2016年12月 1日 (木)

メヂャメヂャ(12/1)

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江戸馨率いる東京シェイクスピアカンパニーの「メヂャメヂャ」ーMeasure for Measure/尺には尺をーを新宿三丁目のSpace雑遊で観た。

シェイクスピア学者であり、バイリンガルの江戸馨が劇団上演用に翻訳、編集した翻は、いつものように、感心する名訳が散りばめられている。

わかりやすい悲劇や喜劇と違って、奥歯に物が挟まったような問題劇である今作「尺には尺を」を2時間の尺の中にうまいこと収め、笑いを取り、勧善懲悪とは違った、それこそ人の世の問題点(矛盾)をしっかりと印象付けるところが流石。

ところで、日本では上演の少ない芝居であるが(蜷川先生も最後まで残しておいたぐらい)英国では人気のある演目であるらしい。実際、何年か前に英国を訪れた際にグローブ座でマーク・ライランスの(正統派)舞台を、そして同時期にサイモン・マクバーニーのコンプリシテ版、コンテンポラリーな舞台を観ることが出来たのは貴重な体験だった。どちらもそれぞれの方向性で良くできていた。

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2016年11月30日 (水)

検閲ー彼らの言葉ー(11/30)

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上野ストアハウスで日韓演劇週間Vol.4の4劇団の一つ、韓国ドリームプレイ劇団の「検閲ー彼らの言葉」を観た。

日本の演劇界でも話題になった韓国の現朴 槿恵政権による文化(演劇)への政治統制(検閲)を実際に起こった「こと」の経緯を丁寧に検証し、その背後で一体何が画策されていたのか、彼(体制サイド、国家側の役人、それを擁護するメディア)らが公の場でした言い訳の数々を分析しながら、一連の出来事の核にある問題をあぶり出すドキュドラマ。この秋にフェスティバル・トーキョーのメイン演目として上演されたパク・グニョン作・演出の「哀れ、兵士」に対する助成金付与に関してのスキャンダルー一度は委員会によって助成金対象となったものの、政府の「物議を醸しだし、社会を混乱に導く問題のある演劇」という判断による圧力により助成金の辞退を促され、結局は演劇活動を制限されたという件ーに端を発したディベートは、現政権への大いなる懐疑、政治と文化の関係、絶対的なパワーを持つ政治家、その政治システムに関する問題を提起し、韓国の現状に警鐘を鳴らす。

その内容は一方的な、個人的な政治的糾弾にとどまらず、物事の本質を確かな分析により証明する、知的なディベートというレベルにまで達している。

演劇というある特殊な世界のスキャンダルを扱っている話ではあるのだが、そのバックにある韓国の問題点、政治システムの矛盾点、さらに朴 槿恵という人の常人には計りかねる個人的な問題点が見えてくる。韓国で起きていることの元を知ることが出来る、タイムリーな芝居は必見。

韓国の総国民が直面している民主主義と国家という前提に人はどう立ち回るのか、、、教えられることは山のようにある。

それにしても、このように知的なディベートが演劇で成立していることに敬意を表する。


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三代目、りちゃあど(11/29)

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東京芸術劇場の小劇場で、劇場の芸術監督である野田秀樹が1990年に自身の劇団「夢の遊眠社」に書き下ろし、上演した作品「三代目、りちゃあど」を観た。

初演時には(もちろん)野田自身が演出、出演もしていたのだが今回はその26年前の野田戯曲をシンガポール演劇界の大御所、オン・ケンセンが演出。アジアの文化が混在したアジアミックス&文化ミックス&性別ミックスバージョンとして上演している。

実はこの作品、この春に静岡SPACの国際演劇祭で観ているのだが、その時の印象(感想)とかなり違ったのでー今回の方が多いに作品を楽しめたー、もしも春にすでに観ているので今回はパスをしようと思っている方がいたら、ぜひ騙されて観劇してもらいたい、と言いたい。

前回は戯曲の良さが伝わってこないうちに打ち上げ花火のように散ってしまった感があったのだが、形状、大きさが異なる劇場へ移っての今回の公演では「三代目、りちゃあど」の戯曲の面白さがケンセンの前衛的な演出、さらには彼が目指した(良い意味で)ごちゃ混ぜな様々な仕掛けー例えば、上演は日本語、英語、インドネシア語が入り混じり、日本からは歌舞伎、狂言、元宝塚、そして現代劇の俳優陣が、インドネシアからは伝統芸能の影絵師、シンガポールのトップ俳優が参加、女優が髭を書き、男優(女形だが)がネオンピンクの口紅を塗るーにより、2016年の刺激的な舞台に仕上がっていた。

90年、グローブ座で上演された際、あちらこちらに仕込まれた既存のもの(定着している古典の解釈)への疑いの眼差し、さらには既存の演劇に対する新しい試みに、目を見開いたものだが、今回はその野田芝居のきらめきが舞台に息づいていた。

26年前に今日の Post Truthを予言するような台詞を書いていた野田の批評性、それこそがこの芝居を上演する意味であり、見事にそれが舞台に上がっていた。

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仮想定規 〜序の賞〜(11/28)

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中野スタジオあくとれで元流山児事務所所属女優/演出家(寺山修司の「花札伝綺」を演出、国内外(英国エジンバラ、ニューヨーク、カナダなど)で上演し、好評を博す)の青木砂織が新しく立ち上げた劇団「仮想定規」の旗揚げ公演「仮想定規〜序の章」をみた。

新しい劇団ならではの初々しさ、というか緊張感も見えたがそこは上演を重ねるごとにこなれてくるだろう。

オリジナル和製ミュージカルを劇団のミッションに掲げる劇団らしく、劇団付き作曲家ほんだまことの耳に残る独特な旋律をライブ演奏と歌で構成する世界は唯一無二。海外での活動を大きな柱として見据えているとのことなので、これからの展開が楽しみだ。

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2016年11月28日 (月)

景清(11/27)

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演劇集団円の看板俳優 橋爪功が主演、外部でも大忙しの活躍、演出家 森新太郎が演出を担当、森と多くの作品でタッグを組むフジノサツコが近松門左衛門の原作をもとに脚本を書いた「景清」を吉祥寺シアターで観た。

「近松門左衛門の浄瑠璃台本「出世景清」を原典に、幸若舞、能や歌舞伎、各地に伝わる伝説などから想を得て、平景清(たいらのかげきよ)を中心に戦乱の世に振り回された人間たちの哀れを描きます。

―盲目の老将平景清、いまだ修羅の道から抜け出せず。―」

冒頭、暗がりの中、主人公の景清(橋爪)が晩年、視力を失った姿で登場。その後から若い頃の回想のシーンへと移っていくのだが、その最初のシーンで「千両役者!」と橋爪功の巧さに唸らされる。 声の表現だけで、年齢の違う主人公を軽やかに演じ分けるのだ。 景清を取り巻く、侍衆、源氏の殿様は等身大ー時にそれ以上のー人形によって(役者が背後で操る)演じられ、刀による殺戮シーンでは横に並んだ人形たちの首チョンパ、と中心にいる景清はあくまでもシリアスに、そして彼の回想の中の人々、出来事は漫画活劇風に少々滑稽に表現される。 美術、演出、そして何と言っても 主役がピカピカに輝いたステキなお芝居だった。

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2016年11月27日 (日)

今日の判定(11/26)

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大阪を拠点に年1公演のペースで活動している劇団dracomの「今日の判定」を森下スタジオで観る。

大阪で25年間活動しているという老舗劇団ということだが、私は今回が初見。こんなところにも日本の演劇マップの東京集中化が見てとれるというもの。

架空のスポーツに興じる人々 (男女ミックスのペアで1対1で戦う レスリングのような、剣のないフェンシングのような、時にダンスのような競技)の試合を追う1時半。ナレーション、効果音声が流れる中、俳優は会話というよりはその架空のスポーツのおかしな動きの連続、意味不明な技のかけあいに専念している。

ルールに過剰に気を回すあまり、ゲーム(戦争の隠喩)の真意を見失っているアーティストたちを批評的に見せていく。途中、スコアボードが映し出されていたスクリーンには数字で裏付けされた世界各国の状況(犯罪率、貧困率など)が映し出される。

音楽もほとんど入らない状況で延々とわけのわからない競技の様子を見続けるというのは、なかなかに忍耐が必要な状況であった。以前上演した「ハカラズモ」という作品の改定版ということだが、流れに少しばかりの変化があっても良かったかも。

英語字幕がついているのは「あっぱれ!」。

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2016年11月26日 (土)

木の上の軍隊(11/25)

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2013年、シアターコクーンで上演されたー原案:井上ひさし、作:蓬莱竜太、演出:栗山民也ー「木の上の軍隊」を紀伊国屋サザンシアターで観た。

先日の「天使も嘘をつく」に続いて、多くの犠牲を払わされてきた(いる)沖縄の話である。

木の上で2年間、声を殺して生き延びた二人の日本兵の話、というと一見、荒唐無稽な作り話であるかのように思えるが、この話には実在するモデルがいて、パンフレットには実際に1年半の間木の上にいたご当人、佐次田秀順さんのルポが載っているので必読。

この実話が元になってはいるが(どうやって生き延びたのか、といった状況については事実に沿っている)、そこは劇作、二人の兵士の関係性ー劇では同年代の仲間ではなく、上官と新兵に変わっているー、木の上で交わされる会話などは全てフィクション。井上ひさし節ー食べ物に関するこだわり、ジョーク、そして人の世の矛盾についての声ーを引き継いだ蓬莱が、劇中の新旧兵士さながら、若い世代の言葉として今日の観客に戦争の非人道性、戦中の国家主義の危うさ、人であることの前提を説いている。

今一度、一人一人が、肩書きや立場からではなく、人として現在の沖縄基地問題に向き合うことの大切さ、ー同じ過ちを繰り返さないためにもーを笑の中にしっかりと問いかけてくれている。

シアターコクーンより一回り小さくなった空間で、ガジュマルの木にしがみつきながら自らの心の中に湧いた疑問について素直に自問する新兵を松下洸平が好演。沖縄出身の歌手、普天間かおりの琉歌が場所のカラーをさらに際立たせる。

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2016年11月25日 (金)

天使も嘘をつく(11/24)

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坂手洋二坂手洋二率いる燐光群の新作「天使も嘘をつく」を座・高円寺で観た。

「天使も嘘をつく」という映画の製作を主演女優の不慮の事故により中断している映画監督(竹下景子演ずる)がー彼女はテレビの社会派コメンテイターとして一般に広く知られているという設定ー仕事の一環として西南諸島の島を訪ね、そこで起きている住民の民意を無視した自衛隊基地誘致問題を住民の側の視線でドキュメンタリー映画に収めていく日々の中で、体制側の巧みな嘘や世の中の矛盾に翻弄されながらも希望を捨てずに前へ進むしかないと覚悟するというお話。

このところの燐光群の劇作フォーミュラにすっぽりはまった劇進行で、なんだかデジャヴュ(前にも同じようなものを見た)のようである。

西南諸島の基地問題をとくとくと説くドキュメンタリー説法の部分と「天使も嘘をつく」という題名の映画製作のフィクションの部分ーおそらくこの虚構部分がこの芝居の核とならなければならないのだろうがーが乖離していて、無理やりその二つを同じ土俵にのっけたという感が拭えない。

劇作のために取材した島々で聞いた話の多くが盛り込まれている、と当日パンフレットにあったが、それをレポートする目的であれば、そのレポートは別の場所でお願いするとして、、、芝居はそのレポートを超えたところ、その先のところまで行って欲しかった。ーー例えば、主人公は「冷戦期のアメリカB級表現に於ける核恐怖」(思いもよらぬB級映画の表現の中にまで核の恐怖、赤の恐怖を連想させる刷り込みが多くあり、またそのB級娯楽映画を見ている人たちにまでそのショック・ドクトリンは連鎖していくということ)に関心があり、つまりはそれに関連した映画を作ることを人生の目標にしているという設定なのだが、その彼女の中の大きな部分がただその題名である「天使も嘘をつく」という言葉を連呼するだけで十分な問題の分析がなされていない。今の世界の動向を指し示した比喩であろうとしたのだろうが、言葉だけでなくそこの部分を内容で示してもらいたかった。

(ちなみに余談だが、今のブレクジット、トランプの当選現象に見られる新しい世界の勝ち組の手段を Post-truth (真実の後)というのだそう。実際にネットやSNSで拡散している、彼らが訴えかけている事柄についての事実確認については二の次で、彼らが大声で拡散していること(嘘)がマスの真実になっていくということ)

巷の演劇サイトなどでの指摘も目にしたが、役者の異口同音の体言止め口調も、それこそが「嘘」だと思えてしまう。あんな会話、それに突然踊りだすかのような大げさな身振りも、ありえない。

社会問題をうまく盛り込んだ「屋根裏」「だるまさんがころんだ」「カウラの班長会議」などの傑作があるだけに、次回作を期待を込めて待つ。

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2016年11月23日 (水)

ヘッダ・ガブラー(地点バージョン) (11/22)

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国際演劇祭 「イプセンの現在」シリーズの第一弾、三浦基率いる地点の「ヘッダ・ガブラー」をあうるすぽっとで観た。

この「イプセンの現在」では趣向の違った国内外(外はベルギー、ノルウェー、ルーマニア)のカンパニー6団体が、そのうち3つのカンパニーがイプセンの代表作「ヘッダ・ガブラー」をあとの3つが「人民の敵」を上演するというもの。テーマがはっきりしたフェスティバルー企画は、その企画の段階で魅力がある。今回も、ほとんどが初見のカンパニー(地点と名取事務所を除いて)だが、見比べるという観点からどれも観てみたいという気になる。で、演出家、カンパニーによって視点が違う古典作品を観られるというのは、その比較によって自分の中に新しいイプセンが浮かび上がってくるという可能性にも大いに期待が膨らむ。

で、その「現在」という企画意図から、地点のこの「ヘッダ・ガブラー」からこのシリーズを始めるというのも正解であると思う。

古典戯曲(チェーホフ、シェイクスピア)の大胆な解体・エッセンスの抽出による簡略化で知られる地点ではさらにその新しいテキストを有効に表現するため、演出家の求めた身体表現が可能なカンパニーの定着俳優たちによって世界が立ち上がる。

今回の約70分に凝縮された「ヘッダ・ガブラー」ではそのストーリーは通常の上演のようには進まない。

主要な役に扮した役者たち六人がロッキングチェア/木馬に乗ってそれぞれの心の内、欲望を吐露する。筋立てを追うのではなく、登場人物の願望をその思いの抑揚で言葉でぶつけ合うことにより、これらの人たちの間で何が起きたのかを見せるという趣向だ。

結局のところ、外的要素を排除したこれこそが彼らに起きたことだったのかもしれない。

俳優たちも作品を追うごとに魅力的になってきていて、安定感が増してきている。

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2016年11月22日 (火)

キネマと恋人 (11/21)

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世田谷パブリックシアターとKERA・MAPが組んだ新作舞台「キネマと恋人」を観た。

1985年公開の映画、ウッディ・アレンの「カイロの紫のバラ」に構想を得たケラが設定を1930年代の日本の架空の島へ移し、銀幕から飛び出してきたスター(今作では”未来”の大スターで妻夫木聡が演じている)と現実逃避気味の映画好きの人妻(緒川たまきが演じている)のひとときの恋という大枠はそのまま、当て書きのジョークを含め、ケラならではの細やかさで笑いを足し、役者の動きを小野寺修二が担当したことにより流れるようなシーンの切り替えを舞台で実現させた(良い意味で)誰もが楽しめる娯楽作。

リズミカルで魅力に溢れた架空の島の島民たちが話す方言ー基本的には西方・四国の方言と似ているが、独自の言葉、例えば、とても=「バリンコ」、語尾に「〜だり」「〜がって」がついたりするー、舞台セットが役者たちのダンスの動きによって転換され(by小野寺修二)、時に大きな白いついたてがスクリーンに早変わり映画の世界(映像)を瞬時に三次元の舞台空間に併設させる、などなど多作で知られるケラリーノ・サンドロヴィッチならでは、舞台作りのプロ中のプロの集団(演出、映像、動き、そして俳優たち)が作り上げた現在の日本演劇界が世界に誇る高品質の舞台。ナショナルシアター・ライブ、ゲキシネなど舞台と映像の境界線が様々な技術面での質の向上により曖昧になりつつある(双方の歩み寄り)今日、映画好きから演劇オタクとなり日々様々な演劇の可能性の探求を実践の中で行っているケラによる彼の好きな映画とそして、もちろん演劇に対するオマージュ作品。

オープニングのバスター・キートン、ハロルド・ロイド、そしてマルクス・ブラザーズのスラップ・スティイク黄金期のフィルム上映に始まって、映画好きにはたまらない映画ネタ、ジョークも見所の一つ。

ケラさんは同年代なので、彼がプログラムでインタビューに答えている人生のタイムラインが自分のもの、自分の文化史と重なる。ーまさにチャップリンから始まり、マルクス・ブラザーズ、モンティ・パイソンからのその後の名画座でのハリウッドミュージカル映画のはしご、スピルバーグ&ルーカス時代。。。と走馬灯のように蘇る。今でこそ夜は観劇、が定番だがOL時代は友達や映画好きの先輩と仕事終わりに名画座が一つのお決まりイベントだった。そんな時、当時大人気だったアレンの「カイロの紫のバラ」も銀座の映画館で観て、「へ〜〜こんな仕掛け、面白いよね」と友人と話しあったと記憶している。

ハリウッドスターばりに能天気な銀幕スター高木高助を妻夫木聡が好演している。

夢見る夢子ちゃんの緒川たまき、さらにはその妹役のともさかりえもはまり役ーそういえば、映画版でもアレンの(当時の)伴侶ミア・ファーローが好演していたー。

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