錦繍とあの人の世界(11/6)
マチネに「錦繍」の再演を天王洲アイルで、夜はF/Tのサンプル「あの人の世界」を観劇。
一日の中で、こうも違う表現形態の芝居を観るというのも、また刺激的な体験。
エジンバラの演劇祭などでは、一日に何本もの芝居を見て回るので、それこそあらゆる種類のパフォーマンスを見続けることになるのだが、たいていが1時間ちょっとの長さのものばかりなのでそれはそれでショーケースをたくさんみているようなものなのだが、三時間ちょっとの芝居(錦繍)ともう1本となるとまさに芝居漬けの感あり。
まずは、宮本輝の傑作小説をイギリス人のベテラン演出家ジョン・ケアードが演出した「錦繍」ー07年初演に続いての再演ーから。
とってもシンプルな創りの舞台で、セットは背面横一面に貼られた金地の抽象画バックのみ、その前に演じるスペースがとられ、俳優達は自分が演ずる場面以外はその金地の画の陰で待機。それぞれに演じる時になると最小限のセットー簡素な椅子やテーブルのみーとともにそのスペースへ出て来て複数の(人によっては)役を演じるという演出。
さらにはその演技に関しても、話を伝えることに重きをおいて大仰に演じることをおさえ、時には朗読に近い形で演じられる。
原作本が書簡小説の形式をとっているため、動きよりも言葉が舞台の大半を占めるようになっている。
で、このシンプルさが計算尽くされた上、吟味を尽くされた上での最上の方法ということで選ばれた方法ということで、下手したら長々と小説の朗読を聞かされるような結果になってしまうところ、実に有意義にこれぞこの翻を活かす最高の方法、と思える職人技の演出という結果を生み出している。
余計なものを排除した結果、原作の良いところを余すところ無く伝え、さらには俳優が生身の身体で演じることにより、本を読んだ時には気づかなかった、思いがけない言葉の奥義にまで気づかせてくれる、演劇ならではの効果を出している。
実際、この本を読んだ時には一人一人が別の世界に生きる架空の聖人たちのようにも感じられたものだが、生身の人間が舞台で衣装をまとい演じると、その人の弱い面、短所などもより明らかに見えて来て、身近な話として感じられたように思う。
生きていることと死んでいることは同じこと。。。なんて謎めいた教訓も、もっと下世話な人の根源にあるひとつの生きる道しるべとしての言葉として響いてくるので、不思議。
(下手をしたら、先日観た五反田団の「生きてるものか」、もしくは後述するサンプルの「あの人の世界」と共通するものがこの一見神々しい芝居にあることが見えてくることさえある。)
やっぱり、ジョン・ケアードの底力、恐るべし。
で、夜は今演劇界で最も熱い、注目のあの人ー松井周ー作の「あの人の世界」、”世界初演”(本人、ポストパフォーマンスでこのフレーズには大いに苦笑しておりましたが。そりゃそうだわ。世界初演!!って、そりゃそうだけど、へへ。。てな話だよね)を観てきました。
いつもながら、考えることを止めない、疲れをみせないその追求心には感心する。
普通だったら、日常のドタバタや日々のマンネリから、あきらめてしまう人も多い中、とっても真摯に演劇の疑問を問い続けている人ですね。
一見、まとまりがなく、猥雑でちゃかしているように見える、その舞台から事の真実を見極めようと必死に出来る限りの手を伸ばす、そんな挑戦が感じ取られます。
しかしながら、ちょっとその虚構にある種の慣れというか、期待に応えようとする`用意された答え’みたいなものが感じられる箇所も。
思い切って、削って、スタート地点の疑問に立ち返ってもよいのかもしれない、と今後のこの芝居の変幻にさらに期待。
だって、昨今マスコミを虜にしている、あの三面記事事件「34歳の女」の話は限りなく情けなくも、かなりの説得力があるからね。
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