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2009年7月

2009年7月28日 (火)

八犬伝

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千葉を拠点に活動を続けている三条会の「八犬伝」を千葉城前に設置された屋外特設劇場へ観に行く。

天気予報によれば、どうにか曇りの予報だったのだが、関東全域雨模様の天気がそこだけうまく晴れるわけもなく、終始カッパを着用しながらの観劇となった。

滝沢(曲亭)馬琴の「南総里見八犬伝」をベースに、八剣士(犬)が悪方と戦いながら次々に出会い、結束を固めていくその過程をかなり大幅にハショりながら、実際の若い役者たちと物語の中の血気にはやる若い剣士たちの姿をダブらせ、若手劇団の勢いを描いていく。

激しく打ち付ける雨の中、役者たちは石階段を駆け上り、泥と草の舞台を飛び回る。
時には激しく降る雨に声をかき消されながらも、実寸の城という贅沢な背景を背中に演じられる時代劇(風)活劇は面白さ倍増。
たとえ、こんな悪条件でもやっぱり場所を厳選した屋外劇は、それだけでも観劇という行為を幾倍にも楽しませてくれる。
ストーリー云々よりも、お城の前で松の木をしたがえての八犬伝、そこに着ぐるみの犬というキッチュな今をプラスして、、、夏はやっぱり楽しまなくちゃ!という夏ならではの企画の勝ち。
(FUJIロックなんて、はっきり言って、みんな演奏聞いてないもんね〜〜。なんて言っても夏のお祭りだから。。その場にいることに意味があるんだよね〜)

利賀のフェスって行ったことないけど、どうなんだろう?
ゆる〜〜〜〜い感じでやってくれてるんだったら遊びに行ってみようかな?!


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2009年7月26日 (日)

kyotonomatopee

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平田オリザ率いる青年団の国際演劇プロジェクトプログラム「kyotonomatopee」を観る。

オノマトペ(擬音語)の研究者でありそれを取り入れた芝居を作っている、フランス人の演劇人Laurent Colomb氏が青年団の日本人役者たちとつくりあげた今回の作品、日本語(主に日本語)、英語、フランス語、ごちゃまぜで語られる舞台は台詞の流れが音楽的で、それでいてユーモアとシニカルも混ぜ合わさり、独特な味をだし、新体験の舞台で新鮮。
ストーリーが無く、また言語も混ざっているため、それを観客へ伝える役者たちの朗唱術が問われるところだが、発声、体での表現、ともに見事に演じきっていた。
さすが!!
(この戯曲、俳優のワークショップとかで使ってみても面白いかも、かなりの訓練になると思います)


箱が一つ置かれただけの、なにもない空間で、役者と対峙する面白さ、演劇の醍醐味ですね。

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2009年7月23日 (木)

ブラックバード Blackbird

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SEPT(世田谷パブリックシアター)今年度注目作品、ホリプロ制作、栗山民也演出による07年英国オリヴィエ賞ベストプレイ賞受賞作品、David Harrower作「Blackbird」を観る。

観劇後は深い失望感のみ。。なんでこんな作品になってしまったのか!?原文で作品を読んだときの、あのヒリヒリするような緊張感と先が見えない焦燥感、封印された真実を解き明かすために登場人物2人の間の交わされる会話のバトル(特に若い女ーウーナにとっては明日を続けるために必須のバトル)が、今回の舞台上にはどこにも無い。

SEPTメイン劇場、いくら舞台セットを小振りにしつらえたところで、天井には青空が描かれ、開放感にあふれている。すぐ隣におあつらえ向きの小劇場シアタートラムがありながら、今回の芝居には全く持って不釣り合いなメイン劇場の方で上演したというところからして、大いに疑問の残るところ。
セットにしても、ゴミは若干散らかっているにしても、それにしても日本レベルの清潔感は十分にクリアーしていてどこもかしこも奇麗、天井には不必要な便所の100Wばりの照明器具が煌々と部屋を照らしている。出入り口のドアにしても誰でもがすぐに入ってくるような、外界から逃れるために隠れ場所として選んだ部屋とは思えない。過去の秘密を打ち明け合う場所というよりは、学校の教室なみにオープンなイメージ。世界の中で追いつめられた二人には似つかわしくないセット。
いずれにせよ、シアタートラムで上演する方が、この芝居を何倍も効果的に見せられるということは火をみるよりも明らかな事!だと思うのですが、その辺ところ、大事だと思いますよ。少しでも可能性があれば、よりよい可能性に近づける!でなければ、芝居文化なんて根付かないよね。

配役にしても、完全なるミスキャスト。50代後半の変態性性癖というタブーを心に抱える、心の弱い中年男と幼くしてとてつもない心の傷を負ってしまった、しかしながらこれからもそのトラウマと一緒に生きていかなくてはならない若い女性。。。。。では無かったですよね。内野さんは髪を白くしたところで、うらびれた、人生も終盤にさしかかった異常性愛者には見えないし、伊藤さんはトラウマを持ちながらどうにか生きている女というよりは、やはり華やかな毎日を過ごすどちらかというとスポットライトの似合う女にしか見えなかった。

話の内容はー15年前、男が40代、女が十代初めの時に同じ街で暮らしていた二人。孤独な男と恋愛にあこがれる少女とが関係を持ち、ついには恋の逃避行を企てる。しかし、その旅の初めに些細な行き違いから二人はすれ違って離ればなれになってしまう。結局、その行き違いの真相を当人同士も知らないままに、二人の駆け落ちは公の事件へと発展し幼児虐待容疑で男が警察に逮捕される。
そして、今、ひょんなことから男の居場所を知った女が、今や名前も変え違う人物として別の人生を送る男のもとへ未解決の真実を確かめるために会いにくる。当時を振り返り、またそれぞれ自分の人生を振り返りながら、それぞれが亡くした15年を埋めようと、相手に言い寄り真相を問いかける。
男は幼児性愛者なのか、それとも真実の恋愛だったのか、、、二人の穴ぼこだらけ(決して理論立てて説明をしている会話ではないので、観客はその小間切れの台詞から答えを探ることとなる)の会話はその両極端の答えのあいだを始終行ったり来たりを繰り返す。
あくまでも自分は正常だ、と言い切る男。彼は名前を変え、すでに過去を無かった事として葬り去っている。一方、事件を認め、その事実と一緒に生きてきた女。彼女が信じてきたものは、果たしてその通りのものだったのか?
人の弱さ、男女のメンタリティーの違い、人生の幕引きを考えている中年とこれからという若年という二人の年の差からくる事件の重みーさらにはだからこそ、未成年者に事件が与える傷のいかにざっくりと深いことか、という発見。などなど、二人だけの会話劇は、それこそ充満して爆発寸前の問題定義を含んでいる。

彼らの会話から、彼らが背負ってきた重苦しい罪、ましてや事件が解決してから今日に至るまでの悶々とした自分への問いかけ、、などというこの舞台当日の二人の再会へ至るまでの、劇の中核をなすそれ以前のそれぞれの人生、、、が見えてこないのが致命的。

変態か純愛か?なんて男女のラブストーリーだけでは収まらない、むしろ老若男女誰でもが抱える、自己に関するジレンマ、思うようにはいかないライフストーリー、人間の性ーそして、明日へ、、というと〜〜〜〜っても素晴らしい戯曲だけに、とっても残念。

単なるショッキングなラブストーリーだったら、無名の新人作家の作品がのオリヴィエ賞なんて取らないよ。
そんな肩すかしをくらった反応がカーテンコールのまばらな拍手に反映されていたように思う。

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2009年7月22日 (水)

シアター・マラシーナ(クロアチア)

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杉並区の新しいパブリックシアター 座・高円寺にて子供のための演劇フェスティバルのプログラム第一弾、クロアチア シアター・マラシーナ(Theatre Mala Scena)によるフィジカルシアター「パラシュート」を観る。

金曜の晩に高円寺のスパニッシュタパスで友人と飲んだ帰り、飲み屋がひしめく路地の一角でシアター・マラシーナの一団と遭遇。どこで食事をしたら良いのかさっぱり分らない状態だった彼らを近くの沖縄料理居酒屋へ(ジモッチーである友人のおススメ店)案内して、ついでにちょっとお酒をいっしょに飲んだのがきっかけで、翌朝(子供劇場なので朝早いんです。。これが)、再度、高円寺へくり出して、彼らの舞台を観劇。

国内外で数々の賞を受賞しているというだけあって、超シンプルながら、子供が観て、さらにその後もその舞台を思いだして遊べそうな、想像力あふれる楽しいステージに仕上がっていた。

大人目線は一切なし、だから変に教育的な目的もなし。そのかわりに子供達はパフォーマー二人が動いて、そして見せるこどもゲームの延長線上にあるような想像の世界に目がキラキラ。
普段は咳でさえはばかられる劇場内には子供達の「あれ?あれ何やってるの?」「わかんないよ〜〜〜〜!」「ほら、あそこから出てくるよ〜〜〜!!」などの声がフルボリュームで響き渡っている。
風船が飛べば、ダッシュで風船を追っかける子供もあり。と〜〜〜っても自由な演劇スペース。

それこそ、泣きわめきさえしなければ何でもありな芝居観劇だった。

今でこそ、やっと、公共劇場などで子供向けのプログラムも取り上げられつつあるけれど、それでもこども演劇に関しては後進国の日本。ほとんどの人の初めての観劇体験が学校での集団観劇というーそれもいきなり伝統芸能だったりしてー演劇環境で、やっぱり小さい頃から劇場という場所に馴染んでおく方が良いに決まっている。こども劇場、、、もうちょっといろんな事を調べてみようかなと思った。

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Cover

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ペンギンプルペイルバイルズ(PPPP)の一年ぶりの新作(パンフによるとそうらしいです。倉持作品は定期的に観ているのでなんだか1年ぶりと言われると、へ〜〜〜という感じですよね)Coverを本多劇場(こちらも、パンフによると初本多登場だそうです。へ〜〜〜)で観る。

のっけから、え〜〜〜〜そんなことあり得ないっしょ!とつっこみたくなるような、ー舞台上部でハリボテの車でのカーレースが行われているのだが、お互いの車がぶつかりあって、ガードレースへ車をこすりつけて火花を散したり(まず、007でもなければ一瞬にして事故で全員死んでるよね)、ジョーズ並みの力で釣り竿が引いてしなっているのだが、つれたのは手紙を体にからめたタコ?!ーオイオイそれはいくらなんでも無いでしょ?的な出だし。

で、どうなる事やらと見続けていたら、これがおっとどっこい、倉持不思議ワールドが完結していて、いつの間にやらそのナンセンスさが快感に。
最初から、いわゆる従来の劇作、プロットのセオリーに懐疑をもってこの芝居を作っているんだろうな、という作品。登場人物同士の会話はすれ違いっぱなしだし、舞台空間だって境界は曖昧だし、ズレ加減が芝居が進めば進むほどに、ビミョウに波うってきて、最後にはその変な波に良い加減で酔ってしまい、そのまま気持ちよく漂っていたら、一応最後にオチもついてきた、っという感想。

言われてみれば、思い当たるのは若手の劇作家たち共通の“既成の芝居に対する疑いの目"。

CGとネット社会で育った世代には、わざわざ芝居をするからには彼らなりの芝居への動機づけが必要となってくるのだろう。従来の演劇の継続ならば、わざわざ演劇に関わる必要もなく、なのになぜ今演劇を表現手段として展開するのか?ーーーーそんな、彼らなりの真摯な問いかけの答えが彼らの独特な、アンチテーゼ手法に表れているのではないでしょうか?

で、今回のお芝居ですが、一見それぞれに関係ないナンセンスギャグで埋め尽くされた台詞の果てには、長い長い年月をかけてこそ見えてくる人と人との関わりに関する礎、という、感慨深い作品でした。

ゲストのお二人ー鈴木砂羽、谷川昭一郎ーが好演。


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2009年7月21日 (火)

テンペスト りゅーとぴあ能バージョン

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原宿の能楽堂にて、新潟りゅーとぴあの人気シリーズ、能スタイルシェイクスピアの最新作「テンペスト」を観る。

前回のハムレットでは、ハムレットが終始床に座ったままという斬新な演出法でみせた能シェイクスピアだが、今回のテンペストは比較的オーソドックスな演出で、台詞は簡潔化しながらもテンペストのストーリーをとっても分り易く見せてくれている。

オリジナルからエッセンスを抽出し、核と思われる部分を強調するというスタイルはいつも通りなのだが、ことさら今回はその主題選びに潔ささえ感じられた。

そんな中、全ての面で舞台を牛耳っていたのが演出家であり、今回主要な役の一つプロスペローを自ら演じている、栗田芳宏氏。
まさに、全ては栗田プロスペローの思惑のままに、、という舞台だった。

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奇ッ怪〜小泉八雲から聞いた話〜

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巷で面白いと評判の舞台「奇ッ怪」を観に行く。
小泉八雲による怪談の再話集をベースに、今ノリにノッている劇作家・演出家であり劇団イキウメ主催者、前川知大がオリジナル戯曲として再編集、再話を施した、夏にぴったりの怖〜〜〜いお話。

評判が人を呼び、シアタートラムの観客席をぐるっと囲むほどの補助席、立ち見席が出ていて、開演前から期待が大いに膨らむ場内ーこんなの久しぶりhappy01という感じー。

その期待を裏切る事無く、とってもバランスのとれた秀作舞台に仕上がっていた。
古くから伝わる怪談話(八雲の怪談から)に現在の時空間で起きているミステリーが巧妙にもつれあっていく筋立ても見事なら、おどろおどろしいというよりも洗練された美的感覚で恐怖を表現した舞台美術もお見事!ー美術担当の土岐研一氏はイキウメの舞台を初演から担当されているそうで、そういわれれば、いつもシンプルなシンボリックな舞台美術だったな〜と思い返すー
そして何よりも、役者陣の個人技とそれが合わさった時のチームとしてのバランスが素晴らしい。
オールラウンドプレイヤーの池田成志(イヨ!プロの技)、主役としての華がありながらチームにきちんと溶け込んでいる仲村トオル(ヨ!色男)、そして名バイプレイヤーにして喜劇もシリアスもお手の物の小松和重(笑わせてくれますね〜)、、でもってこちらも、この人がいると舞台がしまる!天性の舞台女優、歌川椎子(ジテキン時代から贔屓にさせてもらってます!)、とそれぞれがきちんと自分の仕事をこなしながら、他の人のカバーまでさりげなくしてしまう!こうゆうチームだから、みんなが並ぶような舞台が出来るんでしょうね。

それにしても、昨今、ちょっと迷走気味の演劇界、スターを生むための舞台づくり、はたまた作り手の“芸術性”を世の中に知らしめるための舞台づくり。。。なんて、すっかり観客がおいてけぼりを食わされるような舞台が多いような今日この頃、観客もそのあざとさを見破っていて、ちょっと演劇界全体に停滞ムードが漂っていましたが、今回のように元気があって、面白い舞台には、ちゃ〜〜〜んとその結果がついてくるんですね。

だから、観客を甘くみちゃいかん!という例です。

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2009年7月17日 (金)

赤色エレジー

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ドイツ人演出家、ペーター・ゲスナー氏とプロデューサー綿貫凛さんが立ち上げた新演劇プロジェクト、プロジェクト・ナッター(ドイツ語で`へび’の意。戦時中のドイツ軍、迎撃用"有人!!”ロケットの愛称でもあるとのこと。。。。蛇足になりますが、英語で同音発音のナッター(Nutter)になるとマッド=きじるしということになり、きxがい集団ということになります。フェー〜〜〜イ!)の第一発目作品、およそ30年前に書かれた別役実氏の隠れた名作「赤色エレジー」を下北沢、スズナリへ観に行く。

別役氏の戯曲に書かれた世界はかなりドライな風刺とユーモアが詰まった世界なのだが、舞台にあがると書かれた時代そのものが既にノスタルジックな、一昔前のものなので、懐古色が色濃く全体を覆い尽くして、尖った不条理劇というよりは、「あの時、君は。。。」的なウェットな社会派ドラマに様変わりしていた。

今となっては、はるか昔(60年代生まれの私なんかにとっては、かろうじて皮膚感覚で感じ取れるぎりぎりの時代なのだが、若い人には昭和初期ぐらいの遠い昔なんだろうな〜)、60年代終わりの学生運動が終息したすぐ後の、全共闘たちの成れの果ての姿、燃えかすとなってくすぶっている若者たちを描いた芝居なのだが、劇場に集まった観客すべてが、その状況を説明せずとも共通認識として理解しながら芝居を観る事ができたかどうか?はちと疑問。

メーデーだって、今やGWの中の1日にすぎず、同志と言われても、若い人にはピントこないでしょ、やっぱり。

そんなこんなを考えながら、一方、この傑作に日の目を当ててくれた今回の企画には感謝。
でもって、様々なところから集まった年齢幅のある役者たちの共演も楽しめた。
主役のダメンズ、男1に扮した寺十さん、アフタートークでプロデューサーに抜擢されたと語っていたとおり、やっぱりこの役はあなたでしょう!とはまっていました。
(欲を言えば、もっと廃人的にさらに無気力に、無感情でやってくれても良かったかも)

別役氏の戯曲は簡潔にしてニート、想像力をかき立てられる余白の部分がここ、そこにあふれているので、この翻をベースにして何人かの演出家に「僕の赤色エレジー」を競演してもらっても面白いかもというような素晴らしい戯曲。

終演後、特別ゲストのあがた森男氏のトーク、歌は値千金!この日に観て良かった〜〜〜〜。ラッキー。

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孤独のススメ

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朝の情報番組で「便所メシ」なるものを紹介していた。
大学の構内のトイレに「トイレ内での喫煙、、、飲食を禁ずる」との張り紙が貼られ始めたことを受け、大学に対し調査を行ったところ、学生がトイレで食事をしているような形跡あり、という結果が出たとのこと。その後の調べでも、「学食で食事をする際に一緒に食べる友達が見当たらない場合は、食べるのをがまんする。」「一人で食べているところを他の人たちに見つけられたらはずかしい。」などの回答があり、その延長線に隠れて食べる便所メシなる現象がでてきているのでは、という事だった。

隣で観ていた我が家のKYさん曰く、「それこそどこでご飯を食べようが自由!そんな事までとやかく言う必要は無い。そいつが便所で食べたいならほっとけ。」とのコメントでしたが、ま、テレビで取り上げている趣旨とはちょっと外れるので、こちらのご意見はほっといて、、、ま、そう言ってしまえばそれまで、で、彼らだって便所で食事をしたくてしているわけでは無いのは誰もが分っているから、なぜ?というニュースになるわけですから、ね。

そこで、華やかなるキャンパスライフを送るユース諸君に言いたい、「一人になって、ドツボにはまって、無駄に時間を貪ろうよ!大いに孤独たれ!!」と。

人の単位はひとり、ひとり、、、個人単位であるということは万人承知の事実。だから付き合いも基本的には一対一、だからね。

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2009年7月15日 (水)

「穴」「鵺」「ヘッダ・ガブラー」

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先週観た芝居、舞踏3本。

「穴」
恒例の大駱駝艦、壺中天公演を吉祥寺のスタジオへ観に行く。

今回は主要メンバー、メイン公演の振り付けもこなす村松卓矢氏の振り付けによる作品。
前回、吉祥寺シアターで上演した「ソンナ時コソ笑ッテロ」は、かなりぶっ飛んでいて、ファンキーにアートな秀作だったのだが、その余韻を含んだような、スタジオの中で出来うる限りでアナーキー、という作品。前回の塩谷氏、また田村氏らによるの作品群のようなストーリーを喚起させるというよりも、即興ジャズ演奏にも似た感じのノリ。
しょっぱなの穴にハマって行く件は、ちょっとモンティ・パイソンのアニメを彷彿させてくれた。

「鵺」

坂手洋二氏による新作現代能「鵺」を新国立劇場で観る。
「鵺」という架空の生き物を話の核にすえたー頭は猿、胴は狸、尾は蛇で手足は虎、鳴き声はトラツグミー時代設定の異なる三部作で構成されているのだが、冗長で仰々しい印象。

坂手氏の得意とするところの社会性が垣間見える、第三部(現代のどこかアジアの街での設定)だけで、というかそこの部分をもっといっぱいみせて欲しかった。
現代能なら全編、現代劇でも良かったんじゃないー頼政のエピソードそれほど必要かなー?

朝日新聞の評でも触れていたが、役者の演技にバラツキがありー第一部、戦国時代の家臣役、村上淳が演じきれいてなかったーそのあたりも気になった。

「ヘッダ・ガブラー」

若手俳優人による、イプセンの「ヘッダ・ガブラー」を小劇場、赤坂REDシアターにて観劇。

「ヘッダ・ガブラー」の舞台、お恥ずかしながら、今回が初見。ー伝説の舞台、デイビッド・ルヴォー演出、佐藤オリエ主演によるTPT制作の舞台「ヘッダ・ガブラー」を当時、海外にいたもので見逃しているので。。。ー
さすがに戯曲は、その面白さが溢れでていたのだが、何と言っても、役者がお粗末。
TPTの舞台にも数多く出演している山本亨氏が出ているところのみ、安心して観ていられるというのも、いかがなものか。
主役の小沢真珠、足と手が一緒に動くような棒立ち演技には興醒め。全ての語尾が同じイントネーションで終わる台詞回しも、まるで昼メロ。(申し訳ないが、いくらキャラがたっていても、ちゃんと演じてもらわなくては、、、芝居自体が成り立たない。名作だけにもったいない。)
伊達暁、町田マリー、、こちらにも昼メロ臭が移ってしまったかのような、、、
等身大の同年代の役だけでなく、古典もちゃんとこなして欲しかった。

こうなると、TPTの舞台、タイムマシーンで過去に戻って観てみたくなった。

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KYで威張られても。。

先日、我が家のイギリス人の旦那にKY(空気読めない)について説明していた時のこと。

私の説明を聞いて、意味を納得した夫が、嬉しそうに「じゃ、僕、KYだ!」って、ニコニコしながら言っていた?
思わず、「は〜〜〜〜〜ん?」
「自分はKYだって、自己申告する人も初めて見たし、それを自慢げに言うのも初めて聞いた。」って返したら、「そうなの?なぜ??」だって。

これ、これですよ。我々日本人がイギリスに行って、度々損をする原因が、ここにあり。

それぞれの文化の違い、受けた教育の違いなのでしょう、私たち日本人の謙遜とか、それこそ、他を見て我を知るなんて考えは彼らには想像もつかず、、我々のよかれと思って、の行動があだになる事がしばしばある。

まず、彼らに謙遜なんてややこしい自己表現は通じない。謙遜なんて高度な技を使おうものなら、逆に「へ〜〜〜、何にも出来ないんだ。つまんない奴。」と思われておしまい、というのがやまやま。

この現象が表れるのが、パーティー会場やパブでの自己紹介の場面。「私なんてしがない一介のサラリーマンですよ。」なんて自己紹介している輩なんてまずいない。ちょっとその人の事を知っているだけに、それぞれの自己紹介を横で聞きながら「おいおい、そこまで言っちゃうの?あなたそんなにスゴい人だったけ??」とツッコミを入れたくなる場面なんかも日常茶飯事。

ま、お互いに全員がそのレベルなので、聞いている方も自然とちょっとばかりさっ引いて聞いているので
それを自覚して、大いに自己肯定して語っても良し。
それこそ、そんなスッゲー奴がごろごろいるわけもないので、気軽に「こうなりたかったな〜〜」ぐらいの自分を表現しておこう。

また、彼らにとってKYは一つの自己表現の現れでもある。
みんなと一緒が好き、出る釘にはなりたくない、、と思っている国民と違って、彼らは唯我独尊こそが自分の生きる道と信じている。
なので、釘だって、思いっきりいろんな所で飛び出たい、なるべく人とは違うところで飛び出してやろう!また回りもそれをステキ!と評価する。

だから、KYで何が悪い!という方向へ行くのでしょうね。

日本人である私ですから、最初は彼らの流儀に面食らったけど(ま、釘に関してはあまり抵抗は無かったけど)、郷に入っては、、ですから、、、それでも、やっぱり自己PRは控えめかな?
やっぱり、話しているうちにハズカシくなってきちゃうからね〜。


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サンデー・イン・ザ・パーク・ウィズ・ジョージ

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どうやって、表現しようかな〜と迷ってたところ、今、タイトルを打ちながら、これかも!と思ってしまった。

サンデー...ってカタカナで今回のミュージカルのタイトルを打ち込んだのだが、これ、とっても分りにくい、でしょ?

でも、このミュージカルのタイトルはこの長ったらしいカタカナの 「サンデー・イン・ザ・パーク ウィズ・ジョージ」なんだよね。

昨年(08年)、トニー賞受賞作でもある本作、You Tubeでその映像も観てみたけど、さすがに受賞作品だけあって、生で観てみたいと思うような感じだった(You Tubeなので部分的にしか観れず)。
で、今回観た日本版の舞台は?というと。。。。。なんだかワクワクもドキドキもせず、とっても平板な出来。

宮本亜門の映像技術を巧く使った演出も面白いし、もちろん作品自体も一癖も二癖もあり凝っていて、なるほどと思わせるものなのだが、如何せん、同じ劇場で数年前に上演した、同じようにフランスを舞台に芸術家の苦悩を語った三谷幸喜の「コンフィダント」ーこちらはストレートプレイでしたがーのような魅力ある舞台にはほど遠い。

なぜなぜ??
これ、翻訳ミュージカル=カタカナ・ミュージカルがあだになってしまった例かも。
上演するごとにソンドハイム ミュージカルの難しさー楽曲の難易度の高さーが取りざたされるけど、それって単に歌うのが難しいというだけでも無いように思う。やっぱり、英語の言葉にあわせて、言葉のリズム、発音の高低に、それこそぴったりくるように曲が作られているから、日本語で歌ったときに「これが名曲なの?」と感じさせる違和感が残るんじゃないの?
かといって、曲で話の筋も説明しなくてはいけないから、翻訳を異訳するわけにもいかないし、ね。

ま、それと加えて、それぞれ上手いのは上手いけど、歌唱の表現力が客を感動させるほどには達していなかったって事なのかな?
一通り、こなしているけど、それ以上のところまでは到達していない?
これも、ロングランにでもなれば、上演回数を重ねるごとに、ってことになるんだろうけど、それも望めないし、、、

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2009年7月14日 (火)

桜姫(2009年版)

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コクーン歌舞伎「桜姫」2009を観る。

05年版の記憶も新しく、今回は現代版と歌舞伎版の2バージョンということで、歌舞伎版の方はそれほど変化がないものだと勝手に思い込んで観に行ったのがだ、なんのなんの、これが大いに変わっていた。

まずは、舞台セット...前回が通常のプロセニアム型劇場使用で、一階舞台正面に平場の座布団席を設けていたのに対し、今回は現代版に引き続き囲み型の四角舞台で背面客席下の部分に出入り口を設けている。
この点、セットが基本構造から大幅に変わったことにより、必然的に演出も全く違うものに変わった。

前回、登場人物ごとに宇野亜喜良さんの肖像画タペストリーを背負って高い櫓にのって登場していたキャラクター達、今回はコクーン劇場の天井の高さは使わず、観客せきから舞台を見下ろすスタイルなので、それぞれが低い台ーおひな様を飾るときの土台みたいなものーに座って(!?)出入り幕から次々登場、見上げる舞台から見下ろす舞台への変化あり。この土台ごと舞台上を動き回る奇麗な着物を着た歌舞伎役者さん達が、まるで磁石版の上で動かされているお人形さん達のようで、キッチュ!!かなり制限された役者さんたちの上半身の演技が、のっけから歌舞伎舞台という予想に反して、意表をついて○効果。

この囲み舞台、舞台スペースがかなり小さい上に、文字通り四方+上方向からも丸見え状態。
この悪条件をいかにオモローな好条件へと変えるのかが、今回の演出家、串田和美氏の腕の見せ所とも言えるのだろうが、そこは、海外コクーン歌舞伎を劇場ではない場所で上演もしちゃっている串田氏のこと、舞台を360度ガンガン回しまくって、スポットライトで桜姫(中村七之助)の美しさを強調して全部の視線を釘付けにして、、、、05年版とは違う桜姫の世界を作り出していました。

と言うわけで、今回は前回から若干のキャスト変更もあったのですが、
まずは、主役の桜姫が中村福助から七之助へ変更。

こちらも至極当然のことながら、役者が変わったことにより、「桜姫」の役作り(おそらく演出も含め)にも変化が見られた。
前回の福助版が「天使の顔をした魔性の女」、けっこう確信犯なダメンズ好きの桜姫であったのに対し、今回の七之助版はそこまでいかずに、若いうちにダメンズに会ってしまった故に身を滅ぼす、世間知らずのお姫様の桜姫。
もしかしたら、後者が歌舞伎の筋で言うところの桜姫像なのかもしれないが、個人的な意見としては、何と言ってもコクーン歌舞伎、ただでさえちょっと外れているんだから、やっぱ渋谷的小悪魔桜姫(前者)のキャラの方が面白いかも、と思ってしまう。

それにしても、七之助さんの女形は、ず〜〜〜〜〜っとオペラグラスでそのお姿をおっかけてしまうほど、奇麗でございました。ふ〜〜〜〜。(台詞がちょっと弱かったのが難と言えば難)

で、もう一つの重要なキャスティング変更が、前回は清玄と権助を中村橋之助が一人二役やっていたところ(通常、歌舞伎でもこのように演ずるらしい)、今回は清玄を中村勘三郎、権助を橋之助と二人で分けて演じていたところ。

後半、二人が一瞬入れ替わったりして、表裏一体という意味をみせていたものの、、、やっぱり一人で演じ分けた方が、芝居としては奥が深まって良かったのでは?勘三郎の清玄というのも、ウ〜〜〜〜〜んしっくりこないかも。意を決して、どちらか一人に決めた方が良かった気がする。(ダブルキャストで2度楽しめるというのでも良いし)

と、もろもろがあり、前回のものとは違う桜姫のお話になっていたので、これまた自然の流れでラストも違った終わり方になっていた。
それぞれのキャラを考えたら、今回は純粋な若いお姫様の死後の世界はこれで良いのだな〜〜〜ととても納得。

このように、丁寧に再演をすれば、「単なる評判が良かった舞台の再演」というだけに終わらず、さらなる発展系という再演舞台が作れるのだという事をはっきりと見せつけられた舞台。

ま、シェイクスピアとかチェーホフとかの現代における舞台化もこれに近いものがあると思うのだが、ただ単に話を追って、舞台化するのではなく、そのとき最適のテーマを抽出し、さらに役者と検討し、それぞれの役者が演じるのにふさわしい演出方法を見つけ出し上演する。当たり前だけど、あまり行われていない重要なこと!

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2009年7月12日 (日)

胎(て)

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韓国国立劇場の「胎」を世田谷パブリックシアターにて観劇。

韓国演劇界の重鎮、オ・テソク作・演出による芝居で、74年初演以降、改訂、改演出などを重ねながら上演しつづけてきた作品とのこと。

話はいたってシンプルで、500年前の史実に基づいた、宮廷での権力抗争、それにともなう派閥抗争、大量処刑の悲劇。敵を封じ込めるばかりでは、負の連鎖が続いて実りが無いと訴えている。

オ・テソク氏が評論家の大笹氏とプレパフォーマンストークを行っていたのだが、これがなかなか面白かった。
日本人だと、司会ばかりが語ってしまい一方的な解説で終わってしまったり、または内輪ウケ話などでお茶を濁すことも多いのだが、このオさんが語る、語る。
裸足(?)にラフなシャツ姿で現れ(重鎮なのに)、韓国演劇について、もちろん自分の演劇活動について、そして作品に関して、大いに語ってくれました。アーティストは本来こうでなければ、やっぱり自己主張でしょ、と思わされました。

で、舞台は高尚なーハイアートーなトーンで、美しく、、シンボリック。トークとは反対に多くを語らず
観客の想像力にかなりの部分をゆだねるような作り。
それにしても、やっぱり韓国の女性は直情型ー泣いて、叫んで、また泣いてーとま〜、ま〜お国柄なんでしょうね。

奇麗で、俳優も上手くて、、で良いのですが、やっぱり私としてはもっと若手の演劇ーいわゆる韓国の小劇場というものをもっと観てみたいと思ってしまいます。
だったら、近いんだから行って観れば?って事ですよね。

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トーキング・トゥ・テロリスト

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池袋、あうるすぽっとにて英国人Robin Soans作、古城十忍演出の「Talking to Terrorists」を観る。

作家が実在する人物、何らかの形でテロ事件に関わった人々(29人にインタビューを行ったそうです)から聞いた実話をつなぎ合わせ、1本の劇作品として完成させたものを役者が一人数役を演じながらそれぞれのエピソードを繋いでいく形式でいたってシンプルな舞台ーテーブルと椅子、舞台両側に作られた張り出しデッキくらいーの上、生の声が語られていく。
当日配られていた、リーフレットによると、演出家の古城氏が05年文化庁の留学で1年間英国に滞在していた際にこの芝居に出会い、上演前の稽古段階を見学する機会を得たことから、4年後の日本での上演が実現したそうだ。

冒頭に、インタビューは録音スタイルではなく全て筆記スタイルーその場でインタビューをメモするーで行われたと役者によって語られていたのですが、そんな現場の緊張感からか、それぞれのインタビュー相手との関係性、その場の雰囲気なども想像できるような緊張感のあふれる戯曲に仕上がっていた。
ドキュメンタリーシアターとして、実際に語られた言葉そのもので構成されているので、例えば、そのような素材をもとに作られたフィクション劇よりも、台詞一つ一つにさらなるリアル、例えば例に挙げられる事柄、人物などがより身近に感じられるような日常感覚の例であったりして、イギリスに住んでいる観客には、どんなテレビ番組よりも刺激的な芝居だろうなと想像されるーこれだったら、切符を買って観に行って、その上ポストトークなんかにも参加したいと思わされるだろうな〜〜〜〜と。

イギリス南東部の保養地ブライトンで開催された保守党、党大会にあわせてIRA(アイルランド共和軍)がしかけた爆弾が爆破ーちなみにこのIRAによる爆弾騒ぎはイギリスでは日常茶飯事。私が暮らしていた90年代では、それこそ頻繁に`爆弾が仕掛けられたとの情報が入った’との理由で繁華街の道路が封鎖されたり、交通機関がストップしたりしていた。現在は武装攻撃の停止が宣言されたので、以前ほどではないのだろうが、ロンドンっ子たちにとって`爆弾’という言葉はかなり日常レベルのもの。だから、市内にはセキュリティーカメラがそこらじゅうにあって、誰でもが一日200回以上どこかのカメラに収まっていると言われているー、当時、党御用達のホテルに滞在していた閣僚たちのうち5名が死亡、30数名が怪我をする大惨事となった、というエピソードが芝居の一つにあるのだが、私が驚いたのはそのテロ事件の詳細もそうなのだが、当時の首相サッチャーが翌日予定通り党大会を開催したという方の事実。
同僚に死人が出ているのにですよ?鉄の女、だからこそなのでしょうか?それにしても、胸くそが悪くなるエピソード。
その他にも、それぞれのテロ事件、その事件の内容も重要なのだが、その他にも新聞記事からこぼれ落ちたようなエピソードがポロポロ出てくるところがこの芝居の、まさに瞬き出来ない、耳をそばだててしまう面白さ。
ウガンダ国民抵抗軍の女性兵士が殺人マシーンと化してしまう、その背景にある、そこへ行き着かなければならない彼女の生い立ち。
などなど、、、実に中身がぎっしりとつまっていて見応え十分の芝居だった。

6月に行ったイギリスで感じたことなのだが、現在のロンドンでは世界情勢を反映した芝居の多い事と言ったらない。
アフリカの情勢不安、貧困問題に始まり、アフガニスタン情勢が3部作として作られているものも大きな話題になっていたし、地球温暖化を扱った芝居が大絶賛されていたし、、と、多国籍国家であり、ヨーロッパ大陸と隣接し、常に他国のニュースが身近なものとして報道されている国のお国柄なのでしょうか?
日本の小劇場でよく目にする「自分探し」、とか、「人との関わり方の難しさ」とか、ま、それも考える価値は十分にあるけど、たまにはがっつり、芝居を観ながら、世界のゆがみレベルの事を間がえる日があっても良いなと思う。

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2009年7月 6日 (月)

June 6月の観劇

2009年6月 前半はヨーロッパにて観劇。後半は日本で。
<前半>
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------LONDON----------
*Hamlet (Wyndham's Theatre)

*A Midsummer Night Dream (Everyman Theatre in Cheltenham)
*The Merchant of Venice (Everyman Theatre in Cheltenham)

*The Observer (NT)

*Arcadia (Duchess of York Theatre)

* Great Game / Afghanistan Trilogy (Tricycle Theatre)

*THYESTES (Arcola Theatre)

* The Winter's Tale (Old Vic Theatre)

* Little Night Music (Garrick Theatre)

* Waiting for Godot (Haymarket Theatre)

* Cherry Orchard (Old Vic Theatre)

* Peter Pan (Kensington Garden Park)

* Death and the King's Horseman (NT)

* Wallace Shawn Reading program (Royal Court Theatre)

* Phedre (NT)

* When the Rain Stops Falling (Almeida Theatre)

*(Film) - Looking for Eric by Ken Loach

--------Vienna------

* Othello (Wiener Festwochen)


<後半>

*桜姫(現代版)
シアターコクーン

*ZONE~陽炎、稲妻、水の月
Noism09

*ボス・イン・ザ・スカイ
ヨーロッパ企画

*鳥の飛ぶ高さ
青年団国際演劇交流プロジェクト2009

*アンドゥ家の一夜
埼玉ゴールドシアター
(2回)

*五人姉妹
ミクニ・ヤナイハラ プロジェクト

*境界
夢現舎

*寛容のオルギア
ヤン・ファーブル

*じゃじゃ馬馴らし
トネールフループ・アムステルダム / イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出

*ふたりの女 〜唐版・葵上〜
SPAC 宮城聰 演出

*狂ったキッス
日韓演劇フェスティバル あうるスポット

*路上 3
T Factory

*Evil Dead The Musical ~ 死霊のはらわた〜
サンシャイン劇場

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夏の夜の夢

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先日に引き続き、英国プロペラ劇団の「夏の夜の夢」ーダブルビルのもう一本ーを観る。

「ヴェニスの商人」に比べ、日本での上演回数も多く、演劇好きな人なら誰でも以前に一度は観た事があるのでは?という演目である上、プロペラ公演版も原作に忠実なため、客席からの反応はヴェニス。。よりも早く、かつ大きかったように思う。

演出家がこだわっている点の一つ、現在使われている言葉でのシェイクスピア上演という点からも、どうも今回の上演で採用されているイヤホンガイドというのが彼らの公演にはあまり適していないように思うーイヤホンガイドの音声は抑揚の無い機械的なもので、せっかく舞台上でテンポ早く事が進んでいても、その声でノリが削がれてしまうからー。今回、「夏の夜。。」の反応が良かったのは、初めに言ったように観客がガイドの訳をあまり聞く必要がなく、より舞台での展開に集中できたから、、の結果ではないだろうか?

グレゴリー・ドーランが同劇場で「夏の夜の夢」を上演した際(2005年 RSC制作作品)にイヤホンガイドを使用し、それが好評だったため、今回もその方法を取ったようなのだが、ドーラン作品はヴィジュアルで全てを説明してくれるような作品だったので、字幕を読むより、舞台のセット、ライト、衣装etc.を観ればストーリーは一目瞭然というものだったので、その方法が功を奏したのでしょうが、今回のプロペラの魅力は役者たちの台詞のやりとり、さらには男優たちのそのお互いの台詞のかけひきと彼らが生で演奏するミュージックですからね〜〜〜〜、やっぱりガイドの声はちょっと妨げになっちゃうかも。

そう考えると、何とも、芝居は繊細ですな〜〜。

同じ演目で同じ言語で演じられる2作品でも、それぞれに適した上演方法が違うんですから。
やっぱり、マニュアル通りにはいかないのが芝居の面白さ。

「成功する芝居の打ち方」、「こうすればヒット間違い無し」なんてマニュアル本へまとめるのが不可能なものだから、芝居は海のものとも、山のものとも、、、なんて形容されるんでしょうね。

それにしても、、、芝居の中の村のクラフツマンたちの寄り合いが超ウケました。、、あんな人たち今でも英国のパブにはそこら中にいるからね〜。で、彼ら毎晩同じメンツでビール飲んで、楽しそうに話しているからーあり得ない金儲けの話とか、もちろんサッカーの話とかー、だから彼らのやりとりが、近所の親父連中(ロンドンの)のそれのようで、可笑しかったっす。


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2009年7月 4日 (土)

あたしちゃん、行く先を言ってー行程2

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劇団・地点3回目の観劇(3回か4回だと思う)。
やっぱりダメだった。
前回の吉祥寺での「三人姉妹」また、数年前のアトリエ春風舍での公演でも撃沈したのだが、今回もぜ〜〜んぜんダメでした。
熱狂的なファンをかかえる劇団だけに、好きな方には訴えかけるのでしょうが、私には苦痛、早くこの場を去りたいと思わせるものでしか無いのです。3回とも同じ感想なので、きっとこれからもあまりご縁は無いものと思い、しばらくは足を向けないことにします。

実験劇という劇は大歓迎なのですが、どうも私には単に演劇実験にしか見えない。そうなると実験はそれぞれの劇団内で終えて来て、その上で`劇’を観たいと思ってしまうのです。

今回の舞台で台詞を言うこと(発語)について演劇的観点から検証を試みた結果、俳優に行き着いたらしいですが、着地点は良いと思うのですが、如何せん、舞台上でその肝心の役者さんたちを続けて観ることにまったく魅力を感じない、という悲しい結果に終わってしまいました。

どちらかと言うと目をそらしたくなる(実際に劇の終盤は天井のライトと床のコンクリートブロックばかりを観ていました)は何故だろう?
やはり、客席から隔離された役者の演技が、その一方的な特殊な方法論のおしつけが、、、、あまのじゃくな私には「そんなに解りくさっているのなら、我ら観客はほっといてくれ!」という気分にさせてしまうのでしょうか?

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プロペラ ヴェニスの商人

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東京芸術劇場にて英国からの来日カンパニー、プロペラの「ヴェニスの商人」を観る。
終演後に演出家、エドワード・ホールと新芸術監督、野田秀樹のトークがあるということもあり、ほぼ満席状態。
演劇関係者、シェイクスピア研究者、舞台批評家、などなどなど。。。勢揃いの客席で、私の両隣には、またしても大あくび(なぜか、私の隣に座った方々は居眠りし始めるかたなどのケースが多い、、でもってカーテンコールではしっかり拍手をしている???なぜなぜ?)の方が。観たくないなら休憩後に帰れば??でなければ、2幕の間中ず〜〜〜〜っとポリポリ頭掻くの、、どうにか我慢して欲しい。

今作品、英国で一足お先に観てきていて、それも数週間前の事なので、同じ感想なのだが、やっぱり面白かった。scissors
ヴェニスの街をヴェニスという名の刑務所へと設定を変え、囚人服に身を包んだ役者たちは劇の冒頭と真ん中、最後に語られる台詞「どちらがユダヤでどちらがキリスト教?」の言葉どおり、一見したところでは、普通の舞台で明らかに示されるユダヤ人側とキリスト教側の区別がつかない。その上、オール男優という劇団なので、男女の区別も難しい。ーここの劇団の特徴の一つとして全員男性で演じられるのだが、女性の役だからといって宝塚のように男に見せかける格好をしたり、歌舞伎のように女らしさを強調して女形をやったりはしない。マッチョな男がそのまま女の役を演じている。これは、演出家によると、それの方が役と役の間柄がクリアーに見えてくるから、という理由らしい。確かに、女たらしの役があったとしたら、通常はその役者がいかに女たらし然として見れるかという、話の筋とは違ったところでジャッジされる傾向は多くのところで見受けられる。ーそんな、一見同じに見える集団の中で起こる、理由なき差別、裏切り、陰謀、金持ち女性を利用するゲイカップルとまた一方、そんな旦那に愛想をつかしながらも諦めて受け入れる新妻、などなど、アフタートークで演出家が話していた通りに、従来はそのありえない展開にとまどう観客をよそに、その話の強引さを隠すために「ユダヤ人種差別と人肉裁判」などショッキングなレーベルが貼られそのレーベル劇としてみられ、片付けられてしまう「ヴェニスの商人」がその翻訳と舞台のアップテンポによりかなり分り易く、現代に通じる話として上演されていた。
ユダヤでもキリスト教でも日本人でも、弊の中の囚人各自が自分の利益になるように、いろいろと画策を練って、悪事を働かせ、取引をしていく様を分り易く示す事により「ヴェニスの商人」という劇の普遍性ー人の私欲とその人間同士のかけひきーを語ってくれた。

度々見られた、観客へと直接訴えかける演技、また役者同士の普段の会話のような会話のやりとりが舞台をさらに観客側へと引きつけていた。

で、今回の金のくちばし的なおまけの一つが、やっぱり野田さんとホール氏のトーク。

中でも、野田さんが、初めに無難な回答できりぬけたホールへダメだしをだして、さらに引き出した15年前の日本でホールが日本人俳優で上演した「リチャード三世」公演の際のエピソード。
「僕にも次に何が出てくるのかが分らなくて、初めて見る衣装を身につけた役者が舞台上で演技をしているのを観ていたら、舞台を見終わる頃には、まるで英国から日本へ着いたばかりの僕が誰か他の演出家が演出しているリチャード三世を観ているような錯覚に陥った。」と言っていたのが大受けにウケました。

演劇留学生として来ていた彼が体験した出来事は、彼が既に権威のある大御所として来たのではなく、まだそれほど経験もない状態で異国の地で味わった苦い経験だけに、けっこうトラウマになったのだろうな〜〜と想像します。いくら、遠くは慣れた異国の地で起こった事とは言え、やはりキャリアとして残りますからね。。。思い出したくなかったんでしょうね。

プラス、その無難な回答として答えていた話の中にも、国際交流プログラムの難しさをついた問題提起があり、「ただでさえ、暗喩などが多くその解釈、表現が難しいシェイクスピアの戯曲。その戯曲を日本語で上演する難しさを痛感した。」と語っていたのですが、これ、かなり普通に流されている問題ですが、かなり重要だと思います。
翻訳家が翻訳家の仕事を完璧にこなしたとしても、翻訳本と舞台作品の間にまたまた大きな高低差があるもの。それをネイティブでない演出家がテキストにまで踏み込むと、深くて抜けられない問題が出てきて当然だわ。
だから、野田さんだって最終的にロンドンでは英語で上演することにしたんでしょ?

ホール氏が体験した、一つの国際プログラムから、本当にいろいろな問題って見えてくる。

*日本の制作方法と英国のそれとの違い
*翻訳劇の扱い方

それにしても、出来上がった作品が思い描いていた物とは全く違っていたって、、驚いただろうな。


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