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2008年5月

2008年5月31日 (土)

風のつめたき櫻かな

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5月30日(ソワレ)

文学座の「風のつめたき櫻かな」を紀伊国屋サザンシアターにて観る。
このところ、私には珍しく、新劇の観劇が続いている。

平田オリザが文学座公演の為に書き下ろした新作。文学座創設メンバーの一人である久保田万太郎の戯曲「銀座復興」をベースに平田が設定を現代におき変えて、新たに、近未来東京におきたと仮定された大地震後の人々の悲喜交々を描いた作品。
大地震後になんとか持ちこたえた喫茶店に集まり、個々に起きた悲劇を胸にしまいながら、明日へ小さな希望を託す人々、人情と気配りが彼らのぎりぎりの現状に暖かい灯を点す。

文学座のベテラン役者たちが核をなす舞台で、舞台上の平均年齢はかなり高い。実際の日常でも商店街の人々の集まり、というとこのような年齢構成になるであろうから、ある意味かなりリアリティーのある話なのかも。

それにしても、社会の中心であるべき若い人ー若い人は芝居の中の役にもあって、数人は出てくるのだが、彼らに肝心な`若さ’ーこんな惨事の後だからこそもっと際立つであろう、若いエネルギーが無いーが舞台で輝いていないのが淋しい。
今の時代、お年寄りが元気で、至る所でそのパワーを発揮し、彼らの方がエネルギーを持て余している、というのもリアルなのであろうが、、今更、その話を聞かされても、、という気がする。

とりあげるべきテーマ、問題提議すべき事柄はまだまだ沢山あるのでは無いか?と思ってしまう。

なんて、ここまで書いて、テレビをつけたら、高島平団地の老朽化とそこに住む住人達の高齢化、それにともなう高齢老人達の孤独死、そして団地の過疎化の問題をやっていた。

そうそう、老人の話でも東京地震なんて大げさな話でなくても、深刻な話は身近に沢山ある。
そんな話を舞台に上げたら、みんなが身近な問題として興味を持つんじゃないかな?そうでなければ、テレビに客を持って行かれても仕方が無くなるのかも。

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オットーと呼ばれる日本人

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28日(水) ソワレ

新国立劇場にて「オットーと呼ばれる日本人」を観る。
新劇界の大家、木下順二が1961年に発表、翌年劇団民藝で初演、その後70年代に他の劇団により上演、さらには2000年に民藝により再々演されているものの、他の木下作品、例えば「夕鶴」などに比べたら極端に上演回数の少ない作品。2回の休憩をはさんで3時間40分という上演時間の長さがその原因の一つなのだろうか。

その上演時間の長さをまったく感じさせない、戯曲の圧倒的な力に完全にやられた感があり。

シェイクスピアの劇を4時間観たあとに感じる、身体の軽い疲れとともに逆に身体に充満してくる充足感とでも言うのか、見終わった後、これぞ演劇と拳を握るような満足感と高揚感を味わった。

大戦前夜の日本で起きたソ連人スパイ、リヒャルト・ゾルゲによる国際規模のスパイ事件、いわゆるゾルゲ事件を題材に、実際その事件に関わった日本人諜報部員、尾崎秀実の心の葛藤と西洋と東洋の思想の違い、さらには個としての人間の理想と公の中での最大公約数としての理想のギャップを描いている。

史実をもりこみながらの歴史検証劇という形をとりながら、その傍ら劇の本質としてはどの時代にも通じる普遍的な問いかけが随所にもりこまれている為、2008年5月の日本において殊更に見る価値の十二分にある芝居として成り立っている。

芸術監督、鵜山仁氏が先日のインタビューの中で(一部はJapan Timesに掲載済み。さらに個別記事として近日中にも掲載予定。)語っていた、今の時代における「新劇」の再発見の意義、というのはこれ(ら)のことであったのか、と大いに納得した次第である。

グローバル化が進む21世紀、その中で見る日本の、さらには世界の将来図とは?
その問いに対す答えを探すべく討論が劇中、ジョンスン(ゾルゲの劇中名/グレッグ・デールにより演じられる)とオットー(尾崎/吉田栄作)の間で展開する。
劇中、オットー本人が語っているように、オットーという名の日本人スパイは東西関係を見据えた諜報部員でありながら日本という国に執拗に固執し、「あなたがドイツを簡単に無視できるようには日本を無視できないという点でなら、ぼくはむしろ民族主義者だ。」とあくまでも全ての行動が日本を日本国民を救うためだけの理由でなされていると言い切る。
一方、ナチスに占領されたドイツを祖国に持つ、ジョンスンは世界の将来を見据えて、あえて祖国を見限ると言う。このまま日本軍を増長させれば、小さな巨人である日本民族は滅びるという(ある意味オットーは明確に将来を見る事のできる男であった)危機感から命をかけてスパイ行為を続けるオットーとドイツ国は滅びても、人類の長期の平和を願うジョンスン。その対比がおもしろい。

かえすがえすも、オットーのような人物でも陥る、日本人が日本という国、日の丸に対する愛国心、思い入れとは何なのだろう?と考えさせられる。
太古を遡れば、日本も極東アジアの離れ小島の一つにすぎなかったはずなのに、いつの日から「日本」なる固有意識がここまで大手を振ってまかり通るようになってしまったのだろうか?
日本固有の、、、とか、我々古来伝統による、、とか、、

そのような国境意識(ボーダー意識)の呪縛が、その危険の香りが舞台の上に立ちこめている。

ポスト新劇の時代に入って久しい昨今、時代とともに表現の仕方も変わってくるのは必然であるとは思うが、何かと笑いとノリが充満している舞台が多い中、、確かに、この芝居は重いがその分確かな力があった。
必見!

最後に、今回、初めて外国人役の役者たちを実際に外国人役者たちにキャスティングし、英語で台詞を語らせた(ロジャー・パルバース英語訳)演出に大いなる成功点があったことを記しておく。

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2008年5月27日 (火)

ソンナ時コソ笑ッテロ

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5月24日(土)マチネ

麿赤兒率いる舞踏集団、大駱駝艦の若手シリーズ公演、壷中天「ソンナ時コソ笑ッテロ」を吉祥寺シアターにて観る。

今回は大駱駝艦の中堅主力メンバー、松村卓也の振り付け、演出、美術。前回の壷中天シリーズの時は田村一行の作品を吉祥寺のスタジオ(50席強の小さなスペース)でやったのだが、そちらも良かったが、今回の吉祥寺シアターでの、この作品もかなりクオリティーの高い作品。
それぞれに作り手の個性が良い意味で前面にはっきりと出ていて、同じ舞踏ながら、まったく別のカラーのダンス作品に仕上がっており、このカンパニーの総合力に驚かされる。

舞踏というとある決まった固まったイメージをもたれがちだが、実のところ、その中味はかなり自由でかなりの広がりのあるダンス表現であることが両作品を観て分かる。ドン麿の作り出す世界ももちろん素晴らしく、それはフィロゾフィー(哲学)の域にまで達しているのだが、それに続く若手たちがその大御所に臆するところ無く、それぞれの芸術感覚を磨いているところが素晴らしく、このカンパニーの公演に通う最大の理由。毎回、新しい発見があり、舞踏がその姿を日々進化させていることを目撃出来る。

今回の松村の作品においても、彼のアート感覚が随所にいろいろな形で表現されており、、それがダンスという肉体表現のみに限られる事なく、ヴィジュアルアート、言葉、音楽、演劇、、とあらゆるジャンルにおいての芸術をパフォーミングアートという最高に贅沢な形でみることが出来る。なんとも贅沢な舞台。
これらの要素に加え、彼のステージには麿、同様に哲学=メッセージがある。
言葉に頼らない舞台で、観客にそのメッセージを伝える、それが出来るのが良質なパフォーミングアートなのでしょう。
で、最後にそれを実現するためには、それを体現する優秀な肉体、ダンサー達が必要不可欠で、ここにはそれが確実に存在するというのがまた驚異。

やっぱり、大駱駝艦、、世界の人々にもこの幸せな瞬間を味わってもらいたいですよ。

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まどろみ

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5月24日(土)ソワレ
若手の注目株、ペンギンプルペイルパイルズ(PPPP)の倉持裕の新作「まどろみ」を池袋、あうるすぽっとにて観る。

今回はPPPから離れてのプロデュース公演なのだが、もちろんいつもの倉持戯曲らしい、ミステリー不条理なテイストの話。
不眠症に悩む主人公零児(近藤公園)のところに、ある日見知らぬ女が訪ねてくる。彼女は一晩をともにした零児のことが忘れられず探しつづけた結果、やっと探し当てたと言うのだ。ところが、恋人と暮らす零児にはその女に見覚えは無く、そのうちに、どうやら零児とうりふたつの顔の男がこの世のどこかに存在するのでは、という推論が現実味をおびてくる。

人々の追い立てられる生活の中で、ふとした瞬間、この世に自分と全く同じような人間が存在するのでは無いか、、また、この日常こそが、すでにいつか起こっている事の繰り返しなのでは無いか、、などどパラノイア的な意識に陥って行、都会人たちの悪夢を描いた「世にも奇妙な物語」的な話。

今回の舞台、そのなんとも気持ちの悪い悪夢のような不条理の感覚、というのが上手く舞台上に表現されてなくて、たんなる荒唐無稽なあり得ない話で終わってしまっていた。
その結果、時間が経つにつれ、ますます劇が散漫な状態となり、客席では時計の針をチェックする姿が増えていった。

もう一ひねり、が欲しかったところ。

役者たちも、それぞれの既に持っている技量のみで終始勝負していたので、全体としての統一感が無かった。

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シンクロナイズド・ウォーキング

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いつもながらのまとめ書きのせいで、観劇日が逆行します、すみません。。
5月25日(日)マチネ

坂手洋二率いる燐光群のアトリエ公演を彼ら所有のスタジオ梅が丘BOXにて観る。

今回は劇団演出/文芸部に所属する清水弥生さんの作品を坂手氏が台本指導と演出&美術(演出家の名前は小山笑子と偽名にて記載さいれている)というかたちで関わった舞台。
実生活で演劇活動の他に、介護ヘルパーの仕事もしているという作者の経験が色濃く反映された、半自伝的自戯曲の作品だけに、中味、筋ともにかなり骨太で、とても良く出来た翻。

東京オリンピック用地確保のため、立ち退きをせまられている簡易宿泊所=ベッドハウスのオーナーは筋ジストロフィーの病に冒されている若い女性、ミナミ(樋尾麻衣子)。ベッドハウスに宿泊しながら、そこでミナミのヘルパーとして働く数人の同年代の女性たちと同じ障害に冒されている男性、二宮(伊勢谷能宣)、そしてミナミの将来を気にもむ母エマ(中山マリ)、近所に住むホームレスバタさん(川中健次郎)、彼らのそれぞれの日々の葛藤と理不尽な現代社会に直面する弱者達の闘争を描く。健常者ではあっても、それぞれに悩みや心の傷をおった若者達、障害者でありながら集団の先頭に立ちグループの看板として活動を引っぱって行くミナミ、、そして彼女の本音と女としての悩み、それらが様々な角度から、実に正直に、そしてしっかりと裏付けされた台本のもと燐光群の素晴らしい役者たちによって、畳4畳ほどの殆ど何も無いシンプルな舞台の上で繰り広げられて行く。

このような、観客と密接に関わり合った芝居(社会派という言葉からはあえて離れたかたちで言うと)を観たいと思っている観客、特に若者層はたくさんいるはず。その証拠に(いくら小さいアトリエ公演とは言え)観客はどんなすきまもないほどのすし詰め状態に。
昨夏、スコットランドのトラヴァース劇場でみた芝居のほとんどが、このタイプの日常の社会的問題ー大きな事件とかではなく、日々くらしていく中で回りにいくらでもみつけられるような社会問題、英国だとやはり貧困、複雑な家族環境、都会と地方の格差、、とか、、で、日本だったら、若者の閉塞感、格差社会、ワーキングプアー、そして高齢者の社会での位置、、とかになるのかな?)で、それがそれぞれに秀逸だっただけに、日本でそのような芝居になかなかお目にかかれないのはなぜ?なんだろうと思っていたところに、この芝居を観たので、そうそう、これですよ!!!という感動状態です。

暗い時代だからこそ、明るいエンターティンメント、夢のある話、、もしくはデフォルメしてショッキングな刺激を与えることで客を集める舞台を、、、なんて制作側が思っているのだとしたら、それは大きなおごりです。
客はそんなに単純でもバカでもない。
舞台ごときで人生バラ色に変わるわきゃない(他の意味で舞台がある人の人生を変える事はあっても)。
もっと、真摯に芝居と向き合おうよ。そんでもって、客の度量を信じて、問題を舞台にあげてみようよ。

そうすれば、今回の芝居のように、必ず観客は反応するはず。絶対に。

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瞼の母

前回書いた7時眠気症候群の中、世田谷パブリックシアターで草彅剛主演の「瞼の母」を観る。

この舞台の眠気は時差ボケのせいか、それとも本当に眠気が襲ったのか??なんて。

超がつくほどの贅沢なキャストで1時間半の舞台。ー三田和代と大竹しのぶの競演って2004年新国立劇場初演の秀作、「喪服の似合うエレクトラ」以来ですよね、あの舞台は二人の競演の満足感たっぷりでしたがーで、見終わった後は、心底「なぜ、この芝居やったのか?この芝居でやりたかった事って何????ーもしかして、こんなにすごいキャストが実現するのよ〜〜〜ん、っていう制作側の自己満足?(ちょっと意地悪かったらごめんなさい)」と思ってしまうような、まさに狐につままれたような舞台。
2年前に、やはり草彅君の主演で上演された菊池寛戯曲の2本立て「父帰る/屋上の狂人」の好評を引き継いでの企画でこのような翻選びとなったのだと思うが、「瞼の母」っていまどき日常の感覚ではまさに「ありえね〜〜〜」究極のKY芝居だと思うのですが。それが、大衆演劇の芝居小屋で、(例えば)お奇麗な年若い看板役者の熱演(!?)を観に行くという目的だったら、また見方も違ってくると思うのだが、世田谷パブリックのような、一応日本のコンテンポラリー演劇界の最先端をいく劇場というレーベルの貼られた劇場で、妙にアーティステイックな蜷川幸雄テイストの見事な桜の大木のセットでやられても、、、、一つ一つの要素(役者の演技も含め)に悪いところは無いのだが、それが一つの作品として観たときに、悲劇的なミスマッチとなって、取り返しのつかない失敗作となってしまった、という事でしょうか。

この公演、、知らず知らずのうちに無かった事になっていくんだろうな〜。そんなもんなんだろうな〜。

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困った時差ボケ

ヨーロッパから帰ってきて1週間になりますが、変な時差ボケに困っております。

帰国後、直後にUEFAチャンピオンズリーグの決勝戦放送があり、帰国翌日は残業処理で深夜に帰宅後Manchester U vs Chelsea対決を朝4時頃に見たりしていて、、ちょっと変則的な日々だったのですが、、かえって時差ボケにもならず、荒療治がよかったのかも、と思っていたところ、ちょっと不思議な症状が。

夜の7時きっかりに時差ボケがやってきて、眠くなるのです。ま〜これが私にとってはちょっと困ったプチ時差ボケ、、と言うのも7時といえば、通常の開幕ベルの時間。そう、劇が始まって暗くなると同時に眠気がやってくるのです。
金曜日の晩から観劇を再開し始めたのですが、今まで3晩、夜7時開演の芝居に通って、今のところ100%この症状が出ている! 普段、劇場で眠くなる事はほとんど無い私なのですが、やっぱりこれって時差ボケの残りですよね。で、30分くらいその状態をがまんすると、す〜〜〜っと眠気が消え、その後はいたって普通、夜も12時頃まで普通に起きている状態です。

プチ症状が出るにしても、出来る事ならちょっと時間がずれてくれれば、、例えば9時とか、もっと早く4時頃とか、それなら全く支障は無いのに。7時に眠くなるのは困る!!芝居は見たいが、まぶたは重い。。それをこらえるのもつらい。。どこかで、早くこの症状を直さなければ!
さらなる荒療治、、?もしくは、またもや渡航するとか??

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2008年5月20日 (火)

アートの役割

本日、悪天候の中、縦揺れ、横揺れでいっぱしのジェットコースター状態飛行のBA005でイギリスより戻ってまいりました。
今回は親戚のウェディングに出席する為というのが第一目標。17日(土)の結婚式のことはまた別の項目で載せるとして、、そんでもって、その前にスケベ心を出して繰出したベルリンでの演劇祭体験談も後ほどということにして、、今着いたばかりのつぶやきを一言。

BAの機内で映画やらなんやらのエンターティンメントをやっぱり観まくってしまっていたのですが、その中に去年のグラストンベリー(英国最大規模の野外音楽フェス)の番組があり、ー残念なことに着陸の1時間前にそのチャンネルを発見、、もっと前から見ていればよかったと後悔ー、楽しませてもらいました。
ちなみに、何プログラムもある新作映画に観たい作品はわずかで、その為、English TV Comedy ーエキストラーを往復で2回見てしまった。英国コメディは本当に質が高い。その殆どの中にかなり強烈な体制批判と社会に対する批判の辛口テイストがあるのが特徴。

アークテック・モンキーズとカサビアンの名前が出ていたので、それを目当てに見ていたのですが、、、彼らは着陸前にお目見えになってくれなくて、、映画の前宣伝を観た後のような気持ちでしぶしぶ飛行機の座席を後に、
そんな中、番組の前半に出てくれたThe Fratellisが気持ち良かった〜〜〜〜。夏フェス用のバンドってあるよね。

で、(もちろん番組として構成、編集しているものを観ているとは言え)この屋外フェスのなんと元気のよいことか。屋外で好きな音楽に協調しながら口ずさむ。アーティストへ声をかける。。パフォーミングアートの原点ここにあり、の感じ。
音楽にしろ演劇にしろ、、やっぱりこの観客との掛け合いが舞台アートの醍醐味だと思います。

それゆえ、やっぱりCDやプロモより、ライブ会場が一番面白くて、映画やDVDの演技よりもやっぱり生の舞台が断然面白い。

それにしても、海外のライブ映像とかを見ていると観客がその場で現場に参加しているのが見て取れる。舞台上のミュージシャンが主役であるのは言うまでもないが、ライブを見ている観客までもがかなり重要な役割を担っている。
そんな、人と人との掛け合い、関わり、、インテレクチュアルな対話がアートの役割だと思う。

既に準備されているものを上演している演劇にもその部分は確実にあって、ただ出来上がったものを発表してみせているだけでは意味が無い。
その会場で、その瞬間でのみ体感しうるものを求めて劇場へ行くんだよね。

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2008年5月 7日 (水)

コーヒー入門

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東京乾電池の「コーヒー入門」というブリリアントな大人の芝居を見せてもらう。

長年に渡り、一貫して不条理な笑いを追求してきた劇団の年期と力技を味合わせてもらった。

日本の不条理劇の上質なものがここには光っている。

(後日加筆)

不条理劇+ナンセンスコメディーて作るのがかなり難しい。この類いのテイストがお好みの方は多くいて、芝居人でもそこをゴールに設定している人々、例えば、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、 ごまのはえ、岩松了、それに数多くの若手劇団たちなどなど、それぞれに傑作を作り出してはいるのだが、如何せんこのジャンル、リスクが非常に高い。
紙一重のところを目指しているので、それがど真ん中にくると忘れがたい舞台になるのだが、少しでもずれると、、舞台上演の意味さえも疑いたくなる程の出来となる。
それだからこそ、このジャンルにあえて挑戦し続けている演劇人たち、常にリスクを負って攻めの姿勢にある人々はエラいと思う。ある程度の経験を積めば、安全な芝居を作る術も知ろう、、だが、ナンセンスコメディーなんて自分の才能とセンスを信じ続けなければうてないような舞台を追求する、その姿がかっこ良い。
で、またまた、話がづれたが、、この東京乾電池の「コーヒー入門」にはまったくもって、完全に打ちのめされた。完璧なほどにバカバカしく、かっこよく無意味で、それでいて意味ありげに見せる役者が上手くてすごい。

どこがどうずごいのか、、、「まずは観てみる事だね。」としか言えないほどにすごい芝居。

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わが魂は輝く水なり

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蜷川幸雄演出、清水邦夫作の「わが魂は輝く水なり」を観に行く。

高齢者劇団ゴールドシアターの影響なのか、このところ蜷川氏の過去のルーツを探る、演劇人生を振り返るシリーズ、若かりし頃に多く演出をしていた清水邦夫氏の作品の演出作品が多し。

やはり、当時演劇がある種、社会運動であった、若者文化がパワーを含んでいたという色が濃く出ている作品が多いのだが、それが今日の上演で通じるものとなっているかどうか、というのが清水作品を上演した際の評価の別れどころ。

今回の作品は源平合戦にストーリーの照準を合わせながら、当時、若者文化がいろいろな非難をあびながらも存在感を持ちながら台頭してきた−プログラムで扇田昭彦氏が解説しているとおりにー蜷川、清水の若者文化主張組と初演で主役を演じた演劇界の重鎮、宇野重吉氏の、ベテランと若手の関わり方を示唆した作品なのだが、、、今回、その関係性が舞台の上で再現できていないところが、、観ている側としては、、なぜ、今この作品?????と?マークが5連発してしまいになるところなのです。

と言うのも、蜷川氏に代表される通り、元気な、そしてまだまだ世界を引っぱっていくベテラン側は今の世に確実に存在するのだが、それに対する、、そのベテランが嫉妬するほどの力みなぎる若者サイドというのが、どこにも見当たらないからー特に劇中にあるように集団としての若者のパワーというのが、、今の世の中では見つけられなくて、その点で劇にリアリティーが無いのである。

その関係性の実像さえはっきり見せられれば、、、コクーンの大層ご立派な高級な舞台セットも、もしかしたら必要なくなるのかも。

野村萬斎と尾上菊五郎の良くも悪くも、、の対比は大層面白かったんだけどね。


PS 加齢臭の満ちたご招待席で、この老いと若さの芝居を観るというのも一興。演劇界の若者パワーの台頭について、、いろいろ考えるよね〜。とは言いつつ、、自分自身も妙にビミョーな中年なんだけど。。もうちょっと、この国、、若者がセンターに位置しても良いと思うな。

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2008年5月 5日 (月)

グルーポ・コルポ

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莫逆の犬

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出番を待ちながら

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木山事務所制作の2006年上演舞台の再演「出番を待ちながら」を新宿全労済ホールにて観劇する。

英国人、ノエル・カワードの戯曲(原題)「Waiting in the Wings」の忠実な上演舞台。老人ホームで暮らす、元人気女優達話ということで、舞台上の平均年齢が高いのはもちろんのこと、客席の平均年齢もかなり高い。
再演を実現しているだけあって、これがなかなか見応えがあり、面白かった。

その戯曲自体が面白い、ーひと時代を築いた往年の大女優達が共同生活を送る、高級老人ホームの話。年老いた姿、実態(ボケが始まっている人もいる)を世間の目にさらしたくないということから、半隠遁状態なのだが、かつては役を、そして恋人を奪い合った`女’たちのプライドは今でもかなり高く、それゆえの衝突、またそこへ人が隠したがると見せたがる、、そんな上昇志向満々の若い女性記者も加わり、、様々なドラマが展開する。また、一方でアート(演劇)の価値を重んじるという英国の一般的風潮などもそこここに見え隠れする。ーので、最初から最後まで興味深く話しを追うことが出来る。

そして、ここでもまた、、肝心の、、舞台を占める、高齢の女優陣の力が存分に発揮され、そのおかげで舞台がかなり質の高いものに仕上がっている。このような上手い女優を集められるのは、ある種、新劇関連事務所の強みと言えるだろう。万人に共通するテーマを上手い役者で演じられれば面白くないはずがない。

英国独特のエピソード(アイリッシュ人への偏見、階級社会の見栄とプライド、、などなど)を発見する楽しみもあり。

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苛々する大人の絵本

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2007年のベストプレイの一つイプセン「野鴨」を演出した、タニノクロウ氏が主催する劇団、庭劇団ペニノ、15th公演、「苛々する大人の絵本」を、雨の裏青山マンション1室へ観に行く。

マンションの1室での上演ということで、部屋の中は舞台と客席で満杯状態。傘をさしていたため、場所を見逃してしまった私はギリギリセーフだったものの、既に椅子席は無く、舞台間近の桟敷席にて、体育座りにて舞台のある上方を見上げながらの観劇。

部屋に入ったあと、すぐに、なんだか判断しかねるかすかな異臭が気になる(濡れた靴下かしらん??なんて思ったけど、違うみたい)中、ーまたもや臭いの演出ー紙芝居の実写版のようなこぢんまりした不思議な世界の舞台がスタート。ーーちなみにこの臭いの原因は劇の最後に判明した。

キャメロン・ディアスとジョン・キューザックが主演した「マルコビッチの穴」という映画を覚えている方も多いと思うが、あの中でキューザックが就職した半階分(1フロアーの半分の高さにある、事務所)の会社のような天地、寸詰まりの舞台では、さらに地上階と地下が存在し、ますますの寸詰まり状態に。
地上階では、ブタ鼻の女と羊女が平穏な、そして永遠に変わらない日常を送っている。穏やかに、かみあわない会話を交わし、毎日同じ白いマッシュポテト+樹液のソースがけを食べ、その不思議な環境に疑問を持つ事も無く、暮らしている。劇中盤になると、そんな二人の生活に変化が、、舞台下部の世界があらわれ、そこに囚われの身となっている、ガリバーならぬ、囚われの受験生ムラシマが現れる。

マルコビッチの穴でキューザックがマルコビッチの頭の中に入り込んだように、また不思議の国のアリスが夢の中で穴の世界へ飛び込んでいったように、ムラシマの妄想、頭脳の中に住む豚女と羊女の世界が目の前に同時に見えるものとして劇として展開していく。

精神科医というタニノ氏の頭の中、という様相の芝居。
一見、ナンセンスとも思える、設定、登場人物が実のところ深層心理の幹で繋がれている、そんな芝居で、このような芝居は劇場のかなりの密集度からしても、ちょっと心身的に余り部分がある時に観る事をお勧めする。
残業続きのお疲れ状態で、行こうものなら見えたはずの何かも見えず、その人の気と薄い空気、舞台上の意味不明さに、きっとますます疲れて劇場を後にすることになるのだろう。
そんなこんなで、この劇団、芝居が心に「空」の部分を有する、そして何かを吸収したがっている若者たちの賞賛を得ているのが納得出来る。

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焼き肉ドラゴン

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新国立劇場、小劇場にて日韓合同プロジェクト、在日朝鮮人である鄭義信の戯曲「焼き肉ドラゴン」の初日(4/17)を観る。

焼き肉臭のたちこめる、PIT劇場。前列のご婦人は「こうゆう臭い、私、苦手なのよね〜。気持ち悪くなりそう。。」とのコメント。意外と新しい演出法としては、この「臭い」というのも面白いかも、、、なんて。
かの婦人のちょっと眉間に皺をよせた苦言からして、この劇の上演目的が、初っ端からすでに的を得ている証拠なのかも。
で、1970年万博に湧く大阪(ひゃ〜〜〜懐かしい。行ったわ、行った。カナダ館で満場の人たちの中でいきなり日本の歌を歌わされた記憶があり。どひゃー)、在日家族が多く住む、間近のどぶ川の匂いが鼻を突く込み入ったエリア。この劇の主軸となる家族が営む焼き肉屋のセットが舞台を陣取る。
一家の末っ子、物語の陰の語り手(劇中、彼は同級生のイジメにより言葉を失ってしゃべれない役)時男がトタン屋根の上で当時の在日家族のしっちゃかめっちゃかな、喧噪の毎日を振り返る。
いわゆる、在日1世の店主とおかみさん、そして2世の子ども達、夢を求めて新しく日本へ移り住んで来た人たち、と世代による立場の違い、韓国と日本との距離感の違いなどを、日韓ミックスの俳優達のしゃべる言葉によって巧みに、そして自然に表現している。
物語は、家族の成長、挫折を軸としながら、日本高度経済成長期のみなぎるエネルギーと猥雑さ、在日社会の変化、と変わらぬ日本の排他的な風潮を、決しておしつけがましくなく、あくまでも上質なホームドラマとして展開していく。
久しぶりに、淀川さんじゃないけど、、「本当にお芝居って素晴らしいですね。」と心の底から言ってしまいたくなるようなお芝居。

そんな中でも特筆すべきこの劇の成功点は、
*役者の存在感と上手さ
*昨今の韓国映画ブームと共通するような、観劇後の精神のカタルシス
にあるであろう。

その中でも、今回ほど、、役者というのは特別な技能を持ったプロフェッショナルな人々のことを言うのだなと実感したことはない。
韓国側からの役者達の、単純でありながらかなりの重要要素であるーはっきりと、それもナチュラルに台詞が耳に入っているーという技術に感嘆する。
時間があえば、再度観たかったのだが、、またの再演を、今から楽しみにしている。

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