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2009年5月

2009年5月27日 (水)

タトゥーから。。

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ちょっと前になるが、新国立劇場のシリーズ・同時代(海外編)のラストを飾る、ドイツの新鋭作家、デーア・ローアの92年代表作「タトゥー」を初日観劇。
新国立劇場の初日というと、殆どが演劇関係者でうまる事が多く、今回も若手注目株の一人、岡田利規が現代ドイツ演劇を演出ということで、多くの批評家、ライターらがつめかける中、ご当人の岡田氏、そして原作者ローア女史も客席中央で舞台をみつめていた。

約一時間半の舞台、終演後ーというか上演の途中から客席内には何だかもや〜〜〜〜〜っとしたような倦怠の空気が。なんだか劇場内が重苦しく淀んでいた。

私自身にとっては至福の90分だっただけにー目ん玉ひんむいて90分舞台を凝視しちゃったんですけどー????ちょっと拍子抜け。

その淀んだ空気は(もちろん)その日だけではなかったようで、その後、いろいろな劇評、劇評ブログなどの評判はどうもあまり芳しくない。インスタレーションのような舞台装置、棒読みの役者の演技(技術によるものでは無く、演出意図としての棒読み)、あまりにも過激な近親相姦の話の内容、などがどうも受け入れられない原因のようだ。

私にとってはその受け入れられない原因全てがこの作品のプラス評価に繋がるのですが、、という訳でどうも巷では賛否両論の舞台であるようだ。
(しかしながら、この結果さえも、中途半端な反応よりもこのくらい物議をかもす方がグッド!なんて思えてしまうのです。)
まずは、
舞台装置ー塩田千春さんというベルリン在住のアーティストが今回のステージセットを担当。その装置だけ見に行っても良いほどの美しさ。吊るされて揺れる窓枠、また不安定なベッドのような脆い現代社会が舞台上に出来上がっていた。多くの窓は人々(社会の)視線でもあるよう。

棒読み演技ードイツ演劇だからMUSTという訳ではないのだろうが、舞台の随所に見られた異化効果の一つとして聞いていると、この方法だからこそ台詞がよく聞こえてきていたように思う。修辞が多く含まれる韻文劇ではなく、短い詩節の連続のような台詞だけに下手をしたら聞き流されてしまうかもしれないそれぞれの心のつぶやきを一遍の作品として日本語で届けるためにはこの方法が有効的であったと思う。(しかしながら役者の中にはとまどいと躊躇が若干みられたが。。)

そんでもって、劇作の内容ー一見柔和なパン屋の主人である一家の主(吹越満)の真の姿はとんでもないモンスター。一家の中で絶対君主である彼は彼の存在を絶対化するために長女(柴本幸)に性的関係を強要していた。ペットショップで働く母親(広岡由里子)は、内心ではその行為を(もちろん)忌み嫌いながら、家庭・夫婦崩壊を恐れて見て見ぬふりを続けている。妹(内田慈)は無邪気にも姉の特別待遇を羨んだりしている。
そんなある日、外出先で男の子パウル(鈴木浩介)と知り合った長女はその歪んだ家から抜けだすことに成功、彼氏との新生活に未来をかける。
が、そんな幸せもつかの間、モンスターが長女の部屋を訪れる。家の状況を聞くと、今は妹が姉の代わりとなり父親の性の餌食に、そして母親は家を見捨てて出て行ったとのこと。
ささやかな幸せだけを望んでいた彼女に、運命の暗雲はどこまでも追いかけてくる。。
といったものなのだが、前述にもあるように、登場人物一人一人の台詞に様々な暗喩だの、また考えさせられる意味が含まれていて、戯曲自体がとても面白い。
単なる、性倒錯者の悲劇には終わっていなくて、さらに現代に生きる人々の苦しみ、矛盾などがそこここにちりばめられ描かれている。
親と子供の関係ー信頼と愛?それとも束縛と自己肯定? 男と女の関係ー許容と愛?それとも弱さと自己防衛? そしてそれらを作り出しているこの社会。

舞台で夢を与えたり、勇気を与えたりすることも出来るだろう。でもその前に、そもそも今を生きる意味という出発点から考えてみよう、というドイツ演劇。恐るべし!!


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最近、いろいろな観劇の偶然に驚かされている。
観劇1本で、いろいろなものを吸収できるのだが、それが何本か観て、その対比などでさらにプラスアルファで効いてくることが多々ある。

例えば、先日、サンプルの舞台「通過」の舞台評を書いたのだが、その数日後、ざっくり括ってしまうと同じテーマと言えるかもしれないセックスレス夫婦の芝居ー演劇集団円のオリジナル作品「初夜と蓮根」を観たりした場合だ。

で、円の「初夜と蓮根」。こちら絵にもかけないような♡ウォーミングな家族の真の姿が、冒頭の娘の発言で露呈し、、その後は次々とボロが出て、、でも最終的にはやっぱり素敵な家族♡で終わるというお芝居。
「通過」とは異なり、コメディー色満載でハッピーエンドということもあり、後味がとっても爽やかな芝居。
観劇中は笑う箇所では笑えたし、エンタメとしてそれなりに楽しめたのだが、終わってみて、、、「あんな事、ある訳無いじゃん。お芝居の中だけの話だよね。」というのが正直な感想。

今時のひきこもり気味な息子はいるものの、娘の結婚も決まり、全てが順風満帆に見える松永一家。そんな家族のいつもと変わらない日曜日の食卓で娘が放った一言「お父さんとお母さんはセックスした事あるの?」。。。この何とも唐突な発言がその後の松永家の進む方向を変えて行く。
話が進むにつれ、このあり得ないー夫婦で子持ちなのだからー問いが、実はこの夫婦がずうっと抱えてきた問題、日常で見て見ぬふりを続けてきた大問題による、真実であることが分ってくる。
その封印されたパンドラの箱を開けた瞬間から、家族それぞれが抱えるほかの問題も明るみに出てきて幸せであったはずの松永家は実は砂のお城であったことが明らかになる。
最終的には、家族の中心であるー良くも悪くも主人公の中年男(金田明夫)がこの家の絶対ルールであるようであるー夫婦がその問題に真正面から取り組む事を決め、それと同時にそれまでの膿みを全て出した家族は明るい再生の道を歩き始め、めでたしめでたし。という芝居。

で、今の暗い世の中を元気づける!という趣旨なのかもしれないが、、、話に如何せん全くの説得力が無い。
まず、実際、現代に生きている人間で、その話にかなりの信憑性があればあるほど、
「セックスしたことあるの?」なんてかなりデリケートな質問を愛する両親にする娘なんて性格に問題があるとしか思えない。また、セックスレスでありながら、その性の問題がさらに踏み込んだレベルで語られないこの状況(だって、不能では無いけど相性が悪くて、きっかけを逃してず〜〜〜〜っとセックスレスのまま、それもお互いに浮気も遊びもせず,それが純愛です。。って、あり得ないし、幼稚すぎる。かえってその人たち、気色悪い)も生身の人間の話とは思えない。
確かに、今の世の中セックスレスの夫婦が増えているというけれど、その状況が抱える新たな夫婦間の問題(奥様の売春とか、夫のゲイ化とか)は多々ある訳で、まずもって言いたいのはセックスの問題をそんなに軽々しくエピソードの一つとして扱わないで欲しい、と言う事。
人間はまずもって動物だし、その動物が知識のベールを被って生活しているところに、それこそ様々な矛盾や非合理的な事件が起きてくるのだから。

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吉祥寺で「鴨川ホルモー」観劇の翌日に青山で「伊東四朗一座」を観る。

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2009年5月21日 (木)

通過

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松井周率いる注目劇団、サンプルが5年前の劇団、そして松井氏の処女戯曲「通過」を上演。

04年は松井氏のホームグラウンド・駒場アゴラ劇場で上演されたそうだが、そちらは未見。
劇団ウェブサイトでその初回の舞台写真を見るかぎりでは、アゴラ劇場の閉塞感とゴミ屋敷の閉塞感がず〜〜〜〜〜んと重い雰囲気をかもしだしてそうな感じ。

一行レビューでも誰かが書いていたが、今回の三鷹市劇術文化センターでは同じ小劇場でも天井が高いオープンスペースのため、その閉塞感をだすために、四方の囲み形式の客席にまでゴミ袋を積み上げ舞台装置を工夫。それでもアゴラのような効果は望めないものの、それこそ隣の家の様子を高みの見物をしているような感覚。向かいにいる観客の姿も丸見えなので、覗き見している客同士で連帯感はわく。
また、その囲みの一カ所が俳優の出入り部分になっていて、出番の大分前から俳優がそこで待機しているのが(意図的演出)まる見えになる。

で、この舞台、中身が濃くてかなりの演劇的満足が得られる作品だった。

舞台を観ていて、「きれいはきたない、きたないはきれい」というマクベスの一節を思い出した。
真実は決して表には出てこない。

一見、常識人でやさしい夫、彼のやさしさの底にあるものとは?ー寛容という言葉の裏で、ただ単に現実と向き合うのを億劫がっている自己チューな一面があるのではないか。また、妻が浮気に走ったのは、夫の性機能不全が原因なのだろうか?ーいやいや、二人の間に確固たる愛情が存在していたとしたらそれが直接の原因と成り得たのだろうか?また、浮気をしたところで=他人に性的役割を課したところで、それでも存続する関係もあり得たかもしれない、それなのに肝心のその部分が二人の間で語られることなく関係が崩壊していくという事自体、見えない亀裂が既に入っていたのではないか。

などなど、常規を逸脱した価値観を放射する兄の出現によって、それまでオブラートに包まれていた家族の間で決して語られなかった話が否応無しに露呈し始める。
観客の目の前に次次とさらけだされていく、ゴミのような人間の本性。
そして、家族の居間である舞台次々に積み上げられていくゴミ袋、その数が増していくほどに登場人物たちのフラストレーションが溜まって、居間もそれぞれの精神も同時に淀んでいく。
ユートピアという言葉を持ち出す兄、そのユートピアという言葉自体が胡散臭さをまき散らしている。

数え上げればいとまが無いほどに、それぞれの台詞がシーンが意味を持ち、観客の想像力を刺激する。
(もしもこの芝居を英語で形容するとすれば、まさに英語レビューの最大の褒め言葉であるprovocative(挑発的な)という形容がぴったりはまるのでしょう。)

何ものにも優先させて、観るに値する芝居とは何ぞや?と考えたとき、、、(通常)2時間ぐらいの上演舞台を通して、いかにその何倍、何十倍もの話を紡ぎだせるかということにつきてくるだろう。
舞台で聞いた言葉が、また観たシーンがその2時間分(物理的時間)しか語られていないとしたら、読み終えるのにその何倍も時間がかかる小説を超えることは出来ないであろう。
しかしながら、今回の舞台のように台詞と台詞の合間に、また役者の目線の先に「決して語られる事のない物語」があることをみせる事が出来れば、その芝居はどんな長編小説よりも意味深く、観る意味のあるものとなるだろう。


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2009年5月17日 (日)

Giselle(K-ballet), 楽屋、雨の夏、30人のジュリエットが還ってきた

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*Giselle (K-ballet)
ヴィヴィアナと熊川氏の久しぶりのパドゥドゥを心待ちにしていたファンも多いはず。ところが、ヴィヴィアナが初日の大宮公演で怪我をしてしまい、急遽降板という事態に。
二大看板の片方が降りてしまったにもかかわらず、最後のカーテンコールがそれなりに盛り上がるのはさすが熊川大明神のお陰でしょう。
いつもながらに、細部まで気を配った演出・振り付けはさすがの一言。ここまで懇切丁寧に作り上げれば、まさに子供にもお話が分かりやすい。単に踊りの技術やセットの豪華さ、コスチュームの奇麗さだけでなく、根底からバレエ教育を行っていけばバレエ界の将来にも大いに役立つと言うこと。
K-balletの長期的なバレエ文化普及プランは実に分かりやすく、無駄が無い。こうゆう所を国の芸術振興プランでも大いに学んで欲しい。個人の短い欲や野望では無く、長いスパンで広い視野で!
で、代わりに踊った東野泰子さん。プリンシパルの前段階のファースト・ソリストなのですが、今回の「ジゼル」にはまさに適役だったのではないでしょうか?
白鳥、、や眠り、、のようなこれでもかとテクニックをみせつけるような演目ではなく、細かい心情演技が要求される「ジゼル」。か細い心が萎えてしまい、狂気の後に死を迎える幼い田舎娘の役にとてもあっていたように思います。
もちろん、天才ダンサーヴィヴィアナの狂気の表現も観たかったのですが、ま、今回はまた違った趣を楽しめたということで、オーケー。

*楽屋

シスカンパニー主催、豪華女優陣の競演が話題の舞台。
1時間半後、なんだか、狐につままれたような後味の舞台だった。
主役級の女優四人ー渡辺えり、小泉今日子、村岡希美、蒼井優ーがそれぞれの持ち味を活かし軽妙に演じ、また演出も笑いたっぷりでサービス精神に溢れているのだが、最後に「それで?何?」と言いたくなるのが悲しい。
そんなに楽しませなくて良いから、ガチンコ勝負を展開して欲しかったかな。
で、なんでこんなにぬるい芝居になってしまったのか?と思いながら帰りの電車でパンフレットを読んで、なんとなくその理由の一端が分ったような気がした。
四人で座談会をやっているのだが、まず、ここで緊張感というものが感じられない。口々に今回の座組は本当にやりやすいしリラックスとおっしゃっていて、それぞれのホームグラウンドからちょっと面白そうな芝居の場にやってきた感じ。奇しくもそのパンフの中で村岡さんが言っていた「軽いオモシロになってしまうと、作品の本質と違いますからね。」って、、、なってしまっていたんですけど。
で、さらにパンフ冒頭の演出家、生瀬さんが「面白くする、僕はこれを基本方針にしました。」と言っているので、そこにも致命的な全体としての不協和音が。
それぞれが思う「楽屋」をそれぞれ別々に思いっきり舞台へ出してしまった感じ。それが個々に上手いだけに不協和音の音が大きく重なりすぎてー下手な人が数人いれば誰か一人の色にまとめあげられたかもしれないけれどー収集がつかなくなってしまったのかも。

*雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた

これも、上演意図がさっぱり分らない舞台でした。プラス豪華な顔ぶれと蜷川演出だけに、途中で帰るにはもったいなさすぎて最後までしっかり観劇しましたが、その辺りをかじりかじり楽しむだけで、もう一度観たいかと聞かれると。。。ウーーーーーンと唸ってしまう。
宝塚の大階段も大人数の人海戦術も、芸達者なトップクラス俳優の競演もあったが、まずなぜこの芝居を2009年5月に観るのか?というそこの時点で疑問が残ってしまった。

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2009年5月16日 (土)

B.L

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4月前半、サンシャイン劇場でコンドルズとロンブーの田村淳率いるビジュアルバンド、ロンドンブーツ1号2号の田村淳率いるjealkbのコラボステージを観た。

淳がバンドをやっているのは知らなかった

jealkbとチーム分けをするためか、今回コンドルズ・メンバーは全員金髪、それもプラチナブロンドで綿菓子みたい。

で、舞台はいつも通りサービス満載、笑い沸騰、そんでもってダンス(=体の動きで表現する)も、いつもにも増して、jealkbダンス初挑戦組(おそらく人前でのダンスは初体験でしょう)が加わったことにより味わい深いものになっておりました。

コンドルズのダンスステージを観る度に、ダンスという定義が含む限りない可能性を感じます。

人が汗を流して何かを表現することを目の当たりにして、それに対して何を感じ、何を得るか、、、彼らの自由な発想から生まれる様々なダンスコラボレーションステージからは目が離せません。

ダンスがメインだったからかjealkbのサウンドの方があまりちゃんと聞けなかったのが心残り。普段のライブとは全く雰囲気が違ったんだろうな〜〜〜〜。

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2009年5月11日 (月)

4月後半

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父壁

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またもや、プレイバックレビュー掲載になっておりますが、4月の連休始めに吉祥寺の劇団スタジオにて大駱駝艦・壺中天公演(若手舞踏家による新作公演)を観る。
でもって、もの凄いものを観させていただいた!感謝!!

今回は塩谷智司さん初の作品(振り付け/演出/美術)の「父壁」。
彼のお父様が少年刑務所の刑務官だったということで今回の作品はその父へのオマージュということらしい。
壁の中の父親→父という壁のように大きな存在→自分自身が父に近づいて行くこと→少年というものの社会におけるあいまいな位置→少年刑務所の外の大人の世界、またその矛盾した世界...
一間ほどの狭くて小さい空間が瞬時にしてこれほどまでに変幻するのかと驚くほど、演出家のアイディアによりシーンによって次々と新しい世界を見せてくれる。
冒頭、劇場いっぱいに、客席ぎりぎりまで占領している大きな木の壁、その全ての世界を支配しているかのような壁面へへばりついていくランドセルを背負った少年(塩谷)。
白い裸体が、そして時には黒い裸体が、そして時として白塗りの顔面だけが暗闇の舞台の中で命の輝きを放つ。

事前の情報もなく、舞台上には言葉がない公演にもかかわらず、客席には確実に一体感が。その場に居合わせた客(ほぼ間違いなく断言出来るが)全員が舞台と関わりあうことができた、素晴らしい観劇体験だった。

終演後には自然と「ブラヴォー」の声がわき上がり、客席内が明るくなるとその観客の1割ほどが外国人であることが判明する。

これって、いわゆる演劇的(舞台芸術的)事件ですよ。ほんと。

今、日本の中で、海外に一倍近い位置にいるアーティストが、間違いなく彼らー大駱駝艦ーなのだと確信する。

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きらめく星座

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こまつ座&ホリプロ共催(いつの間にかこの間柄が成立したんですね。「ムサシ」のみが共催企画公演だと思っていたら、長期の提携を結んでいたんですね。これによって、双方、特にこまつ座にどのような影響、変化が表れてくるのか。良縁であったことを心から望みます。)の「きらめく星座」の初日公演を天王洲アイルの銀河劇場へ観に行く。

プログラム冒頭にはこの芝居が作者井上ひさしの実体験による私戯曲であるとありました。
24年前に書かれた作品だそうですが、その内容の過激さには改めて驚き、同時に感服致します。

のっけから、「非国民」ジョークですから。すごい。その言葉が与える攻撃性は差別ともとれるほどに強いにもかかわらず、人を否応無しに統制するための道具として簡単に口にだされる言葉「非国民」。その言葉の真意は共同意識としては認識されていないにも関わらず、その内容に関しては議論もせず、相手を黙らせるためため、それを発する側の言論の暴力を通すがために国民中の魔女狩りの道具として使われた言葉ー何も、この言葉戦前、戦時中だけに使われていたものではなく、今の日本でも幅広く使われているという実態がさらに恐ろしいですけどー、それを逆手に取って、家族がその言葉を拡大解釈させながら思春期の家の長女をなぐさめるシーン。これぞ、井上芝居の真骨頂。笑いながら世の中の矛盾、人の世の愚かさを考える、、前作の「ムサシ」でも随所に見られましたが、これがあるから井上芝居はいつの世でも、どんな世代の人たちの心をも打つのでしょう。

日本が犯した過ちを歴史から学び、その教訓を後世へ活かして行くーーーーこれ、どこの国でも芝居でやっている事なんですが(イギリスのシェイクスピアしかり、ブレヒト、チェーホフ、アメリカ現代演劇などなど)、どうも日本では戦争、特に戦争責任に関しては様々なタブーが存在するようで、真っ向から芝居の核として取り上げる機会がまだまだ少ないような。
敗戦国として十分に苦しんだんだから、今さら。。。ということなのでしょうか?

そこの部分を話し尽くさない限り、前へは進めない気がするのですがねー。

で、お芝居ですが、所々にそれこそドキッとするような台詞がちりばめられているにも関わらず、全体としては戦争反対色よりもさらに普遍的なテーマ「家族の成り立ち」「個人と国家」「人としての品格」などが劇を通じて語られています。

ホリプロとの提携により、さらにマーケットが拡大してより多くの人(国内外を問わず)に井上さんのお芝居が観てもらえるようになれば、という目的での業務提携なのでしょう。大いに期待!!

長女の娘婿、源次郎役の相島一之が、その難しい役所にも関わらず傑出。

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2009年5月10日 (日)

「京都から二千匹発送しました。」「こがれ」「関数ドミノ」若手作品3本。

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週末にかけて、若手作家・演出家の作品3本を続けて観る。

「京都から二千匹発送しました。」は坂手洋二氏率いる燐光群の若手劇団員による作品上演シリーズの一つ。燐光群・文芸部に所属し、08年5月に第一回書き下ろし作「シンクロナイズド・ウォーキング」を発表した清水弥生の第2作目。
実際に起こった事件(03年)ー中学校の強豪柔道部に所属していた女生徒が、ある日の練習中に意識不明(脳挫傷)状態に陥り、その後は意識が戻らないまま、寝たきりの生活を強いられる状態が続いている。それほどの病状を引き起こす、何らかの事故が多くの人々の目前で起こったにもかかわらず、実際にその練習中に何が起こったのか、彼女の事故がなぜ起こってしまったのかは学校側の説明からは明らかには示されない。両親は24時間態勢で娘の介護を続けながら、真実の解明を求めて学校を相手に裁判を起こす。。。。先日行われた裁判では原告側のほぼ全面勝訴という結果が。ーをもとに、作者が直接その被害家族と会い取材した話をもとに書き下ろした物語。
燐光群の劇団カラーの一つでもある、ドキュドラマの手法を用いたこの芝居、劇団主要俳優総出で出演し、アトリエ会作品とは銘打っているものの、劇団メイン公演の一つと数えて良いのだろう。

で、題材が今の社会とマッチしていて、事件の詳細を辿るだけでもかなりの興味は持続出来る。
が、そこにはドキュドラマの難しさが。
ドキュメント一辺倒では、テレビのドキュメンタリー番組ほどのフットワークは見せられず、所詮役者がなりきって演じている物なのだからドキュメンタリーになるわけもなく。。。そこで、いかに演劇舞台として明暗(メリハリ)をつけるか、どこに焦点をあてて、さらにどこを演出していくのか、が作品の出来に関わってくるわけだが、今回、そのドキュドラマのバランスが、微妙にくずれていた箇所が見受けられた。
例えば、劇中、母親が寝たきりの娘を車いすに乗せて、同じ中学に通っている弟の修学旅行に同行するシーンがかなりの割合を占めるのだが、ドキュメンタリーである部分の真実味を説明するために、もしかしたら不要とも思える枝葉部分の説明(大阪・京都の観光案内のような)、またはジョークなどが残されていた。もう少し、整理したらすっきりして、さらに良い作品になるであろう。
ーーーあくまでも、すでにかなりの高得点を獲得している作品であることは付け加えておきたい。それだからこそ、再演をさらに続けて行くために、作品のさらなるシェイプアップを、さらに中身の濃いものに仕上げて行って欲しい、と願う。

「こがれ」は若手劇団「砂地」ー船岩裕太主催ーが鶴屋南北の歌舞伎芝居「桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)」を原案に、現代日本へ場面を移し、オリジナル戯曲を書きおこし上演した舞台。
役者・池下重大出演というのがきっかけで、砂地の芝居初見となった。
神楽坂の小劇場die prazte は前回、池下さんが月船さらら&出口結美子主催の劇団metroが「陰獣」を上演した劇場。登場人物の数もほぼ同じで、なんだか前回の舞台と似ている空気が。

で、桜姫の現代版ーしかしながら今回の現代っ子の女性主人公には`姫’の“ひ”の字も見当たらない、底なしに薄幸なこの子の世界は半径5Mくらいしかないんでないの?と思わせるような、あまりにも魅力のない他人依存症の女の子に描かれている。それが残念。だって、こんなに知能が低くて、それで自立してなくて(たとえそれが幼少期のトラウマのせいだとしても)、、だったら、桜姫の悲劇もそれほど説得力が無いものね。ー。
桜姫と言えば、そうそうもうじきコクーンでコクーン歌舞伎版の桜姫と長塚圭史版の桜姫が上演されるんだよね。歌舞伎版の「桜姫」がコクーン歌舞伎シリーズの中でも傑出の出来だったので、今回の連続上演には期待が高まります!!

で、今回の舞台にまた話を戻しますと、、、南北が伝えたかった人間の性、この世の矛盾などなどが、すべて台詞として一辺倒に、解釈的言葉の羅列として語られてしまい、大学の哲学講義のような朗読会となってしまい、かえって演劇でこそ伝えられる可能性が高い「説明不可能な人間の不条理」が全く伝わってこないという結果になってしまった。
南北の世界を観客にとって分かりやすいよう、今のシチュエーションに置き換え、昨今の事件を連想させるような演出も試みて、思いっきり言葉で解説してくれたのかもしれないが、、、それだったら、多少古くさい文体でも鶴屋南北の戯曲読んだ方が良かったよね〜〜〜、きっと。
それよりも、オリジナルの翻だったら、船岩さんが日常不可解に感じる事、社会への疑問、男女間の不思議なんかを自分の言葉で、身近な例で語って欲しかった、かな。

「関数ドミノ」は間違いなく2009年一番の売れっ子演劇人、前川知大が今のブレイク直前の05年3月に上演した舞台舞台の再演。
赤坂の優良シアター(ここ見やすいし、いろいろな配慮もされていて、何と言ってもパブが階上にあってグッド)赤坂RED/THEATERで上演。
推理ドラマ仕立てになっていて、シンプルな舞台セットも有効に使われていて、それなりに上手く出来ているのだが、何と言ってもその内容がとっても気持ちの悪い(私にとって)もので、どうにもこうにも受け入れられない。ー舞台装置、演出、役者ともに別に悪いところは無いです。ホントー

簡単に言うと、世の中には`選ばれし人’ー超ラッキーな人でその人の願いごとはどんな小さな事でも何でも叶う。ーというのがいて、その存在に気づいた回りの人たちがその選ばれし人の存在を証明するべくその人と関わりを計り、その説を広げていくお話。最後に、人間の質(価値)を皮肉ったオチがついてくるのですがね。

で、何が気持ち悪いかというと、いくらドラマとは言え登場人物たちのあまりの自己チューな、それもあまりにもストレートすぎる感情の出し方がロボットのようで気持ち悪い。
安っぽいテレビドラマのような、そのあまりにも型にはまったキャラクターが、それぞれの対話が、シラケてしまった。
パンチラとエイズ治療とイリュージョンマジックが同じ温度で語られるのにもちょっと気持ちの悪さを感じてしまった。
そもそも`運の良い隣の人’という存在という設定にも、やはりそれほど惹かれない。
次回作に期待です。

と、それぞれに問題意識を全面に出した“若者が雄弁に語る”舞台を見続けた週末の夜、衛星放送のチャンネルを回していたら、以前観て大いに心動かされたティム・バートン監督、ユアン・マクレガー(めっちゃお気に入りの俳優)主演の映画「Big Fish」が始まったので再度観ることに。

で、この映画、最初から最後まで大風呂敷の広げっぱなしで、虹色の嘘で埋め尽くされた映画なのですが、これが思いっきり心に沁みてくる。
ご大層な教訓が語られる訳でもなく、エピソードそれぞれも子供だましのようなお話なのだが、見続けて行くうちにとっても大きな人生を続けるヒントを授かったように思えてくる、バートンマジックオンパレードの映画なのです。
演劇も映画も、おそらく観客に作品が届いた時点で完結するように出来ている芸術なのでしょう。
だから、舞台上で雄弁すぎても、劇作家のところで完璧に出来上がっていても、それが上演された時に観客席まで余波がなければ萎んでしまうのでしょう。
何を言わないで観客に想像させるのか、それが分かりながら作る事の出来る、やっぱりベテランの技なのかな〜〜〜〜!?


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2009年5月 5日 (火)

R2C2〜サイボーグなのでバンド辞めます!〜

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順番が入れ子になっておりますが、「R2C2」の劇評いきます。

お芝居の良いところがいろいろな面で上手く活かされている舞台で☆4つから5つの出来。
作者の音楽への思い入れが、その部分ブレがない分、いつものクドカン節の言葉ギャグ満載、役者ギャグ満載ながらもストーリーがしっかりしていて、その上ライブの特権でもある生演奏、生声、そして役者たちの競演の部分が分厚くかぶさってきて、上質のメイドインジャパンエンターテイメントに仕上がっている。

まず一番に生演奏のバンドが、その演奏+ヴォーカル(もちろん阿部サダヲ)それ単体としてもかなり楽しめるのがこの舞台の最大の強み。
それこそ、危なげなミュージカルなんかより、ぜんぜんパワーがあります。でもって歌詞がオリジナルなので説得力あるし。とってつけたような訳の歌詞ではないので、劇の中で効果ありです。
(以前にも書いたけど、オリジナルの楽曲でメイドインジャパンのミュージカル、もっとやってもらいたいです。松尾さんの「キレイ」とか今回の「R2C2」のように。可能性大だと思いますよ。ある意味、井上ひさしの音楽劇でももちろんグッドなのですが。)

今回の「R2C2」、渋谷という街にあるパルコ劇場で上演するのにまさに最適のミュージカル。劇場のキャラクターと芝居がまさにフィットした演目ー劇場のキャラクターってありますからね〜。渋谷のコクーンだったらこれ!新宿紀伊国屋だからこの演目、下北だったらやっぱりこの路線でこの客層とか、ね。ー。ipod携帯率だって、渋谷だったらかなり高いでしょうし、レコードショップもあちこちにあるし、何と言っても若者文化の発祥のであり、まただからこそ若者文化の消費の早さ、移り変わりの早さに翻弄されてゴチャゴチャ感がぬぐい去れない場所でもあるからこそ、この話ー近未来、若者は音楽を全て配信システムから入手して聞き流し、消費するようになっている。音楽をライブで聞いたり、CDという形のあるもので所有したりする若者はもういない。配信される、実際に作り手が誰なのか、誰が歌っているのかも定かではない心にひっかからない『癒し』系イージーリスニングの音楽が個々の耳に(実のところ政府がその音楽配信システムをコントロールしている)垂れ流されている。そんな音楽による人民統制プランに一役買っている天才音楽家クアトロ田村(森山未來)の父、パルコム田村(阿部サダヲ)はかつて人気を博したロックンローラーであった。30年の冷凍凍結から目覚めたバルコム田村が渋谷の街に血の通った音楽を取り戻す事は出来るのか。。。という、現在の音楽業界の矛盾(無料配信がもたらした様々な弊害と同時にその画期的な便宜性)をテーマにした、いろいろな問いかけがつまりにつまったー音楽のみならずアート全体における商業性とクォリティーの問題、英才教育がもたらす弊害、芸術家の著作権問題、ロボットの限界などなどー話でおまけのジョークがたくさんくっついているにもかかわらず、中だるみしない一本筋の通った話。

それぞれの役者たちも、役者の魅力を熟知している作者/演出家(宮藤官九郎)によるものだけあって、120%の魅力を発散している。

そんな中、今回が初見の松田龍平君。上手く彼のキャラも芝居の中に組み込まれていて、今回の舞台では○だが、もしも普通に他の舞台で観たら、、、どんな事になっているのか、かなり恐いもの見たさな次回ではあります。

平岩紙ちゃん、スゴすぎます。サダヲさんの完璧さは言うまでもなく!


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イルカとキャベツ畑

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旦那の誕生日だったので、どこ行きたい?って聞いたら(旦那は仕事がらGWの連休は通年は休めないので、今までは一人でUKへ行ったり、ドイツへ行ったりしていたのだが(ベルリン行きたかったな〜)していたのだが、今年は部署をあげて休む方針にしたそうな)「千葉!!イルカが見れるはずだから、それに行こう!」と言うので、ネットで調べ、いつもながらの無計画・速攻決めで千葉行きを慣行。

みんな高速道路を使って遠くへ行くんでしょ?千葉なんて通り抜けて行っちゃうよね〜〜〜、とあまく考えていたのだが、天下のGWを決して甘く見てはいけない!!!
銚子。銚子ですよ!鴨川でもなければマザー牧場でもなく、南房総の館山、白浜でもなく、観光地と言えば犬吠埼の灯台とそのイルカちゃんのいる海ぐらいしかない銚子なのに、それなのに、宿がとれないのなんのって(ま、前日に電話している方も何なんですが。。それも連休真っ最中の日程で)。やっとのことで素泊まりなら一部屋空いていると言われ、しかも、宿の女将さん曰く「ちょっと。。。変な部屋(!?)なんですが、良いですか?は、は、は。。」だって。「変って、どこが変なんですか?」って聞いたら「う〜〜〜ん、テレビがね、テレビがかなり古い型なんですよ。」と返ってきた。
は〜〜ん???(嘘だ〜〜、それだけの筈がない。でなければ、客にわざわざ変な部屋って言うかな??)
と多少なりとも不安に思いながら、当日特急しおさい号に飛び乗り目的地、千葉へ!

途中から単線になるのだが、このしおさい号が便利、便利。ほとんどの車両が自由席というのも我らのような無計画旅行者には最適。
東京駅から東京下町を横切り、数本の都内主要の川を横切り、東京ベッドタウンの高層マンションの群れを横目に千葉へ、途中までは比較的頻繁に利用している成田行き京成線と同じ風景なのだが、千葉駅を超して単線になり房総半島の北部を横断して銚子へ近づいて行けば行くほど、田んぼと畑。
銚子で降りてローカル線の銚子電鉄に乗ると、両側はキャベツ畑が延々と、綿々と続くばかり。隣では「日本人がこんなにキャベツを食べているとは知らなかった。」とか変なコメント。続いて「田んぼもぜんぶ潰していも畑にすれば良いのに♥栽培も簡単だし♥♡」とか自分の食べ物の好みで決めているし。。

夕方、観光を終えーと言っても、ハーブガーデンに行ったくらいー宿について案内していただいたお部屋は、、、超せまい訳でもなく、使いにくい間取りでもなく、、いたって普通のペンションの一間。
狭いながらもちゃんとお風呂とトイレもついているし、どこがわざわざ『変な』と形容しなくてはならなかったのか、いまだに不可解??
これって、自分の霊感の無さに感謝するべきなのかしらん?

翌日、8時出航のイルカウォッチングに参加するため、早起きをして漁港へ。
近づいている南風の影響で早めに帰航することになると思いますとの船長さんの説明で、20〜30名ほどが乗船してイルカの泳ぐ海域へーーーー沖でず〜〜〜〜〜っとイルカとの遭遇の瞬間を待っていたのですが、残念なことにこの日はイルカの群れには会えず。残念。

船長さん曰く、「こんなことは珍しい。今月末から来月末はほとんど毎日、確実に会えるからまたおいで!」との事でした。

高知でイルカウォッチング&くじらウォッチングはしたことがあるのだが、お隣の千葉でこんなにイルカが見れるんだったら、また来ちゃおうか!と夫婦そろって赤ら顔(またまた無計画の結果、UV対策もしないまま船に乗ったため、しっかりほっぺが真っ赤っか)、帰りの電車でビールを飲みすぎますますの赤ら顔で楽しい1泊2日GW旅行を終えましたとさ。めでたし。めでたし。

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キヨシロ〜〜〜

週末の忌野清志郎氏の訃報には驚きました。
ちょうど、前日にパルコ劇場で観たメカロッックオペラ「R2C2」のプログラム冒頭で、作・演出の宮藤官九郎氏が5年前、清志郎のソロライブを同パルコ劇場で観たが最高だった♡と書いていて、清志郎の歌を思い出していたところだったので、翌朝のニュースは衝撃でした。

ウン十年前(かなり昔でいつか分からない。ず〜〜〜っと前)、気がついたらごくごく自然に、武道館の2階席から「キヨシロ〜〜〜〜〜〜」と叫びまくっていた自分を思い出します。

上手いとか見目麗しいとか、そうゆううわべにまとわりついているもの、をぜ〜〜〜〜んぶ蹴散らかすようなソウルフルな歌声だったよな〜〜〜。
ご冥福をお祈りします。

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