通過
松井周率いる注目劇団、サンプルが5年前の劇団、そして松井氏の処女戯曲「通過」を上演。
04年は松井氏のホームグラウンド・駒場アゴラ劇場で上演されたそうだが、そちらは未見。
劇団ウェブサイトでその初回の舞台写真を見るかぎりでは、アゴラ劇場の閉塞感とゴミ屋敷の閉塞感がず〜〜〜〜〜んと重い雰囲気をかもしだしてそうな感じ。
一行レビューでも誰かが書いていたが、今回の三鷹市劇術文化センターでは同じ小劇場でも天井が高いオープンスペースのため、その閉塞感をだすために、四方の囲み形式の客席にまでゴミ袋を積み上げ舞台装置を工夫。それでもアゴラのような効果は望めないものの、それこそ隣の家の様子を高みの見物をしているような感覚。向かいにいる観客の姿も丸見えなので、覗き見している客同士で連帯感はわく。
また、その囲みの一カ所が俳優の出入り部分になっていて、出番の大分前から俳優がそこで待機しているのが(意図的演出)まる見えになる。
で、この舞台、中身が濃くてかなりの演劇的満足が得られる作品だった。
舞台を観ていて、「きれいはきたない、きたないはきれい」というマクベスの一節を思い出した。
真実は決して表には出てこない。
一見、常識人でやさしい夫、彼のやさしさの底にあるものとは?ー寛容という言葉の裏で、ただ単に現実と向き合うのを億劫がっている自己チューな一面があるのではないか。また、妻が浮気に走ったのは、夫の性機能不全が原因なのだろうか?ーいやいや、二人の間に確固たる愛情が存在していたとしたらそれが直接の原因と成り得たのだろうか?また、浮気をしたところで=他人に性的役割を課したところで、それでも存続する関係もあり得たかもしれない、それなのに肝心のその部分が二人の間で語られることなく関係が崩壊していくという事自体、見えない亀裂が既に入っていたのではないか。
などなど、常規を逸脱した価値観を放射する兄の出現によって、それまでオブラートに包まれていた家族の間で決して語られなかった話が否応無しに露呈し始める。
観客の目の前に次次とさらけだされていく、ゴミのような人間の本性。
そして、家族の居間である舞台次々に積み上げられていくゴミ袋、その数が増していくほどに登場人物たちのフラストレーションが溜まって、居間もそれぞれの精神も同時に淀んでいく。
ユートピアという言葉を持ち出す兄、そのユートピアという言葉自体が胡散臭さをまき散らしている。
数え上げればいとまが無いほどに、それぞれの台詞がシーンが意味を持ち、観客の想像力を刺激する。
(もしもこの芝居を英語で形容するとすれば、まさに英語レビューの最大の褒め言葉であるprovocative(挑発的な)という形容がぴったりはまるのでしょう。)
何ものにも優先させて、観るに値する芝居とは何ぞや?と考えたとき、、、(通常)2時間ぐらいの上演舞台を通して、いかにその何倍、何十倍もの話を紡ぎだせるかということにつきてくるだろう。
舞台で聞いた言葉が、また観たシーンがその2時間分(物理的時間)しか語られていないとしたら、読み終えるのにその何倍も時間がかかる小説を超えることは出来ないであろう。
しかしながら、今回の舞台のように台詞と台詞の合間に、また役者の目線の先に「決して語られる事のない物語」があることをみせる事が出来れば、その芝居はどんな長編小説よりも意味深く、観る意味のあるものとなるだろう。
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