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2007年2月

2007年2月28日 (水)

Being Julia

渋谷文化村で「華麗なる恋の舞台で」という映画を観てきたところです。 この映画、原題は「Being Julia」と言いまして、まさに‘女優ジュリアたるはどういうことか’という映画です。それが「華麗なる恋の舞台で」、、とは、なんと没個性な、短絡的な近年まれに見る、失敗の邦題例じゃないですか。この邦題だと、映画の魅力がまったく伝わらないし、舞台関係の映画だということも(舞台がもっと一般的な意味で読まれてしまうので)分かってもらえず、、うもれちゃいます。 で、映画の方ですが、再三申し上げているように、舞台女優ジュリアの話なんですが、これがまあ舞台好きにはたまらない エピソード満載の映画です。 英国屈指の舞台俳優、マイケル・ガンボン演じるところのジュリアの演劇の師が彼女の心の声として彼女に与える助言が何とも素晴らしい。舞台が全てという、演劇愛に満ちたおバカさんたちを代弁しております。また、彼女をとりまく人々、夫、付き人、パトロン、ゲイのパトロン、、などなども同じトーンでして、、これを観て、またもや世界中に芝居狂いの人々って確実に生存しているのね、、と嬉しくなってしまった次第です。 演劇ファン、特に役者志望者にぜひ観てもらいたい一本でした。

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2007年2月27日 (火)

チェルフィッチュ

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「チェルフィッチュ」という名前にひかれて、横浜までダンスを観に行ってきました。

と言うのも、近年、演劇界での話題の的がこの`チェルフィッチュ’だからなのです。劇作家・演出家、岡田利規氏主催の演劇ユニット「チェルフィッチュ」。演劇界、90年代を先導した平田オリザ、松尾スズキにつづく21世紀のエポックメイカーとして大変注目されながら、マイペースに活動を続ける、新世代の演劇ユニットです。

その静かなる台頭が演劇界の核を動かし、昨年2006年には新国立劇場で注目のデビューを果たしました。
が、、このデビュー戦が、、、演劇界の高齢層には大不評。
実際、演劇雑誌の古参、月刊テアトロの2006年総評では圧倒的な数のワーストワンをたたき出しております。

舞台上でのモノローグが台詞になっていないとか、ただ手足をぶらぶらさせながら台詞をしゃべる様が演劇とは言えないとか、、お気持ちは良く分かります。
私も、初めてチェルフィッチュを観た時は、全く同じような感想を持ちました。
(その事実にちょっと自己嫌悪、感覚が鈍っているのかと不安。。)
若者しゃべり「私的にはーーー」「〜〜って言うか、、〜〜している風な。。」といった、独特な台詞術に嫌悪感を覚えたのです。
が、、今思えば、これも岡田氏の演出意図、、ま、今風に言うと、想定範囲内、なんでしょう。
古い演劇用語を引用すれば、ブレヒト的異化効果とでも申しましょうか。
この、絶対的違和感から生じる、脳裏に残るざらざら感がただ単に若者世代の表層を伝えるというだけでは終わらせない、それこそ演劇的意義に通じる秘訣だと思います。

ここで、再度はっきりさせておきたい事は、2006年12月新国立劇場・ピット劇場にて上演された「エンジョイ」は秀作だと言う事です。
70年代の若者群像劇にあったように自分たちの主張を怒鳴るだけではなく、(その時代にはその方法が有効だったのでしょう)、既に大きなギャップが出来てしまっているジェネレーションによる感覚の違いをまさにそのまま劇場に実現してくれた、現代の若者の閉塞感を痛ましい程に露呈してくれた「エンジョイ」は秀作!!です。

で、、、ダンスなのですが、1時間ほどの小作品で40人ほどの観客が入る小さな小屋で、これまた小さな(155cmデュオとプログラムにはありました)女の子二人のコンテンポラリーダンス。
映像の使い方、そしてダンスも、センスの良いやはり2007年の匂いを漂わせた優良作品でした。

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2007年2月24日 (土)

最大級のホラーコミック

2月23日(金)、TIF(東京国際芸術祭)2007参加作品の「アトミック・サバイバー」を西巣鴨の演劇祭用特設ステージで観た。

開演時間になると、突然普段着の男性が観客席前に現れ、2006年8月14日、早朝に起きた東京都市部大停電の様子について語り始めた。熱帯魚の水槽の電灯が突然消えたので、不審に思い、部屋の外に出てみたら近隣の人々が停電だー、と口々に騒いでいたので、辺り一帯の停電だと気がついたというのである。
続いて、その他数人が同じ日の停電に関する思い出話をした後、舞台後方一面に張られたスクリーンには電飾で明るく浮かび上がる夜の東京の景色が俯瞰で映し出され、また別のモノクロ映像、役場での上司と部下の無気力なミーティングの様子を演じたものが映し出される。それぞれの映像にはドイツの社会主義劇作家ブレヒトの演劇理論本からの一節、とロシアの巨匠チェーホフによる「ワーニャ伯父さん」からの一部が重ねられている。

その後は、舞台中央に設置された、小学生用の教材のような、紙で作られた原子力発電所の模型を使って、核燃料による発電の仕組みが役者達によって説明されていく。
舞台にはその説明の様子をビデオで撮影するカメラマンが現れ、同時にその写した映像が後方のスクリーンに映し出される演出になっている。
XX原発の企業宣伝ビデオの形式をとっており、社会科見学の際に見せられるような、あるいは教育チャンネルで子供向けに`工場の仕事の流れ’と銘打って流すような、そんな光景が展開されていく。舞台中央で、進行役の女性がマイクを片手に笑みをつくりながら、平易な言葉で原発の仕組みを説明していく様子も絶えずスクリーンに映し出される。

基本的にはこの企業ビデオシリーズ舞台の連続と時たま挿入される映像との組み合わせで舞台は構成されている。

この、一見、至極単純に見える、劇作品には恐ろしい真実が盛込まれていた。

一切の虚構を排除した、レポート形式の劇からは、原発の闇がはっきりと浮かび上がってきた。

背筋が凍る、既成事実を読み上げる(現在の日本における原発は55基、さらに将来13基の増設が決まっている)一方で、笑うに笑えないはずなのに、あまりにおそまつで笑ってしまう、発電所内のエピソードが感情を押し殺したドキュドラマ形式で展開していく。

そのエピソードの一例だが、、
*いろいろな行程での確認事項は実は人間の目による`目’確認がほとんどである
*核処理施設内の作業は適した通行証を有した担当作業員のみが行なうことになっているはずなのだが、、人が足りない場合は他の作業にも駆り出される
*施設内では、当然のことながら放射能に対する防護服を着ての作業となっているのだが、時にはマスクを外してしまったり、また危険値を知らせるアラームが鳴っても、あと少しだからと作業を続けてしまう場合もある

などなど、、これらのエピソードは実際に施設に作業員として雇われていた、ジャーナリストによる潜入レポートからとっているので、本当のことらしい。
ちょっと現場サイトでのあまりの鈍感さに驚いてしまうのだが、そう言えば、原発事故が起きた際にバケツを使って処理しようとしていたなんてニュースもあったな、、と納得してしまう。

今回の芝居の構成・演出をした阿部初美さんは、実際に現場の青森県、六ヶ所村へ出向いて現地の声を聞き、見て、「原発の問題があまりに多重的な要素を孕んでいる事が分かりました。ここから見えてきたのは、多くのさまざまな犠牲の上になりたつ、日本の資本主義の構造です。」とプログラムの中でコメントしている。

確かに、劇中でも紹介されていたように、六ヶ所村は原発によって成り立っているので、住民達は原発が無くなってもらってはこまるのだろうが、それと、原発の危険性の問題とは別。

地球温暖化による海水の上昇で、あと100年以内に日本が沈没してしまうなら、それで終わりでかまわないのかもしれないが、、自分たちの子孫が放射能汚染だらけの野菜を食べ、水を飲み、、奇形児が産まれ続けてしまうようになるのを黙って見ている法はない。。とやはり強く感じた。

まず、クリスマスイルミネーション、、いりませんよね。新宿や渋谷のネオン、ディズニーランドもいりません。
便利にさらに明るく、明るく、、の世の中よりも、やっぱり安全な世の中の方が良いのではないでしょうか?

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2007年2月23日 (金)

木曜日はダブル?

久しぶりに観劇レビュー、それも2本立てです。

(マチネ)「薔薇の花束の秘密」 ーby T.P.T

TPT(Theatre Project Tokyo)の好評レパートリーシリーズの1本。

アメリカ人演出家、ロバート・アラン・アッカーマン(Robert Allan Ackerman)による演出で1991年に上演されてから何回か再演され続けてきたTPTの定番作品をやはりTPTの秘蔵っ子、若手演出家木内宏昌が新訳をつけて再演。主役であり、唯一の登場役者である主演女優二人には安名淳と鞠谷友子が配された。

丁度、帰国直後(2000年)だった為、アッカーマン演出の舞台を実際には観ていないのだが、プログラムにもアッカーマン演出に基づく、、と記載されているため、彼のものに近い形と想像される。

とにかく、マヌエル・プイグの戯曲がすばらしい。20年近く昔の作品にもかかわらず、その台詞一言一言がまさに日本が今抱えている諸処の問題に直結していて、台詞が心の奥底に響き渡る。
その問題とは、女の自立であり、介護、家族の崩壊・疑心などなど、観客の誰もが抱えているような問題であり、さらには、もっと基本的な人としての資質、生きる意義、人としての悲しみ故の思いやり、愛情と言うよな普遍的なテーマを追求している。
社会的立場・生い立ちの全く違う女二人が、病人とその付き添い婦という関係で出会い、病室で過ごすうちに、それぞれ自暴自棄になりかけていた人生の目標を取り戻し、将来への希望の光を見いだして行く話なのだが、ーその過程において、誤解と裏切りなどが生じるのだがー学歴の無い社会の底辺層で暮らしてきた付添婦役の鞠谷友子が次第に自分の中にあるかもしれない可能性、才能に自信を持ち始めて行く過程が丁寧に描き出されている。

白を基調にした病室にかけられたブラインドから差し込む光が登場人物たちの胸中のトーンを映し出し、また時にはそのブラインドの開け閉めで起こる音によって場面転換が即座に行なわれる。
乾涸びた心の状態ー空`白’の状態だった二人の病室が最後は生への希望に満ちた薔薇の`赤’色で染め上げられる。

このような、上質なヒューマンドラマ、日々をただただ生き急ぐ日本にいると、本当に心に染入ります。


ソワレー奥州安達原  by ク・ナウカ

One of my favorite theatres- それが、宮城聰、率いるク・ナウカです。

そのク・ナウカが宮城氏の静岡県舞台芸術センター(SPAC)の芸術監督就任に伴い、この舞台を最後に事実上の休業状態ー宮城氏の作品は全てSPACから発信され、東京を基点として劇団活動は停止、所属俳優達は個人活動期間に入るーに入るとのニュースが届き、大変複雑な思いを抱きながら西新宿の仮説舞台会場(学校の体育館に今回の舞台用にステージを設置)へ。

コアなファンが多い劇団故、雨にもかかわらず、当日は私と同じような面持ちの観客が劇場へと詰めかけていた。

宮城氏が客席への入り口付近で、来場客を待ち受ける。つまり、ここでク・ナウカを観にきた観客達は間近にその舞台の創造者と接見することが出来る訳である。私の前にはちょっとご年配の女性ファン達が並んでいて、宮城氏へ「静岡へ行ってもおいかけるからね!」と熱いラブコールを送っていた。ヒュー!!(宮城氏のお人柄ゆえ、なんでしょうね。)

体育館一杯に設置された、黒白のボックス型ステージの真ん中部分には亀裂が入っており、実際のところ二つの三角形のステージが亀裂を挟んで向かい合っているような形になっている。
その亀裂部分の奥底から、コーラスが聞こえ、ク・ナウカの売りポイントである、ライブ演奏・コーラス隊が行進しながら客席の眼前にあった演奏場所へと入ってくる。
演じる役者と台詞を話す役者を分けて、二人一役で劇を進行することでも有名な同劇団のいつもの形式どおり、語り手が舞台横手に設置された、小山の部分で東北弁による語りを始める。
舞台上では、これもまたファンにはお楽しみの一つの豪華絢爛、美しい衣装に身を包んだ役者たちが、普段よりもさらに身振りに徹した(体育館というオープンなスペースの為なのか)動きで役を演じていく。**

惜しむらくは、新作だけにちょっと荒削りな、まだまだ改良の余地が沢山ありそうな舞台になってしまった事であろうか。
同劇団のレパートリー作品、エレクトラ、天守物語、サロメ、王女メデイア、トリスタンとイゾルデ、などではその様式美、視覚美にプラスして劇内容にかなりの哲学的に深淵な意味が含まれていて、それが観客の知的欲求をかなり満足させていたのだが、今回の公演では、ちょっとした外的条件、例えば舞台専用の劇場では無い上、東北弁でしゃべっているため、かなりの部分で台詞が聞きずらいとか、あまり馴染みの無い話故、その登場人物たちの立場、相関関係を説明するのに時間を費やしてしまったなどの部分で肝心の劇の本題が緩慢になってしまった感は否めない。

舞台セット、衣装、そしてライブミュージックという点で美的満足度、満点、、でもちょっと物足りない、最終公演であった。

あと、やはり最後、、美加里さんは艶やかなお姫様で観たかったというのも本心。
最終公演だからこそ、劇団のディーバ、いやいや演劇界の女神にはお姫様をやって欲しかった。(もちろんこれからも美加里嬢を観る事は出来るのですが、最終公演という区切り公演なので)
すごく、わがままな私見というのは重々承知の上、、の感想でした。

**この点に関しては、今回の「奥州安達原」が近松半二作の人形浄瑠璃をベースにして、舞台化していることから、役者を人形と重ね合わせての意図的演出と判明。

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2007年2月21日 (水)

ユメ十夜

夏目漱石原作の「ユメ十夜」を十話のオムニバスで別々の監督・チームに撮らせた映画作品を観てきました。

100点中25点かなー。

第6話の松尾スズキ監督、彫刻家、運慶が仁王像を彫る話が、85点、第7話のすごく絵がきれいなアニメーション作品が70点、、その他は第1話の小泉今日子と松尾のかつら姿に50点、、ホラー色でそれなりに楽しめた第3話と山本耕史主演で可もなく不可もなくの第4話が45点、、第2話、第10話などは得点マイナスでダメダメでした。

夏目漱石先生の原作で自分の映像センスを試したい、もっと言えば自慢したいが為だけの作品が多く、初心であるべき、観客がその想像過程からすっかり抜け落ちておりました。

ユメという虚実を具象化する難しさもあるのでしょうが、オムニバスという形式ゆえ、他者(監督)への対抗意識バリバリの自己満足映画の連発でした。

ふーーー。

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2007年2月20日 (火)

創作和食居酒屋

近日中の集まりのため、ウェブのグルメサイトでお店の検索をしておりました。

新宿エリアで検索をしたのですが、創作和食居酒屋ーxxのしずく系のお店の多い事多い事。

メニューをみても、どこがどこのお店が見分けがつかない程、似通っております。
ま、宴会、集まりには、誰でもが好き嫌い無く食べれて、席も少数グループでも個室を使えて、ま、使い勝手が非常に良いということなのでしょう。

テレビの番組で有名人のお気に入りのお店とかこれはというメニュー三品を紹介なんて言うのを見るにつけて、もし自分が選ぶとしたら、、なんて考えてしまいますが、、なんかこれだ!!というのが思い浮かばないのはなぜなんでしょう。
グルメではないから?
夫とのお出かけが外食というよりは外飲み重視のお店選びだから??

どうも、その答えには「年ともに胃の胃粘液が減っているから!」というのが、一番近いような気がします。

死ぬ前にあそこのこれだけは!とか、並んででもあの行列が出来ているお店の名物料理を食べてみたい。。なんて欲求が、無いんですよねー。

食べるのは、もちろん嫌いじゃない、、というよりもむしろ大好きなんだけど、
いつでも歓迎なのは、ご飯に塩辛、もしくはさっぱりサラダかお寿司かなー。
ラーメンに行列なんていうのが、やっぱり理解出来ない。

うーん、舌のイギリス人化現象とも言えるのでしょうかね。


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2007年2月19日 (月)

物価

ただいま、文京区の小日向という所に住んでいるのですが、一番近い駅が丸の内線の茗荷谷です。

今まで、茗荷谷でばかり買い物をしていて、茗荷谷には便利なスーパーが無いなーと嘆いていたのですが、最近家を出て、いつもと反対の方向へ向かえば、有楽町線の江戸川橋まで近いことを発見しました。

で、この江戸川橋に、昔ながらの様相を残す地蔵商店街なるものがあり、物価の違いに日々驚いて、喜んでいる毎日です。
節分には町内会の豆まきがあり、お正月にはお神酒がふるまわれる商店街には庶民のお店がずらーーーり。

茗荷谷では、ちょっと油断すると¥5000札が飛んで行ってしまうところ、リュックに一杯買い物をしても江戸川橋では¥5000札でおつりがきます。

格差社会がこんな身近に、、それでも同じものだったら安く買った方が良いに決まっているので、ここのところ家を出たら左に曲がらず、右に行くようにしている私でした。

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能ある鷹は爪の色は気にしない?

週末はノー芝居。
友人と会って、書き物のお仕事をして、東京マラソンをテレビで観て、、過ごしました。

友人夫婦と7歳、3歳の娘二人と10年ぶりくらいに再会。
ロンドン滞在中に知り合った、ご夫婦なのですが、ここのダンナ様がちょっとケタはずれに優れた頭脳をお持ちの方なのですが(いわゆる超エリート)、全くそのことをひけらかすどころか、何とも思っていないようなのです。

近年、ノーベル賞受賞チームの一員としてそのリストにも名前を残しているそうなのですが、、それとてご本人にとっては、日常の一つのエピソードのよう。
ま、こういった人が何度も賞を受賞しちゃったりするのかもしれません。(それにしてもノーベル賞だもんね)
本当に、すごい人、天才と言われる人は俗人がぴーちくぱーちく、小さな事で煩っているのなんかとは別世界で物事考えているのでしょうねー。

つくづく、人間は千差万別、それゆえに分相応というのがハッピーに暮らすキーワードかもー今の義務教育の中で、順位をつけないようにするのなんて嘘っぱち。変なところで取り繕うよりも、きちんと現実、人それぞれ能力には差があるということ、得意不得意があるということを教えた方が良いと思うんだけどー、と思ってしまいました。

ちなみに彼の子供達(7歳と3歳)には早くも天才の片鱗が、、遺伝子だもん、そうだよねー。

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2007年2月16日 (金)

ダンス界の大御所見参

本日は、埼玉までダンスを観に行ってきました。

コンテンポラリーダンス界の重鎮でありながら、常にそのアヴァンギャルドな作風でダンス界に問題を投げかけ続けている、ヤン・ファーブルの代表作。Je Suis Sang(私は血)
その暴力的でセクシュアル、表題どおり血が散乱するパフォーマンス内容から、賛否がまっぷたつに分かれている問題作です。
ヨーロッパ最大級の演劇フェスティバル、南仏アヴィニヨンにおいても、その年(2005年)のアソシエイテッド ダイレクターを勤めたファーブルの代表作として2001、2003年に引き続いてフェスティバルの目玉としてオープニングに上演されたにもかかわらず、客席を後にする観客が続出、それどころか怒りだす人までいたとか。一方では、「間違いなく演劇の革命だ」と絶賛する観客も。さてさて、その舞台とは。。

さいたま芸術劇場の舞台を最大限に開放して、舞台袖ぎりぎりまで使用。
オープンシアター(アヴィニヨンも)で度々上演されてきた作品だけに、舞台自体のスケール、開放感を重んじての使用と思われる。
劇場に入ると、既に数人のダンサーが舞台上にいて、既に「私は血」の世界を創り始めていた。
赤いビキニパンツ一枚で煙草をふかしながら挑発的な態度で舞台をうろつく金髪巻き毛のキューピー(金髪の長州小力と思っていただければ、)体型の男。
分厚い百科事典のような本を頭にくくりつけ、舞台の回りを徘徊する黒いドレスの婦人。
舞台袖ではワークマンのようないでたちの人々がセットのテーブルを溶接している。

開演時間になり、パフォーマンス開始、、甲冑をつけたダンサー達の群舞が始まり、重々しい甲冑が素肌の上で硬質な音を奏でる。
その甲冑を脱ぎ捨て、その白い肌をさらけ出すダンサー達。
次々と体の内部を探求するーたわしのようなもので陰部をこするダンサー、刃物で自傷を繰り返す(ふりをする)ダンサー、アキュパンクチャーで内部の毒素を出そうとするダンサー、内部から吐き出される血(生理)のシミを白い下着の上に誇示するダンサー、割礼の儀式、自らが闘牛の牛となり素っ裸で他のダンサーへ体当たりする男性ダンサー、などなど、まさに人間内部は血でできていることを自ら見せしめる、ダンサー達のパフォーマンスが続く。
時には、プログレロックのサウンドを奏でる、ギターリストが登場、血が飛び散る舞台に高揚感を添える。

血に染まった白いドレス、甲冑などを身につける場面もあるが、ダンサー達は殆どが産まれたままの姿で踊り続ける。

さすがに、ヴィジュアルアートの世界でも名高いファーブルだけあって、このようなエログロになりかねない舞台でも、舞台の視覚美的レベルを下げる事は無い。
ダンサー達は全員(前述の小力男と黒いドレスの婦人を除き)モデル並みのプロポーションで、その裸体は美しい!!限り。

後半部分で加速するダンスパートも見応え十分。

それこそ裸体満載、血みどろパフォーマンスに果たして、さいたま劇場の観客はどう反応するのか?ースタンディングオベーションで熱烈歓迎の(意外な)初演となった。

個人的には、その美的センスに感服すると同時に、今一つ、逆にハイアートの香りも感じ、ちょっとばかり物足りなさも、、ダンス界、常にカッテイングエッジが求められるだけに、今度はまた彼の新作を観てみたい気持ちになった。

(英字新聞The Japan Timesの週末エンターテイメント紹介欄でプレビューを載せております。そちらもご参照下さい。www.japantimes.co.jp)

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またもダブル

昨日も前日に引き続きダブルで昼、夜と観劇。

マチネー「Song& Dance -Hamlet」
ソワレー「セルロイド」 by 演劇企画集団The・ガジラ

Song&Dancde- Hamlet

新潟りゅーとぴあ能楽堂シェイクスピアシリーズでお馴染み栗田芳宏演出の歌劇版シェイクスピア劇「ハムレット」。
能楽堂でも度々組んでいる、宮川彬良のオリジナル音楽による音楽劇(ちなみに宮川氏自らライブでピアノ演奏で曲をつけている)。主演ハムレットにはもとタカラジェンヌの安寿ミラ。
奇しくも、宣伝ちらしにも自らうたっているように、あくまでも「ハムレット・ショー」であって、シェイクスピアのハムレット劇にはなっていない。
冒頭、ホレイショー役の石山毅がデンマーク(エルシノア)で起きた一人の若者の悲劇を語り始めるかたちで幕が開き、引き続きその物語を旅芸人一座が観客へ披露するかたちで音楽劇が展開する。あくまでも役者たちがハムレットの劇を披露するという形なので、シンプルなテント小屋前で繰り広げられるステージ上には役者たちの衣装トランクが置かれ、それぞれの役者たちはそのトランクから場面にあわせ衣装(劇中劇の間は仮装マスクを着用するなど)を取り出し、歌をうたいながら役を演じる。
劇の内容に関しては、ハムレットの内面、特に若者の悩み、迷いなどはみじんも感じられず、あくまでも`かっこ良い’宝塚の男役のハムレット。それにあわせて、女形でキャスティングされた館形比呂一のガートルードも表面のみくねくね腰で女形の大女で、なぜ彼がこの役を演じるのか、、さっぱりその意図が分からず。一言、ただただミスキャスト。
脇を固める、レアティーズの谷田歩(彼の存在感はすばらしい、他の舞台にもどんどん出て欲しい)、とオフィーリアの堀内敬子、この二人を観るための芝居。
名作をただなぞるだけではもったいない。やはり、ハムレットは芝居として観たかった。(形は音楽劇でもかまわないのだが、その人物描写に問題あり)

セルロイド

前日のヒステリアが英国社会における幼児の性的虐待問題に一石を投じた作品だったのに比べ、こちらはどっぷりドメスティック、近年の日本で頻繁に起きている、様々な虐待ー性的虐待、ネグレクト、育児放棄、幼児虐待、近親相姦、引きこもり、、家庭崩壊ーを扱った芝居。
下北沢スズナリの舞台が家庭崩壊現場、血みどろの密室に。舞台一面に散在する半透明のゴミ袋、中央には無機質な大型冷蔵庫とその上には光を反射しながら回転する鏡のオブジェ。
幕開け、血を流しながらうずくまる青年(伊達暁)を解放しようとする女(岡まゆみ)。部屋の片隅にバットをかかえフードで顔を覆いながらうずくまる男(真那胡敬二)と冷蔵庫によりかかる中年男性(大久保鷹)。次第にそれぞれの関係ー虐待をし合う家族ーが明らかになり、それと同時にお互いが起こした、そして受けた虐待の数々が明かされていく。時にはバットをふりかざし、手足をひもでしばり、布団たたきで相手を殴りながら、激しいなじりあいの言葉、謝罪を求める叫びが飛び交う。それぞれに責任転嫁を繰り返し、それでいてその密室から外界へ出て行こうとは決してしない家族。
中盤、まるで虐待例の展示会場のように次々と明かされるむごたらしいイジメの判例にちょっと食傷気味に中だるみを感じる箇所があるが、役者4人の好演に突き動かされながら(特に岡まゆみの狂気と大久保鷹の圧倒的な存在感が特出)緊張ほぐれぬまま舞台は幕を閉じる。
やはり、海の向こうの話(ヒステリア/虐待だけでなく人間心理を考察する知的な試みのドラマであるとは思うが)よりも、今、この狭い密室で起きている悲劇の方が観客には直接響きやすいのであろう。
途中、実際の事件の記事(歯医者一家、妹殺害事件や実の子供死体遺棄事件など)が度々思い出され、これは舞台上の事がらというだけでは無いんだということを実感する。

蛇足であるが、開演前に後ろの席の観客の会話からー「下北沢にはいろんな変わった人が住んでるんだよねー、あのパリで人肉を食べた佐川くん、、この前見かけたし。」「医者の友人曰く、精神科医っていうのが医者の中でダントツに儲かるんだって。治療方法とかに絶対的な決まった療法ー外科の手術とか歯医者の治療とかーがないからね。いくらでも治療と称することができるんだよ。」とのこと。なるほどね。


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2007年2月15日 (木)

キャロット2本

本日はバレンタインデーをすっかりどこかへ投げやって、一日中観劇。

移動時間の短縮を図り、2本とも世田谷パブリックシアター(パブリックシアターとシアタートラム)での観劇を敢行しました。
いみじくも、パブリックシアターの担当者さんがおっしゃる通り、両方とも世田谷と地方公共劇場の共同制作作品であるという点と幕開けのフリが最後のオチに繋がるという共通点以外は全く趣きの異なる芝居2本でありました。

マチネー北九州芸術劇場共同制作「地獄八景・・浮き世百景」
ソワレーまつもと市民芸術館共同制作「ヒステリアーあるいは、ある強迫神経症の分析の断片」

「地獄八景・・浮き世百景」

噺家、桂米朝監修による、東野ひろあき脚本、G2演出の落語ネタ満載のお芝居。
幕開け、口上の場面で地獄のえんま役ー松尾貴史が述べたとおり、肩肘はらない、本当に良い意味での軽劇(軽妙洒脱なウェルメイドプレイ)で、思いのほか大満足。
2段割りのふすま絵で場面替えをする、舞台セットもスピーディーな展開にはまっていて、全く飽きる事なく2時間半の劇を楽しむ事が出来た。
芸達者な役者陣ー松尾、高橋由美子、松永玲子、升毅、山内圭哉、プラス芸が大大達者な歌舞伎役者市川笑也で役者方は万全の顔ぶれ。
落語話で脚本のぶれも無く、全く危なげのない舞台だった。

「ヒステリア」

こちらは英国人劇作家テリー・ジョンソンが1993年に執筆、初演した、英国らしい知的会話劇。
その年のローレンス・オリヴィエ賞最優秀コメディ賞に輝いたという作品です。
残念ながら、そのコメディの部分は輸入の過程で大分薄れてしまった感じで、ほとんど笑い声はおこらず。
かなり皮肉(いわゆるEnglish satire sense)っぽい台詞があるにはあるのだが、、やはり自国で英語で上演されるほどには観客には届かないのであろう。これは翻訳の問題と言うよりは、やはり他国の劇の輸入という形式自体に問題ありと思われる。
シアタートラムのこじんまりした劇場に英国式の書斎部屋が忠実に再現されたセットが現れていた。ちょっとばかり違和感を感じる、その両脇を狭めた縦長のセットには劇の終盤の山場であるフロイトの空想場面で使われる仕掛けが隠されていた。
4人の役者はあて書きかと思われる程にそれぞれの役にはまっていた。
特に串田和美のフロイト、荻野目慶子のジェシカ(精神を病んだ女)が特筆。

現代社会劇でありながら微妙に時が経っているこの作品を日本人観客にアピールするのはちょっと難しいかも。
フロイトがそれほどまでに一般社会に浸透しているとも思えないし。。
知的層という狭い観客層をターゲットにした、通好みの作品となってしまいがちなのが残念。


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2007年2月14日 (水)

ひばり

シアターコクーンにて、松たか子がハムレット以来9年ぶりの蜷川幸雄演出芝居出演で話題の芝居「ひばり」を観劇。
フランス人劇作家、ジャン・アヌイ(1910-1987)が百年戦争末期における自国フランス軍の勇士、オルレアンの乙女ージャンヌ・ダルクを題材に、史実における彼女の列伝と言うよりは、異端児裁判に焦点を定め、世における不合理、不公平を暴き、問いかけた劇作。
7時開演で3時間半(15分休憩1回を含む)に及ぶ、超大作。開幕前から客席内では、その長さを不安視する声が聞こえた。実際、私のお隣のご婦人は第一幕目からお休みのご様子。
ステージ上には格闘技リング、または土俵を思わせるー奇しくも、コクーンはNODA MAPに引き続いてのリングー丘上の中心舞台を囲むようにして、傍聴席が設置されている。役者たちは文字通り、中央舞台で展開されるジャンヌ(松たか子)の裁判を傍聴、時には参加するように常に舞台に待機している。
その中には蜷川氏が監修している、埼玉ゴールドシアター(高齢者劇団)の新人アクター達の面々が。
蜷川氏がパンフレットの中でも述べているように、彼らの人生の年輪が現れた面持ちはベテラン役者達の中に入っても、違和感どころか、存在感を十分に示している(取材をした日々を思い出し、嬉しいかぎり)。
蜷川、近年の代表作「タイタス・アンドロニカス」で使った演出法と同じ様に、今回も舞台のっけからブレヒト的、異化効果ーこれは芝居であるということを観客へ明示するよう、始まりは俳優達がその丘上の舞台の上で準備運動をしたり、衣装をつけたりしている、いわゆる舞台裏の状態から始まった。
舞台は、ほぼ松たか子の独壇場、彼女の為の芝居と言っても過言ではない。
そんな中、天才役者、松たか子は実にのびのびと奔放に、殿上人(あるいは魔女?)、つまりは異次元(エイリアン)の天使ジャンヌを好演しきった。
現世のウラ世界、神の名の下、実は策略が渦巻く世の中ーこれは、普遍的なテーマーに神の啓示を受けた`処女’のジャンヌが真実を語るという寓話的要素が色濃いこの劇を絵空事にしてしまわない、存在感が松にはある。
それと、もう一つ、今回この「ひばり」を2007年に日本で上演する意義を強く示す要因として、「女性解放」、女性の存在意義の主張が挙げられる。
いみじくも、大臣の「子供を産む機械」失言が取りざたされている昨今、松のジャンヌが、随所で女性解放の事実を白日に知らしめてくれた。
(注:柳沢大臣の発言には、失言だとは決めつけられない背景があり、全文を注意して聞くと本人はそれを意図していないことが分かるという事柄は別件として、、一般的な日本の女性格差の現状を指摘)

西洋と東洋における「強い女性」の捉え方の違い、また当時、プロテスタント(キリスト教)の台頭とその主義など、この芝居からさらに考えを深められることは多々あり、宿題となる。

第二幕、異端審判間(壌晴彦)とジャンヌの問答は長い劇をここでもう一度引き締めた。

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2007年2月13日 (火)

永遠の遅刻組

2007年、今年はブログでレビューを発信!なんて意気込んでいたのですが、気がついたらもう2月も半ば。
それでも、やらないよりとにかく始めた方が良いと思い立ち、観劇レビューブログを開設しました。

ちょっと、詰め込みになりますが、最初はこの一ヶ月半のおさらいをしてしまいます。

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