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2009年1月

2009年1月31日 (土)

ねずみ狩り

Uzume

劇団・うずめ劇場の「ねずみ狩り」を駒場アゴラ劇場で観てきたところ。

05年に初演されたものの再演とのこと。
劇団の主宰者で演出家のドイツ人演劇家、ペーター・ゲスナーが脚色(原作/ペーター・トゥリー二、71年ウィーンにて世界初演)、演出、そして今日の回では主演(劇の95%は男女の二人芝居)を努めた今日の舞台。
舞台の劇のほかにもいろいろと考えさせられる芝居だった。

ドイツ人のゲスナーの創る芝居は「こってりバターソース味」だったという事。良い意味でも、考えさせられるという意味でも、これは日本人ドイツ人演出家が創った芝居だということが匂い立つように出ていた。
劇の内容に関しては、それこそ「意味」「言いたい事、伝えたい事」がぎっしりつまった内容で、現、資本主義消費社会、さらには日本におけるマニュアルー右へならえ文化に対する批判、実態のない虚構の現代日本への懐疑、さらにはゲスナーの目からみた「変な国日本」観などが細かく、びっしりつめられていて面白く観れるのだが、それよりもなによりも、その見せ方、伝え方が今の日本演劇界では特殊で興味深かった。

何しろ、全てがとってもストレート、主義主張もそのままずばり台詞にのせ、その台詞も暗喩もなにもなく直球勝負で観客はその意味を捉え間違えようが無いのだ。
これが、もし日本人による舞台だったら、と考えると、、、まず、こっぱずかしくて、これほどのストレート勝負は最初からしかけないだろう。
同じ事を表現するのにも、おそらくは外堀から埋めていったり、行間にその一番言いたいところを見え隠れさせたりすので、おそらくは所要時間も1.5倍くらいかかるのではないだろうか。

これって、やっぱりそれぞれの国の風土の違い、つまりはカルチャーの違いっていうところに関係してくるのでしょうね。

と言うのも、私の長年の命題「なぜ夢の遊眠社の芝居はエジンバラでウケなかったのか?」ということに繋がってくるのだが、やっぱり遊眠社の芝居は日本人の観客に最も有効な方法で創られていたからなんだろうな〜、という所です。
表層的なスピーディーな動き、日本語の台詞などなどの問題よりも、野田秀樹の言葉(珠玉の言葉と日本人は感じるのだが)は西洋人にはまどろっこしすぎて、「それで?言いたい事はズバリ何なのよ?!」ということになったんだろうな、と思う。確かに、多文化、多言語共生の英国ではかなりはっきり、分かりやすく言わないと相手にされないケースが多いからね。
(もちろん、英国の芝居にも比喩で語られ、主張テーマを表に出さないでそれでいて良い芝居というのは沢山あるけれど、その主張テーマが悪くいえば、、シンプル、で良く言えば、、全世界普遍なんだよね。よ〜〜〜く日本の演劇人が”イギリスの芝居と言っても、そんなに大した事ないね〜、日本のものより面白くないよ。”って言っているのを耳にするけど、そのOutcome、成果という面から言うとその一見対した事のない芝居の方が、影響力がはるかに広く社会に浸透していると思う。芸術が自己満足なもの自分の芸術的表現欲を満たすだけのものだったら、21世紀の今、その種の芸術は必要ないからね〜。どうも日本は未だに純粋芸術主義が幅をきかせているように思えて仕方が無い。で、一方では若い世代にはそんな純粋芸術主義なんてのは一向に通用しないから。。。彼らの感覚の中では論外に近いから、その世代感覚のギャップから芸術界全体の、演劇界全体のが前進スピードダウンしていくのだろうな。)

で、今回の芝居、言葉の使い方も普段我が家で聞いている英国人のハビーの言いっぷりに激似していて
(例えば、怒ったときにファックと同じ感覚で、このうんこ!とか言うんだよね〜〜。その言葉を聞く度に「あんた、そんな言い方したらあんたが怒っているっていうことは確実に伝わらないからね。まだファックとかシットとか言った方が通じるかもよ。だって日本人はうんこそのもの以外には、うんこみたいな、とかうんこ野郎とか絶対言わないから。」って説明するんだけど。だから翻訳って難しいよね。)、あ〜〜〜メイド・イン・ジャーマニーな芝居だな〜と感じました。

時々はこうゆう、まったく違う作り方の芝居を観るのも一興だなと感じました。
そうすることで、自分たちの輪郭も見えてくるしね。

ps.
相手役の絹川友梨さん、良かったです。

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パンク侍、斬られて候

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どしゃぶりの雨の中、下北沢、本多劇場にて「パンク侍、斬られて候」を観るが、途中休憩時間に劇場を退散。ちょっと後半までおとなしく席に座っていられないと感じー大声出して、席を離れたい衝動と戦い続けそうな気がしてー申し訳ないが、劇場を後にした。

それなりに、豪華な役者陣でごひいき役者も何人かいたのだが、不思議な事に劇の台詞、言葉がま〜〜〜〜〜ったく耳に入ってこなかった。役者の技量云々の問題ではなくて、舞台上で語られていることの中身が伝わってこなかったから。
1時間ぐらいして、目は開けて、舞台を観ているのにも関わらず、まったく芝居の世界から隔離してしまっている自分を発見。少しの接点も無いと感じ、私にとってはその場にいる意味なしと判断。ちなみに前の列に座っていた若年の女の子たちはゲラゲラと笑っていたので(と言っても、箸がころがっても、というノリに近かったけど。。目もハートになっていたし。)面白いと感じている人たちもいたことは付け加えておく。
原作(町田康)は読んだ事が無いので、分からないが、どうも話がつまらないとかいうことでもなさそうな気がする。これ、脚本ー台詞の問題だと思う。言葉の選び方というか、翻の完成度の問題というか、、、こんなに台詞が耳に入ってこないなんて、こんな体験初めてです!
それに加え、あまりにもシンプルな舞台装置、ここからもイマジネーションは喚起されず。いくら役者さんががんばったところで、観客の私の頭の中はプログラム停止状態に。まったく頭を使わない芝居というのも、疲れることを知る。

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宋家の三姉妹

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中国近代史において欠かす事の出来ない、時代を動かした要人たちの傍らで歴史の争乱を見続けた、三姉妹のその波乱に満ちた人生の話。長女ー藍齢(安奈淳)南京政府の財務部長(大蔵大臣)の妻、次女・慶齢(安寿ミラ)孫文と結婚、彼の死後共産主義運動に理解を示す、そして、三女ー美齢(森ほさち)は台湾総統、蒋介石と結婚、というそれぞれに歴史の表通りを闊歩した女たち。
物語のキャッチフレーズが「ひとりは金を愛し、 ひとりは権力を愛し、ひとりは国を愛した。。。」というもので、そのフレーズが度々、背面のスクリーンに映し出される。

芝居の演出は、芝居を演じるというよりもかなりリーディングに近いものとなっており、第一部が三人一緒にたどる回想話、第二部になると一人ずつがステージに表れ、それぞれの個人史を語る(語っている台詞そのままが同時に背後のスクリーンに流される)という形式をとっている。

舞台の最初と最後にはライブの胡弓の演奏に合わせゆったりとしたダンスをみせるシーンもあるが、ほとんどが椅子に座っての語りという形式。

この語り、が女優さんの見せ所であり、また難しいところ。台詞術だけで勝負するだけに体でごまかす事も、セットに紛れる事も出来ず、けっこうシビアなガチンコ勝負です。
安奈淳の円熟の技が、これぞ年輪と思わせる説得力を持つ。

芝居を通してずっと使われていた、台詞を流すスクリーンが暗すぎてその意味をなさなかったのが残念。
胡弓の美しい音色は女優三人をも食ってしまいそうな存在感だった。

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2009年1月28日 (水)

ウルリーケに始まり秘密の花園から伝記、ブラジルまで

2009年1月観劇を一挙に載せます。


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「リチャード三世」と「陰獣」

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パルコ制作、古田新太主演「リチャード三世」を赤坂ACTシアターで観る。

場所は最高なんだけど、、この劇場、もうちょっと何とかならんかな〜〜〜という劇場なんだよね。
テレビ様も文化事業やるんだったら、ちっとは腰を据えて、わしらが日本の文化事業を担ってやるけんのう!!(なぜに広島?)ぐらい、腹をくくってやってもらいたい。
だって、ちょっと考えたら少しは??と思うよね、間口だけが広くて、奥行きと高さの無さ、、劇場なのに夢もプライドも無い、鉄骨が見えそうな簡素な内装。。どんなイベント(!)にも対応出来るご予算的にはお得なハコなのかもしれないけど、これが最終版の劇場とは思えない、あの空間ではイマジネーションも拡散するだろうな。なんて劇場を考える、のコーナーは終わりにして、本筋の舞台評へ。

で、ワクワクする企画のこの古田新太主演「リチャード三世」。終わってみたら、と言うか、途中から、これってシェイクスピアのリチャード三世、と言うよりも、思いっきり改作版リチャード三世なんでないの?ということ。
ちょっと前に松尾スズキがやった「キャバレー」もそうだったけど、原作題を名乗るからには、その芝居の核の部分はせめて残さないと、、枝葉の部分のそれぞれの解釈、また、核を残しての設定の変更、例えば蜷川版、ジャポネスク形式シェイクスピアなんてのはぜ〜〜〜んぜんありだと思うのですが、話の核を変えるのであれば、やっぱりxxx版とか改作xxxとかそれこそ贋作xxxとかした方が、、、、と思います。
で、今回の「リチャード三世」、まずもって最大の?疑問はイングランド国のシンボルをユニオンジャック(現、大英帝国の旗)にしちゃって、そのシンボルを随所でキーポイントとして使用してしまったところ。だって、リチャード三世の話があって、その結果としてイングランドが統一されて***ここでまず言っておくと、イングランドの国旗って、今でもユニオンジャックじゃないですから。。。辞書にもユニオンジャックの欄にイングランド国旗なんて書かれちゃってるから仕方ないんだけど、ご存知のように大英帝国(United Kingdom-イギリス、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドからなる連合国)の一部がイングランドでサッカーの試合でもイングランドチームを表しているようにイングランドの旗は白地に赤の十字ですから〜〜〜。***、でもって、リチャード三世芝居の大きな核、薔薇戦争(白薔薇のヨーク、赤薔薇のランカスター)という部分がユニオンジャックで全てめちゃくちゃになっちゃってます。時代設定を60’sのスウィンギング・ロンドン、モッズファッションに変えるのも結構なんですが、如何せん、日本の例で言うと、源平の話を源氏側のシンボルとして日の丸かざしちゃってるような感覚ですよね。それってやっぱり、話が筋通らないでしょ?
イギリス中世の古めかしいコスチューム、セットでやれとは決して言わないのですが、その辺の原作軽視が、船酔いのように気持ち悪かったです。
そう考えると、いのうえ版のリチャード三世改作、「朧の森に棲む鬼」、または「メタル・マクベス」なんかの方がぜんぜん説得力もあって、芝居が活きていた、という気がする。
あと、やっぱりリチャードが淡白だったかな。それこそ不細工系でもいつの間にか無理矢理舞台の真ん中に君臨するって言うような、リチャード役者の執念っていうのが伝わってこなかった。最後の銃で撃たれて血みどろ死んだ時のリチャードぐらいかな、執念が送られてきたのは。。それにしても、思いっきり剣のバトルを展開しておきながら「おっ!?」って言うかんじで銃を取り出してーそれも連発式ーリチャードに止めをさすっていうのも、なんだか「巻がはいったのかな?」的に理不尽でした。

ps.リチャード三世の源平バージョンってぜんぜんありだよね。


「陰獣」を神楽坂の小劇場 die Pratzeで観る。

月船さららと出口結美子の女優二人が新たに結成した演劇ユニットmetoroの旗揚げ公演、江戸川乱歩の小説、「陰獣」と「化人幻戯」の2作品を基に天願大介が1本の翻にまとめ、脚本、演出した作品。

池下重大目当てで行ったのだが、彼も良かったが月船さららさんの存在感にがっつりやられました。
今の巨乳タレントのような早くて分かりやすいエロでは無くて、舞台に立っているだけでエロいってすごい。"おんな”を見せつけてくれて、良かったです。
(蛇足ー昭和初期はそんなおんなが香る女優さんが、銀幕にもた〜〜〜くさんいましたよね。ただ単に会社に行っているだけのシーンなのに色っぽい、みたいな。)
月船さんの発見、プラスいろいろな発見があった舞台でした。
*女がキャストの一人というだけでなく、女である事で意味を増す舞台。
*何と言っても、江戸川乱歩の世界の、底なしの世界観。ーこれを気づかせてくれただけでも、この舞台の上演意義あり。
*蒸し暑くて、狭くて窒息しそうな、小劇場の魅力ーそれを強いる舞台の力。

場内の観客の年齢層も高く、評判を聞きつけて楽日に駆けつけたというような雰囲気があり、やっぱりちゃんとした姿勢で芝居を作ると(何とかの宣伝とかタレントの売り込みとかの理由ではなく)それなりに確かな反応があるものなんだな、と感じた。

どうも、一般的に「演劇すごろく」と言われるような大きな、さらに大きな劇場を目指して活動を続けていくような風潮があるなか、小劇場の密な空間を上演の場として(あえて)選ぶという選択も、これからは著名な劇団にも必要なんだろうなと思う。

だいたいからして、要領の良いことなんてやってたら、あんまり良いものは出来ないもんね。
因果な世界だよね。

あ、そうそう、芝居の核の一つである「誰が普通で誰が普通でないの?」「人殺しって悪い事なの??それはなぜ?」なんて問いかけも、ダイレクトに現代にリンクしていて、と〜〜〜〜っても面白い話でした。

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2009年1月 8日 (木)

パイパー

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松たか子、宮沢りえ、大倉孝二、橋爪功、主演のNODA MAP最新作「パイパー」を、観た。
火星の話で、題名がパイパー、、パイパーって何?っと前情報ではなんともその話が想像できないかんじだが、近年のNODA MAPの流れをくんだ現代社会を芝居という絵空事の想像力で描いた作品。
昨年同時期上演した再演版「キル」でも、パンフレットの冒頭で野田さんが書いているのがこの文章ー「私は、大風呂敷を広げて、大嘘おをまことしやかに作り上げることに、全身全霊を傾ける類いの作り手だ。。。。わたしは、等身大の物語が大嫌いだ。そこに、たったひとつの言葉とちいさなスペイスがあれば、たった一人の人間が、その小さな足の裏で、「火星を踏み潰す」こともできる。それが劇場の素晴らしさだと、、、、」。
そして、それを実際に舞台化したのが今回の「パイパー」という事になるのだろう。
実際のところ、昨今の世の中、セレブのプライベートがパパラッチによってその見たくない部分まで露にされ、ネットのサイトではそれがもっと悪趣味な形で世間一般にまことのように垂れ流され、、なんて状況を見ていると、その絵空事をでっちあげる、という行為そのものがいかに大胆にして勇気のいることか、と考えずにはいられない。
まことしやかな重箱、その隅をほじくり返すような、、、えげつない表現がまかり通り、反面、(野田さんの言うところの)壮大な嘘の世界に浸りたいと望んだり、その嘘を楽しむ事もせず、「うそっぽい。それで結局何なの?」と逆切れされかねないこのご時世だけに、これを創り上演する背景にある彼の自信とそれを裏付ける実績を思い計る。
先日の新聞にバブル世代のアラフォー女性陣のメンタリティーの分析みたいなものがのっていたのだが(アエラが好きそうなお題だよね)、確実に世代により求めているものが違う事を感じる。アラフォーたちのつきない欲というのも、そろそろどうかな〜〜〜と微妙だが、、その一方、
例えば、今の若者たち(20代〜30代前半)は海外旅行になんか興味がないそうである。それよりも仲の良い仲間とまったりと近場で過ごす方が良いのだとか。。
まさにアラフォー、それよりもアラフィフに近い私としては、何ともその感覚が気色悪い。
仲間とまったり、って何?そもそも仲間とか友達とかの群れの構造がとっても気持ち悪い。友達と仲良くってそんなに重要かな?み〜〜〜んな一色単で混ざっていても、ナマぬるいだけでない?それぞれ一人一人がきちんと色を出してから、そのいろんな色がぶつかり合うのが人付き合いの醍醐味なんじゃないの?

なんて、おばさんの独り言みたいになってきたので、このへんでやめて、舞台評に戻るけど。

と、だから、この芝居、そうゆう若い世代には`共有する’笑いも無く、(僕たちの)誰からも気づかれない痛みとかが見つけられずチンプンカンプンで面白くないかも。ま、それもある種のこの芝居に対する反応だから事実として受け止めたいところです。

芝居を観ながら、数年前に観た長塚圭史の「アジアの女」という芝居を思い出した。時代の閉塞感、終末的絶望感、、そしてその後の希望、と同じようなテーマを扱っているのだが、その描き方、希望への理由付けにもそれぞれの世代が反映されていてその違いが面白かった。
30代の長塚氏はNo.1ジャパンからの凋落時代の年代であるからゆえ、その希望に楽観的要素は少ないが、それでも生き続けるしかないというようなあきらめの中のしぶとい現実がある。それに対して、高度経済成長期の野田氏の芝居にはある種前向きな肯定的ハングリー精神、人間の本能を評価するような泥臭さが感じられる。
実際の日本が今後どのような道を辿るのか、見続けるしかないでしょう。

最後に、今回の舞台、役者陣の質の高さに触れておきたい。
前述の4人の主役さんたちに加え、コンドルズのパイパーs。小松さんに田中さん、そして北村さん、、と多いに楽しませていただきました。どうもありがとうございました。

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