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2010年8月

2010年8月31日 (火)

オーガニックフレンチ

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というわけで、お誕生日ディナーということで、南池袋のオーガニックフレンチレストラン、RACINES ~Boulangelie Bistroへ行ってきました。

ラシーヌ フレンチレストラン

お店の看板のブタちゃんが示すように、`ブタが鼻で地面を掘って餌を捜す様子’をRACINESというらしいです。

以前は駅直結のデパートとサンシャイン通りくらいしか行かなかったけど、池袋も駅の回りの喧噪からちょっと離れると、ゆっくりできるお店がある事を発見しつつある今日このごろ。

このレストランも広々としていて、ビストロというだけあってお値段も手頃で、カジュアルに楽しめるところでおススメです(7月に南フランスへ行ってから、我が家ではいまだにフレンチーそれも田舎ーブームが続行中)。

池袋と雑司ヶ谷の間ぐらい、シアターグリーン界隈は立ち飲み居酒屋からイタリアン、フレンチなどなど良さげなお店があるので探索してみるのも面白いかも。

Boulangelie(パン屋)も併設されているので、パンを買って帰っても良しbread


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御年XX歳(8/28)

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8月28日、また一つ年を重ねたのですが、丁度その日が贔屓にしている東京ボブのライブの日であった為、我が家のボブグルKYと私の幼少時の師である兄(彼はビートルズからどっぷり音楽の道にはまってますが)、そしてKYの同僚とライブへと繰り出しました。

今回は特別にアコースティックバージョンのライブということで、ギター&ウッドベースの少人数編成によるライブ。

せっかく日も重なったので、という事で、ステージから「ハッピーバースデー」の歌のプレゼントも頂き、大満足!!
Thank you!!
ポルカドット

↑池袋西口へお越しの際は、常にディランが流れるバー、ポルカドットへどうぞ。おススメです。

(で、添付の写真ですが、人生XX年にして初めて兄からもらった誕生日プレゼント。ひつじ好きにあわせて双子のひつじちゃんがついたクッキーでした。。お気遣い頂き、これまたThank you!!)

(余談)実は同じ日、時間に誕生日を迎えた男がおりまして、そいつは私の双子の片割れでして、、小さい頃はこの写真にあるように手押しのでっかい乳母車に二人して入れられていたようです(幼少時の写真より)。兄から見たら、こんな感じだったのでしょう。

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2010年8月30日 (月)

Kimidori(8/27)

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舞台映像分野での第一人者、奥秀太朗による 作・演出作品の第三弾「Kimidori」を渋谷シアターコクーンで観る。

第一作目「黒猫」を新国立劇場、小劇場ピットにて上演した奥。今度はいきなりのシアターコクーン進出という事で、小劇場でいつかコクーンをと目指している作/演出家には驚きの劇場選びであろう。

これも彼の舞台映像分野でのこれまでの実績をおおいにかわれての事なのか?(野田マップ、宝塚、大人計画などなどで舞台映像を手がける)

さすがに前述のカンパニーでの実経験があるだけに、映像演出を前面に押し出し、コクーンの大舞台に負けないだけの見せ方は出来ていた。。。。。が、十八番であるそちらの映像に関しては全く問題は無いものの、肝心要の翻と演出が、なんともお粗末。

いっその事、映像をあえて封印してそちらの経験を積んだ方が、最終的には早道なのでは???と思えてくる。

観念的な思い込みストーリーにリアリティーは無く、立派な映像スクリーンの前で役者が棒立ちで台詞を読むだけのシーンの連続には演出したのか???という疑問が湧く。すんごい舞台効果をみせるためのリーディング公演だろう、これじゃあ。

(余談になるが、先日、コクーンの長、蜷川(大家)さんが高齢者劇団の人々へ演出する現場を目撃する機会を得たのだが、まさにマジック。彼の細かい指示ーあと数センチ左へ立って台詞を言って。タイミングをちょっとだけ早めてしゃべり出してみて。とか イントネーションを微妙に直したりーの前と後とではこれほどまでに!と驚くほど舞台に変化がうまれて、どんどん良くなっていっていた。(ちょっとロボット演劇の平田氏の演出論をも思い出したのですが)それもただ指示するのみでは無くて、どうしてそうするのか、を可能な限り役者に説明していた。。その的確さに、今更ながらに(恐れ多いが)目を丸くするしかなかった。。。まあ、それこそいきなり御大と比べるのも何ですが、それらの効果を知っているのが演出家という人たちなんだと思ったのです。)

時々発せられる無意味に刺激の強いエピソードと台詞ー「北朝鮮にミサイルを打ち込んでもらいたい」、学校の先生の性的暴行により性に関して倒錯してしまった少年 etc.ーや非現実的な設定ー家族でもないストーカー男が重病人の病室にい続けるなんて出来ないでしょ?ーにも閉口。

「僕は死にましぇ〜〜〜ん」的な恋愛物語にどっちらけ、なのでありました。
純粋な愛の話というよりは、病的な男の妄想話、それもどうでも良い程度のという、、それだけ。

ストーカーの話にせよ、米軍批判の話にせよ、幼児暴行の話にせよ、、、どっかでそれらを結びつけてくれないと。。。つまるところリアリティーが生まれないのでした。


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2010年8月27日 (金)

イン・ザ・ハイツ(8/26)

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★★★(0.5)=3.5★

東京国際フォーラムへブロードウェイミュージカル「イン・ザ・ハイツ」を観に行く。

このブログをお読みいただいている皆様はお気づきだと思いますが、なかなか来日ミュージカルへ足を運ばない私が、見て見ようかな、と思った理由の一つとして、ーすみまんせんーあまり聞いた事のないマイナーな演目だったから。
誰でもが耳にした事のある有名演目のリバイバルでもなく、あまり目立ったスターさんも目にしなかったというのがかえってひっかかった。

で、08年のトニー賞を総なめにしたというだけはあって、なかなかに見応えのある、でもって良い意味で従来のミュージカルを裏切る、新鮮な作品で楽しませてもらった。

題名の「イン・ザ・ハイツ」というのは、NY通にはすぐにピンとくるのでしょうが、私はパンフレットを読んで知った組で、ニューヨーク市マンハッタン地区の北部にあるヒスパニック系の移民が多く住むワシントン・ハイツで起きた出来事という事らしい。

六本木のラテンバーなどで、毎週末セクシーダンスに興ずるラテン系お姉様たちならいざ知らず、どうも日本人には馴染みの無い人たちのお話だけに、日常で彼らと接しているアメリカ人の観客よりはどうも乗れなかった、というのが今ひとつ盛り上がっていなかった理由であろう。

人種のるつぼのニューヨークっこには、ヒスパニック系の文化も、ラテン音楽もー実際、エンタメ界でもジェニファー・ロペスやエヴァ・ロンゴリアなどなど、お茶の間でもとっても人気があるものねー普通にそれとして受け止められるんだろうけど、さらに黒人とヒスパニックの確執とかも、あるある。。って分ってもらえるんだろうけど、やっぱり、日本人にはそれほど響いてこない。仕方ないのですが。

ミュージカル演目としては、もちろんダンスも歌もー特にラップ調のミュージカルなんて最高!ー良かったのですが、ウ〜〜〜〜〜ン、これが好きな人はブロードウェイまで観に行くから東京では観なくても良いのかも。。かといって、一般ウケするかというと??と言ったところです。

最後に言っておきますが、ぜ〜〜〜〜んぜん悪くなかったです、演目としては。

個人的にはラップミュージカル(英語)、もっとどんどんやって欲しいくらいです。


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イノセント・ピープル(8/25)

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★★★★

劇団昴若手層による集団なのか、劇団本公演外の自主公演という集まりなのか、、定かではないが、劇団昴ザ・サード・ステージによる舞台、第29回公演「イノセント・ピープル」をいつもの西口池袋ではなく南池袋の劇場シアターグリーンで観る。

これがなかなかに骨太にして、柔軟な広がりも持ち合わせた良質の翻&舞台だった。

原爆開発に関わった5人のアメリカ人。関わり方はそれぞれに違えども、その実現に手を貸し、その原爆装置実験の場ーロスアラモスーにも居合わせた前途有望なエリートアメリカ人科学者たち。原爆実験の直前1945年6月から今年2010年8月までの期間をとおして、彼らとその家族が通った足跡、出発点は同じながらそれぞれに歩んだあまりにも違う日々を8回の象徴的な出来事(日)に分けて紹介していくという形をとっている。

その紹介の仕方は年代順では無く、微妙に年を前後して紹介されていくのだが、劇前半は、主に彼らが原爆開発のため共同生活をしたロスアラモスの家の中で5人の再会時という設定で展開していく。

原爆開発、終戦後、それぞれの道を歩み始めた5人。
原爆の研究所に残り研究を続ける者、そこで父の仕事に関心を持ちながら育った兄弟、科学者としてのエリートコースを自ら外れ、数学教師として平凡に暮らす者、海兵隊へ入り昇進を続ける者、民間巨大企業アメ車の代名詞GMの社員となった者、医者として働く者、、、そして彼らが新たに築いたファミリー(妻)達。

原爆の投下国と言う事で、意識するようになった日本という国。
彼らの言葉の端々からは、まったく未知なる未開の国、日本への偏見、侮蔑の言葉が次々と飛び出してくる。お芝居とは言え、日本人としては耳が痛くなるような表現が聞こえてくるわけだが、何もイタズラに刺激を強めているわけでもなく、やはり、これが当時のアメリカの姿だったのだろう、と大いに納得出来る。
かえって、当時のアメリカ人を描くのであれば必要不可欠な台詞であるだろう、と思う。

年代記の後半に入ると、主人公の研究者である父を持った娘が原爆の保有意義自体に疑問を抱き、日本に興味を持ち、日本文化を学ぶ中で出会った日本人平和活動家と結婚するという、家族にとっては晴天の霹靂とも言える事件が起き、その後暫く、家族断絶状態になったりもする。

戦後史が語るように、劇の中でも日米の距離が徐徐に縮まっていき、戦前にはその場所さえおぼつかなかった日本という国の情報、影響ー例えばGMの社員である一人は日本車の台頭に悩まされるーがアメリカの片田舎の街にまで否応無しに届いてくるようになる。

それでも、やはり日本は極東の島国、突然日本人が家族の一員となったファミリー以外にとっては根本的には視界の外の国である事には変わりはない。ー遠く離れたアメリカでは自分たちの人生の出発点を飾った原爆開発成功の結果が日本と大きく関わっているという事へはなかなか考えが及ばないようなのであるー

終盤になって、それぞれ心に抱き続けていたシミのようなものが表に現れてきたり、また眼を背け続けてきた現実を若い世代に諭されてドギマギしたり、、と人生の終盤における清算作業のような出来事が起きてきて、否応無しに自分と向き合わざるを得ないような状況へと置かれる。その場においても、同じ世代の同僚とは言え、それぞれに感じるところ、理解するところの差異が描かれる。


************************************

作者の畑澤聖悟(劇団「渡辺源四郎商店」主宰)がインタビューで原爆投下を認識していないアメリカ人、罪の意識の無いアメリカ人を、アメリカ人側の視線で描いてみた。
と語っていたが、実際の舞台は、その段階を越えてさらに先まで到達していたように思った。

最初は、作者の言うように、知識層ながらなんて無知な人々なんだろう、、この集団的「自分たちが世界警察」妄想が世界の大半の悲劇=戦争を生んでいるのに。。。なんて思っていたのだが、劇の中盤、娘の婿である日本人男性が彼女の父親が開いたパーティーに顔を出すあたりーちなみに彼は無表情な東洋人という役柄、アメリカ人から見た日本人という演出でマスクを被り終始無言で存在するー、そして最後の広島での場面(嫁いだ娘の葬儀に出席するために父が初めて広島を訪れる。そこで被爆した日本人に原爆投下に関して謝罪をしてほしい、とせがまれ、言葉につまる)で、これはどちらの国が正しいとか間違っているとか、ましては正義とは?と追求することを目指した芝居では無い、と受け止められるようになっていった。

国と国との戦争ではあるものの、結局は殺しあいであるのと同時にまた戦う人々、双方に歴史があり家族があり、過ちも犯し、十二分に無知でもありえるという、「人」の事を描いた芝居なんだなと。

ちょっとアングルを変えて、アメリカ視線で描く事により、気づかされる事が沢山ある。


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悪役志願(8/25)マチネ

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★★

「座・高円寺」にて黒色綺譚カナリア派(劇団)の「悪役志願」を観る。

赤澤ムック(女優・モデルもしているだけあって、魅力的な劇団主宰者。前作の作・演出を手がける)率いる黒色綺譚カナリア派の芝居はこれが初めて。第12回公演ということで03年から定期的にオリジナル舞台を上演しているらしい。

チラシで大写しになっている今回のゲスト役者、市川勇(東京ヴォードヴィルショー所属)に大いにひかれて観劇してみる事にしたのだが、アングラ・昭和・日陰女の不幸などなどのイメージだけが先行して、肝心の翻に観客を2時間の間納得させ続けるだけの説得力が無かった。

最後のオチ ーロリータ趣味の高級官僚と変わり身早くちゃっかりその玉の輿に便乗しちゃうロリータ嬢ーという件だけが、唯一輝きを放っていたがそれに行き着くまでの劇の大部分があまりにもどうでも良くて、せっかくの市川勇のアクの強い個性すらも台無しというもの。

せっかく彼をゲスト看板として呼んでおきながら、中心となる役がコロコロと変わる(どの人にもそれぞれに見せ場をという事なのか)ので、劇の中心を貫く一貫性が無く、話自体が横道にそれっぱなしなので、観れば観るほどにだんだん舞台から興味が離れていくようになってしまった。
でもって、それぞれの見せ場で、それぞれの役者がこれでもか!っと力んでくれるものだから、そのスタンドプレイにもひいてしまった。。。

同劇団のセールスポイントでもあるらしい、舞台美術もそれはそれで確かに良く出来ていたのだが、まずはやっぱりストーリーだよね。

両親の仇を討つ押さない兄弟の復讐劇なのか、昭和の性風俗嬢たちの悲哀物語なのか、謎の高級官僚の心理劇なのか、。。。多くの魅力的と成りうるエピソードを盛り込み過ぎて、その結果、それぞれに潰しあってしまい、全体として「それで一体何を見せたかったのか??」というごった煮舞台という結果に。

残念。

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2010年8月25日 (水)

叔母との旅(8/24)

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★★★★(0.5)=4.5★

青山円形劇場でSISカンパニー主催の男4人芝居「叔母との旅」を観る。

一言で言ってしまえば、この芝居、まさに私の「My cup of tea(お気に入り)」!!

話はあくまでもイギリスらしさ全開、役者4人もそれぞれに弱点無し、想像力をかきたてる最小限の舞台装置もすっきりして円形劇場にぴったり、と2時間瞬きをするのも惜しいほどに充実した時間を過ごさせてもらいました。

英国では名女優マギー・スミスの叔母で映画化もされた事がある(日本未公開)という原作。

イギリス人にありがちなシャイ中年男、主人公ヘンリーが自分の母親の葬儀で久しぶりに再会した叔母のオーガスタにその再会直後から振り回され、世界旅行につきあわされながら、徐徐に長いようで短い人生を後悔少なく生きる秘訣「Meaning of Life -人生の意味」を自らの眼で再発見していくというお話。

生涯独身であった叔母は、80歳を目前にしながら、その歳を感じさせるどころか彼女の子どもと言っても良い(notesign02)50半ばのヘンリーの方が年寄りじみた男に見えるほど。魅力に溢れ、恋にも奔放、実際に若い彼氏から命がけの思いを寄せられるーそれも彼女とのセックスが忘れられないと絶賛されるーモテモテおばあちゃんで自由な発想の持ち主。

イギリス人の女の人の中には結構こういうステキな叔母さまがいるように感じる。女王陛下からして、結構サバサバしているし、アイアン冷血漢サッチャーは問題外として。。。会社の上層部にも政治家にも女性はわんさかいるし(それも日本のどっかの女性政治家のようにミニスカートはいて、杖ついて、媚びたりしていないし)上流階級&知識層の中に、強くて賢くて、っていうかっこいい女が多くいる。でもって、そういった女性達が生存し易い、一応建前上は男女平等が浸透している社会環境があった。

やたらセクシーな女性タレントたちもいたし、えげつないほどに女で勝負するタイプもいたけれど、一方で、女性がへんにわざわざ`女性rouge’というレッテルを貼られる事は無いように感じた。
よく、イギリス女が強すぎるからイギリス人男性は他所の国の女性ーフランスとかスペインとかのラテン系は特に大人気ーとくっつくんだ、とか、さらには多くがゲイになるんだ、とか言われているけど、なんやかんや言っても、どっちもどっち、卵か鶏かの論争のような気もする。

で、芝居の話に戻りますが、、

舞台で演じる役者は4人(SISの看板役者たち 段田安則、浅野和之、高橋克美、鈴木浩介)のみなのだが、それぞれに目まぐるしく役を変える。

カルテットの主軸である段田さんこそ、主要な役の二人ー主人公と叔母ーのみ(それでも男と女という二役)という役割だが、他の3人はその二人に絡んでくる諸人物30人余をそれぞれに分担して演じ分ける。今、ヘンリーを演じていたかと思うと、次の瞬間には叔母の若いツバメ、そしてその数秒後にはまたヘンリー、で次の場面ではMI6の要人、といった具合である。

この役の切り替わり動作が、振り付けされた動きのように鮮やかである意味とても演劇的ー映画のように瞬時のカット切り替えが舞台上で出来るわけも無いのだが、ダンサー小野寺修二の手ほどきにより、スムーズかつ効果的な役の切り替えで舞台にメリハリを効かせる事に成功。
(そう言えば、先日パルコで観た、小野寺の舞台「空白に落ちた男」の動き、構成と大いに通じるものがあったなと思い返す。)

もちろんの事ながら、その、やもすると混乱を招きかねない早業を演じ分ける男優さんたち一人一人の技、そして普段から仲が良いらしい人たちによる座組のチームワークの良さが最大限に活かされた舞台。
翻が面白いの加え、彼らだからこそ、成し得た舞台の成功と言えるだろう。

そうそう、話の中で、民間人を装ったMI6の諜報部員(いわゆる007のボンドですね)というエピソードが出てくるのだが、作者のグレアム・グリーン自体がMI6のスパイだったらしいですね。
ー一流紙タイムズの社員として努めた後に作家へ転向。それらの執筆活動の傍らーどちらが傍らかは知りませんがー諜報部員としても暗躍していたということです。ー

舞台が面白かったので、我が家のKYさんにすぐ電話して報告していたら、「そうそう、あのスパイだったグリーンでしょ?イアン・フレミング(007の作者)とか John le Carré(ジョン・ル・カレ)みたいに」と言っていたので、「へ〜〜〜〜、だからやたらに諜報部員だの、国際詐欺集団のボスだの、麻薬密輸組織だのがちりばめられているね〜〜〜」と納得した次第です。

それにしても、スパイ業へのヘッドハンティングって、一番の条件は「真実は決して話さないこと」なのかな?
いくら脚色しても良いから、真実だけは語るべからず、って。
頭の良い人たちの考えることは恐ろしいね〜〜〜。


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宝塚BOYS(8/24) マチネ

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★★★(0.5)=3.5★

人気演目の再再演。
07年の初演時にその評判を聞き、見逃した事を悔いたのを思い出す。
今回はその初演、再演(08年)時のメンバーを一新し、新生宝塚BOYSとして2年ぶりに上演したもの。

今回が初見の為、旧と新のボーイズを比べる事は叶わないが、時代が流れればそれにあわせて、キャストも選ばれるものと思うので、今回の新生ボーイズを10年の最強グループとして認めようと思う。

確かに、昨今のイケメンブームの恩恵か、見目麗しく足長く、でもって歌って踊れて、三枚目ジョークもこなすなんていう男優さんが多く出てきてくれているような気がする。

日本人自体がこの何十年かの間に、平成あたりを境に確実に体系も顔もバター化(欧米化)してきているものね〜〜。
そのうち、うちらなんて`旧式日本人’なんて言う風に区分けされちゃったりして!今、古代人の進化の系統を分り易く図式で見ることが出来るけど、何百年、何千年後かに(まだ地球があればの話だけど)自分はどの辺りに属することになるのだろう?日本人だから、かなり純粋種ではあるとは思うけどね。

で、お芝居ですが、銀座のお昼の観劇にはぴったり。シアタークリエの場所が本家宝塚劇場の向かいにあるということもあって、入場前に宝塚劇場の楽屋口に並ぶ長蛇の列を見てから、気分を宝塚にスイッチオンして観る事も出来たし。。

劇は(ご存知の通り)戦後間もなくに開設、しかしながら、その数年後にはヒノメを見る事なく、結局解散という憂き目にあった宝塚歌劇団、男性部のお話。
原案者(辻則彦)が当時の団員たちに取材をし書き上げた本をもとに中島淳彦が翻を執筆し、完成させたドキュメンタリーをエンタメで色付けた劇を職人、鈴木裕美がさらにバランス良く お話&エンタメ&笑い&プレビューショー として演出。
見て損は無い、と断言出来る良質の舞台に仕上がっている。

★の数がちょっと伸び悩んだのは、公演期間の後半の為か、ちょっと役者達に疲れが見えたこと、と、再再演の宿命で第一の引きつけどころである`男の宝塚’のネタ自体の新鮮味がちょっと薄れてしまったため。

が、全体的にはボーイズ達の役割分担もそれぞれに上手くハマっていたしー浦井君はどうしてか、自然に笑いを呼ぶよね〜〜、先日の劇団☆新感線のオバカ王子役(薔薇とサムライ)なんて涙ものに笑えたからね、杉浦太陽君の明るさもまぶしかった〜〜ー、最後の宝塚スタイルレビューはやはり盛り上がりましたから、大満足です。
(宝塚拒否症の私でさえ、厚塗りの化粧ではなく本当に見目麗しいボーイズにはほ〜〜〜〜heart02っとなりましたから)


結局のところ、集められ、トレーニングを積まされたものの宝塚の舞台に上ることは叶わなかったボーイズたち。。。ま、それが人気商売、イメージ商売、人の妄想をかき立ててなんぼのエンタメ世界のビジネスの厳しい現実だったんでしょうね〜〜。
いくら変でも、理にかなってなくても、「女の園」を通すことが一つの伝説ですからね〜〜。

ま、今はその反対ー麗しい男だけの劇団ーっていうのも沢山あるから、それはそれで。。。


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2010年8月22日 (日)

森の奥(ロボット演劇版)(8/21)

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「働く私」ロボット演劇

あいちトリエンナーレ開幕プログラム、平田オリザ+石黒浩研究室制作、世界で初めてのロボット演劇上演「森の奥」を名古屋の愛知芸術文化センター小ホールにて観る。

その日のマチネが公演初日公演だったので、ロボット演劇を目撃した第二弾目の観客250人(強)の一人となる。

実のところ、今回の上演に際してのプレビュー記事執筆のため、この上演に先駆けて創作されたテスト版舞台「働く私」のDVDを資料として観ていたため、2本目のロボット演劇観劇となる(リンクの「働く私」ロボット演劇を参照)のだが、2年前に創られた「働く私」からの進化としては、まずは上演時間が20分から1時間超え(1時間30分ぐらい)に大幅に長くなったこと、と前回が人間2人に対してロボット2体のやりとりだったのに対し、今回は3倍の人数、6人を相手にロボット2体が演技をしていた(!?)ということ。

***こちらの「働く私」に関しては全スクリプトが掲載された本が出版されているので、そちらを参照されたし。こちら↓

ロボット演劇 [単行本(ソフトカバー)]

大阪大学コミュニケーションデザイン・センター (著, 編集), 平田 オリザ (著), 石黒 浩 (著), 黒木 一成 (著), 金水 敏 (著)

*****

この世界初の一般公開という、チケットを販売しての演劇公演に向けて、プログラミング+センサー+リモートコントロールで仕事をする主役俳優のロボットたちには当然のことながら、さらに複雑なプログラミング、準備期間が必要だったことは明白で、平田氏によるアーティストによる演劇舞台演出の仕事も含め、テスト版からの期間2年間はそれに費やされたものと思われる。

つまり、着々とこの「新しい演劇」プロジェクトは進められているということだろう。その成果もあり、今回もロボット&青年団の役者たちによるヒューマンチームの共演はつつがなく流れていた。

終演後のアフタートークでも会場からは驚きの声が続々、「半信半疑で観てみたが、最後にはロボットに感情移入している自分がいた。」「この出来を見て、さらなるロボット演劇上演に大いに期待する。」などなどの意見が。

これに対し、制作サイドの平田氏がいかにしてロボット演劇の最大の効果を見せる事が出来たのか、それはただ単にロボットの最先端技術に頼るばかりではなく、その裏には、人的な演出意図、算定された最大効果を生み出す企て、計算がきちんとなされていた事などを事細かに、いつもながらに理路整然と説明しいていた。

**例えば、意図的に劇の前半ではロボットをロボットらしく動かして、ここぞという終盤のタイミングでロボットの人間的なキャラクターを魅せる。それによってロボット=ほぼ人間?という錯覚を観客に抱かせる事に大いに有効に働く。

**実際、技術的にはロボットのみの演劇も可能ではあるのだが、ロボットだけで同じように舞台を作り上げても、そこに感動は発生しずらい。実のところ、やはりこのロボット演劇の立役者は人間の役者たちであり、彼らがいるからこそ、舞台に何らかの感動を生み出す事が出来る。

**実際のところ、何と言っても「世界初」の演劇的試みであり、また同時にロボット工学の側からみても、ロボットの活用法としては画期的なものとなったであろう。双方に新たな活路を見いだした、試みであると言える。

ps.我が家のKY英国人亭主も観ていたのですが(すばらしい英語字幕のおかげでそれが叶ったわけですが)、彼はこの「世界初」という事実に大いに感激しておりました。「もしかしたら、僕たちは現代における`ライト兄弟の初飛行’立ち会いと同じような体験をしたのかもしれないよ!何年後かにこの日の事がさらに重要な事として思い出される日が来るかもね。」と。

今回、通常の(人による)芝居上演と同じ上演条件をクリアー出来た、という進歩には大きな祝福の拍手を送りたいと思う。

しかしながら、今ここで、ちょっと一つだけ、気づいた事を。

今回は既に人間のみでの上演も繰り返されている平田氏の既存の戯曲「森の奥」に多少の加筆を施し、人間と類人猿の違いを描いた話ーそこから「人とは?」という基本的な問いが出てくる仕掛けになっているのだがーであったものに、ロボットという第三の立場を加え、人と猿、、さらには人とロボットの違いとは?、、ロボットのKYを装った(?)的を得た質問から、さらに「じゃあ人って何??」と考える芝居に仕立てている。

一方、前回の「働く私」では人のフリをしたロボット、またちょっと進化してしまった仮想異種ロボットを人間夫婦とつきあわせることにより、やはり「人間の複雑さ」「人の世の難しさ」を浮き上がらせていたのだが、、

劇の仕上がりから言うと、前作「働く私」の方が、ロボットがそこにいる意味が大きかった、ロボット俳優を使うということのプライオリティーが高かったように思う。

今回、もちろん劇が長くなって、登場人物が増えたことにより、様々なエピソードが入ってきて、「森の奥」という芝居のテーマに沿った様々な問題提議がなされ、それはそれとして1本の芝居としは面白かったのだが、、ロボット演劇としての完成度としては、、(技術面ではなく)「働く私」のロボット役者の存在感の方が20分の演技とは言え、台詞も少ないとは言え、大きかったのではないか?。

今回目指したところが、おそらく一般上演、そして技術面での確かな信頼性の確認だったのかもしれない。。。おそらく、平田&石黒氏の構想は、すでに次のステージへと向かっているのかもしれない。

ロボット演劇向けの、それこそロボット演劇というシチュエーションの効果を最大限にあげる戯曲が、次には出てくるはずである。と今は確信している。

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あえて、小さな 魔笛(8/21)マチネ

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両国シアターXにて、またしても夏休み子ども向けプログラム、子ども向けのオペラ「あえて、小さな 魔笛」を観る。(このチラシ超カワイいですよね)

オペラの普及、さらには直輸入のみならず日本製のオペラの普及の為に子どものうちからオペラに触れてもらう、、とっても良いじゃないですか。大歓迎。
一公演何万円もするような、御大層なオペラは子どもだけではなくて、大人をもオペラから遠ざけていると思うのですが、このような企画があれば、日本にもオペラ文化がもっと浸透するはず。

で、生演奏で、ちゃんとプロのオペラ歌手を配して、子ども向けにカラフルな楽しいステージにして、お話もギューーーーッとまとめて1時間強のダイジェスト版にして、、とその内容でも、大いに感心するステージとなっておりました。

ただ一つ、残念なことに、歌唱の部分が字幕なしのドイツ語だったこと。
本物を聞かせる事に重点をおいてしまったのかもしれないけれど、、ちょっと冷静に考えて、スタート地点`親しみ易いオペラの上演、’子どもが夢中になるオペラ舞台というところに立ち返ってみると、やっぱり日本語で歌ってくれた方が、、もしくはせめて歌の内容を短くてもよいので字幕で出してくれた方が効果的だったのではないか?。。と。

だって、字幕なんてどこでも、誰でもがやっている基本中の基本の技術だし、いくら単純なストーリーとは言え、チンプンカンプンな歌よりはどんな事を歌で表現しているのかを理解した方が楽しめると思うんだけど。如何なものでしょうか?


それにしても、子ども達のその観劇態度には驚き!大ホールで居眠りする大人なんかよりも、よっぽど真剣に、興味津々で舞台に集中しておりました。
初めて聞くオペラ楽曲も、その歌唱にも、大いに心動いていた事でしょう。

来年の企画が今から楽しみ。

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広島に原爆を落とす日(8/20)

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シアターコクーンでつかこうへい原作「広島に原爆を落とす日」(演出:岡村俊一)を観劇。

今年7月の訃報に、4月の井上ひさし逝去に次いでのショックを受け、思い返すと私自身のそもそもの演劇体験の始まりはつかこうへい氏の紀伊国屋ホールでの「熱海殺人事件」ー芝居の前売り券を買うなんていう知識さえもなかったもので、当日、満杯状態の劇場の階段席(最近は階段通路を使う演出が多いせいか、消防法のためか、あまり見かけなくなりましたが、以前はよくよくこのような追加席を出していましたね)でひざを抱えながらただひたすらに舞台を見つめ続けていたのを思い出しますーだったな〜〜、と、その当時のつか芝居の熱気を体感できた幸運を感謝せずにはいられません。
(その後、芝居に興味を持ち、続けてすぐその後に友人に誘われて観た夢の遊眠社「走れメルス」ですっかりハマり今に至る。)


今回の「広島に原爆を落とす日」、原作者のつかこうへいの死去が重なり、追悼公演として世間でも大いに注目を集めた舞台、その悲しみが観客の共鳴度をなおさらに高めていたー当然ながらパンフレットには多くの関係者の追悼コメントが並び、かなり充実したものになっていたしーのは確かであろう。

しかしながら、この観劇後の後味の悪さ、気持ち悪さは何だろう?

実に多くの問いかけを含んだ戯曲(今回の舞台は小説版を元に舞台化されているのだが)である事は自明の理ではあるのだが、で、多くの名台詞も心に響いてはきたのだが、、

*これは戦争を題材としながら、いつの世にもはびこる、殊更にここ日本では根強く残る「差別」ー殊更、朝鮮に対する差別ーを主軸に扱った芝居である。
*当時はわからなかった原爆投下の米国の真の目的に関する推考ーーアメリカは日本人を単なるアジアの小民族としか捉えていなくて、原爆の威力を試す人体実験の材料として利用したーー天皇には朝鮮人の庶子がいたーー戦争終結の為、戦艦大和は沈む必要があり、それを知りながらの出陣だったーー
などなどの諸説

また、その後に浮かんでくる様々な憶測、

劇の核となるエピソード`日本人が広島への原爆投下のボタンを押した’という仮説の持つ意味ー戯曲にある表向き通り`アメリカ人にそのようなトラウマになるような行為を命ずる事は酷であると考えた米軍上層部の判断により、適当な日本人が選ばれた’という説の後ろにもう一つのメッセージ`沖縄決戦で壊滅状態にある日本軍、ヨーロッパでの戦争終結を聞いた後でもやはり降伏の気配なしでその後3ヶ月自決状態の戦闘を続ける、、米国のさらなる自軍の被害をおさえるため、原爆投下の決断に至る。。となると結局のところ原爆投下の間接的要因は日本軍の状況判断の誤りにあるのではないか?そうなると原爆のボタンを押させたのは日本???

などなど、、、まさに観劇後も思うところがふつふつと湧いてくる芝居ではあるのだが、如何せん、その落としどころ、、、主人公の男女の恋愛沙汰、というのがどうにも気持ちが悪い。

ナンセンスなそのオチに広い意味での`人類愛’作者自身の言葉で言うところの「夢はなにかと聞かれれば、一組でも愛し合う男と女がいれば、地球は滅びないし、原爆のボタンを押すこともない。本当に愛し合う一組がいなくなった時、地球は滅びるだろうという壮大なテーマを描いていく。。」があることも理解は出来るのだが、その壮大なロマンスを原爆という秤にかけた時に、、やはり、原爆の罪の方へ針は大きく触れ、そこにオチを持っていくのは如何なものか?と、でもって、その靄にかかった情に原爆を落とすのも如何なものか????と思ってしまう。

先日観たテレビの終戦記念番組で、沖縄で戦争を体験した老婆の言葉を紹介していたが、彼女はその状況を「人が人でなくなるのが戦争です」と語っていた。
命にも代えがたい我が子が死ぬのを眼前にしても、それに対しての感情が無いという自分がいた。その事に驚いたが、それが戦争だ、と。

そのような言葉の前に、原爆投下、戦争を語るときに、慎重にならなくてはならないその意義を痛感する。
最後にアメリカ軍特殊部隊のヒットマン役であるリア・ディゾンが日本賛美の言葉を語るところでも、あまりにも叙情的すぎる、センチメンタリズムに。。何のため??と頭を傾げるしかなかった。

ーーーリア・ディゾンの演技は評判通り、思いがけずとても良かったけどーーー

汗だくの筧利夫のカーテンコールに無防備に拍手をする、、その集団への怖さが募る夜だった。


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ピノッキオ(8/19)マチネ

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にしすがも創造舎で夏休み恒例の子供向け演劇公演、子どもに見せたい舞台Vol.4「ピノッキオ」を観る。

前年度のドリトル先生。。(ドリトル先生と動物たち)の舞台同様に舞台に近い桟敷席には子どもが達が大勢陣取っていた。みんなカラフルな舞台から何が飛び出すのかと、興味津々、友達同士でつつきあいながら、開演をまだかまだかと待ちわびているーーーこのような恒例企画があると、その地域のママさんたちは夏の観劇計画がたて易くて、観劇も習慣化されて良いですねーーー。

前回同様、チラシにもチケットにもカラフルなイラストが施され、劇場へ向かう前から楽しさを予感させる、仕掛けがちゃんと用意されている。

ピノッキオと言えば、誰でもがその愛らしい姿を、多くの人はディズニーキャラクターのまん丸い目の木製の男の子のことを思い浮かべる事が出来ると思う。が、その話の詳細となると、ピノッキオがなんでジェペットじいさんの所から冒険に出たのか?で、どんな冒険を経て帰還したのか??なんて記憶があいまいな所がボロボロと。。。

で、今回の舞台、カラフルでかわいらしい舞台装置の中、リズム溢れる生演奏音楽にあわせて、ピノッキオ君の成長物語がテンポ良く描かれていく。

ピノッキオの内心情を、もう一人(二人)のピノッキオ君に語らせることでお話に膨らみを持たせたり、視覚効果ー舞台装置、衣装、そして海の泡を創りだす小道具、天井からニョキニョキと生えてくる木々、素早く場面を変えてしまう可動式の階段 などなどーで一目瞭然のストーリー展開を実現させたり、会場の子ども達をまきこんで劇の臨場感を高めたり、、となかなかに子ども達の目を釘付けにする工夫が凝らされておりました。

前年度のドリトル先生。。の舞台よりも、一つのストーリーを伝える事、その流れを保つことに成功していて、だからこそ、楽しい視覚効果とあわせて、子ども達も最後まで飽きずに観る事が出来ていたのだと思いました。

演出の倉迫康史氏の幅広い活動に注目。(劇団 Ort-d.d主宰)

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2010年8月20日 (金)

かもめ(8/18&19)

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長年来のホームベースであったベニサンピットを離れて、新たに始動し始めたTPTが2010年後半、立て続けに公演を打つ。
ー演出家デビューとなる岡本健一、広田敦朗によるハロルド・ピンター2作同時上演(横浜)、池袋東京芸術劇場初進出、熊林弘高演出、佐藤オリエ・麻美れい・中島朋子ら豪華女優陣によるジャン・コクトー「おそるべき親たち」、続けて同劇場にて09年春北ロンドン、アルメイダ劇場で上演されて好評を博したオーストラリア人作家アンドリュー・ボヴェルの「この雨、ふりやむとき」、日本初演版、鈴木裕美演出。ー

秋のノンストップ上演に先駆け、まず夏の野外劇ということで上野不忍池となり水上音楽堂で上演されたチェーホフ「かもめ」を観に行く。

雨雲が近づいているせいか、空気が重く停滞し、7時開演だというのにいっこうに涼しさが感じられない扇形劇場で、虫の声と車の騒音をバックに暖かみのある木製ベンチ席で2時間のチェーホフ劇を堪能する。
開演後ほどなくして、その車の音も上野の人々の喧噪も忘れ、ただただ劇世界に没頭している自分に気がついた。

チェーホフ劇の面白さにどんどん芝居に引き込まれていく。。。チェーホフの台詞一つ一つが、様々な意味をもって響いてくる。

シーズンシートを買い占めて、同じ演目を繰り返し観るために劇場通いをする。そんなヨーロッパの芝居好きの気持ちが分るような気がした。

それほどに面白い翻だったら、きちんと劇作家の言葉を届けてくれたら、チェーホフ劇至宝の台詞を聞く為にやっぱり開演時間に劇場へ通ってしまう、、だろう、と。

野田秀樹の「桜の森の満開の下」を観た時も、井上ひさしの「兄おとうと」を観た時も、ケラリーノ・サンドロヴィッチの「2番目、或いは3番目」「アンドゥ家の一夜」を観た時も、やっぱり出来る事なら毎晩通いたい。。と思ったけれど、今回の「かもめ」も出来る事なら通いたい。と思った。
ー実際、観たのが楽日一日前だったので、次の日にまた観たのだが、2日間の観劇しかかなわず。。ー

なぜにそれほど気に入ったのか。。

まずは、劇場
野外での上演ということで、前述のように様々な騒音が入り、ところどころ聞き取りづらいなどのマイナーなマイナス点はあったものの、それよりも、あのロケーションを選んだ事によるプラスの方が大きかったのだと思う。
劇設定の湖のほとりが自然の劇場条件でぴったりと叶っていたーステージ部分前方に小さな池があり水がきらめいていて、まるで湖のほとりにある田舎の屋敷そのものというつくりーし、舞台横に劇中劇用のステージまでも見事に再現されていた。天井の高い音楽堂の観客席も劇世界に入り込むのにぴったりで、誰に邪魔されるでもなく、思う存分想像の世界に没頭できた。

でもって、役者

事前のオーディションによって選ばれた役者たちとのことだったが、若手からベテランまでの役者のアンサンブルもバランス良くまとまっていたし、一人一人がきちんと自分の役割を果たし、その上で、彼らの連帯感が一つの劇空間を作り上げていた。
ーーそのチームワークの良さとは別に、主役の若者二人の華やかさ(山田ジルソン&黒川モモ)はやはり特筆しておくべきでしょう。彼らの表現力の豊かさ、舞台映えします。ーーー

そして、何と言っても戯曲(翻訳)と演出

チェーホフの有名な悲劇として大仰に上演されることの多い「かもめ」を喜劇としてきちんと成立させていた。それが出来ているからこそ、チェーホフの皮肉、社会性、人間への洞察力などなど、優れた面がきちんと示されてた。
ーーよくよくある、大仰な「かもめ」ではただ単に有名な台詞の羅列だけで終わってしまい、劇自体のリアリティーがまったく成立しない、それゆえ、見る側からしてみれば「だからチェーホフって難しくてよくわからない。。。」という感想に終わってしまう事が多いーー

だって、あんなにアホらしい人々の集まりってないよね。それぞれが自分勝手で現状を把握していなくて、でもって夢みがちな希望ばかりを、それもただ単に叫んでいるだけ。。。って。バカじゃないの?ってダメダメさん達の集まり、、だからトホホ。。な喜劇なんだよね。

で、今回はその様子をちゃんと描いてくれていた。

余談になるのですが、「かもめ」をあ、これって本当に喜劇なんだなと初めて思わせてくれたのが07年RSCによる上演舞台で、トレヴァー・ナン演出、イアン・マッケラン、フランシス・バーバー出演、こちらも観ながら自然と笑いが出るようなダメダメ家族をなんとも可笑しくみせてくれた舞台だった。

虫が顔に飛んでくる屋外で、水面の光の反射と水が流れる音、客席内を縦横無尽に走り回る役者、黒川モモの美声と白い背中、出演者が代わる代わる演奏する生演奏のピアノ曲、でもって「夏の夜の夢」さながらの夏の一夜の喜劇をもりたてる「オヴァー・ザ・レインボー」の歌声。

あ、そうそう最後に肝心なところ、、ラストシーンの改訂(トレープレフの自殺は狂言でした、というくだり)ですが、こちらの改訂版の方がある意味、チェーホフの皮肉がさらに強調される結果となって(さらに救いようのない人々という意味で)、この喜劇の締めくくりにはあっているのかも。


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2010年8月17日 (火)

スリー・ベルズ(8/16)

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PARCO劇場で後藤ひろひと作・演出「スリー・ベルズ」を観る。

後藤作品では同パルコで上演した「ダブリンの鐘つきカビ人間」「MIDSUMMER CAROL〜ガマ王子vsザリガニ魔人〜」の観劇経験あり。両作品とも秀作であったと記憶している。特に「ダブリン。。。」は大倉孝二の好演もあり印象深い。(2作品とも演出はG2)ー余談ですがG2(ジーツー)さんってものすごい数の舞台に関わっているんですね。このブログネタ書きで調べていて、え、これもそれも?って驚きました。

で、本作、前口上でも作者の後藤が自虐まじりのギャグで触れているように、夏なのにクリスマス。クリスマスに起きた心温まる奇跡のお話3本立てという構成。

作品内で自ら称しているように、ウェルメイド劇作家というだけあって、気を引くフリに笑える経過、そしてちょっとほろっとするオチ、、とその作りはウェルメイドの定石通り。
それぞれにパンチーな短い話3本が絡み合うという構成も飽きずに良いのですが、、2時間ちゃんと楽しませてもらいましたが、、、が、何だか心はざわめかず。。

あれよこれよ、とサービス満点つくされ過ぎてしまうと、何だかかえってシラケてしまう、ということなのか。
強弱のついたテロップをず〜〜〜とつけてもらってテレビを観ているような、盛り上がりどころを強調されて、何回も驚くべきところでコマーシャルを入れてもらって心の準備をさせられながらテレビを観ているような、、こんなに楽して、脳みそに楽させて芝居観てて良いのかな〜〜〜、なんていらぬ事が頭をよぎり、、、こんなによくしてもらっているのに、ありがたいのに、心ざわめかず、、すみません、という感じでした。

予定調和のエンタメも楽しいけど、その安全路線ばかりをいっていたら、そのうちテレビ放送みたいな、取り返しのつかない目にあっちゃうぞ〜〜〜、なんてね。

そんな中、事前のPR会見で後藤さんが一押ししていたウーイェイよしたかさんのパルコデビューは、確かに東京の演劇界の台風の目になるかも。
でも、お願いだから大事に起用してねnote

よしもと恐るべし。よしもと芸人使い勝手よ過ぎ(いよっ芸達者)。

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2010年8月16日 (月)

8月15日

残暑のこる日曜日、終戦記念日ということで、各局、衛星チャンネル(ヒストリーチャンネル)でも戦争特集を組んで、一挙放送していました。

クーラーがきいた部屋の中で、山積みになった資料、新聞を片付けながら観ておりました。

ここのところの野田秀樹芝居の一環したテーマが「信じる」という人の心理について、で、先日の「キャラクター」では(無垢に)信じていただけの人々がいつのまにやらその信じる念を他者の排除=殺人(Kill)方向へと集中させていった人々の事が描かれていましたが、昨日はそんな戦時中の人々のフィルムを観ながら、いつから日本人は「現人神」なるレッテルを当たり前の事として認識する、信じるようになったのだろうか?という事。

だって、オー マイ ゴッド!神ですぜ〜〜。誰でもがそのお血筋をたどることが出来る、そのよくよく知れたお家の方がいきなり「神」がかっちゃっても、、ね。
将軍様の後のお公家様がいかにして「神」に?それも万人が認める「神」になっちゃった瞬間、それがどこかにあったんだろうね。
ま、ドイツのヒットラー崇拝もこの流れなんだろうけど。

で、日本人の考えるところの「神」的なものって何だろう?っと。

世界全般には宗教の祖がその称号に近いもの、神または神の子を与えられている場合が多く、その個人の教えを信じることが多いけど、宗教が民間に普及していない日本では、ことさらその「神」に対する理解がフリーで多様化している。神なき土壌の国とも言える(私はそれによって成熟した国民にも成りうる、悪い事ではないと思うけど)のかも。

先祖、ある宗教の祖、両親、先生、偉人、先輩、クールな友人、恋人、きらめくアイドル、大好きなあの方、、etc.etc..
と神と呼称される対象がいろいろある。

その多様性をあるきっかけで一つの方向へ集中させる、、、決めかねていた人々もその指示を待ち望んでいたとしたら。。

宗教が力を持つ国、その状態を困ったものだと思っていたけど、ただただそれが悪いばかりでもないんだな、と。

つくづくに、全てが混沌として矛盾に満ちている。

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2010年8月14日 (土)

TACT/FEST - 「ひつじ」と「ロビンソン&クルーソー」(8/13)

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昨晩の「Spicy, Sour and Sweet 」の方を先にアップしてしまいましたが、実は昼間はその東京芸術劇場の小ホール1の隣、小ホール2とその入り口付近にある広場での夏休み子供向け海外のお芝居を2つ観ていたのです。
ーーーそれにしても、圧倒的に池袋で芝居を観る回数が増えたな〜〜〜。個人的にはご近所なので近くて便利でとてもありがたい。にしても、誰がこんなに早く、演劇勢力マップの変動を予想したでしょうか?ね。街づくり、出来るもんですね〜〜〜。ま、前々から言っているようにロンドンのNT近辺だって、今でこそ若者が集まるトレンディースポットだけど、以前、私が住んでいたころの90年代はちょっと怖くてあまり近づきたくないスポット(それこそ以前の池袋西口のように)だったものね。ーーー


まずは劇場で一時間ちょっとの2人芝居。「ロビンソン&クルーソー」。デンマークの劇場製作の芝居。
ですが、字幕使用は全くなし。
むさい男二人による対話のお芝居なんですが、これが不思議なことに字幕無しでも全然オッケーgood

子供たちにも問題無く受け入れられていたようです。

ある日、地球上に大きな天災がおきた後、難を逃れて水面に浮かぶ家に辿り着いたむさい男二人。お互いの言葉は全く理解できない(一人は英語、日本語、ドイツ語などを話すが、もう一人は東欧っぽい言葉ーデタラメ言葉ーのみ解する様子)のだが、ここで会ったのも何かの縁。身振り手振り、音や身体で意思を伝えあい、この極限状態を打破すべく二人で力を合わせてこの漂流サバイバル生活を続ける。
いつしか、言葉もあってないような、かなりの意思疎通が出来るようになり、サバイバル生活もジョークで楽しめるまでになってきた頃、二人は次の段階へ進む事を決意し、筏を作り始める。。

と、芝居のほとんどがこの二人の言葉が通じないことによるコミュニケーションジョーク、身体をつかったコミカルな表現などで進行していくこの芝居。

ま、言ってしまえばベタとい言えばベタなんですが、これがなかなかに楽しめる。

で、この男二人のシチュエーション芝居を観ながら、海外では少人数によるこの規模の劇はよくあるし、エディンバラのフリンジなんかでもよくよく目にするよな、なんて考えていたのですが。そこでハタと思いつき、日本でもこれに似たものは結構よく目にしている気がするぞ、っと。、、これ、いわゆるお笑いの分野に属する「コント」ですよね。

ルミネ座よしもと、とか観に行ったことは無いのですが、もしかして毎日、これに似たような小規模芝居が行われているのかも。笑いの度合いがもうちょっと強いのかもしれないけど、なにかシチュエーションを想定して、その中で演じる、でもって笑いも入れる、、っていうのは、同じ。

確かに、今回の舞台の上でも「ボケ」と「つっこみ」役ははっきり使い分けられていたし。

となると、日本でも`演劇教育’なんて堅苦しい言葉で始めないで、世間一般に浸透しているお笑いのコント合戦から学校で取り入れるのもありかも、ね。
子供達もそれの方が、柔軟にイマジネーションを発揮してくれるかもしれないから。

で、そのお芝居を見終わって、外の広場に出たところで出くわしたのが、今回の目玉プログラムの一つでもあるカナダのカンパニーの「ひつじ」。

そこに居合わせた人たちは誰でも参加可能、無料体験できる参加型パフォーマンス。

一言で言ってしまえば、その広場に仮のひつじの放牧スペースが出現。そこへ役者がなりきった羊ちゃんたちが放牧されていて、回りの観客はその人間ひつじを間近で観察するというプログラム。

羊飼いに追い回される子羊や柵の中でおびえながら草を食む羊。。真顔でひつじになりきる役者たちを柵の回りでウォッチング。いつでも入退場可なので、ちょこっとでも羊ちゃんたちに会いに行ってみることをおススメ。


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Spicy, Sour, and Sweet (8/12)

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楽屋話だけど必要な話

東京芸術劇場、小ホールでタイと日本のコラボ企画「Spicy, Sour and Sweet 」の初日を観る。

二カ国、二つのカンパニー(日本から快快(ファイファイ)タイからB-Floorという2つのカンパニー)による、中休みを挟んで全く違った二つの小プログラムの上演。

これだけでも、様々な要素が入り交じってパンパン状態なのに、それに加えてなんだかいろ〜〜〜んな事が起きていて、同時中継で繋いでいるタイの大学生たちと三か国語入り交じって(日本語、タイ語、そして英語)の討論会ーこの企画自体はとっても面白いもので、同時中継なのでいきなり池袋にバンコクの教室の風景が現れて、池袋からいっきに場所が広がるのでGood!!初日ということもあり、様々段取りに多少の難ありでしたが、それもご愛嬌ー、そして観劇途中のショッピングチャンス(ネタばれ注意・これは現場へ行けばどうゆう事なのかわかりますwink)、でもってご丁寧に再度タイと繋いでのアフタートーク、と今流行のスーパーの詰め放題状態。

それに加えて、その場にいればビシバシ感じる、2つのカンパニー間の軋轢(この様子が上記の楽屋話に詳しく書かれているので読んでミソ。)。

タイと日本の若者たちの国際交流演劇を観にきたと思ったら大間違いの、なんだかハプニング演劇のような、でいて完全に観客は蚊帳の外みたいな。。。観客どころじゃなかったでしょ?ご本人たちは、きっと、、ご苦労様という感じの夜でした。
ま、ある種面白いもんが観れたという感じもあるのですが。

なんか、この感じ、「私たちが良いと思うものとあなたたちのそれとは相容れないものがあるのよ!だからコラボは無理。。」って前にもあったよな〜〜、なんてー数年前にアジアの数カ国の役者、演劇人が集まって作品を作るというコラボ企画が世田谷パブリックであり、その現場もちょこっとこんな風でした、、がそちらの方は数カ国が混ざっていたと言う事もあり(敵対にはならず)、物事はなかなか進まないが、それなりに上演までには折り合いを付けていたな、と思い返します。それでも綺麗には収まってはいなかったけど、それはそれで意義があった、と、今にして思います。

ま、いくらアジアと言ったって、まずはお互いがと〜〜〜っても違うのが大前提ですから、そっから始めないと「違うのは困る」では進まないでしょうね。
だいたい今まで、アジアで団結したこと自体あるのか?と聞きたいよね。

アフタートークで客席からの「今回の共同制作、何が一番大変だったか?」という問いに対し、「日本サイドがリハーサル最後にあと15分やればもっともっと良いものが出来るはずだから、あと15分延長してやりましょう、と提案した時にタイサイドの反応が、いやいやその15分は休みましょうよ。と返してくる。。。これですね。この違いにつきます。。」と話していたが、問題はその15分、結局リハをやらなかった事にあるのではなくて、、、その前の段階、なんでタイサイドは15分の延長を断ったのか、もしかしてそのやり方に何か疑問を持っていたのではないか?今ひとつその提案に乗れない何かがあったのでは?。。。もしくは、15分休憩しながら雑談の中に突破口を見いだそうとしたとか??? ,と何か他のところにうまくいかない原因があったのでは?と感じます。

結果の2作品がそれぞれのカンパニー単独で作ったようなもの2つになっていたのがちょっと残念。
多少、収まりが悪くても、途中段階でもよいので、せっかくならば1+1で1.7ぐらいの単独公演とはひと味違ったコラボプログラムを観てみたかった気もする。

最後にアフタートークで自爆的な発言も出ていましたーこの企画は失敗だったてきなーけど、やっぱりタダじゃあないんだし、それなちょっと失礼かもね、お客さんに対して。

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2010年8月13日 (金)

CHA(8/12)

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チャイニーズ・スーパー・エンターテイメント「CHA」を渋谷のオーチャードホールで観る。

スーパー・エンターテイメント、ってそれを枕詞にしちゃうところからして、絶対にアヤシい。。

で、やっぱり、そのスーパーがアヤシかった。

数年前に同じオーチャードで観た、中国雑技団による「アクロバティック白鳥の湖」。こちらの方はその悪趣味のに対しての好き嫌いはあるものの、サーカスのアクロバテッィクな技のショーとしては、確かに「すっげ〜〜〜。神業」と驚くところはあった。
が、今回の「CHA」に関しては、ちょこっとアートに味付けはしてみたものの、なんだかその神業的テクニックの方が「白鳥の湖」が10分に一回「すっげ〜〜〜」だったのが、「30分に1回」くらいに少なくなっていて、で、そのがんばったと思われる芸術点の方でも、、、、だったら、他のバレエかダンス観るかな?ってな感じ。

つい先日、BBC放送で中国サーカス団のドキュメンタリー番組を放送していて、そちらの方が断然面白かったな〜〜。いかにもコテコテの演出と衣装だったけど。

ーこの番組、チャンスがあったらぜひ観てみて下さい。すごいので。子供とか0.5kgの体重増加で、この世の終わり的な怒られかたをしていて(ま、プロですからね)、でそのカンパニーのマネージャーミーティングの凄まじい事。各セクションのマネージャーが今後のカンパニーの方針についてあれやこれやと喧々諤々するわけですが、泣きわめくは、どなりちらすは。。。日本海を挟んで、文化がえらく違うということが、いやというほど実感できます。

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2010年8月12日 (木)

父と暮らせば(8/11)マチネ

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★★★★★

言わずと知れた、井上ひさしの珠玉の名作。

被爆しながら、生き延びた主人公とその父が、終戦後、数年経って`被爆した人’としての生きる道を探るお芝居。
被爆者の惨劇、苦難を描きながら、一方では井上ならではの笑いー終戦直後だけにおまんま(食べ物)ネタが満載ーが満ちている。

この作品はいつまでも再演され続ける、またそうでなくてはならない、と思うので、どうか機会を得て、一度観劇して下さい。そうすれば、全てが分ります。と言いたいです。

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名無しのエリーゼ(8/11)朝

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★★★★

国際児童青少年演劇フェスティバル TACT/FESTIVAL TOKYOの1演目「名無しのエリーゼ Niemand heissed Elise」を観る。

まずはTACTの紹介からーTACT HPよりー

TactanからTACTへ
今年4年目を迎えた大阪発の本格的な国際児童演劇祭

2007年から大阪ではじまった、本格的な国際児童青少年演劇フェスティバル、「Tactan」は、この3年間の実績が評価され、今年から東京芸術劇場・まつもと市民芸術館・びわ湖ホールという、日本を代表する公立劇場と連携し開催することになりました。そして、これを機会に「TACT」と名称を変更します。
もちろん、このフェスティバルのポリシーである、こどもだけでなく大人が見ても楽しめる、世界各国で高く評価された、クオリティーの高い作品を集め、家族みんなで鑑賞し、その感動を語り合う時間を提供するという目的は変わりません。
今後、「TACT」は日本国内のさまざまな劇場と連携し、“こどもと一緒に劇場に行こう!”が合言葉になるようなフェスティバルの輪を広げていくことを目指します。

さて、今年も、多彩な作品がラインナップされてきています。
ご期待ください。

OSAKA演博2010実行委員長 松原利巳

せっかくの夏休み、子供たちへ発信したこのようなプログラムが都会で上演されるのは大歓迎。
夏休み期間集中で、もっともっといろいろなところで、児童演劇を積極的に上演してもらいたいです。

朝、11時開演にもかかわらず、と言うか子供にとっては一番良い時間帯なのか、会場は親子連れの姿が目につく。

ドイツ語+エリーゼ語(でたらめ?かどこか東欧の言葉なのか)上演での小一時間の二人芝居。

お話がこれでもか、というくらいシンプルで、一言で言ってしまえば主人公の祖父母のなれそれ回顧録、ながら、これが、噛めば噛むほどに味が出てくる するめいか のような、、、ハリウッド映画のような派手さは全くないものの、男女二人のやりとりの中に`人を思いやるということ’`誰かを愛おしいと思う心’、さらには今の若い人たちが最も苦手とするところの`知らない人と知り合う始めの一歩’みたいなもの、さらには`自分の意志で決断する、運命を切り開くということ’といった様々な事柄を感じられる奥深い作品となっている。

子供向けということもあり、ほとんどがジェスチャーを見ていれば分るという演出になっていて、その動作の繰り返しー例えば二人は隔てる線路を渡る時に必ず指差し確認をしてから線路を越えるとかーも単調というよりは、ある独特のリズムを醸し出していて、それによって子供が飽きずに観られるように工夫されている。
この公演1回で子供にどんなに立派なことを語るか、ではなくて、この60分の体験から一つでも良いから何かを持ち帰って欲しい、それは内容に関してでも良いし、劇という表現の面白さでも良いし、何かのメッセージを受け取る予感だけでも良い、というような、その謙虚ながら着実なアプローチが、最終的には最大の効力を持ち得るのだという事実を、長くにわたり実績を積んできたヨーロッパ児童演劇の現場から教えてもらったような気がする。

それにしても、このシンプルさ。
目から鱗です。これで良かったの?今まで、いろいろ考えていたことは何だったの?ともしかしたら劇作家たちを混乱におとしめるほどの単純さ。

また、それを受け止める子供達ー外国語なのに不思議と騒ぎだすような子供がいなかった。
このような目から鱗の経験をすると、またもや、演劇の奥の深さが。。。あ、そうこれで良かったの?あ、そう。
ってなもんです。

**題名なんですが、「みんながエリーゼ」とか「ここにもいたよ、エリーゼ」ってその無名性、無特定さを言っているのではないのかな???**


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じゃじゃ馬馴らし-OUDS-(8/10)

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★★★

埼玉芸術劇場で英国オックスフォード大学演劇協会・学生演劇サークル(OUDS)によるシェイクスピア喜劇「じゃじゃ馬馴らしThe Taming of the Shrew」を観る。

さいたま芸術劇場の小ホール(通常ゴールドシアターの公演もここで行われる。可動式すり鉢型ー講義講堂のような形状ですり鉢の底に舞台があるー劇場)には日本語字幕用のスクリーンが左右にあるのと無造作に衣装がかけられた衣装レールがあるぐらいで舞台装置はほとんど無し、といういたってシンプルな舞台。

舞台後方左右と前方の客席通路、4方向から役者が出入り出来るようになっていて、開始直後、役者が大きめの旅行トランクなどをひっさげてーこれが後に舞台に残され舞台装置の役割を果たすー登場。

学生演劇とは言え、シェイクスピア演劇メッカの英国での屈指の大学演劇サークルということで、有名舞台俳優を多数排出しているだけのことはあり、その演技は海外ツアーを組むだけのクオリティーを十分に充たしている。

最初から最後まで、いわゆるアマチュア的な、台詞が聞き取れない、トチる、段取りがぎくしゃくする、などということは一切なく、シェイクスピア喜劇を、楽しさいっぱい、元気いっぱいに演じてみせてくれた。

とにかく、俳優の身体一つ、台詞回しで魅せる、超オーソドックスなシェイクスピア劇。
21世紀にこのやり方で観客が何度も楽しめるのは、やっぱりシェイクスピアを母国語でやっているから、という理由の他、説明はつかないだろうと思う。

シェイクスピアが書いた通りに、その言い回し、それこそ韻をふみながら、音楽的な流れる台詞を話す。でもって、そこに全てが説明されているので、ヴィジュアル的な説明は一切必要なし。シェイクスピアの言葉を楽しむ=シェイクスピア演劇という英国ならではの楽しみ方を提供した舞台。
でもって、若い俳優達が学内でサークル内で稽古を重ねてきているので、そのかけあいにも不安材料は無いというもの。

しかしながら、一端この同じ芝居が海を渡り、言葉も変えて演じられるとなると、そのままではいかないというのは、いたってごくごく自然な成り行き。

どんなに優れた翻訳家が訳した日本語戯曲だとしても、同じように同じ場所で韻を踏んで、意味も寸分たがえずその原文のニュアンスを伝えるというのは、物理的に不可能な事。(英語でやらない限りはこれは絶対に無理。)

ーーー後日、野田秀樹(内田洋一著)を読んでいて、思いついたのだが、当然のことながらこの逆(日本語→英語)もまた真なり、なのである。日本語芝居を完全に100%英訳することは出来ない。だから野田は英語脳で芝居を書いたのだろう。しかしながら、3時間を越える芝居「ムサシ(井上ひさし著)」が新聞評で異例の5つ星を得るほどの支持を得る事もある。全ての言葉が伝わらなくても、それだけのパワーを持ち得たということなのか。ーーー

だからこそ、日本語上演のシェイクスピア劇という新しいジャンルが生まれてこようということなのだろう。その意味で言ったら、原作の言葉から離れられない英国シェイクスピアよりも許容の範囲、演出の可能性は何倍にも広がるとと言ってもよい。

英国シェイクスピア劇を本当の意味で十二分に堪能する為には、やはり原文を熟知することが大前提なのだと思うーそれが最高の楽しみ方だとして、そうではない、ちょっと横道にそれながらそれなりに楽しむことも出来る劇も本場英国でも多くあるので、作品を選べば英国でも大いに楽しめる事は確か、、作品を選べば。。ね。

ーーー★を一個減らしたのは、日本語字幕があまりにも読みづらかったから。いくら本場のクィーンズイングリッシュを楽しんで、と言われても、やっぱり字幕があったら読みたくなる時もあるから、その際、読めないと疲れちゃうからねーーー

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通りゃんせ(8/10)マチネ

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★★★(0.5)=3.5★
ちょっと順番がずれましたが、ご勘弁。


座・高円寺で日韓の国際共同制作プロジェクト作品「通りゃんせ」を観る。

ユニークポイントという劇団で05年から韓国公演を続けてきた劇団主宰、作・演出の山田裕幸氏がこの5年間の一応のくぎりとして新作劇で日韓の文化の違い、その上での歩み寄りと相互理解をテーマに日韓共同という形で混合キャストによる劇を上演したという新作舞台。

国際結婚をした日本人妻と韓国人夫(彼は日本に長く住んでいるという設定でかなり日本語がわかって話せる)が親族同士を集めてお互いの家族を紹介しあう箱根1泊旅行を計画、そこで起きたちょっとした衝突、また日々の繰り返しの中で起きたこの他者との出会いによりそこへ集まってきた人々がそれぞれに感じた自分たちのあり方に対する見つめ直しを描いている。結婚する当人たちの感情だけではなく、そこへ国籍の違う家族が関わってきたときに、それまでは好きだからで済まされていた容認事項に家族を納得させるだけの説得力を持たせなければならなくなったら?それを言葉も文化も違う相手の家族に理解してもらうには???
そんな異文化同士間のあうんではいかない交流を身近なエピソードで紹介している。

日韓の共同制作というと、新国立劇場でワールドカップ共催にあわせて制作された02年平田オリザの名作「その河をこえて、五月」(05年再演)がまずは思い出されるが、今回も基本的には平田の作品同様に、日韓の役者が半々、言葉も混ざりあっての、まさに日韓の意見があわさっての作品となっている。

「その河。。」がまさにあの時期(日韓交流熱が高まりつつある時期)での新国立劇場上演にふさわしい作品で、そのタイムリー性もあって大成功を収めたのに対し、こちらの「通りゃんせ」もそれから数年たって、日韓交流がさらに浸透し、日常レベルでそこここで行われている今日の一般人レベルの興味にあわせたーとっても良い意味でのー庶民レベル、かなり分り易い日韓交流プログラムとなっていた。

シンプルで分り易すぎるよ、との声も聞こえてきそうなものだが、そのちょっとネガティブな部分を差し引いても、観ていて十分に面白い、最後まで楽しめる舞台に仕上がっていた。
やっぱり、`混ざる’ということの理屈抜きの面白さ、何が出てくるか予想のつかないパワー(例えば、韓国人俳優が日本語を巧みに話して演じるというだけで、それだけでも舞台にある種のパワーが生まれる)が舞台で発散されていたおかげであろう。

一般的にはマイナーな(格段、有名な俳優が出ているというわけでもないという意味で)舞台ながら、連日超満員ー特に後半、口コミで人が集まったということを聞いても、その成果が十分に現れていたというのが分るというもの。

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ガラスの仮面(8/11)

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美内すずえのお化けヒット漫画ー30年間続いていて、いまだに終わる気配のない、伝説となりつつある芝居に関する漫画ー「ガラスの仮面」の舞台版第二弾「ガラスの仮面 -二人のヘレン-」の初日をさいたま芸術劇場にて観劇。

2008年夏に「ガラスの仮面」第一弾を上演した際にはちょっとおっかなびっくり観にいったのだが、あまりに良くできたエンタメ&演劇奨励プログラムに大いに驚き、思いっきり拍手したのを覚えている。

そのような経験を経て、今回は逆に勝手にとても期待して劇場へ行ったのだが、、う~~~~む、今回のは、ちょっと待てよ、っと。

なんだか、「ガラスの仮面」の`演劇ラブheart04’ぶりが裏目に出た結果に。

ほとんどの皆様がご存知のように「ガラスの仮面」は一流の女優を目指す女の子(主に)二人の成長物語。 (今回の舞台版もそれにあわせて初演の前にその主役二人をオーディションで選ぶというストーリーに合わせた趣向で始まり、それもあわせて話題となり、最終的には大和田美帆と奥村佳恵がその主役の座を射止めた) 初演(第一弾)のときはその女優を目指すことになるまで、つまり演劇に縁のなかった女の子が演劇と出会い、すっかりその魅力にとりつかれ、天性の才能を持ち合わせたこともあり、日本一の女優への道を歩みだすというところまでが描かれ、、芝居ってこんなに奥の深い、面白い世界なんだよ!という前向きのメッセージが全快で、またそのメッセージを無理なく受け入れられる、漫画の夢見る世界バリバリながら、その漫画臭さを舞台にそのまま揚げても違和感無しの舞台が、その俗とアートのバランスを奇跡的に絶妙にとりながら完成していて、蜷川幸雄の職人芸とあいまって、素晴らしい出来になっていた。

で、今回はその後日談ということで、二人が女優としてのスタートをきり、かけだしの女優としてさらなるポジションアップを目指して、日々競う姿を描いている。様々な舞台をこなしながら成長していく二人を見せながら、最終的には「奇跡の人」のヘレン・ケラーの大役をオーディションで争うエピソードがクライマックスとなっている。

彼女らが横道に逸れる事なく、ますます女優道に邁進していく、でもってその熱中度がどんどんヒートアップしていくストーリー展開なので、それを煽るかのように、劇中で師である人物、周りの演劇人らが「演劇とは。。」といううんちくをこれでもか、と御大層に述べてくれるのだが、これが。。なんともいやらしい。前回は夢見る少女らを信じられる程度の青春ドラマだったのが、今回のあまりにもタカビーな芝居オタクさんらの陳腐な説教の為に、いっきに、今度は漫画の負の部分ー嘘くさい&閉鎖的ーな話に収まってしまっていた。 私が大学時代に演劇部に興味を持ちながら、そのなんだかめんどくさそうな雰囲気に尻込みした、その演劇畑の持つ特有の、他を受け付けない、自分らだけに通用する演劇論なんぞに満足してしまっている、その鼻持ちならない思い込みがそこここに、それもエラそうに出てきてしまって、すっかりシラケてしまった。

そもそも、芝居は特権的なもの、女優はすごいと繰り返されたところで、、それだけの繰り返しでは説得力がない。それこそ訳の分らん伝説の舞台「紅天女」の話だけでなく、もっと具体的な例で何がすごいのかを示してほしかったし、そこが雑なので(漫画ではそれこそ、毎週詳しく、どうすごいのかを説明しているのでしょうが。。)全体として、子供だましの大きな嘘の話になってしまっていた。 そこの核の部分、なぜ「紅天女」を演じることがそれほどまでに大きな夢なのか、というのが分らないままに話が進むので、なんだか大きなまやかし新興宗教のような、、洗脳されているとしか思えない、というような、劇のリアルが成り立たなくなってしまっていた。 かろうじては、前回に引き続いてのある使命を持った蜷川演出ー夏休みに芝居を観にきた青少年がお芝居に興味をもってくれるように、舞台づくりの面白さを伝えるーは冴え渡っていたので、その部分では十分に堪能させてもらったのですが。

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2010年8月10日 (火)

死んでみたら死ぬのもなかなか四谷怪談ー恨ー(8/9)

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コンスタントに前衛コンサバー最先端でありながら芝居の定石はきちんと押さえているという意味ーで良質な舞台を提供し続けている演劇集団円の最新作「死んでみたら死ぬのもなかなか四谷怪談ー恨ー」を週末を挟んでまたもや世田谷キャロット・今回は小劇場のシアタートラムにて観劇。

普段は自前のスタジオ劇場ステージ円での上演が多いのだが、調べてみたらトラムでも世田谷パブリックでも上演の記録あり。
で、今回はトラムの空間を「四谷怪談」の演目に合わせ、寄席に怪談を聞きにいった風に劇場の真ん中に作った三方囲みのステージスペースの回りに座布団を置いた桟敷席を設置。(椅子席も併設)

これが、見せ物小屋の雰囲気を醸し出していて、演目と丁度うまくあっていた。

で、演目の方は夏の定番怪談話の四谷怪談を韓国の戯曲家 韓泰淑(ハン・テスク)に新たに改訂版執筆を依頼ーヒロイン「お岩」を演じている円の所属女優 朴璐美(パク・ロミ)の叔母にあたる人で数々の賞も受賞している実力派作家とのことー、従来の定番「四谷怪談」を現代の女のたくましい復讐劇に読み直し、ただただ「恨めしい〜〜〜〜」だけの泣き寝入りお岩さんとは大きく違った、女を怒らせたらこういう目にあうのだぞ!という、おもわずエンディングには拍手に加えて、かけ声もかけたくなるようなパワフルな女幽霊の、これぞ21世紀の女性というお話にしあがっている。

変形舞台を大いに活用した魅せる演出(円の一押し演出家、森新太郎)はお見事!!

効果的な群舞を思わせるごろつき連中の殺陣に始まり、お岩の変貌ぶり(生きている時はただただ尽くす&耐える女なのが死んでしまったら本性を発揮して、やたらめったら強くなる)、そして男どもが雁首並べて復讐を受けるシーン、などなど、一つ一つのシーンが伝統演劇のお決まりシーンのように印象的。
全編を通じて、ステージ奥、生で演奏される和太鼓の効果音楽も憎いほどにハマっていた。

我々が定番として見過ごしてきた「四谷怪談」(先日、岩井秀人のハイバイでも現代版「武蔵小金井 四谷怪談」を演じていたけどね。こちらもなかなかにうすら怖〜〜〜い秀作でありました。)を外からのまっさらな眼を通して読み直す事により、より今日の私たちに近いお岩&伊右衛門像が浮かび上がってきました。

2時間弱の公演で、舞台の求心力が弱まることなく、観客はすっかり魅了された感あり。

この夏、おススメの1本です。


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2010年8月 9日 (月)

〜風(8/7)

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先日の「空白に落ちた男」に出演していた小野寺修二(おのでらん)、藤田桃子(ももこん)も所属していたパントマイム集団「水と油」ーこの二人の他に高橋淳(じゅんじゅん)と今回のすがぽんで4人のグループーで活躍していたすがぽん(須賀令奈)のソロパフォーマンスシリーズ最新作「すがぽん劇場〜風」を調布市の公共劇場せんがわ劇場で観る。

紙で作った舞台装置と身の回りに置いてありそうな小道具、で演じる身体は一つ、、(黒子のアシスタント2人はいたものの)と究極のエコ=シンプル舞台。

これだったら、それこそどこでも比較的お手軽な感じで上演できそうーーー夏の児童館巡りツアーとか、地方の劇場ロビーで上演ツアーとか、子供達が大いに楽しめそうなので、もっといろいろなところで上演できるようになれば良いのに。。と感想でした。

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2010年8月 7日 (土)

ロックンロール(8/6)

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プログラミングに定評のあるロンドン西部、チェルシーの高級住宅街の入り口にあるこじんまりした劇場、英国知識層のたまり場でもあるロイヤル・コートシアターで2006年春に幕を開けた英国人劇作家トム・ストッパード作「ロックンロール」を世田谷のパブリック劇場キャロットにて観劇。

好評ゆえにその後すぐにウェストエンドへ移り上演され、続いてブロードウェイへ進出、今もUK,USAの様々な都市での上演を続けている作品。

幸運にも丁度、別件で訪れていたロンドンウェストエンド上演の舞台を観る機会を得た。観劇が主な目的ではなかったため、観劇出来る回数も限定されていて、着いてからチラシの印象で何を観るかを即決。ところが、何気なく見始めた舞台に目が釘付け、旅行疲れも吹っ飛んで、観劇後は大興奮のなか、旦那にその素晴らしさを延々としゃべりつづけたのを思い出す。

ストッパード芝居の魅力である英国人知識層による歴史&文学&哲学etc.がふんだんに盛り込まれた..インテリなディベートで埋め尽くされた芝居もそれはそれで面白いのだがー正直、これをず〜〜〜っと英語で観劇して理解するのはかなりしんどい。昨年5月、やはりウェストエンドで観た日本でもおなじみ、デイビッド・ルヴォー演出によるストッパードの「アルカディア」はのっけからナゾナゾのような言葉遊びの数々にちょっと頭がヒートアップ状態、ついていくのにアップアップした。が、こちら「ロックンロール」は善くも悪くも理屈よりも力技で突っ走る舞台。若い情熱に溢れた青春、それも若者が世界を変えようとしていたヒッピー世代の話なので、なんだかどんどん話に引き込まれ、さらにはそこにCoolな音楽、それも今でも一番好きな時代の音たちだったということもあり、えらくハマった作品だったのだ。
社会主義国チェコスロヴァキアにいながら西側の音楽を人生の糧としている若い学者ヤンを話の軸にしているだけあって、その西洋音楽=ロックンロール(ディラン、ストーンズ、ピンクフロイド、ヴェルベットアンダーグラウンドなどなど)が舞台の重大要素となっているため、それらの曲がBGMではなく主役として流れ、美しいレコジャケが映し出されるのに大興奮!!!

今回、ホリプロ制作、ということでホリプロ作品に数多く出演している市村正親と武田真治の主演での舞台となった。

で、日本版の舞台に関して言うと、、、やはりチェコは世田谷から遠すぎた、、という事。

3時間に渡る大作で、観客もかなりがんばってはいたが、如何せん、チェコの話なんだな〜〜〜、ピンとこないな〜〜という空気が客席に充満。舞台と客席との間に大きなユーラシア大陸が横たわっていて、舞台上での熱い議論もコチラ側には届かず。。。という結果。

私、個人的にはロンドンで英語でまくしたてるのを観ていた時よりも、当然の事ながら細かいところまで台詞が理解できて、そのおかげでさらに戯曲に仕掛けられたそこここのひねりもはっきり見えたし、全体像も掴めたので、日本語での上演ありがたし!と感謝なのですが、

そのお得感を差し引いて、今回の舞台単体でみてみると、ふ〜〜〜む、出来としては、やっぱりちょっと???「なんでこの戯曲を選んだの?」とそもそもの出発地点に疑問を感じるところあり。なのでした。
演じている側にも消化不良感が。。。
秋山菜津子が大健闘ーと言っても、彼女の役は、個人としての理想・そして現実との矛盾に悩む役だったので、役を捉え易かったかも。

新聞や雑誌に載っていた、武田真治君の発言で、
「俳優はホンにまつわる知識に対して、どういう責任と無責任のバランスで板の上に立つべきなのでしょうか?(シアターガイドより)」と演出の栗山氏に訊ねていたんですが、まさにこうゆう心境で悩んだんでしょうね〜〜〜。ーこれを素直に雑誌の対談で聞くところがエラい!ー

もちろん現段階で出来うる限りの状態へもっていって舞台に立っているのでしょうが、出来る事なら、十二分に納得出来るまで、考えられる時間を与えてあげられたら、、事前のリーディングなり、それは無理としても、十分な時間的余裕を与えてあげられたら、、、と。それを含めての演劇上演がこの日本で実現出来る日を願いますよ。ホント。

東西冷戦による緊迫感・恐怖が一般市民の生活意識に深く浸透していた当時のヨーロッパ(今でも少なからず、その余熱が残っているとは思う。。例えば、ロシアのスパイのよる暗殺未遂事件とか起きているからね)。
そのついこの間まで実際に日常生活の中で常に考えさせられていた問題=チェコにおけるソ連軍侵攻ープラハの春ーから始まる東西ヨーロッパの対立と時代の移り変わりによる人々の意識の変化、を当事者として身体に染み付いている観客(欧米人)が検証するのと、自国の経済発展に邁進することに専念しながら、他国とのイデオロギーの衝突なく我が道を進んでこれた国の観客(我々日本人)が検証するのとでは、その舞台に対する要求度の温度差が確実にあるのだろう、と思う。

同じように、思想の対立、個人レベルでのフリーダムと国家、歴史による運命のいたずらを描いた芝居にしても、何か違うもので、もっと我々に近いもの、身近に感じられるものが提示出来たのではないか??と。

劇の重要部分を担う、音楽にしても、欧米の観客には流れる音楽が単なる音、ロック音楽、若者カルチャーの代名詞としてのBGMというだけではなく、実際のところの劇の主要要素`政治’そして当時の`社会’を身体感覚的にそして強力に喚起させる効力があったからこそ、観ている人たちのマスレベルの共通認識を瞬時に引き出せるからこそ、音楽がこれほどまで前面に置かれたのだと思うけどーディランを聞けば、ストーンズを聞けば、彼らが抵抗してきたその反対側のものたちの姿が自然と頭に浮かぶとかー今回の舞台ではそこまでの使われ方はしていなかった。。。十把一絡げの扱いだったからね。

それが顕著に現れているのが、パンフレットに掲載されていた出演者に対する短い質問ーあなたがイメージする「ロックンロール」とは?ーに対するそれぞれの答えで、誰一人としてこの芝居に出てくるミュージシャンたちにそのイメージを重ねる人はいなくてー別にそれが悪いと言っているわけではなく、それが正直なところの日本人みんなの感覚なんだということーサザンとかRCサクセション、矢沢にレッチリ etc..と、だからこの芝居がこの国で成り立つのはなかなか難しいのではないでしょうか?ということなんです。
だいたい、ここにも載せている宣伝写真、、、これがこの芝居の「ロックンロール」を表していると言われた日には、、やっぱり、これ違うよね〜〜、ぜんぜん。70年代のロック、フラワーチルドレン、ヒッピーとは似ても似つかないもん、って言っちゃうよね。

と言うわけで、いくら俳優人がイギリス、チェコの政治家、また文化人の名前を列挙して熱弁をふるってくれていても、根本のところで所詮ヨーロッパのお話という意識があるので、言葉だけが表層を流れていくだけで、例えば熱く語っている場面でも、なんだか中味がこもっていないなとしか感じられない。ーその一方、皮肉なことに、その他のマイナー部分、フェミニズムの主張、夫婦間のやりとりなどは活き活きと演じているように見られたのだが、やっぱり、この芝居を「今、日本で本当に上演するべきなのかどうか」、仕分けで削られる文化予算の使い道を賢くつかみ取るためにも(いくらホリプロが商業資本の個人経営会社とは言え)注意深く考えて欲しい。

一方、戯曲の素晴らしさには、さらに疑う余地無しの満足感を得ることが出来たのも確か。
「個人と国家、さらにはそれに時間軸、パブリックな意識と私的な感情のバランス、一人の人間においてもすでに矛盾をはらんでいるという現実、そして人間として根源を成す重要要素を示唆」などなどを見事に構成された戯曲の中に味あわせてもらいました。読めば読むほどに奥が深い、、ストッパード戯曲の魔力。

ストッパードの翻をちゃんと読んでみようっと。


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2010年8月 6日 (金)

サーフィンUSB(8/5)

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本多劇場でヨーロッパ企画の「サーフィンUSB」を観る(私信:Mさんあなたが正しい。スズナリではなくて、本多でした。。てへ、)。

「サーフィンUSB」という面白へんてこなタイトルのネタが分った時点で、全て出し切ってしまって、その後に何も無いという、なんともスカスカした、ほとんどが包装紙で中味が無い贈答品のような芝居。

前述のアイディアを見せたい、というのと、オープニングでかなり期待をさせた意外性のある舞台装置(これはそれなりにインパクトはあった)、この2点だけで上演しようと決めてしまったような、見終わった後に「それで?」というなんとも不思議な、これほどまでに何も無い芝居も珍しい。

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2010年8月 5日 (木)

2001-2010年 宇宙の旅(8/4)

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きらり☆ふじみで夏の野外劇「2001-2010年 宇宙の旅」を観る。

同劇場、芸術監督 多田淳之介氏率いる東京デスロックの新作で、タイトルが示す通り、アーサー・C・クラーク著、SF小説のクラシック、スタンリー・キューブリックの映画版(実際、クラークとキューブリックの二人で創作した共著であるということ)で世間一般には広く知られている「2001年 宇宙の旅」を下敷きにした、2010年の8月、ぼくら視線の「2001年 宇宙の旅」、みんなでいろんな事を想像してみよう!!演劇、です。

劇の導入部分、音楽(大谷能生)もーあの有名なちゃらららら〜〜〜ん、じゃら〜〜〜〜んという奴ですー類人猿の変遷史を追うストーリーも「2001年。。」にかなり忠実。
この後、作・演出の多田氏が今の姿で登場するあたりから、「2001年。。」の壮大なテーマにぼくらデスロックの変遷(ちょうど2001年に発足したそうです)、さらに縮小スケールの夏目君の個人史がシンクロし始め、それらが混在していく。そこへさらに時間を狭めた、「今現在のきらり☆ふじみ近辺の様子もろもろ、そして聞こえる音」とその場で生み出される大谷氏の音楽がブレンドされ、、また一方では、この10年で起こった様々な出来事ーそれもミクロ(個人の思いがつまった悼辞)からマクロ(核廃絶演説)までーが断片で語られ、太古と未来、今ココと地球の裏側が混在した、スケールの大きな話がふじみの劇場の池の回りで展開してく、、、まさに宇宙的な、同時にふじみ的な、一回性の芸術・演劇ならではの世界が楽しめる貴重なステージとなっております。

さまざまな仕掛け、演出にこめられた意図などなどあるのですが、今回の大きなプラス要素はやっぱりこの劇場空間でしょう。

夜の闇に浮かび上がるー昼間だとなんだか現実的になっちゃって、本当にこんな立派な劇場がここにあるのが不思議?なんて下世話な話になっちゃうのですがー全面ガラス張り、建物に添った螺旋階段が美しいきらり☆ふじみの大ホール、ステキなウッドデッキに涼しげな池(あんなに浅いのにもびっくり)を挟んで反対側に、またもや不思議なほどにメルヘンチックに存在するやはりガラス張りのアトリエホールと近隣に遮るものが何も無いので大きく天空に広がる夜空、、、と普段は考えないことも想像出来ちゃうような、この包み込むような自然劇場空間で、この2010年SF演劇が成り立っている、と言っても過言ではありません。

いかに観客にこの自由な想像環境を与えるか、、そしてその柔らかくなった頭脳を刺激し、最小限ながら最大限の効果をあげるべく情報を与えるか、、、がこの劇の重要な成功ポイント。

昨晩の場合は、上手い具合にちょっと心かき乱す風なんかもあり、でもって大谷氏のサックスの音色を相まって、大変リッチな時を過ごさせていただきました。

心も身体も解放する屋外は良いねー特に夏だしー。もっともっとこの野外空間をいろいろなイベントに利用していただけたらークラシックミニコンサートとか、親子で参加出来る子供劇場、とか伝統音楽の会とか、コンテンポラリーバレエなんかも良いね〜〜〜、シャンペンとか飲みながらーと期待します。

その際はやっぱ、椅子でゆったりが良いかな。

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2010年8月 4日 (水)

空白に落ちた男(8/2)

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パルコ劇場で小野寺修二作・演出のダンス&マイム作品「空白に落ちた男」をパルコ劇場にて観劇。

08年に異例の1ヶ月半公演として、今は無くなってしまった森下のベニサンピットで初演され、カフカの小説のような時空間を自由に行き来する、ある男の不思議体験ストーリーを、創作に8ヶ月を費やしたという細部にわたるまで計算し尽くされた振り付け、そしてアンサンブルによって表現された作品。

見ているその瞬間から変容し、次々に予測を裏切っていく奇想天外な振り付けー例えばドアの向こうが自分がいま来たばかりの空間で開けても開けても堂々巡りになってしまう、とか、アリスが小さな穴の向こうの世界に消えていってしまったように、女の子を追いかけていたら戸棚の引き出しが階段になって、その向こう側に女の子が異次元に入っていく扉を見つける、とかー夢の世界を実際に目の前で生身のダンサーさんたちが身体をはって、でもそこはあくまでも軽々と、、見せてくれる、そのだまし絵の連続にイマジネーションを喚起させられる。

でもって、全編を貫いている、コミカルにそしておしゃれに品が良く。。。という小野寺テイストがパルコ劇場(今のようにギャル文化に占拠される前の渋谷アーティーカルチャーの古参)にあっているのかもしれない。
(演じる場所、としては08年上演時のベニサンの方が、そのサイズからか客席にいて他の客の存在が気にならず、さらにもっと空想の世界に浸る事が出来て良かったと思うのだが)

今回は、5人のダンサーの顔ぶれの中に新しくフランクフルトバレエの中心ダンサーであった安藤洋子、コンドルズの藤田善宏が加わり、初演に引き続いての続投組の世界的バレエダンサー首藤康之、水と油で長年一緒に踊っている小野寺修二と藤田桃子らと、それぞれの強みを活かしたソロを披露している。
それぞれの分野で固定ファンを持つ人たちばかりなので、観客も固定ファンだけではなく、各ジャンルから集まってきてミックスし、結果、それぞれにさらなるファンの獲得にも一役買ったように思う。

出会いが大きな花をさかせた、意欲作の成功例。

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2010年8月 1日 (日)

New Pieces (8/1) マチネ

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熊川哲也率いるK-balletの新しいチャレンジ、国内外で活躍する振付家(兼ダンサー)を外部から呼び寄せ、カンパニー用に新作の創作を依頼。3人の若手振付家、それぞれが腕を振るったショートプログラムをK-balletのダンサーが見事に表現するという、新作トリプルビルを赤坂ACTシアターで観る。

またもや、新国立劇場あたりがやらなければならない事を一足お先に実現、という素晴らしい企画、そして鳥肌もののパフォーマンスでありました。

1番目のプログラムはノイマイヤーの秘蔵っ子、服部有吉振り付けの「戦慄」。

大きな仕切り版を移動させて光の量を調節したモノトーンの美術(島次郎)、黒いアシメトリーのシンプルな衣装(前田文子)、バレエ公演には珍しいハンドライトを実験的に使用した照明、などなど舞台演出からして、そのセンスの良さは見て取れた。

昨年秋に「ロミオとジュリエット」でペアを組んだ、SHOKOと遅沢佑介のその後のロミジュリ、死後の世界での二人を連想させるその発想にも脱帽。
若者の悲劇を現代にも通じる、行き場の無い閉塞感で表現。

ダンサーたち、SHOKO,遅沢、宮尾俊太郎らも好演。

アートのセンスというのは生来備わった特別な資質なのだな、と、このプログラムを観て思う。

服部君のますますの日本での活躍に期待する。

2番目はK-ballet期待の若手コレオグラファー、長島裕輔による「Evolve」。

看板ダンサー、松岡梨絵・橋本直樹,浅田良和らによる、ダンサーのテクニックの見せ所満載のプログラム。
K-balletの全体の質の安定度をこれでもかと誇示出来る演目。

そしてラストの3番目は、世界屈指のネザーランド・ダンス・シアターを長年にわたり支えてきた日本が誇るダンサー・コレオグラファー 中村恩恵(めぐみ)振り付けの、そして自ら熊川とのデュエットで踊る「Les Fleurs Noirs」。

久しぶりに舞台で踊るのを純粋に楽しんでいるかに見える熊川とそれを大きな母性で受け止める中村のダンスは秀逸。
子供文化が隆盛する日本において、久々の大人のダンスを見せてくれたように思う。

女性と男性が対等な関係で刺激しあい、関わり合う、これぞ中村がヨーロッパから持ち帰った功績なのだろうか。
踊って表現するということの、奥深さを知らしめてくれた。

海外カンパニーを招待するだけではなく、バカンス中の外国人ダンサーを顔見せ公演として連れてくるだけではなく、ここまで成熟してきた国内バレエ界のさらなる発展を推進するようなこの企画ー日本人の才能を集結して、優れたコレオグラファーに作品発表の場を与え、またそれらの新しい才能をK-balletに取り入れる事により自らのカンパニーにも刺激を与えるー良いではないですか。

個々のダンサー、振付家が海外でその才能を発揮して日本に戻ってきた時に、組織としてその才能を受け入れる、そしてダンス界全体としてその才能をさらに伸ばしていく。これですよ。こうゆう事をどんどん、そしてさらに長く続けていって欲しいものです。
そうすれば、一時のブームに終わらず、文化として根付いていくから、ね。


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墨田区在住アトレウス家(7/31)

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演劇というか、アート鑑賞というのか、そうゆうちょっとカテゴライズされない演劇イベントに参加してきました。

*********以下 東京アートポイント HPより*********

墨東まち見世2010
墨田区在住アトレウス家

「墨田区在住アトレウス家」は、墨田区内の空き家を借り、そこにギリシャ劇の一家がかつて暮らしていたという設定で、家やまちを再発見していくプロジェクトです。実際の家屋のディテールを手がかりに、アトレウス家の親子三代にわたる生活を具体的に想像し、数々の事件の痕跡をたどります。地域の人たちの参加・協力のもと、読書会やフィールドワークを重ねながら、インスタレーションと演劇の間をさぐる作品を、来年3月までかけて4本制作します(うち2本は同時上演)。

Part 1の題材はソフォクレス作『エレクトラ』。母とその愛人の住む家で、殺された父の復讐を誓い、弟の帰りを待つ娘――そんな一家が暮らしていた家を見に来ませんか。

************************************


と言うわけで、墨田区のちょうど花火大会のお膝元、東向島の一軒家、上演会場へ。

丁度、花火大会と日時が重なるということで、事前に会場付近の混雑が予想されるので、お早めにお越し下さいとのお知らせメールがあり、気持ち余裕をもってー知らない地域でもあるのでー出かける。
それほどの人通りではなかったものの、向かう電車の中では花火見学へ行くのだろうと思われる浴衣姿のカップルを多く見かけた(余談ですが、なんで男子までみんなそろって浴衣なのかね〜〜〜??なんだか茶髪をツンツンジェルでまとめて、前をはだけ気味に浴衣でゴールドのアクセサリーってあまり格好良くないと思うんだけど。。。女の子もすっきりシンプルな方がゴテゴテヘアアクセとかするよりかわいいよ。。。ま、おばさんの老婆心からのコメント???)。住宅街の中の会場ー会場自体がもともとそこにあった築何十年の一軒家なのでー付近も、ご近所は家族集まっての花火見学ムード一色。

そんな中、様々なタイプの人がぞろぞろ集まってくる(定員20名)一軒家の中で、ギリシャ劇のワンシーンが行われていたとは、まさに隣は何をする人ぞ。。。でそんなことが行われていたとは、想像もつかなかったでしょうね〜〜〜〜。

公演自体も花火大会にあわせての特別バージョンということで、通例の内容に加え、トロイア戦争勃発の理由解説付きーーーなぜなら、花火のドンドンと打ち上げられる音+上空からの中継の為に飛んでいるヘリの音が、音だけ聞いていると戦渦の現地にいるように感じられるからという理由かららしいが、本当に時々目を閉じて回りの音を聞いているとよくテレビのイラク戦争報道とかで聞いていたあの状況下のサウンドに似ていましたーーーというちょっとしたおまけつきで、その家の中でアガメムノン暗殺の悲劇のシーンが演じられるわけですが、言ってしまえば、それだけ、、、アガメムノンがトロイア戦争を勝利に導き、10年ぶりに妻の待つ故国へ凱旋、一方妻とその愛人は家で(今回は墨田区にその家があり)英雄の帰りを今や遅しと待ちわびていて、実は風呂場での暗殺を計画している、、、というこれだけのお話なのですが、これが、なかなかにして面白い。

実際にアガメムノンを家の中で今か今かと待ちわびる。。。玄関のガラス戸越にに写るアガメムノンの影、、暗い家の中で妻クリュタイメストラとアガメムノンが重なりあう。。それを息をころして眺める、、で裏庭に現れた暗殺者、浮気相手のアイギストスの気配を感じ、、風呂場の熱気を吸う、そしてだまされて思いがけない展開で風呂場で殺されるアガメムノン。。。とこれらを電気が消えてとなりの人の顔も見えないうすぐらい民家の中で、移動しながら好きな位置でこの惨劇を目撃・観劇するわけです。

どうも、このものすごく自由な観劇のスタイルが、また、自分で行動する観劇スタイルが、でもって、普段は言葉も交わさない、同じ回へ参加した観客との小さな関わりが、、、ドキドキ、ワクワクして、たまらない。

やっぱり、参加型の演劇、、受け身のものよりも好きかも。

このプロジェクト、まだまだ続くようなので、今回参加出来なかった人々も要チェック!!
東京アートポイント計画

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