ねずみ狩り
劇団・うずめ劇場の「ねずみ狩り」を駒場アゴラ劇場で観てきたところ。
05年に初演されたものの再演とのこと。
劇団の主宰者で演出家のドイツ人演劇家、ペーター・ゲスナーが脚色(原作/ペーター・トゥリー二、71年ウィーンにて世界初演)、演出、そして今日の回では主演(劇の95%は男女の二人芝居)を努めた今日の舞台。
舞台の劇のほかにもいろいろと考えさせられる芝居だった。
ドイツ人のゲスナーの創る芝居は「こってりバターソース味」だったという事。良い意味でも、考えさせられるという意味でも、これは日本人ドイツ人演出家が創った芝居だということが匂い立つように出ていた。
劇の内容に関しては、それこそ「意味」「言いたい事、伝えたい事」がぎっしりつまった内容で、現、資本主義消費社会、さらには日本におけるマニュアルー右へならえ文化に対する批判、実態のない虚構の現代日本への懐疑、さらにはゲスナーの目からみた「変な国日本」観などが細かく、びっしりつめられていて面白く観れるのだが、それよりもなによりも、その見せ方、伝え方が今の日本演劇界では特殊で興味深かった。
何しろ、全てがとってもストレート、主義主張もそのままずばり台詞にのせ、その台詞も暗喩もなにもなく直球勝負で観客はその意味を捉え間違えようが無いのだ。
これが、もし日本人による舞台だったら、と考えると、、、まず、こっぱずかしくて、これほどのストレート勝負は最初からしかけないだろう。
同じ事を表現するのにも、おそらくは外堀から埋めていったり、行間にその一番言いたいところを見え隠れさせたりすので、おそらくは所要時間も1.5倍くらいかかるのではないだろうか。
これって、やっぱりそれぞれの国の風土の違い、つまりはカルチャーの違いっていうところに関係してくるのでしょうね。
と言うのも、私の長年の命題「なぜ夢の遊眠社の芝居はエジンバラでウケなかったのか?」ということに繋がってくるのだが、やっぱり遊眠社の芝居は日本人の観客に最も有効な方法で創られていたからなんだろうな〜、という所です。
表層的なスピーディーな動き、日本語の台詞などなどの問題よりも、野田秀樹の言葉(珠玉の言葉と日本人は感じるのだが)は西洋人にはまどろっこしすぎて、「それで?言いたい事はズバリ何なのよ?!」ということになったんだろうな、と思う。確かに、多文化、多言語共生の英国ではかなりはっきり、分かりやすく言わないと相手にされないケースが多いからね。
(もちろん、英国の芝居にも比喩で語られ、主張テーマを表に出さないでそれでいて良い芝居というのは沢山あるけれど、その主張テーマが悪くいえば、、シンプル、で良く言えば、、全世界普遍なんだよね。よ〜〜〜く日本の演劇人が”イギリスの芝居と言っても、そんなに大した事ないね〜、日本のものより面白くないよ。”って言っているのを耳にするけど、そのOutcome、成果という面から言うとその一見対した事のない芝居の方が、影響力がはるかに広く社会に浸透していると思う。芸術が自己満足なもの自分の芸術的表現欲を満たすだけのものだったら、21世紀の今、その種の芸術は必要ないからね〜。どうも日本は未だに純粋芸術主義が幅をきかせているように思えて仕方が無い。で、一方では若い世代にはそんな純粋芸術主義なんてのは一向に通用しないから。。。彼らの感覚の中では論外に近いから、その世代感覚のギャップから芸術界全体の、演劇界全体のが前進スピードダウンしていくのだろうな。)
で、今回の芝居、言葉の使い方も普段我が家で聞いている英国人のハビーの言いっぷりに激似していて
(例えば、怒ったときにファックと同じ感覚で、このうんこ!とか言うんだよね〜〜。その言葉を聞く度に「あんた、そんな言い方したらあんたが怒っているっていうことは確実に伝わらないからね。まだファックとかシットとか言った方が通じるかもよ。だって日本人はうんこそのもの以外には、うんこみたいな、とかうんこ野郎とか絶対言わないから。」って説明するんだけど。だから翻訳って難しいよね。)、あ〜〜〜メイド・イン・ジャーマニーな芝居だな〜と感じました。
時々はこうゆう、まったく違う作り方の芝居を観るのも一興だなと感じました。
そうすることで、自分たちの輪郭も見えてくるしね。
ps.
相手役の絹川友梨さん、良かったです。
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