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2010年9月

2010年9月29日 (水)

絶滅のトリ(9/29)

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田村孝裕主宰の劇団ONEOR8による「絶滅のトリ」を連ちゃんのキャロット通い、シアタートラムで観劇。

チラシに映っているこの二人ー柄本佑(たすく)と伊藤俊輔ーの独特な存在感が、芝居をさらにもう一段階持ち上げるのに一役買っていた。

(一昨年前の新国立劇場ー「シュート・ザ・クロウ」で演出の田村孝裕さんと柄本佑君は一緒に仕事しているんですね。それで、今回のタッグとなったのでしょうか。)

ややもすると、陰湿な内輪のゴタゴタ、スキャンダラスなドラマで終わってしまいそうなところをそのゴタゴタの輪から外れた、社会からも落ちこぼれたこの二人のキャラクターによって、またそれを演じた二人の見事な表現によって、いっきに社会ドラマの様相を見せせていた。

*****ネタばれ注意*****

タイトル通り、(架空の)絶滅種の鳥ーオウカンチョウー、を保護観察する目的で離島の観察センターで働く人々の話。
(余談:昨年訪れた佐渡島には、言わずと知れたあの絶滅危惧種トキの保護センターがあったのですが、トキの保護、雛の育成のために日々働いている様子が自然の山間部につくられた保護地区の網の外からもうかがえました。大変そうでした、よ。)

その保護センターの他には民家もないその島では、外部からのチェック機能が働かないままで職員たちの怠慢勤務が暗黙の了解で続けられていた。
保護の成果か、絶滅種の危機から乗り越えられそうなそのセンターが注目を集める事も無く、外部から取り残され、世間から忘れ去られた日本のアルカトラズ島と化していた。

幕開け、久々の新任女性職員の到着にわく男性職員たち。
若い職員を夢見ていた男性陣の期待を裏切り、赴任してきたのは研究者にはおよそ見えない中年女性(角替和枝ー柄本佑との親子共演)。彼女は前任者の怪我による休職により、突然派遣されたピンチヒッターのはずだったのだが、、、実のところ、その経緯の裏には、この閉鎖的なセンターが抱える、真の闇事件が関係していた。。

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とてつもなく極端な村社会=閉鎖的な小さな集団であるセンター。暇を持て余しているようではあるが、仲間同士でそれなりに楽しく、むしろその暇を皆で楽しんでいるように見えた序盤から、第三者の介入をきっかけに、次々と露になる、歪んだ人間関係と組織の腐敗の実態。

狭い社会で起こりがちな様々なドロドロを、人間の弱さをいろいろな形で見せてくれている。

その中で、大人の事情とは一線を画し、イジメられてきた世の中とおさらばして、自分の世界にひきこもる為にこの離島へ赴任希望してきたのが、前述の若者二人。

特に伊藤演ずるところのジロウに至っては、自分の生き様にオウカンチョウの成長を当てはめ、結果、このオウカンチョウと離れての暮らしは考えられないほどにこの島の生活にどっぷり依存しきっていた。

絶滅から救うために日々努めてきたはずだったのに、自分の(安全な)立場を揺るがす事態が発生したとたんに、その目的を忘れ、あれほど溺愛していたオウカンチョウに向かっていく伊藤。。。

いじめられていた弱者の立場から一転、さらに弱い立場の無力な雛に牙をむく。。。これがイジメの構造なのだろうか。


最後にこの若者二人が、ぶちキレた後に見せる会話は、将来への明るい兆候ととって良いのだろうか?
せめてそう願いたいところ。


柄本佑(柄本明の息子)君。ひょうひょうとした演技でいつもながらに目立っておりましたが、タッパもあるし、色気もあるし、ストレートに二枚目役もいけるんじゃないでしょうか?

松田兄弟のように、柄本兄弟ブレイクか?

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2010年9月28日 (火)

ユーモア

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NHKのニュースで面白いイベントを紹介していました。

保護訴え ゴリラ姿で街を走る
(9月28日 7時45分)
絶滅のおそれが指摘されている野生のゴリラを救おうと、イギリスの首都ロンドンで、700人がゴリラの着ぐるみを着て中心部を走り、保護を訴えました。
このイベントは、イギリスに本部を置くゴリラの国際保護団体が、野生のゴリラを保護するために寄付を募ろうと毎年行っているものです。7回目となったことしは、保護団体のメンバーや一般市民などおよそ700人が参加しました。参加者らはゴリラの着ぐるみを着込んだあと、胸をたたいたりバナナを食べるまねをするなどしながら、ロンドン中心部のおよそ7キロの区間をゆっくりと走りました。沿道に詰めかけた大勢の市民からは、ゴリラになりきった参加者たちのパフォーマンスに盛んな声援が飛んでいました。国際的な動物保護団体のIFAW=国際動物福祉基金によりますと、アフリカ大陸に生息するマウンテンゴリラは、およそ650頭にまで減っており、絶滅のおそれが指摘されています。今回のイベントでは、15万ポンド(日本円でおよそ2000万円)の寄付が集まったということで、今後、野生のゴリラが暮らすための森を造るなど保護活動に使われるということです。

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ゴリラの着ぐるみを着て、街を走るというなんともバカバカしいことに意気揚々として参加するロンドン市民。

このユーモアとウィットのセンス、そして個々の行動力がロンドンの魅力。

とにかく、よかれと思うものにははっきりと意志表示を示してサポートする。
でもって、その核にあるのはしゃれたユーモア。

これだから、やっぱり好きんなんだよな〜〜〜イギリスが。

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ガラスの葉(9/27)

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昨日ちょうど、自分たちは「能の機能」に関して知らないことが多すぎる、なんて話をしていたところ、その晩に観た芝居がまさに、その人の潜在意識、トラウマ、長年に渡り封印した忌まわしい記憶が呼び覚まされるとどうなるか、なんて内容のお芝居で、殊更に興味深く、観る事が出来た。

42歳のイギリス人作家、フィリップ・リドリーによるサイコ・ヒューマン・ドラマ。
世田谷パブリックでは早くからこのリドリーに注目していてー学芸で上演3作品の翻訳も手がけている小宮山さんがこの作家さんにこだわっているのかしら?ー99年の「ピッチ・フォーク・ディズニー」のリーディングに始まり、同作品の本公演(02年)、「宇宙でいちばん速い時計」のリーディング(02年)に上演(03年)と連続して白井晃演出による舞台を上演している。

前2作品は小劇場トラムでの上演だったが、今回は世田谷パブリックシアター、中劇場での上演ということで、横割りで三分割された舞台が左右に移動しながら、襖屏風が入れ変わるように横移動で場面転換するという、大掛かりな舞台セット(松井るみ)で弟の部屋、主人公夫婦が住む部屋、その地下室、母親の家を瞬時に入れ替えていた。

***ネタばれ注意****

幼くして父親を亡くした兄弟、スティーブン(萩原聖人)とバリー(田中圭)。父親はある日突然、自らの命を絶ったのだった。
あまりのショックから、なかなか立ち直れないる母リズ(銀粉蝶)、そして自分より幼いバリーを思い、家族の柱となる事を決めた長兄スティーブン。彼は自らも幼いその心に枷をはめ、家族の為になるのなら、と自然な悲しい感情を押さえ込み、回りの家族の支えとなるよう努めることを誓う。

成長し、会社を起こし、弟をその会社で雇い、経済的にも相変わらず家族を支え続けているスティーブン。今は妻デビー(平岩紙)とモダンなアパートで裕福に暮らしている。ー妹と買い物に興ずるデビーの様子から彼らは、いわゆるモダンブリテンの勝ち組に属するヤッピーカップルのようである。ー

幼少時から絵を描くのが好きだったバリーは劇の序盤では情緒が不安定な様子を見せていたーま、それもアーティスト気質がゆえとも言えるのだがーが、酒を断ち、自らの絵が評価され、家族や世間から認められ始めると次第に心の安定を得て、落ち着いていく。
長年の絵を描くという行為が、ある種心のセラピー療法として効いたおかげかもしれない。

一方、バリーやリズの快方とは裏腹に、デビーの妊娠を聞いたスティーブはどこか落ち着かなく、またその後すぐに小さな男の子の幻影を見るようになり、それがきっかけで車の事故を起こしてしまう。

その事故以降、彼の中の何か歯止めとなっていた堰がとつぜん崩壊したように、彼の心は崩れ始める。

今まで、誰にも頼らずに、それどころか常に誰かを気遣ってきたスティーブ。彼の折れた心は急速に萎え、内側の闇へと向かっていく。

そんな彼の変化にいち早く気づいたバリー。長年、同じ傷を背負いながら生きてきた彼だからできる方法で兄を救おうと試みるが、事態はあらぬ方向へ。

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作家リドリーはロンドンの下町生まれ。イギリストップのアート大学、日本からの留学生も多いロンドン中心地に校舎をおく、セント・マーティン美術大学時代からその類い稀なる才能を発揮。専門分野のアートにとどまらずー在学中にイギリス有数のギャラリーに作品が展示されるー、19歳にして初めての出版、学生演劇、その後も、映画シナリオの執筆、映画監督、フォトグラフィー、そして戯曲執筆、とその活躍の勢いが衰える気配はない、まさにクールブリテンの時代の寵児。

同時代の多くのアーティストたちと同じように、Disturbing -時として、不快な感情をももたせるほどに綺麗なアートとは対極にある挑発するような、何か見る人の心をかき乱すようなものを有したアートーな作品で、21世紀の英国アートシーンを牽引している。

今作は07年にロンドンの前衛テイスト劇場、SOHOシアター(野田秀樹の『The Bee』『The Diver』が上演された劇場)で、日本では映画「パフューム」の主役で知られるイギリス演劇界の星、ベン・ウィショーの主演で上演されたとのこと。(↓ウィショーの活躍ももっと知りたい人はこちらへ。)
ロンドン「ガラスの葉」舞台

一度きりでは、なかなか拾いにくいのだが、先日のパルコ劇場「ハーパー・リーガン」同様、どうも隠されたところ、台詞にはそのヒントぐらいしか出てこない、それぞれの、それこそ闇サイドの過去に、この芝居を大いに楽しむ様々な鍵が隠されているような。。。

ー例えば、父の葬式に現れた父の古い友人が幼い兄弟に何をしたのか?スティーブとデビーはうまくいっているのか?彼は浮気をしているのか?そもそも母と父はうまくいっていたのか?でもって、最大の謎、何故父親は突然命を絶ったのか????ー

これらの謎について、いろいろと想像をめぐらすほどに、それこそいらぬ勘ぐりを想像するほどに、、どんどん深みにはまっていく。

でもって、舞台上ではほとんどの事が語られずに終わるのだから。。。ますます勘ぐるしかない。

よ〜〜〜〜く、精神の病は直ったと思っても、その数十年先にまた現れたりする。完治などということは、例えば外傷的な原因の治癒とかでない限り、あり得ないと思った方が無難、、などと言うが、
今回の芝居でも、一見、早くに治癒をしていたと思われた兄の傷が本当は見えないところで内出血のように破裂して出血を続けていて、彼の病に気づかずに過ごしてきた家族を含め、今では取り返しのつかない状態にまで進んでいたというお話。
その意味では、もう一人の治癒していたかに見えた人間ー母リズーに関しても、同じような病状が想像できるところが、終幕後の世界を想像しても恐ろしい。


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で、今回の日本版の舞台。

まずは兄弟二人を演じる役者ー萩原聖人と田中圭ー。
この二人、本当の兄弟と言われても不思議には感じないぐらい、よく似ている。
キャスティングを考え、この組み合わせを思い浮かんだ時には思わずガッツポーズが出たのでは無いかと思えるほどに兄弟がしっくりくる。

萩原が普通人の狂気を演じる後半はなかなかに見物。ーこうゆうの上手いですよね〜〜。

二人とも幕開けはちょっと落ち着かない感があったが、ーでもってちょっと物語に乗り遅れちゃう観客もいたのではないでしょうか?ーこれも日を追えば、じょじょに良くなっていくだろう。

銀粉蝶の思いっきりKYな母親はさすがで、危なげが無い。劇のハイライトシーン、母親が長兄の嘘をあからさまに否定するシーン、そしてオーラスの彼女の心の不安定さを垣間見せるシーン、などは秀逸。

でもって、今回の嬉しい新発見が新境地開拓の平岩紙。
裕福なパブル時代に育って、若きエリートと結婚した自己チューなイギリス女、自分の家族が世界で一番なんて思っている狭い世界で育った頭でっかち生意気女を見事に演じてくれている。

これまでの紙ちゃんのイメージと言えば、ちょっと天然だけど愛されキャラ、、、健気なドジで間抜けな。。という良い人キャラがほとんどだったと思うのだが、タカビーな外人女をちゃんと演じてくれていた。ブラボー


とにかく、これから観に行く人は、思いっきり脳みそを空にして、どんな事でも、どんな変な空想でも出来るように、、でもって、答えなど捜そうとせず、思いっきり自由に妄想を膨らませながら2時間の外国劇を楽しむ事をおススメします。

余談:

兄弟と言えば、英国 労働党の党首選挙ミリバンド兄弟の一騎打ちで、大ドンデン返しで弟、40歳(!!!)のエド・ミリバンドが党首になりましたね〜〜。
あまり似ていないこの兄弟の争い、まだまだ終わりでは無さそう。


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2010年9月27日 (月)

シャガール展

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先日、連休の最終日にKYさんと上野の美術館へシャガール展を見にいってきたのですが、私、これまでず〜〜〜〜っとシャガールってフランス人だとばかり思い込んでいたのですが、ここで彼がロシア人(現ベラルーシの生まれ)であることを発見。さらにはその出生が彼の創作に大いに影響していた事も知り、一体今まで何を見てきたのやら。。。トホホ と思ったわけです。

思い込みってやつなんですがー彼の大きな美術館が南仏にあって、そこに以前行ったことがあるもので、てっきりその辺りの人だと信じ込んでおりました。。coldsweats02

今どき、能科学だの、世間でいろいろ取りざたされていますが、本当に人の記憶、能ほどいいかげんなものもないですね〜〜。でもって、その仕組みを使えば、簡単にいろいろな事実を誤って認知させることも出来るってことですよね。
あ〜〜〜、怖い怖い。

Wikiったり、ググったり、、、便利だからすぐに答えをそこに見つけようとしちゃうけど、これも怖いって事ですよね。

そう言えば、最近のニュースで鹿児島県 阿久根市の竹原市長の暴挙がいろいろ報道されていますが、まあ、彼のやり方に問題が無くもないのですが、、、どうもよくよくその発端から聞いてみるとー夕方の番組で一般のニュースよりは詳しくその経緯を紹介してくれている番組があって、それを観る機会があったものでー彼の言い分にもかなり利はあるな、と。
ここまで、市民の事を考えて捨て身になって働いてくれる役人なんてめったにいないぞ、と。

ニュースも四方八方、いろいろな方向から見直してみる価値はある。そうでなくても通り一辺倒な報道ばかりだから。

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2010年9月26日 (日)

窓(9/25)マチネ

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本多劇場でM&Oplays+PPPP(ンギンイルイルズ)プロデュースの「窓」を観る。

このブログを書こうとググっていたら(←すごい言葉だよね)劇団PPPPがしばし(1年半)活動休止に入るとの記述を見つけ、、へ〜〜〜〜そうなんだ、とちょっと驚いた。
1年半って期限つきということは、海外留学でもするのかな〜〜〜??

で、作品の方ですが、今回はM&O playsとの共同制作という事で、いつもの劇団メンバーに加え、今年の新国立劇場「エネミィ」での好演が記憶に新しい、高橋一生、そして野波麻帆、河原雅彦などの客演を迎えての上演となった。

ツルゲーネフの「初恋」からインスピレーションを得て、劇団主宰・劇作&演出の倉持裕が創作したという本作。

初恋の16歳の主人公が別荘地で出会ったあこがれの令嬢。彼には若かりし頃の苦い恋の結末が待ち受けていたわけだが、今回の日本PPPP版では、主人公・清輝(高橋)が一夏振り回される高値の花はいかにも現代の話らしく、世間で言うところのセレブー売れっ子女優であったがスキャンダルを機に湖畔の別荘で雲隠れしているーカスミ(野波)となっていて、主人公が現実をつきつけられる恋の結末に関しても、原作よりはよりスキャンダラスな臭いを含んだものとなっている。

PPPPの特徴でもある、何が起こるかわからない、ミステリアスな幕開け、またそれに適した湖畔のセットと実物大の手漕ぎボートも大いに期待感を持たせてくれたのだが、う〜〜〜〜〜ん、話が進むに連れて、どうも肝心要の話の中心がー主人公の恋心?もしくはその湖畔の別荘に住む人たちに関するヤバい秘密???ーボヤけてしまっていたように思う。

主人公の女優に対する恋心は終わりまで燃え上がらずー彼が彼女に好意を抱いていたとは見えないー、他のキャラクターに関しても、それぞれに思わせぶりではあったが、それほどまでの何かー原因ーは抱えていなかった。

故に、ちょっと消化不良。。。

休止後のPPPP、どう変化するのか、、期待してます。

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恋人(Pinter Wave) (9/24)

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横浜のBankART Studio NYKにてtpt(またロゴが小文字に戻りました!)のハロルド・ピンター2本連続上演の第一弾、岡本健一演出(もと男闘呼組メンバーで最近は舞台俳優として活躍)の「恋人 The Lover」を観る。

ギャラリーのスペースをそのまま使用しての2010年ヨコハマアートなピンター劇。

長方形のギャラリーの部屋の細長い壁一面を舞台背景に使用。その対面にー必然的にー横に長く広がるゆったりした階段状の観客スペースを設置。既にそこにあるスタジオの白一色の空間と数脚の透明なアクリル椅子、やはりギャラリーに設置されている運河に面した透明のドア、小さなスツール、、と無機質でシンプルなセット(美術:朝倉摂)に登場した男7人に女3人。それぞれに装飾を排した黒いスーツとミニドレスを身につけ、ファッションショーのランウェイさながらにその細長い舞台を闊歩する。

主な登場人物は倦怠期を迎えた(英国で言うところのミドルクラスの)裕福な夫婦。
冒頭、夫が妻に「今日、君の恋人は来るの?」と訊ねる、ショッキングでミステリアスな台詞で始まるこの芝居。もともとはテレビ用に書かれたというノーベル賞作家ピンターの いかにもイギリス的なOdd (奇妙な)で、sarcastic (皮肉な)なこの芝居が2010年のBankARTではどのような変容を遂げたのか?

イギリスの中年夫婦の他には一瞬登場する牛乳配達人、愛人とされる男(される、、というのがミソ)という、本来であれば少人数(多くの場合が男と女の2人によって演じられる)によるこの舞台。今回は10人と数をいっきに増やしての上演。しかしながら、基本的には男(夫)と女(妻)という役柄を代わりばんこに演じているだけで、誰が誰というキャラクターの演じ分けをしているわけではない。

しかしながら、原作を知らずに初めてこの芝居を観た人にはちょっとその辺りが混乱の元であったようで、巷の劇評欄などからは、ピンターの翻のストーリーを楽しむという楽しみ方ではなく、ギャラリーでの演劇公演をライブの音楽(劇中にパーカッションを効果として演奏する箇所があり)と、若々しい俳優たちの演技を楽しんだという人々が多々いたように見受けられた。

もともと、このPinter Waveという公演企画からして、若手にワークショップから立ち上げた作品を観客の前で発表してもらい、次へと進めよう、という趣旨により発足したとのこと。プログラムにもわざわざwork in progress (創作継続中の芝居)と明記されている。と言うわけで、様々なことが、いわゆる従来の演劇公演のメインストリームとは違った形で試されているこの公演。8月初旬に公演に先がけて行われたワークショップとそれに引き続いてのオーディションによって選ばれた俳優たちとの継続的な試行錯誤により、劇場空間ではないこのギャラリーに適した上演方法、そして集団で一つの役を演じる事の面白さをせっかくのこの機会に試してみたのだ、と演出の岡本氏は語る。ー終演後に役者さん、演出家、制作スタッフさんなどなどが、み〜〜〜〜んな1階のバーで一杯やっていくので、駅に急ぐ前にそのバーで一息ついていく事をおススメ! ざっくばらんにいろいろお話してくれますよ。ー

倦怠期のミドルクラス夫婦の歪んだ(同時に幸せと言えば幸せな、お気楽な人たちの)性願望とそんな愚かな人々の内心を暴露しちゃった、意地悪な原作とはちょっと離れた迷える若い「恋人」であった事は確かだが、ま、これも「われわれの`恋人’を上演したら、こうなった」というところだろうか。

2〜3年前にロンドン ウェストエンドで同作品を観る機会があったのだが、(ノーベル賞受賞とその際の反戦スピーチの影響からか、この数年、英国ではピンターブームと言われるほど多くのピンター劇が上演されているのだが、その恩恵に預かったという訳)、もちろん、その時の舞台はロンドンの郊外にある瀟酒なお屋敷で、絵に描いたような身なりのきちんとした奥様と、これまた絵に描いたようなイギリスシティでお勤めしているようなスリーピースをきっちり着こなした旦那の、暗号のような会話でパズルのように入り組んだ、「if...もしかして。。」と勘ぐらせる知的ゲームのドラマだった。

今回の岡本氏も初演出ということだが、次回の第二弾「コレクション」の広田敦郎氏も演出は初めてとのことー数多くの翻訳では広く知られていますが。

ヨコハマ ピンターの第二弾はどんな風に変貌しているのか、いないのか、、、また報告します。

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2010年9月24日 (金)

聖地(9/23)マチネ 再見

このところ、3時間越えの舞台ばかりが続き、家に帰るとただただグータラtv。。
テレビ壊したろか!とも思うのだが、、やっぱりプレミアリーグ見逃すわけにもいかず。。意志弱すぎ。。劇評更新が遅れて、スミマセンsmile

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彩の国さいたま芸術劇場で高齢者劇団ゴールドシアターの聖地を再び観る。
今回は演技経験もあり、介護の現状にも詳しい友人と観劇。昨年「アンドゥ家。。」を一緒に観劇し、ゴールドのファンになった彼女のたっての希望もあり、また今年も一緒に観劇する事に。

先週の初日(14日)は舞台正面からの観劇だったのだが、今回はせり出し型の右サイドから、前回とは違った角度から舞台を見つめ、前回気づかなかった小ネタにも気づき、聞き逃した(もしくは聞こえなかった)台詞もキャッチ出来たところも多く、もちろんのことながら役者さんたちのこなれ具合のおかげもあり、またもや3時間半をたっぷり、、いや前回以上に十分に劇を堪能する事が出来た。

一度観ているので、筋&流れが頭に入っていたということもあり、作者(松井周)の意図する問題提議部分、長編の中で仕掛けられている様々なリンク部分(フリとオチ)にも気づかされる事がしばしばあり、松井氏の新たな試み(中劇場&大人数)でありながら、今日の日本の社会状況に真っ向から向き合い、疑問を呈した骨太の秀作であることを再度確認する事が出来、大満足。

役者の力量のバラツキ、また40人越えという登場人物の多さ故の劇のボリューム超過(劇団員全員登場の大前提があるのでこの制約がついてくる)という、なかなかまとまりにくい条件を抱え、ややもすると見落とされがちー長丁場の途中、集中力が途切れ、ついウトウトしてしまっている観客もいたようなのでーな的確な社会批判が壮大な劇構造の中、一方では老人たち一人一人の人生を通し細やかに、注意深く、組み込まれている。

これらのネガティブな要素を背負ってでも、さらなる見返りがくる、そんなゴールドシアターならではの価値があり、それを見事に活かしたというところで、今回の公演も大いに実りある結果が得られていたと思う。
彼らだからこそ表現出来る「老い」に関する嘘と現実。。。一人一人の佇まいが、そして言葉が、小走りが。。。多くの事を見せてくれていた。

つまるところ、近未来においても「地獄の沙汰も金次第」であるのか、若者が奮い立つ日は来るのか、さらには世代云々というより、人類としての進歩、現状打破しうる前進は望めるのか、人間の愚かさ、そして同時に人情の機微。。。。を今の日本が抱える多くの矛盾に照らし合わせながら描いている。

1年間の期限付きで、停滞する演劇界へのカンフル剤的事件として始まったゴールドシアター。

今や、劇団は一時的な役割を超え、誰もが予想出来ない、大きなうねりとなって演劇界に刺激を与え続けている。

(その、このメンバーならではという特異性から、まさに「今」観ないと、というアラートランプが常に点滅している舞台なので、見逃すべからず)

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2010年9月23日 (木)

ハーパー・リーガン(9/22)再見

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本文より、一足早く、コメントをつけてもらい。。。ありがとうございました。


そうなんです。
それほどまでに、「ハーパー・リーガン」にどっぷり漬けられちゃっているんです(芝居漬け)!

生前の筑紫哲也氏が「人生あらゆる事、局面が`選択’なんだ。」と語っていらっしゃいましたが、その精神に基づいて、この数日をジャッジした時に、`最良の選択’として、観れる時にこの舞台をもう一度観ておくことが私の選択であろう、と、思い立ったわけで、、で、またもや観てきました。

やっぱり、その選択は正しかった。出来る事ならもう一度、観たいが、残念ながらそれは物理的に叶いそうにはない。。。。く〜〜〜〜〜〜。

観劇の感想としては、2度目なので、ある意味衝撃度は和らいだものの、やはり噛めば噛むほどに、という味わいが出て、やっぱり好きな舞台は出来る限り、何度でも見返すべきだな〜〜〜と実感する。

で、今回ひっかかったのが、「臭い」というワード。

劇の中で、ちらちらとこの「臭い」という言葉が出てくるのだが、

*****ネタばれ注意****

(原作ではおそらくは有色人種であろう)トビアスは自分の臭いが嫌いだ!と吐き捨てるように言い、ハーパーはミッキーを「臭い」と罵り、ハーパーとネットの出会い系サイトで知り合いホテルで密会をするジェームスは嗅覚が無いという。(嗅覚の代わりに触覚で人との関わりを確認するのだろうか?それゆえ、人一倍セックスによる関わりを求めるのだろうか?)
ベッドで彼女の側に寝て、彼女の事を思いながら待つ夫のセスは彼女の残り香から彼女を連想していたのだろう。。

******************

「臭い」ほど個人差のある、そもそもが主観的なセンス(感覚)もないだろう。
ライブの舞台とは言えその臭いまで実際に観客へ届けることは不可能で、だからこそ、逆に、この曖昧な伝達描写、それぞれの「臭い」が観客へ与えるイメージの広がりも無限大だと言えるのではないだろうか。実際、劇中でポロリとこぼれるこの「臭い」に関する台詞によって、多くの情報を得ることが出来たし、それぞれの場合において、深く実感する事が出来たように思う。

でもって、劇で伝えられることの多くが、実のところ、この「臭い」と同じような、かなり曖昧なそれでいて強固な、かなりの部分で人の感性に依るものが多いのではないか。。。
それだからこそ、それらの微妙なニュアンスを絶妙に配置する、この芝居に底なしの深みを感じるのでは。。。

「世の中に絶対は無い」と言う、何度か繰り返されるメッセージ。そのメッセージ通り、ハーパーを始め、登場人物たちの根拠のない「思い込み」「偏見」に支配された日常が描かれているわけだが、それらの脳内の「思い込み」と動物感覚の「臭い」。。。こんな対比にも人間らしさを読み取り、またもや感じ入ってしまうわけです。

話は変わるが、今回の公演用に販売されているパンフレット。それぞれの俳優、もちろん演出家、そして現代英国事情に詳しい見識者たちにロングインタビューを慣行し、掲載しているのだが、それぞれにこの芝居で注目する視点が異なっているのがとても面白かった。

若い世代の多くは今のネット社会における個人の立場、日々生活を浸食していくネットとどのように関わっていけば良いのか、、といったポイントに注目している意見が多かったのだが、その他にも家族関係に注目する人、男女関係、夫婦関係に注目する人、一人の人間の変化の注視する人、、、と本当に様々なのである。

中で、誰かも書いていたように、つまり「一つの答えは無い」芝居だからだと思う。

それだから、、、繰り返しになるが、噛めば噛むほど、どんどん出てくる出てくる。。となるわけです。


最後に、今回の役者陣、全てのキャストがやはり素晴らしかった、と締めくくりたい。

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ヘッダ・ガーブレル(9/22)マチネ

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★★★★

新国立劇場、新芸術監督によるプログラムの第一弾、イプセンの「ヘッダ・ガーブレル」を観る。

今年3月に同劇場での別役実作品「象」で・小劇場舞台に無数のカラフルな洋服を散りばめて被爆者の交錯する心情を表現した、池田ともゆき氏による舞台美術が秀逸。

主役のヘッダ(大地真央)が嫁いだテスマン家、その新婚夫婦の新居の居間とそれに続く奥の書斎の2部屋が舞台に作られている。それぞれの部屋は歪んだ金の額縁で縁取られ、部屋と部屋の間には巨大なガーブレル将軍ーヘッダの父であり男性・父性のシンボルーの肖像画、それも下半身のみが見える形でかけられていて、二つの部屋を仕切っている。

部屋の壁や調度品などがヨーロピアン調のリアリズムで作られ、さらには多くの白い花でテーブルを飾りレースのカーテンが優雅に風になびくセットの中にあって、その異常に大きな、そして顔の無い肖像画が大きなインパクトを持ち、さらには金の額縁と歪んだ部屋でヘッダの心の不安定さを表現している。

長島確氏とアンネ・ランデ・ペータスの共同訳による新訳戯曲での上演が一つのセールスポイントでもあったこの舞台。
その訳という面から言うと、その新訳が大いに上手く働いていたように見受けられた。

翻訳劇で起こりがちな台詞のぎこちなさ、説明的で理解しずらいような台詞は見受けられなかったし、劇もそれに準じていたってスムーズに運んでいたので、3時間超えの翻訳劇に最後まで引き込まれた。

その訳、舞台装置もさることながら、何と言っても今回の舞台の立役者は主役のヘッダ・ガーブレルを演じた大地真央とエルヴステード夫人を演じた七瀬なつみ。この女優二人の名演技が大いにこの舞台を、今日の私たちへと近づけてくれていた。
特にヘッダ・ガーブレルの複雑な心の内を自然に、しかしながら明確に示してくれた大地真央の貫禄の演技には脱帽。
自分自身でも、何故そうしてしまうのかが図りかねる、時代と性をはき違えてしまった不幸な女ヘッダならではの葛藤を見事に伝えてくれていた。(圧倒的な存在感とともに)

男女雇用機会均等法が常識としてまかり通る2010年の日本においては、ヘッダの社会参画への強い要望の意志は、一見すると「一昔前の女の姿」と映るかもしれない。
しかしながら、今一度、今日の社会を見渡してみると、彼女が何事にも変えられないほどに切望したー当時では考えられないーそして今日では解決したかのように思われているその女性の社会での立ち位置の向上に疑問符をつけざるを得ない状況というのも見えてくる。
ヘッダが置かれているような状況ー女だから。。。ーという環境は今だに世間には多くはびこっているのではないか?そんな理不尽に悩む女性にとって、ヘッダはそれこそ一昔前の遠い話ではないはずだ。
世間の流れに身を任せてしまえば、またそれが簡単に手に入るという状況もあり、そちらへ流れてしまえばそれほど楽な事はないはずなのに、、、それでは自分が自分で無くなってしまう。。

****↑こんなことを書いたら、翌日の朝日新聞に「母にはなりたくない女性もいる=既婚でも子どもはいらないという女性もいる」というレポート記事を発見。
様々な理由(子どもが好きではない。現職の状況では子どもは無理。自分の健康上の理由からetc.)から子どもを産まない決心をしているが、世間はその判断をなかなか理解してくれない、というもの。

ヘッダは長い新婚旅行中に子どもが出来た事を不測の事態として、素直に喜べないばかりか、それを女性一世一代のお手柄!とばかりに喜ぶ回りの人々の反応に嫌悪の表情を返す。

女の仕事=出産(確かに重要な仕事であることは明白で大変な重労働でもあるとは思うのですが)という、その社会の一辺倒な常識の呪縛から抜け出せないでいるヘッダの時代の人々とそれほどの変わりがない現代の世間感覚。。。ね、ヘッダの話がまたもや近づいてきたでしょ?

*********

頭の良い女性だけに、良家の子女だからこそ、なるべき姿と本当はなりたい姿、真の自分を見失うヘッダ。
その真にステキな状況を自覚せずに手に入れているのろまなテーア(エルヴステード夫人)を見るにつけ、心をコントロール出来なくなり、破滅へと突き進むヘッダ。

この、女が社会で身をたてるためには。。。運と男の勘違いが大きな手助けとなる、という芝居を女性である宮田慶子芸術監督が自信のプログラムの第一弾に持ってきたのも、なんとも不思議な取り合わせ、と言うしかないだろう。

就任第一弾を難しいが勇気のあるチャレンジ、中劇場での現代ギリシャ悲劇上演と決めた鵜山氏が男性で地味ながら小劇場で今日の女性演劇を揚げた宮田氏が女性、というのも、男女の考え方の違いを考察するのに一興であるかも。

女性芸術監督が選び、演出した2010年の「ヘッダ・ガーブレル」を宝塚で男として演じてきた大地真央が見事に演ずる。。。。う〜〜〜〜〜む、いろいろなものが詰まっている。

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2010年9月22日 (水)

私が一粒の米であったら(9/21)

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★★★★
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携帯カメラで見づらくて申し訳ありません。
上記二枚は上の米が多い方が「1㎢辺りの人口(東京)」で下の米粒数個が「1㎢辺りの人口(モンゴル)です。

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「今日、日本で生まれたであろう人」(左)と「今日、日本で亡くなるであろう人」(右)

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「難民、イギリスに滞在中」(上)と「難民、日本に滞在中」(下)

三軒茶屋、キャロットタワーの4階に展示されている、イギリスの劇団Stan's Cafeによるインスタレーションパフォーマンス(?!)・アート(?)「私が一粒の米であったら」を覗いてきた。


ちょっと見づらくて申し訳ないのですが、上記添付の写真のような白い紙の上にある統計の数だけ米粒を載せたものがフロアー全体に展示されているのですが、世界各地で上演されているこの企画。
もちろん、今回は日本に関連したテーマ、特に世田谷区を中心として見渡した時の日本の米の山たちがそこここに積み上げられておりました。(展示の最中にも、傍らでStan's Cafeのメンバーにより、次々と新しいテーマでの新しい米山が作成されておりました。)

大きな米山の隣に米粒一つの展示=`世界で一つだけの花’を視覚で訴える、70億近い世界人民の中での一粒、ジョン・レノンであったり、ビル・ゲイツであったり。。もあったりして、その米の山が与える印象の大きいこと。

それにしても、やっぱり米粒一つの紙はなんだか居心地が悪そう。。。せめて二粒になると、またぜんぜんその存在感が違うんだけど、ね。

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自慢の息子(9/21)マチネ

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★★★★

五反田、アトリエヘリコプターで松井周主宰 サンプルの「自慢の息子」、東京楽日公演を観る。
連休明けの楽日という日取りからか、客席には演劇関係者ー青年団役者たち、さいたまゴールドシアター役者たち、劇団主宰者、演出家、その他大勢ーなどなどが多くつめかけていた。小劇場なもので、その割合がかなり高く、この舞台の注目度がうかがわれた。そんな中、いつも通りにひょうひょうとしている、注目の中心にいるその人、松井氏の佇まいもなかなか味があるというもの。

最終日まで伸ばしちゃったのには一つ理由があって、他の観劇予定が埋まりつつあったというのもあるのですが、せっかくなら岩井秀人(ハイバイ主宰)氏が登場するアフタートーク、という素晴らしいおまけを楽しみたかったというのもあり、この日の観劇を決めました。

客席の受け身体制ー多くの場合、この空気でトークが進む事が多く、一方的に舞台上で話が進んでしまうこともしばしばなのですがーを自然に解きほぐす事に長けた岩井氏のアフタートークでは、なかなか有意義な時間を過ごさせてもらうことが多く、今回も氏自身の率直な舞台への感想から始まり(観劇中に気になった事を細かくメモを取っていたようで、観劇直後のホットspaな質問が多かったです。この真摯な参加の仕方が劇場の緊張をほぐすのでしょう。)、松井meets岩井のトークはなかなかに興味深いものでありました。
ちなみに、「今、一番興味のある出来事は?」の質問に対して、松井氏が「(カルト宗教集団の)ロマゾフィー協会事件」をあげていたのに対し、岩井氏が「止まらない子どもの虐待事件、モロモロ」と答えていたのが、それぞれの興味のベクトルを示していて、面白かったっす。

で、肝心要の舞台の方ですが、サンプルの顔 古館寛治を中心に、当劇団の特徴であるある常軌を逸したシュールレアリスムな世界が展開されておりました。

ちなみに、Wikiよると、
シュルレアリスム(フランス語: Surréalisme, スュレアリスム)は芸術の形態、主張の一つ。超現実主義ともいう。超現実とは「現実を超越した非現実」という意味に誤解されがちであるが、実際は「過剰なまでに現実」というような意味である。


↑この「過剰なまでに現実」というのがまさに松井ワールドを指しているように思います。

*******あらすじ(劇団HPより)********

日本のどこかに独立国を作りあげ、その王となった息子を探す母親と、その場所を知っていると言って母親に近づき、金をせびる青年がいる。
一方、息子は日課として、クレームを大企業のコールセンターにかけていた。
「お宅は私の国に勝手に侵入しているがいかがなものか?」と。

ある日、噂をききつけた若いカップルが母親に相談する。
「私たちはその国に亡命したい。」
母親は彼らを連れてさまよう。自慢の息子が作った国を目指して。

「私」という領土は一体どこに存在しているのか?
あるいはその境界は?
「国」と「私」についての考察劇。
********************

いきなり「独立国」を宣言し、他界との関わりを断絶する主人公 正(ただしー古館寛治)。その国に入る事が許されるのは、無条件に彼を崇める 近親相姦関係の兄妹と彼の母親。
母親はその息子の存在(実態はともかくそこにいるということのみ)によってのみ自己肯定を確認し、その兄妹カップルは正の暴走に便乗し、自分たちの現実から逃げ続けている。
これらの人々が日々で接する唯一の現実の世界に属する人と言えば、隣人のシングルマザーなのだが、次第に彼女もある現実から逃避している人なのだという事が明らかになってくる。。

社会から落ちこぼれた、もしくはいわゆる『世間』に不適合な人々が、それぞれの世界でそれぞれの主張を繰り返す。叫ぶ相手は、例えば部屋の壁であり、動かぬぬいぐるみであり、張り巡らされた洗濯ロープであったりする。

一見、非現実に見えるこれらの世界が、実のところ、私たちが日々暮らしている現実世界の描写である事。ここに登場する、ある種ビョーキとも捉えられがちな登場人物たちは、、よくよく観察していくと、それこそバスの隣の席に居合わせてもよさそうな、ごくごく一般的な人々の症例である事、などが今回の舞台では比較的分り易く描かれていた。

余談ートークでこの分かり易さを岩井氏は危惧しておりましたが、私個人的には非常にウェルカムな兆候だと思っております。分かり易さを恥ずかしがることなかれ。
その核にあるものさえ、ブレなければ、かえって前向きな姿勢だと思うのですが、いかがなものでしょう?ー

日本の現代社会が抱える様々な社会問題もきっちり、びっしり、ちゃんとその輪郭を示しながら組み込まれていて(親と子どもの関係、親の子離れが出来ない状況、狭い世界でのみ満足している若者たちの動向、さらには資本主義優先の国家の動向 などなど)、NY タイムズで「日本で最も重要な演劇人の一人」と期待を込めて紹介された記事にもきちんと応えられているんじゃないでしょうか。

オリジナリティーがあり、社会性もあり、批判性もあるという事で。

他方ーさいたまゴールドシアターーで違うタイプの芝居(中劇場、多人数、他世代)にチャレンジ出来たのも、タイミングが良かった。

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2010年9月20日 (月)

ファウスト 2010 in Chino(9/19)

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ロビーから青々として芝生の中庭を眺める事が出来る。

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スタイリッシュな図書館スペース。扉がないのでとってもオープン。誰でも気軽に利用したくなる理想的な図書館。

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建物を横から眺めたところ。ガラス張りで清潔で開放的。

★★★★★

公演情報を送ってもらってから、なんだか気になって気になって、初めて長野県茅野市にある茅野市民館へまつもと市民芸術館の芸術監督、串田和美構成・演出による「ファウスト」、「ファウスト 2010 in Chino」を観に行ってきた。

新宿からあずさに揺られ、着いた茅野駅。チラシにも駅直結と書いてあったのだが、終点の松本に近づくにつれ、どんどん駅の回りは田畑ばかりという景色に変わっていく窓の外を眺めていたらどんな劇場があるのかしらん(^-^; なんて不安が募るばかりだったのだが、、着いてびっくり! 駅から続く渡り廊下を抜け、茅野市民館の扉を開けると、ま〜〜〜〜〜、そこは駅の小さな売店とそば屋とは別世界の最新スタイルの市民館-ガラス張りの建物にモダンでオープンな図書館スペース、広々とした開放的なロビーに緑の芝生が目の前に広がるリーズナブルなレストラン、劇が上演されたマルチホールの他にギャラリー、コンサートホールまであるというのだから、まんず、ま〜〜びっくりしました。

ハコものアート事業のマイナスばかりが取りざたされますが、これはこれで、すごいんでないの?市民は誇れるんじゃないの??と思った次第です。

でもって、そのハコに収まる重要なソフト(演目)の方ですが、、これが素晴らしかった!diamond
胸騒ぎ、長年の観劇体験からくる虫の知らせ、に従ってみて大成功、とでも言うのでしょうか、珍しく、エンターティメントとアートが絶妙に、そして完璧にブレンドされた、こどもから大人まで誰でも楽しめる、素晴らしい作品に仕上がっておりました。

天井の高いマルチホールの通常の一段高くなった舞台スペースを取っ払い、席も動かして、囲みスタイルの(前方と左右に観客席が設けられている)空間を作り上げ、その中心の囲まれたパフォーミングエリアには頑丈な鉄骨の櫓スタイルの鉄柱が。その櫓の後ろには役者が出入りする白いカーテンがひかれ、後はセットと言えば、シンプルな可動式の机ぐらい。

唯一のセットと言ってもよい、その鉄柱がどのように使われるかと言うと、つまりはサーカス小屋の骨組み部分、と言う事で、その鉄柱をアクロバティックによじ上ったり、柱と柱に縄をかけて綱渡り、そして時に空中ブランコのブランコが降りてきたり、これまたスリリングでダイナミックなブランコ妙技を披露したりする。
そのサーカスパフォーマンスのパフォーマーがほとんどが外国人。フランスやカンボジアからの熟練パフォーマーたちがその身体を張った演技で芝居の台詞にブラスアルファーの情緒とイマジネーションを添えていた。
特に終盤の女性パフォーマーによる空中ブランコシーンは圧巻。
ファウストの哲学的なテーマに宇宙的な広がりを与えるのに一役買っていた。

サーカスパフォーミングと言えば、言わずと知れたシルク・ドゥ・ソレイユ。
恥ずかしながら、シルク。。 未体験なもので何とも言えないのだが、おそらく、シルク。。がサーカス8に対して演劇2なのだとしたら、今回のファウストに関して言えば、サーカス3:演劇7ぐらいの割合だろうか。

いずれにしても、そのサーカスパートが効果的に働いた事は紛れもない事実で、総勢30名弱の役者、パフォーマー、そしてライブで演奏をする吹奏楽ミュージシャンによる、頭でっかちにはならない、体感して目で観て、一目瞭然の「ファウスト」劇となっていた。

やもすると、啓蒙的で現実離れした外国のお話、で終わってしまうファウストを、興味を失わせず、飽きさせる事なく、21世紀の日本における活きた寓話劇として成立させてくれていた。

今回は最終段階へ向けてのワーク・イン・プログレスの一端という事なので、来年の最終バージョンに大いに期待が持てるというもの。

それにしても、これ以上の完成形ってあるのかな?ぐらいに良く出来ていた。
(もっと精度を磨くということなのかな??)

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SKY with DIAMOND (9/18)

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★★★★★!!!!

なんだかこの!!!!でも足りないほどに大・大・大満足のコンドルズの夏公演。

構成は毎年の夏ツアーお決まりの流れとなっているのですが、これは意図しての事らしい。アフタートークでメンバーがそのように語っておりました。夏のコンドルズを見にきたら、紹介イントロダンスで始まり、人形芝居が中終盤のこの辺で観られて、で、最後はPrimal Scream -Movin On Upで近藤氏がソロで思いっきり鋭角的なキレまくりのダンスを見せる、っと。意図的な毎年恒例なんだそうです。
なるほど〜〜〜。狭い視野で物事を見てないね〜〜。

近年参入の新メンバーも含め、このところのダンス面での安定感は目を見張るものがある。
大中小、狭い(?)、太い 様々なダンサーたち、一人一人の長所を活かす振り付けは見事。

また、なんだかアーティーで小利口な、そしてド〜〜〜〜〜ッと切なくなるような、観た後に疲れが眉間の間に凝縮されてしまうようなハイアート的コンテンポラリーダンスが多く上演されている中、ダンスの定義を根底から問いかけ直すようなコンドルズのダンスはステキだ。

公演終了後にアフタートークがあったのですが、こんなにもハッピー空気に包まれた会場があっただろうか、というぐらいに、会場の大多数(だと感じた)がコンドルズを見てハッピーになっていたように思う。

かく言う私も思いっきりハッピーにアゲアゲな気持ちにしてもらった。

これだったら、なんだか何でも許せそう。。誰に文句言われても笑顔で応対出来そう。。KY夫にKYな対応をされても「ま、カワイいheart04」なんて余裕でかわせそう。。。

音楽とかダンスとか、まあ芝居にしても絵画にしても。。こういった効力があるから、国が金だしてサポートするだけの価値が十二分にあるんだよ、ね、必殺仕分け人のお偉方さま。


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2010年9月18日 (土)

表に出ろぃ!(9/17)

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「表に出ろぃ!」Wキャストの別バージョンー太田緑ロランス娘役で出演ーを観る。

つい先日、お芝居に関して書いたので、今回はこのWキャストについて。

先日観た回は京都造形芸術大学三年生にして舞台女優の道を歩み始めたばかりの黒木華(はる)が娘役を演じていて、今回はフランス人を父に持ち、既に舞台経験、映画出演経験もある太田緑ロランスの出演回であった。

年も10歳ぐらい違うし、背丈も10cmくらいは違う、そしてキャリアの長さも違う二人。
同じ役を演じ、同じ台詞を喋っている(ほんの数回、それぞれのキャラにあわせてのジョークが挟み込まれていたが)のだが、やはりかなり印象の違う娘二人となっていた。

特に、それぞれのカラーが違うのはもちろん、相対する両親二人(野田・中村)との関係性においても各々に違う結果を出していたところが面白かった。

ロランスがその両親よりも身の丈が高く、目ん玉も3倍ぐらいデカイことからか、彼女の存在感が両親と対等ぐらいになっていた。

前回の舞台では黒木は世間ズレした両親から迷惑をこうむった娘、暴走するマッドな両親を冷ややかにみつつ、つきあってあげている今日の冷めたティーンエィージャーとしてこの惨劇に参加していたが、今回のロランスはもっと自己主張のはっきりした、それこそロンドン帰りの跳ねっ返り。時にその強さにあの(!)両親でさえたじろんでしまうような、一家の柱の一本として関わっていた。

どっちがどうという事はなく、
2強の両親バトルを(一対一 プラス観察者)中心に楽しみたい方は黒木バージョンを、そして3人の三つどもえガチンコバトルをという方はロランスバージョンを。。。

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2010年9月17日 (金)

亀の気配(9/16)

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ナイロン100℃若手公演、喜安浩平作・演出による「亀の気配」を新宿サンモールスタジオ(新宿御苑駅からが一番近い)へ観に行く。

喜安氏はナイロン。。に役者として所属しながら、自らの劇団「ブルドッキングヘッドロック」を10年前に旗揚げ、その劇団で06年に上演した作品の再演だと言う。当時は男性版と女性版の2パターンーそれぞれの立場からみた同じ事柄を描いているーを日替わりで上演したらしいのだが、アンケートには「よくわからなかった」という感想が多かった、とパンフレットで振り返っている。

そんなとんがった作品を、今回は親切に分り易く、それでいながら初演時に見せたかったテーマを色あせずに描くように、、と再考された今作。御大、ケラリーノ・サンドロヴィッチの監修も加わり、出来上がった作品は2時間20分の時間をぎっしりと充実させた、かなりの秀作に仕上がっていた。

***ネタばれ注意***

父親が勤め先の工場で命に関わるほどの大怪我をしたという知らせを受け実家に戻ったサイコ。東京で彼女と長年一緒に暮らすフミオはこれを機に初めて彼女の家族と対面する事となった。

父親の入院が長期に及ぶことが分り、それならば、と自由業である利点を活かし、ここらで心機一転!と、そのかなり辺鄙で閉鎖的な田舎の実家へ移り住むことにした二人。

東京でのフリーの映像カメラマンの仕事に行き詰まっていたフミオは早速、サイコの姉の紹介で姉の夫が努めている、そして義父が怪我をしたという町の家内工業の工場への就職を取り付ける。

田舎でのんびり彼女とまったり人生やり直そう、というフミオの思惑とは裏腹に、彼らの人生は閉塞的な田舎社会の闇へと、どんどん引き込まれ、取り返しのつかない悪夢的状況にまで追いつめられていく事になる。

**************


この悪夢的状況を予見させる伏線は幕開け直後からはられていて、それぞれ田舎の住人たちがかなり怪しい。それもかなり可笑しい。さらにはマッドな感じでクレイジーにおかしい。。
でもって、この悪夢はどんどんエスカレートしていく。
観客の想像をはるかに越えて、笑いと一緒にマッドの度合いも上がっていく。

村の、工場の、そして家族の秘密って何?という謎解きテイストと馴れ合いになった男と女という普遍のテーマ、そしてB級ホラームービー(良い意味で)ばりの強引さと血みどろ加減、、とこれらモロモロの魅力あるストーリーが無理なく、次々と繰り出され、まったく飽きる事が無い。

でもって、若手役者で構成されたチームが、さすがに劇団というまとまりをみせ、完成度の高い舞台を実現している。

「女と所帯を持つと覚悟を決めた男、それなりに我慢もするし、その家族の為なら犠牲も払うさ。。」と言葉にするとこんなにも美しいのに、その実態を見たら、こんなにもスプラッターな悲惨なものでした。。。と。
でも、所詮、綺麗ごとを言っても、男と女、、それぞれに人には言えないハズカシい過去の一つや二つ、、そしてどうにもならない家庭の事情の三つや四つぐらい、あるんだよね〜、と言う見事な人間ドラマ。

20日までなので、見逃すな!

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現代能楽集 チェーホフ (9/15)マチネ

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あうるすぽっとのチェーホフフェスティバルのラインナップの一つ坂手洋二率いる燐光群の「現代能楽集 チェーホフ」を観る。

まず、今回のチェーホフ四大長編戯曲全作上演バージョンの前に、燐光群では05年に三人姉妹の能楽化舞台「上演されなかった「三人姉妹」」(今回は05年の舞台の抜粋型ショートバージョンのような形での上演となっている)、そして09年には「現代能楽集 イプセン」(イプセンの代表戯曲4本を今回とほぼ同じ2時間半という長さで一挙に上演している)を上演しているという経緯があるのだが。。。

現代能楽集 イプセン


今回の「現代能楽集 チェーホフ」に関して、不思議なことに前作のーイプセンとほとんど同じような印象(リンクを参照)で、なんで、無理矢理4本も、それも休憩無しの2時間ぶっ通し(話が違うのだから、途中で休憩を入れようと思えば無理なく入るはずなのだが)で上演したのか??
それと、やはり今回のチェーホフに関しても、オリジナルを知らない観客にとって、ロシア語の馴染みのない長ったらしい名前が入り乱れる劇のどれほどが伝わったのか??と疑問に思うところであった。

****ネタばれ注意****
1本目の「かもめ」では、原作の話が終わりのシーンから始まり時間を遡行する形で展開する。もちろん全編を上演するわけはなく、「かもめ」の中の主要な事件を主に追っていくこととなる。
で、2本目の「ワーニャ伯父さん」では今は亡きワーニャが彼の住んでいた家屋がダム建設の為に取り壊される事を知り、亡霊として現れ、年をとった原作終幕後のエレーナと話し合い、エレーナにある決断をさせるというお話。3本目の「桜の園」は一度はロパーヒンによって宅地開発事業地として買い上げられた桜の園が、数年後にまたもや当のロパーヒンによりもとのお屋敷ラネーフスカヤの「桜の園」として再建されるというところから始まり、まやもや同じ過ちを繰り返すというお話。で、05年上演版の「三人姉妹」ではチェーホフの「三人姉妹」とは離れ、戦渦の町でかつてチェーホフ劇を上演していた劇場に宿る女優の霊たちとそこを基地として使用する兵士たちの会話から、過去と現在、さらには霊たちが夢見る未来を繋ぎ変わらぬ人間の愚かさを描いた。

***************************


と、今だからこんな風に、なんとなくまとめたあらすじが書けるが、パンフレットの演出家の解説などを読んで、分りかけた事も多々あり、見ているときには、例えば「ワーニャ伯父さん(ワーニャ・アーストロフ記念館 というタイトルで上演されている)」などは、そんな仕掛けになっているとは、気づきもしなかった。。sweat01

それでも、一応、全作品の原作舞台を見た事も何度かあり、そのオリジナルを分っているからこそ、その仕掛けを推測したり、また比べたりという楽しみ方は出来たが、、、前にも述べているように、チェーホフ劇のオリジナルを知らない人が、これらを観たところで、どれほどまで楽しめるのか????本当に疑問。

ま、能を観に行く際には、ちょっとは予習したり、また上演前に配られた資料・パンフレットを読んだりするでしょ?と言われればそれまでなのだが、それにしても、ちょっと不親切なような気がした。

それでも、翻案、脚色された新作舞台がそれ単体で十分に楽しめる、何の予備知識がなくても作品として成り立つものであれば、、、、なのですが、単体として、そこまでの完成度があったのかどうか?
トレープレフの立場、ニーナがどんなバックグランドを持つ娘なのか、、ワーニャとエレーナの関係は、、などなどを知らなくても、これらのショートバージョンの芝居が成り立つのかどうか??甚だ疑問。

って、帰り道首をひねりながらバスに乗って舞台を思い出しながら、「そもそも チェーホフの現代能化」ってどれほど効力があるのか?で、さらに現代能化の利点、そして現代能って言い切る規定って何??と。チェーホフの話もやって、能の精神も取り入れる、、、ってちょっと一つどころには上手く収まりきれないのでは?

`何ごとも起きないで3時間を費やす’、ということで有名なチェーホフ芝居。でも、その何も起きていないような雑談部分にこそチェーホフの神髄があり、それこそ抜粋形式の筋追いにどれほどの意味があるのか??


エッセンスを残しての現代オリジナル化に関しても、何かもっと他にやりようがあるのではないか?

それを観るために、これからのダンス、ラップ、落語アレンジのチェーホフーいずれもあうるすぽっとのチェーホフフェスティバルで上演されるーアダプテーションを見届けたいと思う。
日本におけるチェーホフ劇上演

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2010年9月15日 (水)

表に出ろぃ!(9/15)

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先日予告した「表にでろぃ!」の第一回目を池袋芸術劇場で観る。

いきなり、話は変わるが、イギリスのテレビ番組を観ていると、時々あまりにもそのユーモアが過激で目を見開いてしまう事がある。
伝説のコメディユニット、モンティパイソンしかり、近年では「リトル・ブリテン」「グリーンウィング」など、ちょっとこちらがドギマギしてしまうようなネタがゴールデンタイムで放送されている。

例えば、「リトル・ブリテン」のお決まりのシークエンスで、移民が多く住むイーストエンド(下町)のローカルなコミュニティのカルチャーセンターの集まり。ダイエット目的でダイエット指導クラスへ集まる主婦たち。
下町にはアジアの移民(インド、パキスタン、ベトナムなどなど)が多く住んでいることは周知の事実として番組は作られていて、そのクラスに毎回真面目に通ってくるインド系のイギリス人(こうゆうxx系のイギリス人というのが数知れず存在するのがロンドンです)のおばさんが主役のコメディアンと会話するその場面がジョークとして描かれているのだが、あきらかに人種に偏見のあるそのコメディアン扮するカルチャーセンターの講師はそのおばさんの英語をインド訛りで聞き取れないふりをして、その会話の掛け違いが笑いとなっていく訳です。
多人種国家の中で、そのおばさんの英語はかぎりなくネイティブに近いのですが、その頭の固い、そして偽善的なイギリス人という笑いの枠でそのジョークは成立するのです。

そのあたりのユーモアのセンスが違う日本人がこの手のジョークをやるのはかなりな高度な技だと思われるわけですが、今回の野田秀樹の新作、「表に出ろぃ!」にはそのあたりの綱渡りユーモアがかなり含まれていて、そう言った意味で、大人な作品に仕上がっております。

今晩の観客に関して言うと、彼らもかなりにシャレたセンスを持ち合わせていたようで、大いに楽しんでいたように見受けられた。

***ネタばれ注意***

そもそも、お犬様をあの偉大なアーティスト(!)ピナ・バウシュと名付けてしまうことからして、で、出てきたそのお犬様がコチンコチンの犬のぬいぐるみである事からして、でもって、xクドナルドのてりやきバーガーを赤ん坊の手のような食べ物と言っちゃうそのアブナさからして、でもってそれを上演しているのが東京都の劇場だっていうのが、なんともここまで日本も大人になったか、ふむふむ。。と自嘲気味にニヤリとしてしまう。

*************

上記のモンティパイソンでも超インテリエリート集団の彼らが、ナンセンスな笑いをぶっ放し、人間の愚かさその本質をニヒリズムでコーティングされた笑いで覆い尽くしているのだが、今回のこの芝居にもそんなチクチクするようなドライな現代の日本社会批判が散りばめられている。
でもって、それが芝居ならではの身体をはっての演技+大物俳優の競演+野田秀樹の七色の声+舞台カンと相まって、客席から大きな反応を得ていたーあんな大声でみんなが笑うーくすくす笑いではなくてーのを久しぶりに見た気がする。

世の中全体が、「癒しスポット」だの「パワースポット」。。相変わらずの大占いブーム、金持ち・勝ち組持ち信仰に踊らされる中、「み〜〜〜んなが御大層にありがたがっている、モロモロの事、信仰だの世の中の大勢より意見だの、ほ〜〜〜らこんなにバカバカしいんだよ〜〜ん。こんな頼りにならないものをあがめているんだよ〜〜〜ん。」とペロっと舌を出しながら喝を入れてくれている。

だいたい、あの二人ー野田秀樹、中村勘三郎ーなら、あれだけのハイテンションで芝居している二人なら、もしかして、あのような情況下(食べるものも水も手に入らない、身動きがとれない状態で家の中に閉じ込められてしまう。)でもお互いにツッコミあいながら、何ヶ月も生き延びる事が出来るかも???なんてナンセンスな奇跡までも信じさせてくれるような、そんな人間の底知れぬ能力まで期待させるような、、そんなオマケの逆説のオチまでついた、人の起源への回帰を唱えた、大笑いの中に`目を覚ませ 喝!!’と怒鳴られるお芝居。

つまるところは架空の神よりも、自分自身にそなわった未知数の力が肝心なんだよ、生き延びるためには。。って。

いわゆる変な人たちの一家ではあるけれども、結局のところとても仲が良い(だって一緒に暮らしているし、人の話は一応聞いているし。。)ーところもあり、かなりポジティブなブラックユーモア話であるところが観劇後感はとてもスッキリ。

(同じブラックユーモアでもThe Beeはもっとブラックな方向へ行ったからね〜〜、それは日英の違いー結局 私ら結構お気楽??ってか?ーなのかしらん??)

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聖地(9/14)

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蜷川幸雄率いる高齢者劇団、さいたまゴールドシアターの最新舞台「聖地」を初日に観劇。(上演時間は3時間半ーーでも、沢山のキャラクターが次々と出てきて、それぞれの個性を発揮するので、飽きませんよ、皆さん!)

またしても、異例の劇団ならではの発見、楽しみ方が出来る舞台に仕上がっていた。

例えば、劇中、70〜80歳の素のままで十分お年寄りの人たちが`老人ホームにいるお年寄り’のふりをする、つまりお年寄りがお年寄りを演じるというシーンがあるのだが、これ、絶対に他では観ることの出来ない演技です。

それと、やはりゴールドシアターを初回から見続けているファンとしては、毎回目の前で確認できる、彼らの進化、ー今回は、一律ではなくて、それぞれの進化の違いなども見て取れたーが見物の一つだ。
それこそ、新人歌手が2〜3年後に大物のオーラを放つようになる変貌ぶりをみるかのように、「へ〜〜〜あの人がこう化けたか。。」と劇団公演ならではという継続的に見比べる楽しみもあるので面白い。

全体的には発声をきちんとやってきた人(役者)のその達成度が結果として現れてきたように思う。ー芸に近道はないのですねー

プロンプトをつけてはいたものの、それほどにはお世話になることもなく、特に後半に入ってからは初日という固さが取れ、ノリが増してきてテンポ良く運んでいた。これから日を重ねるごとにもっと進化していくことでしょう。


で、今回は、消えた100歳以上の高齢者たちのニュースと重なり、とってもタイムリーなお話。37歳、演劇界期待の星、松井周による世の中から取り残された老人たちのお話なので、まさに演じている役者たちのリアルな年齢の人々を描いた劇となっている。

このまさにあて書きのような戯曲。。しかしながら、実際には舞台上の役者たちと翻の間にーなかなかおもしろいー微妙なズレが生じていたように思う。それが何なのか、なぜなのか?ちょっと考えてみたい。

松井さんのインタビューはこちらから;
松井周インタビュー

インタビューで話を聞いた際に、松井さん自身が`今回はお年寄りの世界を描いたけれど、それに対する若者世代、つまりは僕たちの世代からのつっこみの声、も入れてあるんです。やっぱり一方向からの言い分だけでなく、それに反応する別の声も入れたかったから’と答えていた。で、実際にほんの少し(全体の1%にも満たないぐらいの分量で)その老人ホームでバイトで働く若者の、ま、たわいもない発言部分などがあったのだが、このツッコミがやっぱり言葉としてがぜん活き活きしていた。
なんだか、そこの台詞で急に自信に満ちた発言になっているんです、これがー役者の力量ということとは関係ないとは思うー。

また、一方、稽古場を訪れた際には、70歳代のゴールドシアターメンバーに今回の戯曲についての感想を訊ねた際、「う〜〜〜ん、若い人にはわれわれはこんな風に見えているのかな?ちょっと違うような気もするけどね。でも、お芝居だから、それはそれとして演じるよ。」というとまどいの声も聞かれた。

もしかしたら、高齢者が全人口の中で占める割合が年々大きくなっている、この高齢者大国日本において、作家の描いた少々のズレ、そしてゴールドシアターのメンバーたちが日に日に築いてきた実年齢とのギャップ(なんだか皆さん会う度に若返っているんですけど〜〜〜)が、この微妙なズレとなって現れてしまったのかも。

つまり、この`微妙なズレ’が生じた原因として、役者たちの心身ともどもの若々しさ、気持ちの前向きさがあるのではないか。
彼らが進化して、若さを取り戻し、上達するほどに、この劇を演ずるには役者としてさらに、もう一つ先のステージまで行かなくてはならない、つまり弱くて後ろ向きな老人を`演じ’なくては成立しないというなんとも皮肉な現実が上演するにあたって見えてきてしまったのではないか、と思う。

つまり、これまでの台詞を覚えて、出来る限りリアリズムに見える演技をするという彼らの課題は、もう後ろに過ぎてしまっていて、これからは与えられた役を、まさに`演じる’ことが求められているという事である。

大変なのは重々分る。でも、プロの劇団として活動している以上、やはりさらなる上の、次の段階を目指してもらいたい。また、それが出来るはずだから、と付け加えたい。

劇の全体のトーンとしては、先日の「ハーパー・リーガン」にも繋がる`人は計り知れないものである。予想の範疇を越えたことは日常で沢山起きている。’ということを、今回は特に老人の世界と言えども例外ではなく、それはどの年代にも共通することで、やはり`老いても、人はますます迷走する’と言う事を語ってくれている。

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2010年9月13日 (月)

イリアス(9/13)マチネ

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銀座一丁目、ル・テアトル銀座で紀元前8世紀末(!?)の吟遊詩人ホメロス長編叙事詩の日本で初めての劇化(イタリアでは既にあるらしい)、「イリアス」3時間半の芝居を観る。

演出家、栗山民也がプログラムに、今回の舞台は書き残されているギリシャ悲劇前の口承伝承物語を「朗誦ならではの基本を残す」形での演出を試みたと語っていた。

物語を言葉で観客へ伝えることに重きを置き、舞台装置はシンプル、俳優のアクションは押さえ、その都度にストーリーテラーとなる中心役者にフォーカスをしぼり、また、外国のそれも古代の歴史に関わる説明部分は5人の見目麗しいギリシャ彫刻のような女優コロス(古代ギリシャ劇に不可欠の合唱隊・一塊となり劇中の一群の役割を担う)がナレーション役を担う。途中、予言者役のトロイアの王女カサンドラ(新妻聖子)の歌が入る。

この演出意図にともない、今回は殊更に日本語脚本に重きを置き、劇作家・木内宏昌氏(TPTにおいて数々の海外戯曲の翻訳、脚本、演出を担当)を指名し、膨大なボリュームの詩から台本へと起こす作業を依頼している。その木内氏は演劇雑誌のインタビューで「神々の話をより人間たちの話に近づけた。そのため、登場人物の面でも原文では多く出てくる神のシーンを削り、そこへ女性の言葉も多く盛り込んだ。」と言っている。

演出家がここで公言しているように、舞台構造はいたってシンプル。トロイア戦争における戦場地での男同士の駆け引きと戦いという血なまぐさい話ながら、大掛かりな舞台セットや複雑な場面転換は一切なし。ー途中、若干のチャンバラシーンはあるものの、それは必然としての数分のみー幕開けから最後まで、役者が演じる舞台セットは変わらず、左右両脇に置かれた柱、舞台奥へと続く数段の石階段セット、そして奥には時折背景を変える際に開閉がされる襖戸式の開閉仕切りがあるのみ。その中央部分でそれぞれの台詞を、心の葛藤を訴えかけるスタイルだ。 コスチュームもギリシャ側とトロイア側とを色分けー赤と青ーして、分り易く、女神役のコロスたちは白のドレープドレスとここでも余計な装飾は一切排除している。

この演出意図のおかげか、普段あまり馴染みのない古代ギリシャの神々と人間がいりみだれてのお話がひっかかりなく、眉間に皺のよる事もなく、するりと頭に入っていった。

しかしながら、なんだかそのようにひっかかりなく過ぎていってしまうと、不思議なもので、逆に今度はどっかでズシンとくるような、もっと頭の中がヒートアップするような、何故今この古代詩を検証し直しているのか?ー今の私たちが学ぶべきものがここに見えてくるのか?ーとさらなる欲が出てくるもので、確かに非常によくまとめられた古代ギリシャ詩からの指南劇ではあったとは思うが、あえてさらなる一歩、今の立場からの強い問いかけを打ち出してもらいたかったという気もする。

とても分り易く語られていくため、通常はかけ離れた存在であるギリシャの神々でさえ、今回の舞台では大いにその実態をさらけだしてくれていたように思うー神々というメタファーで示されるものの裏にあるその存在、例えば`世の常の矛盾’`人力ではコントロールできない運命であり不条理’といった古代人も現代人も悩ませるこの世の不平等ー。そのような今回の舞台の功績を大きくふまえた上で、それだからこそ、あともう少しの劇の方向性が示されていれば、、、と悔やまれる。

衛星放送番組のヒストリーチャンネルとか、BBC放送とかで、よく古代ギリシャ、また古代ローマの歴史ドラマなどを放送していたりするのだが、当時起きた出来事、またそれこそ史実を知るのには最適な丁寧な作りのものをよく見かける(NHKなんかでも時々戦国武将物語とかCG駆使して上手く作ってますよね)。 今回の舞台を観て感じたのは、それらの良質テレビ番組とどれだけ違うのだろう?ということ。 わざわざ、銀座まで舞台を観にきているんだから、その驚きの史実、プラスαを見せて欲しいということ。 CG、手に汗握る戦闘シーンの再現に関しては、映画にはかなわないわけで、、それも分っているとしたら、舞台だからこそ、テレビも映画も出来ない事って何なのか?? その辺りがこのちょっとした物足りなさの原因なのかもしれない。

俳優人は少数精鋭制で厳選されていただけあって、それぞれに好演していた。 主人公ギリシャの戦士アキレウス(内野聖陽)、参謀オデュッセウス(高橋和也)、敵軍トロイアの戦士(池内博之)、アキレスの僚友パトロクロス(チョウ ソンハ)。。とそれぞれに負けず劣らない存在感を見せていた。

そんな中、トロイアの王プリアモス王を演じた、平幹二朗のその存在感は一つ抜きん出ていた。 彼が喋りだすと、そこが一瞬にしてどんな舞台装置であるかないかではなく、古代トロイアの戦地へと変貌していた。これが蜷川舞台の中心として世界の劇場で経験してきた力なのだな、と実感できた。

最後に、金子飛鳥を中心とした生演奏の音楽もこの舞台のかなり大きなパートとして異彩を放っていた事を付け加えておく。

蛇足かもしれないが、アキレウスとパトロクロスの男色関係に関しては、まあそれが当時の常識としても、ん??それ、そのシーン必要か???と思わざるを得なかった。

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2010年9月11日 (土)

表に出ろぃ!(期待がこもった予告)

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先週の日曜日に幕を開けたNODAマップ小規模スタイルの舞台。

野田と長年親交のある歌舞伎役者、中村勘三郎と今回オープンオーディションで選ばれたヒロイン(二人のダブルキャスト)との親子三人という少人数芝居ということで、大人数での大掛かりな舞台、前作「キャラクター」とはまたひと味違った何が出てくるのか?と楽しみにしている人も多いはず。

かく言う私もその一人で、近日中にWキャストの両バージョンを目撃する予定。

で、本舞台に先駆け、既に出版されている戯曲(新潮10月号に収録)を我慢出来ずに読んでしまったのですが、これが抱腹絶倒ものにお・も・し・ろ・いcat

劇場からの帰りのすいた上り電車の中でページを開いて読み始めたのだが、そのユーモアのセンスがどうもツボにはまりっぱなしー詳しくは観劇後のレビューで書きますーで静まりかえった電車の中で漏れる笑い声をおさえるのに必死。。。実際、iPodをかけながら読んでいたので、ひひっ(´,_ゝ`)プッと少しは声ももれていたかも、、(怪しい人(^-^;)ちょっとこのおちょくり具合、久々に野田秀樹の「いじわるぶり、悪童ぶり」が味わえて満足。

それ、そんなこと無邪気に言っちゃって良いの?と心配になりながら、よくぞ言ってくれた、と大いにほくそ笑む自分がそこにいた。

ちょっとおふざけのノリでつけたのかと思ったタイトルも作品内で大いに活かされていて、ニンマリ。

野田の斜にかまえた母親と天然ボケの中村、(まだ未知数だが)現代っ子のクールさで演じるニューヒロインによる舞台。
早く観た〜〜〜〜〜〜い。

劇場でおちょくり台詞に異常に反応している人がいたら、、、それが私です。

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カルミナ・ブラーナ(9/10)

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舞踏家・笠井 叡(あきら)と黒田育代率いるコンテンポラリーダンスカンパニーBATIKのコラボレーション舞台「カルミナ・ブラーナ」を吉祥寺シアターで観る。

「カルミナ・ブラーナ」というのは19世紀初頭にドイツ・バイエルン地方の修道院で発見された世俗的なー若者の恋愛沙汰、酒とセックスの話などー詩歌集のこと。それをもとに作曲されたクラシック楽曲が有名で、その劇的かつ荘厳なメロディーゆえ、様々なスポーツ、特に格闘技の登場シーンや重要なフットボールマッチの開始の場面などでBGMとして使われる事が多い。

でもって、今回はこの楽曲にあわせて、1時間強、BATIKの女性ダンサー10人と黒一点 笠井 叡が躍動感溢れるダンスで生きる喜びを女である苦渋と恵みを表現するというもの。

他のダンサーと全く同じコスチューム、シャーリングが入った薄手のタンクトップと旧ブルマー式のかぼちゃパンツーで、BATIKのダンサーが女の性を持て余しがちに生と葛藤する中、両性具有=天使のような軽やかさで笠井が彼らの群舞の中を飛び回る。

時にステージを離れ、最前列中央の席に陣取り、汗まみれで体現している女性ダンサーたちを叱咤激励する笠井。

彼の挑発に真っ向から挑む黒田。

女性と男性、そしてベテランと若手、、それぞれの今をぶつけあいながら現在の彼らを出し切った舞台の終盤には満場の拍手が温かく迎え入れていた。

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2010年9月 9日 (木)

タイタス・アンドロニカス(9/9)マチネ

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2009年ルーマニアで上演された際のポスター↓

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山の手事情社、凱旋公演第二弾「タイタス・アンドロニカス」をアサヒ・アートスクエアーで観る。

以前にも書いたと思うがバスbusフェチな私。
近所の停留所から浅草までバスに乗って行ったのだが、浅草での停留所が思いのほか劇場から離れていて、危うく開演に遅れそうになった。。。ふ〜〜〜〜。やっぱりバスはアカンかいな?


で、先週の「オイディプス王」同様、こちらもかなり完成度の高い日本における海外戯曲(今回はシェイクスピアの作品)上演となっていた。

前開と同じく、開演前に演出の安田氏から、観劇のヒントなるお話があり、`タイタス。。はそのあまりにも圧倒的な暴力シーンからシェイクスピア作品ながら敬遠されがちだが、実のところ人間というものの複雑さをとても分り易く描いた優れた戯曲である。。劇中では登場人物たちがストレートにそれぞれの感情を露呈し、その怒りを行動で表しているが、現代人はそれぞれのその時々の自分の感情を表すことに躊躇するようになってきたのではないか?それは人が持つ心と身体、そしてそれを囲む社会状況とのバランスが崩れてきている結果ではないか。。。’と話しておりました。

彼の優しい口調で、平易な言葉で話されるとついつい話に聞き入ってしまうというもの。。この前口上作戦、かなり有効です。

で、今回の「タイタス。。」、前開の「オイディプス王」と比べると、現代のシーンを介在させることなどはなくて、いたって素直に原作に沿っての上演がなされている。

山の手メソッドによる「型」の演技はあるものの、そちらも群舞のシーンは少なく、型による発声と立ち姿でメリハリをつけながら、あくまでも、やはり、ストーリーを伝えることに重きを置いている。

原作をそのまま上演すれば、優に3時間は越えようというこの芝居を、重要なエッセンスのみを厳選抽出し、漏れる事ない翻案を実現している。

その他の面では、日本式、着物の衣装、そして、ところどころに現代の小道具を効果的に使用しーパイ作りにジューサーの拡散する音、そして冷蔵庫からニセの(野菜の)生首をゴロンと取り出すーたところなど、必見のアイディアもチラホラ。

ちょっと気になり、帰宅後松岡和子訳の「タイタス・アンドロニカス」でチェックしてみたのだが、最後の最後の場面でエアロン(ムーアの黒人召使い、王女の情夫)が言う台詞には翻案ならではの独自の解釈も含まれていたようだ。
(ネタばれ注意 エアロンに白人社会と彼らの社会との大きな意識のギャップを語らせている。今日のヨーロッパ、中東間の争いもこのように根本的な違いにより、分りあえると過信することの方が不自然ということなのだろうか。)

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忘却曲線(9/8)マチネ

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台風の雨が滝のように流れている中、小竹向原の小劇場へ吉田小夏主宰、作・演出 青☆組の「忘却曲線」を観に行く。

三ヶ月前に同じ劇場で彼女の芝居を観たのだが、あの時は夏の始めで暑い日差しに驚いていた(その後に続く地獄の日々も知らずに)のを思い出した↓

恋女房達

今回も、女性作家らしい細やかな感情の表現で多くの観客の賛同を得ているようだ(巷の演劇サイトで高得点をたたき出している)。

****ネタばれ注意****

幼い日に父親を交通事故で亡くした4人の兄弟。その後、悲しみに沈み、父との思いでを日記に綴りながら暮らす母とその兄弟たちは肩を寄せあいながら家族の日々を過ごしていたのだが、ある日、母親がその若い(年長は10代)兄弟を家に残しこつ然と姿を消してしまうーどうも新しい男のところに走ったらしいー。

数年後、何事もなかったように日常を過ごす兄弟たち。蒸発した母親を理想化しながら、それぞれの心の傷をさらけ出すことなく必死に生きてきた兄弟に、置き去りにしてきた月日・時間がついに彼らに転機の必然の機会を与える。
それまで、美しい思いでの中で現実から目を背けてきた兄弟たち、今こそ真実に目を開くときが来たのだ。彼らはそれぞれにどのようにしてこの試練を乗り越えていくのだろうか。。
*******

今はいない母親がそれぞれの心の創造物として現れたり、母親の思い出のキーフレーズ「悲しいことがあったら、それを日記に書き留めなさい。そうすればその悲しみを忘れさせてくれるから。」という言葉が何度も繰り返されたりする中で、家族以外の人々の介入などもあり、それぞれに現実へと戻っていく。

あまりにも詩的で、彼らの思い出自体に現実味がなく、最後は全てが魔法のように好転してしまったので、ちょっとそのあたりに物足りなさも感じたりはしたのですが。


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ハーパー・リーガン(9/8)

Thumbnail

「ハーパー・リーガン」観てきました。

Simon Stephens, YOU ARE FUCKxxx GENIUSgood

マーティン・マクドナーも良い、エンダ・ウォルシュも良い、デイビッド・ヘアーもトム・ストッパードもディビッド・ハロワーも、、、でも今、私の中ではサイモン・スティーヴンスがダントツなのである。

限りなくストレートにガッツリと真実を語っている。

ここ10年の中で間違いなく、私のベスト10、いや5に入る芝居でした。
この2時間余の中に、今、芝居で観たいものの全てが入っていました。完全にやられた!!

このデジタル時代にアナログなメディアである芝居が何故必要なのか?
蓮舫流に言い換えれば、「芝居でなければダメなんですか?映画やテレビ、ネットで代用出来るのではないですか?」という問いに対する答えとして、こう答えたい。

`日々加速するこの世の不条理、人の複雑さをダイレクトに頭の中だけでなく、身を以て伝達するのに、最も適した、もしかしたら唯一それが有効となりうる方法であるから’、と。

例えば、「つい昨日までごくごく普通の人だと思っていたアパートの隣人が連続殺人犯!??驚きました。そうは見えませんでしたけど。。」という近隣住民の感想だとか「誰でもいいから殺したかった。。」という犯人の供述などがテレビの画面から毎日のように流れてくる今の世の中。混迷を続ける現代において、従来の想像の範疇を越えた事件、出来事が多発している今日において、なぜそんな事が起きてしまったのか?人はもしかしたら、その状況下において、一見突飛押しもない方向へ向かってしまうことがあるのかもしれない、といった様々の仮想状況を舞台の上で見せる事により、その過程を追うことにより、さらには自分と変わらない肉体を持った役者が目の前で演じることにより、観客はその状況を「こんな事も起きうるかもしれない。そんな時私だったらどう感じる?どうする?」と、本やCG映画の中の出来事よりもより身近な事として考える事が出来るかもしれないから。

****ネタばれ注意*****

で、今回の「ハーパー・リーガン」。

常日頃、私が感じているもやもやを一刀両断してくれた。

「この世の中には確実なことなんて何一つないんだ。」と。

犯罪者本人のみならず、その家族までにもその過ちからの再生の道を完全に拒むこの日本において、ある瞬間に標的にされてしまった者へ皆で一斉にバッシングを唱えるだけの今日のメディアにおいて、ちょっと待ってくれよ、世の中そんなに分り易くはないだろう?簡単な丸バツだけ、それも一回きりのジャッジしかチャンスが与えられないなんて、どこか変だよ、本当のところをその根っこから自らの頭で考え直してみようよ、と問いかけるこの芝居。
無駄な進歩により複雑化し、それによって時間に追いかけられる本末転倒な生活に浸りきり、疲弊してしまった現代人へ、根本のところで問いかける。
ー家族とは?愛とは??夫婦とは??さらには信じるということ、生き続けるということ、人と関わり合い生活していくというその社会の根源にあるもの、そして自分として生きていくということ。を。

舞台上、Britロックの音の高まりと一緒に(これ誰の曲?誰か教えて〜〜〜)暗がりに浮かび上がる主人公ハーパー・リーガン(小林聡美)。その後、彼女に迫り来るのっぺりした舞台一面を覆う壁。
迫ってきたかと思ったら、また後退し、舞台が明るくなってそれが今回唯一の舞台セットである四面の壁ボックスーそれぞれの面が場面ごとにあわせた簡易な背景となっていて、シンプルな居間であったり、屋外の階段状の橋のたもとの背景であったり、バーの壁面であったり、、と回転しながらその場面にあわせてその四面のセットが現れるーであることが分る。

主な登場人物はハーパーの日常で身近にいる人々ー娘サラ(美波)、夫セス(山崎一)、上司のバーンズ(大河内浩)、しばらく会っていない母アリソン(木野花)とハーパーがこの芝居で描かれる何日かで出会った人々数人。

第一部ではハーパーの変化のない日常に亀裂が入るところからー父危篤の知らせを聞いて上司に休暇願いを出すが、いとも簡単に拒否されるー始まり、そのひびが徐徐に大きな亀裂となって彼女をいつもとは違う行動へと向かわせるその過程が描かれる。

ハーパーという、ごくごく普通の家庭の主婦、少なくともこの段階ではそう見えている彼女がとる大胆な振る舞い、それもどんどん加速するその有様にちょっと面を食らうことにもなる。

が、第二幕に入り、彼女のそれらの行動を引き起こした影に何があったのか、長い間積み重なったその要因がぽろぽろと見え隠れしてくる。
まるで、いままで一幕でいったい何を観てきたのか?と問われているかのように、その隠れていたものによって様々な動機、行動に至った理由が見えてくる。
そこで、思い返してみると、
彼女と夫との会話、彼女と娘の間のやりとり、何気なく導入された近所の黒人の美少年との会話に、彼女の抱えていた心のわだかまり、言葉にならなかった思いなどがきちんと挟まれていたことに気がつく。

その一見チェーホフのような、偽りだらけの台詞の中に彼女の心の叫びーまた夫側からも娘側からもそれは同様にーがきちんと組み込まれていること。
でもって、その個人個人の悲痛な心の叫びの中に普遍の真実が埋め込まれている事。
それもとても繊細な表現で心に響く形で綴られているという事。

この台詞の一つひとつが宝のようであるということーそれゆえに立ち上がれないほどにこの翻に打ちのめされているのですが。

もちろんの事ながら、この素晴らしい戯曲をその魅力を損なうことなく上演した日本チーム(翻訳・演出・役者・制作etc.)の功績もここで大いに讃えたい。

英国留学の成果が十二分に発揮されていると思われる長塚演出、その演出には少しの奢りも感じられず、優れた戯曲へのリスペクトに溢れている。

制作スタッフから漏れ聞いたところによると、今回長塚氏はリハーサルの多くの時間をさいて、役者と共同で役づくりー翻からそれぞれの役を掘り起こすーに挑んだと言う。
みんなでテーブルを囲み、それぞれの役に関する解釈を丁寧に聞いて話し合ったのだという事だ。

その地道な作業は確実にステージで実をむすんでいた。
焦る事なく、確実に翻を伝える、その演出姿勢にも一つ何かを越えたような、彼自身の決意のほどが感じられた。

小林聡美を始め、それぞれの役者が迷いなく演技をしていた。美波に関しては彼女の今までの中でもベストの舞台と言えるかもしれない。

素晴らしい舞台をありがとう、と、またこの機会に言わせてもらいたい。

********

舞台終盤、夫がハーパーの留守中に行方不明の彼女を思い、ベッドの彼女の側で寝ながら彼女への思いを募らせたと語っていた箇所があったが、その`匂い’`空気’で夫婦の関係を描く。

そんな繊細な表現。

かと思うと、大声でイスラエル寄りの大国世論を批判する。

そんな間正直さ。

う〜〜〜〜〜〜〜ん、やっぱり名作だ!


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2010年9月 8日 (水)

シダの群れ(9/7)

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シアターコクーンで岩松了作・演出、阿部サダヲ、風間杜夫、江口洋介、伊藤蘭、小出恵介、、、などなどという豪華絢爛なキャストによる任侠(っぽい)劇「シダの群れ」を観る。

岩松調の「間」としりきれたような「。。。。」でキャラクター同士の会話が交わされ続ける、あるヤクザの組の跡目争いが一つの話の核となったお芝居。

とは言え、前述で任侠(っぽい)と書いたように、任侠の世界を描きながら、その任侠の裏社会の独特の世界を描くと言うよりも、たまたまそのヤクザ組に属している人たちのそのせまい世界の中でのプライドの競り合い、狭い世界独特のイジメとどこの世界にもある男と女の割り切れなさ、日陰の女の長年の復讐
というようなものを描いている。

まさにその日陰の女であり、その恨み節の主でもある伊藤蘭演ずるところの姉御が良い。
もしかすると、彼女のみがその役どころを完全に把握しながら演じられていたのかもしれない。あと、ドラ息子の嫁 リン役の江口のりこも良かった。

と言うのも、その回りのヤクザな男たち、下っ端である種一番まっとうな感覚の持ち主である森本(阿部)、病床の親分を助けるため組を仕切っている水野(風間)、妾の子であるがゆえに跡目につけず損な役回りを買って出ているタカヒロ(江口)などには、どうもその演技に今ひとつ「自分はなぜこういった行動をとるのか?」という躊躇が感じられたからだ。
本妻の息子でやりたい放題のツヨシ(小出)に至っては、どうもその輪の中にも絡んでいなかったように思われた。

奇しくも、上演前の雑誌インタビューで役者たちが口々に「難解な戯曲で、今ひとつまだ理解していないんです」と語っていたけど、、結局、その後どこに辿り着いたのか???

岩松戯曲の「間」の中にそれぞれは無言の答えを見つけたのかどうか???今ひとつ、そこが危ぶまれる。

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黒姫の子グマ(9/4-6)

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週末にかけて、信州、黒姫の森へ。

友人宅に泊めてもらい、昼間は近くの森ーアファンの森アファンの森
を散策する。

地元の人たち曰く、「例年ならばもっと涼しくなっているんですけどね〜〜〜(すまなそうに)」という事であったが、それでも東京の熱帯と比べればかなり快適。
夕方以降はちょっと肌寒いくらいの風も感じられ、気がついたら久しぶりにノーエアコンで過ごしていた。

森のエキスパートは今夏の異常な暑さもさることながら、今後の気候ーそれこそこの冬どんな異常気象に見舞われるかはまだ誰も分らない事なのでーを危惧していた。。それこそ、考えれば、その後に続く未来気象も誰にも予想はつかないわけで。。。来年、再来年、と猛暑は激化するかもしれないし、地球危うしは鈍感な人間たちをもが感知出来るレベルまで来ていると言う事!!

で、このリラックマちゃんのイラストですが、今回、特別ディナーとして子グマのシチューなるものを振舞われ、大いにエンジョイした(本当に美味しかったdeliciouswine)ので、ちょっと複雑ではありますが子グマ代表ということでリラックマを載っけてみました。

食べる側がいつしか食べられる側に。。

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dancetoday2010(9/3)

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彩の国さいたま芸術劇場でお得なコンテンポラリーダンス2本だてプログラム「dancetoday2010」を観る。

KENTARO!!
まずは1本目、ヒップホップダンサーKENTARO!!による新作『「」の中』。

チェックのシャツにネイビーパンツ、二卵性の双子のようないでたちでKENTARO!!(♂)と今回のパート康本雅子(♀)が登場。
時にシンクロしながら、そして、時に挑発しあいながら、ソロも交えてKENTARO!!振り付けの元気ダンスを展開してくれた。

KENTARO!!の中にある、もう一人の自分、それがそうありたいと願う姿なのか、実は内包しているもう一人の自分なのか、一見そっくりな二人が同じ振り付けを剛と柔という感触の違ったテイストで踊り分ける。男と女と言ってしまえばそれだけ、どいう気もするが、それだけではない、個と個の違い、それぞれの特性が見て取れて、とても面白かった。

先日、吾妻橋ダンスクロッシングでKENTARO!!を観たときの、印象が強烈で、彼は今ダントツ注目のダンサー。ちょっと考え過ぎ、追いつめ過ぎでアーティーな傾向にあったコンテンポラリーダンスを爽やかな風で一蹴してくれた。身体を動かして楽しもうぜ!だって身体が動いちゃうんだからさ!みたいな。
でもって、その楽しさ、ダンスの根本での高揚感が伝わってきて、やっぱり良い!good
吾妻橋ダンスクロッシング


で、2本目はヨーロッパ、ベルギーなどの大御所カンパニー(ドゥクフレ、シェルカウイ、アラン・プラテルなどの振り付け家からラブコールを受けるコンテンポラリーダンス界のミューズ)で活躍する伊藤郁女(かおり)のオリジナル作品「Island of No memories」。同作品で昨年フランスでの振り付けコンクールで1位を受賞している。
オリジナル舞台でも共演しているチェコ人ダンサーのミルカ・プロケソバと今回の埼玉バージョン用にキャスティングしたNYで活躍する世界的ダンサー山崎広太との共演で埼玉で日本初披露となった。

オープニング、舞台一面にかかっていた幕が瞬時に取り払われ、白いシンプルなドレスに身を包んだ伊藤と黒いドレスのミルカが対局方面から駆け寄りあい、ぶつかりあう。

そんな二人の女の対立の間で長身の山崎がこの三角関係をひょうひょうと手玉にとる。
バラエティーに富んだクラシック音楽が場面に色をそえる中、パッションに溢れた二人の女がそれぞれの感情をさらけだし、ぶつけあう。
ヨーロッパ人がとても好きそうな、大人の恋愛ストーリーが繰り広げられていた。

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2010年9月 7日 (火)

オイディプス王(9/3)マチネ

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山の手事情社、ヨーロッパ公演の凱旋公演1本目「オイディプス王」を今人が集う街、浅草アサヒアートスクエアで観る。↓ヨーロッパ公演のポスター
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今年5〜6月にルーマニア・ハンガリーで海外公演を行ったというこのプログラム、もとは02年に東京で「オイディプス@tokyo」という題名で上演したものがベースとなっている。

親殺し、母子婚儀、それに付随する多くの殺戮と死。。と次々と起こる悲劇、神に告げられた運命に翻弄されるだけという人間の愚かさを描いたギリシア悲劇の話の中に、日々安泰に平和に暮らす今のtokyoの女の子たちの姿をフラッシュバックさせ、瞬時に古代ギリシャと現代東京を近づける。大いなる対比画図により、逆説的に人間の普遍性を描く事に成功している。

山の手事情社と言えば、、という劇団の代名詞ともなっている山の手メソッドという俳優養成術により鍛錬を重ねた俳優たちが、その特徴である不自然な立ち姿から発せられる朗読調の台詞回し、独特な動きー柔道の受け身さながら俳優たちがバタンバタンとフリ投げられていくーで演じていくその舞台に関して、以前同劇団の公演を観た際に違和感があったので、少なからず危惧をしていたのだが、今回に関してはこの方法が非常にフィットしていたように感じた。

****山の手事情社の俳優養成システム=〈山の手メソッド〉とその特徴

観客の生理的体験に奉仕すべき肉体として、俳優の実力養成に力を入れており、そのオリジナルの養成システムは〈山の手メソッド〉と呼ばれる。同メソッドの構成は、発想法および観察術の開発、身体感覚および発声法の鍛練が大きな柱である。
「俳優は重心をずらして立つ」「イメージ上のせまい通路を動く」「せりふは舞台上の誰かに語り、その際は語る人も受ける人も止まる」「それ以外の人はスローモーションで動く」など。このような<型>は、西洋リアリズム演劇にはないものであり、むしろ不自然な身体を舞台化することで深みを演出する日本の伝統演劇を踏襲するものである********

2010年のここ日本でギリシャ悲劇を上演する際に、従来のリアリズム手法での上演と今回の山の手方式の記号的「型」手法とではどちらが有効なのか?

何よりもまず、この劇団で、現状況で「オイディプス王」の普遍性を伝える手段としてどちらが有効なのか??

海外戯曲を日本で上演する際に誰でもがぶち当たる壁ー目の前の観客へこの話は届くのだろうか?ーと対峙し、熟慮を重ねた上で、多くの試行錯誤の末に出た答えが今回の上演方法だったのだろうと思う。

ソフォクレスが紀元前に書いたこの素晴らしい戯曲の真意を観客へより正確に伝える、そこが第一前提であろう、と。この目標を掲げた際に、古代ギリシャの王になりすますことよりも、まずは書かれた言葉を最善の方法で伝える。紛らわしさは一切排除し、重要なエッセンスのみを抽出し、強弱をつけながら明確に見せ、この戯曲の優れた構造、ストーリーを現代の観客に直接届ける。これが山の手事情社のミッションであったのだと思う。

リアリズム手法で上演した優れた「オイディプス王」芝居の例としては、以前、蜷川が演出し、野村萬斎が主演した舞台「オイディプス王」をギリシャの古代屋外劇場で観たことがある。しかし、逆に言えば、あれほどの条件でなければー狂言師という運命を背負った若き伝統芸能界のプリンス萬斎がギリシャの優秀な王を演じ、そこに立つだけでどんな、どこの国の劇世界をも表現してしまう麻美れいが王妃を演じ、神々が天空から見守っているかのようなギリシャのオリンポスの丘に建つ古代劇場の裸の石舞台で演じられ、それらの諸条件を全て把握した蜷川幸雄が演出する、というとてつもない条件でもない限り、ー絶対的にポジティブな意味においてー今回の公演においてはこの手法が早道であり有効であったという事だと思う。

つまりは今の上演形態としては、最も適した方法を選択し、その方法論を熟知した劇団員たちにより演じられたということ。

ギリシャ悲劇の教義的レクチャー芝居として`お勉強’になってしまう舞台、または眠っている人がそこここに見られる`すっかり古くなってしまった’上演側の自己満足的な舞台になりがちな私たちにはあまり身近に感じられないギリシャ悲劇の舞台が、ここでは十分に私たちが今観たい芝居として存在していた。

幕開け前に演出家の安田氏がちょっとした観劇の手助けとして、大まかなあらすじ、そしてこうやって観てみたら現在と繋がり易いのでは?というヒントを観客に話しかけていたのも、観劇の効果を上げるのに大いに役立っていたように思う。

そのちょっとした事前の問題提起により、様々なこの芝居の問いかけを見つけ易くしてくれていたことは確かで、神の言葉を鵜呑みにし、それに翻弄され身を滅ぼした古代の人々と日々垂れ流される根拠も曖昧な`電子の神の声=テレビニュースやネットの溢れる情報’にいとも簡単に踊らされる現代人のかわらぬ人間性にどれほどの違いがあるのだろうか?
今日のニュースー子ども・親の虐待、過食症に拒食症、嫉妬や恨みによる怨恨殺人らが古代からず〜〜〜っと続く「何を信じるのか?」という真実を見極める目という人間の普遍の課題への追求へと繋がることを分り易く、かつ短時間で(90分)で示してくれていた。


ps
従来、出来る事ならリアリズムな演技形態での舞台がお好みであることは変わらないのですが。。不自然な演技にも利は十分にあるーまあ、古くは伝統芸能の型から最先端のチェルフィッチュの舞台にもそれが見られると言う事が実証している訳ですがーという事を再確認する良い機会にもなりました。

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2010年9月 4日 (土)

ハーパー・リーガンーー予告編

機会あって、パルコ劇場上演、長塚圭史演出、英国人サイモン・スティーヴンス作、小林聡美主演「ハーパー・リーガン」の直前稽古を垣間みる(前半のみ)事が出来た。

これ、かなり期待できます!おススメ。

まずは、何と言ってもサイモン・スティーヴンスの翻が素晴らしい。現代のチェーホフ劇とも言える。
イギリス人作家らしく、言いたい事ー特に時事ネタ・政治批判などーを包み隠さず、驚くほどにストレートに語らせている箇所があるかと思えば、一方で物事の確信に関してはチェーホフ的遠近法技法で一見遠回しな表現で、それでいて一番効果的に観客に届くように台詞のそこここに絶妙に潜ませている。

珠玉の名台詞のてんこ盛りです。

でもって、その繊細な戯曲を長塚がクールに、そしてとても丁寧に、それこそ繊細に仕立て上げている。
これをうわべだけでやられては苦痛な外国劇であろうが、戯曲に対してのリスペクとがあるので、きちんと読み込まれ、演出されている。
(翻訳も良いのでしょう)

で、主役のハーパーを演じる小林聡美がハマり役。

来週に全編観劇する予定なので、正式レビューはその後に。

でも、見逃さないために。。。予告でした。
パルコHP

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2010年9月 3日 (金)

桜の園(9/2)

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あうるすぽっとチェーホフ・フェスティバルの1本、流山児★事務所の「桜の園」を観る。

翻訳・シナリオを木内宏昌が担当、演出が千葉哲也、役者に安奈淳(ラネーフスカヤ)、池下重大(ロパーヒン)、塩野谷正幸(フィールス)そしてガーエフに流山児祥が満を持しての登場とあいなった。他にも、(流山児氏の人徳からか)バラエティに富んだ役者ー町田マリー、下総源太郎、関谷春子。。。etc.が集まり、にぎやかな顔ぶれとなった。

今回のチェーホフ・フェスの趣旨が`多彩なアプローチによって表現されるチェーホフの世界’ということで、今回も開幕前の会見では演出の千葉氏が「ストレートチェーホフ劇です」と語っていたが、実際にはかなりの部分で独自の解釈が加えられた、オリジナルな「桜の園」となっていた。

木内氏の肩書きが単に翻訳担当ではなくて、台本執筆と記されているところでもその意図がくみとれるだろう。

全体的な色調としては、流山児氏がチラシでも公言しているように「熱いエネルギーを持った桜の園impact」となっている。

没落貴族の能天気な可笑しさ、そしてそれがまかり通る世の中の不条理を従来の`ダメダメな人々が彼らの実態を把握せず、破滅へと進んでいく’なんとも愚かな人間の性をため息まじりに眺め、それだからこそこれからは`少し(だけでもよいから)’は学んでいこう、というちょっとハズカシさで苦笑いがでるような自省の劇ではなく、それぞれのキャラクターがそれこそエネルギー全開で彼らのダメぶりを開き直り気味に披露しあっていた。

****ネタばれ注意*****

キャラクター設定にもかなりオリジナルな解釈が取り入れられ、

男優が演じるべき男役ーヤーシャ(ラネーフスカヤとともにフランスから戻ってきた若い召使い・ロシアをあか抜けない未開の地と嫌っている)、エピホードフ(執事、誠実だがなんとも全てに間が悪く、うだつの上がらない男)を女優陣が演じ(朝比奈慶、町田マリー)、それゆえに屋敷のミーハー娘、小間使いのドゥニャーシャ(坂井香奈美)をめぐる3人の恋のかけひきが必然的にレズビアン関係として描かれる。

ラネーフスカヤに輪をかけて、現実に疎い前時代の忘れ形見として描かれる事の多い、ガーエフだが、ここでは身の丈高く、がたいが立派な流山児が演じることにより、その頑固さゆえ世間からずれてはいるものの、まだまだ枯れる事の無い、誰よりも元気を持て余している老人として描かれている。

そして、そのガーエフよりもさらに前時代、天国への距離が近づいている老僕フィールスをこのチームの看板である塩野谷が演じることにより、他のどの「桜の園」よりも、この老人フィールスにスポットライトが当たっている、影の重要なフィクサーというような要の役所を担っている。

また、従来ではインテリの青二才としてその頭でっかちな理想論者として不完全な人間として描かれる トロフィーモフはかなりに実践的な未来をしょて立つ切れ者として終始弱みを見せる事は無い。


また、終盤、この劇の謎の一つであるロパーヒンとワーニャの恋の結末を見せる場面。
今回、わざわざロパーヒンとワーニャのキス&熱い抱擁シーンを入れ、愛し合っている二人だが、別れざるをえなかった。。。ということで示している。

。。。。。が、これらの解釈にどうしても疑問を抱かずにはいられない、というのが私見です。

まず、最後の二人が離ればなれになる理由、、、ここまで、明確に二人は愛し合っていた、求めあっていた、、と見せることは人物解釈の先取りでは無いか?
かえって、そうしてしまうことで、二人の関係の整合性が成り立たなくなってしまう、それまで見せてきた二人のやりとりさえ意味を無くしてしまうのではないか?と言う疑問。

あと、どうも微妙にキャスティングによる役の力関係の調整が生じたため、従来の劇作中の人間関係ではないバランスが出来上がってしまったのではないか?
====実際、今回の「桜の園」はラネーフスカヤとフィールスがそれに続く世代を憂う劇、となっていた。


劇の終盤、ロパーヒンが桜の園の競売で競り落としたと告白し、家族らの眼前で自重気味にその心境を語るシーンでは、80〜90年代の一時期バブル経済に浮かれる中、ヨーロッパの美術マーケットで破格な値段で美術品を競り落とした、あの成り上がりと呼ばれた日本を思い出し、そう言った意味では、2010年にここ日本で上演する「桜の園」がチェーホフ生前時の上演とは異なって然るべきではあるとは思う。また、そうあるべきだとも思うのだが、どうにもその現代化に関して、様々な要素が混ざりあい、中途半端に終わってしまったように思う。

なぜ、このように新解釈をするのか?なぜそれをする必要が今あるのか???
古典、特に確固たる評判を既に勝ち得ている古典の上演は手強いです。

それだから、チャレンジする意味もある、というものなのですが。

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2010年9月 1日 (水)

REVOLUCION(8/31)

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初台オペラシティ コンサートホールにて世界トップクラスのタップダンサー、アメリカンのダンスマガジンで「今観るべきダンサー25人!」の一人に選ばれた、熊谷和徳と東京フィルハーモニー交響楽団とのコラボレーションステージ「REVOLUCION」を観る。↓内容はこちらも参照。

JT紹介記事

フル装備の東京フィルとのコラボということで、クラシック音楽演奏用のホールを使用。

オーケストラ&指揮者がスタンバイする舞台の前方にタップダンス用の板を置き、他に舞台セットは無く、まさに身一つでタップサイドからフルオーケストラに挑むという趣向。

リンクに貼った紹介記事内でも紹介しているのだが、今回指揮を担当する中川賢一が「タップは、ダンスといいながら打楽器だと思うんですよ。だから、ミュージシャンなんです。」と言い切るように、驚くほどに違和感無く、タップとオーケストラ楽団の音がセッションをしていた。

序盤、お互いに様子を探るかのように、それぞれのパフォーマンスを少しずつ見せあい、ラヴェル、バッハのチェンバロ協奏曲BWV1052らのクラシック演奏とタップのステップのリズムが少しずつ重なりあっていく、中盤、バッハのマタイ受難曲より、コルトレーンのNaimaでそれぞれが本領を前面に押し出し、それぞれの意義を主張するところで第一部が終わり。

休憩を挟んでの第二部では、お互いを信頼しあった関係から安定感のあるステージングでカタルーニャ民謡 鳥の歌、デューク・エリントンのAfrican Flower とこなし、最後のショスタコーヴィチの「革命」で昇華する。

一体どんなパフォーマンスになるのか、世界初のコラボ企画なので不安な面持ちの観客にまずはそのコラボがどんなものなのか、短時間で次々と披露し、観客が余裕をもって楽しめる状態になったところを見計らって、様々なヴァリエーションで、こんな事も出来るんだ!そしてこんな合わせ方もあるぞ!とその可能性を見せつける。

緻密に構成されたプログラムで、観客は安心してパフォーマンスに耳と目を傾ける事に集中出来るように考えられている。

タップの妙技に加え、イケメンのヴィジュアルでも大いに楽しませてくれた熊谷さん、さすがに世界で皆が認めるだけの光を放っておりました。

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