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2009年5月27日 (水)

タトゥーから。。

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ちょっと前になるが、新国立劇場のシリーズ・同時代(海外編)のラストを飾る、ドイツの新鋭作家、デーア・ローアの92年代表作「タトゥー」を初日観劇。
新国立劇場の初日というと、殆どが演劇関係者でうまる事が多く、今回も若手注目株の一人、岡田利規が現代ドイツ演劇を演出ということで、多くの批評家、ライターらがつめかける中、ご当人の岡田氏、そして原作者ローア女史も客席中央で舞台をみつめていた。

約一時間半の舞台、終演後ーというか上演の途中から客席内には何だかもや〜〜〜〜〜っとしたような倦怠の空気が。なんだか劇場内が重苦しく淀んでいた。

私自身にとっては至福の90分だっただけにー目ん玉ひんむいて90分舞台を凝視しちゃったんですけどー????ちょっと拍子抜け。

その淀んだ空気は(もちろん)その日だけではなかったようで、その後、いろいろな劇評、劇評ブログなどの評判はどうもあまり芳しくない。インスタレーションのような舞台装置、棒読みの役者の演技(技術によるものでは無く、演出意図としての棒読み)、あまりにも過激な近親相姦の話の内容、などがどうも受け入れられない原因のようだ。

私にとってはその受け入れられない原因全てがこの作品のプラス評価に繋がるのですが、、という訳でどうも巷では賛否両論の舞台であるようだ。
(しかしながら、この結果さえも、中途半端な反応よりもこのくらい物議をかもす方がグッド!なんて思えてしまうのです。)
まずは、
舞台装置ー塩田千春さんというベルリン在住のアーティストが今回のステージセットを担当。その装置だけ見に行っても良いほどの美しさ。吊るされて揺れる窓枠、また不安定なベッドのような脆い現代社会が舞台上に出来上がっていた。多くの窓は人々(社会の)視線でもあるよう。

棒読み演技ードイツ演劇だからMUSTという訳ではないのだろうが、舞台の随所に見られた異化効果の一つとして聞いていると、この方法だからこそ台詞がよく聞こえてきていたように思う。修辞が多く含まれる韻文劇ではなく、短い詩節の連続のような台詞だけに下手をしたら聞き流されてしまうかもしれないそれぞれの心のつぶやきを一遍の作品として日本語で届けるためにはこの方法が有効的であったと思う。(しかしながら役者の中にはとまどいと躊躇が若干みられたが。。)

そんでもって、劇作の内容ー一見柔和なパン屋の主人である一家の主(吹越満)の真の姿はとんでもないモンスター。一家の中で絶対君主である彼は彼の存在を絶対化するために長女(柴本幸)に性的関係を強要していた。ペットショップで働く母親(広岡由里子)は、内心ではその行為を(もちろん)忌み嫌いながら、家庭・夫婦崩壊を恐れて見て見ぬふりを続けている。妹(内田慈)は無邪気にも姉の特別待遇を羨んだりしている。
そんなある日、外出先で男の子パウル(鈴木浩介)と知り合った長女はその歪んだ家から抜けだすことに成功、彼氏との新生活に未来をかける。
が、そんな幸せもつかの間、モンスターが長女の部屋を訪れる。家の状況を聞くと、今は妹が姉の代わりとなり父親の性の餌食に、そして母親は家を見捨てて出て行ったとのこと。
ささやかな幸せだけを望んでいた彼女に、運命の暗雲はどこまでも追いかけてくる。。
といったものなのだが、前述にもあるように、登場人物一人一人の台詞に様々な暗喩だの、また考えさせられる意味が含まれていて、戯曲自体がとても面白い。
単なる、性倒錯者の悲劇には終わっていなくて、さらに現代に生きる人々の苦しみ、矛盾などがそこここにちりばめられ描かれている。
親と子供の関係ー信頼と愛?それとも束縛と自己肯定? 男と女の関係ー許容と愛?それとも弱さと自己防衛? そしてそれらを作り出しているこの社会。

舞台で夢を与えたり、勇気を与えたりすることも出来るだろう。でもその前に、そもそも今を生きる意味という出発点から考えてみよう、というドイツ演劇。恐るべし!!


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最近、いろいろな観劇の偶然に驚かされている。
観劇1本で、いろいろなものを吸収できるのだが、それが何本か観て、その対比などでさらにプラスアルファで効いてくることが多々ある。

例えば、先日、サンプルの舞台「通過」の舞台評を書いたのだが、その数日後、ざっくり括ってしまうと同じテーマと言えるかもしれないセックスレス夫婦の芝居ー演劇集団円のオリジナル作品「初夜と蓮根」を観たりした場合だ。

で、円の「初夜と蓮根」。こちら絵にもかけないような♡ウォーミングな家族の真の姿が、冒頭の娘の発言で露呈し、、その後は次々とボロが出て、、でも最終的にはやっぱり素敵な家族♡で終わるというお芝居。
「通過」とは異なり、コメディー色満載でハッピーエンドということもあり、後味がとっても爽やかな芝居。
観劇中は笑う箇所では笑えたし、エンタメとしてそれなりに楽しめたのだが、終わってみて、、、「あんな事、ある訳無いじゃん。お芝居の中だけの話だよね。」というのが正直な感想。

今時のひきこもり気味な息子はいるものの、娘の結婚も決まり、全てが順風満帆に見える松永一家。そんな家族のいつもと変わらない日曜日の食卓で娘が放った一言「お父さんとお母さんはセックスした事あるの?」。。。この何とも唐突な発言がその後の松永家の進む方向を変えて行く。
話が進むにつれ、このあり得ないー夫婦で子持ちなのだからー問いが、実はこの夫婦がずうっと抱えてきた問題、日常で見て見ぬふりを続けてきた大問題による、真実であることが分ってくる。
その封印されたパンドラの箱を開けた瞬間から、家族それぞれが抱えるほかの問題も明るみに出てきて幸せであったはずの松永家は実は砂のお城であったことが明らかになる。
最終的には、家族の中心であるー良くも悪くも主人公の中年男(金田明夫)がこの家の絶対ルールであるようであるー夫婦がその問題に真正面から取り組む事を決め、それと同時にそれまでの膿みを全て出した家族は明るい再生の道を歩き始め、めでたしめでたし。という芝居。

で、今の暗い世の中を元気づける!という趣旨なのかもしれないが、、、話に如何せん全くの説得力が無い。
まず、実際、現代に生きている人間で、その話にかなりの信憑性があればあるほど、
「セックスしたことあるの?」なんてかなりデリケートな質問を愛する両親にする娘なんて性格に問題があるとしか思えない。また、セックスレスでありながら、その性の問題がさらに踏み込んだレベルで語られないこの状況(だって、不能では無いけど相性が悪くて、きっかけを逃してず〜〜〜〜っとセックスレスのまま、それもお互いに浮気も遊びもせず,それが純愛です。。って、あり得ないし、幼稚すぎる。かえってその人たち、気色悪い)も生身の人間の話とは思えない。
確かに、今の世の中セックスレスの夫婦が増えているというけれど、その状況が抱える新たな夫婦間の問題(奥様の売春とか、夫のゲイ化とか)は多々ある訳で、まずもって言いたいのはセックスの問題をそんなに軽々しくエピソードの一つとして扱わないで欲しい、と言う事。
人間はまずもって動物だし、その動物が知識のベールを被って生活しているところに、それこそ様々な矛盾や非合理的な事件が起きてくるのだから。

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吉祥寺で「鴨川ホルモー」観劇の翌日に青山で「伊東四朗一座」を観る。

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