」から多大なる影響を受けた作品、ではあっても、これは新作オリジナル作品という捉え方で良いように思うが。

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2011年1月16日 (日)

BBCの番組でおススメ

BBCワールドニュースでやっていた特番がとても面白かったので、紹介します。

`Panorama:The Secrets of Scientology’

映画俳優のトム・クルーズ、ジョン・トラボルタらが入信していることで有名な教団サイエントロジーに関する取材番組。

実は07年にその実態を取材すべく、BBCが番組を制作しているのですが、その際にレポーターが教団の誘い(誘導尋問)にのってしまい、教団幹部との会話中激怒して、それが放送されてしまったという経緯があり、今回はその経験をふまえて、再度同じレポーターが取材したというもの。

別時間の放送されていた番組紹介のためのハイライトプログラムで、そのレポーターが「前回、教団の幹部として自分と接していた人物が数年前に退会したことを知り、それならば。。と、この新たな取材番組を作ろうと思った。」と話していたが、その狙いが見事にはまり、その元幹部であった内部告発者の証拠発言が第三者からの動かぬ証拠となり、今回のレポーターの発言に大いに真実味をプラスしていた。

その告発者によると、前回のプログラムでレポーターがかっとなり怒鳴りつける醜態を演じたのも、すべては教団サイドの思惑通りだった(心理作戦で怒るように仕向けた)ということらしい。
さらにはBBCの取材に対し、非協力的どころか好戦的で、執拗な尾行を続けていた教団に対し「それはレポータ個人の思い過ごしで本人のパラノイアにすぎない」と切り捨てる教団サイドのコメントの嘘を(当時その件に関わっていた)当事者が暴くという、なんとも皮肉なリベンジプログラムとなっている。

自己啓発を目的とし人気を集めた集団が創始者の死後、後継者の類い稀なる(ある種の)ビジネスセンス・マインドコントロールによる管理能力により、みるみる間に巨大化し、それに連れて他を排除し秘密主義に走る集団に愛想を尽かした元信者たちー必然的に彼らは教団から目の敵にされるーが、インタビューに答え、自分の体験談から世間に警鐘を鳴らしている。

それこそトム・クルーズがはまっているサイエントロジー、ぐらいの知識しかなかったのだが、今回このプログラムを観て、どんな教義を説いていて、どんな歴史がある宗教なのか、そしてそれが欧米、特に米国でどれほどまでに浸透しているのか。さらには、規則の一部、信者同士の結婚のみ許される、とか、一度退会した人は引き続き信者である家族には一切接触を許されない、とか、、眼から鱗の話が次々と出てきてびっくり。

ちょっと離れたところから観ている身としては、`洗脳’でしかないと思えるのだけど、多くの若い信者は生まれたときからそのサイエントロジーの世界しかしらない、またその信者の両親による教育を受けて当たり前だと思って信じてきたという人が多く、これほどまでに広がってしまったものを終息させるのは至難の技かと。。。
番組の最後に、「何を信じるかは人それぞれの自由。。。。だが、家族間の関係を一方的に断つようにしむけたり、脱退者の個人情報を流布したり、そんな活動が信心と言えるのだろうか?。。ただ一つこれだけは言っておきたい。。。これはカルト宗教だ、ということを。」と締めくくっている。

ま、様々な影響を考えると、ここが着地点ということになるのだろう。


それにしても、教団上層部の超ド派手な贅沢御殿をみるだけでも、信者に対して一般メディアには目をつむれと教えたりというのを聞いただけでも、、(ま、どこでも方法は似たり寄ったり)何か変?って思うのが普通だと思うけど。。狭い世界でコントロールされると、その社会に適合することにのみ専念していくしかない、、ということなのでしょうか。

ウィキより。。。
サイエントロジー(Scientology)は、L・ロン・ハバードが創始した新宗教である。アメリカに本拠地を置いている。
使用されている用語など、見たところは伝統的な宗教よりも自己啓発セミナーに似ている。実際、サイエントロジーで実践されているダイアネティックスがその最初期の形態だった頃、「これは科学である」と彼らは主張していた。
この活動が自らを宗教と主張するようになったのは、サイエントロジー教会の設立以降である。
「サイエントロジー」、「ダイアネティックス」、「L.ロン ハバード」、「ハバード」という表現はいずれも日本における登録商標である。

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わが町(1/14)

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新国立劇場で新芸術監督によるJapan Meetsー現代劇の系譜をひもとくーシリーズ第三弾、ソーントン・ワイルダーの「わが町」を観る。

この演目の観劇がわかっていたので、先日、あらためて戯曲を読み直し、その深〜〜〜〜イイ素晴らしさにあらためて感服したばかりなので、大いなる期待を込めて劇場へ。

今回はJapan Meets前2作とは違い中劇場(というか大だよねこのキャパは)での上演。

6時半という少々早めの開幕時間に、やはり勘違いしたのか、後から入場する人もチラホラ。。これから観劇の方々はご注意を!

客席ぎりぎりまでせり出した舞台上には原作で指示されているとおりー『幕なし。装置なし。』と作者により記載されているー、最低限のセット、隣家のダイニングにあるテーブルと椅子のみ。左手に生演奏用のピアノーこの演奏が力強くてとてもよかった。BGMなんて奥ゆかしいものではなく、きっちり主役をはっていてキャストの一翼を担っていた。稲本響さんという世界で活躍するピアニストの方の演奏だそうですーで、よくよく見ると、中劇場の実際の舞台空間の中に一回り小さな、その空間の中に収まる架空のプロセニウム(よく欧米の古い造りの劇場などで見かける、舞台と客席との境にある額縁の建造物)が。しかしながら、現代の劇場である新国立劇場ではあくまでも、うっすらと、、原作にあるように舞台監督役の小堺一機さんがそこにわざとよりかかって観客へ話しかけるなんて演出用には出現しておらず、当時のようにわざわざプロセニウムを意識して無用化しなくても、プロセニウムが無くなりつつある今の状況をそのまま表現し、とっても薄い存在の造りとして表現。

奥行きがあるので有名な中劇場(この奥行きで思い出すのが、野田秀樹芝居の「桜の森の満開の下」。ラストシーン耳男がどこまでも奥へむかってかけて行く姿。。。しっかりした時間、余韻が出ていたな〜〜〜)を大きく使い、舞台に架空の町、グローヴァーズ・コーナーズの一画が再現されていた。

前述のように、家や庭、町の通りを模したリアリズムのセットは無いものの、冒頭、舞台監督が町の風景を説明すると、それぞれの頭の中にはアメリカ北東部、ニューイングランド地域の田舎町が浮かんでくる(たいていの日本人は映画などの記憶からそこそこ思い描くことは出来る)ので問題なし。
後は、ライティングで町の通りを浮かび上がらせ、教会のバージンロードもそれぞれの家の敷地範囲も想像させることが出来ていた。

演技に関しても、小道具などは一切使わず、朝食のシーンなども食器やカップは実際には見えず身振りだけで表現され、全て観客の想像におまかせ状態、、この観客の自発想像性を喚起する演出が「わが町」の普遍性を支えているのだろう(わざわざ、ヴィジュアルを規定しなければ、観客はいかようにも想像してくれるので、それがどこの国で上演されようが通用するということ)。
それに繋がることでもあるのだが、何と言ってもこの芝居の`自由さ’`振り幅の広さ’が何年経っても色あせない大きな要素であることは間違いない。

20世紀初頭、米国グローヴァーズ・コーナーズのとっても狭い地域の、それも些細なことを語っているのではあるが、描かれていることは世界どこでも共通の人間の営みの根源に関わること。

それゆえに、どの時代のどの国に住む人でも、興味をもって当事者として劇を観る事が出来るという素晴らしさだ。

実際のところ、これほどまでに翻案化された上演が多い芝居も珍しく、日本での上演記録をみても(パンフレットに詳しく記載されているので、ご観劇の際にはチラ見ーもちろん買ってもらってもOKーしてみて)「わが町ー溝口」「わが街ー池袋」だの神戸、横浜、さらには昨年の岸田戯曲賞受賞作品、柴幸男の「わが星」ー狭めずに逆に星まで広げてみたところがミソ!?ー、、、と実に多くの子ども、孫のジャポネスク「わが町」が生まれている。

この「わが町」、劇作にしても、その戯曲に書かれた演出ノートのようなト書きにしても、ことごとくCutting Edge- 最先端で実験的、それだけでも存在意義が大きいのに、それが脈々と受け継がれているこの現象にも驚くばかり。
1本の戯曲がこれほどまでに有効利用されると、書いた人もつくづく本望であろうな〜〜〜、と。

主要家族を演ずる役者たちの他に、町に住む、老若男女を表す役として、また時には効果音を発し、コーラスを受け持つアンサンブルとしてオーディションで選ばれた若手の新進俳優陣=`ボーイズ&ガールズ’隊とパンフレットでは呼ばれている、と年配組のアンサンブルが登場するのだが、この年配組の役者たちが彩の国さいたま芸術劇場で蜷川プロジェクトとして結成されたゴールドシアターの役者さんたちで、これが何とも素晴らしかった!!!

中には数行の台詞と役を引き受け、劇の話にかなりからんでくる人もいたのだが、これがまったくもって堂々としていて、それでいて味があり、、良かった〜〜〜〜!!
(蜷川さん、とうとうここまで、やりましたね。素晴らしい。)

と、原作を忠実に再現していて、さすがに名作らしく見応え十分なのだが、一つだけ気になったことが。。。

多くの人が問題視する第三幕の扱いなのだが、、どうもそこに入った途端(上演では休憩後の第二幕)に多湿の日本の劇になってしまい、、どうにもこうにもドラマチックで湿っぽすぎないか?という点。

生とあわせて死をも達観する、そのユニヴァーサリティー、さらには宇宙観がこの芝居の真骨頂であるような気がするのですが、いかがなものでしょうか?

****

いずれにしても、春の柴氏の『わが星』上演前に、ぜひともおさえておきたい一本。。。でしょ。

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2011年1月12日 (水)

愉快犯(1/11)

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池袋東京芸術劇場の若手中心プロジェクト、芸劇eyesの2011年トップバッターが、飛ぶ鳥を落とす勢いで演劇シーンに蔓延中の中屋敷法人率いる柿喰う客の新作「愉快犯」。

そのフットワークの軽さと柔軟さでチラシの中にその名前がないことがないほど、急速に発展を続ける当劇団。
実際、当日配られたチラシで確認できる中屋敷さんが関わる公演(脚本のみ、演出のみなど関わり方は様々)がこの春だけでも何本かあるようだ。

Wannabe

前回、小竹向原の小劇場で観た国際コラボプロジェクト公演↑も、まずはもってその演劇方法が面白くー国籍ミックス公演だからといって、ビビるのではなく、言葉を丸覚えするのでもなく、それが活かせるシチュエーションでまんまの語学力で芝居をつくるー、面白い発想をする人だな〜〜と感心したのだが、今回の公演についても、なんだか従来の劇作、芝居上演常識に捕われないフレッシュな発案で、でもって役者陣のレベルも高く、大満足だった。

******公演情報より****

源平争乱の時代より、ハッピー&ラッキーな歴史を歩んできたノリノリ一族「琴吹(ことぶき)家」!
幸せボケしちゃってる彼らのもとに、どーゆーわけか突如「最悪の不幸」が襲いかかり始める!!
愛娘の事故死! 祖母の病! 母の不倫!! ―え?ってか、娘は事故じゃなくって他殺なの!?
どうするどうなる琴吹家! なんとかしやがれ三世帯! ご先祖様も草葉の陰でテンパってるよ!! 
結成5周年を迎えた「柿喰う客」が、謹んで新年のお慶びを申し上げながらお送りするのは
ドメスティックなハピネスを求める愉快×痛快×おめでた喜悲劇!!

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このあらすじを読んでも、何のこっちゃ?っていうことになるんだと思うけど、ステージを観て総合的に柿喰う客の芝居を楽しんでね、ということなのだと思う。今作は劇団員総動員で外部ゲストなしの100%柿喰う客公演。

芸劇の小劇場に特大コマのような、赤と黄色でおめでたくハデハデな傾斜舞台が作られ、その上で上記の不条理劇が展開される。(不条理ながら、その限界状況をもガハハと笑い飛ばすような今のギリギリの時代を生きる開き直り感あり)

シャッキーンと音が聞こえそうなキレの良い動き(玉置玲央)と見事なスタイルと完璧なるなりきり(七味まゆ味)、一度観たら眼が釘付けな存在感とキャラ(コロ)とロボット系の他俳優人の中で人間味をプラス(深谷由梨香)、そしてゆるキャラでアクセントつける鉄板役者(村上誠基)、とま〜〜〜出てくる出てくる、、でもって1時間半とギュッと凝縮してスピーディーにまとめあげているために、無駄な中だるみは一切なく、最初から最後までしっかりぎっしりと楽しめる。

観た事ないのだが、きっとシルク・ドゥ・ソレイユなんかもこの手の、無駄なしお得感満載でお客様を大満足させているのではないか?と想像する。

とにかく、テンポが良く、でもって、それを実現させているのが独特の台詞術。
これこそヒップホップ世代、ラップノリの芝居とでも言うのでしょうか?リアリズムで話すよりも、舞台全体の統一感を持たせるこの方法が今の時代にマッチするという意図なのでしょうか?

それに関しても、今作の舞台で効力が十二分に発揮され、確かな手応えを得たはず。

これからがますます楽しみな劇団。

公演中に前キャストをシャッフルする特別公演日(一日のみ)を設けていたり、また七味さんのブログを覗くと2月にはドイツで公演ータイトルが「ケバブ」。。。て、大ウケなんですけど。。ーもあるようで、その自由な発想と行動力でブイブイ言わせて欲しい。


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マニラ瑞穂記(1/11)マチネ

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新国立劇場、演劇研修所公演、第4期生による舞台「マニラ瑞穂記」を新国立劇場特設スタジオで観る。

秋本松代作、(前々芸術監督)栗山民也演出による芝居というのは、それだけでかなり贅沢なものであり、さすがに直轄の研修所だけあって恵まれた環境での公演だということは一目瞭然。

優れた戯曲に一流の演出家、、、それだけで勝算はかなりの確率で保証できるということが実証されている。ーもちろん、そのような恵まれた条件を活かすだけの実力も第4期研修生にあるというのがこの結果の前提としてはあるのではあるが。。。ー

昨年末、彩の国さいたま芸術劇場で上演されたさいたまネクストシアター(さいたま芸術劇場芸術監督であり日本を代表する演出家の蜷川幸雄の呼びかけによりオーディションで選ばれた若い俳優達による集団)第二回公演「美しきものの伝説」でも上記の法則は実証されていたのだがが、、つまり、

戯曲で100点、そしてその演出においても100点をとった時点でその公演の成功はかなりの部分で保証されているということ。もちろん俳優ありきの演出なので相乗効果でもあるのだが、多少の演技の弱さもその他の要素で帳消し、もしくはそれ以上の成果を上げる事が可能だということ。

ひいては、研修生たちの舞台を観に来た観客たちにとっても素晴らしい舞台を見せてもらう事により、大きな収穫となり、さらにはその熱いまなざしの中で演技をする若手たちにとっても、未来へ続く貴重な経験となるという、なんとも前向きで実りある演劇公演であるということだ。
若者達が自ら劇団を立ち上げて、自ら世の中に発言していくのも大いに結構だと思うが、それとは別に`俳優’というアーティスト、職業俳優を専念して養成する機関もなくてはならない。

欧米に比べ、圧倒的に演劇教育のチャンスが少ない日本で、ベテラン達(蜷川・栗山・唐、野田etc.)らがそのようなことに尽力してくれるのは本当にありがたい。

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日清戦争後、明治中期から始まった日本軍南方進出を背景に、フィリピン・マニラで身体一つで商売をするからゆきさんたち、そして彼女らの元締めとしてアジアを飛び回る女衒、秋岡(趙栄昊)、理想に燃え、フリピン独立運動を支援する日本人の若者、そして次第に力を増す帝国軍の軍人、そして軍と民間人の間で民間日本人らの身を守ることに奔走する領事館職員。。。。銃弾が飛び交う混乱の最中、それぞれが夢見る理想の社会の実現はあるのか?


力強い筆で描き出される群像劇を第4期研修生たちが熱演。

女性陣はそれぞれに色が違っていて、それでいてパワフルでグッド!(特に、はま役の斉藤麻理絵さん、華やかで柔軟)

男性陣も手堅く頼もしかったが、やはり秋岡役の趙さんの存在感が印象に残った。)


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このページを書こうと検索していたら、原作戯曲(1964年)が絶版で入手するのに2万円、という記述を発見。それをツウィッていた人が言っていたのだが、「。。。ははは、こういうの見るとマジ電子書籍で近代戯曲軒並み出してくれろと思う。」。。。全くもって同感。


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男のライバル(1/10)マチネ

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マシュマロ・ウェーブ結成25周年記念公演、でもって初春おめでた公演「男のライバル」を続けてまたもや下北沢、本多劇場で観る。

********劇団HPより******
男にとって、ライバルとは!?

新宿のとある病院で巡り会った3人の男たち。彼らはそれぞれ人生の岐路に立っている。
惑い苦しみ、時にぶつかり合い、胸襟を開き合い、やらなければならない男の仕事に気づき始める。
それは、おのおのの「男のライバル」に向き合って、がっぷり四つに組むこと!
そして、土俵に叩き付けてこそ、初めて人生は切り拓かれるということ。
彼らの夢は花開くのか!
―実話をちりばめ都会のアウトローを描き続ける異色の劇作家今いそむ渾身の一作
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本多劇場の壁には劇団の歴史を物語る、過去の公演ポスターがずらり。

このところカナダの劇作家、ダニエル・マカイバーの作品の翻訳上演が続いていた劇団が久方ぶりに挑んだドメスティックなオリジナル劇。今いそむ作、マシュマロ・ウェーブ主催 木村建三演出による新作舞台。

25周年、etc. に絡んで、顔見せ興行&芸見せ興行的なノリもありの舞台。

ベテラン演出らではの、いろいろてんこ盛り舞台、ながらもうちょっとすっきりさせても良かったかも、の感あり。

男気溢れるチラシとは、ちょっと違った男の本質=やさしさを扱った内容。

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冬物語(1/8)

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新春の下北沢。

スズナリで三条会の「冬物語」(シェイクスピア原作)を観る。

そう言えば、去年の今頃もスズナリで三条会の芝居「S高原から」を観たな、などと思い出す。

で、その時の芝居漬けページを開けてみたら、、三条会 S高原から 、おっと途中で途切れておりました。。。ハハハ。。すみません。


ところで、なんで去年の公演のことを思い出したのかと言うと、、学校の教室の机を持ち出した舞台のつくり方、そして翻案の仕方がやはり前作を彷彿とさせたのかも。。これが三条会の○○という所以で、さらにはもしかしたら新春恒例の舞台という趣向なのかも。ーーー某演劇サイトを覗いたら、5年目の新春スズナリ公演、だということ。。意図的な類似性なのかも。

冒頭、学生たちに「冬物語」の台詞が書かれた冊子を配られ、そこからシェイクスピアの「冬物語」のダイジェスト版が展開していく。

先日の「十二夜」の時も思ったのだが、シェイクスピアのダイジェスト/もしくは翻案って、どのくらいの効力があるのかな?
例えば、原作を知らないで観る方がこの新しい現代版の「冬物語」をより楽しめるのか?ダイジェストにスリム化する利点とマイナス点、、、そもそもベターを目指さなければ「冬物語」をやる意味も無い訳だし。

自然な成り行きとして、その結果に対しては賛否両論があるようだが、賛の側の人々は原作ストーリー(戯曲)を楽しむのではなくて、それがはるばる海を越えてやってきた後、今の東京でのパフォーマンスとして出来上がったもの、その産物を楽しんでいるのだろうな、と思う。

だから、この公演のように三条会の。。と入れてもらえると、見る側にもそれなりの予測が出来て(原作とは違うものという認識)、親切かも。


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2011年1月 9日 (日)

ろくでなし啄木

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こちら、21日にJTにて劇評が出るので、それまでしばしお待ち下され。。

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2011年1月 7日 (金)

大人は、かく戦えリ(1/6)

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新国立劇場、小劇場でSISカンパニー主催の4人芝居「大人は、かく戦えリ」を観る。
ーこれ、大人の演劇ファンにおススメの1本ですー

「アート(94年)」の世界各地での大ヒット(英国ではオリヴィエ賞を受賞)で劇作家としての地位を不動のものとしたフランス人女流作家、ヤスミナ・レザの最新作(06年)に日本が誇るトップ舞台俳優4人が挑んだこの舞台。

段田安則と大竹しのぶ演ずるウリエ夫妻と高橋克実と秋山菜津子演ずるレイユ夫妻がウリエ家のリビングで話あっているところから始まる。

スタイリッシュなリビングでもてなすウリエ夫妻も黒のスーツに身を包みソファーに腰掛けるレイユ夫妻も、それなりに社会的成功を収めている中〜上流家庭の常識あるカップルと見受けられる。

そんな大人たちが真剣に話し合っているのが、子ども達の喧嘩について。。。どうやらレイユ夫妻の息子がウリエ夫妻の息子を殴り軽症を負わせたようで、その件に関して親としてこれからどう対処していくべきかを話し合っている様子なのだ。

当初、単なる子どもの喧嘩・・・と穏便にすませる方向で冷静に話し合っていた二組の夫婦。早々合意に達するかにみえた会合だったが、いつのまにか、ちょっしたきっかけー例えば、仕事絡みの電話でしばし会話を中断させるレイユ(高橋)の振る舞いであったり、あくまでも正論をかざし他を糾弾し続けるウリエ妻(大竹)のかたくなな発言であったりーから、言わなくてもよい事まで口にし始める`良識あるはず’の大人たち。

相手側への不平にとどまらず、夫婦間の不満・愚痴までが飛び出しはじめ、途中、お酒が入ったあたりからは、もう手が付けられない状態。。。。とんでもない修羅場へと化すリビングルーム。


子どもたちにはこの親の醜態は見せられない。。。大人の言い合いも子どもの喧嘩も、そう大差はないんじゃない?   と普段すましている大人連中にはとっても耳のイタ〜〜〜〜いお芝居。

いかにもヨーロッパ産らしい、周到に練られた男女の会話劇でありながら、その題材が身近な日頃の事柄なので、客席で観ているわれわれにも、少なからず思い当たる節も見つかりそう。`あ、あの人友人夫妻の旦那に似てるかも’`もしも旦那が人様の前であんな態度をとったら、、ハズカシいだろうな〜〜’なんて具合に。

日本の夫婦があの修羅場まで達したら、それこそ絶縁、さらには刃傷沙汰にもなりかねないほどに(いくら酒が入っているとは言え)辛辣でそれぞれが見事にKYな人々なのだが、一方で、こんなにべらべらまくしたてて、言いたい事言っちゃって、ま、人生を楽しんでいるように見えなくもないから不思議。

ー余談ですが、イギリスに住んでいたころ、お決まりのクリスマスの家族の集まり、、そこでは毎年お決まりの日時にお決まりの言い争いを目撃しておりました。それも私から見れば毎年まったく同じことで喧嘩していたので、第三者的立場の私としては`この人たち、これがないと盛り上がらないんだろうな〜〜〜’なんて思って眺めておりました。。ー

で、今回の舞台。何と言っても、やはり役者が、4人全員が上手い!全員の力関係がバランスがとれているので、チーム力としてもかなり強いものになっている。
中でも、マイペで亭主関白タイプの押しの強い成功者、レイユ夫を演じた高橋克実が演劇界の芸達者の強者達の中にあって好演。理不尽な男をある意味、かる〜〜〜い感じで演じきっている。

もちろん、他の3人もきっちり、しっかり勤め上げてくれているのだが、彼の鼻持ちならないいいかげんさが上手い具合に場を引っ張っていたのは確か。

国立の劇場へ行って、このような優れた大人の芝居、それも大業に構えたものではなく、ごくごく日常の、それでいてかゆいところに手が届いたようなお芝居、、を観られるというのが、その国の文化レベルを計る一つのバロメーターであるように思う。

毎回、毎回、この世に物申す!の芝居では。。。ね。

もっと日常に芝居を!生活の一環として観劇の楽しみを!!!特にある程度の年齢を重ねた人たちが「あの芝居、面白かったよ。」とご近所に推薦できるような芝居を、、、やりましょうよ。

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A Clockwork Orange - 時計じかけのオレンジ(1/6)マチネ

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言わずとしれたスタンリー・キューブリックの伝説的映画「時計じかけのオレンジ」(71年公開)が舞台になる!?

見慣れた映画のワンシーン、不敵な笑みを浮かべた主人公アレックス(映画ではマルコム・マクダウェル、今回の舞台では小栗旬が演じている)とクリソツな容姿の小栗アレックスを宣伝チラシ上で見かけたときは「う〜〜〜〜〜〜〜ん、ちと怪しいな〜〜。自己満足作品に終わらなければ良いが。」と願ったものだが、その点においては、上演台本・演出の河原雅彦がきちんと消化し、舞台でやりたいことを明確にした上で臨んでいることが見て取れ、いらぬ心配に終わったのでホッとした。

私が滞在していた90年代のイギリスでは、その過激なバイオレンス描写による社会的な影響への危惧から上映禁止映画に指定され公には上映されていなかった今作だが(キューブリックの死後、99年にその禁止が解かれた)、それでも半公(おおやけ)に決まった映画館での決まった日時による上映が続いていたというのもなんともイギリスらしい現象。

最初に触れたように、単なる映画から舞台への横滑り作品では無くて、日本人向けに音楽・歌詞とも工夫が施され、生バンドの音楽の中、ミラーの三面鏡舞台で繰り広げられる最新映像技術満載の舞台はその面では見応えはあるのだが、、、この作品が抱える矛盾(統制と奔放、善と悪、キリスト教と無神論)と歩調をあわせるかのように、プラスとマイナスが混在したような舞台で、手放しに拍手を出来ないのも事実。

まず、40年前に書かれたこの海外の戯曲がどれほどまでに今の日本にフィットするか?という点。

観続けていくほどに、作者・アンソニー・バージェスが仕掛けた大いなる問いも見えてくるし、そうなってくるほどに「やはり、これは傑作中の傑作。奥の深い本である。」と大いに納得する反面、、同じ主題でも、もしかしたらローカルな(日本の)内容で見せた方が幅広い説得力があるのでは、、とも思えてくる。

70年代当時にも話題を集めた劇中頻繁に使われる有名な造語(ロシア語と英語を混合させた言葉で、若者が使う特有の新しい言葉として話されている)にしても、パンフを買わなかった人にはどこまで通じたものか??疑問。

何と言っても、最大限に首をかしげたのが、これを何の解釈もつけづに、お正月のエンタメ演目の一つとして上演=チケットを売っても良いのか?ということ。

と言うのも、偶然のことながら、私の席の隣+前列に家族連れが座っていてーおばあちゃん、7〜8歳ぐらいの孫2人、そしてお母さんがそろって観劇にー、僕たちが眼を輝かせるその先、舞台上では女優の服が脱がされレイプシーンが展開されていたからなのだ。

小栗君の歌を聞きたくて来たのかもしれないが、、いくらアートとは言え、そこにはある種の教育的配慮も必要だろう、ということ。

後々にこの時観た舞台を思い出し、原作を読んで納得したり、その前に映画を見直してみて、世の中の様々な矛盾について考えてみたり、、、とそのように良い方向へ働く事も無いとは言えないが、、、やっぱりあの暴力シーンとセックスシーンと、、、それで1万円、、って、う〜〜〜〜むどうよ?

せめて、上演情報に16歳以上推奨作品とか、過激な描写あり、またはチケット販売段階から規制するとか??(規制とか言うと、それこそ昨今の漫画規制のように、あらぬ方向へ行ってしまいそうだけど)、あっても良いんじゃない?


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十二夜(1/5)

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2011年 新年 明けましておめでとうございますnewfuji

卯年は好景気にはねあがる、なんてどうにもいいかげんな事をテレビでは言い放っていましたが、それでも、気休めにすぎないと感づいてはいても、少しその気になる、信じてみたくなる。。のが人の常なんでしょうね。
この心の作用を上手く活用すれば、それこそ活気が生まれ、経済だってあわよくば少しは上向きになるのでしょうが、このポジティブシンキングと一緒にくっついてくる、もう一つの人の常、、人と比べてみたがる+結果、一人勝ちしたがる、、なんていうのが顔を出すと、信じた心意気も空回り。。。結局元の木阿弥で全体としての進歩なし、なんてことにもなりかねない。
民主党政権も、日本の景気も、その辺りを空回り中??!


さ〜〜〜〜て、本題のお芝居に移りますが、今年の観劇初めはシアターコクーンの「十二夜」と相成った。

シェイクスピアの双子混乱話ー先日狂言版「間違いの狂言(原作は「間違いの喜劇」)」も瓜二つの双子のお陰で回りが混乱するというお話ーの一つで、日本での上演機会も多い「十二夜」をコクーン初代芸術監督(85〜96年)で、今はまつもと市民芸術館の芸術監督である串田和美が脚色、お正月らしい華やかで賑やかな演出での舞台を観る。(串田氏は他にも美術・衣装も担当し、自らもマルヴォーリオ役で道化的狂言回しとして舞台に登場)

添付のチラシにあるような、双子が嵐の中生き別れになったその船が難破した港町の風景を舞台にのせ、その景色を背景に、男と女の双子(松たか子が一人二役)が巻き起こすある意味ありえな〜〜〜いような恋愛喜劇が舞台中央に設置された木造で手動幕の簡易舞台で繰り広げられる。

話の主なエピソードはその舞台上で展開されるのだが、その中央舞台へ集まる役者たち、そこへ至るまでに楽器を吹き鳴らし、時にオリジナルの歌を唄いながらの入退場。
さながらライブ音楽付きの立体絵本を見ているかのような趣向となっている。

他の串田作品では、同じく松たか子の主演によるブレヒト劇「コーカサスの白墨の輪」(05年 世田谷パブリックシアター)、そして最近の舞台「ファウストin 茅野2010」と同系列に属する(同じスタイルのアプローチによる作品)、今回のシェイクスピア作「十二夜」、本人がパンフレットの中で宣言しているようにシェイクスピアの戯曲からはかなり離れたーパンフでは潤色(表面をつくろい飾ること。特に物語・話題などを、面白く作りかえることー国語辞典より)という言葉でそのアプローチについて解説しているが、翻案と言った方がしっくりくるような気もするー串田オリジナル版「十二夜」となっている。

シェイクスピアの原作から案は得ているものの、その原作の核となる言葉の綾、掛け合い台詞の妙などはすっかり取り除かれている為、翻訳者:松岡和子版「十二夜」とするのさえ、ちょっと気が引ける感じ。ー松岡和子訳より。。ぐらいの表記でも良いのかもー

英語上演舞台まではいかなくても、やはりシェイクスピアと言えば、その台詞が命。そこの部分には殊更こだわらないのであれば、最初から`串田版「十二夜」’なり`もう一つの十二夜’なり、、タイトルからそのオリジナルの方向性を明示するというのも大いにアリなのかもしれない。前述の「間違いの狂言」では意図的にそのオリジナル性をタイトルの中で宣伝していたし。。(でないと、シェイクスピアの`十二夜’を観に来ちゃうから。例えば、近年、現コクーンの芸術監督、蜷川幸雄演出の歌舞伎「十二夜」が評判をとり、再演、海外公演などを続けているが、、こちらは形式こそ歌舞伎だが、内容・台詞に関してはあくまでシェイクスピアの原作に忠実なので、みんな歌舞伎スタイルになったシェイクスピアを鑑賞していたので)。

お正月プログラムとしては、家族で楽しめる、お芝居の魅力ー歌あり、演奏あり、カラフルな衣装と美術に(喜劇なので)笑いありーを観客に堪能してもらえる演目として、日本では数少ない大劇場の新春プログラムとして適切であるとは思うが、、、その辺を、もっと明確に、例えばクリスマス時期に子ども向けのプログラムをその主旨を前面に出して宣伝、上演するウェストエンドの劇場のように、どうせなら立体絵本スタイルのこのプログラムの特性を活かして、その線を強調して上演、戦略をたてても良いのかも。
そうすれば、「これ、シェイクスピア???」なんていらぬ批判も出てこないはず。


ま、そんな、思いがけずにオリジナルな「十二夜」ではあったのだが、そんな中、とにかく観て良かった!と思わせてくれたのが、主役の松たか子の好演。

毎回ながらー去年春に同じくコクーンで上演された「2人の夫とわたしの事情」(サマセット・モーム作、ケラリーノ・サンドロヴィッチ台本・演出)でもそのコメディエンヌの演技が光っていたーに自然でいて、それでいて絶対に外さない、天才的な鉄板の演技。

今回も健在でありました。

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